自衛隊の「犯罪」  :佐藤守
                (雫石事件の真相

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日本国内で起きた航空機事故と言えば、現在では1985年8月12日に起きた日本航空
123便が群馬県の御巣鷹山の尾根に墜落し、乗員乗客合わせて520名が死亡した事故
を、多くの人は思い浮かべるのではないないだろうか。
私もそうなのだが、しかし、私にはその他に、記憶の奥底にこびり付いて、どうしても忘
れることができない航空機事故がある。それが1971年(昭和46年)7月30日に起
きた、全日空機と自衛隊機が岩手県雫石町上空で空中衝突し、乗員乗客合わせて162名
全員が死亡した事故だ。この事故は、1985年の日本航空123便の事故が起こるまで
は、日本国内の航空事故としては最大の犠牲者を出した事故だった。
私がこの事故のことを忘れられないのは、そうした最大規模の事故だったということ以外
に、私自身がその事故を実際に目撃していたということにある。当時私は、盛岡市の郊外
に住んでいた。当時はまだ田園が広がる長閑な郊外だった。当時私はまだ高校生で、既に
夏休みに入っていた。事故の起きた当日は、昼過ぎに肌を焼こうと庭先にある農業用の大
きな荷車の荷台の上に、ラジオの音楽を聴きながら横たわっていた。空は雲一つなく真っ
青に晴れ渡っていた。
まもなくして、突然遠くの上空のほうから”ガガーン”という雷のような音がした。「こ
んなに晴れ渡っているのに雷だなんて」と思いながら音のした方の空を見上げると、上空
に短い飛行機雲のような白い筋が見えた。変な雲だなと思いながらも、また日焼けのため
に横たわると、間もなくして聞いていたラジオから臨時ニュースが流れた。「まだ未確認
な情報ですが、どうも雫石方面で飛行機が墜落したようです」というのが、その一報だっ
た。それを聞いた私は、それがさっき聞いた”ガガーン”という雷のような音と一筋の白い
飛行機雲が関係しているのではと、とっさに思ったが、そのときはセスナ機でも墜落した
のかなと思うぐらいで、後で知ることとなった、とんでもない大事故が起きたとは、その
時は想像もしなかった。
しばらくして、やはりそのニュースを聞きつけたのか、近所の知り合い二人が、”これか
ら雫石方面に見に行ってくる”と、バイクにまたがって出かけて行った。後で聞いた話だ
が、その二人が事故現場にバイクと到着すると、それはそれはひどい状況だったらしい。
木の枝に人間の胴体と思われるものが突き刺さっていたり、人体の一部と思われる肉片が、
そこらじゅうに散らばっていたという。その惨状を見て帰った二人は、「一週間ぐらい飯
が喉を通らなかった」と言っていたことを、今でも思い出す。
当時は、テレビなどの報道でも、この事故のことが延々と取り上げられ続けた。私も最初
は、「全日空機に自衛隊の戦闘機が衝突した」と思っていたが、やがて逆で、「自衛隊の
戦闘機に全日空機が衝突した」ことを知ったのだが、当時の私は、「なんで速度も早く小
回りの利く戦闘機が、デカくて遅い旅客機に後ろから衝突されたのか」、それに「こんな
広い空で飛行機同士が衝突するなんて信じられない」と不思議に思ったものだ。当時の報
道も、「旅客機の航空路に勝手に自衛隊機が侵入して訓練をしていた」とか、「自衛隊は
旅客機を敵機に見立てて訓練をしていたのではないか」というような、自衛隊極悪論が圧
倒的に多かったように記憶している。
当時の報道や、それを見聞きする我々一般人も、当時の航空交通状況も航空法も航空路と
いった概念についても、ほとんど無知だったため、このような一方的な自衛隊極悪論も、
なんの疑うことなく、受け入れていったように思う。しかし、この本を読んで、実は、そ
うではなかったのでは、という思いが出てきた。
それには二つの理由がある。一つは、「旅客機の航空路に自衛隊機が侵入した」と言う説
は、実は逆で「全日空機が航空路を逸脱して自衛隊の練習空域に侵入した」ということが
濃厚であること。そして、もう一つは「自衛隊機が後ろから全日空機に衝突された」こと。
もし、それが真実だったとしたら、果たして一方的に「自衛隊機が悪い」と言えるのだろ
うか。航空法や航空交通の知識がまったくない一般の人々の常識に照らし合わせても、道
を走る車と同じように、後ろから追突する側が衝突の回避操作をする義務があるのはない
か。「自衛隊機が悪い」とは言えないのではなかろうかと思えてくる。
そのように、自衛隊側が一方的に事故の責任を押し付けられた背景には、どうも政治的な
思惑もありそうだ。それはその後、次第に明らかにされていった、あの「ロッキード事件」
が、裏で密接に絡んでいたのではないかと思われる節もある。当時、事故が全日空機側に
責任があると、都合が悪い人々が陰でうごめいていたのではないのか。利害関係にある権
力者によって強引に「真実が歪められた」。この本を読んで、そんな事例を見せつけられ
たような気がした。そして、現在においても、これに似たようなことが次から次と起きて
いるのではないか。そう思えてならない。

はじめに
・昭和46年7月30日午後2時過ぎ、全日空のボーイング727型旅客機と航空自衛隊
 のF86F戦闘機が岩手県雫石町上空で衝突した。自衛隊機のパイロットはパラシュー
 トで脱出して無事だったが、全日空機は空中分解して乗員乗客全員が死亡し、遺体が広
