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日本の仏教は「葬式仏教」と言われている。本来、死者を弔うという行為と宗教とは別も
のである。そこには宗教の名を借りた資本主義の論理が隠されている。死者を丁重に葬る
という遺族の感情につけ込んで、多額の金を使うことを強いる仕組みが出来上がっている。
その仕組みによって残された者が苦しむというのは、あまりにも理不尽なことではないの
か。いままでのような人の葬り方が、本当に必要なやり方なのか、考え直す時代になった。

はじめに
・死者とともに生きる必要は、もうない。
・今の都会の家からは死者が姿を消した。そこに生活をするのは、生きている者たちだけ
 である。仏壇を置かなければ、都会の家には死者が生きる場所はない。死者が住む場所
 があるとすれば、それは唯一、墓である。
・墓参りという行事自体が都市特有のもので、起源も新しい。地方ならば、墓が家の近く
 にあり、わざわざ車に乗って墓参りに行く必要もないからである。
・都会の家は長く続かない。跡継ぎのいない家は、やがて消滅していく。家が解体されれ
 ば、そこにあった仏壇や遺影、位牌は処分されてしまう。墓の方は、訪れる人もいなく
 なり、無縁化し、やがては無縁墓となる。無縁墓となれば、そこに納められていた遺骨
 は合祀される。過去帳には残るかもしれないが、あらゆる人々の記憶から消え去ってい
 く。
・私たちはこれまで、人を葬るということにあまりにも強い関心を持ちすぎてきたのでは
 ないだろうか。それに精力を傾けすぎてきたのではないだろうか。それこそが日本の文
 化であり、死者を丁重に葬ることは日本人の精神にかなってきたと言われてきた。だが、
 社会は大きく変わり、死のあり方そのものが根本的に変容してきたことから考えれば、
 従来の方法は意味をなさない。
・極端な言い方をすれば、もう人を葬り、弔う必要はなくなっている。遺体を処理すれば
 それでいい。そんな時代が訪れている。
・都会に生きる人間は、何よりも最優先し、死者との関係を遠ざけることで、自らも死後
 に消え去っていくという道を選んだ。 

人を葬ることは相当に面倒である
・人類は社会生活を営むようになってから、死者を葬る行為を実践してきたことになる。
 葬儀の歴史は、人類の歴史と同じほど古い。
・人類以外の生物は、哺乳類であったとしても、仲間が死んだとき、それを葬ったりはし
 ない。葬式をしないのはもちろん、痛い処理さえしない。それは、人類に近いとされる
 猿でも同じだ。
・「葬式は要らない。墓も要らない」と言い残して亡くなる著名人は少なくない。
・近年では、急速に葬儀の簡略化が進んでいる。近親者だけで行う葬儀は、かつては「密
 葬」と呼ばれていて、その語感からも特別なものと考えられていた。ところが、その密
 葬は今や「家族葬」と呼ばれるようになり、家族だけで葬儀を営むことが一般化してい
 る。2012年に全国の葬儀社を対象に行った調査では、関東地方で直葬の割合が
 22.3%に達したという結果が出ていた。
・お墓の消費者全国実態調査によれば、墓の永代使用料と墓石とを合わせた費用は、地域
 別で100万円未満が2県、100〜150万円が9県、150〜200万円が11都
 道府県 200万円以上が7都道府県だった。もっとも高いのが東京都の278万円だ
 った。東京都の住民で考えれば、葬儀費用が231万円だとすれば、墓と合わせて
 500万円以上の費用がかかる。 
・金銭的なこと以外でも、最近は墓を守り続けることがひどく難しい状況になっている。
 少子化の進行や、未婚率の上昇などの影響である。墓は家単位で建てられるもので、ど
 うしても墓の管理の中心になる「墓守」を必要とする。墓守が確保できればまだいいが、
 現在の家族事情では墓守がいなくなる場合も珍しくない。子供いない家庭では、そもそ
 も墓守がいない。子供はいても、娘ばかりであれば、結婚して家を離れていく。そうな
 れば、墓守は家に残らない。墓守がいないということは、その家自体が近い将来におい
 て消滅することを意味する。
・葬儀や墓に対する不安を「死後の不安」と呼ぶとすれば、今やこの死後の不安が増大し
 ている。老後の不安の先に死後の不安があり、それが多くの人を苦しめている。
 
なぜ葬儀や墓はこんなにも厄介になったのか
・「戒名のインフレ化」も進んでいる。ここで言うインフレ化とは、院号のついた戒名が
 増えたことを指している。村社会では、有力な家しか院号のついた戒名を授かることは
 できなかった。ところが、村という共同体の縛りがなくなった都会では、金さえ払えば
 院号のついた戒名を簡単に授かることができるようになった。
・そこには寺院の経済ということが関係している。都会では普段檀家が寺を訪れることは
 少なく、年忌法要にも熱心ではないので、寺院としては葬式のときに布施してもらうし
 か収入がなくなっている。その際、院号のついた戒名を授けることで、多額の布施、一
 般には「戒名料」が入ってくる。
・戒名料は、寺院に支払われる費用の一部である。人を葬るには、他にも金がかかる。平
 均額や相場を示されると、そういうものかと思ってしまうかもしれないが、以前は人を
 葬ることにこんなに金はかからなかった。 
・死者が出れば、それを丁重に葬らなければならないという観念、通念はある。遺族にも
 その気持ちがある。ところが現代では、その丁重さがすべて金ではかられるようになっ
 てきた。

生老病死につけこむ資本の論理
・ひとりの人間が死んだ後には、相当の額の出費が強いられる。そこで必要とされる金は、
 100万円単位であり、場合によっては1千万を超えるのだ。死者は意外なほど金食い
 虫なのである。
・現代は資本主義の世の中であり、資本はあらゆるものを消費の対象にしようとする。生
 きるものも、老いることも、病にかかることも、そして死ぬことも、資本の論理から逃
 れることができない。

死者が増えるから葬儀で儲けようとする人々が次々とあらわれる
・ほとんどの直葬では、僧侶ははじめ宗教者が呼ばれることはない。
・農家の次男や三男は、財産を分与されないだけでなく、祭祀の継承権を持たない。つま
 りは、墓がないのである。彼らが都会に出てきて、新しく一家を構えたとき、その家に
 は墓がない。実家には墓があってもそれは長男が守っているので、そこに入るわけには
 いかない。そもそも実家は遠い。
・都会では、墓にかかる費用はかなり高額である。葬儀以上に金がかかる。
・墓地を新たに造成するには、地方自治体の認可が必要である。しかも、誰もが墓地を造
 れるわけではない。墓地を造れるのは、地方自治体、公益法人、宗教法人に限られ、株
