「ケータイを持ったサル」  :正高信男

人間の値打ち (集英社新書) [ 鎌田 實 ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

アンドロイドは人間になれるか (文春新書) [ 石黒 浩 ]
価格:788円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

欲望する脳 (集英社新書) [ 茂木健一郎 ]
価格:756円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

山本周五郎で生きる悦びを知る (PHP新書) [ 福田和也 ]
価格:864円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

人類の地平から 生きること死ぬこと [ 川田順造 ]
価格:2160円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

いま人間であること (岩波ブックレット) [ 宮田光雄 ]
価格:518円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

絶望の国の幸福な若者たち (講談社+α文庫) [ 古市 憲寿 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

平成くん、さようなら [ 古市 憲寿 ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

誰も戦争を教えられない (講談社+α文庫) [ 古市 憲寿 ]
価格:918円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

電通鬼十則の記憶 電通事件の批判の中で [ 信田和宏 ]
価格:2138円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

スマホが学力を破壊する (集英社新書) [ 川島 隆太 ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

スマホゲーム依存症 [ 樋口進 ]
価格:1382円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

スマホに負けない子育てのススメ [ 諸富祥彦 ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

「スマホ首」が自律神経を壊す [ 松井 孝嘉 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

スマホ社会の落とし穴 子どもが危ない! [ 清川輝基 ]
価格:1728円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

スマホ廃人 (文春新書) [ 石川 結貴 ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

スマホをやめたら生まれ変わった [ クリスティーナ・クルック ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

スマホを捨てよ、街へ出よう [ 羽根章夫 ]
価格:1296円(税込、送料無料) (2019/3/22時点)

 この本は、もちろんサルがケータイを使うようになったという話ではない。人間がだんだんサル化
していっているという話である。キーワードとなるのは「ケータイ」と「専業主婦」と「性の価値観
の変化」である。まず、「専業主婦」の誕生が、子どもを家のなかに引きこもらせる要因を作ったと
いうのである。さらに、ケータイの出現が、彼らを仲間うちだけの社会を作ることに、拍車をかけて
いるという。
 サルの世界では、ひとつのサルの群れは、社会を形成しているのではなく、家族を形成しているの
だという。つまり、サルの群れの中には、外の社会というものが存在しない、家族の中だけの世界で
あるという。今の若者は、そのようなサルにだんだん近づいているというのが、筆者の論説である。
 これは少子化にもつながっていく。近年の「性の価値観の変化」により、性交年齢が一気に低年齢
化し、セックスが子を作る行為から切り離されてしまった。高学歴化による晩婚化と共に、子を作ら
ない要因となっているとのことである。
 人間が性的欲求が一番強いのは、15〜20才ぐらいの時期だといわれるが、その性的欲求が一番
強い時期に机に縛りつけられ、「18歳未満セックス禁止令」が出されてるのが、現代社会である。
高学歴化は仕方がないとしても、10代でも自由に結婚できて、社会がそれを経済的に援助すること
により、10代の夫婦でも子どもを育てられるような社会環境を整えること以外には、少子化には歯
止めがかけられないような気がする。30代、40代になってから結婚しても、子作りしたり子ども
を育てたりする元気は、もうそんなにないのではないだろうか。
 サルの生態の研究者である筆者が、現代の若者の生態がサルの生態に非常に似てきた、つまり人間
が退化を始めているという指摘には、非常に興味深いものがある。

はじめに
 ・現代日本人は年を追って、人間らしさを捨てサル化しつつある。もっとも、人間の「人間らしさ」
  の遺伝子的資質が変容しているわけではない。ただ、人間というのは、放っておいても「人間ら
  しく」発達を遂げるのではなく、生来の資質に加えて、社会文化的になかば涙ぐましい努力を経
  て、「人間らしく」なっていく、サルの一種なのである。

