ゆったり生きよう :ひろ さちや

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「結果第一主義」、今の世の中はまさに結果第一主義の世の中になってしまっていると感
じる。特に政治がそうだ。選挙に勝ちさえすれば、過半数さえ取れば、国民の意向など関
係なく何をしてもいい。憲法に違反するようなことでも構わずやってしまえ。今の安倍政
権はそんな姿勢が強く出ている。
安倍首相の口から時々出る「私が総理大臣だ!」との発言は、「私が社長だ!」というカ
リスマ経営者の姿勢とよく似ている。会社の経営なら、そういう経営のやり方も「あり」
なのかもしれない。しかし、会社の経営と国の運営とは性質が全く違うと思う。国民は国
家の従業員ではない。人は会社や仕事のために生きているわけではない。人は生きるため
に仕事をしているのだ。それと同様に、国民は国家のために存在しているわけではない。
国民が存在するために国家を作っているのだ。
人が仕事に命を捧げることは本末転倒だ。それと同じように、国民が国家に命を捧げるこ
とは本末転倒である。「仕事だ!」とか「国家だ!」とか力まずに、ゆったり生きたいも
のである。

いま、なぜ仏教か?
・この世の中に、完全な人間なんていやしない。だから、お互いが善意であるにもかかわ
 らず、どうしても相手に迷惑をかけてしまうのだ。自分が相手に迷惑をかけているのに、
 相手から迷惑をかけられると、わたしたちはついカッとなってしまう。でもそれではい
 けないことなんだ。いけないことというより、わがまま勝手である。そんなふうに、自
 分中心にものを考えてはけない。人間というものは、お互いに助け合って生きねばなら
 ない存在なんだ。
・「堪忍」というのは、じっとこらえて忍ぶことである。怒りをおさえて、他者の過失を
 許すのが堪忍である。他人を許すのは、自分が偉いからではない。自分が完全な人間だ
 からではない。そうではなくて、自分もまた過ちを犯し、それを他人に許してもらって
 いるからである。だから、私たちは他人を赦し、他人から赦されて生きているのだ。そ
 れがこの娑婆での私たちの生き方である。不完全な凡人である私たちは、どうあがいて
 みたところで、それ以外の生き方ができるわけではない。
・権利−義務といった観念もあって、人間関係を見ようとする西洋流の考え方が輸入され
 てきた。人々は、あまり深く考えることなく、その権利−義務の考え方にとびついた。
 しかし、輸入品は輸入品である。そんなものが、そうすんなりとうまくいくはずがない。
・自分の権利を守るには、人間は闘わなければならない。西洋人はながい闘いの歴史の末
 に、ようやく権利を手に入れたのである。権利というものは、それを守る意志があって
 はじめて存在するものである。自分の権利を守る努力をせずに、誰が自分の権利を守っ
 てくれるだろうか。 

登校拒否
・現今の教育環境に合わぬ子は大勢いる。そんな子どもにとっては、学校なんかまあ適当
 にやっておけばよいのでる。人生の幸福なんて、別段優等生でなくてもつかめるもので
 ある。かりに高校に行けないにしても、またそれなりの教育を受けるチャンスはいくら
 でもある。それに、学歴と人格とは全然無関係な話なのだ。
・凡人にできることは、なにかないか。それは、弱い立場の人に同情することである。同
 情し、いたわってあげることだ。
・善悪の行為の結果というものは、すべて宿業のなせるわざなのである。そうだとすれば、
 われわれは悪人を責めることはできない。私たちが悪人を責めれば、それはみずから仏
 の慈悲を否定したことになる。私たちは、決して他人を糾弾してはならない。

