友だち幻想 :菅野仁

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筆者は仙台出身で大学も東北大学文学部卒である。社会学を専攻し、ずっと教育関係の職
に携わり1996年からは宮城教育大学で助教授を経て副学長へと進んだ。しかし、残念
ながら2016年にがんが原因で死去されたとのことだ。
本書は、2008年に出版されたもので、学生などの若者を読者に想定して書かれている。
そのため、内容は分かり易いように専門用語はできるだけ使わず、やさしい言い回しで書
かれている。
しかし、主題に置いた「友だち」すなわち人間関係の問題は、小中高生や大学生などの若
者に限らず、社会に出ても、中年になっても、そして老人になっても、生きている限り、
ついて回る問題である。
この本が書かれてから後の2011年に東日本大震災が起こり、それをきっかけに昔のよ
うな「絆」が見直され、いろいろなメディアで盛んに「絆」という言葉が叫ばれるように
なった。
確かに「絆」は大切である。しかしそれがあまりに強調されると、逆に息苦しさを感じる
人も多いのではないかと思う。昔の社会では家族や近隣との「絆」がとても強く、お互い
に助け合って生きていたが、社会が近代化するにつれて、そんなに助け合わなくても生き
て行けるような社会になってきた。逆にその「強い絆」が「強い束縛」に感じるようにな
ってきたのである。そして、その「強い絆」による束縛を嫌い、「絆の弱い」都会に飛び
出す若者が多かったのだ。
それが2011年の東日本大震災をきっかけに、まるで振り子が左から右に大きく振れる
ように、「強い絆」を叫ぶようになった。しかしそれは、筆者がこの本の中で「友だち幻
想」と表現したと同じように「絆幻想」だと私は思う。「絆」さえ強ければ、地震などの
災害時には、お互いに助け合えるから、普段から「強い絆」を作っておこうと思っても、
災害のない日常が長く続く間に、だんだんその「強い絆」がお互いへの束縛に変わり、だ
んだん息苦しくなり、不要な衝突も起こってくるのである。
やはり人間関係には、お互いの間に適度な距離が必要なのだと私は思う。これは親しい友
人の間においても、夫婦間や親子間においても言えるのではないかと思う。この適度の距
離感というものがないと、どうしても不要な衝突が起こりやすくなってくる。それが人間
関係なのだと私は思う。

人は一人では生きられない?
・かつて日本には「ムラ社会」という言葉でよく表現されるような地域共同体が存在して
 いました。「ご近所の人と顔と名前は全部わかる」といった集落がそれです。これは、
 何も地方の農村や漁村だけに限ったことではなく、東京のような都会にだってあったの
 です。
・今の私たちは、お金さえあれば一人でも生きていける社会に生きています。でも、普通
 の人間の直感として「そうは言っても、一人はさびしいな」という感覚があります。本
 当に世捨て人のような生活が理想だという人もいないわけではありませんが、たいてい、
 仮にどんな孤独癖の強い人でも、まったくの一人ぼっちではさびしいと感じるものです。
・現代社会において基本的に人間は経済的条件と身体的条件がそろえば、一人で生きてい
 くことも不可能ではない。しかし、大丈夫、一人で生きていると思い込んでいても、人
 はどこかで必ず他の人々とつながりを求めがちになるだろう。しかし、現代では、それ
 を求めることにとってかえって傷ついたり、人を追い詰めたりするような状況に陥るこ
 とがあります。どうしてそうなってしまうのでしょう。一つには、「親しさを求める作
 法」が、いまだに「ムラ社会」の時代の伝統的な考え方を引きずっているからなのだと
 私は考えています。
・ある程度の社会経験を重ねれば、のらりくらりとかわせることも、若い人は真正面から
 受け止めてしまいがちです。中学、高校などの部活動における先輩−後輩の関係の作り
 方などをみていると、そう感じることがあります。一歳か二歳しか違わないのに、かな
 り厳しい上下の関係を守っている場合があります。だから辛いし、ときとして爆発して
 しまうこともあるではないでしょうか。
・私たちはある種の共同体的なつながりや関係の中で培ってきた、とりわけ日本人的な親
 しさの作法をお手本にし続けています。そこには確かに、損得を超えて人を全面的に包
 み込むような温かみや情愛の深さを受け継いでいる面もあるかもしれません。だから無
 下に否定してしまうわけにはいかないという側面が確かにあります。しかし、みんな同
じような職業や生活形態を前提とするムラ的な共同体の作法では、もはや親しさを維持
することはできないほど、私たちの置かれている状況は以前とはすっかり変わってしま
ったと考えたほうがいい。ムラ的な伝統的作法では、家庭や学校や職場において、さま
ざまな多様で異質な生活形態や価値観をもった人びとが隣り合って暮らしている今
 の時代にフィットしない面が、いろいろ出てきてしまっているのです。そろそろ、同質
 性を前提とする共同体の作法から、自覚的に脱却しなければならない時期だと思います。