 式会社には許されていない。株式会社では永続性が保証されないというのが理由である。
・地方自治体の管理運営する墓地は一般に「公営墓地」と呼ばれ、それを住民に安く提供
 している。しかし、最近ではどの自治体も財政難で、そう簡単には新たな墓地を設ける
 ことができなくなっている。 
・最近、都営霊園では「樹林墓地」が設けられるようになった。樹林墓地は表面が芝生に
 なっていて、コブシやヤマボウシ、モミジなどが植えられている。そして、遺骨を布製
 の袋に入れてその下に保管する。
・公益法人が運営する墓地は、宗教や宗派が関係しない。誰もがそこに墓を設けることが
 できる。これが「民間霊園」である。ただ、この民間霊園には、宗教法人が経営の主体
 になているものもある。
・宗教法人の運営する墓地は、基本的に二つの種類に分けられる、一つは「寺院墓地」と
 呼ばれるもので、もともと寺院の境内にあって、そこに墓を設ける家は、その寺と檀家
 関係を結ぶ。檀家になるということは、簡単に言えば寺のスポンサーになるということ
 である。寺の本堂を修理するといったときには、檀家に寄付が求められる。どういった
 檀家組織になっているかにもよるが、そうした際には檀家はほぼ強制的に金を徴収され
 る。立派な戒名を授かっている有力な檀家になると、他の檀家よりもはるかに多くの金
 を出さなければならない。菩提寺のある地域に住んでいれば、どうしてもそれに答えな
 ければならなくなるが、その地域から離れ、都会に住んでいる家の場合だと、寄付する
 ことに意義が見出せないし、高額な負担に耐えられなくなる。檀家を抜けようとすると、
 場合によっては高額な「離檀料」を寺から要求される。寺にとっては、有力な檀家が抜
 けてしまえば経済基盤をおびやかされてしまうからだ。特定に寺に檀家になること、檀
 家でいることは、相当に厄介であるといえる。その際には、墓が寺の墓地にあることが
 「人質」にもなっている。
・宗教法人が運営しているものの、「宗教宗派問わず」という形で募集されるものがある。
 これも一般に「民間霊園」と呼ばれる。こうした霊園は、墓石業者や石材店が、宗教法
 人に働きかける形で建設した墓地である。永代使用料は宗教法人、ほとんどの場合は仏
 教寺院の側に入る。業者の側は指定業者となり、その霊園に墓石を建てる仕事を独占す
 るのだ。
・墓石は高い。100万円の単位である。しかも、昔よりも高くなっている。それは墓石
 の値段が上がったというよりも、使われる墓石がより高いものに変化したことによる。
 昔は大谷石が使われていた。安くて加工がしやすいからである。ところが、硬い石でも
 容易に切ることができる人工ダイヤモンドが開発され、また、中国などから輸入が可能
 になったことで、大谷石に代わって御影石(花崗岩)が使われるようになった。最近で
 は黒い御影石が流行している。日本産の黒御影石は高価だが、中国産だとかなり安い。
・寺院の経営する民間霊園というのは理屈としてはおかしい。永代使用料は寺の宗教活動
 によるものとされ、当然課税されない。ところが、民間霊園の形態をとったときには
 「宗教宗派問わず」で募集され、寺と檀家関係を結ぶわけではない。認可する自治体の
 側も、寺院が新たに霊園を造る際に「宗教宗派問わず」という形で募集するように指導
 しているという話も聞いた。となりと、そうした墓地には寺とは異なる宗派の墓も建て
 られるし、キリスト教徒も建てることができる。  
・最近の傾向では、墓地の設置の許可を出す権限は、都道府県から市町村に下りてきてい
 る。つまり、より住民に近い自治体が許可するかどうかを決めるようになってきたわけ
 である。その結果、近隣の住民が墓地の建設を望まないために、許可が出されるのが前
 よりも難しくなってきている。つまりは、墓地を新たに設けることが、以前より容易で
 はなくなっているのである。
・一般の墓地ではなく、納骨堂を設ける霊園も増えている。これはロッカー式のものであ
 る。一般の墓が一戸建てなら、こちらはマンションに相当する
・納骨堂の一種として最近増えているのが、「永代供養墓」と呼ばれるものである。これ
 は子どもがいない人間や子どもの世話にはなりたくないと考える人間が入るもので、は
 じめに永代供養料を支払っていれば墓の側が供養と管理をしてくれるものである。永代
 供養墓は、家族形態が変わるなかで求められている墓の新しい形である。だが、この増
 加も、寺の側がそうした社会の風潮に乗って、安易にこうした事業に乗り出している傾
 向が強い。そのため、十分な準備もせず、宣伝もしないため、永代供養墓を造ってもそ
 れが埋まらないという事態が起こっている。それは寺の側にとって深刻に事態を生む。
・宗教法人である寺は、一般の企業とは異なり倒産しないと思われている。永続性がある
 からこそ、墓地を造る許可が与えられてきたわけだ。しかし、現実には倒産する寺も存
 在している。 
・財団法人が運営していた墓地でも、巨額の負債を抱え、精算手続きに入ったところがあ
 る。その財団法人は日本墓園で、全国に5つの霊園を設けていたが、ゴルフ場開発など
 に投資して多額の損失を出し、財団としての許可を取り消された。しかし、10年経っ
 ても精算事業は進んでおらず、墓地は荒廃しつつある。
・昔は、人を葬るということを商売にしようとする人間は少なかった。どのような形で儲
 ければいいのか、その手立てがなかったからである。ところが、現在では死者数の増加
 や都市化などで状況が大きく変わり、人を葬る仕事にかかわることでかなりの収入が得
 られるようになった。仏教寺院も葬儀による収入に依存するようになり、「葬式仏教」
 の傾向を強めている。

世間体を気にするがゆえに資本の論理につけこまれる
・人が生きているあいだに直面せざるを得ない生老病死の問題に資本の論理が介入し、人
 を葬ることから金儲けをしようとする試みが次々と生み出されてきている。これが今の
 実態であり、現状である。本来ならば、私たちはその資本の論理に対抗しなければなら
 ないはずである。そうしなければ、いいように収奪され、金を奪われるだけである。人
 を葬り、弔うということが、誰かを富ませることで終わってしまうのだ。ところが、都
 市ではとくに共同体という防波堤を失ってしまったために、私たちの立場は弱くなり、
 自分で自分を守れなくなっている。
・葬儀を業者に依頼すれば、その言いなりで支払いをしてしまいやすい。明細を渡される
 かもしれないし、明細書を見てもいったいそれが適正なものなのかの判断が難しい。特
 定の寺の檀家になっていれば、ことあるごとに寄付を求められるかもしれない。寺の跡