 範囲に飛散する大参事となった。当時としては世界航空機史上最大規模の事故だった。
・原因は自衛隊機が民間航空路上で訓練していたことで、しかもその危険性は10年も前
 から行政管理庁が指摘しており、明らかに人災であった。以後、民間航空路と自衛隊の
 訓練空域は分離された。尊い犠牲を払ってようやく改善が実現したのである。
・乗客のうち123人は北海道への団体旅行から帰る途中の静岡県富士市の軍人遺族会の
 老人たちであった。彼らにとっては、戦争につづき、二度も国家によって災厄をこうむ
 ったことになる。  
・既に事故直後にはB727の左水平尾翼が、86Fの右主翼ほぼ真後ろから切断したこ
 とを示す明確な証拠が発見されていたので、B727が86Fに「追突」したことは歴
 然としていたのですが、盛岡地裁の第一審ではなぜか自衛隊が有罪にされたのです。
・間違った事故調査によって、二人の自衛隊パイロットが裁判にかけられましたが、追突
 されパラシュート降下で生還した訓練生は仙台高裁で無罪が確定したものの、奇妙なこ
 とに離れた位置で指導していた教官が有罪になったのです。  
・昭和58年9月の最高裁判決で、教官は禁固3年、執行猶予3年となり、刑が確定した。
 訓練生は現在も自衛隊に在籍(昭和60年当時)しているが、教官は自衛隊を失職し郷
 里の九州・福岡で焼き鳥屋として第二の人生を送っている。
・犠牲者162名のうち125名はが静岡県富士市の団体旅行客で、富士市には”団体遺
 族”が生まれたが、その評判は芳しくなく地元記者氏によると、「相手が自衛隊だけに
 やりたい放題でしたね。自衛隊では遺族班というものを結成し、各遺族の法要の手伝い
 に出向いたり、一生懸命にやっていましたが、遺族の方は隊員に嫌がらせのために水を
 ぶっかけたり、中には、ちょうど茶摘みの時期だったために、隊員を呼び出して手伝わ
 せた遺族もいましたね。事故当時、たまたま古い家を壊して家を新築する遺族がいて、
 古い家の解体作業を隊員にやらせるというケースがありました」
・自衛隊側は「事故の責任は全日空側にあり」という立場から、国を仲立ちとして全日空
 側に対する民事訴訟を起こした。国側の主張は、事故の責任は全日空側にあり、162
 人の遺族に支払った補償金約17億円は、国が立て替えて支払ったのだから、その分を
 返せ、という訴訟を起こしたわけです。一方、全日空側は保険会社10社とともに事故
 処理に使った費用と、機体保険料約25億円を国は支払えと逆告訴したのです。
・昭和53年9月の民事に一審判決では、自衛隊機の責任が6割、全日空機の責任が4割
 と認定された。この民事訴訟に二審は現在でも係争中なのである。
・自衛隊OBによれば、「一般には自衛隊機が訓練空域を逸脱し、全日空機の飛んでいた
 ルートに突っ込んだかのようにいわれていますが、種々の資料からみて、実際には全日
 空機が逆に自衛隊の訓練空域に侵入していたのではないかという疑いが強まっているの
 です。それに、事故直後の新聞報道などでは、全日空機に自衛隊機が突っ込んだかのよ
 うに伝えられましたが、 これも実際には前を飛ぶ自衛隊機に後ろから自衛隊機が突っ
 込んでいったわけなんです。つまり、前方を普通に見ていたら、気づくはずの自衛隊機
 に全日空機は気づかなかった。事故のあった日は視界も良く、それでいて前方の自衛隊
 機が目に入らなかったとすれば、全日空機のパイロットは自動操縦の状態にセットし、
 食事でもしたいたのかとしか考えられません」
・最近、焦点の一つとなっているのは、一本の8ミリフィルムの存在である。このフィル
 ムは乗客が撮影したものとして、全日空側が民事の法廷に出してきたもの。全日空側は
 映っている風景などから解析して、全日空機が正規ルートを飛んでいることを証明しよ
 うとした。ところが、国側の鑑定では、フィルムには田沢湖が映ってる箇所があり、そ
 こから航跡を解析すると全日空機は自衛隊の訓練空域に侵入していた疑いがあるのです。
    
不思議な決着
・ファイルの分析結果、衝突場所が当時航空自衛隊が定めていた「臨時訓練空域内」であ
 ることがほぼ証明され、むしろジェット・ルートを逸脱して航空自衛隊の訓練空域内に
 侵入したのが民間機であった事実が判明しましたから、刑事裁判として争われていた衝
 突地点が振り出しに戻ることになります。そこで最高裁は「二審差し戻し」とし、仙台
 地裁で改めて新証拠を含めた審理が行われるものと誰もが思っていた。
・ところが最高裁が「差し戻し」ではなく、極めて稀だといわれる「自判」に踏み切った
 のである。 
・最高裁判決は、最大の争点となった①全日空機と自衛隊機との位置関係、②接触地点、
 ③自衛隊から見えたかどうか、などの事実認定については、二審判決を大筋において認
 めた。そして教官として事故を起こした訓練機に対する見張り注意義務はあった、と認
 定した。しかし「義務を果たすのは難度の高い作業だ」とし、本件事故の場合、訓練機
 と全日空機の両機を見つけ、訓練機に的確な指示を与えて、事故を回避する可能性は
 「ごく限られたものであったと言わざるを得ない」とした。こうした事故を避けるため
 には、民間機の常用ルート付近の空域での訓練事態はできるだけ避けるべきであった、
 との見解を示した。その上で判決は、教官に結果的に民間航空機のルートを”侵犯”し
 た業務違反があったものの、こうした空域侵犯には訓練計画を作成した第一航空団松島