・共同体的な凝集された親しさという関係から離れて、もう少し人と人との距離感を丁寧
 に見つめ直したり、気の合わない人とても一緒にいる作法というものをきちんと考えた
 ほうがよいと思うのです。     

幸せも苦しみも他者がもたらす
・人間にはいろいろな考え方があるけれども、やはり自分が、さらに自分の周りの人も含
 めて幸せになりたいということが、「生きる」ということの一番の核となっているのだ
 と私は思うのです。さらにいえば、自分一人だけで幸せを得るよりも、身近な人たちを
 中心にできれば多くの人と幸せを感じることができれば、その方が人はより大きな幸福
 を味わえたことになるのではないでしょうか。
・人間の幸福にとって本質的なもの、それは結局二つのモメント(契機)に絞られると私
 は考えています。そして、その二つのモメントしか、幸福を語るときの大事な核はない
 のではないかと思います。そのひとつが「自己充実」というモメントです。これは「自
 己実現」という言葉でも言い表すことができます。つまり自分が能力を最大限発揮する
 場を得て、やりたいことができることです。これはとても大きな幸福に違いありません。
・「他者との交流」が持つ歓びを私は二つに分けて考えています。一つは「交流そのもの」、
 人と人との深いつながりそのものが持っている歓びというものがあります。もうひとつ
 が、「他者からの承認」です。お互いであれば「相互承認」ということになります。と
 にかく「何かを人から認められる」という歓びです。この歓びというのが、じつは何も
 のにも替え難いものなのです。
 
共同性の幻想
・日本社会はハード的部分では十分近代化したのかもしれませんが、ソフト部分ではまだ
 まだムラ的な同質性の関係性を引きずっているような気がします。しかしそうしたソフ
 ト的部分を支えてきた伝統的社会とはもはや違っているのです。かつてのムラ的な伝統
 的共同性の根拠は、生命維持の相互性でした。貧しい生産力を基盤とした昔の庶民の生
 活においては、お互いに支え合って共同的なあり方をしていなければ生活が成り立たな
 かったのです。ですから伝統的なムラ的共同性は、「出る杭は打たれる」「長いものに
 は巻かれろ」といったことわざが示すような同調圧力が強い判明、お互い生活を支え合
 い助け合うという相互扶助の側面も大きかったのです。
・しかし現代におけるネオ共同性の根拠にあるのは、「不安」の相互性です。多くの情報
 や多様な社会的価値観の前で、お互い自分自身の思考、価値観を立てることはできず、
 不安が増大している。その結果、とにかく「群れる」ことでなんとかそうした不安から
 逃れよう、といった無意識的な行動が新たな同調圧力を生んでいるのではないかと考え
 られるのです。   
・人間が持つ「社会的性格」を三つに類型的に分けると、「伝統的指向型」「内部指向型」
 「他人指向型」に分けることができます。伝統指向型とは、近代以前の社会に支配的な
 社会的性格で、自分の主体的な判断や良心ではなく、「昔からこのようになっている」
 とか「家長がこういっているからこうなんだ」といった形で外面的権威や恥の意識にし
 たがって行動の基準を決めるタイプです。内部指向型とは、近代の形成期に見られる社
 会的類型で、自分の内面に心の羅針盤を持ってその基準に照らして自分の行動をコント
 ロールするようなタイプの人間です。他人指向型とは、文字通り自分の行動の基準を他
 者との同調性に求めるタイプの人間のことを指しています。
・言葉には他の人とのコミュニケーションの手段であると同時に自分の内面の気持ちに輪
 郭を与えるという大事な働きもあります。もやもやした気持ちが言語化できただけでも、
 精神的にずいぶん違ってくるのではないでしょうか。
・人の間と書いて「人間」というくらいですから、もともと人間は共同的本質を帯びてい
 ると考えられます。その本質が目に見える形で直接現実の人間関係として具体化された
 あり方が、かつてのムラ的共同体なわけです。そこでは、つながりをものすごく緊密に
 して、とにかく「一緒にいる、一緒でいる」ということがとても大事に考えられていた
 わけです。  
・現代社会において人間の共同性は、一方でとても抽象的な形で、直接的ではなく間接的、
 媒介的な性質を帯びてますます広がっています。「貨幣(=お金)」に媒介された人間
 関係がそれです。貨幣が社会全体に浸透しているということは、じつは人間の共同性が
 なくなって、みんなバラナラになってしまったのではなく、目に見えない間接的な形で
 人間の共同的本質が世界規模に拡散したと考えた方が正確です。
・個人が経済的に自立するということは、貨幣を媒介することによって、世界レベルで他
 者たちの活動へ依存するということと表裏一体なのです。生活の基盤をつくる人びとの
 「つながり」が、直接的に目に見える人たちへの直接的依存関係から、貨幣と物を媒介
 して目に見えない多くの人たちへ間接的依存関係へと変質したのです。これが現代の共
 同性の実現の一方のあり方です。そして一方で、こうした生活基盤の成立によって、家