 継ぎの教育費まで、檀家が負担しなければならないこともある。
・何よりも、資本の論理に負けてしまいやすいのは、葬られる上で主役であるべきはずの
 本人が不在であることが影響している。葬式のとき、その対象となる本人はすでに亡く
 なっている。亡くなったからこそ、葬儀が営まれるわけで、そこが人生におけるもう一
 つの大イベントである結婚とは異なる。結婚式のときには、主役である新郎、新婦がい
 て、自分たちの意思を通ることができる。ところが、葬式となると本人が不在であるた
 めに、本人が生前に明確に意思を表明していたとしても、あるいは希望を述べていたと
 しても、その通りにいくとは限らない。「世間体」というものが顔を出すのだ。
・人間は社会的な存在であって、家族だけのものではない。その人間が亡くなったことを、
 周囲の知人や友人も確認したいという想いを抱く。そのため、身内だけで葬儀が行われ
 てしまうと、後日亡くなったことを知った友人や知人が遺族のもとを訪れ、「線香の一
 本でもあげさせてくれ。墓参りをさせてくれ」と言い出すことがある。とくに、故人が
 現役で働いていたり、職を退いて間もないというときには、そうしたことが必ず起こる。
 遺族はその対応に追われる。ひっきりなしにそうしたことが起これば、死者を忘れられ
 なくなる。葬儀をあげて一度に済ませてしまった方が遺族としてはよほど楽だという事
 態は、いくらでも起こりうる。 
・葬儀のときには、そこにかかわった人間たちが、それぞれに故人の意思を察して、口出
 しをしてくることがある。察するということは日本人の一つの文化だが、ときにはそれ
 が他者を責める武器として使われる。本人が不在で、なおかつ生前の意思が明確にされ
 ていないと、口を出す人間の数は増えてきやすい。その結果、葬儀は関係者のあいだで
 の主導権争いの場となる。普段の生活のなかでは、他の家族のやり方や生き方について
 文句をつけることは難しい。ところが葬儀の場では、葬儀のやり方にかこつけて他人が
 意見を言えるし、批判もできる。
・人が死ぬことで当人は生命活動を停止するわけだが、後にはさまざまなモノが残る。財
 産、家屋敷、生活道具、思い出の品など、それは故人の死と同時に自動的に消滅してし
 まうわけではない。その処分も、葬ることと同様に本人にはやれない。やはり遺族に任
 される。残されたモノが少なければ、処分も容易である。ところが、残されたモノが多
 ければ、それを処分することが相当面倒になる。とくに、残されたモノが金や財産であ
 れば、様相はがらりと変わってくる。相続という事態が起こると、そこに対立が起こり
 やすい。多額であれば深刻な対立に発展する危険性があるし、たとえ少額でも遺産をめ
 ぐって争いが激しくなり、兄弟が縁を切る事態になることもある。
・法律によって相続の割合は決められていても、現実の財産はそう簡単に等しくは分割で
 きないからだ。特に家屋敷といった不動産があれば、なおさらそうだ。故人と同じ家に
 住んで、年老いた故人の面倒をずっと見てきた家族と、家を出て、面倒を見てこなかっ
 た家族とでは、考えが違う。面倒を見てきた者はより多く相続することを望むし、それ
 が当然だと考える。面倒を見てこなかった者がそれを認め、譲れば問題は起こらない。
 だが、譲らすに同等の権利を主張すれば、もめ事が起こる。
・人は、金が手に入るとなると、どうしてもそれが欲しくなる。そうした事態になるまで
 は、自分は遺産など頓着しないと言っていても、いざ遺産が入るということになると態
 度が変わる。たまたま、そのとき金が要る事態に直面していたりすれば、執着はよりい
 っそう強くなる。本人だけのことではない。相続人の家族や親族など関係者のなかに、
 今どうしても金が欲しいという人間がいると、そうした人間が背後から圧力をかけてく
 る。葬儀のやり方に対して、激しくケチをつけられるのは、そんな時なのだ。そんな状
 況のなかで葬儀のやり方を失敗すると、そこに付け込まれる。  
・無難な選択をしようとするとき、人は「世間体」を気にする。世間体とは、世間に対す
 る体面のことで、見栄を張ることを意味する。そのとき、人は「自分が世間からどう見
 られているか」、それを一番気にしている。世間体を気にすることは、自己決定権を主
 張することとは正反対の行為である。戒名などは、まさに世間体の産物である。
・世間体を重んじる考え方があれば、資本の論理に付け込まれる。自分の体面をよくしよ
 うとして、どうしても金を使ってしまうのである。ただし、世間の枠から逸脱し、分不
 相応だという批判は避けたい。自分の体面を保ちつつ、なおかつプライドを満たすには
 どうすればいいのか。人はそこで悩み苦しみ、あがく。そのとき、人が頼るのが「相場」
 という考え方である。とくに、葬儀の導師を勤めてもらった僧侶に対して布施をしなけ
 ばならないというとき、あるいは、戒名を授かって布施をしなければならないとき、人
 は相場を気にする。寺院の側に聞いても葬祭業者に聞いても、とりあえず最初は「布施
 は志しだから、布施する側が妥当だと考える額でいいのではないか」と言われる。そう
 言われると、たいがいの人はかえって困ってしまう。妥当な額の見当がつかないからだ。
・相場は平均値だが、その家の経済力や社会的な地位によって額は変わると考えられてい
 る。それは絶対的なものではないが、あまりにも相場を下回れば後でケチと言われ、逆
 に出しすぎると思い上がっている批判を受ける。厄介なのは、相場がはっきりとは明示
 されていない点である。明示されていないが、人々のなかには大体の目安があり、その
 目安に従うことを求められる。目安にいったいどのような根拠があるのか、それは明白
 ではないし、はっきりとした根拠があるわけでもない。しかし、相場とは摩訶不思議な
 もので、かなり拘束力を持ち、人々の行動を縛っていく。
・人は世間のしきたりや相場に従う。自分で額を決めるのではなく、自分にふさわしい額
 を想定し、その額を支払う。基準はあくまでも世間の側にあり、私たちはそれに規定さ
 れている。世間が基準であるために、世間のあり方が変わると、そのなかに生きる人間
 の行動のあり方も変わってくる。自己決定権がことさら主張されるのも、世間体を重視
 する考え方が日本では支配的だからだ。自分では自分のことを決められない。そこに忸
 怩たる思いを感じる人間が、自己決定権の尊重を訴えようとする。
・世間体を気にするということは、自律的ではなく、他律的に生きるということである。
 そのため、世間の「空気」が変わると、途端にその風潮に乗る人間が増えてくる。今進
 行している葬儀の簡略化も、その影響を受けているように思われる。これまでも「葬儀
