人を見る目  :保阪正康

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この「人を見る目」という題目から、私は当初、人の評価の基準について論ずる内容の本
かと想像した。しかし、読み進むうちに、それはちょっと誤りだったことがわかってきた。
この本には、昭和という時代に登場した「人として恥ずかしい」生き方をした人たちが、
次々に登場する。
その中の筆頭は、やはり「東條英機」であろう。筆者とって東條英機は、決して許すこと
ができない人物のようである。
なぜこれほどまでに、筆者は東條英機を非難するのか。それは当時、東條英機が示達した
「戦陣訓」にある。この「戦陣訓」において、東條英機は、「捕虜になるな、その死まで
戦え」と、いわば兵士は生きて帰ってきてはいけないと教えたのだ。この檄を飛ばした東
條のせいで、どれだけの兵士が無駄死にしたことか。
ところが、敗戦となってGHQのMPが東條を逮捕に来たとき、東條はピストル自殺を図
ったのだが、未遂に終わった。「戦陣訓」を示達した当人は、自決できなかったのである。
部下には死を強要し、自らは覚悟が定まらず生き延びる。なんと「人として恥かしい」こ
とか。しかし、東條以外にも、当時の指導者層には、こういう人物が多かったと筆者はい
う。

どうして東條のような人物が誕生したのか。どうして東條のような人物が、国のリーダー
になり得たのか。未だによくわからないが、そこのは、昭和初期にアメリカに端を発した
昭和恐慌が大きく影響したようだ。この恐慌によって、特に地方の農村部は、悲惨な状況
に陥った。そしてそれが、軍隊に大きく影響した。軍隊を構成していた多くの兵士は、農
村部出身だったからだ。恐慌に有効な手を打てない政治に不満を持った軍人たちが、政治
に口出しするようになっていくのだ。それは、最初は地方の惨状を目の当たりにして、な
んとかしたいという正義感から出たものだったようだ。しかしそれが、だんだん歪んで尋
常ならざるものとなっていった。
そしてもう一つの要因は、その軍隊という組織の中かでの過度の権力闘争だったと思われ
る。この組織内での過度の権力闘争が、組織の中の人間の考え方や判断を、尋常ではない
方向に歪めていった。ひとりひとりは、悪人ではないのだが、軍隊という組織の中では、
とんでもない考え方や行動をしてしまう。組織が持つ恐ろしさだ。そういう中で東條英機
という人物が登場したと、私は考えている。
昭和の時代は、軍隊においても、政治においても、「お追従」、「お節介」、「しみった
れ」、「臆病者」、「空とぼけ」などが跋扈した時代だった。しかしこれは、昭和の時代
ばかりでなく、平成に時代においても、そして新しい令和の時代に入っても、政治の世界
や企業の世界、スポーツの世界、そして一般社会の中で、同じようなことが行われている。
人の考えることや行動は、昔からあまり変わらないようだ。
今の時代は、戦前のような軍隊は存在しないというかもしれないが、その代わり自衛隊と
いう組織はある。今は災害時の大活躍で、とても良い評価を受けているが、その組織の内
実は、昔の軍隊とさほど変わりはないのだということを、忘れてはならないだろう。
現政権は、自衛隊をいつまでも日陰者にしておくのはかわいそうだ、憲法改正をして「憲
法に自衛隊を明記する」などと意気込んでいるが、もし自衛隊が、ひとたび発言権を得て、
政治に口出しするようになったら、もはやそれを、だれも抑えることはできなくなるだろ
う。
戦前のような事態は二度と起こらないという保証は、どこにもないのだ。組織の暴走は、
通常では考えられないことを引き起こす。最初は正義感から出てものでも、だんだんそれ
が歪んだものになっていく。東條英機がその最たる例だと言えるだろう。
これは軍隊だけで起こるのではない。政治の世界でも同様に起こる。歴代最長と言われる
安倍政権は、いまやその体らくさを現わしている。昨今の「桜見る会」での公的行事の私
物化などは、その最たるものだろう。これを見て、組織は長く続くとだんだん頽廃ってい
くのだと、改めて実感させられているのは、私だけではないだろう。

まえがき
・私はこの四十年間、昭和史を実証的に検証しようと延べにして四千人ほどの人物に会っ
 てきた。陸海軍の軍人、政治家、官僚、ごくふつうの庶民などに会った。
・こういう体験を通して、人はどのように記憶を捏造するか、あるいはいかに正確に話す
 か、いや記憶がどう変化するかを確認することができた。 
・人は自らの体験を記憶するにあたって、その体験を何らかの形で意味づけした上で、脳
 裏に定着することがわかる。その意味づけが、はからずもその人物の価値観ということ
 になる。
・たとえば多くの「敵兵」を殺害した兵士は戦時下では「国家の英雄」に擬せられる。し
 かし戦争が終わって平時になれば、その体験をあからさまに語ることはできない。「戦
 争中だから仕方がなかったのだが・・・」という具合に前提をつけながら記憶はつくら
 れていく。 
・つまり人は、快い記憶を維持するのには努力はいらないが、不快な記憶を守り抜くには
 相当の努力を必要とするのである。

お追従・・・権力者を中心に演じられる
・お追従とは媚びへつらうことだが、もっとわかりやすく言うなら二つの特徴を持つ。一
 つはその人物の持っている権力のお裾分けに与ろうという魂胆、もう一つは、誰でも簡
 単にできるわけではなく、それは「芸」のような才能、素面でお追従の言を吐けるとい
 うのは、特殊な能力と言っていい。恥かしさ、照れなどは初めから捨ててかかっている。
・昭和史に限らず近代日本史を見ていて、権力者を中心に演じられる百態は、まさに「人
 さまざまだ」と思ったものだ。面白いことに、へつらう相手の権力が大きければおおき
 いほど、見返りを期待すればするほど、お追従の姿は醜くなる。
・当人は、へつらう相手の権力を笠に着て自らの立場を高めたり、その覚えを買って昇進
 ・栄達の道をまっしぐらと夢想しているから、それを恥ずかしいとは思わない。 
・近代日本の陸海軍はコワモテの集団であり、お追従などとはもっとも縁遠い空間と思わ
 れがちだ。それは人間学のイロハに通じていない人の見方だ。昭和十年代の陸軍の失態
 は人事異動にあったというのが私の考えだが、言葉を換えればお追従を競い合う軍服集
 団だったと言っていい。
・昭和十年代の戦時宰相・陸軍大将の東條英機はお追従が大好きだった。自分の眼をかけ
 た人間のみ、周辺に集め、あとはどんな見識・卓見を持っていても遠ざける。なぜこん
 な軍人を重用したのか、と言いたくなるほどだ。
・尉官時代に陸軍大学校に入学するということは、軍内での栄達の切符を手に入れること
 だが、教官は大体が現役軍人で、三十歳前後の学生より十歳か十五歳ほど年齢が上がる。
 そこで学生は、この教官は将来幹部になっていくとみると、とにかく近づいていく。あ
 れこれ質問したり、教官の家を訪ねたり、べったりと食らいつく。一方で教官の側も、
 将来この男は自分の部下として使いやすいとなれば、その成績に点数を上乗せしたり、
 自分の子分扱いをするようになる。こうくべたべたした関係を「納豆」と言うのだとい
 う。
・東條は陸軍大臣になると、お追従の納豆組を優遇している。その代表的な例が大正十年
 代に陸軍大学校教官だった佐藤賢了である。昭和十五年の北部仏印進駐では勝手に軍を
 動かしたり、昭和十三年には国家総動員法審議時に「黙れ!」と政治家を威圧した不祥
 事など一切お構いなく重用、昭和十六年には軍務課長のポストに就けている。
・東條が喜びそうなことを報告したのが出世に因、つまりお追従の賜と軍内では公然化し
 ていた。「アメリカという国はたいした国ではありません。兵士はダンスをしたり、ガ
 ムを噛んでいたり、国の総合力はありません」という意味の佐藤の報告を東條は信じ、
 「あの国と戦争をしてはいけません」という駐在武官の報告を「弱虫」呼ばわりしたの
 だから、お追従というへつらいが戦争の原因だったと極論を吐く軍人が少なくないのも、
 むべなるかなといったところだ。
・陸軍軍人のお追従で私がいつも思い出すのは、ドイツの駐在武官であった大島浩である。
 大島は後に駐独大使に格上げになるのだが、昭和十年代の日本陸軍がドイツになびいた
 のは大島の外交姿勢によるというのが、今や定説である。大島は、リッベントロップ外
 相やヒトラー首相の口車に乗せられたと言われている。大島はすでにドイツの本意を知
 っていても、それを日本政府に正確に伝えなかった節もある。
・ベルリンでドイツ政府主催のパーティーがしばしば開かれた。1930年代のヒトラー
 全盛の時代だ。そのとき大島は友好国日本の代表として、必ず挨拶を求められる。大島
 は短いスピーチのあと、ドイツの童謡を歌うそうだ。その童謡を歌い始めると、会場は
 静かになる。中には涙を流すドイツ政府の要人もいる。ヒトラーさえ、目を潤ませる。
 大島の周りには、いつもドイツ人が集まっていたそうだ。
・この例はお追従というにはあまりにも特殊な能力であり、まさに「芸」である。お追従
 が外交上いかに有効か、しかしそれを有益とする能力はなかったということになる。も
 しA級戦犯として起訴された大島が、東京裁判の法廷でドイツ語の童話でも歌ったなら
 ば、この軍事裁判ももうひとつ別の意味を持ったかもしれない。
・昭和十年代の東條へのへつらいに、断固抵抗したのは石原莞爾である。太平洋戦争直前
 に、石原は東條によって軍を追われている。その後は軍事学の著述を進め、やがて故郷
 の山形県鶴岡市に戻って庭で畑仕事に精を出す。東條の命令でときどき特高課長が様子
 を見に来る。(畑仕事をしつつ)「いま、東京から来たお客さんと東條内閣打倒の相談
 をしているから、会えないといえ」と石原は夫人にいっていた。石原のような、東條に
 へつらうのを公然と拒否した幕僚が十人いたなら、太平洋戦争の内実は様変わりしてい
 たであろう。   