 族関係や友人関係といった身近な他者との関係において親しさや暖かさを純粋に求める
 時間的余裕や意識のあり方が可能になっているのです。  
・しかし現代社会においてこうした共同体の二重の成り立ちにきちんと対応するしかたで、
 人びとの精神的構えが出来上げっていないのが現状なのではないでしょうか。貨幣ー経
 済的ネットワークを背景にして、各家庭ごとのあるいは一人ひとりの活動の自由や多面
 化が進行しているにもかかわらず、「みんないっしょ」という同質性が強く求められる
 と、やっかいなことが起こるわけです。人びとは一方で個性や自由を獲得し、人それぞ
 れの能力や欲望の可能性を追求することが許されているはずなのに、もう片方でみんな
 同じでなければならないという同調圧力の下に置かれているというあり方に引き裂かれ
 てしまっているのです。
・近代以降、現代社会になってますます人間は、ムラ的共同性がもっていた直接な拘束力
 から切り離された形で、都市的な自由や個性の追求が可能になったのです。それまでは
 たとえ個性を持ちたいと思ったとしても、それを社会的に実現する場所ときっかけを与
 えられることがなかった人びとが、近代以降、しだいに自分の好きな振る舞い方をや欲
 望の実現を求めることができるようになったのです。
・こうした状況のなかでは、実際は身近にいるからといってみんな同じというわけにはい
 かず、自分とは違う振る舞い方、自分とは違う考え方や感じ方をする人びとといっしょ
 に過ごす時間も多くなります。自分が好むと好まざるとにかかわらず、他者といっしょ
 にいなければならない時代の組織的集団においては、こうした経験は避けられません。
 つまり、現代社会においては、「気の合わない人」といっしょの時間や空間を過ごすと
 いう経験をせざるを得ない機会が多くなっているのです。だから「気の合わない人と一
 緒にいる作法」ということを真剣に考えなければならないと思います。
・現代のさまざまな人間関係の問題を解消するための方法として、「並存性の重視」とい
 うことをきちんと主張すべき段階にきているのではないかと私は考えます。
・「一年生になったら、友だち百人できるかな」という歌詞がありますが、あれってけっ
 こう強烈なメッセージです。小学校の一年生になったら、友だち百人作りたい、あるい
 は百人友だちを作ることが望ましいのだという、暗にプレッシャーを感じた人も多いの
 ではないでしょうか。    
・学校というのは、とにかく「みんな仲よく」で、「いつも心が触れ合って、みんなで一
 つだ」という、まさにここで私は「幻想」という言葉を使ってみたいのですが、「一年
 生になったら」という歌に象徴されるような「友だち幻想」というものが強調される場
 所のような気がします。けれど私たちはそろそろ、そうした発想から解放されなければ
 ならないと思っているのです。
・子どもたちが誰でも友だちになれて、誰でも仲良くなれるということを前提としたクラ
 ス運営・学校経営は、やはり考え直したほうがいいのではないでしょうか。どの学校で
 も、やはり「いじめゼロ」を目指しています。そのためのプランを伺うと、「それには
 みんなで一つになって」とか、「人格教育に力を入れて、心豊かな子どもたちを育てた
 い」「みんなで心を通い合わせるような、そんな豊かなクラスを作っていきたい」と熱
 く語られます。でも、私はちょっとひねくれた人間ですから、「それは理想だろうし、
 努力目標として高く掲げるのはまあいいかもしれないけれども、そういうスローガンだ
 けでは、逆に子どもたちを追い詰めることにならないかなと、どうしても思ってしまう
 のです。
・1980年代以降は、都市部ばかりではなく地方においてもムラ的な共同性という支え
 がほとんどなくなってきていて、地域自体が単なる偶然にその場に住んでいる人たちの
 集合体になっています。同じ地域から学校に通って来るといっても、先生方は今でもつ
 いつい「クラスは運命共同体だ」というような発想になりがちなのだけれども、子ども
 たちは単なる偶然的な関係の集まりだとしか感じていない場合が多いのです。
・気の合う仲間とか親友というものと出会えるということがあれば、それはじつは、すご
 くラッキーなことなのです。そういう偶然の関係の集合体の中では、当然なことですが、
 気の合わない人間、あまり自分が好ましいとは思わない人間とも出会います。そんな時
 に、そういう人たちとも「並存」「共存」できることが大切なのです。そのためには、
 「気に入らない相手とも、お互い傷つけあわない形で、とも時間と空間をとりあえず共
 有できる作法」を身に付ける以外にないのです。大人は意識的に「傷つけ合わずに共存
 することがまず大事なんだよ」と子どもたちに教えるべきです。
・「みんな仲良く」という理念も確かに必要かもしれませんが、「気の合わない人と並存
 する」作法を教えることこそ、今の現実に即して新たに求められている教育だというこ
 とです。    
・「その子にもいいところはあるでしょう。相手のいいところを見てこっちから仲良くす