 派遣隊にも大きな責任があると指摘した。
・判決によると、訓練空域が、事故当時急きょ設定されたもので、民間航空機のジェット・
 ルート11Lの存在を全く配慮することなく、漠然と「盛岡市と田沢湖の中間を中心と
 する」とだけ定め、具体的範囲などについ被告になんら指示、説明しなかった。この結
 果、被告は「ジェット・ルート11Lについて、実際よりも東寄りのものと誤認し、結
 果的に自衛隊機の制限区域内に侵入した」と認定した。 
・こうした判断に立って判決は、「空域侵犯の義務違反について、被告の落ち度重く見て、
 被告だけにその責任を求めるのは相当でない」と指摘。更に「訓練計画立案にあたって、
  配慮を怠った航空自衛隊当局、特に、松島派遣隊幹部の責任こそ重大」と断定した。
・最高裁の判決は、仙台高裁の判決を元に下されたことは当然ですが、新証拠を採用しな
 かった理由がどこにあるのか、私は今でも疑問に思っているのです。  
・まず「見張り義務違反」ですが、「追突」側を追及すべきものでしょう。追突された
 「訓練機」を下方で指導していた教官に求めるのはお門違いです。
・一方、「機位確認義務違反」については、教官が訓練空域を逸脱し、ジェット・ルート
 11Lの5マイル内に侵入したことが「過失」だと認めて有罪の論拠にしています。多
 分、それは事故直後の「自衛隊機が民間機空路に侵入」と喧伝し、自衛隊のパイロット
 である航空幕僚副長までもが過失責任を認める発言をしたことが影響したに違いありま
 せん。しかしこれは盛岡地裁では「論拠なし」として認められず、仙台高裁でも論議の
 対象にならなかったのです。しかしなぜが最高裁でこれが復活したのです。
・これについては、弁護団が提出した克明な新証拠から接触地点がジェット・ルート11
 Lのはるか圏外であることに気づき、仮に「飛行制限空域内」と無理に判示しても、当
 時の航空法からも処罰する根拠がありません。その上新証拠は明らかに5マイル圏外で
 あることを示しています。 

事故発生同時刻、私は「エマージェンシー」コールを聞いた
・当時航空自衛隊は、複座のF4ファントム配備に伴って操縦者養成量を大幅に増加させ
 る必要が生じていました。しかし訓練空域不足なので浜松だけでなく松島にも戦闘機操
 縦課程を新設することになり、「第一航空団松島派遣隊」と称する変則的な飛び地が作
 られたのです。
・そんな最中の7月に大幅な人事異動が実施されました。「指揮官交替期には事故が起こ
 る」とはよく言われているジンクスですが、7月30日にその恐れていた大事故が松島
 派遣隊で発生したのでした。 
・事故は、昭和46年7月30日午後2時過ぎ、岩手県盛岡市の西側にある雫石町付近の
 上空で発生し、事故発生当初から「自衛隊機の一方的なミス」だと大々的に報道され、
 遺体安置場所で報道陣や一部遺族たちの怒号に耐えきれなかった防衛長官と航空自衛隊
 の高官たちが土下座、間もなく長官と航空幕僚長が引責辞任すると、すでに勝負はつい
 たも同然でした。
・やがて「民間航空路に戦闘機が侵入、規定通りに飛んでいた民間旅客機に体当たりした」
 という無責任が報道が一人歩きを始め、盛岡地検は教官と訓練生を起訴、何と航空幕僚
 はこの二人を直ちに「休職処分」にしたのです。まだ事故調査も始まっていなかったに
 もかかわらずに、です。
・犠牲者が多かった富士市の対策本部への派遣は、8月4日の午前9時に準備命令が発せ
 られました。出発に際して団指令は「忍び難きを忍び、耐え難きを耐えよ」と悲痛な訓
 示をしましたが、事実、富士市役所は我々にとって耐えがたい所でした。市役所の十階
 に設けられた「防衛庁富士連絡本部」出入りすらたびに、エレベーターに乗り合わせた
 職員たちは、我々を「殺人者」呼ばわり」するし、「こいつらと一緒に乗れるか!」
 と憤然と降りていく職員もいて、そんな環境下にあったからか、対策本部指揮官の指揮
 は”遠慮がち”で、ただでさえ肩身が狭いのにいっそう悲しくなったものです。

事故の至る経緯
・事故直後の航空自衛隊は、松島と浜松という、離れた位置関係にある部隊間の”変則的
 な”指揮統率関係にあった上に、中央では部隊の細部を熟知した担当者が不在だったの
 ですから、事故調査においても広報活動においても、初動対処で既に”敗北”していた
 といえるでしょう。

空域の状況
・7月1日、松島基地に新たに「第一航空団松島派遣隊」が新設され、東北地方の青森・
 岩手・秋田の北部を除く局地訓練空域を使って訓練が始まりました。
・空域は錯綜する航空路を縫うように設定せざるを得なかったのですが、当時の航空法で
 は、航空路内での急激な姿勢の変化を伴う飛行、つまりアクロバット飛行は禁止されて
 いたものの、航空路内をVFR下で飛行することは許されていました。しかし、民間航
 空が発達してジェット化するに伴い、高高度を飛行する便数が増えてきたので、航空自
 衛隊では、航空路を横切る場合には、極力「直角かつ直線的」に横断し、さらに編隊間
 隔を緩めて見張りを厳重にし、いつでも回避行動が取れるように指導されているのです。
・事故当時、派遣隊本部・運用班長は、訓練する編隊に訓練空域を割り当てるため、空域
 を共有している第四航空団飛行幹部と調整しています。ところが前日に、調整済みであ
 った横手、月山、米沢、相馬は、第七飛行隊が使用する予定であることがわかり、申し
