<愛国心>に気をつけろ!鈴木邦男

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この本の筆者である鈴木邦男氏は、元右翼団体のリーダーだった人だ。福島県郡山市に生
まれ、仙台で高校生活を送った。それまでは、ひたすら勉学に励む真面目な学生だったよ
うだ。そして早稲田大学に入学し、母親の関係から当時の「生長の家」の入寮した。この
「生長の家」での生活が彼を右翼の世界に引き込んだようだ。彼は全力で右翼学生運動に
取り組んだようだ。そして、この「生長の家」こそが、今の安倍政権内にいる多くの閣僚
たちが関係していると言われる「日本会議」の前身と言われている愛国思想が濃厚な新興
宗教団体である。
バリバリの右翼のリーダーで改憲派だった彼が、右翼学生時代にやっていたことと似たこ
とが、今の政治の中で行われていると言っている。「諸悪の根源 日本国憲法」というス
ローガンのもとに行われいた右翼学生の運動が、そのまま安倍政権の下で「スローガン化
した政治」が行われていると。そして、筆者は、安倍政権下での憲法改正には反対だと強
く主張している。それは彼だからこそ、今の政権の危険性を強く感じ取っているからでは
ないかと思える。
この本を手にした当初、日の丸の旗を打ち振らして街宣車が連なって行進するあの右翼団
体の元リーダーの書いた本ということで、おっかなびっくりに開いたが、内容を読み進め
るうちに、なんと至極真っ当な考えの持ち主ではないかと、とても驚き、そして感動した。
そういうお前は、もしかしたら右翼ではないかと言われそうだが、私は決して右翼ではな
いし、左翼でもない、ただの不良おやじであることを、誤解されないように、ここに明言
しておく。そうしないと共謀罪法案が成立したら、公安警察の監視対象にされる危険性が
ある。いやはや、怖い世の中になってきたものだ。

美しいが、毒ももつ<愛国心>
・愛はすばらしい。他人を愛する。家族を愛する。近所の人、学校の友だちを愛する。国
 を愛するということも、その延長線上にある。だから、<愛国心>だってすばらしいし、
 <愛国心>をもつことも当然のことだ。でも、この言葉は利用されやすい。「愛」と言
 いながら、その反対の「増悪」や「排除」に使われたりする。<愛国心>は人間として
 自然で、当然の感情であるはずなのに、為政者などに利用され、エスカレートする危険
 性がある。外国への憎しみを煽って、外国人を排除し、戦争を賛美する道具にもなって
 しまう。国をとりまく環境が不安定になると、「愛国心があるなら、国を守るために戦
 争も辞さずの覚悟をもて!」などと言われる。
・他国の人を傷つけるような言動をしても、また、そうした行為が少々暴走してしまって
 も、<愛国心>という言葉で正当化される。批判すると「日本を愛していないのか?」
 「日本がどうなってもいいのか?」などとも言われる。こう言われてしまうと、誰も反
 対できない。反対できないから、その言葉は力をもつ。あらゆることが許され、認めら
 れてしまう。 
・少しでも疑問に思ったり、異議を呈してりすれば、すぐに「売国奴」「非国民」という
 罵声が浴びせられる。疑問や批判に対して、「ここがおかしい」と議論するのではなく、
 その人間の存在自体が総体として否定されるのだ。人間を排除し”抹殺”してしまう行
 為も、<愛国心>のもとに、よいおととされる。「愛国無罪」だ。
・考えて見ると変だ。愛を説きながら、憎しみや排除が暴走する。なぜこんな逆転現象が
 起きているのか。いや、逆転現象だと、多くの人たちは思っていないのだろう。
・僕は高校生の頃から、<愛国心>に目覚め、「愛国運動」をしてきた。もう50年以上
 も運動している。何の疑問ももたずにやってきた。自分が生まれ生活をしているこの国
 を愛し、守るのは当然だ、常識だ、と思い、「愛国運動」を闘ってきた。この国に関す
 る本も読みあさった。それに、「愛国運動」のために、何度も逮捕された。だから、自
 分こそが「愛国者」だ、という自負はある。
・<愛国心>はもっているだけではダメだ。それについての理論を知っているだけではダ
 メだ。実践が伴わなければならない。そう思って実践してきた。ひとりよがりの点もあ
 ったかもしれないが、自分としては純粋に、真面目にやってきたつもりだ。リスクも冒
 したし、徹底的にやってきた「愛国者」としてのノルマは完全に果たしたつもりだ。だ
 が、最近、奇妙な現象が起きている。完璧な「愛国者」だと自負していた僕が、同じ
 「愛国者」たちから批判されている。「鈴木は愛国者ではない。非国民だ!売国奴だ!」
 と。「昔は右翼の学生運動をしていたかもしれないが、いまは転向して左翼になってい
 る」「裏切り者だ!」などと言われている。自分では何も変わっていないし、ずっと一
 貫したことを言い、一貫した運動をやってきたつもりだ。それなのに「変わった」「堕