お節介・・・善意が転じて悪意となるとき
・昭和史の中で最大のお節介を挙げるとすれば、二・二六事件後の陸軍の態度を挙げるの
 がもっとも分かりやすいだろう。具体的には陸軍大臣の寺内寿一ということになるのだ
 が、この寺内の態度こそ昭和史最大のお節介と断じるべきだ。
・二・二六事件後、外務大臣だった広田弘毅に内閣を組閣するように天皇が命じた。広田
 の参謀役となって、候補者をあたって入閣交渉役となったのが吉田茂であった。吉田自
 身の外務大臣就任の構想が新聞を通じて漏れると、陸軍大臣に予定されている寺内が首
 相官邸の広田のもとに怒鳴り込んできた。「陸軍としてはこの人事はまったく認められ
 ない」と激しい口調で難詰している。吉田は牧野伸顕の女婿で自由主義的だ、下村も朝
 日新聞出身で自由主義者と、次々と名を挙げ入閣を反対している。それだけではない。
 軍事予算を増額しろ。人事は我々の示す案に賛成しなさい。本来なら不祥事を起こした
 事態に恐縮して身を縮めるのが筋なのに、逆に「我々の言うことを聞かせないと、また
 あんな事件が起こるぞ」と言わんばかりの恫喝であった。
・広田は結局、それを受け入れた。のちの東京裁判のA級戦犯を裁く法廷で文官からただ
 一人、絞首刑になるが、それはこのときの軍部に妥協したことが因となっている。タチ
 の悪いお節介が人を殺めたケースである。
・昭和十年代の指導者の中で、もっともお節介約は誰だろうか。これは文句なく近衛内閣
 で外務大臣を務めた松岡洋右だ。松岡は他の閣僚がせいぜい三十分以内に上奏を終える
 のに、とにかく一時間、二時間、天皇の前で話し続ける。そこでは余計なお節介まで口
 にする。首相であるかのような、あるいは軍事の責任者であるかのような、錯覚を抱か
 せる。
・昭和天皇はあまり人物評を口にしないのだが、松岡に限ってはそうではない。<一体松
 岡のやる事は不可解な事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた
 計畫には常に反対する。又条約などは破棄しても別段苦にならない。特別な性格を持っ
 ている>

しみったれ・・・哲学や思想なき打算
・アメリカ側の調べた「第二次世界大戦主要国戦費」という数字がある。これを見ると、
 日本の選択した太平洋戦争とはまさに「しみったれの戦争」と言っていいように思う。
  ・アメリカ  3、410億ドル
  ・ソ連    1,920億ドル
  ・イギリス  1,200億ドル
  ・ドイツ   2,720億ドル
  ・イタリア    940億ドル
  ・日本      560億ドル
・実にアメリカは日本の六倍に達している。アメリカと日本の戦争は、物量差で敗れたな
 どとは恥ずかしくて言えない。これだけの開きがあるのに戦争を選択するのは、物量の
 点では百%の勝利などありえないが前提だったとは誰にもわかることだ。結局、この六
 倍の差を補うのは何であったか。つまり戦争に対する「しみったれの哲学」とは何だっ
 たか。それが人柱だったのである。特攻作戦や玉砕作戦はその差を埋める「戦費」と、
 戦時指導者は考えていたことになるのではないか。  
・昭和十六年十二月八日に、日本が真珠湾を叩いて対米戦争に入ったのは、そのころドイ
 ツ軍はソ連領に侵出し、破竹の勢いでモスクワを目指していたからだ。ドイツ軍はソ連
 を制圧する、それっ、日本もバスに乗り遅れるなと焦りの感情もあった。つまりドイツ
 を頼るという「しみったれ根性」が歴史を誤ったということになろうか。
・日本が占領を受けている間、沢田美喜はサンダース・ホームを設けて米軍兵士と日本女
 性の混血児救済に身を捧げた。GHQの幹部は混血児問題を隠したいので、あれこれと
 難癖をつけた。尻馬に乗って、サンダース・ホームを援助することは、進駐軍の政策に
 反するものを助けることになると公言する役人までいた。財団法人設立願の書類が県庁
 の担当課長が交替するときに紛失してしまうなど、不可解なことも起こった。つまり沢
 田美喜は、GHQだけでなく、日本の小役人にも嫌がらせを受けていたのである。この
 小役人を「しみったれ役人」と呼んでいいだろう。いつの時代にも見られる、我が身し
 か考えないしみったれである。
・東京都知事(当時)の舛添要一が、家族旅行や私的な日常の行動に要する費用を政治資
 金の名目で処理していたと追及を受けた。家族での食事、さらには美術品や古文書の購
 入などそれは際限がない。御当人は、政治家としてあらゆる形で勉強していると言うか
 と思えば、一部私的な費用を政治資金に組み込んだと謝罪の弁を述べたりもする。この
 人は、これまでも政治資金の報告書に虚偽を書いて問題になったこともあるのだとか。
 とすればその「公私のけじめのなさ」というしみったれば、国民の税金に対して独自の
 哲学を持っているということであろう。自分のような有能な士が、国民の代表としてゼ
 イキンを使って何が悪いか、との開き直りに聞こえる。国民はここまでバカにされてい
 るということか。

わろき者・・・冷めた目で交友を見る
・兼好法師の「徒然草」のなかに、次のような文がある。「友とするわろき者、七つあり。
 一つには高くやんごとなき人。二つには若き人。三つには病なく身強き人。四つには酒
 を好む人。五つにはたけく勇める兵。六つには虚言する人、七つには欲深き人」「よき
 友三つあり。一つには物くるる友。二つには医師。三つには知恵ある友」
 