 る努力をすれば、きっと仲良くなれるよ」というのは、一見懐の広い大人の意見です。
 その理想どおりに運ぶこともあるでしょうが、現実にはなかなか難しいかもしれません。
 こんなときは、「もし気が合わないんだったら、ちょっと距離を置いて、ぶつからない
 ようにしなさい」と言ったほうがいい場合もあると思います。これは「冷たい」のでは
 ありません。無理に関わるからこそ、お互い傷つけ合うのです。「ニーチェの言葉に、
 「愛せない場合は通り過ぎよ」という警句がありま。あえて近づいてこじれるリスクを
 避けるという発想も必要だということです。
・誰でも、自分がうまくいかなかったり、世の中であまり受け入れられなかったりしたと
 きに、自分の力がたりないんだと反省するよりも、往々にして「こんな世の中間違って
 いるんだ」と考えたり、うまくいっている人たちを妬んだりするつもりです。そんな感
 情を自覚して、「どうやり過ごすか」を考えることが大切です。
・人が生きてゆくうえで、ルサンチマンに絡め取られそうになる場面はたくさんあります。
 人間の生にとって必要な負の感情として、リサンチマンには人間の本質的な何かがある
 のです。リサンチマンは誰にでも起こりうる感情です。しかし、ルサンチマンにとらわ
 れずぎたり、とらわれ続けていたりすると、結局のところ、自分自身の「生」の可能性
 を閉ざしてしまうことにつながるのです。だからこそ、それにとらわれ続けないことが
 大切なのです。
・最近の傾向として優秀な生徒や、かわいくて目立つ子がいじめのターゲットにされるケ
 ースが増えているというのも、そうした「卓越した何か」を目の当たりにしたときに、
 自分の中にそうした卓越性を感じられない多くの他の子どもたちのルサンチマンが、原
 因の根っこにあることが多いようです。 
・そんなルサンチマンの感情に囚われがちなときは「自分は自分、人は人だ」という、ち
 ょっと突き放したようなものの見方をしたほうがいいと思います。「私とは関係ないで
 しょ」ということですね。「関係しよう、関係しよう」とするから、話がこんがらがっ
 てくるのです。 
・結局、「濃密な関係から、あえて距離をおくこと」が大切なんじゃないかと、私は考え
 ています。距離の感覚は重要です。では、人と人との距離というものをどういうふうに
 とらえたらいいのでしょうか。お互いにうまくいく関係というのは、その距離の感覚が
 お互い同士一致していて、ちょうどいい関係になっているのです。何かギクシャクして
 いるときというのは、その距離感がずれていたり、方向が違ったりということがあるの
 だと思います。
 
「ルール関係」と「フィーリング共有関係」
・対面的状況、組織、集団といったいろいろな単位の人間関係を考えるときに、「ルール
 関係」と、「フィーリング共有関係」に分けて考えると、お互いどういう距離をとれば
 心地よいのかが、考えやすくなると思います。「ルール関係」というのは、他者と共存
 していくときに、お互いに最低守らなければならないルールを基本に成立する関係です。
 共同体的なつながりが強いときの「友だち百人できるかな」的な関係が前提としている
 のは、「フィーリング共有関係」なのです。とにかくフィーリングを一緒にして、同じ
 ようなノリで同じように頑張ろうと。それがクラス運営の核になっていたのですが、こ
 れまでの学級や学校の考え方でした。 
・でもいまの学校という場は、もうそうしたフィーリング共有性だけに頼るわけにはいか
 ない。「ルール関係」をきちんと打ち立ててちゃんとお互いに守るべき範囲を定めて、
 「こういうことをやってはいけないんだ」という形で、現実社会と同じようにルールの
 共有によって、関係を成立させなければならない場になっているのだと思います。
・ルール関係の土台が築けている上で、「フィーリング共有関係」も得られるのであれば、
 これはラッキーで幸せなことです。逆に言えば学校はもはや、フィーリング共有関係が
 そうたやすく実現できる場ではなくなってきているのだということです。 
・「みんな仲良くしなければならない」という共同性の呪縛のような考え方は、「フィー
 リング共有関係」だけを前提に考えるからそうなるのです。実際は自分と合わない人た
 ちがいるのに「みんなと仲良くしなければ」と思い込みすぎて、かえって苦しくなるの
 です。「ルール関係」を前提に考えれば、仲が良くても仲が良くなくても、とりあえず
 お互いが平和に共存することができるのです。
・ルールを大切に考えるという発想は、規則を増やしたり、自由の幅を少なくする方向に
 どしても考えられてしまうのですが、私が言いたいのはそういうことではありません。
 むしろまったく逆なのです。ルールというものは、できるだけ多くの人にできるだけ多
 くの自由を保障するために必要なものなのです。なるべく多くの人が、最大限の自由を
 得られる目的で設定されるのがルールです。このルールというのは、「これさえ守れば
 あとは自由」というように、「自由」とワンセットになっているのです。
