「都会の幸福」 :曽野綾子

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 この本は、都会と地方を比較しながら都会というところは如何にいいところかを述べてものである。
都会がいいという人と地方の方がいいという人と、人ぞれぞれであると思うが、私が地方と東京を行
き来しながら感じのは、多くの点で筆者の意見に同感する部分が多い。やはり都会というところは、
そこに住む人にとって、より便利なように作られていると思う。お金さえあれば、なんでも手に入る
と言ってもいいぐらいに都会は便利なところであると思う。
 ただ、そんな都会に対して感じることは、そのあまりの便利さのために、都会は人に、自分自ら何
かをやろうという気力を、失わせてしまうところがあるように感じる。お金さえあればなんでもやっ
てもらえるので、ついついそれに頼ってしまい自分でやることがどんどん少なくなる。そして、その
ためにどんどんお金に依存するようになり、お金に縛られるようになる。
 自分で自由に使えるお金がたくさんある人は、その便利さをどこまでも享受し続けられるが、そう
でない人はその便利さを得るためにお金を稼ぐ必要が出ている。お金を稼いでは消費するという自転
車操業を続けるのである。そして、気が付いてみると、すっかりお金に支配された人生となっている。
いつまでもお金を稼ぎ出せる人にとっては、都会はとても楽しく暮らしやすいところであるだろうが、
お金を稼ぎ出すのが苦手な人や稼ぎ出せなくなった人にとっては、地方以上に都会は住みづらいとこ
ろではないのかなと、私は感じる。

【勇者にも卑怯者にも優しく】
 ・もし完全に自然を放置したら、自動車道路ができるわけはなく、雪崩はところ構わず発生し、野
  生動物や虫は我々の生命や生活を脅かし、我々は暑さ寒さに曝されて生きなければならない。も
  しそういう凄まじい自然を放置すれば、人々はそれを政治の貧困として非難するであろう。しか
  し、人間によって充分に管理され、創造された都市は、人間のあらゆる生活の様式の上に、人間
  の賢さと意思を表そうとする。これは、まことに知的で魅力的な操作である。
 ・都会は自由な大海である。広大な砂漠である。一人で気ままに旅をすることも可能なら、こっそ
  りどこかへ逃げ出したり隠れたりすることもできる。勇者も卑怯者にも都合がいい。そして彼ま
  たは彼女が開発した新しい世界で、その人に才能と徳がありさえすれば、どこでもいつからでも
  新しい友を見つけることも可能なのである。

【個人を温かく埋没させる】
 ・他人の生活に深く立ち入らない、というのは、都会の最も愛すべき「慎ましさ」だと言った人が
  いる。よく、ご挨拶に伺い、というようなことが、礼儀として言われることがあるが、それは都
  会の考え方ではないどころか、しばしば失礼に当たる時さえある。訪問は細心に時と立場を選ば
  なければならない行為である。他人はそれほど簡単に訪ねるものではない。
 ・都会というところはよく言えば寛大、悪く言えば勝手にしろ、といういい加減な生き方がすぐ通
  用するところであろう。
 ・都会では、どんなに選挙が迫ろうが、私たちがそれを望まなければ、個人は完全に選挙と無関係
  でいられる。頼まれることもほとんどなく、全く話題にさえならずじまいのことが多い。まして
  や町が二分して、どちらかの候補者に肩入れし、反対の立場で働く人を悪く思うなどという状況
  は起こったことがない。
 ・町をあげて、村をあげて、ということは、悪ではない、と言う人もいるが、私は悪であると思っ
  ている。それは二つの理由で困るのである。一つはそのことによってその人の立場が単純にグル
  ープ分けされることである。私たちは誰でも不透明な心理状態にいて、時に応じて揺れ動く。そ
  れが単純に所属を決められるということは、それだけその人の個性を無視していることになる。
  もう一つの理由はこれよりももう少し大切なものである。それは、反対意見が健全に育っていな
  い社会というのは、危険をはらんでいるということである。「地域を挙げて」という行為が濃厚
  であることが普通だとする神経は、自信と勇気の欠如した、基本的に弱い個性をいつのまにか育
  てる温床を作ることに繋がるのである。
 ・「隠れて生きること」は今日、都会でしか完全にはなし得ないからである。その証拠に、犯罪者
  が隠れるところは、普通都会である。
 ・なぜ、個性が埋没するほど人込みがいいか、という理由は幾つもあるが、最もはっきりしたもの
  は、自分は常に人に知られていない小さな存在だと認識続けることなのである。
 ・都会ではありがたいことに、人間はなかなか偉くなれない。有名にもなれない。顔も覚えられな
  い。いわゆる「有名人」でも、職種の違う人、その分野に興味のない人は、名前さえ聞いたこと
  がない、ということがよくある。
 ・地方では少しでも専門職を持った人なら、すぐ名士にさせられてしまいがちである。
 ・人間は、知られている、ということで満足を覚えるのも一面でほんとうだが、知られていない、
  ということで、輝くような自由の味を知るのである。 
 ・都会は個人を暖かく埋没させる。ことのとが、人間に、自分に過信することもなく、思い上がる
  こともなく、常に健全な一人の個人の感覚を保たせるのである。