よき友・・・人間同士の地肌が合う
・作家の谷崎純一郎は偏屈で依怙地で、なかなか人と馴染まない人物との評がある。とは
 いえ、やはり作家の舟橋聖一との友情は篤い。谷崎が一生を通じて政治権力とは財界の
 功利主義に巻き込まれなかったと賞賛している。太平洋戦争の戦時下に、内務省警保局
 の関係者の肝入りで、文芸懇話会なるものが出来たとき、ほとんどの作家が加わったが、
 谷崎純一郎、志賀直哉、永井荷風、里見クの四人は参加していない。この四人は戦争協
 力のどの団体にも加わらなかったと舟橋は激賞した。
・ペリー艦隊が浦賀に来てそこに滞在している折り、日本の庶民はこれを珍しがり小船で
 平気で近づいていき、春画を水兵に与えたりしたという。測量に従事しているボートに
 対して、集まった住民は、上陸するように手招きし、まごうかたない身振りをして、わ
 れわれを女たちと交わらせようと誘い、しかも一人の女は着物をまくしあげて身体を見
 せつけるようなことまであえてしたという。これは漁村などではよく知られた性的から
 かいにすぎないと思われるが、アメリカ人たちが真に受けて仰天したのも無理はない。
・江戸時代の庶民は性をしばしまからかいの対象としていたのだ。アメリカ人水兵たちが
 その天真爛漫さに驚き、この国の庶民とは簡単に友だちになるべきか、と疑問に思った
 らしい。性や愛は高貴な感情や教育により上品になるという文明社会に対して、素朴な
 感情の発露である庶民の性の感覚は、ペリー来日の裏面史としてもっと真剣に考えられ
 てもいいかもしれない。
・性を抜きに男女間に友情は存在するのか、いや異性間によき友という関係は成り立つか、
 もとよりそのことは全面的に否定したり肯定したりはできない。ただ鎖国を解いたあと
 の国際社会で、キリスト教国家では、「日本人は愛によって結婚しない」との考えが定
 着したいったのは、何より性的関係によって愛を確かめていく日本人の道徳観が珍しか
 ったからと言えるだろう。
・日本では異性間のよき友とは、性的関係も円滑であるというのが前提と言っていいのか
 もしれない。
・昭和日本の軍隊の一部は、不満の捌け口を下へ下へと暴力で降ろした。将校は下士官を、
 下士官は上等兵を、上等兵は兵士を殴る。殴る相手がいない兵士は、馬に八つ当たりす
 る。そこで馬に傷のある部隊は、大体が制裁が盛んだとすぐに分かるそうだ。友を持て
 ない集団の兵士、それが皇軍の歪みだったのか。
・イタリアの独裁者ムッソリーニは、「私には友人はいません。まず一つには私の気性の
 せいです。そして第二には、私の人間の見方のためです。だから私は親密さと議論を両
 方とも避けます。旧友が訪ねて来ても、会話はわれわれ双方にとって辛いものですので、
 長続きしません」と言ったという。友を持たない人生、それを性格と人生観のためと喝
 破したムッソリーニのこの言は、ファシストたる者の前提だというべきなのか。

機嫌を知るべし・・・生きていくための智慧
・昭和七年五月、新聞や雑誌が競って報じた事件に、「天国に結ぶ恋 坂田山心中」があ
 る。神奈川県大磯町の坂田山にある森林で、慶應義塾の学生と静岡県に住む資産家の娘
 さんが心中した事件である。娘さんはまだ二十一歳、周辺では才色兼備の女性として知
 られていた。
・地元警察は二人の死体が発見された日は仮埋葬しておき、翌日家族を呼んで確かめるこ
 とになった。ところが、当日警察や消防団員がその穴を掘り出すと、娘さんの遺体だけ
 がない。犯人は埋葬に携わっている六十五歳の老人であった。仲間から娘さんが絶世の
 美女だと聞かされ、夜中に密かに掘り出して近くの船小屋まで運び、その顔をながめて
 いたというのである。新聞は屍姦ではないかと騒いだが、検死の結果、娘さんは処女で
 あった。そこからドラマ仕立てになり、映画化されてヒット作となった。
・太平洋戦争は二百四十万人の軍人、兵士、軍属が戦死した。非戦闘員を含めて三百十万
 人というのが国の発表した数字だが、戦傷による戦後の死を含めると、五百万人は超え
 ると私は見ている。
・日本が太平洋戦争の道を選ぶのは、歴史の上では結局は、昭和十六年十月に近衛文麿首
 相から、戦争政策に猛進する東條英機陸相が首相に座った時点で決まっていた。内大臣
 の木戸幸一の説明を受けて、「虎穴にはいらんずば虎児を得ずだね」と天皇は語ったが、
 この案はまったくの誤りだったことになる。実はこのときに近衛周辺を始め、政治家た
 ちはいずれも日米開戦の覚悟を固めていたのであった。
・東條内閣誕生と聞いて、誰もが「市兵衛戦争必至を予知しているとみえて、何かしら妙
 に硬ばった表情をして、沈痛そのもののような口吻に変ったというのだ。真珠湾奇襲攻
 撃から七十六年になり、たとえ同時代史から歴史に、その解釈が移ったとしても、日本
 にとって対米英蘭戦争がまったく向う見ずな思慮の浅い軍事指導者によって行われ、そ
 こには「機嫌を知るべし」の常識的な判断が無視されたことは知っておく必要がある。
・桐生悠々は、昭和の軍事主導体制にもっとも強く抵抗したジャーナリストである。彼の
 抵抗の原点は、明治天皇が発布した「五箇条の御誓文」である。こんな気骨のあるジャ
 ーナリストは、昭和という時代にはまったくといっていいほどいなかった。 
・人間、立つべきときは立て。世のならいなど所詮死の前に無力なのだ。死を超える意思
 とは、機嫌を考えろ、しかしその機嫌とは己の力を掴むべき余裕との教訓につながって
 いると言っていいだろう。

考える葦・・・人間性が試されるとき
・人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦
 である。これを押しつぶすには、全宇宙はなにも武装する必要はない。しかし、宇宙が
 人間を押しつぶしても、人間はなお、殺すものより尊いであろう。人間は、自分が死ぬ
 こと、宇宙が自分よりまさっていることを知っているからである。
・考える葦は、実にちっぽけな存在であるが、しかし自らの存在の意味を知っているがゆ
 えに尊いというのである。つまり愚昧な権力者や指導者は「考える葦」を抑圧するかに
 見えて、実はその人間性を試されているのだ。 
・坂口安吾は戦後に著した「堕落論」で、「実際にあの戦争はなんであったのか。誰が進
 めたのか。人は考える葦ではなく、ただただ歴史の渦に巻き込まれている。この戦争を
 やったのは、東條であり軍部であるか。そうでもあるが、ただしまた、日本を貫く巨大
 な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運
 命に従順な子供であったにすぎない」と書いている。
・日本の政治指導者は、その大義名分のために「天皇」を利用していると安吾は説く。そ
 れは秀吉以来のことで、特別に思想や思考を持つのではなく、悪魔が幼児の如くに神を
 拝むようなものだと指摘するのである。冷静に考えれば戦争などできるわけはない。そ
 れなのに戦争に突入するというのは、どこかに考えることを放棄した姿があったからだ
 という結論だ。