・逆にいえば、自由はルールがないところでは成立しません。「何でも好き勝手にやって
 いい」ということが自由だとしたら、無茶苦茶なことになってしまいます。人間という
 ものは総じて自分の利益を最優先する傾向があるわけですからが、「自分の利益のこと
 しか考えない力の強い人」が一人いたら、複数の人間からなる社会における自由はもう
 アウトになります。この場合、誰か一人だけが自由で、残りの人はみんな不自由という
 ことになりかねません。ルールの共有性があるからこそ、自由というものが成り立つの
 です。 
・人間が生きるということの本質は自由であり、欲望の実現です。ルールとは、それぞれ
 の人びとが欲望を実現するために最低必要なツールなのです。欲望は、百パーセントは
 実現できないかもしれない。しかしたとえば一割、二割、自分の自由を我慢して、対等
 な立場からルールを守ることでしか、社会のメンバー全員自由を実現することはできな
 いのです。そうすることによって、残りほとんどの欲望は保障されます。でもルールと
 いうものの本質がそういうものだということは、なかなか了解されにくいのです。
・無意味に人を精神的、身体的にダメージを与えないようにするということは、自分の身
 を守る、自分自身が安心して生活できることに直結しているのです。単に「いじめはよ
 くない、卑怯なことなんだよ」「みんな仲良く」という規範意識だけではいじめはなく
 なりません。そうではなくて、「自分の身の安全を守るために、他者の身の安全を守る」
 という、実利主義的な考え方も、ある程度学校にも導入したほうがよいのではないかと
 思います。
・そもそも、クラス全員が仲良くできる、全員が気の合う仲間どうしであるということは、
 現実的に不可能に近いことです。人間ですから、どうしてもお互い馬が合わない人、理
 屈ぬきに気に障る人というのはいます。
・ルールを決めるときには、どうしても最小限これだけは必要というものに絞り込むこと、
 「ルールのミニマム性」というものを絶えず意識することが重要です。ルールのミニマ
 ム性を追求する。つまり「何が大事なルールか、これだけは外せないものは何か」を取
 り出してきて、それはみんなできちんと守る。それ以外は、あまり硬直化しないよう、
 できるだけ広がりや融通を持たせていくこと。そうすることが、ルール共有関係を、よ
 り有効に構築するための作法なのです。
・また、人によってルールに対する感覚がかなり違うということを理解しておくこともと
 ても大切です。ルールに関しては、そういうものを守ることに抵抗感のない人、さらに
 ルールを守っていることそれ自体に歓びを感じるような人と、そういうものに縛られる
 ことをとても嫌がる人がいます。あまり無意味にルールを増やしていくと、集団や組織
 全体のモチベーションが下がってボロボロと脱落者が増えていきます。そしてもっとも
 大事なものすら守れなくなってしまいます。ルールを決める立場に置かれた人は、その
 辺りの柔軟なバランス感覚が必要です。
 
熱心さゆえの教育幻想
・先生というのは基本的には生徒の記憶に残ることを求めすぎると、過剰な精神的関与や
 自分の信念の押し付けに走ってしまう恐れがあります。だから生徒の心に残るような先
 生になろうとすることは無理にする必要はなく、それはあくまでラッキーな結果である
 くらいに考えるべきで、普通は生徒たちに通り過ぎられる存在であるくらいでちょうど
 いいと思うのです。
・学園ドラマの先生のようなことをやろうとすると、生徒の内面を無理矢理いじることに
 なるから、それはとても危険なことです。最低限、「ああいう先生にだけはなりたくな
 い」というマイナスの形で記憶に残るような先生、生徒の意識に一生消えないような嫌
 な記憶を残すような先生にだけはならないことの方が、よっぽど本質的で大切なことな
 のです。 
・先生は、基本的には自分がわかってもらえなくてもいいくらいの覚悟が必要なのです。
 本当にやらなくてはいけないのは、生徒たちに自分の熱い思いや教育方針を注入するこ
 とよりも、自分の教室が一つの社会として最低限のルール性を保持できているようにす
 ることです。
・いじめで自殺する子がいる学校というのは、どういう状況になっているのか。子どもが、
 生命の安全が保障されないようなところに毎日通わなければならないということです。
 これはイラクの危険地帯に行けといわれているのと同じようなことで、とんでもない話
 なのです。生命の不安を感じながら子どもが毎日学校に通うなどということは、それこ
 そ社会的にはあってはならないことで、そういうことが起こらないように、先生は何よ
 りもまず学校という空間にいける最低限のルール性の維持・管理をしなければいけない
 のです。  
・学校というのは、あえて単純化していえば個性的な子どもを育てる場ではありません。
 普通の社会人になるための基礎力を育てる場です。個性的な人間、とりわけのちに「天
 才」などといわれるような傑出した能力を発揮するような人は、意識的に個性的にあろ
 うとしてそうなっているわけではありません。一生懸命普通にしようとしているんだけ