 合わせのとおり基地に同居している派遣隊は空域を第四航空団に譲っています。派遣隊
 ではこの日6人の訓練生に2回ずつ飛行教育をする計画でしたから、どうしても空域が
 不足します。急きょ区域を再設定しなければならなくなり、担当の三佐は壁に貼られて
 いた航空地図で再検討し、横手区域の北東側空域が取れると判断しました。
・ところがこの航空地図は、一般的な「航空図」でしたから、2万4千フィート以上を飛
 行する場合に設定されている「ジェット・ルート」、つまり全日空機が飛行する予定だ
 った「J11L」は記載されていなかったのです。一般的な航空路は、中心線から幅5
 マイルの太い「道筋」で示されていますが、高高度用のジェット・ルートは、単純な一
 本の線で示されていますから、おそらく一瞬J11Lは思い浮かばなかったのでしょう。
・しかし、この事故は全日空機のほうが自衛隊機に「追突」したのですから、空域選定時
 に11Lを一時的に「失念」したとしても、衝突の原因とは無関係で、さらには全日空
 機はJ11Lを当初から無視して、遅れを取り戻すために仙台VORに直行し、臨時訓
 練空域内に侵入したと思われ、非は全日空機側にあります。   
・当時は、松島基地の局地飛行空域全域を「広義の訓練空域」と称し、その局地空域内の
 航路によって囲まれ細分化された「横手」「月山」「米沢」「気仙沼」「相馬」の五が
 狭義の訓練空域とされており、派遣された松島派遣隊の準則も、原則として第四航空団
 の飛行訓練準則の規定に従って作成されたものでした。裁判などではこの「訓練空域」
 が問題視されていますが、「訓練空域」はあくまでも航空自衛隊が自主的に設定したも
 ので、法的根拠に基づくものではないのです。
・事故が発生した空域は、第一航空団松島派遣隊が、飛行訓練準則において飛行訓練上安
 全を確保するために設定したものですが、航空法、模擬不時着訓練、計器出発、侵入訓
 練、その他やむを得ない場合には、制限空域内に立ち入っても差し支えないことになっ
 ていました。 
・これはレーダー監視下にない、目視が重視されていた当時の輻輳していた空域の、それ
 も指揮系統が複雑な部隊の意思決定複雑さがもたらしたものだといえなくもありません。
 それほど錯綜した航空路が野放しになっていたのであり、その根源は、大東亜戦争敗戦
 後に日本の空を占領した米軍の”遺産”が全く顧みられないまま「放置」され続け、い
 ち早く軍事航空として復帰した自衛隊が、それを踏襲したものの、民間航空の発達とと
 もに、「衣替え」の時期が来ていたのでした。にもかかわらず、監督官庁も政治も、全
 く無関心であったたことが原因だ、と私たちパイロットは痛感していました。
・日本では、かつて道路行政が、安全施策を忘れて道路だけを伸ばし、交通事故を増やす
 結果になったように、安全施策のない飛行場に平気で、旅客機を発着させる、という冒
 険をやっている。予算がないからだが、需要にこたえるため仕方ないと航空当局はいう。
 そして事故が起きれば、ドライバーだけが責められたように、パイロットだけが責めら
 れがちである。 
・当時、事故直後から「民間航空路」だとか「民間航路」などという、いかにも「民間機
 専用航路」が設定されていて、その中に自衛隊機が突っ込んだかのように報道されまし
 たが、しかし当時も今もそんな用語はなく、全て航空路は「航空路」であり「ジェット・
 ロート」と呼ばれています。 
・航空路とはその名のとおり、「航空機の飛行経路として、空中に設定された一定の幅を
 持った通路」のことです。占領軍が主に旧陸・海軍が使用していた飛行場を占領して設
 置した航空保安無線施設(VOR、NDR)などを結んで設定したものであり、したが
 ってほどんどの航空基地上空には「航空路」が通っています。 
・航空自衛隊の通常の訓練では、これらの航空路を避けたところに「訓練空域」が設定さ
 れていましたが、他基地への連絡飛行や航法訓練などでは、当然航空路を使って移動し
 ていました。「官民共用」だったのです。
・これらの航空路を飛行する場合には、その直線経路上を飛ぶのが原則ですが、上空の風
 などの影響によって進路がずれた場合に備えて10マイル幅をとって対処しているので
 す。
・「ジェット・ルート」とは、航空保安無線施設上空相互間を結ぶ高高度管制区(高度2
 万4千フィート以上の管制区)における直線空路をいう。また、「保護空域」とは、航
 空管制官が飛行計画の承認にあたり、計器飛行方式による航空機相互間に一定の横間隔
 を設定するために確保する空域のことであり、有視界飛行方式のよる航空機との関係を
 律するものではなかったのです。この事故以降、あたかもジェット・ルートの両側に
 ”常時”設定されているかのように報じられましたが、常設されているものではなく、
 航空交通管制上の立場から、計器飛行方式により飛行する航空機に対して管制承認を与
 える際にこの保護空域内に重複して管制承認を与えないようにするために、もっぱら航
 空管制の必要上から定められるものに過ぎず、航空交通管制の衝に当たる管制官のみが
 認識していれば足りるものでした。
・当時は、レーダー管制も不十分な状況でしたから、飛行中にどこに境界線があるかは
 「計器上の方位」で大まかに知ることはできましたが、地上目標を参照する以外になか
 ったのです。