マザコンの進化史
 ・人間が健全に社会化するためには、幼少時から親子関係、とりわけ母子関係が良好であることに
  依存するという主張が正当化されてきた。
 ・親子関係というのは基本的には母と子の結びつきであって、母とやさしく皮膚接触を持つことが
  子どもの安定した情緒の形成になによりも大事という結論が導きだされた。
 ・自我の芽ばえとは何かと言うと、それはまさに自分が自己実現を何らかの形で達成したいという
  欲望にかられることを指すと言いかえても、差し支えないだろう。そして自己実現を成すために
  は、「家の外」へ出かけていかなければならない。だが、そこには家のなかにはない軋轢がある。
 ・軋轢は挫折を生む。家のなかでは望むままに通ったことが、外では通用しないことを知る。これ
  にどう対応するかが分岐点となってくるのではないだろうか。
 ・挫折した自分、あるいは自分で思い描いたように自己実現できない自分を許せないと否定的態度
  を取ったならば、ひきこもり系へと向かう確率が高くなる。
 ・自立できない、親もとを離れられないとうのは、むろん当人ばかりでなく、親の方にも何がしか
  の原因があると想定せざるを得ないと考えられる。ひきこもりもパラサイトシングルも、世界的
  に見て日本にしか見られない現象とされている。
 ・今日の日本で問題化しつつある若年層の社会不全は、一言で言ってマザコンの程度が全体的に激
  化しつつあることと密接に関係しているからという結論にたどりつく。
 ・日本の子どもは、幼少時から常にすなおで思いやりを持つようにとしつけられ育ってくる。やが
  て思春期にいたり、適応するのに非常に心理的プレッシャーを受ける学校環境に出会うことにな
  る。彼らは基本的に、気持ちを意思で強くコントロールし、あるいは対人関係の軋轢が生じても
  ネガティブな感情を抑え込もうとする。その時、目の前に立ちふさがるハードルを越えられない
  と自覚したとき、自分を非常に安易に社会と切り離してしまい、そういう自分に開き直ったり、
  逆に極端に否定的になってしまうのではないだろうか。
 ・今日の日本は、極端な少子化社会と化してしまった。生まれてくる子どもは、手厚い保護のもと
  で育てられる。ふつう、養育はもっぱら母親の手でなされるが、母親はわが子につらい思いや悲
  しい思いをさせまいとする姿勢がたいへん強い。それは一見、うるわしい母性愛の発露として好
  ましいものであるという印象を与えるかもしれないが、「よい子」を増やす土壌になっている点
  で、決して手放しで推奨されるものではないのである。
 ・親子であっても親には親の世界があることは、子どもにわからせる必要がある。それにもかかわ
  らず、大人と子どもの差異などないがごとく、ひたすら子どもにのめりこみ、献身するのが子育
  ての理想であるかのような風潮が顕著化しつつある。子どもは子どもだから、と親がきずなを切
  るというしつけがほとんど行われなくなっている。
 ・公共の場とは、人間が文化というものをかなりの程度に高度化させた末に、生活をより社会的に
  するため(例えば生産物や情報の流通を促すために)、いわゆる理性を用いて作り出した人工物
  なのだろう。だから発達上の社会化も、私たちは意識してそれを促進する必要が求められる。そ
  れを誤解して、サルのように動物的な愛情のままに育児をすればまっとうに人間が発達するとと
  らえられたために、21世紀になって育ってきた子どもたちは、先祖返りしてサル化しつつある
  のかもしれない。

子離れしない妻と居場所のない夫
 ・子ども中心主義の家庭の「経済的な子ども中心性」について、父親は不満を抱き、なんとかなら
  ないかお考えているのに対して、母親は現状に満足していることがうかがえる。つまるところこ
  の事実は、子どもに重点的にお金を使う家計のやりくりが、夫によってではなく、妻の主導権の
  もとになされていることを、何よりも雄弁にものがたっていると考えられるだろう。
 ・現代日本の「中流」家庭では、家計のやりくりは家事の領域、すなわち妻の裁量権のもとにある
  ことが多いと推測される。あるいは、「子どものため」という題目がいわば「錦の御旗」と化し、
  この旗が掲げられると不平を言うことはまかりならぬというところまで、子ども中心主義が蔓延
  した感がある。むろんこの場合も、「子どものため」を声高に叫ぶのが妻であることに変わりは
  ない。
 ・衣食住いずれに関しても、妻が子どもに高額の金銭をつぎ込む結果、夫は犠牲を強いられている
  らしい。居心地の悪さを感じつつ、毎日を過ごしているのである。 
 ・このような居場所のない夫と子離れできない妻。それが日本の典型的中年夫婦の姿である。妻の
  主導権による子ども中心主義の結果、夫にとって家のなかが居心地のよい場所でないことは明ら
  かとなった。しばしばテレビで扱われている、自宅に戻りたがらない中年男性、夜遅くまで盛り
  場を徘徊するサラリーマンがその産物であることは、あらためて指摘するまでもないであろう。
  極端な場合、我が家は単に,寝に帰る場所と化してしまっている。