 ど、そこからどうしても力量があふれ出てしまうから個性的な人間なのです。
・本当に個性的な子どもというのは、本人は別に個性的にふるまおうとは思っていません。
 本人としては普通にしているつもりで、それでもなかなか普通にできなくて人とは違う
 才能や天分をあふて出してきてしまうものなのです。むしろ自分の個性をコンプレック
 スに思っていたりしがちな場合だってあるのです。それに、本当の個性は、摘み取ろう
 としても簡単に摘み取れるものではありません。    
・むしろ必要なことは、個性的な天才がいたとして、そういう人が最低限の社会的生活を
 送れるようにケアするのが先生の仕事なのです。天才というのは、往々にして普通の人
 とは変わっているため、その個性が社会的い受け入れられないことがあります。そこで、
 その人が潜在的にもつ能力が損なわれないように、社会生活を営むための最低限のルー
 ルを教えたりやるべきことを支えるのが先生の仕事です。 
・基本的に、先生は子どもの内面まではいじろうとする必要はないと思います。先生の仕
 事は、生徒のすべてに触れなくていいし、触れてはならない部分もあるのです。
・生徒の人格の育成まで、先生が責任をもつことは本当はできないのです。だって担任に
 なったとしても、たかだか一年か二年のことです。その子どもに一生関われるわけでは
 ないのですから、つまりは先生は自分が帯びてしまう影響力の大きさと自分の影響力の
 責任の限界を、同時に見据えるクールな意識を持つことが求められているのです。
    
家庭との関係と、大人になること
・社会学では、家族を「定位家族」と「生殖家族」の二つに分けてとらえることがありま
 す。「定位家族」とは、人間としての「方向づけ」がなされる家族のことです。平たく
 言えば自分が生まれ落とされた家族のことです。「生殖家族」とは、新しく結婚して、
 そして子どもを作っていく家族のことです。つまり人間は、生まれてきて、結婚したと
 したら、二つの家族を経験するわけです。一つは自分が親から生まれ、しつけや教育を
 受けて育つ「定位家族」、もう一つは自分が選択的に作っていく「生殖家族」です。
・口ではずいぶんませたことやモノが分かったようなことを言うようになっても、内面で
 はまだまだ親に甘えたい気持ちや幼い心情を残したりすることが、小学校高学年から中
 学高生くらいにはよくあります。だからこの頃になると、それまでとは違ったケアの仕
 方、気遣いの仕方が必要になるということです。つまり小学校の中学年くらいまでは、
 あまり自立や他者性といったことを意識しないで全面的に愛情を持って関わるというこ
 とで良いのかもしれませんが、この時期くらいから思春期の時期になると、本人の自立
 志向をそれなりに尊重しながら、でも本当の自立はまだまだ先のことですから、しっか
 り根の張った自立的存在となれるように、まだまだ手をかけて育てなくてはいけないの
 です。   
・要は、大人になるための、自分の判断能力みたいなもの、他者との関係性を作っていけ
 る能力をきちんと作れるためのサポートをするように、親は子どもの支え方をより高度
 なものに変えていかなくてはなりません。子どもが口で言っている表面的な言い方や勢
 いに惑わされず、自分の子どもがどの程度まで成熟してきているのだろうかということ
 を見極めながら、子どもを支える力が親には求められています。小学校高学年から中高
 生というのは、そういう時期だと思います。
・経済的自立についてもこのところ難しいことがいろいろあります。学校を出てもすぐに
 は正規の職業になかなか就けなかったりして経済的に自立が難しかったりするのと、そ
 もそも就学期間が以前に比べて格段に長くなって、大学進学はもちろん大学院への進学
 者も増えている結果、やはり経済的自立がなかなかできないまま大きくなるということ
 もあります。昔なら高校あるいは中学校を卒業してすぐ経済的に自立した人たちも多か
 ったのですが、今は30歳くらいまで親がかりという人だってそう珍しくはありません。
・このごろは、いつまでたっても精神的に大人になりきれていない人も多いようです。精
 神的自立ということをどのようにとらえるかにもよるのですが、私は「自分の欲求のコ
 ントロール」と「自分の行いに対する責任の意識」というものが重要な構成要素だと思
 っているのですが、この二つをキチンと兼ね備えた大人というのはなかなか数少ないの
 かもしれません。    
・大人であることの重要な要素だなと私が思うのは、「人間関係の引き受け方の成熟度」
 というものです。それは、親しい人たちとの関係や公的組織などで、ある役割を与えら
 れた中で、それなりにきちんとした態度をとり、他者との折り合いをつけながら、つな
 がりを作っていけることだと思います。
・百パーセント完全に大人というのはなかなか難しいことですが、若い人たちも単に形態
 的自立だけを指標とするのではなくて、精神的自立さらに人間関係の引き受け方の成熟
 度について自分なりにとらえなおしてみることも大切かもしれません。