【ものごとを軽く見る英知】
 ・都会ではしばしば人間が、暴力を持った人に襲われて、誰も助け手がないまま命を落とすことが
  ある、と言われるが、それはほんとうでもあり、嘘でもある。都会の機能はまことによくできて
  いて、凶器を持った相手に対して、素人である一般市民が立ち向かう必要は全くなく、誰もその
  ような無謀な期待をしてもいない。都会における「隣家の愛情」というものは、相手が期待して
  いること、この場合なら、安全な家の中から、ただ警察に110番の通報をすることだけを、で
  きるだけ効果的に速やかに可能にするということに集中されている。
 ・都会の妻が、大胆な不倫を働いていることは、事実の面もあるらしい。関西の奥さんたちは東北
  の温泉を、東京の妻たちは関西の温泉を不倫の場所として選ぶのだという。しばしば自分より若
  い浮気相手を連れて、その勇敢さは驚くべきものだ、と私の友達が話してくれたことがある。
 ・都会では、男と女が付き合うことがかなり自由である。もっとも、嫉妬深い夫と、魅力的な妻の
  コンビでは、たとえ、小学校の同級生であろうと、妻がよその男と食事をするのを許さないとい
  う家庭もある。
 ・都会にも失意はあり、そこから逃げ出したいと思っている人はいくらでもいるはずなのだが、都
  会で痛めつけられた人で、あるいはどうしても都会的な空気が好きになれなくて、地方に出て行
  くという人の数は、失意の結果、都会にやってくる人の数と比べるとあまり多くない。
 ・都会は、決して進歩的なところではない。都会が時の流れの先端に立っているように見えるのは、
  無機的な部分だけであって、都会で進歩的に見えるのは、実は都会に住む地方人だというおもし
  ろいからくりがある。

【羞恥心ということ】
 ・私は、国家の形態や社会制度で、人間の生き方はかなり違って来るとは思うが、人間の精神の基
  本的属性が根底から変わる、ということだけは信じたことがない。右でも左でも、人間の欲望と
  堕落は、ほとんど同じ形態をとる。旧ソ連や中国の汚職、チリのアジェンデ社会主義政権の末期
  などを見たり聞いたりしていると、堕落の形態は社会主義でも資本主義と全く同じであることが
  わかっておもしろい。
 ・私たちの存在が、そもそも悪の要素と善の要素と共に持っている。だから、資本主義は悪で社会
  主義はいい、とか、社長は悪人で労働者は善人だ、とかそういう簡単な理論ではとうてい間に合
  わないのである。
 ・理想主義的傾向は、どうしても地方のほうが都会より強い。都会でこれだけ人間を見ていれば、
  夢は持たなくなる。都会では、価値の混乱に幼い頃から馴らされているのだ。だから、こうやれ
  ば、確実に人間はよくなる、とか、社会は発展して問題はなくなる、などということを信じない
  のである。人間を動かす要素は途方もなく複雑である。
 ・一般的には、地方人のほうが保守的だと言われているが、都会人もまた、本質的には保守的なの
  である。しかし、両者の同じような心理の表現が、かなり違う面に働くのは、周囲の状況の違い
  によるものだと思う。常識的に言うと、保守性ということは、習慣の尊守という形で現れること
  が多いのだが、都会そのものが、習慣を守ることに関していい環境ではない。と言うか、守るべ
  き習慣自体も、個々の家庭にはあっても、地域としてはもはや確立していないところが多い。純
  粋の東京原人と呼ぶべき人はごく数が少なく、都会に住む多くの人は出稼ぎ人だから、守るべき
  東京地方色が定着するわけがないのである。
 ・総じて都会人は現実主義者である。都会生活というのは、地方から都会へという一つの流れから
  見れば、一つの行き着く先なのであって、そこでさらに何かをしなければならない、という意気
  込みがないからだろう。都会を目標の終着点ということもできるが、行き先希望のないどん詰ま
  りと見ることもできるのである。だからいい意味でも悪い意味でも、都会と言う場所は気負うと
  いうことができにくいのである。だから都市の感覚の一部には、急激で理想主義的な、社会改革、
  政治運動、意識改変、告発など、一連のあまりにもヒューマニスティックな行動に、迷うことな
  く突進するという勇気にはとてもついていけない、という気分がある。
 ・都会的な感情の一つのタイプは、ものごとが必要以上に拡大化される時に、不安を覚えるという
  特長を持っている。例えば、彼らは、知的である、ということにさえ、深い不安と羞恥心を持っ
  ていて、何とかしてそのことを隠そうとしたりする。知的なこと、だけではない。むずかしいこ
  と、人道的なこと、重大なこと、正しいこと、高潔なこと、向上心を持つこと、権威に近づくこ
  と、金を持つこと、この道一筋に頑張ること、その他もろもろの、当然世間からはよいことだと
  見なされているすべてのことにさえ、それがこうじると彼らは羞恥心を覚える。つまり、羞恥と
  いう形で、彼らはその判断に懐疑の眼を向けるのである。
 ・都会人と、地方人が違うところは、地方人は、さまざまなことに通であることを示すことに余り
  ためらいを感じないことである。ことに「しゃれた」感じの分野、例えば、フランス文学、コー
  ヒー、オーディオ機器、自動車、などといったものに、滔滔と知識を示すのは、多くの場合、地
  方人である。
 ・私がこういうものについてあまり喋らないのは、都会人ぶっているのではなく、ほんとうに知識
  がないからなのだが、都会人の中には、マニアに近い人はいくらでもいるはずである。しかしそ
  れらの人は、なぜかあまりそのことを言わない。ひっそりと自分だけでこのことを「陰湿」に楽
  しんでいる。
 ・それは「知ること」に対する羞恥の感情であり、自分が「知っていること」を「知られる」こと
  への恥ずかしさがあるからとしか思えない。それは、謙虚さでもあり、人間を知るが故の不信感
  に根付いたものでもあり、人と人が接触する場合に当然起こるはずの相剋を予定してあまり期待
  しない、という姿勢を身につけたものでもあり、単純な価値観への一種の抵抗の姿勢でもある。
 ・都会的羞恥は、権力的なもの、猛々しいもの、厳かなもの、総じて大真面目なものに対する、抵
  抗の精神がその根底に潜んでいるのだが、それも露な抵抗ではないことにその特徴がある。露
  な抵抗は、騒々しい。都会の人は賑やかなことは好きだが、騒々しいことは必ずしも好んでいな
  いのである。