 を簡略化したい。できるだけ金をかけたくない」と考えた人は少なからずいたはずであ
 る。それでも、参加者を招いて通夜をやった上で、翌日の葬儀、告別式を営むというや
 り方がスタンダードとされていた時代にはそれが難しかった。葬儀に金をかけないと、
 故人を丁重に葬っていないという非難を受ける覚悟をしなければならなかったからだ。
 ところが、家族葬や直葬ということばが生まれ、それが社会に広まっていくと、途端に
 状況が変わってくる。身内だけで葬儀は済ませた。家族葬だけで葬った」と言えば、そ
 れで済む時代が訪れたのだ。
・直葬ということばのない時代に、火葬場で荼毘に付しただけで終わりにしてしまったと
 すれば、個人を蔑ろにしているように受け取られた。ところが、直葬ということばが生
 まれ、それが世間に広がり、なおかつ関東地方ではすでに約4分の1が直葬だと報じら
 れれば、世間の受け止め方は自ずと違ってくる。直葬が今の社会にふさわしい人の葬り
 方として認知されれば、それは問題視されない。世間体が悪いということもない。
・地域社会の絆が弱くなった今、その人間関係に縛られて世間体や相場を気にしなければ
 ならない必要性はかなり薄れている。とくに大都市では、世間体を気にしようにも、世
 間自体が見えないものになっている。いったい誰の目を気にしなければならないのか、
 それがしだいにわからなくなっている。世間体や相場を気にしなければ、つけこまれる
ことは少ない。死者を葬るとき、自分たちの考えや都合で、その規模や内容を決めれば
いい。いつのまにか、そんな時代になっている。そうである以上、私たちは資本の論
 理につけこまれ、人を葬ることで法外な費用を払う必要はなくなっているはずである。

仏教式の葬儀は本当に必要なのか
・現在では、仏壇のある家がそもそも少なくなっている。2人以上の世帯で暮らしている
 30代から60代を対象に行った意識調査の結果、仏壇のある家が39.2%であるの
 に対して、ない家は60.8%にのぼった。都会では仏壇のない世帯が相当に増えてい
 る。 
・日本人の多くは、自分には特定の宗教に対する信仰がないと考え、普段は「無宗教」を
 標榜している。ただ、葬儀に関しては、しきたりとして仏教式を受け入れており、まだ
 無宗教式が多数を占める事態にはなっていない。日本ではなぜ仏教式の葬儀がしきたり
 になっているのだろうか。
・現在の私たちには意外に思えるかもしれないが、そもそも、仏教は葬儀と結びついては
 いなかった。
・仏教式の葬儀の方法を編み出したのは禅宗であり、そのなかの曹洞宗であった。曹洞宗
 の宗祖は道元である。
・曹洞宗に発する葬儀の方法を受け入れていないのは、日蓮宗と浄土真宗である。
・曹洞宗発の葬儀の方法について、中心になるのは、試写を剃髪して出家したことにし、
 その上で戒を授け、戒名を与える部分である。死者は一旦僧侶になった上で葬られてい
 るのである。また、戒名が授けられるのも、葬儀のなかに授戒が含まれているからであ
 る。すでに生命活動を停止している死者を出家させても意味がないように思える。戒を
 授けても、死者はそれを破ることはない。しかし、この授戒によって、死者は本当の仏
 教徒になったと解釈され、戒名はその証としてとらえられるようになる。
・江戸時代に入ると幕府は寺請制度を設け、それぞれの家が必ず地域の寺の檀家になるこ
 とを強制した。これによって、葬儀は必ずその寺で行うようになり、それを通して仏教
 の教えが浸透していった。 
・近世がはじまる時点で、日本全体に村落共同体が形成されたことが影響した。村落共同
 体は稲作を共同で行うために結束力を強めていったが、その構成員である人間が死んだ
 際の葬儀は、共同体の人間関係の構造を変えるという点で重要な意味を持つこととなっ
 た。共同体のなかでは、一人の人間が亡くなることで、それまでの社会関係、人間関係
 のあり方が変わってくる。とくにその人間が村のなかで重要な役割を果たしていたら、
 その後継者が必要であり、葬儀には後継者を明確にし、そのお披露目をする役割があっ
 た。
・村のなかにはその村にあたるそれぞれの家が檀家になった菩提寺が建てられ、そこが死
 者の供養を担った。これによって、死者は必ず仏教式の葬儀によって葬られるという仕
 組み、文化が確立された。
・祖先を供養するという考え方は、もともと仏教にはなかった。仏教は、その開祖である
 釈迦が出家したように元来は家を否定するものであり、むしろ家を離れ、世俗の世界か
 ら離脱することを奨励する宗教であった。ところが、これも中国を経てのことだが、仏
 教のなかに祖先を重視する儒教の教えが入り込み、祖先崇拝の観念が浸透していった。
 位牌という習俗も、もとはといえば儒教の信仰にもとづいている。
・江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生することによって、寺請制度は廃止された。それは、
 それぞれの家を檀家から開放することに結びつく可能性を持っていたが、実際にはそう
 した方向には進まなかった。明治政府は、社会の安定をはかるために、家制度の確率を
 むしろ奨励した。天皇は祖神である天照大御神の子孫であり、それを皇居に設けられた
 宮中三殿で祀る神主の役割を与えられたが、その関係はそれぞれの家にも応用された。
・都市には葬式組がない代わりに葬祭業者がいて、葬儀は地域共同体の行事ではなくなっ
 た。しかも、都市では企業や店などで雇われる者が増え、家庭は経済的な基盤としての
 意味を失った。サラリーマンの家庭には、その家の経済的な基盤を確立した先祖はいな
 い。先祖がいなければ、同じ職場で働くようになるわけではないので、親のおかげ、さ
 らにはその親のおかげという感覚が生まれようがない。
・都市住民には地方自治体の墓地や民間霊園を選択することもできた。そうした墓地に墓
 を設ければ、特定の寺と檀家関係を結ぶ必要はなくなる。その点で都市住民は、葬式仏
 教の枠組みから開放されたのである。
・仏教式の葬儀は、当座のあいだ、しきたりとして民衆のあいだに受け継がれることにな
 った。故人に特定の信仰があれば別だが、そうでなければ仏教式の葬儀で葬るというこ
 とが続いた。よく言われるのは、無宗教式の葬儀では間が持たないということである。
 仏教式の葬儀では、導師となった僧侶の読経を背景にして参列者は焼香した。ところが、
 無宗教式では読経がない。故人の好きだった音楽を流しても、それはすぐに終わってし
 まい、読経のかわりにならないというのである。
・それに、仏教式の葬儀では、死者がどういった世界に赴くのか、それを語るストーリー
 がある。死者は法要を繰り返すなかで世俗の世界から解き放たれ、やがては西方極楽浄