・そもそも人間が生きているかぎり、多かれ少なかれ限界や挫折というものは必ずやって
 くるものです。それを乗り越えるための心構えを少しずつ養っておく必要があるのです
 が、いまの学校では、「君たちは無限の可能性がある」というようなメッセージばかり
 が強くて、「人には誰にも限界がある」」「いくら頑張ってもダメなことだってある」
 ということまでは、教えてくれません。子どもたちを傷つけてはいけないとか、子ども
 はみんな可能性を秘めているといった考えからなのか、いまの学校では、むかし以上に
 競争を最小限に抑えようという雰囲気があるようです。評価に本当はしているはずなの
 に、それが表からは見えにくいような工夫がなされています。でも、一方で社会はいま、
 むかし以上にものすごく競争がきつくなっている「評価社会」なのです。
・こうしたズレがあるので、社会に投げだされたときにものすごいギャップを感じてしま
 うわけです。挫折や限界にいきなりぶつけられたら、人はどうしていいか戸惑ってしま
 うでしょう。学校にいる間だけ社会の辛い波風にはさらしたくないというのは、一見い
 かにも子どもたちのことを考えているようで、じつは本当のところで子どもたちの将来
 についてきちんと考えていない無責任な態度にいえるかもしれません。
・学校文化の中でもある程度、どんな人間にも限界があるということ、将来挫折というも
 のを体験したときにどうしたらいいのかということについて、知識としてもあるいは体
 験としてももっと教えてもいいのではないかと思います。「無限の可能性」だけを煽っ
 て、子どものセルフイメージを肥大化させるだけでは、やはりまずいんじゃないかなと
 いう気がします。
・自分がどんな狭い世界でもいいからとにかく一番でいたいという気持ちが強い子は確か
 に向上心があるという良い面がある反面、自分が一番になれない場合、自分より優れた
 人間の足を引っ張ろうとするような良くない面を持ちがちなものです。勉強が出来る子、
 親に大事に育てられていそうな子、ちょっと容姿がかわいい子などがいじめのターゲッ
 トにされがちな傾向がいま強いのは、こうした自分の限界や挫折を知らない子どもたち、
 あるいはなかば知っていながらそれを認めたくない子どもたち、「オレ様化する子ども
 たち」が増えてきたからでしょう。
・大人になるにつれて、いろいろな挫折を経験して自分の限界を知ったり、自分より優れ
 ている人間がこの世にはたくさんいるということを知らされたり、自分が思っているほ
 どには自分は大した人間ではないということをいやでも思い知らされたりします。
・苦味というものをどうしても噛みしめざるを得ないのが大人の世界なのです。でもその
 苦味を味わうという余裕が出来てこそ、人生の「うま味」というものを自分なりに咀嚼
 できるようになるのです。 挫折のない人生なんておよそ考えられません。どんなに優
 秀で、あるいは家庭的にも経済的にもとても恵まれているように見える人でも、必ずな
 にかしらの挫折を経験しているはずなのです。しかしそうは見えないとしたら、それは
 彼(あるいは彼女)がそうした挫折を自分の中で上手に処理して、その苦味をいつのま
 にか人生のうま味に変えてしまっているからなのです。「人が生きる」ということは本
 当にそういうものだと私は考えています。    

「傷つきやすい私」と友だち幻想
・高校生ぐらいまでは、フィーリング共有性の高い、同世代で自分と同質の小さな集団の
 中で自己完結し、そこで閉塞的な仲間集団を作って生活していることが多いと思います。
 しかし、学校を卒業してやがて社会に出れば、自分たちと同じ属性を帯びる集団以外の、
 さまざまな世代や違う価値観をもった人たち、違う地方や、場合によっては外国からき
 た人たちなどと出会い、関係を作っていかなくてはなりません。
・やはり単に「こいつは俺と同じだ」という同質性だけに頼って友だちをつなげていくよ
 うな親密な関係の作り方だけをしていると、いきなり社会に出たときにどうしても戸惑
 いが大きくなります。異質なものをさまざまに取り込む力がないと、つながりを保てな
 かったり、異質な他者との交流といううま味も、味わえなかったりします。
・人との関係を作っていきたい、つながりたいという積極的な思いが一方であり、でもや
 はり傷つくのはいやだといった消極的な恐れ感情もある、それが人間です。私の印象で
 は、若い世代であればあるほど、傷つきやすさというものを内面的に持っている人が増
 えているのかなあ、という気がしています。「傷つきやすい私」が増えているように思
 うのです。  
・「人とつながりたい私」と、でも「傷つくのはいやだという私」という一見すると矛盾
 した自我のあり方と、自分自身でどう折り合っていけばいいのでしょうか。やはり基本
 的には、この人は自分にとって「信頼できる他者」だ、と思える人を見つけるというこ
 とが絶対必要になると思います。しかしその場合、信頼できる「私と同じ人」を探すと
 いうよりは、信頼できる「他者」を見つけるという感覚が大事です。どういうことかと