メル友を持ったニホンザル
 ・社会の高度情報化は、そこに暮す人間のコミュニケーションのスタイルを、従来とは根本的に変
  えてしまったと言える。しかもそれは、遠く離れた多くの人とも瞬時に大量のメッセージのや
  りとりが可能になったといった、単におめでたい話にとどまらない。量の問題にとどまらず、質
  的変化が生じた。しかも最終的に、他者との関係の持ち方まで変えてしまった。
 ・相手が視界から消え去った時に、社会関係を維持するためにおしゃべりをし合うというのが、き
  わめて高度な社交術であるのはあらためて指摘するまでもないだろう。目下のところ動物ではヒ
  ヒとニホンザルの仲間だけで報告されている。ただし、彼らの出す音声そのものには、メッセー
  ジが含まれていない。仲間の所在を確認して、反応が聞こえなくなる事態を防いでいるにすぎな
  い以上、やっていることは下等といえば下等かもしれない。だが最近の日本人と比べてみた時、
  あまり差がないように思えてならないのだ。
 ・とりわけ若者が携帯でメールをやりとりするのと、そっくりだと思う。そもそもケータイを使い
  だすと、常に身につけていないとどうも不安な気分に陥るらしい。さきほどまで会っていた相手
  と離れるや、ただちに「元気?」とか、あえて伝える価値のない情報を交信している。しかしそ
  んなことは、大昔からサルがやっていたことなのだ。
 ・言語の、必要な情報を伝達することと、相手と情緒的に結びつくことという二つの役割には、ジ
  レンマがある。公共性を発揮するためには、誰にでも意味のとれるものでなくてはならない。し
  かし仲間とのきずなを深めるためには、相手にしか理解できないような形を取るのが最適なはず
  なのだ。だから通常どんな言語体系も、コミュニティーのなかで、公共性への需要と、集団の義
  集性を高めるための私的な「乱れ」の圧力とのあいだで揺らいでいる。
 ・はっきりしているのは、どんなものを持ってこようとも「ことばの乱れ」現象に歯止めをかける
  ことは不可能だということである。ルーズソックスを販売禁止にしたところで、何の効果がない
  ようなものだ。「家のなか」感覚で二十四時間を過ごすライフスタイルは、発達の過程で子ども
  にも社会化を促す力が希薄になったことに根本は起因する。やみくもに安全基地のみを提供する
  母子密着型子育てが日本に定着したことによる、構想的問題なのである。

「関係できない症候群」の蔓延
 ・現代の日本人は若者を中心として、過去のような対人関係を営むことが難しくなってきている。
  このような風潮は、「関係できない症候群」の蔓延と呼んでも差し支えないだろうと私は考えて
  いる。その背景にあるのは、社会の高度情報化、端的にIT化にほかならない。それを象徴化す
  るのがケータイの流布である。
 ・ケータイを使い出すと、常に身に付けていないとどうも不安な気分に陥ってくる。「常につなが
  っていないと気が安ならない」」という感覚。それは、私たちがコミュニケーションの媒体その
  ものの共有という事実にもとづいて、集団としての連帯を認識するようになってきたことを示唆
  している。他方、メッセージは空虚化する方向へ傾斜する一方となる。
 ・2002年6月に日本でサッカーのワールドカップが開催された時には、にわかサッカーファン
  が急増し、誰もが熱に浮かされたように日本チームを応援したことはまだ記憶に新しい。あのフ
  ィーバーぶりを指して、ナショナリズムが高揚の危険性を指摘する声も聞かれたが、実は決して
  そのような熱狂ではなかった。ルールなど理解せずとも、同じチームを応援するために熱狂、同
  じユニホームをサポーターも着て、声を合わすことにのみ意義があったにすぎない。それゆえ夏
  がやってくると、ひと月前の感激はあとかたもなく消え去ってしまった。
 ・ITは、コミュニケーションに加わる者の要件である空間的近接性と時間的永続性を決定的につ
  きくずしてしまった。人々は「どこからでも」「いつでも」という利便性に魅惑される。魅惑さ
  れるあまり、ITメディアの魔法の支配から自由になった状況での付き合いを忘れてしまった。
  メル友と交信する若者は、対面場面では伝えにくいことでも、メールなら可能と言い、顔を合わ
  せて会話する方がかえって疲れてつらいとこぼす。しかし、人間ひとりひとりの存在は、いつま
  でたっても時間と空間の拘束を免れることはない。
 ・しかも、すでにふれたように、個々人は公的世界へ出て他者との交渉の中ではじめて自己実現を
  遂げるのである以上、空間上の近接性と時間上の持続性を欠いたコミュニケーションというもの
  には、おのずと限界が生じてくるのである。どこにいるのか確かでない相手との、瞬間瞬間の交
  渉のなかで、いかにして信じ合えばよいのか、見極める術を見出せないでいる。つまるところ、
  最低限のところで自分の損失を食い止める選択に走ることとなっていく。社会の情報化によって、
  人間が始原的な自然状態へ戻されるという皮肉な帰結がもたらされようとしているのである。