 土に往生できるという物語である。無宗教式にはあの世へ向かうストーリ^が根本的に
 欠けている。
・結局は、仏教式の葬儀がしきたりとなり、多くの人は世間のやり方から外れないために
 仏教式葬儀を洗濯し続けてきた。たとえ特定の寺院の檀家になっていなくても、さらに
 は仏教への信仰がなくても、慣れ親しんだしきたりとして仏教式葬儀を選んできたので
 ある。
・無宗教式では間が持たないということも、葬儀の簡略化が進み、参列者の数が減ったこ
 とで、重要な問題ではなくなってきている。家族だけなら焼香はすぐに終わる。故人に
 献花するというやり方をとっても、小規模な葬儀ならそれで形になる。背景には読経は
 必要とされない。
・それに、極楽へ往生することを目的とした仏教式葬儀のストーリーは、現実的なもので
 はなくなっている。亡くなる人間の高齢化が進んでおり、80歳、90歳で亡くなる人
 が多くなってきた。高齢での死はそのままで十分に「大往生」と言えるもので、遺族も
 故人は現世での生活を満喫し、謳歌した上で亡くなったと考えている。果たしてそうし
 た死者のために、遺族が功徳を積み、それを回向として振り向ける必要があるのだろう
 か。そんな疑問がわいてくる。
・曹洞宗で公安された葬儀がもともとは修行途中に死んだ雲水のための葬儀に発している
 ように、そこには十分に生きることができなかった無念さを晴らすという意味があった。
 しかし、80歳、90歳での死は、決して無念なものではない。その点で、葬儀の形式
 は現在の死のあり方にそぐわないものになってきている。初七日や四十九日の法要が葬
 儀の際に繰り上げて行われるようになり、年忌法要が行われなくなってきた背景にもこ
 うした事態が関係している。死者を成仏させるためには、法事法要が必要だという観念
 が薄らいでいるのである。しかも、家の規模が小さくなったことで、法事を通じて家を
 結束させる必要性もなくなってきた。その際には、法事の代わりになってきたのが墓参
 りである。
・今の人間は墓参りにはかなり熱心である。それには、日頃別々に生活している家族や親
 族が、一年に一度から数回集まるという意味がある。墓参りは口実で、家族が集うこと
 の方が重要になっているとも言える。墓参りがあるから、もう法事は要らない。こうし
 たことも檀家離れに拍車をかけている。  
・いったい、葬儀をすることにどんな意味があるのか。近年では、葬儀の意義として「グ
 リーフ・ケア」の側面が強調されるようになってきた。グリーフ・ケアは悲しみを癒す
 ための支援といった意味を持つのが、それは故人のためのものではなく、もっぱら遺族
 の悲しみを慰めるためのものである。 
・グリーフ・ケアに関しては、その意義を強調するのが、葬祭業者や葬祭コーディネータ
 ー、あるいは僧侶であったりすることがどうしても気になる。彼らは、葬儀から収入を
 得ているわけで、遺族は自分から金を払って慰めてもらっている形になる。果たして、
 それが本来のグリーフ・ケアに結びつくものなのだろうか。
・昔は、今日のように、多くの人が長寿をまっとうできる状況にはなかった。乳幼児の死
 亡率も高かったし、病気や災害、あるいは戦争などで、若いときに命を落とすことが少
 なくなかった。高齢での大往生を望んでも、それが容易には実現されない状況にあった。
 そうした状況では、それぞれの死者はもっと生きたいと思いつつ亡くなり、無念さを持
 っていることが前提になっていた。その無念さを晴らすために、残された者が供養を続
 け、その功徳によって西方極楽浄土へ導いていく。そうした浄土教信仰のストーリーが、
 広く受け入れられた。死が無念なものである以上、遺族は故人に成り代わってその無念
 を晴らす必要があり、死は人生における挫折と位置づけられた。もちろん、昔も長寿を
 まっとうする人はいたが、その数は少なかった。
・長い時間をかけて形作られてきた仏教式葬儀は、今や現実のそぐわないものになってい
 る。是が非でも死後は浄土に生まれ変わりたいという強い希望が薄れた今、仏教式葬儀
 の目的はすでに失われている。
・高齢で亡くなった故人は、すでに成仏している。そんな感覚が広がっている。そうであ
 る以上、一般的には葬儀をしなくても別に問題はない。そう考える人たちが直送を選択
 し、僧侶を呼ばなくなっている。だが、葬儀は仏教式だという観念はまだ残っていて、
 相変わらず仏教式の葬儀が選択されることが少なくない。その際には、どの寺とも檀家
 関係を結んでいない場合も多いので、葬儀社の紹介でどこかの寺の僧侶を導師に呼んで
 くる。
・仏教式の葬儀は、単なる形式を整えるための道具にすぎない。それ以上の意味を持って
 いない。仏教界がこれからも仏教式葬儀を続けていくなら、それを意味付ける新たな枠
 組みを確立する必要がある。今の人たちを納得させる新しいストーリーが求められてい
 る。  
・多くの人、とくに都会で暮らす人の場合、仏教式葬儀の力によって故人を成仏へと導く
 必要があるとはか考えていない。死はそのままで成仏であり、それ以上、成仏のための
 手立ては要らない。大往生の時代が、仏教式葬儀の存在基盤を根本から脅かしている。

マイ自然葬、そして究極の0葬へ
・なんのために葬儀を営み、墓を建てるのか、それが現在では不明確になりつつある。多
 くの人を集めて、故人の死を悼むべきなのか。その必要性は急速に薄れている。そもそ
 も、多くの人を葬儀に集めようにも、集まらない事態に至っている。80代、あるいは
 90代でなくなったのであれば、すでに故人の友人、知人の多くは亡くなっている。そ
 うでなければ、年齢的に葬儀に参加できない状況であり、参列を求めることができなく
 なっている。働いている時代には、大いに活躍し、人間関係が広がった人でも、会社を
 定年になり、それから20年、30年経っていれば、そうした人間関係も途絶えてしま
 う。
・社会関係がすでに大方切れてしまっている人が亡くなっても、周囲に及ぼす影響は極め
 て小さい。家族にとっては重要な出来事でも、影響する範囲はそこにとどまる。葬儀の
 簡略化ということが著しく進んだのも、こうしたことは背景になっている。それは時代
 の必然である。
・葬儀は要らない。そんな時代が訪れている。葬儀を行っても参列者がそれほどこないの
 であれば、通夜をやった上で、翌日葬儀・告別式をやるまでもない。家族や近しい親族
 だけが集まる家族葬で十分だ。それが現在の傾向である。さらには、直葬でもかまわな
 いという風潮が生まれている。葬儀に金をかけても仕方がない。そもそも、長寿が実現
 されたことで、老後の医療や介護に金がかかり、葬式に多くの金を費やすことができな