 落した」「転向した」と言われる。おかしな話だ。
・いまは「愛国者」たちにとって、時代の風が有利に吹いている。安倍晋三首相も「日本
 を取り戻す」と宣言している。隣国と協調するよりも、日本の権益を堂々と主張しよう
 という。そして、戦後、アメリカに押しつけられた憲法改正し、自主憲法をもつことを
 目指すと公言している。こんな首相は初めてだ。自分たちの時代が来た。この機会を逃
 してはならない。「愛国者」たちはそう思っているだろう。
・安倍政権を支える人たちの中には、僕の学生時代の仲間たちもいる。学生のころ僕らに
 とって、憲法改正おそが念願だった。それが、いままさに実現できそうだ。そう彼らは
 思っている。かつては、左翼が強いから絶対に無理だと思われていた。しかし、いまは
 強い力を持っていた左翼はいない。憲法改正という”奇跡”が起きようとしている。
・いま、日本の右派・保守派といわれる人たちは時代が大きく変わったと感じている。敗
 戦コンプレックスに陥って「自虐史観」にとらわれた時代から脱却し、自主自立の日本
 になろうとしている。「日本を取り戻す」という実感をもっているのだろう。
・僕は、この大きな波を警戒している。危険だと思って、反対している。現在の<愛国心>
 のありように疑問をもち、安保法制にも反対し、さらには「いまは憲法改正は危険だ」
 などと僕は発言している。
・本当は、「愛」も<愛国心>も一つではないのではないか。人によって、表現方法も行
 動もかなり変わってくるのではないか。猫かわりがりのような愛もあり、相手の主体性
 を認めた上での愛もあり、時には相手を束縛し、強制する愛もある。いや、相手を束縛
 し、強制するようなのは本当の愛ではない、と言われるかもしれない。しかし、愛は激
 しければ激しいほど、相手を束縛し、強制するおとも多い。
・相手を嫌うという感情なら、まだマシなのかもしれない。相手を避ければすむだけのこ
 とだ。ところが、愛の場合はそうはいかない。黙ってはいられなくなる。相手に自分の
 思いを気づかせなくてはならないと思う。そして、どんどん突き進んでいくと、自分の
 愛だけが純粋で正しいと思い込んでしまう。そのうち、愛しているはずの相手の心や事
 情などよりも、激しく愛を抱いている主体である自分のほうが大事になってくる。相手
 から困惑され、逃げられようともおかまいなし。客観的な判断もできなくなる。純粋な
 愛に従って突き進む。その愛で、彼女を約尽してもかまわない。
・似ていないだろうか。愛国を叫び、在日の人たちなどをターゲットとして「日本から出
 ていけ!」「死ね!」などと叫ぶヘイトスピーチ・デモをする人たちに。日本を愛して
 いるから、行動しているんだ、と彼らはいう。しかし、これは愛とはいえない。在日の
 人たちや、韓国や中国などに対する反発と憎しみでしか語れない<愛国心>など、おか
 しい。本当の<愛国心>ではない。
・自分の日本のこんなところが好きだ、こんなところに惹かれる、ということを謙虚に心
 の中で思う。それが、あるべき<愛国心>だろう。そのうえで、生活し、行動すべきだ
 ろう。それなのに、あまりに言挙げしすぎていないか。「俺はこんなに愛している」と
 大声で言うのは、かなり恥ずかしいことだ。それどころか、「自分は「愛国者」だが、
 あいつは違う、国のことを思っていない」などと批判し、さらには隣人への憎しみを煽
 る。憎しみでしか、愛を語れないとしたら、本当の愛とは言えないだろう。
・僕が通っていた高校は、ミッションスクールで、やけに厳しい学校だった。日米安保条
 約をめぐって東京では大きな騒ぎになっていることは知っていた。しかし、仙台の高校
 だったし、そうした騒動については、あまり聞こえてこなかった。仙台でも安保反対の
 運動が少しはあったかもしれないが、まったく関心をもたなかった。政治のことなどま
 ったくわからなかった。それよりも、大学に入って自由になれることだけを願って、自
 分の勉強にばかり集中していた。言うなれば、自分のことしか考えない利己的な高校生
 だった。  
・その後、いろいろなきっかけがあって右翼運動に進むことになる。「国を愛すること」
 を突きつめると、「人を殺すことになる」のかと。そんなことはない、と思いながらも、
 「愛国」が往々にして排外主義やテロに走ることがあることに気がつく。何度も、そん
 な場面を見てきた。大衆運動がうまくいかないと思い、自分の言論活動にも展望がない
 と思い、絶望的な気持ちになる。そんなとき、ふと思うのだ。そうだ、自分も「愛国者」
 だ。だったら、国のために命をかけるべきだ。国のためにならない人間を取り除く、自
 分もその場で自決すべきだ。もう、これしかない。これは狂気であり、妄想なのだが、
 何やら甘い誘惑のようでもある。いつまでも無力な老人として生きながらえるよりも、