・ジェット・ルートを利用して飛行する場合には、「幅のない直線」であるから逸脱しな
 いように指導はされていましたが、電波や風の影響次第では、確実に一本の線上を飛行
 するのは困難です。従って、この周辺飛行する場合には、地上レーダーで助言されるな
ら別ですが、計器の指示だけで判断するのは困難でした。
・しかしいずれにしても、ジェット・ルートは高高度の2万4千フィート以上でしたから、
 通常訓練ではさほど意識しないで済んだ存在でした。
  
運命の離陸
・7月30日午後1時33分に、出発予定時刻よりも52分遅れて千歳空港を離陸した全
 日空機は、1時50分に高度2万8千フィートに達したことを札幌管制所に通報、この
 時点で機長は自動操縦に切り替え、以後計画書どおりに松島NDBに向けて2万8千フ
 ィートで南下したことになっています。事故後に公表されたフライト・レコーダーの記
 録によれば、以後計器速度マッハ0.79、機首磁方位は189~190度、垂直加速
 度がほぼ1Gという水平定常飛行が衝突まで続き、好天に恵まれた穏やかなフライトだ
 ったことを窺わせます。
・一方自衛隊機は、午後1時28分に松島基地を離陸しています。
・訓練生が教官の「他機、右急旋回、引き上げよ」という指示で右旋回に入れ後下方を見
 ると、全日空機の機首が見え、青い帯状のラインが入った機体がズルズルと視界に入っ
 てきたので、直ちに左に切り返して離脱しようとした。全日空機との間には、若干の高
 度差があったので旋回中に「回避できてか?」と思った途端「ガツン」ショックを感じ
 てきりもみに入った。一瞬炎がコックピット内に入ってきたが、急激なスピンで体が動
 かなかった。ところが落下していく途中で空中に放り出されたので、Dリングを引いて
 開傘し、田んぼに着地した。
・不運だったのは、全日空機の水平尾翼が垂直尾翼上方についたT字型だったことでした。
 左水平安定板の前縁が、接触を回避しようと左急旋回中の自衛隊機の左主翼付け根に接
 触して、主翼が後方から切断されたのです。 
・この接触状況から見れば、どんな素人でもこの時点での「見張りの義務」は後方から来
 る全日空機にあったことは理解できるでしょう。この事実は当初からわかっていたにも
 かかわらず、どういうわけが自衛隊機側の見張り義務問題にすり替えられ、裁判でもそ
 の審議が延々と続けられたのですが、その背景には、事故直後の7月31日に当時の航
 空幕僚副長が「事故は函館と仙台を結ぶジェット・ルートの中であると思われるが、こ
 のジェット・ルートの中で訓練してはいけないことは常識なのに、これを無視したこと
 は全く間違いだ」と語り、さらに「責任は全て編隊長機にある。編隊長には普段飛びな
 れていないコースであり、ちょっと油断したのではないかと思う。とにかくファイター
 ・パイロットが後ろから来た全日空機に気がつかないなんて、全くお話にならない。見
 張りが悪かったとしか言いようがない」と自衛隊側の非を認める発言をしたことがあり
 ます。

全日空58便の飛行状況
・全日空機(58便)の航跡を見る限り、函館NDB上空を通過した後、性格の航路操作
 をすることなく次の進路に向けて、”漫然”と飛行しているのです。そしてむしろその
 航跡は、飛行計画書に書いたJ11L上の次の目標。松島NDBではなく、方位と距離
 が計器上に表示される、便利で正確な仙台VORに進路と取ったのではないか?と思わ
 れます。
・仮に全日空機の機長が、松島NDBの南西約32キロにある仙台VORを選んで飛行し
 たとすれば、遅れていた時間の短縮が可能な上、安定した針路が得られますから、仙台
 VORを選定して自動操縦で飛行していた公算は高いというべきです。その上、食事時
 間に恵まれなかったクルーが、ようやく「昼飯」にありついて、人間らしいひと時を得
 て、ほっと気が弛んだであろうことも推察できます。
・仮に全日空機が「申請した航路」を逸脱して飛行していても、当時の運輸省航空局の地
 上管制官はレーダー・スコープで監視していたわけではなかったので、全日空機の正確
 なコースは掴むことはできませんでした。だから事故調査委員も全日空機からの自己申
 告を信用して、全日空機はJ11L上を”正確に飛行しているという前提に立っている
 のです。
・しかし、実際の飛行コースは、漫然と仙台VORに向かったことを示していますから、
 松島派遣隊がこの日臨時訓練空域に指定した、盛岡、横手空域を突っ切るものになった。
 つまり、全日空機の方が、自衛隊の訓練空域内に”侵入”することになった公算は大き
 いのです。
・全日空機の機長が提出した飛行計画書には、函館NDBから松島NDBを結ぶJ11L
 が選定されていましたが、全日空機の機長側の指示器には、仙台VORが選択されてい
 たこと、回収されたフライト・レコーダーによると機首磁方位189~190度で飛行
 していたことなどを考慮すれば、全日空機は当初から針路を仙台VORに向けていたと
 考えてほぼ間違いないでしょう。
・函館から松島に向かうJ11Lは磁方位184度であり、仙台VORはそれより約5度
 西に逸れるとはいえ、当日の事故発生地点の偏流は5度未満でしたから、全日空機が
 189度ないし190度で飛行していた、ということはほぼ頷けます。
・仮に、全日空機が松島NDBではなく、当時はジェット・ルートが設定されていなかっ
 た仙台VORを結ぶコースを飛行していたとすれば、これは明らかに航空法違反です。