 くなっている。
・何よりも、都会では緊密な人間関係を結ぶ地域共同体が存在しない。共同体であれば一
 人の人間の死は大きな出来事になるが、都会では個々の家庭は周囲の家庭と緊密な関係
 を結んでいない。病院で亡くなり、葬儀は葬祭会館でということになれば、近隣の住人
 が故人の死を知らないままということもあり得る。あるいは、孤独死や無縁死というこ
 とも増えている。高齢者が独り暮らしをしていれば、そうした事態に直面しやすい。独
 り暮らしをしているとういうことはほかの家族と縁が薄いということで、亡くなっても
 葬式を挙げてくれる家族がいなかったりする。
・共同体のなかで生活していれば、孤独死や無縁死の心配はない。だが、共同体には拘束
 力があり、その分鬱陶しい。その点では、共同体の規制が働かない都会での独り暮らし
 は、精神的には楽である。その気楽さを捨ててまで、再び共同チアのなかで暮らしたく
 はない。土会での自由な暮らしを一度味わうと、そう感じるようになる。
・たしかに、このままいくと自分は孤独死や無縁死になるに違いないと考えると、寂しい
 気持ちになるかもしれない。だが、自分が死んでしまえば、それで終わりである。誰か
 に面倒をかけるかもしれないが、それはもう自分の責任ではない。寂しいと思う主体が
 消滅しているのだから、死んだ後のことまで心配することもない。独り暮らしの高齢者
 は、孤独死を覚悟している。 
・人類は最初から、死んだ仲間を葬るということをやってきた。だが、誰もが丁重に葬ら
 れたわけではない。身分の低い人たちは、死んだら、河原、浜あたりに捨てられた。貴
 族でさえ、死の穢れを恐れ、家族に亡くなった人間が出ても、土葬するところまでは一
 緒に行かなかった。自宅に死者が出ると穢れるという感覚があり、死が近づいた老人を
 寺に追いやるなどということは、身分の高い人間のあいだでも行われていた。姥捨ては
 決して架空の話ではなかったのである。
・それが近代に入り、社会が豊かになるとともに、都市でも立派な葬儀が挙げられるよう
 になる。第二次世界大戦後は都市化が進み、多くの人間が都会で生活するようになった。
 だが、しばらくのあいだは都市では亡くなる人間の数自体が少なかった。
・亡くなる人の数が少ない時代は、経済の発展が続いていた時代でもあり、社会にも人を
 丁重に葬るだけの余裕があった。しかし昨今、死者の数が増加していくのに反比例する
 かのように、経済の方は発展が見込めなくなってきた。デフレの傾向が続き、賃金も低
 下している。しかも、老後が長くなったことで経済的な余裕が失われ、葬儀に金をかけ
 ることが難しくなった。それでも、葬儀の方は一度だけの儀式であり、いくらでもそれ
 を簡略化できる。今のところ、もっとも簡単な方法は直葬である。
・直葬だと、火葬場に僧侶を呼ぶことも少ない。僧侶を呼べば、布施や戒名料などを支払
 わなければならない。寺院墓地に墓がないのであれば、僧侶を呼ぶ必要はまるでない。
 その後に続く年忌法要も、寺との関係がなければやる必要性はない。そもそも、やりよ
 うがない。 葬祭会館を借りてまで年忌法要をする家は少ない。無宗教式の年忌法要は、
 ほとんど例がない。よほどの著名人でなければ、死後何年目かに改めて偲ぶ会が開かれ
 ることはない。それでも、中世に比べれば、現代の人間ははるかに丁重に葬られている。
・最近、家族葬とともに一定の広がりを見せているのが「友人葬」である。これは、日本
 で最大の新宗教教団である創価学会が、それまで密接な関係を持っていた日蓮正宗と決
 別したことから生まれた葬儀のやり方である。僧侶を呼ばず、会員だけでそれを行って
 しまうのである。友人葬では、その勤行と同じことをして故人を送る。仲間がすべてや
 ってくれるので、僧侶を呼んで戒名を授かる必要がない。
・創価学会では、仏典に根拠がないこと。また信仰の対象とする日蓮が葬儀を行っていな
 いこともあって、僧侶も戒名も不要であるという結論を出し、それで友人葬の実施に踏
 み切った。それから20年以上が経つが、友人葬は会員のあいだに定着している。
・人をどのように葬るかということは、時代によって大きく変わってくる。今の時代には、
 今の時代にふさわしい葬り方がある。それはこれからも変化していくだろうが、今進行
 している葬儀の簡略化は時代の流れであり、必然であって、多くの人はそれでいいと考
 えているのだ。
・いくら葬儀の簡略化が進んだとしても、後には遺骨が残る。その遺骨はどこかに納めな
 ければならない。これはあまり知られていないことだが、地域によって火葬した後に遺
 族が持ち帰る遺骨の量は異なる。基本的には、東日本と西日本で違う。東日本では、遺
 骨をすべて持ち帰る「全コツ収骨」で、その分骨壷はかなり大きい。それに対して西日
 本では「部分収骨」で、全体の3分の1、あるいは4分の1程度しか持ち帰れない。残
 りは火葬場で処分される。したがって、骨壷も東日本に比べるとかなり小さい。西日本
 では、喉仏や頭蓋骨、あるいは体のそれぞれの部分を代表する骨だけを拾う。
・よく、日本人は骨に対する執着があると言われる。その具体的な例としては、遺骨を墓
 に埋葬するとともに、太平洋戦争で戦死した人間の遺骨収拾事業ことが挙げられる。し
 かし、遺骨収拾事業は、敗戦で無念な死を遂げた戦死者をなんとか弔いたいという思い
 から発するもので、それは民族として骨に執着しているわけではなく、若くして死んだ
 り悲惨な死を遂げた人を弔いたいというあくまでも特殊な事例だと考えるべきであろう。
 もし日本が戦争に勝利していたら、事情はかなり変わっていたのではないだろうか。
・日本には「両墓制」があった。それは土葬したところを「埋め墓」とし、供養の対象と
 はせず、別のところに詣るための専用の「墓」「詣り墓」を建立するやり方である。  
 遺骨がない墓に詣るのはおかしいと感じられるかもしれないが、昔はそれが当たり前だ
 った。これも日本人に骨自体に対する執着がない証拠になるだろう。
・墓への納骨の仕方も、実は地域によって異なる。これは収骨のように東日本と西日本で
 きれいに分かれるわけではないが、たとえば東京を中心とした関東では、墓の下にある
 カロート(収骨室)は石やコンクリートでできていて、遺骨は骨壷に入れたまま墓に納
 める。それに対して、東北や関西ではカロートの下は土になっていて、遺骨はそこに
 直接置かれるか、さらしの袋などに入れられて置かれる。納骨するときに便利なように、
 カロートに窓がついていて、墓石を動かさないでも納骨ができる墓が普及している地域
 もある。ちなみに東北地方では、通夜の後に火葬してしまうので、葬儀・告別式が営ま