 思い切っていまを捨てて行動に移る。肉体的な命はそこで終わったとしても、この日本
 国の中心で一体となって自分は生きるのだ。不死だ。そんな夢想をすることもある。そ
 してハッと我に返り、「いけない。何を考えているんだ」と自分で自分を叱りつける。
・僕は自らを振り返って、<愛国心}の危うさ、愛がゆえの暴走が起きることを実感して
 いる。だから、気をつけなければならないし、謙虚でなければいけない、と心底から思
 っている。そして、いまの時代の危険性を感じる。
・<愛国心>は美しい花だ。しかし毒をももっている。そのためなら死んでもいいと思わ
 せる。至上の愛だ。最上のストーカー行為だ。愛の対象であるはずの「国」が、どう思
 っているのかなどは考えない。
・ヘイトスピーチ・デモは、何本もの「日の丸」が打ち振られている。その光景を見るた
 びに思う。「日の丸」が泣いているのでは、と。寛容で自由な国民の象徴であるべきな
 のに、排外主義の先頭に立たされている。
・愛はすばらしいし、美しい。しかし、時として暴走ずる。<愛国心>もそうだ。特に
 「愛国者」が集まり、「愛国運動」を起こすと、急にエスカレートし、他人の迷惑を考
 えないことが起きやすい。また、運動している人間を甘美に駆り立てる。この気分の中
 で、死んでもいいと思わせる魔力もある。この気分は、生命を軽く考えることにつなが
 る。自分の生命だけでなく、他人の生命をも軽く考える。俺だって生命をかけているん
 だから、となる。     
・政治がうまく機能していない、世の中がよくならない。民主主義社会の中での問題は、
 言論活動によって解決していくべきなのだが、言論活動が力を発揮できていない、と絶
 望しはじめると、「愛国」の誘いは甘美に映る。言論活動など無駄だ。「愛国」にもと
 づいた行動ならば、どんなことでも許される。そう錯覚してしまう。
     
スローガン化した政治の危うさ
・僕は改憲派だ。今でもそうだ。だが、今の右傾化ムードの中で急に改憲するのは危ない
 と思っている。日本の状況がよくないこと、日本が閉塞していることなど、その原因は
 なんでも憲法のせいにする風潮がある。「押しつけられた憲法」「憲法さえ変えれば日
 本はよくなる」。そんな空気がエスカレートしつつある。
・日本国憲法は、長い間、「左右激突」の道具にされてきた感がある。憲法そのものが、
 冷静に客観的に論じられたことが少なかった。左翼の人たちは言う。「平和憲法さえ守
 っていれば、大丈夫。少しでもいじったら、改悪になる。戦争が起きる」と。右翼の人
 たちは言う。「これは日本が占領中にアメリカから押しつけられた憲法だ。日本人が自
 主的につくったものではない。改正すべきだ」と。だから、議論はかみ合わない。もち
 ろん、僕は後者の立場だった。
・1963年、早稲田大学に入学する時、僕は赤坂の乃木坂にある「生長の家」学生道場
 に入った。ただの寮で、行事も自由参加だと聞いてきたが、実際は違った。とても厳し
 い道場で、行事は強制参加だった。「生長の家」は愛国思想を基調とした新興宗教団体
 で、僕が小さい時に母が入信していた。当時、僕のような田舎から出てきた学生は、親
 類の家に居候するか、あるいは県人会などの寮に入るか、ぐらいしか選択肢はなかった。
 自分でアパートを探して住むなんてことはなかった。早稲田に入ったのが嬉しくて、ど
 こに住もうとどうでもいいと思っていた。ところが、「生長の家」は厳しいところだっ
 た。
・「生長の家」を創設した谷口雅春先生も強烈な「愛国者」だった。宗教者である以前に
 「愛国者」だった。谷口先生はこんな話をしていた。「60年安保は何とか乗り切った
 が、まだまだ騒ぎは続いており、革命の恐怖も去っていない。革命が起きたら、日本の
 伝統・文化は否定される。天皇制も否定される」。また、こうも言っていた。「宗教の
 本来の役割は個人の命を救い、個人の悩みを解いてやることだ。しかし、いまは国家が
 危篤状態にある。国家をよみがえらせるために立ちあげれ」。
・道場長は「生長の家」本部から派遣されてきた先生だ。道場長は戦争中、海軍にいた。
 軍艦の艦長だった。赴任していた町の話や、特攻隊についても話した。谷口先生と同じ
 く「いまは危機の時代だ。君たちは国を守るために立ち上がるべきだ」といった話を毎
 朝、聞かされた。そして、僕らも自分たちは特攻隊のように身体をかけて闘おうと思っ
 ていた。  
・1960年代は圧倒的に左翼が強かった。大学でも全共闘の天下だった。右派はほとん
 どいない。「愛国」や「天皇制の擁護」「改憲」などを主張する学生はほとんどいない。
 右派は、憲法については、ほとんどが改憲派だった。つまり、占領軍に押しつけられた
 憲法を改めるという考えが主流だ。でも、それは、現在の憲法を憲法として認め、その