天使と獣・・・性善と性悪のあいだ
・人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使になろうとすると、獣になって
 しまう。
・人間は天使(性善)でも獣(性悪)でもない。だが労働者の天国を造ろうとしたスター
 リンは、まさに獣と化してしまったと言えようか。
・善き人間たろうとする者は自らの無謬を信じて、しばしば人を裏切ったり、残酷な仕打
 ちを厭わないということになろうか。私たちは「天使」でも「獣」でもない。善人とし
 て人々の尊敬を受けようとは思わない。しかし天使を装って、救国の英雄だとか理想的
 な人物などと評される人物を、歴史の中から探し出すことは可能である。
・東條は獣の如く戦争に突入した。アメリカという獣との戦いの後に日本は天使の国にな
 るのだと、天皇にも説いた。しかし、戦時下で東條の言動はすべて性悪や野卑と同義語
 だった。東條の動きは、戦争という動物的世界と戦争に勝つまでの性悪の道を掛け算す
 ると、つまりマイナスとマイナスを掛けるとプラスになるという方程式を追いかけてい
 るようであった。結局どうなったか、獣道を進んだ者は、とうとうそこから抜け出すこ
 とは出来なかった。一瞬たりとも性善になれなかった指導者と言ってもよかった。
・私たちは、自分の人生に、天使や善人の役を果たしてくれる作家、思想家、政治家など
 を何人持ってるかで、人生には幅が出るのではないか。それぞれの人生は、天使を求め、
 獣をいかに遠ざけるか、その闘いと言ってもよいであろう。
・太平洋戦争下で虚偽の代名詞となった「大本営発表」は、陸海軍情報部の将校の無責任
 さに起因していた。ところが将校たちは、戦果を偽りの表現で発表していることに何の
 疑問も感じていなかったのだ。
・ある報道班員は、これ以上真相を発表せよと要求するのは、道を歩く女に裸で歩けと要
 求するようなもので、やはり隠さなければならぬ所もある。それ以上は全部発表してい
 るんだ、と書き残している。負けている戦況をそう発表するならともかく、まったく逆
 のことを発表しているわけだから、大本営発表は無責任そのものだ。
・「大本営発表」は、獣と化した将校たちの暴力だったことになる。撤退を転進、敗北を
 五分五分の戦いにすり替えたりすることで、日本軍の勝利を神聖化していた精神的頽廃
 は、あの戦争のもっとも大きな罪悪だったことになる。 
・戦況が悪化してくると、軍部というのはとにかくユニークな言説を弄して国民に無茶な
 理解を押しつけてくる。B−29が投下する爆弾について、「爆弾は炸裂した瞬間しか
 爆弾ではない。あとは唯の火事ではないか」と書いて、爆弾は怖くないのだと叫んだ。
 その火事を消そうとせず逃げたりするなと、国民を叱った。現実に投下された焼夷弾に
 よって起こる火災はただの火事ではない。これは油が燃え上がったようなものだ。素人
 がどうして消せるだろうか。  
・なぜ日本の軍部は、現実を正確に見なかったのだろう。戦争という獣の世界を、まるで
 天使の所業のように見せかけた罪は、どれほど大きいか。今もまだ、その罪が充分に確
 認されているとは言えない。  
  
臆病者・・・恐怖に心くじける人
・東條英機陸相は昭和十六年に軍内に「戦陣訓」を示達した。捕虜になるな、その死まで
 戦えと、いわば兵士は生きて帰ってはいけないという教えである。そう檄を飛ばした東
 條のせいで、どれだけの兵士が無駄死にしたか。ところが東條である。昭和二十年九月
 にGHQのMPが逮捕に来たとき、ピストル自殺を図って未遂に終わった。自決すると
 きはここにピストルを撃ち込むと、心臓の辺りに○印を付けていたのに失敗している。  
 部下には死を強要し、自らは覚悟が定まらずに生き延びる。やはり臆病将軍と謗られて
 も仕方がないだろう。特攻命令を出して自分は逃げ帰った将軍も、この系譜である。
・勇気のある人物、あるいは気骨のある人物とはどういうタイプを言うのか。私の見ると
 ころ、政治家では石橋湛山ではないかと思う。戦前戦時下には反戦思想を貫いていた。
 その石橋がGHQに占領下で公職追放になったのはなぜか。GHQは石橋が、運部と協
 力したかのような理由を並べ立てて追放したのだ。実際はHQの占領政策に応じず、そ
 の経済政策に楯突いたのが理由だった。 
・大体、戦争をやりたがる人物は、軍事指導者を例にとるまでもなく、実は小心者と言っ
 ていい。ヒトラーやスターリンも実はそうだった。  
・ヒトラーは「空爆を受けた都市」や「前線」にはただの一度も行かない。つまりこの指
 導者は「戦争のおぞましさに自らが直面させられることには耐えられない」のだ。とに
 かく彼は「死が訪れるのを恐れていた」という。こんな小心者だからこそ、いくらでも
 残虐行為を命令できたわけだ。  
・スターリンは、「脅えて騒ぐ者、臆病者はその場で殺さねばならない」といった命令を
 発している。スターリンも決して前線には行かない。
・戦争を主張し実行する指導者は、実は「小心者」、真に勇気のある人物は戦争を防止す
 るのに全力を傾ける。そして「小心者」は決して戦場には出ていかない。
・ベトナム戦争の帰還兵の中には、戦争のトラウマから抜け出せない者が多く、それ自体
 アメリカ社会の問題点である。人は臆病者でありたくないとのトラウマを抱えて生きる
 ことのできない動物である。それに気付いていない鈍感さこそが臆病者の特権と言うべ
 きではないか。   
   
横柄・・・自己の利益のみに忠実なさま
・横柄とは、自分自身以外の他の人びとを軽蔑することである。自己の利益に忠実で、他
 人の事情など知ったことではない、との態度に終始する者、それが横柄な者の特徴だと
 いうわけだ。人類の歴史にあっては、この種のタイプは決して珍しくない。
・戦前の日本社会では、国防婦人会という組織があった。この組織では、それぞれの夫の
 軍隊における階級に基づいて序列が決められていたという。男性社会であるとはいえ、
 それが女性のランク付けに利用されている。男性の横柄を、そのまま女性が引き継ぐよ
 うなバカバカしさだ。しかし、現実には、官界・企業の夫の役職によって夫人の序列も
 定まっているケースは、今も珍しくない。    
・日本社会では横柄な態度をとる輩は、大体が官僚社会の弊害をそのまま表している。今
 も小は町役場から、大は国の行政機構まで横柄なのは、「食後の散歩のおり、お目にか
 かりましょう」という指摘に符節が合う。昼休みに窓口を閉めていた得手勝手さは、そ
 の典型的なケースと言っていいであろう。   
・田中角栄は日本人の心理を逆手にとった有能な心理療法士と言えるのではないか。横柄
 や放漫、それに威張り散らす官僚や政治家に厭き厭きしている国民に、どのような接し
 方がよいのか、それを身を以て示した政治家である。即断即決、そして情に細かいタイ
 プ。そんなエピソードはそれこそ幾つもある。官僚自身だけでなく、その妻の誕生日ま
 で覚えていて贈り物をしたというのだ。   
・社会は人間関係で動くが、その繋がりは文化的価値観を土台にしている。田中の価値観
 は日本的共同体そのもので、理論では田中をやり込める野党の政治家が、しかし田中の
 人情に触れて感謝するという例は枚挙に遑がなかった。
・日本社会では、結局こういった人情噺がもっとも効果があるということだろう。ただし
 よく確かめると、何のことはない、江戸時代から明治にと引き継がれていう浪花節の世
 界だということに気付く。昨今の日本人は浪花節を忘れたのが、社会のギクシャクと関
 係があると言えるかもしれない。   
   