【その人のことは知らない】
 ・日本にはほとんど地方・都会の差なく、本による文化の恩恵に与ることはできる。図書館も整備
  されているし、新聞をとっていない人は珍しい。図書館で借りるか、新聞の読書欄で広告を見て
  注文すれば、どんな僻地でも、少し時間はかかるが、欲しい本は手に入る。
 ・都会に暮らす幸福の一つは、教養のために意味のあるすべての手段を最高度に利用できることで
  ある。
 ・私には年を取った時の計画がある。私が最初に希望したいことは、毎日のように絵を見て歩こう
  ということであった。博物館、美術館もいいし、画廊を見て歩くという手もある。次に予算と体
  力に合わせて、月に1,2回は芝居を見る。そのお金がない時には、裁判を傍聴する。それこそ
  お金をかけずにドラマを楽しむ究極の方法である。それからデパートを歩き、盛り場で食事をす
  るかお茶を飲む。生きた町の姿と物価に常に接しているためである。
 ・老年というものは、密かな内的完成のための時なのだから、都会にいれば、いつでも自由に、無
  理なく、目立たずにその機会を見つけられるのである。
 ・都会で生きるだけで、私たちは教養を得る。なぜなら、自然の希薄な都会にあっては、人間が受
  ける刺激の大半は、人工的なものだから、それはすなわち文化とも教養とも深い関係があるので
  ある。その代わり、地方において濃密な自然からは、人間は哲学を学ぶはずである。
 ・都会生活では倫理性が希薄になっているという点も、私が都会を愛する一つの理由である。もち
  ろん人間は、社会の基本的な約束を決定的に破壊するようなことはしない方がいいに決まってい
  る。過失でない意図的な殺人や、盗みがいい筈がない。しかし、そのはるか手前のところでは、
  人間の生き方をあまり軽々しく批判したり制約したりすることは避けねばならない、という考え
  方が、都会人の心のどこかにあるのである。
 ・都会には一群の、堕落というものがその人間にもたらす密度の濃い最終的な真実に対して、本能
  的に理解を示す人々が常にいてくれる。もちろんこの手の人たちは地方にも見られないことはな
  いだろうが、極めて育ちにくい存在のようである。
 ・私の周囲の、心から私の友人だろ思う人々の中には、私が今のような一見小心で凡庸な生活をす
  るのをやめて、めちゃくちゃな人生を送ることを未だに期待してくれている人がかなりいる。つ
  まり私が夫を捨てて、他の男の元へ走ったり、或いは馬鹿げた豪壮な建築にお金を注ぎ込んだり、
  急に山登りを始めて遭難したり、麻薬中毒やアル中になったりすることを心密かに望んでくれて
  いる人がいるということを、私は断言できるのである。それはひたすら、私が、いつからでも、
  どんなふうにでも、私らしく生きることを、彼らが望んでいてくれるということである。道徳的
  に安穏であることが、私の幸福だなどと、こういう人々は思いもしないのである。
 ・たとえそのことが不道徳であるとしても、都会では、そのことによって、そのような考えを持つ
  人を社会から閉め出す、ということはほとんど不可能でもあり、そのような無意味なことを多く
  の都会人はしようとは思わないのである。
 ・なぜ、堕落を愛することがうるわしいことなのか。それは、堕落を認めるという形で、人々は自
  然になり、寛大になり、謙虚になるからなのである。自ら堕落を認める人が、どうして他人を責
  める側に回れるだろう。
 ・私は都会がきわめて個人主義的であることを決して否定しない。それは、自分勝手ということで
  ある。しかしそれは、決して、利己的なだけの自分勝手ではない。それは必ず何がしかの論理と
  勇気に裏打ちされなければ、とうてい達成されない情熱である。
 ・地方では人々は寄り添って生きることにぬくもりを感じるのだし、都会の原則は、その人が望ま
  ない限り、決してその人の生き方に口出しをしない、という節制を礼儀とするのである。