社会的かしこさは40歳で衰える
 ・常にケータイを持ち歩き、厖大な数のメル友と四六時中交信し、靴のかかとを踏みつぶし、ある
  いはルーズソックスをはいて、電車内でも平気で化粧をしたりする一連の行動には、実は一貫し
  た原理が背後に存在する。それを「家のなか主義」と命名した。
 ・公の世界を拒否して、私の世界の内部だけで生きようとするあまり、そうした行動は極端にサル
  に類似してしまう。その姿勢は、昨今の「ことばの乱れ」に端的に象徴されている。公共性を持
  った他者との交渉をしようとしない。仲間との間に安定した信頼関係を築こうとせず、「万人が
  万人を敵とみなす」ような、かつての啓蒙主義者が自然状態と想定したようなつき合い方をする。
  いや、そのようにしか振る舞えないかもしれない。公共性ということをかなぐり捨てたライフス
  タイルを、現代日本の若者は取るようになってきている。そして、サル化への傾斜を深めた背景
  には、激化する「子ども中心主義」が深く影を落としているのである。大人は「今の子どものす
  ることは理解できない」と愚痴るものの、子どもとてひとりで育つわけではない。理解できない
  ように子どもが育ったとしたところで、そこには「理解できない大人」の影響がある。しかも、
  理解できないと嘆く今の日本の大人たちは、そういうふうにしか子どもを育てられない方向へと
  社会の動きの中で仕向けられた節があると私は思う。結局のところ、現在の状況は過去一世紀に
  わたって日本人が作ってきた家族の生活のあり方の必然的な帰結といえなくもない。
 ・ルールが破られているかどうかを見きわめる能力は、どうやら中年にさしかかったころに大きく
  低下するらしい。つまり、集団のなかに裏切り者が存在するか否かを見つける能力が落ちてくる
  のだ。従来、自分が遭遇したことのない状況下で、とりわけそれが顕著となってくる。それまで
  慣れ親しんできた事態なら対処できる。しかし、仕事をしている場面で本当にリーダーシップが
  求められるのは、誰もが今まで経験したことのない出来事との遭遇に際し、適切な判断を下さね
  ばならないような時ではないだろうか。
 ・中年層が社会的かしこさの能力が低下し始めてくると、おのずと「よそ者はおしなべて、あてに
  ならない」となる。つまり、過去につき合いの実績のある相手以外に、交渉先を新しく開拓する
  ことに非常にかたくなな、保守的態度をとるにいたる。一言で表現するなら、未知の人間の来訪
  に対し信頼を見きわめることが、きわめて困難になってきているのである。
 ・けれども、社会の掟が守られるかどうかを見抜く能力については、それが後天的な経験によって
  作られると、かなりの自信を持って言い切れると思っている。
 ・主婦が外で働くと、家のこもっているよりも、多くの人と接することとなる。素朴に考えても、
  社会的刺激を豊富に受けていると想像される。それに応じて、社会的かしこさの衰退は阻止され
  る。反対に書くと、かしこさが年とともに低下するのはほぼ不可避なのだが、とりわけ専業主婦
  的な暮らしをしているほど、それは激しい。
 ・社会的かしこさが著しく低下することは、それだけ深刻な影響を当事者の行動に及ぼす。周囲と
  の人間関係において、相手の心を信じるべきなのか信じてはいけないのか、判断がつかなくなる
  という現象にそれは端的に現れる。そして専業主婦にとって周囲の人間関係とは家族を指す。家
  族といっても、夫に関しては弊害は比較的少ないであろう。子どもの方が問題ははるかに深刻と
  なる。なぜなら子どもは発達の途上にあり、身体も心も刻々と、しかも急速に変化していくから
  である。
 ・子どもも従来ほど親の意のままに動かなくなってくる。受験も終わって一段落、「子どもに手が
  かかる時期が過ぎてほっと一息」という話、いざ子どものことにかまける必要がなくなってくる
  と、母親は心に空白が生ずることを自覚する。そして、子どもとの心のきずなを求めるのだ。
  「自分はこれだけ、子どものためにしてやってきたんだ。その分、年齢を感じだした今、しっか
  り自分に愛で報いてほしい」という気持ちが強い。実際には、子どものためにお金を使ったこと
  にはなっていないけれど、本人は子どものためにを思ってそうしたと信じ込んでいるのだから、
  当然の話である。
 ・でも、子どもは思春期にさしかかり、それまでとうってかわって、親に関心を示さなくなること
  が多い。いわゆる反抗期だ。友だちとのつき合いを重視するあまり、本人すら当惑するほど、さ