いやがらせ・・・他人を不快にさせて楽しむ
・2016年12月に行われたロシアのプーチン大統領と安倍首相の会談は、みごとなほ
 どプーチンの思惑にはまっている。たとえ平和条約を結んだとしても歯舞諸島、積丹島
 が返ってこないのも明らかとなった。プーチンのいやがらせに、日本の首相はみごとに
 はまったと言える。石橋湛山流に言うなら、プーチンのいやがらせなどと言うなかれ、
 そういうプーチンを見抜けない日本の指導者が悪いんだとなるのではないか。   
・いやがらせを行うタイプの人間は、「露骨で、不作法きわまる悪ふざけ」を得意とする
 のさが、それは幼年期の両親の影響も受けているのではないか。天才、偉人の類でも両
 親の影響からは抜けきれないのではと思えてくる。たとえばヒトラーのケースだ。父の
 アロイスは税官吏だったが、酒飲みで見栄っ張りで暴力崇拝者だったとか。ヒトラーは
 幼年期から激しい暴力を受け、それもステッキとかムチ、ベルトなどで殴られる。とに
 かく一言でも逆らうと暴力を雨あられと受けた。ヒトラーのユダヤ人増悪は父親への憎
 しみに端を発していると見られているそうだ。父親の存在が絶対的で抗することは許さ
 れない。いやがらせと暴力、ヒトラーはまさにそれを受け継いだのである。ヒトラーの
 育つプロセスには笑いがまったくないものも特徴だった。成長する折りに笑いをもたな
 い人物は、いやがらせを得意技とするようになるのか。自戒せねばならない。
・野口英世は三歳のときに誤っていろりに落ち火傷をし、左手の指は開かなくなる。小学
 校時代、それがからかわれた。英世は登校拒否となるが、母親はたとえ笑われても見返
 すほどの人物になれ、いやがらせなど吹き飛ばせと育てるのである。英世によって、こ
 の母親は絶対的な存在になっていく。篤志家の助力を得てアメリカにわたりロックフェ
 ラー研究所で医学研究に没頭し、血清学や梅毒の研究で名を成す。その英世に母屋が、
 もうそろそろアメリカから帰ってきてほしいと、明治四十五年三月に送った手紙は有名
 である。
・英世は十年以上日本に戻っていなかった。この手紙を呼んで涙を流して、一刻も早く帰
 ると返事を書いている。英世は日本人に珍しく自己主張はする。日本人の支援者には迷
 惑をかける、と評判はよくないが、母親の手紙はそういう行動のブレーキ役も果たして
 いた。あれこれ批判はされても英世自身は、意図的にいやがらせをしなかったのは、こ
 の母親の手紙がブレーキ役になっていたのである。   
・昭和史の中で、もしいやがらせのワーストテンというべきアンケートがあったなら、昭
 和五年のロンドン海軍軍縮会議のころに、政友会幹事長だった森恪の飛ばした野次が必
 ず入るであろう。政友会のある代議士が、民政党内閣はこの条約に調印したが、海軍部
 内に反対の声がある。幣原首相兼外相はどう考えるかと尋ねた。すると幣原は、すでに
 陛下もご批准なさっていて、国防を危うくすることはないと答えた。この答弁の折りに
 森は議場から、「幣原、取り消せ、取り消せ」と絶叫した。天皇をまきこむな、軍事に
 口を挟むなという意味だ。政友会の議員たちは一斉に幣原に「取り消せ、取り消せ」と
 詰め寄った。幣原はしぶしぶと、これは政府の責任で行ったと認めて取り消した。これ
 が引き金となって、「統帥権干犯」という語が、軍事勢力の重要な武器となり、やがて
 政治を抑えつけて「軍事主導体制」をつくりあげていったのである。   
・まさに、いやがらせ転じて国をひっくり返すといった状態になったわけだ。考えてみれ
 ば、昭和の軍事主導体制は、軍部のいやがらせの総仕上げという意味をもっていた。し
 かしそのきっかけはなんとも寂しい野党の野次からだったといってもいい。   
   
空とぼけ・・・人を騙す手法の罪
・単純なお題目だけを唱えさせる集団は、日本ではつまるところ陸軍などの軍事組織だけ
 であった。軍人勅論や教育勅論を一字一句誤りなく復唱させ、それができないといって
 リンチを繰り返す。いやとにかくどんな理由をつけてでも殴る蹴るの暴行を続ける。学
 徒兵たちがどれほどいじめられたかの記録はかなり残っている。   
・確かに戦争は厭だと思うが、これだけ軍内で暴行が横行しているうちに、早く戦場にだ
 してくれ、と思うようになるのも無理はない。軍内の上層部はこんな光景には知らぬ顔、
 欲求不満のはけ口にはやむを得ないと空とぼけを決め込んでいたということだろう。
・戦後のアジア各地で、日本軍将兵の捕虜虐待や住民弾圧の具体例がBC級戦争裁判で裁
 かれた。そのときに下級兵士の中には、上級将校や指揮官からの命令で虐殺行為を働い
 た者も多かった。彼らは上官の命令でというと、それぞれの国の検察団は、どこの国で
 も上官の不当な命令には抗する手続きが残されているはずと言って、その弁明は認めら
 れないケースが多かった。日本軍の組織原理は、下級兵士は上級の者にたとえ非人間的
 な命令でも逆らえないのだという現実を持ち出すと、当の上級将校の中には、「不当な
 命令には拒む手続きがあります」と法廷で自らの責任から巧みに逃げる者もあった。  
・思えは昭和は「空とぼけ」がはびこった時代だったといえないか。空とぼけという処世
 を身につけることが生きていくうえでの知恵と考えると、知識人、文化人、芸能人で名
 を成した人は、大体が自らの分野以外には目をつぶって生きてきた。専門バカという語
 が実は「空とぼけ」だったのだ。  
  
善の善なる者・・・戦わずして勝つのが務め
・大正天皇は生来、身体が弱かったせいもあるが、軍事より文系に秀れていてその面の才
 能は専門家を驚かせるものだった。とくに漢詩と和歌は専門家のレベルに達していた。
・江戸期の村落社会では、青年時代に奔放な旅を試みた者が少なくなかったという。自ら
 見聞を志すのである。こうした人たちは老いても「世間師」といわれたそうだ。言葉よ
 りも行動を尊び、自我を貫くタイプである。この世間師は戦争が始まると人夫(労働者)
 になったりもする。そしてこのような連中は、「戦争にいくのが面白くてたまらなかっ
 た」という。   
・幕末の騎兵隊や振武軍には、こういう世間師が「フラフラと入隊」したのだという。奇
 兵隊に入った世間師の中には文字を読めなかった者もいるが、隊の布告などすべて丸暗
 記していたという。この世間師のもとに指令書を持ってきた男がいたが、いかにも字を
 読める風に装っていると、その男が「それはまさかさまです」と教えた。世間師は「お
 まえに見せているのだ」と平然と答えたそうだ。  
・それぞれの時代には、時代の空気がつくる人間像と性格があり、それに合致していると
 その人物の人生は充分に満足できるのだろうが、逆に抗する者には勇気と行動力が必要
 になる。それを持ち合わせない者は、ただ黙々と為政者に従うことになる。
・太平洋戦争を含めての満州事変からの戦死者数は二百三十万人、しかしよくこの数字を
 分析していくと、太平洋戦争末期の昭和十九年から二十年にかけてのわずか一年余りで、
 二百万人近くが戦死した計算になる。実に戦争末期に戦死者は激増したのである。こう
 して亡くなった人たちこそ、「善の善たる者」の人身御供であり、彼らを救えなかった
 という、この国の戦争指導者の無責任さが改めて問われてくる。   
  