 れる葬祭場には遺体は持ち込まれない。 
・どのように死者を葬るかで地域差は大きい。日本全体に当てはまるようなしきたりはな
 い。皆、それが自分たちの地域だけのやり方だとも知らずに、それに従っているのであ
 る。
・関西では、京都に仏教の各宗派の本山が多いこともあり、「本山納骨」という制度が定
 着したという。これは、遺骨を各宗派の本山に納めるものである。本山ではそれを合祀
 して供養することになるが、納骨料は5万円以下と安い。この方法をとれば、家に墓を
 設ける必要がない。その点では、東京周辺のやり方がもっとも非合理といえる。全骨収
 骨で骨壷は大きく、しかも骨壷のまま納骨する。墓自体が高価なので、カロートもそれ
 ほどスペースが取れるわけではない。骨壷の数が増えれば、入りきらない。それに、骨
 壷のままなので、遺骨が土に還ることもない。
・大阪も東京と同様に地方から出てきた人間が大量に済むようになった場所ではあるが、
 歴史が古い分、葬送習俗については合理的な方法がさまざまな形で開拓されている。墓
 を造らないでも済む方法が、いくらでもあるわけである。それに比べれば、東京周辺で
 は選択肢が少ない。したがって、骨壷は自分の家の墓に納めなければならないという感
 覚が強く、他の選択肢を考えてみもしない。墓を造りたくないならば、他にも方法があ
 るとは考えてもみもしないのである。
・遺骨を墓には葬らず、海や山に撒いてしまう自然葬、散骨という方法についてはかなり
 知られるようになってきた。自然葬とは、遺骨を細かく砕いて海や山、あるいは川など
 に撒くものである。亡くなったら自然に還るということで、自然葬という言い方がされ
 ている。自然葬をしてしまえば、後には遺骨が残らない。遺骨がなければ、墓を造る必
 要もない。
・自然葬は、日本だけでなく、世界各国に広がっている。周恩来、アンシュタイン、ライ
 シャワー、マリア・カラスなどの例がある。
・自然葬と比較して、火葬した遺骨を骨壷に納め、それを墓に埋葬するやり方は、遺骨が
 自然に還らないという点で「不自然葬」だとも言える。この不自然葬の場合、いったい
 いつまで遺骨を供養し続けなければならないのか。そこに大きな問題がある。
・自然葬に関しては、「葬送の自由をすすめる会(SJS)に依頼しないでも、あるいは
 業者に頼まなくても、自分たちでできる。私はそれを「マイ自然葬」と呼んでいるが、
 マイ自然葬は自前の自然葬になる。遺骨は自然葬を実施する人間が自分で、あるいは業
 者に依頼して粉にしてもらい、それを海なら水溶性和紙に包み、山ならそのまま撒いて
 しまうのである。
・自然葬は海や山で行われるが、海と山とでは条件が違う。海は誰のものでもないが、山
 となると必ず所有者がいる。したがって、山で自然葬を行う場合には、自分たちで所有
 している土地か、自然葬を行うことを許可されたところでないとできない。自分の土地
 であっても、周囲の住民の承諾を得なければならないかもしれない。あるいは、承諾を
 得る必要がない人里離れた場所でなければならない。そうした条件が整った場所がある
 ならば、山でマイ自然葬ができる。
・海ならば、自分で所有する、あるいは利用できる船があれば、それで沖に出て自然葬を
 行えばいい。船がない場合はチャーターしてそれに乗り、やはり沖合に出て自然葬を実
 施することになる。 
・私は自然葬のさらに先があるように思っている。それが「0葬」である。0葬は、今求
 められている究極の葬り方かもしれない。
・火葬の場合にも、火葬した時点で終わりにしたらどうだろうか。遺骨の処理は火葬場に
 任せ、それを引き取らないのである。これは、土葬し終えた状態と同じになる。それが
 0葬である。
・多くの火葬場では遺骨を引き取ることが原則になっていて、遺族はそれに従っている。
 地方自治体の運営する火葬場では、条例を定め、そこで火葬を依頼した者は、火葬後に
 焼骨を引き取らなければならないと定めているところが多い。しかし、火葬場によって
 は、申し出があれば遺骨を引き取らなくても構わないところがある。実際、そうした申
 し出をする人たちがいて、火葬場に処分を任せている。その数は、どうやら近年増えて
 いるようだ。0葬であれば、遺骨を引き取らないので、それは手元に残らず、墓に納め
 る必要がない。自然葬にする必要もない。
・遺骨を引き取らないなどということを聞けば、それに抵抗を持つ人もいるだろう。それ
 だと、故人を粗末に扱っていることになるのではないかと言い出す人もいるはずだ。し
 かし、火葬された骨が最終的になんらかの形で供養されるのであれば、問題はない。 
・今の火葬のやり方では、最後にどうしても遺骨が残るので、私たちはそれを故人の代わ
 りと考え、墓に納めて供養をしている。しかし、例えばもし火葬の技術的なやり方が変
 わり、すべてが燃え尽きてしまい、遺骨が残れないようになれば、すぐにそれに慣れて
 しまうのではないだろうか。
・現在では、火葬の後に骨上げというしきたりがあるために、温度調整をして骨を拾いや
 すい状態に焼いているように思われる。骨がある程度しっかり残っている方が、箸で拾
 い上げても崩れないからである。だが、昔から骨上げが行われていたわけではない。こ
 れは火葬が普及してからのしきたりで、おそらく第二次大戦後になってから広まった慣
 習だろう。火葬場の職員は、骨上げの意味についてもっともらしい説明してくれるが、
 それは誰かがどこかで考え出したものである。焼き方も今の方法である必要はなくなる。
・もし仮に火葬が広まったとき、遺骨が残らない、あるいは灰になってしまうやり方が
 一般化していれば、皆、それが当たり前だと考え、それに抵抗感を抱くことはなかった
 はずだ。現実とはそういうものだ。私たちの意識は、現実が変わることでどんどん変化
 していくものである。 
・0葬にしたら、故人を供養できないと言い出す人もいるだろう。どうしても故人の供養
 を行いたいというのであれば、どこかに墓なり慰霊碑なりを建て、それを対象にすれば
 いい。両墓制の時代には、私たちはそうしていた。骨がなければ供養が行えないという
 わけではない。
・0葬に移行することで、私たちは墓の重荷から完全に開放される。墓を造る必要も墓を
 守っていく必要もなくなるからだ。ゆえに、遺族に負担がかからない。
・私たちは必ずしも墓が必要だと思うから、それを造っているわけではない。遺骨が残る
 ことでそれを葬る場所を必要としているから、という面が強いのだ。
・0葬などにされたら自分の存在がすぐに忘れられてしまうと考える人がいるかもしれな
 いが、私たちは墓があるから故人のことを思い出すわけではない。思い出される人は、