 うえで改憲するということだ。これに対して、おかしいのではないか、という人が少数
 ながらいた。谷口先生もそうだった。
・冬の間に雪が降っていくら積もろうと、時間がたつと雪が溶けて地面があらわれる。雪
 とは、現在の憲法だ。日本がアメリカに押しつけられたものだ。改憲というならば、明
 治憲法をもとにして改めたらいい。部分的に改めるにせよ、全面的に改めるにせよ、明
 治憲法をもとにしてやるべきだ。これは憲法上の論理としては一番筋が通っていると、
 当時、僕は思っていた。
・当時、右派の人たちは主に「改憲」を主張していた。しかし、ごく一部だが、「明治憲
 法復元」を主張しる人たちがいた。だが、この二つの主張は、互いに相容れず、相互に
 批判し合っていた。改憲はは言う。「復憲などと突飛なことをいうから、我々改憲派も
 誤解される。そんなことを言うから、ますます改憲が遠のいてしまう」と。
・このように、「復憲」や「改憲」など、右派には主張の違いはあったが、当時、僕たち
 は 「諸悪の根源 日本国憲法」などというスローガンを掲げて運動していた。問題に
 すべきは、現憲法のどこがどうまちがっているかという部分的なことなどではない。ア
 メリカから押しつけられた憲法なので、根本的に間違っている。全面的な改正が必要だ。
 そして、日本の世の中の問題は、すべてこの憲法のせいだ、というわけだ。これなら、
 「復憲」と「改憲」の違いも乗り越えられる。しかし、かなり強引だし、無理もある。
 決めつけるのも甚だしい。でも、当時は、自信をもって主張していた。
・犯罪が多いのも、経済がよくならないのも、親子の関係がうまくいかないのも、すべて
 憲法のせいだ、とも言っていた。それらには、一つ一つ自分たちなりの「理屈」や「理
 由」があった。現在の憲法は、再び日本が強い国になってアメリカに戦いを挑まないよ
 うに、アメリカがつくったものだ。そう思い込んでいた。日本の歴史に誇りを持てって
 はならない。伝統・文化を教えてはならない。家族の絆もできるだけ断ち切る。そのた
 めに子どもたちの自主性を尊重させ、親に反抗させる。結婚にも親の承認は必要ない。
 だが、これでは必ず親子げんかになる。あえて、そうなることを期待して、この憲法は
 つくられたのだ。日本を弱体化させるためにつくられたものであって、いま起きている
 不幸なことや犯罪などは、すべて憲法に起因するのだ。そんな「理屈」を当然のことと
 思い込んでいた。     
・人々に訴え、人々を動員しようとするとき、あれこれ言うよりも「こいつが敵だ!」と
 断定したほうが成功する。「これこそが、すべての悪の原因、元凶だ」と言ったほうが
 わかりやすい。運動として盛り上げるし、人を動員しやすい。問題にを簡単にまとめ、
 ターゲットを一つにしぼり、そこに憎しみや反発を集中させる。人を煽ることで、運動
 を盛り上げるのだ。     
・そのスローガンに、客観的なデータや裏付けがあるわけではない。はじめから、「我々
 は正しい」という前提だ。とかく運動はこうした方向に陥りやすい。また、人はこうし
 たムードにはまりやすい。「同じ考え」の人たちだけといると、心地よいことも事実だ。
・自分をわかってくれる人がいれば、「仲間がいる」と実感できる。しかも、愛と正義の
 ために運動をしているという思いもある。愛と正義にもとづいた自分たちの運動は、小
 さなものかもしれないが「原液」のようなものだ。これが広がっていき、日本中に流れ
 ていけば、確実に日本はよくなる。そう思い込んでしまう。
・運動に限らず、「愛と正義」はどんな場面にも現れる。しかも、単純であれば、あるほ
 ど、人は、そこに惹かれやすく、のめり込みやすい。運動をしているほうは、詐欺で人
 をだまして仲間を集めようとしているわけではない。純粋に、愛と正義にもとづいて運
 動をしている。だからこそ、エスカレートし、過激化する危険性もある。
・主語が複数になると述語が暴走する。主語が「私」だと、みな謙虚に話をするし、自己
 批判もする。ところが、主語が「我々」になると、自分のことを客観的に見ることがで
 きなくなる。「我々」という主語を使うときは、右翼や左翼、宗教、市民運動などの共
 通項をもっている。たまたま、その場や時間を共有しているだけでは、「我々」とは言
 わない。
・僕がやってきた「愛国運動」も、まさにそうだった。「僕」が主語なら、「まだ、その
 点がわかりません」などと言える。しかし、「我々」と言ったら、迷ってはいけない。
 「断乎○○すべきだ!」「○○を阻止しろ!」となる。「我々」としてまとまり、「一
 つの意思」のもとに運動することになるのだ。もちろん、集団での運動は大切だし、す
 ばらしいと思う。しかし、こうした危険性が常にひそんでいることは、自覚しておくべ
 きなのだろう。   
・こんな疑問をもつ人もいるだろう。「目的」が間違っているから暴走するのではないか。