微笑の習慣・・・気に入られるための防衛策
・戦争が終わってアメリカ兵を中心に、日本にも占領軍が上陸してきた降りに、日本人の
 中には初めて見るアメリカ兵に愛想笑いをしていらぬ誤解を与える者もいた。男性であ
 ればまだしも女性、それも若い女性であったために性的な事件に及んだというケースも
 あったのだから、政府が笑顔は誤解のもと、毅然としなさい、スキを見せてはいけませ
 んと説いたのもわからぬではない。  
・この愛想笑いとなるか否かは微妙なところだが、日本人が戦後すぐにGHQの最高司令
 官であるダグラス・マッカーサーにどれほど媚態を示す手紙を送ったかを知ると改めて
 驚かされる。推定五十万通に及ぶという。日本全国各地から文字通り老いも若きも、男
 も女も、旧軍人から共産党員までが、思いのたけをこの外来の支配者に書き送ったとい
 う。まさに世界の歴史のなかで、これほど占領者に熱烈に投書を寄せた民族はないとい
 うのも当然だろう。  
・戦争が終わってまだ一カ月もたたないというのに、ここまでマッカーサーに媚びへつら
 うのか、というのが正直な感想である。この心理の底には、戦争に敗れたという現実を
 なんとか次の事態へのバネにしたい、愛想笑いでごまかしていきたいとの計算があるの
 だろう。「マッカーサー様、日本の天皇陛下になってください」といった筋違いの手紙
 もまた多いのだが、この「日本人の微笑」はまさに「野蛮粗暴実に厭ふべきもの」とい
 う素顔を隠すための便法ということになるのだろうか。  
・私たちの国はかくも占領者に弱いといえるが、考えようによれば、このあっけらかんと
 した心理こそ、実は強みなのかもしれない。そのときどきの「支配者」に、へつらい、
 そしてお愛想を言い、なんらかの利益を得ようとする。だからマッカーサー様、あなた
 こそ日本の天皇陛下になってくださいなどと平気で口にできるのだ。  
・昭和の初めの農村恐慌は、単に生活に困窮するといった状態だったのではない。東北地
 方の貧農の家を訪ねると、大抵どの家でも主婦はボロに包まれながら、蒼ざめた元気の
 ない顔をしていたという。いやそれだけではない。頭には煮しめたような手拭いで鉢巻
 をして出てくるのを見て、不思議に思ったという。なぜ頭に手あかのついた手拭いの鉢
 巻をしているのか。ましてや来客に笑顔など見せることはない。取材を進めていくとわ
 かったというのだが、農婦は一様に身体がだるくて、頭が重いといった症状を示す。神
 経衰弱にかかっているためという。農家の主婦はとにかく働かされる。いつも過労だ。
 食物は一家の中でもっとも粗末で、まして凶作となれば口にする量は極端に少なく、た
 とえあっても子供に食物を与える。従って常に栄養不良といった状態だ。そして夜はも
 っとも遅く寝て、朝は誰よりも早く起きる。睡眠不足の状態が続くことになる。
・これに加えて将来への不安、どんな健康体の女性でも精神的にまいってしまう。昭和の
 初めの農村恐慌は、こういう神経衰弱の女性があふれていて、それこそ暗い空気だった。
 しかしこれはなにも農村だけではない。日本人は貧富、老幼、男女を問わずほとんどす
 べてが神経衰弱にかかった状態に陥っていたというのだ。とくに満州事変以後が顕著に
 なる。
・こうした昭和初期の世相を確かめると、日本社会は愛想笑いをする余裕もなく、ひたす
 ら脅えたような表情にかわっていったとわかる。いささか固い表現を用いるなら、ファ
 シズム体制や軍事主導体制というのは、微笑を忘れてしまったあげくの日本人の顔をつ
 くりあげていったのではないかとの感がする。    
・改めて私たちは、他者からあれこれ言われてもとにかく微笑を繰り返す、微笑の表情に
 なれる、というのはそれ自体幸せの証拠ということかもしれない。  
・日本人の微笑は、相手に媚びるためでもあろうが、もう一面でホンネを隠すタテマエと
 いっていいのではないか。そこまで考えていくと、日本人の微笑はまさに文化の領域に
 入っていく事柄だ。
・日本社会に精通していたキリシタン時代のイエズス会の宣教師、ジョアン・リドリーゲ
 スは書の中で、日本人は他者に理解されない表裏の心の持ち主だと言ったあとに、日本
 人は「三つの心」を持っていると世界に紹介している。ひとつは口先のもとで、これは
 偽りで真実ではない。次の親しい友人にだけ示す胸の中の心、そしてもうひとつは、
 「心の奥底いあって、何人にも通じない自分自身だけのもの」というのだ。この第三の
 心は、他者にはなかなかわからない。キリスト教の信仰に入っても、第三の心とどのよ
 うに折り合いをつけるか、つまり信仰の態度がキリスト教国文化圏と異なって、きわめ
 て厳しい信仰になっていくとの特徴があるということだ。   
・幕府のキリスト教弾圧の中で、日本人の信仰者がストイックまでに信仰を守ろうとした
 のは、この第三の心への裏切りが自らに許せないとの審判をしたためであろう。つまり
 このホンネは、日本人の国民性をつくっていったといっていいのである。
・太平洋戦争下、戦況が悪化していくにつれ、日本社会からは笑いは消えた。誰もが苦虫
 を噛み潰したような顔をして、しかし軍事指導者に呼応して、「神風が吹いて勝つ」と
 タテマエを口にした。心の中ではせせら笑いを浮かべながら。
・江戸時代の二百六十年間、日本社会はただの一回も外国と戦争をしていない。国内の戦
 乱もない。戦うべき要員の武士たちはその戦闘意欲を抑制し、たとえば剣術などを剣道
 にかえて道を究めるという文化の次元まで高めていった。この抑制を隠すためのさわや
 かな微笑、それは顔面の形を隠すものではないと私には思えるのだ。江戸時代の庶民の
 笑いと明治以後の近現代の日本人の笑いの違い、その差を見つめることで私たちはこの
 国の文化の特性を確認できるのかもしれない。   
  
人の燥もかくてこそ・・・一人になっても、見事に生きる
・近代日本の歴史は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、そし
 て太平洋戦争といわば戦争の歴史ともいえた。もともと日本人の大半である農民は、戦
 争とは縁遠い状態だったのだが、こうした戦争を通じて戦争の何たるかを知っていたよ
 うに思える。折り折りの権力者は、国民を戦争に送り出すために多くの戦場美談をつく
 りあげた。
・忠義とか操を立てるとか、とにかく私たちはこういう語に魅かれる体質を持っている。
 私自身、それを隠そうと思わない。日ごろからもし私があの太平洋戦争の時代に生きて
 いたら、特攻を志願したかもしれないとの思いはある。自分の中にそういう性格がある
 と自覚している。だから私は特攻のシステムをつくり、この作戦を命じた上級指導者は
 徹底批判するけれど、特攻隊のパイロットたちは批判しないことにしている。  
・日本の農村では「夜ばい」、地方によっては「ヨバヒ」などという制度があった。柳田
 國男がまとめた「婚姻の話」では、年ごろの娘の家に夜分に若者たちが公然と訪ねるの
 をヨバヒといったりしたそうだ。娘のいる家でも、目的はわかっているから何の用かな
 どとは尋ねない。なるだけ多勢で来てくれたほうがいいし、若者たちが長くいることを
 望むのだという。つまり地方によっては、夜ばいが婚姻への道だった。
・江戸時代のすべての農村共同体がそうだったというわけではないが、こうした形の「婚
 姻」は、妻が夫に忠誠を誓う、操を立てるという前に、かなり自由な形での婚姻があっ
 たということだろう。夜ばいというのは、まず自由恋愛、そして相手が決まってからは
 お互いに操を立てるという形を採ったのだ。なんとも現実的というか、人間的というべ
 きか、私はこういうしたたかさは日本人のきわめて常識的なモラルだったのだろうと思
 う。   
・近代日本になって、とくに軍隊では、忠誠の対象を「天皇」にしぼりこんだわけだが、
 それは忠誠を誓う対象をもっていない農村共同体を意識してのことだったのかもしれな
 い。近代日本の軍事指導者は、農村兵士をいかに戦闘要員に変えるかに忙殺されたわけ
 だが、それはつまり天皇への忠誠を執拗に繰り返さなければならなかった理由かもしれ
 ない。  
・2018年1月に自裁死した著述家の西部邁について語っておきたい。西部が自裁死を
 選んだあと、メディアは「保守派の論客」とか「朝まで生テレビの異能の言論人」とい
 った枠組みで語っていたが、私はそうは思わない。西部は現在の時代の枠を超えたとこ
 ろに存在した。西部は近代主義者であると同時に、「近代」の批判を徹底して行った。
 あえていえば西部は、現代が受け入れない自らの感性と理念に対して操を守って逝った
 というべきなのである。それゆえ私は西部の死は近代の「知識人の自裁死」であり、近
 代の学問への殉死とみるのである。  
  