 つまり飛行計画書に記入したJ11L(函館~松島間)を無視したコースを飛んでいる
 ことになるからです。このように函館~仙台間にはジェット・ルートがないから航空自
 衛隊は臨時訓練空域に指定していたのです。
・当時は、現在のように飛行コースはレーダーで隈なくカバーされてはおらず、操縦者か
 ら定点通過時刻の通報と、次の定点通過予定時刻が通報されるだけでしたから、地上の
 管制官はまさか民間機機長が空路を逸脱しているとは思わなかったことでしょう。
・自動操縦に切り替えて操縦業務から解放された全日空機のクルーは、あるいは席を離れ
 あるいはヘッドセットを外して食事の準備をしていた。そこにスチュワーデスが昼食の
 注文を聞きに来る。お茶を出していたかもしれません。何しろクルーは、午前中に千歳
 →羽田、お昼に羽田→千歳、そして今また千歳から羽田に向かいつつあり、地に足がつ
 いた時間は生理現象を処理するのが精一杯程度の余裕しかなかったのですから。
・食事開始後、接触までは12分18秒間しかなかったのでから、接触点ではまだ食事中
 か、あるいは食後の後片付け中だったと推定されます。中には食後のお茶を飲んでいた
 クルーがもいたかもしれません。こう考えれば、クルーが見張りをしていたとはとても
 考えられないのです。 
・政府の事故調査委員会報告書には「少なくとも接触の7秒前から{前方を飛行していた)
 自衛隊機を視認していた」と推定していますが、この推定は何か意図的に取り繕われた
 不自然なものとしかいえないでしょう。裁判所の見解も、盛岡地裁は「視認していたか
 否かは明らかとはいえない」とし、仙台高裁は「接触7秒前に視認したことは確実」と
 報告書を認定した。ところが民事法廷の東京地裁は「接触するまでにまったく視認しな
 かった」と事故報告書を完全に否定したのです。しかし民事の東京高裁では「全く視認
 しなかったという可能性を推認するのはやはり躊躇せざるを得ない」としつつ、他方
 「視認していなかったのではないかという疑いも払拭することはできない」と裁判官ら
 しからぬ、卑怯に言い回しで逃げたのです。
 
全日空機の「見張り」について
・事故調査報告書が「少なくとも接触の7秒前から(前方を飛行している自衛隊機を)視
 認していた」というのであれば、なぜ全日空のクルーは回避操作」をとらなかったので
 しょうか?
・全日空機の機長は、全日空に入社する前に。陸上自衛隊で小型機を操縦していて、編隊
 飛行の経験もあるはずです。前方を飛行する自衛隊機を発見したならば、本能的に直ち
 に回避操作をしていたであろうことは疑いありません。仮に副操縦士が操縦していたと
 しても、彼は当日、羽田から千歳に向かっている時、”頭上を飛ぶ”自衛隊機みて「ヒ
 ヤッ」としたのですから、無意識のうちに回避操作をしていたはずです。
・回収した全日空機のフライト・レコーダーにも、接触前の12分間に「回避操作」をし
 た形跡は全くありません。自動操縦装置が働いていたのだから、それを解除することを
 考えれば、あながち裁判官の判断も理解できないこともない」と言った評論家もいまし
 たが、この評論家は緊急時に操縦桿を操作すれば自動操縦は解除されることを知らない
 のでしょう。陸上自衛隊で編隊飛行の経験もある全日空機の機長が、回避操作をしなか
 ったのは「視認していなかった」としか考えられません。 
・接触後、1、2秒のうちに、全日空機の水平日尾翼、垂直尾翼がもぎ取られた。機長は
 必死で操縦桿を操作する。が、もはや操縦不能。立て直しきかない。同機は約4秒間、
 惰性で水平飛行を続けた後、落下し始めた。マイナス2G、マイナス3G。おそらく、
 この段階で、ベルトをはずしていた乗客たちは天井にたたきつけられ、失神状態になっ
 たにちがいない。交信テープを解析すると、接触9秒後、全日空機の機長は初めて「ア
 ー」と声を上げた。「エマージェンシー、エマージェンシー」と2回、最後に絶叫。接
 触14秒後、強い重力にもぎとられるように機長の手は操縦桿を離れた。接触後、25
 秒間で同機は8千5百メートルの上空から4千5百メートルまで落下、この間、主翼が
 ちぎれ胴体が裂け、完全に空中分解した。
・接触7秒前に「追突」した全日空機操縦者が、前方をよく見張っていなかったのは、飛
 行方式が「有視界方式」であろうと「計器飛行方式」であろうと、見張りをするのが操
 縦者の基本である以上大問題なのですが、少なくとも「前方」を飛行する訓練機を視認
 した時点で、「回避操作」はもとより「異常接近」事態が発生した時と場所とを地上の
 管制官に直ちに報告するのた常識です。それをしなかったのは視認していなかったから
 であり、もし視認していたとしたら、異常事態発生時に「自衛隊機と接触・・・」とい
 う言葉が出たはずです。
・では全日空機のクルーは、接触時にコックピットで何をしていたのか?やはり、遅れて
 いた昼食中だったとしか考えられません。なぜそんな簡単なことが証明できないかとい
 うと、事故発生後、収容された乗務員の検視がなされていなかったからです。これは実
 に大きなミスでした。検察側の大失態である以上、これもまた被告人に有利に働くべき
 でした。
・全日空機の残骸と破片は、東西6千4百メートル、最大幅約6百メートルのベルト状地
 域内と、5百8十メートル×1千2百メートルの比較的狭い四角形地域内に分かれてい