 あるいは、集団の中に独裁的なリーダーがいたから暴走したのではないか。集団の中に、
 きちんと「民主主義」が確立していれば、暴走することはないだろう、と。こうした疑
 問は、集団での運動をしたことのない人たちにとっては説得力がある。その通りだと思
 う。しかし、集団での運動を体験した人間は、そんなことはない、と思うはずだ。理想
 的な目的を掲げて行動したとしても、必ずしも理想的な動きとはならない。また、目的
 ももたず、ろしてリーダーおいないような集団、たとえば、趣味で集まったような集団
 でも、集団での行動がエスカレートしてしまうこともある。目的や動機だけが問題なの
 ではない。集団であることは、常に、暴走する危険があるのだ。
・最近は、少年犯罪などを見ていても、同様のことを感じる。複数の仲間で、特にリーダ
 ーがいるわけでもない。その中で、集団の中で一人だけ少し目立ったり、他と少し差異
 がみられたりすると、攻撃のターゲットにされる。リンチされたり、しまいには殺され
 たりもする。誰も「やめろ」と言い出せない。あるいは、誰かが「やめろ」と言うのを
 期待しているかもしれないが、自分からは言い出せない・一人一人が暴走し、狂暴化し
 ていく。特に目的があるわけでもなく、リーダーもいない。なんとなく集まっているよ
 うな集団のほうが、そうなりやすい。
・強いリーダーがいないから、「そんなバカなことはやめろ」と叱る人もいない。みな、
 同等で平等。だから、「カッコいいところを見せよう」などと思い、凶暴な行為に出る。
 他の人間がやれないような残酷なことをやると、「お、根性がすわっている」「勇気が
 ある」と一目置かれる。そんな小さな集団なおに、仲間から認められたくて、凶暴にな
 る。若いときは、何でもできると思いこむ。仲間にカッコいいところ見せたくて、つい
 暴走する。
・集団が暴走するとき、外に向かって凶悪な犯罪として現れることもあるが、その狂気が
 内に向かうときもある。もっとも顕著な例が、1972年の連合赤軍事件だ。
・たとえ、犯罪集団になっていたとしても、自分が属していた集団から逃げ出したことに、
 どこかうしろめたさを感じている。本来なら、そんなものは感じる必要がない。もしか
 したら、ここに日本人特有の問題があるかもしれない。
・思想的なものではなく、なりゆきで徒党を組み、けんかをし、殺人を犯してしまった少
 年たちの場合はどうなのか。まずいと思ったら、脱走していいはずだ。しかし、こうし
 た場合でも、脱走はほとんどない。集団から外れること、そこから脱走することが、し
 にくいのが日本社会の特徴なのかもしれない。
・僕は改憲派だが、いまの右傾化の動きに任せて、改憲することは危険だと思っている。
 安倍政権は「日本を取り戻す」と勇ましく宣言する。中国や韓国にじゃまされることな
 く、日本の立場を堂々と主張すべきだ。日本がこんなに弱体化してしまったのは憲法の
 せいだ。アメリカから押しつけられた憲法のせいで、戦力をもつことを否定され、日本
 は他国になめられてきたのだ。憲法を改正して、自衛隊を国軍にし、強力な戦力をもと
 う。「普通の国」にしよう。こうした声が、一部の右派などだけでなく、世論や政治家
 の間でも大きくなっている。しかも、自民党が野党時代につくった「日本国憲法改正案」
 などをみても、「すべては憲法のせいだ」といった意識が垣間見られる。憲法改正に過
 剰な期待がされる。あれもこれも、憲法が悪いからだ。じゃあ、憲法を変えよう、憲法
 に書き込もう、と。家族がバラバラになりかけている。じゃあ、「家族は大切だ、助け
 合おう」と書こう。最近の若い人たちは自由ばかり主張して、責任感が感じられない。
 じゃあ、「自由には責任と義務がともなうことを自覚すべき」と書こう。
・僕が右翼学生時代、「諸学の根源 日本国憲法」というスローガンのもとに闘ってきた。
 人を動員し、改憲ムードを高めるための運動としてのスローガンだ。しかし、いま、僕
 たちのやってきたのと似たことが、政治の中で行われている。似た掛け声が叫ばれてい
 る。まさに「スローガン化した政治」だ。 
・当時は左翼が圧倒的に強く、僕たちは簡単に粉砕された。しかし、いまは左翼もほとん
 どおらず、国会では野党の力も弱い。「日本を取り戻せ」「中国、韓国になめられるな」
 と<愛国心>が煽られ、日本社会全体が集団で暴走しかけているようにさえ思う。僕は
 改憲派だ。でも、いまの急激な改憲の動きは危険だから、反対だ。
 
自由のない自主憲法か、自由のある押しつけ憲法か
・アメリカは日本に勝って、この国がもう二度とアメリカに歯向かうことのないように軍
 隊を廃棄させ、そのために憲法をつくった。「軍隊をもたない、戦争をしない」国にし
 た。確かにアメリカの意向でそうなった。だが、それだけなのか。あの戦争は、人々の