  からったりする。気持ちが不安定で、言うこと為すことが日々変わることも珍しくないだろう。
  受け止める側には、やっかいな時期である。どんな親にとってもやっかいなところへ、専業主婦
  ではとりわけ、社会的かしこさの衰えが加味される。「子どもの気持ちがわからない」という悩
  みがスパイラル的に強まる結果となってくる。
 ・人は、自分が誰かのために役立っているという意識なしに生きるのは、ほとんど不可能である。
 ・経済的にたいへん恵まれた老後を送れる高齢者がいたとしよう。何不自由なく暮らせる。もちろ
  ん働く必要はない。だから悠々自適、「自分の好きなこと」だけをして毎日を送る。すると不思
  議なことに、こうした人はボケたりする。「自分の好きなこと」だけをするというのは、ちょっ
  と聞くと何ともうらやましい限りである。しかし、いざそういう状況に立ちいたると、最初のう
  ちは快適かもしれないが、すぐに暗澹とした気持ちに落ち込む。「自分はもう、必要とされてい
  ない」という思いに、とらわれる。子どもが思春期を迎えた専業主婦は、そのような高齢者と似
  た気分に入り込むのだと考えられる。だから、精神的に不安定になってくる。最悪の場合、喪失
  感が高じて「うつ」状態にいたることもある。
 ・親は、子どもを自分に依存しなくてはならないものと扱っているが、その実、自分が子に依存せ
  ずには生きていけない状態にあることに、気づいていない。またこれは、子にとってはかなりの
  ところ、都合のよい状態でもある。最近の子どもは、子ども中心主義のもと、幼少期より「つら
  い思い」「悲しい思い」をほとんど味わうことなく成長してくる。そのためストレスにさらされ
  ると、とてももろい。過去には考えられなかったようなわずかな挫折体験で、家庭から社会へ乗
  り出していくのを、やめてしまう。
 ・「母親は子どもがある程度大きくなるまで、育児に専念すべきか否か」は、ここ半世紀のあいだ
  先進国での大きな論争の的となってきたテーマである。子どもを家に残して母親が外へ働きに出
  るのは、子にとって悪影響をもたらすか否かについては、いまだ決着をみていない。しかし、面
  白いことに、母親が専業主婦であることが子どもにとって悪い影響を及ぶすか否かという議論は、
  ついぞ行われてこなかった。家に子どもとずっといてやることは、無条件によいことだとみなさ
  れてきた。母親が外で働く機会を持たないから、加齢に伴って早期に社会的かしこさを失う。そ
  れは、子どもとの信頼関係の形成を困難にする。おのずと、母親はモノで子の歓心を買おうとす
  る。子がそこへつけいる。結果として、子離れできない母親と、母親離れできない子どもの「カ
  プセル状態」が誕生するのだ。時間が停止したかのような状態が、家庭内に生み出される。
 ・動物学者からすれば、人間は40代も半ばを過ぎると高齢者の仲間入りの時期という方が、むし
  ろ常識に近い。実際のところ人類の「本来の生活」においては、親がこの年齢で高齢者の仲間入
  りをしても、ぜんぜんおかしくないのである。
 ・学校に通うことが普及していない文化、あるいは学校なんてそもそもまだない地域を見渡してみ
  ると、男女ともおおよそ15歳ぐらいで結婚するのが普通であることに気づくはずである。むろ
  ん、たいていの場合すぐに子どもが生まれる。だから、現代において思春期の子を持つ親という
  のは「本来ならば」もうすでに孫ができていてもちっとも変ではないのだ。
 ・しかも動物界を見回してみると、いわゆる高齢者にあたる高齢の個体は、実はそもそも他の種で
  は見つけがたいことに気づくだろう。人間の近縁である霊長類に対象を限ってみると、他に50
  歳を超えて生きる動物というのは、類人猿のわずかをのぞいて、まず見当たらない。しかし人間
  は、寿命が長いというだけではない。単純に誕生から死にいたるまでの絶対的な時間の長さなら
  ば、霊長類以外まで枠を拡げると、もっと長命な種を見かけることはさして難しくない。けれど
  も人間は、「必要以上」に相対的に長い寿命を持つ点では、たいへんユニークと言わなくてはな
  らない。「必要以上」の「必要」とは何かというと、繁殖を指している。生物というのは、子孫
  を残すために繁殖することを必須の任務として背負っている。それなに人間は、後世に遺伝子を
  伝える「必要な」役目を終えたにもかかわらず、なお生き続ける。この点では他の動物と一線を
  画している。