子どもの仕付け
・もともと世間というものは、口さがなく勝手な批判を人にあびせるものである。ああす
 ればこう、こうすればああと、われわれはどんなことをしたって、かならず世間の人々
 の非難の対象となるに決まっているのだ。世間の人がなんと言おうと、毅然として我が
 道を行くべきだ。 
・欧米においては子どもの仕付けが厳しいらしい。彼らは絶対に子どもを甘やかさない。
 大人が立っているときは、席に腰掛けることが許されないのはもちろんのこと、車内に
 あっては静粛にしていなければならない。いや、というより、静粛にできる子どもだけ
 が、はじめてそうした公共の機関の利用を許されるわけだ。
・キリスト教においては、神と人間との間に、絶対的な断絶がある。人間はどんなにして
 も神とはなり得ない。神は唯一・絶対であり、人間を超越した存在である。ところで、
 神と人間とその断絶の関係は、そっくりそのまま人間と動物とのあいだの関係に当ては
 まる。人間と動物とのあいだには、やはり絶対的な断絶がある。理性をもたぬ動物は、
 どうあがいても人間に太刀打ちできぬわけだ。ただ人間に従属するよりほかない。
・キリスト教において子どもは、基本的にまだ動物の段階にある存在として認識されてい
 る。だから、動物と同じく子どもは、保護の対象とされる。けれども、保護ばかり加え
 ていては、子どもは永遠に動物の段階から抜け出ることができない。そこに教育があり、
 仕付けがある。

寄付行為
・失業者というのは資本主義社会に不可欠の存在だと思っている。失業者がいないと、経
 済は成長しないのである。会社が資本金を大きくして新たに労働者を雇おうとしても、
 社会に一人も失業者がいないと雇えない。だから、資本主義社会はいつも失業者をつく
 っておく必要がある。ならばその失業者は、社会が生活を保障すべきだ。失業保険は、
 なにも恩恵ではない。 
・私たちが生きているこの地球は、人類みんなの共有物である。ほんらいを言えば、誰も
 が安心して生活できるようになっていなければならない。だが、経済効率のために、健
 康な人間だけに都合のいいようにこの社会を変えてしまった。
・したがって、福祉事業は政治の問題である。人々の好意に依存した、慈善事業であって
 はならない。福祉予算は切り詰めて、軍備費を増強する政府の姿勢こそ、糾弾されるべ
 きだ。寄付行為は、そんな悪政の尻ぬぐいをすることになる。それは、問題のすりかえ
 でしかない。街頭募金の前を通るとき、私はいつもそう思う。
・仏教の布施と慈善とは、どうちがうのだろうか。相手のためにするのが慈善で、自分の
 ためにするのが布施である。では、自分のためにする布施とは、どういうものか。自分
 の慳貪さを反省し、それを矯正するのが布施である。
・つまり、私たちが非常に物欲にとらわれているそのことを、みずからが所有しているも
 のを施すことによって捨て去るのである。人間は財物を所有すればするほど、かえって
 財に執着するからである。貧乏人はさっぱりと生きられるが、金持ちは概ね胴欲である。
 所有を減らせば、それだけ気が楽になろう。それが布施の目的なのだ。だから、布施は
 自分のためにするのである。布施をさせていただけば、お礼を言うべきは、布施した当
 人である。 
・仏教において布施は、一つの修行である。それは、自分のためにするものである。自分
 の慳貪の心を捨てさせていただく、大事な修行である。

正義感
・日本人のもっている正義感はどこかおかしいのである。私自身についてみてもそうなの
 だが、我々が正義感を発揮すればするほど、どうもまわりが窮屈になってしまう。
・彼らヨーロッパ人には、彼らの生き方があるのである。彼らはのんびりと生活を楽しん
 でいる。日本人のごとく、馬車馬のように働くことを、彼らは拒否するのである。最低
 限を働き、そしてゆっくりと人生を楽しみつつ生きることを彼らは理想としているのだ。
・妥協点を見出して行くことが、じつをいえば真の意味での正義だと思う。相手との妥協
 も考えずに、ただひたすらに自分の正義をふりまわすことは、まあ子どものやることで
 あろう。  
・ヨーロッパの人々の正義に対する考え方は、だいぶ我々日本人と違っているらしい。彼
 らは、相手かまわずに自分の勝手な正義を押し付けることはない。いや、そんなものは、
 彼らにとっては正義ではないのである。それはエゴイズムに過ぎず、自分だけ都合のよ
 い議論をいくら大声でわめいても、欧米人のあいだにあっては、鼻も引っ掛けられない
 であろう。正義というものは、相手の立場を考慮した上で言われることなのである。
・人の運命はそれぞれ特別なものです。人々を審判し非難するための普遍的な法則という
 ものは存在しないのです。 
・千篇一律の正義があって、それを他人に強制し、それで他人が裁けるなどと思ったら、
 大間違いである。正義というものは、そんなものではない。
・あまりに極端な生き方。・行き方は、仏教では拒否されている。極端に厳格な苦行主義
 も、またあまりに放逸な生活も、ともに仏教の善しとするところではない。仏教でいう
 正義は、そんな極端を否定した中道にあるはずだ。
・独りよがりの正義をふりまわすことは、むしろ仏教の嫌うところである。そんな独善的
 な正義ではなく、もっと誰もが納得できる。ゆったりした正義があるはずだ。いや、独
 善的な正義なんてものはほんとうの正義ではなく、ほんとうの正義というものは、ゆっ
 たりとした、誰にとってもなるほどと納得できるものだと思う。 
・それにしても、日本人の正義感はどこかおかしい。やたらと正義、正義をふりまわし、
 他人の悪を糾弾するのである。その叫び声はヒステリックであり、まるでだだをこねる
 小児さながらである。