いうと、信頼できるかもしれないけれど、他者なのだから、決して自分のことを丸ごと
すべて受け入れてくれるわけではないということを、しっかり理解しておこうというこ
となのです。
・「自分のことを百パーセント丸ごと受け入れてくれる人がこの世の中のどこかにいて、
 いつかきっと出会えるはずだ」という考えは、はっきり言って幻想です。「自分という
 ものをすべて受け入れてくれる友だち」というのは幻想なんだという、どこかに醒めた
 意識は必要です。
・過剰な期待を持つのはやめて、人はどんなに親しくなっても他者なんだということを意
 識した上での信頼感のようなものを作っていかなくてはならないのです。
 
言葉によって自分を作り変える
・「ムカツク」とか「うざい」というのはどういう言葉かというと、自分の中に少しでも
 不快感が生じたときに、そうした感情をすぐに言語化できる、非常に便利な言語的ツー
 ルなのです。どんなに身近にいても、他者との関係というものはいつも百パーセントう
 まくいくものではありません。関係を構築していく中で、常にいろいろな阻害要因が発
 生します。他者は自分とは異質なものなのですから、当然です。じっくり話せば理解し
 合えたとしても、すぐには気持ちが伝わらないということもあります。そうした他者と
 の関係の中にある異質性を、ちょっと我慢して自分の中になじませる努力を最初から放
 棄しているわけです。つまり「うざい」とか「ムカツク」と口に出したとたんに、幸福
 を築く上で大切な、異質性を受け入れる形での親密性、親しさの形成、親しさを作り上
 げていくという可能性は、ほとんど根こそぎゼロになってしまうのです。これではコミ
 ュニケーション能力が高まっていくはずがありません。
・確かに周りの人の状況や雰囲気を全く無視して自分勝手に振舞うことは問題でしょうが、
 しかしあまり周りに合わせよう、合わせようとする振る舞い方は、かえって人とのつな
 がりのなかで自分自身を疲れ果てさせてしまう危険があると思うんです。こうしたこと
 は、自分が人からどう見られているかということに対してすごく敏感なあまり、自分と
 してのある種の核心というか、「自分はこうなんだよ」と素で相手に示すことに恐怖感
 が大きくなりすぎているのだと思います。それって寂しいなという感じが、私には少し
 あります。
・直接的に目に入ってくる「活字」に気をとられてよくわからないことが多いのですが、
 本を読むことの本質とは、じつは筆者との「対話」にあるのです。読書で何がすばらし
 いかというと、たとえば極端な話、源氏物語や、万葉集でも平家物語でも何でもいいで
 すが、千年以上前の人間、しかも歴史を代表する知性や感性を持った人物とだて対話が
 できるということなのです。大好きな小説家、詩人、歴史上の人物でもいいでしょう。
 本の世界に没頭していくと、文字を通じて、書き手や登場人物の肉声がなんとなく聞こ
 えてくるような感覚、コミュニケーションがだんだん双方向になっていく感覚が生じる
 ことがあるのです。
・ノリとリズムだけの親しさは、深みも味わいもありません。そればかりか、友だちは多
 いのに寂しいとか、いつ裏切られるかわからないとか、ノリがちょっと合わなくなって
 きたらもうダメとか。そういう希薄な不安定な関係しか構築できなくなるのではないか
 と思います。
・読書のよさは、一つには今ここにいない人と対話して、情緒の深度を深めていけること。
 しかも二つ目として、繰り返し読み直したりすることによって自分が納得するまで時間
 をかけて理解を深めることができること。あと三つ目としては、多くの本を読むという
 ことは、いろいろな人が語ってくれるわけですから、小説にしても評論にしても、「あ、
 こんな考え方がある」「ナルホド、そういう感じ方があるのか」という発見を自分の中
 に取り込めるということ。  
・ラクして得られる楽しさはタカが知れていて、むしろ苦しいことを通じて初めて得られ
 る 楽しさのほうが大きいことがよくあるのです。「ちょっと苦しい思いをしてみる」
 ことを通して、本当の楽しさ、生のあじわいをえるという経験はとても大切なんじゃな
 いかと思うんです。ラクばかしして得られる楽しさにはどうも早く限界(飽き)が来る
 ような気がします。けれどちょっと無理して頑張ってみることで得られる楽しさは、そ
 の思いがとても長続きして、次に頑張る力を支えるエネルギーにもなります。かといっ
 て、ものすごく大変な苦しみばかりでは、疲れて嫌になってしまいます。どの程度の努
 力、どの程度の頑張りが、本当に楽しさを味わうきっかけや力になるのかということを
 若い人たちにアドバイスしたり、自分で手本となって示せることも、「大人」といわれ
 る人びとのとても大切な社会的役割だと思うのです。
 
おわりに
・「友だち」という言葉に象徴される身近な人びととの親しさや、情緒をともに共振させ
 ながら「生」を深く味わうためには、これまでの常識をちょっと疑って、人と人との距
 離の感覚についてはほんの少しだけ敏感になった方がいいのでは、ということを述べた
 かったのです。