そして子どもをつくらなくなった!
 ・「奥さん」であることは、とうの昔に特権でもなんでもなくなってしまっている。具体的に、年
  収が頭打ちになり、それどころかむしろ減少傾向にある今日、専業であり続けることは家計の逼
  迫に直接ひびくようになってしまった。しかし、それに気づいていないのは夫よりむしろ、妻自
  身の方かもしれないという気がしてならない。
 ・奥さんというのは、エリートである夫の栄光にすがって生きる存在であった。強い夫に嬉々とし
  て服従していたという側面を無視することはできない。今や、ふつうのサラリーマンはあくまで
  ふつうのサラリーマンであって、エリートでもなければ強い夫でも何でもない。にもかかわらず、
  専業主婦の方が夫に対して、家庭内での支配者たらんことを求めているのではないだろうか。だ
  から夫が外でもっと社会的地位を昇進させ、高収入を得ることを願う。むろん、おいそれと願望
  は実現しない。実現しないから苛立つ。私が一緒に生活している夫はなんとだらしがないのか、
  ということになってくる。
 ・だが夫にすれば、会社社会という一種の家庭お中で、その暮らしに疲れているのがここ10年の
  実情である。あげくのはてに本当の「家庭」で主人として振る舞いを求められても戸惑うばかり
  なのではないだろうか。
 ・男性が既成の「男」概念を貫いて生きるのに疲れていることを端的に物語っているのが、週刊誌
  の売れ行きの低下だろう。週刊誌と言っても女性のものではない。「週刊ポスト」「週刊現代」
  に代表される刊行物のことである。
 ・「サザエさん」を見ると息抜きになる。だからこそ好評が持続した。例えば夫の実家と嫁との確
  執など全くない。そもそも夫の「家」へ妻が「嫁に来る」から、確執の生ずる素地ができるのであ
  って、マスオやサザエがサザエの両親と同居しているのでは、話にならない。それでいてサザエ
  さんはもちろんのこと、マスオもけっこう幸せそうにしている。
 ・「サザエさん」の中のマスオは、会社勤めをしているものの、残業など皆無のようである。男性
  サラリーマンを対象に掲載されていると思しき、週刊誌の中のマンガの主人公と実に好対照をな
  している。しかし私には、むしろマスオの方が、これからの時代の男性像を先取りしているよう
  に思えてならない。従来の男のプライドなど、無用の長物であろう。男が女々しいことは、決し
  て悪いことではない。
 ・男性に求められているのは、社会人であると同時に主夫として家事の分担をすることである。だ
  が何よりも必要なのは、男の「かみしも」を脱ぎ捨てることだろう。男性のための「主夫学講座」
  なる公開講座のスローガンを見ると、「あなたは妻のパンツが干せるか」とあるが、確かにそう
  いう覚悟が必要だろう。
 ・主婦には、家事は自分の領分という強烈なプライドがある。それを捨てるよう女性が覚悟を決め
  るというのも、実は男と同様にたいへん重い決断なのだ。主夫とは、決して妻の従僕ではない。
  ふたりが対等に家事をするということは、女も家事に専従するばかりではなく、夫と同じく社会
  に出る努力を払わなくてはならないのである。
 ・今の日本の若者の行動の特徴を簡単に要約するならば、「家のなか主義」すなわち公的状況へ出
  る拒絶である。だが、過去の日本の家族のあり方を振り返ってみると、その前兆は少なくとも半
  世紀前にすでに存在していたことがわかるのだ。すなわち、専業主婦の誕生そのものがその萌芽