母親のつとめ
・男は、外で気楽に勤めていると思っているようだが、それは認識不足もはなはだしい。
 大部分の男は、一般のサラリーマンは、仕事なんて、嫌で嫌でたまらないのだよ。でも、
 おまんまのために、仕方なく働いているのだ。
・私は自分の仕事に誇りを持っている、と大言壮語される人は必ず出てくる。そう思える
 人は、とても幸福だと思う。醒めた冷静な眼で見れば、現代のサラリーマンに仕事の喜
 びなんてあり得ない。算盤をはじき、数字とにらめっこ。そんなことをやるために、人
 間は生きているのではないはずだ。それは、金銭を稼ぐための手段なんだ。もっとも、
 すべての人々がそういうふうに割り切ってしまうと、今度は経営者のほうが困ってしま
 うから、体制側のほうで必死になって働くことの意義と喜びと神聖さを強調。「仕事に
 生きがいを見出そう!」なんて、体のいいスローガンがつくられる。日本人は、まんま
 とそれにひっかかってしまったが、日本人や社会主義社会の中国人やソ連の労働者を除
 いて、そんな馬鹿げたスローガンに踊らされている人は少ない。
・働く必要のない人間は、なにも時間に縛られた会社勤務などする必要はないと思う。そ
 して男が働いているのは、働く必要、つまり金を稼ぐために働かざるを得ないからであ
 る。ただし、渋々、嫌々であるにしても、働いている以上は自分に与えられた仕事を立
 派にやるべきである。
・家にいる母親は、ちっとも後ろめたくなんかないのだ。家にいる女性が(社会的に)な
 にもしていないと考えているようだが、それは誤解だ。子を育てること以上に重要な仕
 事があるだろうか。 

結果第一主義悲劇
・「結果第一主義」は、日本のあらゆる分野に蔓延してしまった。政治の世界がそうであ
 る。選挙に勝ちさえすればよい。勝つためには、どんな手段だって是認されてしまう。
 経済活動もそうだろう。
・儲かりさえすればよい。なにがなんでも儲けなければならぬ。儲けるためには手段を辞
 さない。ここにもまた、「結果第一主義」が見られる。
・過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。そして未来はまだやって来な
 い。だから現在のことがらを、それがあるところにおいて観察し、揺るぐことなく動ず
 ることなく、よく見きわめて実践せよ。ただ今日なすべきことを熱心になせ。誰か明日
 の死のあることを知らん。 