 たが、乗務員の遺体は、四角形地域北辺をまたいだ地域内で発見されています。なぜ地
 元警察が乗務員の遺体を解剖しなかったのは未だかナゾです。当時は「この種の大事故
 の処理に不慣れな地方警察だったから・・・」と言われていましたが、それなら犯罪者
 は捜査未熟な地方警察の管轄場所でやるに限る!ということになります。
・私が広報室長時代に某全国紙の編集委員が、「機長とスチュワーデスは、圧迫死体とな
 って発見されたのだ」と教えてくれたことがありました。自動操縦に切替えて、食事を
 しとうとした機長はヘッドセットとシートベルトを外して操縦室を出た。そして機長は
 操縦室に隣接したコンパートメントで、スチュワーデスにコーヒーを入れてもらってい
 た、と彼は推測するのです。
・事故調査報告書には、接触後、操縦室内にいた機長が送信ボタンを押して「緊急事態」
 を発したことになっています。しかし、もしも新潟管制所で記録されたボイスが副操縦
 士のものだったとしたら、席を外していた機長とスチュワーデスの圧迫死体が見つかっ
 ていたもおかしくはありません。
・事故当時、全日空機の機長の遺体に接した雫石病院内科勤務の女性は、事故後2年経っ
 た昭和48年7月30日に、雫石町が発行した「全日空機遭難事故・・三周年忌にあた
 り」に、次のような一文を寄せています。「事故翌日夕刻、全日空機・機長の遺体に接
 した。ひどい姿でした。右手にしっかり握っていた20センチあまりのコードが、今で
 も目に浮かびます。墜落の直前必死に握っていたマイクのコードだったのでしょう。そ
 のとき私は、そのコードから機長が最後に発した緊急連絡と「操縦不能」の悲痛な声が
 聞こえるような気がして、一瞬胸を締め付けられるような思いでした」
・これで、機長が右手にヘッドセットのコードを握りしめていたこと、及び、機長の遺体
 は十分検視できる状態だったことがわかります。圧迫遺体ではなかったようですが、
 「20センチあまりのコード」を右手に握りしめていたことは重大です。そのコードは
 ヘッドセットのコードだったのか、それともハンドマイクのコードだったのか? 
・ヘッドセットを外した場合、コックピット内にはそれを掛けるフックがあるのですが、
 機長がコードを握りしめていたのが右手だったということは、左席、つまり機長席には
 副操縦士が座っていたことが考えられます。このような状況を勘案すると、どちらかが
 あわててヘッドセットを装着しつつ、機首下げになろうとする姿勢を修正するために操
 縦輪を支えたが、マイナスGで不安定になり、操縦輪を握りしめつつ「メーディー・コ
 ール」を行ったのではなかったのか?そう考えれば、「エマージェンシー、メイデー、
 メイデー、メイデイー、アー、アネイブルコントロール・・・」という発信のナゾも解
 けます。
・ところで、今までの推測を含めて考察してきたコックピット内の出来事は、ボイスレコ
 ーダー(以下CVR)があれば難なく解決できたことです。CVRは昭和41年2月に
 発生した、全日空機の羽田沖墜落事件を契機に、その搭載が義務づけられていました。
 雫石の全日空機は、昭和46年3月に全日空に納入されたもので、当然CVRは搭載さ
 れていなければならないはずですが、事故調査委員会は「全日空機にはボイスレコーダ
 ーは搭載されていなかった」としただけで、それを追及した形跡はないのです。
・副操縦士は、座席に座ったままの姿勢で収容されています。その座席を調査していれば、
 それが右座席だったのか左座席だったのか判定できたはずであり、もし機長席に副操縦
 士が座って操縦していたとすれば、機長が右手にヘッドセットのコードを握りしめてい
 たことの謎も解けたし、回収された計器の機長側(左側)RMIがNO1がVOR(仙
 台)を、NO2がADF(松島)を、超短波航行用受信機がの選択周波数のNO1が仙
 台VORを、NO2が松島タカンを選択していた謎も解けます。しかしながら、事故調
 査委員会はそれもしていなかったのです。  
 
58便の飛行コースの検証
・接触点に関しても、多くの目的者がそれぞれ目撃した地点をプロットするとJ11Lの
 かなり西側に集約されます。しかしどうしたわけか、機体の破片などの落下地点や散布
 状況と、これらの目撃情報を取り入れた接触地点の特定についても、事故調査委員会は
 十分に検討していません。
・接触点について、第一審では「全日空機は函館NDBから松島NDBに向かうジェット
 ・ルートJ11Lをその管制保護空域西側においてて南下進行し、接触地点については、
 雫石町上空の右に記載した範囲内にあることを認定するにとどめるのが相当である」と
 しました。第二審でも、接触地点は長山長円内と認め、最高裁は「ジェット・ルートJ
 11Lの5マイル内で、ほぼ長円内ないしこれに近い重空の8千5百メートルであると
 推定できる」としました。
・一方民事第一審では、「長山長円の中心から西に約2キロ、北に約3キロの西根付近の
 上空でジェット・ルートJ11Lから西へ6キロの地点であると認めるのが相当」とし、
 民事第二審では、「長山長円の中心から真方位約330度、距離約1.9キロと地点で
 ある駒木野地区矢筈橋西詰めからさらに北西へ1.5キロの西根八丁野地区北側を中心
 とする半径1キロ円内上空である。その西の限界はジェット・ルートJ11Lの保護空