 どんな環境にあっても思い出されるのだ。
・人が死ねば、やがてその存在は忘れられていく。何年もその存在が、多くの人に記憶さ
 れている人はほとんどいない。だから、あっさりと消えてしまった方がいい。まさに
 「立つ鳥跡を濁さず」である。
・自然葬は自然に還るための方法ではあるが、どうしても人の手を煩わず。自社は自分で
 は海や山に還れない。だが、0葬ならは、自然葬以上に人の手を煩わすことがない。遺
 骨を処理する人の手は煩わせるが、それはあくまでも仕事の一環に含まれる。

人は死ねばゴミになる
・人は、何も持たないで生まれてくる。生まれたときは裸一貫で、己の肉体しか持ってい
 ない。ところが、次第に成長していくにつれて、さまざまなモノを所有するようになる。
 もちろん、そのなかには生きていくためにどうしても必要なモノはある。だが、そうで
 ないモノも多い。いつの間にか、私たちは必ずしも生きていく上で必要とされないモノ
 を貯め込んでいく。家の中を見回してみれば、滅多に使わないモノ、さらには一度も使
 ったことがなく、これからも使う見込みがないモノが溢れているのに気づく。
・自分が所有しているモノをあの世には持ち込めないからこそ、人間は葬儀や墓にこだわ
 るのではないだろうか。立派な葬儀をすれば、その人物のことは、式に参列した人々の
 記憶に残る。墓は永遠に残り、そこに納められた人間の存在を後世にしらしめる。自分
 が死んでしまえば、後にどうなるか、それを見届けることもできないわけだから、そん
 なことどうでもいいはずなのだが、人は不思議とそこにこだわる。人間は厄介な生き物
 である。
・あっさりと死にたい。死ぬときくらいはあっさりと逝きたい。現代の私たちにはそうし
 た願望がある。生きている間は、あり余るほどのモノに囲まれ、モノを獲得するために
 あくせくと働いてきた。人間関係のしがらみも厄介なもので、随分とそれに縛られてき
 せめて死んだ後は、モノも要らないし、人間関係の煩わしさからも逃れたい。その点で、
 「あっさり死ぬ」は現代の死生観を示している。
・これまでの日本人は、「あっさり死ぬ」の対極の死に方をしてきた。葬儀は大イベント
 相当な費用をかけてきた。「葬式は、要らない」で指摘したように、これほど高額な葬
 儀を行ってきた国民は、世界を見渡しても他にいない。 
・自然葬にしても0葬にしても、墓を設けないのであれば、寺の檀家になる必要はまるで
 ない。檀家関係がなければ僧侶を葬儀に導師として呼ぶ必要もないし、布施も戒名料も
 不要である。寺に故人の供養をしてもらうことを望まないというのであれば、わざわざ
 関係を結ぶ必要もない。寺の檀家になっていなくても十分に故人を弔うことができるし、
 何も檀家であることで贅沢をしたくはない。
・墓の心配がなくなれば、人生が随分に気楽になる。どうしても故人を思いだし、その教
 養を行うためのよすがとして墓が必要だというなら、墓を設けることも自由だ。けれど
 も、そうした気持ちがないのであれば、墓に莫大な金をかけたり、墓をどうしようかと
 思い悩む必要はない。
・現在では人の葬り方に対して資本の論理が介入し、それで儲けようとする人たちが増え
 ている。そうである以上、生きている人間は、自分たちの生活を守るために経済的な側
 面を無視するわけにはいかないのだ。
・私たちは死者のことを、あるいは死後のことを気にかけすぎてきた。それによって、死
 者は私たちの身近にいて、生きている者の行く末を見守っているという感覚を得てきた。
・現在の葬式仏教は、先祖崇拝を基盤として成立した。先祖を信仰の対象とするからこそ、
 その供養を熱心に行ってきたわけである。だが、もはや現代の都市社会では、何代にも
 遡っての先祖は信仰の対象にはならない。供養の対象となる死者はこれまで身近で一緒
 に生活してきた人間に留まり、それ以上は遡らない。
・今後、多くの人が0葬を望むようになれば、それに対応する火葬場も増えていくだろう。
 そうなれば、どこでも0葬が可能になる。0葬がどこでも可能になるならば、死後の不
 安は解消される。死にゆく者を生き続ける者も、葬儀や墓にかかる金のことで心配する
 必要ななくなる。 立派な墓を造っても、今の社会状況が続けば、近い将来に無縁墓に
 なる可能性が高い。無縁墓になった墓石を処理するのは面倒である。
・遺体は適切に処理し、後に面倒がかからないようにする。それこそが、死にゆく者にと
 っては自らの「死後の不安」を根本的に解消することにつながり、生きている者の負担
 を軽減する道なのである。 

おわりに
・遺骨はただの骨であり、故人の魂が宿っているものでもない。土葬時代には、仏教の僧
 侶が供養を行うときも、位牌は対象になるが、土の中に埋められた遺体はその対象には
 ならなかった。遺骨が重視されるのは、火葬という慣習の広がりが生んだ新しい傾向な
 のである。
・モノがあり余るほど作られれば、それで人々はモノを必要以上に求めなくなり、無所有
 の生活が実現されると考えている。今の日本の社会は、モノが十分に行き渡り、あり余
 っている。それは、日本が無所有の社会に近づいていることを意味する。
・今の社会では、贅沢を言わず、新型を求めなければ、三種の神器など簡単に安く手に入
 る。人からもらうことだった、それほど難しいことではない。今の若い人は、収入が上
 がらないことに不安を感じ、またそこに不満も抱いている。だが現在は、豊かさが実現
 され、インフラが整備されて、モノが溢れていることで、金がかからない社会が実現さ
 れようとしている。もう、多くのモノを所有しなければならない社会ではなくなってい
 るのだ。
・そんな社会において、改めて墓を造るなどということはバカげている。墓は、相当に厄
 介で、面倒なものである。おまけに、それを造るには莫大な費用を必要とする。
・無所有であるということは、自分のからだもまた、自分の所有物ではないことを意味す
 る。まして、遺体や遺骨ともなれば、それは本人のものでもなければ本人の所有物であ
 るとも言えない。遺族にとっても、なくてはならないモノでもない。そんなモノに縛ら
 れるのは、いい加減やめたほうがいい。
・墓がなければ、墓参りにも行けないのではないかという人がいる。墓参りは一家にとっ
 て重要な行事なので、それをしなければ家族が集まる機会がないというわけである。し
 かし墓参りは、郊外に墓が造られ、車でそこに出かけるようになって生まれた新しい習
 俗である。それに、家族や親戚が集まりたいというのであれば、故人を悼むという名目
 で食事会でも開けばいい。わざわざ遠くにある墓にガソリン代を使って出かけていき、
 もうそこにはいない故人に向かって手を合わせる必要などまったくないのだ。