人性の正しい姿・・・真実の人間に出会うとき
・人間の、また人生の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと
 言う、要はただそれだけのことだ。  
・悪口を言われて腹を立てない、動じない、そんな男は「腹黒い」と言われるが、本当は
 こちらこそ人間らしい人間ではないか。社会は「腹黒い」人間が動かしているのだ。
・今いちど、そのどん底まで身をかがませることにより、私たちは人間の本質に気づかさ
 れるのである。坂口安吾は、日本人にむかって真に堕落することにより、私たちはやっ
 と本物にめぐりあえると言いたかったのだろう。   
・昭和十六年十二月八日、日本軍は真珠湾攻撃を行って、対米英との間でのるかそるかの
 戦争を始めた。なぜこんな戦争を始めたのか、アメリカに物量差で負けるのにといった
 論を振り回す限り、私たちは堕落すまいと考え続けているにすぎない。  
・この戦争の一カ月前に日本のレコード各社は、陸軍のしかるべき機関からの圧力もあっ
 たのだろうが、どんでもない歌をつくって国民に聞かせている。戦争になって「敵」機
 から、爆弾を落とされる事態になったら、逃げも隠れもせず、そう、つまり防空壕など
 に入らずに「爆弾を手で受けよ」という歌だ。上原敏、田端義夫など当時の流行歌手た
 ちは、「怖がることはない。爆弾位手で受けよ」と歌わされている。この歌手たちの何
 人かは戦死している。こんな時代の「健全なる道義」というお粗末さは何だったのか。
・峠三吉の詩に、「炎の季節」という、やはり被爆体験を語った詩がある。この詩の中に
 ある「おれたち、ヒロシマ族の網膜」との表現に、私たちは愕然とする。ヒロシマ族の
 網膜に焼きついた人類初の恐怖の光景、それを自覚できないのなら、私たちは被爆国な
 どという言い方はしないほうがいいのまもしれない。今、近代日本の歴史をなにかと美
 化したがる向きもあるが、それはかつての時代の「歪んだ道義」へのノスタルジーその
 ものであり、安吾流にいうなら、真実からは遠ざかるということだろう。 
  
露落ちて花残れり・・・はかない人生の残り香
・日中戦争と太平洋戦争が始まるまでの四年余の間、日本社会は戦争を妄想で捉えていた。
 実際の戦闘は中国で行われていて、日本国内にはその実態はわからない。それをいいこ
 とに、軍部は国民に戦争の幻想をふりまいていたことになる。  
・軍部や内務省は戦時に関わる法律を議会につくらせ、そしてもし日本が「敵」から爆弾
 を受けることになったら、決して逃げてはいかないと国民に命じた。昭和十四年に刊行
 された「国民防空読本」には、わが国の防空の基本方針は、「原則として避難も認めな
 いこととなっている」と冒頭に書かれている。この方針によってどれだけ多くの人が、
 太平洋戦争で犠牲になったか、は定かでない。  
・焼けただれる家屋の消火に努めよ、それが無理なら家屋とともに運命を共にせよ、とい
 うのだ。むろんこんなことを守っていたら、日中戦争・太平洋戦争が終わった段階で、
 国民の多くは焼死していたはずだ。しかし実際にはそうはならなかった。法律亜通達を
 破ることが「生存の唯一の条件」だったからである。日本社会の”無理が通れば道理が
 引っ込む”というケースである。  
・戦時下の軍隊にあっては、兵舎が「栖」となる。といってもこの栖は拘禁、隔離されて
 自由を失った人間集団の住み家である。こうした環境が長く続けば続くほど、「拘禁性
 精神異常状態」になる。悪いことにこういう症状は古参兵や下士官にみられる。すると
 どうなるか。ある軍医の著した書によると、兵舎内での私的リンチが横行することにな
 る。部下に言いがかりをつけてリンチを繰り返す。その結果、気の弱い兵士は自殺した
 り、逃亡したりする。その軍医は、「こうしてあたら命を失った青年たちが、戦死とさ
 れている事実、日本軍はそうした面のケアがまったく考えられなかった軍事組織です」
 と証言している。  
・時間は刻一刻と流れていく。歴史は積み重なっていく。人の生きる時間などほんのわず
 かだ。その無常感の中で、私たちは何を学び、何を得るのか。いかなる存在として、自
 分を認識し、そして亡くなっていくのか。私一人が亡くなっても、私の住んだ空間は時
 間の中にある。  
・金持ちの家は雨戸を閉めただえで灯りは外に洩れない。しかし貧しき家は雨戸もなく、
 新聞紙などで覆って灯りが外に洩れないようにしている。防空演習の日は、窓から光が
 洩れないようにせよ、と言われても貧しい家はなかなかそれができないというのだ。  
・中世に義経伝説があるように、近代日本には西郷伝説がある。明治十年に西南の役で、
 その命を閉じた西郷隆盛は、実は死んではいない、というのである。西郷が自決したの
 は九月二十四日だが、このころは火星がsれこそ百五十年ぶりに近づくといわれていた。  
 そこで人びとは、夜空にひときわ目をひく星に西郷星と名づけた。この星には、兎なら
 ぬ軍服を見につけた西郷さんが見えるとの噂も広まり、人びとは屋根に登ってその星を
 探したというのだ。 
・こうした西郷伝説の背景には、明治政府が進める新しい政策に反発する人びとの願望が
 あったということだろう。もし西郷が生きていたら、こんな時代にはならないはず、と
 いうのが、庶民の側にあった。
・西郷にとって、「栖」とは「星」だったのか。その栖で軍服を着て黙想するその様こそ、
 庶民の願望だったのか。私たちは心の底である人物に、何かを期待するときに、栖で黙
 想する姿を想定しているのかもしれない。むろん今はこうした人物の伝説はつくられな
 い。  
  