 域内であり、かつ、松島派遣隊の定めた飛行制限空域内にあることが明らかである」と
 しています。
・接触点がこのようにバラバラなのは、検察側の証明が不十分、つまり政府事故調査委員
 会の調査が不十分だったことを意味します。
・接触地点に関して、法廷では目撃者の証言も取り上げましたが、接触点はあくまで保護
 空域内、つまり自衛隊機が訓練空域を逸脱して、ジェット・ルートにしたと認定され、
 全日空機がルートを逸脱したとする弁護側の意見は取り上げられませんでした。
・ところが東京高裁での民事裁判が接触地点をめぐって暗礁に乗り上げていた昭和56年
 10月に、全日空側は、突如、墜落して全日空機の乗客の一人が接触時まで撮影してい
 たという8ミリフィルムを法廷に出したのです。乗客は、十和田湖上空から秋田県の
 「八郎潟方向」「大館市周辺」を撮影していて、最後に「田沢湖」を撮影しているので
 す。実は防衛庁側の分析で「田沢湖」が写っていることが判明したため、形勢逆転した
 ものです。 
・全日空によると、事故直後に入手し「政府の事故調査委員会に提出したが、詳しい検討
 の対象とはならなかった」というのですが、事故直後に入手して政府事故調査委員会に
 提出したのに、事故調査委員会が調査しなかったとすれば、事故調査委員会の重大な落
  ち度です。
・全日空側は、フィルムに移っている風景から航跡を割り出そうと、航空測量会社の最大
 手、国際航業に分析を依頼。函館から青森近くまでのコースを推定した鑑定書を提出し
 た。この結果によると、全日空機のコースはJ11Lの東側となり、政府の調査委員会
 のコースとも違っていた。青森以南は、画面のほとんどが雲しか写っておらず、解析は
 不可能だったという。
・一方、防衛庁側も、独自に業界二位のアジア航測に分析を依頼。その結果を2回にわけ
 て鑑定書として提出した。それによると、航跡はJ11Lの西側とされ、全日空側の分
 析とは大きく食い違っている。衝突地点近くまで分析できたのは、「雲の切れ間目から
 二箇所で田沢湖が見えた」としたため、しかも、この航跡は防衛庁が海法鑑定に基づい
 て主張した「J11Lの西12キロに沿ったコース」とほぼ一致している。
・その上、全日空側が提出した国際航業制作の航跡図を見た地図専門の大学教授が計算式
 のミスを指摘。改めて正しい計算式を使用したら防衛庁側のコースに重なることまで判
 明するという、信じられない事実が判明して結論が出たのも同然でした。 
・それで全日空側は、自分が提出した証拠物品を「あてにならない代物」だとして取り下
 げようとしました。全日空側の行為は尋常ではありません。なぜ裁判所はこの点を追及
 しなかったのでしょうか?
・民事訴訟第一審では、防衛庁6対全日空4の過失割合とされました。これを不服とした
 全日空側が控訴した民事高裁で8ミリフィルムを提出したため「コースをめぐる論争が
 生じたのですが、一転して不利を悟った全日空側が証拠を取り下げようとしたにもかか
 わらず、高裁の判示は「2対1」と、逆に防衛庁側が不利な判決で終わったのは実に不
 可解でミステリアスなことでした。さらにミステリアスなことは、誰もそれにクレーム
 をつけなかったことです。「どうせ賠償金を支出するのは国民の税金だから、これで全
 てハッピー。防衛庁をはじめ国側でだれも腹を痛める者は誰もいないからさ」と言った
 記者の言葉が未だに忘れられません。

事故の真因
・この事故の真因は次に要約されます。
 ①全日空機側の見張り義務違反
  ・全日空機のクルーは見張り義務を怠った。見張っていれば確実に事故は回避できた。
  ・見張りを怠った理由は、地上で昼食をとれなかったため、このことは乗務員から改
   善要求が出されていることから推して恒常化していたと思われる
 ②全日空機の航路逸脱
  ・全日空機のクルーは、飛行計画書にJ11Lを使用する計画を記入していたが、近
   道の仙台VORに進路をとり、自動操縦で漠然と飛行して自衛隊側の訓練空域内に
   侵入した。
 ③全日空機側の航空法違反
  ・全日空機側は申請した航空路を恒常的に無視するという重大な航空法違反を繰り返
   していた疑いがある。

政府高官の奇妙な発言と最高裁の「自判」の怪
・事故が起きた頃は既に、「ロッキード疑獄の幕」は開いていたのです。当時の全日空は、
 昭和41年2月4日の羽田沖墜落事故で133名が死亡、同年11月13日松山空港沖
 で50名死亡等航空大事故が続き、その後の後遺症からようやく解放されようとしてい
 た矢先だった。
・国民はロッキード事件が暴露されると、利益のためには手段を選ばない全日空社の体質
 と、運行整備体制の遅れの実態を知りこととなりました。故に、雫石事故の責任を自衛
 隊(国)が被ったことにより全日空社は救われたのだ、いえるかもしれません。 
・雫石事故のちょうど1年後にあたる昭和47年7月にスタートした田中内閣は、49年
 12月に金脈問題で総辞職、51年6月にロッキード事件で丸紅専務、全日空専務らが
 逮捕され、遂に同年7月に田中元総理大臣が逮捕され、58年10月に懲役4年・追徴
 金5億円の実刑判決がでました。
・運輸省が主導した「事故調査の実態」と「8ミリフィルム」という”決定的な証拠が出
 たにもかかわらず、刑事事件は最高裁の「自決」で終了し、民事裁判も防衛庁側が不利
 な結果で終わるという、信じられない結末で終わりました。