 熱狂を背景としたファシズムによる戦争だった。しかし、もうファシズムの国々は負け
 た。もう世界に牙をむくファシズム国家はない。だから、この機会に、戦争それ自体を
 なくしてしまおう。それには、世界が同時に軍備を捨てたらいい。しかし、できない。
 では、ます日本でテストケースをやってみよう。そうしたら世界もそれに続くだろう。
 そんな夢のような「理想」を考えたのではないか。憲法のだい24条には、婚姻は両性
 の合意のみにもとづいて成立する。と書いた。また、女性の権利や地位が尊重されるべ
 きことも、はっきり書いた。これは本国アメリカの憲法にだって期待がない。アメリカ
 以上の民主的、理想的な憲法をつくろうとしたのだ。確かに、占領中にアメリカが日本
 に憲法を押しつけたのは事実だろう。だが、夢のような理想を求めて、必死に実現させ
 ようとした人たちがいた。その理想や努力をわかったからこそ、当時の日本の一般の人
 たちも喜んで受け入れたのだ。
・マッカーサーは、当初、日本政府に憲法改正の作業を要請した。ところが、政府た設置
 した憲法問題調査委員会のつくった試案の内容は、大日本帝国憲法(明治憲法)とそれ
 ほど変わらない保守的なものだった。それを知ってマッカーサーは落胆した。こうして
 GHQは、自ら改憲作業に乗り出したのだ。
・もし僕がマッカーサーの立場だったとしても、落胆しただろう。日本は戦争に負けたの
 だ。 だったら、旧い憲法は破棄して、一から書き直すぐらいのことをしなくてはダメ
 だ。改正作業を任された日本政府や委員たちはそう思わなかったのだろうか。往生際が
 悪すぎると思う。むしろ、アメリカが驚くぐらい進歩的で革命的な憲法を書いてやれば
 よかったのだ。そうすれば、アメリカに「あなたたちには任せられない」とは言われな
 かっただろう。「アメリカに憲法を押しつけられた」と改憲派は怒るが、その原因をつ
 くったのは日本の側ではないか。日本の政治家や官僚、学者ではないか。
・それにしても、なぜ明治憲法とそれほど変わらないような案をつくったのか。不思議だ。
 日本は徹底的に戦争に負けた。憲法だってまったく新しい進歩的なものにするしかない。
 そう思いつつも、でも・・・と考えた。アメリカンの占領は、ずっと続くものではない。
 占領が終わったとき、あまりに進歩的・民主的な内容を書いたら、何と言われるかわか
 らない。「売国奴」「裏切り者」とののしられるかもしれない。政府や改正作業に当た
 った人たちのそうした心理も影響した結果、明治憲法とそれほど変わらない案になって
 しまったのだ。「売国奴になりたくない」「愛国者でいたい」といった思いも、政治家
 たちの判断を誤らせてしまったのだ。
・「国賊などと言われようと、徹底的に改正作業をやればよかったのだ。そうすれば、ア
 メリカに任せることなく、「日本人がつくった自主憲法」ができただろう。<愛国心>
 という言葉が政治家たちの目をくらませてしまったのではないか。政治家などが「愛国
 者」と自任し、「愛国者」のままであろうとすると、それは、時として何もしないこと
 につながる。
・政治家などで「愛国者」と自称している人たちのなかで、本当の「愛国者」がいるだろ
 うか。「売国奴」などと言われてもいい。それが国のため、国民のためになる、と判断
 して、覚悟をもって行動している人こそ、本当の<愛国者>なのではないか。
・日本では、「アメリカに押しつけられた」と思い込んでいる人が多いのだから、もう一
 度、国会で議論したらいい。あるいは国民投票にかけてもいい。いまの憲法を認めるか
 どうか、国民で議論して決めたらいい。そこで認められたら、「日本人がつくった日本
 の憲法だ」と認めるおとになるだろう。護憲派の人たちは、憲法改正について議論する
 こと自体をさけようとする傾向がある。少しでも議論の突破口をつくったら、第九条な
 どが改憲される方向にいってしまう、危険だ、というわけだ。それでは、あまりに消極
 的すぎる。    
・そもそも、個々人の希望や要求をすべて憲法に入れようとするには無理がある。また、
 個々人の不安や時代の不安を憲法で解決してもらおうとするものおかしい。いまの若者
 はだらしがない。憲法が軍隊を放棄しているからだ。だったら、徴兵制の必要性を憲法
 に書こう、などとなる。そんなことを積み重ねていったら、とても憲法などできない。
・それに憲法について考える際、とかく人は自分が国家になったような錯覚に陥りやすい。
 改憲について一般の人たちが論じる際も、自分を国家と同化してしまう傾向がある。本
 来なら、民間人として考えるのだから、個人の自由や権利などについて真っ先に考えて
 もいいはずだ。なのに、上から見下ろす国家の目線になってしまうのだ。他国から侵略
 されないためには国家の独立、自主防衛が必要だ。戦争になったら、道路や鉄道などは