無色界・・・凡夫の苦しみを克服する  
・私はことさらに死刑囚がどういう心理で死を受容するのか、その視点で幾つかの手記や
 看守などの一文に接してきたのだが、確かにそこには不思議なほど無色透明な世界があ
 るようなのだ。  
・昭和三十年代に名古屋刑務所の看守だった人物の手記「私は見た決定的体験」では、毎
 朝の死刑囚のおびえは想像以上のことだという。執行はその日に通知があり、そして午
 前中の行われるからである。あるときこの看守は、朝の九時に死刑囚の一人に用事を伝
 えるために、独房に行ったという。独房のとびらを開いた途端、がく然、彼は顔色を失
 った。真っ青な顔、ふるえている唇、そのくちびるから、「わ、わたしですか!?」と
 ダメをおした。その死刑囚は小便に行かせてくれというので、便所に連れていくと、一
 分間、二分間・・・容易に粗油弁は出そうにない。しまいには、きばっている様子がよ
 くわかる。けれども最後まで、一滴すら落ちなかった。人は恐怖で緊張すると、そのよ
 うな状態になるというのだ。
・こうした状態をのりこえてやがて無色界の世界に入っていく。それには教誨師の説法が
 手助けになるともいえるが、なにより本人の心構えが一定の恐怖の期間がすぎるとその
 心境に達するというのだろう。死刑廃止論者はこの残酷さを指摘して「死刑反対」とい
 うのだが、私は何か腑に落ちないのは、こうした犯人たちがごくふつうに生きている人
 たちを殺めたという事実を忘れているのではいかと思えてならないのだ。  
・殺められた人たちは、死のその瞬間にどれほどの恐怖を味わったのか。その恐怖を想像
 すれば、死刑囚が応分の恐怖を味わうのは当然ではないかと私には思えるのだ。  
・これはもう三十年近く前になるが、ある有名な高僧が、癌患者に対して、心を落ち着か
 せる説法を繰り返していることで知られていた。「生は死であり、死は生である」とい
 うわけだが、この説法を聞いた癌患者は余生の心を落ち着かせて逝ったという。あると
 きこの高僧自身が、病院で検査を受け、癌であることがわかった。そのとたんに取り乱
 したその高僧は、窓に向かって走り、飛び降り自殺を図ろうとしたという。このエピゾ
 ードはしばらくの間、医療の世界でも有名だったというのだ。欲界や色界を離れ無色界
 に入って、癌の治療と向かい合いなさいと説いているその当人が、欲界に身を置いてい
 たのだが、実は無色界に解脱するのは難しいといった意味にもなる。 
・東條英機という首相兼陸相、そして一時期は参謀総長も務め、太平洋戦争を一直線に進
 めた軍人は、昭和十六年一月に軍内に「戦陣訓」を示達した。有名な一節は、捕虜にな
 るなら死ね、死ぬことで家門や郷党の面目を守るというのである。東條の名によって出
 された「戦陣訓」により、将校や兵士がどれほど意味のない形で死んで行ったか、太平
 洋戦争の内実を調べると怒りがわいてくるほどだ。  
・その東條が昭和二十年九月十一日に、逮捕に訪れたGHQの職員を前にピストル自殺を
 図っている。その場を目撃した新聞記者の証言によるなら、この自殺は心臓を外れたた
 めに、死には至らなかった。うめき声をあげながら、新聞記者に「何か言いたいことが
 あったら言いなさい」と促され、「一発で死にたかった」と洩らしたという。「切腹は
 考えたが、ともすれば間違いがある」と口走ったともいう。  
・ここで問題なのは、全陸軍の将校や兵士に陸相として、「捕虜になるくらいなら死ね」
 と命じていた本人がこんななさけない姿になったことだ。この事実は、実は昭和陸軍の
 姿をよく物語っている。上級指揮官は自分の命の保証しか考えておらず、兵士をどれほ
 ど死地に連れ出して戦死させようが、「天皇の命令」といって責任逃れをするわけであ
 る。逆に上級指揮官自身がかつてのプロイセンの軍隊のように率先して死地に赴き、真
 っ先に死を受け入れていたケースなどと比べると、恐るべき「人間の退廃」ということ
 にならないか。  
・日本社会はもともと武将は責任をとるのが道徳律だったのに、昭和陸軍はそれとは逆の
 形になっている。こういう軍隊が永続性をもったら、国民は不孝という以外にない。  
・自らの論を正しいと言い、他者の論を誤りといって排撃するのは、欲界に生きる者のご
 くあたりまえの姿である。それなのに無色界の伝道師よろしく彼等なりの理非曲直を説
 く姿は疎ましい。心が乱れているのだ。
 
飛蛙の音・・・悪しき社会現象への反撥か   
・俳人の金子兜太は、昭和十九年三月にトラック島に配属された。米軍の空襲で多数の戦
 艦、飛行機が破壊され、死者も相次ぐ。そんな折り手榴弾の試作品がつくられた。さっ
 そく実験である。むろん死者がでるのは覚悟の上での実験だ。一番身分の低い工員に実
 験させた。手榴弾は手元で爆発し、行員は右手が吹き飛び、背中がえぐられて肉の運河
 ができた。即死だった。
・彼を実験材料にして見守っていた将校や兵士のうち一人が彼を背負って走り出した。そ
 れに促されるように他の者も走った。とにかく誰もが何か怒鳴りながら海軍病院に走っ
 た。その怒鳴り声とは、「わっよいわっしょい」だったという。いけにえにされた工員
 を抱えながら、わっしょいをなんども叫びながら走り続ける。   
・私がこれまで会ってきた兵士(学徒兵)の一人は、この満州事変は彼が小学校六年生の
 ころに起こったが、「日本が盗っ人か、乞食になるかの分れ目だった」と教師や周辺の
 大人たちから聞かされたと証言していた。どういうことかというと、勝手によその土地
 である満州に入って行くのはおかしいとの小学生の質問に、大人たちは日本は七千万人
 もの日本人が住むにしては狭すぎる。だから生きていく地域を拡大するのは当然の権利
 だ。それは一見盗っ人のように見えるけれど、そうしなければ日本は生きていけない国
 家、というのであった。「古事記よりは盗っ人のほうがましだろう・・・」が合言葉だ
 ったのだ。
・北朝鮮からの脱北者を取材したことのある作家から聞いたことがあるのだが、北朝鮮の
 人びと(とくに知識人層)は、韓国、日本、アメリカを初めとする民主主義体制の人び
 とに、「あなたたちは大変だね。何人ももの指導者に心身をささげるんですものね」と
 いわれるという。これはどういうことかというと、何人もの指導者に意を用いるのは時
 間のムダで、われわれはたった一人の指導者に忠識を誓い、あとは何も気にしなくてい
 いというのは、それはそれで楽だというのであった。  
  
百代の過客・・・悠久の時の一瞬を生きる
・第二次大戦下のヨーロッパの知識人の間で、有名な言い伝えがあったという。「いかに
 生くべきかを知りたければギリシアに行け。いかに死ぬべきかを知りたければ日本に行
 け」。ここでいうギリシアは、むろん都市国家として栄えた時代を指している。そして
 日本は、玉砕や特攻という戦術を平気で国家の戦争を形態に組み込む、その非人間的空
 間を指していたのである。  
・特攻作戦を命じた指導層はなぜ自決して責任をとらなかったのだろうか。戦争とはいえ
 「人の道」から外れたこういう指導者には自決して特攻隊員に殉ずる以外に道はない。  
 なぜそうしなかったのか。のみならずそういう人物に限って、「我々は天皇陛下のため
 に戦った」などと言い逃れを繰り返している。 
・これは未だに史料は明らかになっていないので、想像の領域になるのだが、太平洋戦争
 下、アメリカ軍の捕虜になった日本兵は、戦後釈放されて日本に帰るとき、大体が「捕
 虜になったので故郷に帰れないのではないか。それなら名を変え、誕生地なども変えて
 帰ったらどうか」と勧められたという。その多くは日本では戦死扱いとなっているのだ
 から、帰国しても以前の生活に戻れるか、それが不安だという日本軍兵士はかなり多か
 ったのだ。実際に氏名も本籍も変え、日本国内の別の地で過ごした者もまた少なくない。
 そのまま一生を終えたなら、死の床で妻から、本当はあんたは誰なのか」と尋ねられた
 ケースもあるように思う。 
・社会の大多数は並みの人が占める。並みの人の投票が政治家を議会へと送り、そこから
 総理が選出されるのである。もし、社会が極度な緊張状態にあり、多くの人々が好戦的
 な考えを持つようになったときには、強硬で好戦的な政治家を選ぶことになる。  
・私たちは「今」を生きているが、しかしその心中では何かを求めている。神か、お金か、
 愛情か、あるいは熱狂か、静寂か。
  
あとがき
・老いは悟りにも通じる。青年期なら人の醜悪さを見るたびに、妙に潔癖な感情を持つの
 だが、老いてくればどんな事象や言動に出会っても、「所詮、人間はそういうものだ」
 とつぶやくことになる。  
・私たちは日々、欲望や計算、さらには狡知などと共に過ごしているのであり、たとえ人
 格陶冶に努めたにしても、それほど簡単にこういう心理を克服なぞできようはずがない
 のである。そのことを知っておくことも重要である。