  と言えなくもないのだ。それまでは男も女も外へ出て労働に従事するのがふつうであったが、女
  には「奥さん」になる可能性が開けた。「奥さん」とは有閑階級であり、まさに「家のなか」で
  もっぱら暮らすことのはじまりであった。しかも、その「奥さん」が子育てをもっぱら単独で担
  当するようになり、かつ子どもが奥さんの自己実現の対象と化するにいたり、後継ぎの世代の「家
  のなか」化は飛躍的に程度を高めた。
 ・そもそも100年あまり前までは、日本でも結婚年齢が今日よりはるかに若年齢であった。10
  代での婚姻は、ごく当たり前だった。今でも、アフリカの狩猟民やアメリカ先住民で調べてみる
  と、おおよそ15歳ぐらいでカップルが誕生する。しかも結婚はただちに出産と結びつく。つま
  り夫婦となることは、決まったパートナーと日常的に性交を行うことも意味し、多くの場合それ
  は、子が生まれる結果をもたらしてきた。
 ・それが、産業構造が変化するなかで、婚姻年齢は高年齢化の一途をたどってきた。高等教育が発
  達し、学歴社会が形成されたからにほかならない。おのずと、夫婦が子を持つ年齢も高齢化した。
  ただ、それにもかかわらず以前と変わらなかったこともある。すなわち、結婚することが早晩、
  そのカップルに子ができることを意味するという、両者の関係は基本的に同一であった。婚姻年
  齢の高齢化は決まった相手と定期的な性交を行うにいたるまでの期間が延長されただけであって、
  夫婦になると子をつくるという発想は不変であった。
 ・それが大きく揺らぎはじめたのが、日本ではここ20〜30年の家族をめぐる状況の最大の出来
  事であった。まず過去には高齢化をたどってきた性交開始年齢が、一気に低年齢化した。しかも、
  性交習慣を持つことが、婚姻することと同義でなくなってしまった。子を生むことと別のことと
  なった。それゆえ、性交を定期的に行うようになってから、かなりののちに、あらためて結婚す
  るにいたったところで、それがすなわち子を持つことを意味するわけではないのである。
 ・当然のこととして人類も生物である以上、子孫を残すための本能を有していることは疑うべくも
  ない。しかし、われわれは「子を持ちたい」という欲求を本能として付与されているわけではな
  い。他人と性関係を持ちたいという欲求があれば、本来ならば子はおのずとできるものであった。
  ところが、その欲望を本来の機能から切り離して、用いるようになった。それゆえ、子を持とう
  とするなら人生のどこかで決断しなくてはならないのだけれども、それは生物学的なものではな
  く、非常に社会的な色彩の濃い選択なのである。

あとがき
 ・今世紀中ごろには日本人の思考やコミュニケーションは、もっともっとサル的になっているので
  はないかと予想している。それは既成の人間観では想像できないものではないだろうか。
 ・生物としての人間に返るならば、内言語などさほど必要でないのかもしれない。多様な視覚的な
  イメージが脳裏にフラッシュして、それにもとづいて行為決定ななされることだって可能だろう。
  「どうしてそんなことをするのか」とか「何を考えていたのだ」とか尋ねても、相手が答えたく
  とも答えられないようなイベントで日常が占められる日が来るのも、そう遠くないような気がす
  るのは、私の妄想だろうか。
 ・昨今は、本を朗読させたり、数の計算や九九をもっと奨励すると子どもの学力低下が防げるとい
  う声をよく耳にするが、全くのお笑い草である。現状認識の甘い日本の教育関係者のなんと能天
  気なことだろう。