少欲知足
・勤勉にはほんらい上限がある。ここまでやれば充分だという上限がなければならない。
 ところが、日本人の勤勉には、どういうわけかその上限がないのである。「もうこれで
 充分だ」という限界なしに、どこまでも馬車馬のごとく働きつづけるのである。それが
 日本流の勤勉であり、外国人からそれを見れば、まったくガツガツとした亡者・餓鬼さ
 ながらに映るらしい。
・エコノミック・アニマルと化した日本人は、大事なものを失ってしまった。たぶんそれ
 は、足るを知るこころ、であろう。私たち人間のもつ欲望には限りがない。持てば持つ
 ほど、われわれはなお欲しくなるのだ。ほうっておけば、欲望だけがいくらでもふくれ
 あがる。
・わたしは、中絶したってかまわない、と思っている。あんまり心配しなさんな。やりた
 ければ、中絶してもいいのです。わたしはそう言いたいのである。・わたしが言いたい
 のは、じつは水子供養の問題である。世の中には、さまざまな事情があって、水子をつ
 くってしまった人が多い。私は暴論であっても、中絶をしてもかまわないのだ、と言わ
 ざるを得ないのである。というのは、世の中には堕胎によって水子をつくって悩んてい
 る女性が多いと同時に、そういう女性を脅して金銭をまきあげようとする人たちも多い
 のだ。「水子供養をする必要がありますか?」そんな質問に対しては、いつも私は「い
 いえ、しないでいいのです」というふうに答えている。 
・教理を縦にとって、堕胎・中絶を悪いことだと主張すれば、ますます脅しがひどくなる
 だけだ。「水子の霊がたたる」と宣伝しては、水子供養を商売に大儲けをする連中がの
 さばるだけだ。
・戦争は、国民の自由を護るためのものだ、と言われるかもしれない。百歩譲ってその主
 張を認めても、しかし自由を護るためには何をしたって許されるわけではなかろう。も
 しそれが許されるなら、女性が自分の自由を守るために中絶したっていいことになる。
 一方は享楽の自由だと言われるかもしれないが、他国の人々から見れば、日本人の主張
 する自由は所詮享楽的自由でしかないのだ。
・享楽と頽廃の世相をつくりだしたのは、わたしたち大人ではないか。テレビや新聞・雑
 誌で消費文化をあおりたて、セックスを商品化し、それを若者たちに押し付けたのは、
 私たち大人である。それが資本主義社会のやり方なんだ。資本主義社会というものは、
 セックスも暴力も、あらゆるものを商品化してしまう。そうしないと、社会が潰れてし
 まうからである。若者たちは、そんな頽廃の社会の犠牲者である。生命の尊重を教える
 べき大人が、戦争を肯定し、軍備の増強を説き、暴力を賛美しているのだ。非難される
 べきは、その大人のほうである。

良心的兵役拒否
・現実の政治は力関係で動かされる。その力関係をよく認識せずに、筋論を主張すれば、
 結果は強者の味方をしたことになる。だから私は、仏教者はあまり政治的な問題に発言
 せぬことだと思っている。もしも発言するならば、仏教者は弱い者の味方をすべきだと
 思う。世の中は力が正義なんだから、正義ということでものごとを判断すれば、強い者
 が得をするにきまっている。
・欧米社会で認められているような「良心兵役拒否」の権利を、いまの平和な日本のうち
 に、あらかじめ獲得しておくべきである。「良心的兵役拒否」とは、宗教的な理由によ
 って兵役拒否ができるとするものである。その代わり良心的兵役拒否には、戦時におい
 ては、例えば監獄での強制労働だとか、野戦病院での勤務などが課せられる。それでも
 武器をとらぬと誓う信念がないと、なかなかできぬことである。
 
邪教か正教か
・私は、自分の知らない宗教団体について、それがまともな宗教かどうかを判定する基準
 を自分なりにもっている。それは、簡単なことである。入信をすすめられた者が、「よ
 く考えてみたのですが、やはり入るのはやめます」と言ってみつことである。そう言っ
 て、相手が腹をたててあなたを脅しにかかってくるならば、その相手がすすめる宗教は
 邪教である。私はそう判定するのである。
・邪教の宣伝では、すでに不幸があった家を狙うのだ。人間の運勢というものは、少し落
 ち目になるとそれが加速される傾向があるので、どうしても不幸が重なりやすい。そこ
 を邪教はつけ狙って、しつこく勧誘する。そして、入信を断った者には、「不幸がある
 ゾ」と脅しをかける。 

ゆったりの生き方
・あまり焦らずに行こうではないか。ゆったりとした行き方、生き方のなかに、私は仏教
 があると思っている。それに、迷ってよいのである。迷いながら、少しずつ進んで行け
 ば、そのうちにわかってくるはずだ。ともかく、焦りがいちばんいけない。