 軍隊が優先して使えるようにならなくてはならない。国民の自由なんて二の次だ、制限
 だって必要だ。これはおかしなことだ、憲法とは、本来、その時々の為政者が暴走しな
 いように、彼らを縛るためにつくられた装置だ。それが立憲主義という考え方だ。なの
 に、一般の人たちも、国家の目線で自分たちを縛る方向へと、改憲を構想したがる。ま
 ず国家を守ることを考え、国民の生活、権利、自由などは、ずっと後になる。
・彼ら政治家たちは、国民の自由を制限させたいのだろう。自分たちを批判するためのデ
 モや集会、街頭演説などをいっさいやめさせたいのだろう。彼らにとっては、国民の政
 治参加とは「選挙をすることだけ」だという思い込みがあるのだろう。国民は投票に行
 き、それで選ばれた議員が地方議会や国会で政治をやる。これが正しいルールだ。それ
 なのに、デモをやったり、集会をやったりして、政治に口を出す。これは「政治おルー
 ル」を破る行為だ。そう思っているのだろう。投票行為だけで、国民の政治参加は十分。
 選挙権の年齢も18歳以上にまで広げたではないか。政治はあくまで、選ばれた自分た
 ち「プロ」の仕事。国民はそれに従えばいいのだ。そう思いあがってしまうのだろう。
 そんな意識が、自民党のつくった二つの改憲草案からにじみ出ている。
・アメリカから「押しつけられた憲法」は、国民の権利や自由について、きちんと認め、
 記述している。ところが、自民党の改憲草案はそれをどんどん制限しようとしている。
 それに、戦前の日本に対する郷愁すら感じられる。第一条で天皇を「元首」としている。
 戦後、天皇は政治的立場や強制からせっかく離れたのに、再び縛り付けられてしまう。
 第九条では、「国防軍」の創設が規定されており、安保法制も成立した。自衛隊を軍隊
 として派兵し、アメリカの戦っている戦争に参加させる。あるいは、日本から宣戦布告
 することもあるかもしれない。核武装や徴兵制の必要性を主張する議員もいる。そのほ
 うが勇ましく思われ、人気が出てしまうのだ。   
・国民の側も、国家の権限や力が強くなり、大きくなったほうが、国民一人一人も強く、
 大きくなれると錯覚してしまう。本当は、国家が強くなればなるほど、国民の自由の権
 利はますます制限されてしまうのだが。
・アメリカに押しつけられた憲法を廃して、自主憲法を制定すると自民党の政治家たちは
 言う。しかし、それによって、国民の権利や自由が制限される。国民の権利も自由も守
 ってくれない。そんな改憲などやらないほうがいい。そんな自主憲法はいらない。「自
 由のない自主憲法よりは、自由のある押しつけ憲法を」。憲法があって、国民があるの
 ではない。国民があってこそ、憲法があるのだ。国民のために憲法を変えるのならいい。
 しかし、国民を縛るために憲法を変えるのは本末転倒だ。イギリスのように成文憲法典
 をもたない国だってある。
・確かに戦前の大日本帝国は強国として力をもっていた。それに比べると、戦後は思想の
 ない「虚妄」だと批判されることが多い。しかし、国家が強くて、国民の権利や自由が
 ない時代のほうがよいのか。それは違う。いまは、たとえ「虚妄」であったとしても、
 国民の力でそれを実のあるものにすることができる。そのためのシステムが民主主義だ。
・これは「国家が先か、国民が先か」という問題にもなる。人間がいて、その人間が幸せ
 に暮らすための知恵を働かせて国家をつくったのだ。逆ではない。ところが、国家が成
 立すると、国家を強くしようとする。そして、長い歴史をもった国家は美しい神話など
 で、自国を美しく物語ろうとする。時として、それは、自国だけが尊い、自国だけが神
 のつくった国だ、などと思い込むことにつながる。さらには、国民は国家のためにある、
 という考えにもなる。 
・憲法の場合も同じだ。人間が幸せに暮らせるように、憲法をつくった。人間あってこそ
 の憲法なのだ。別の見方をすれば、いくら立派な憲法があっても、それでよいというこ
 とにはならない。「平和憲法」さえ変えずに守っていれば、戦争は起きないということ
 にはならない。人間が「平和憲法」を実行させるために、戦い続けなければならない。
 「平和憲法」さえあれば」という発想は、改憲派の「憲法さえ変えれば、日本はよくな
 る」という発送と、根本のところで同じだ。人間があって憲法がある以上、人間の不断
 の努力が求められてもいるのだろう。
・自民党の側は「愛国心」をもて」といった主旨を憲法に書こうと主張してきた。しかし、
 国が国民に「愛国心をもて」と強制するのはおかしい。政治家の仕事は、国民が愛せる
 ような国をつくることではないのか。政治家が思い上がっている。本末転倒だ。
・自民党の構築する改憲案は、復古的で、為政者の上から目線ばかりが目立つ。「同じ味
 方」だけで集まって気勢を上げているような風潮。ちょっと考えが違うだけでつぶし合
 う政治家や活動家の集団。
・以前、あるパーティーで、知らない右翼青年にいきなり胸ぐらをつかまれ、「国賊め!」
 とののしられたことがある。共通の「大きな敵」はいくらでもよいのだが、同じグルー
 プに「小さな敵」がいることは絶対に許せないのだ。そして、いま、この傾向は日本全
 体に広がっているのではないか。「同じ日本人なんだから」「日本を愛する愛国心をも
 っているのだから」という視野の狭い仲間意識のもと、排他的な傾向が強まっている。
 政権を批判したり、日本の問題点などを指摘したりすると、「反日!」とののしられる。
 「他国に学んで、日本のここを良くしよう」などと言っても、「お前は外国の肩を持つ
 のか」と怒鳴られる。その結果、「日本はすばらしい」「日本人は最高」といった自画
 自賛の言葉が氾濫し、そしてその足下で排外主義が跋扈しているのが現状ではないのか。
・終戦後、日本人が革命的な憲法案をつくれなかったのにも、同様の問題を感じる。「売
 国奴」などと批判されることを恐れ、結果的に、明治憲法とあまり変わらない保守的な
 憲法案をつくることになった。本当であれば、たとえ「売国奴」とののしられようと、
 「これが国のためなのだ、国民のためなのだ」という信念で、前に進んだほうがよかっ
 たのだ。ところが、そんな勇気のある人はいなかったのか。「売国奴」と言われる覚悟
 をもった人間こそ、実は未来にとっては「愛国者」なのだ。
・憲法は何よりも権力者を縛るためのものだ。そして、その国がどんな国として歩んでい
 こうとしているのかを世界に向かって宣言するものだ。いますぐに実現できなくても、
 国家の目指すべき理想を語るべきだ。その点、刑法、商法などの法律とは違い。現実的
 な生活のレベルでは、法律さえあれば、そこに憲法がなくても個人の生活はできる。だ
 からこそ、もし日本にふさわしい憲法を改めて考えるのなら、十分な時間をとって考え
 るべきだろう。本当に改正する必要があるのか。まず、そこからきちんと検討すること
 が大事だ。「とにかく改憲しやすいところから、まず改憲をしよう」とか、「改憲しや
 すいように、改憲の手続きを定めて条項を変えよう」などは姑息だ。

<愛国心>が汚れた義務となるとき
・「愛国心」が煽られると、国民は自分が国家と一体になったような気になる。「韓国を
 許すな!」「中国になめられるな!」と勇ましい言葉を叫ぶ。本来、自分が苦しみ、不
 幸な目に遭っている原因は、韓国や中国とは関係がないはずなのに、「日本を守れ!」
 となってしまう。国家と一体になったと思うことで、自分が偉くなったような、高みに
 立っているような錯覚をもつ。自分の目の前の現実を忘れさせてくれるのだろう。そし
 て、政府の側も意図的に、そういう方向に国民の目が向くようにしている。しかも、わ
 かりやい「敵」を示す。いかに日本を取り巻く環境が脅威にさらされているか。もっと、
 防衛について真剣に考えなければいけない。このままでは日本が滅んでしまう。それで
 いいのか。いまこそ憲法を改正しなければならない。それができるのは自民党だけだ。
 そう思い込まされてしまう。
三島由紀夫は、自決の二年前、「実は私は、「愛国心」という言葉があまり好きではな
 い」という衝撃な内容のエッセイを新聞に寄稿している。三島はこう言っていた。
 「愛国心の「愛」の字が私はきらいである。自分がのがようもなく国の内部にいて、国
 の一員であるにもかかわらず、その国というものを向う側に対象に置いて、わざわざそ
 れを愛するというのが、わざとらしくてきらいである」。
 こうした実態のないものを「愛国心」と思っている。いや、思わされている。いまの日
 本人が抱えている矛盾が表現されている。
・現在の安倍政権が目指す改憲は、むしろ自衛隊が永遠にアメリカの傭兵となる方向に進
 んでいるのではないか。「自衛軍」がアメリカとともに、世界中どこにでも出かけ、戦
 争に参加する。あるいは、アメリカの指示で、アメリカの代わりに戦争をする。まさに、
 「アメリカの傭兵」化ではないのか。2003年、イラク戦争の際にも、自衛隊は派遣
 されたが、「イラク復興支援」を名目に、小銃など以外の武器はもたず、戦闘に参加す
 ることもなかった。しかし、改憲がなされれば、実際の戦闘に参加するし、人を殺し、
 自らも殺されるようになるだろう。改憲がなされていなくても、安保法制の成立によっ
 て、その危険性は高まった。それが「普通の軍隊」「普通の国家」であるなどと、政治
 家たちが主張する。  
・現在の政権が主張するような「自主憲法」ができたら、国家が国民に対して上からおし
 つける憲法になる。「自主憲法」という「名前」が大切なのか、それとも憲法の中身が
 大切なのか。僕は中身を選びたい。だから、言う。<愛国心>を汚れた義務にしてはな
 らない。