【人と同じは恥ずかしい】
 ・私自身、組合運動というものを決して否定しはしないが、あの組合的表現にはとうてい耐えられ
  ない。もっとはっきり言えば、あれに耐えられる人と友達になれるとは思わない。皆が同じタス
  キをかけ、ハチマチをし、ゼッケンをつけ、右の拳を突き出してシュプレヒコールをするのはた
  まらない。これはみずから個性を放棄することを承諾しているもののように思われるだけでなく、
  どことなく、軍隊的、全体主義的である。抵抗運動でも市民運動でも、もっと個性を保ったまま
  やれるものでなければついていけない。
 ・都会人の中には、このような全体主義に激しい嫌悪を示し、頑強に、しかし静かに、一人だけで
  抵抗している人が結構いるのである。この手の人たちは、決して団体行動をとらず、一人だけの
  闘い・抵抗をしているので、ほとんど目立たないのだが、この手の人がいることが都会の救いで
  ある。都会にももちろん、統一行動が好きな人はいるのだが、人と同じことをするのは恥ずかし
  い、という基本的な心理は、どちらかというと都会的なものだと私は思っている。
 ・地方では自分の好みなどに固執していたら、周囲の常識とぶつかってこちらがつぶされそうにな
  り、もっと多くのエネルギーが必要な状況に追い込まれるという。冠婚葬祭、すべて人と同じに
  するほうが楽だという。だから、人と同じことをすることに対して、羞恥心などという屈折した
  感情が発生する余地はないのかもしれない。だが、一部の人はそのような仕組みの中で息が詰ま
  ると訴えているのも事実である。
 ・悪評さえ覚悟すれば地方でも都会でも、かなり完璧な自由を手に入れることができる。しかし実
  際問題として、悪評を受けつつ生きることが、都会では比較的楽で、地方ではむずかしい。とに
  かく、人と同じであることは恥かしい、と感じる、その都会的羞恥が、都会の自由を支えている
  というこはできる。

【愛すべき変人たち】
 ・よく地方などで会合があると、大変偉そうにしている婦人に出会うことがある。もちろん服装も
  よく、知的でもあるだろうが、彼女が有名な歌手だとか、女子大の学長だとか、女弁護士だとか、
  彼女自身が社会で働いているから偉い、という場合はむしろ少ない。その代わり、その婦人の夫
  が偉いのである。都会では夫が偉くても、その妻は地方ほど社会的に地位が上がることはない。
  それは都会という巨大な構造のせいである。都会で、いやでも眼につく人というのは、皇室と、
  身辺の護衛がつく総理や閣僚クラスの人々、それからテレビに終始出てくるさまざまなタレント
  だけである。
 ・都会ではどんな人間も生かす。それは都会が温かいからではなく、都会が冷たいからである。そ
  して人間を生かす要素には、人の心の温かさもあると同時に、社会の冷酷な部分も実に必要だと
  いうことを、都会人はまたいつのまにか知ってしまっているのである。
 ・これも大雑把な言い方だが、田園の生活者と都会の生活者とは、体つきが違うと思うことがある。
  都会生活を支えているのは緊張である。情緒的に心がけがいいとか悪いとかの問題ではない。都
  会には危険が多い。ぼんやり歩いていれば車にはねられる。道は複雑だから、考えごとをしてい
  たら、角を曲がり損なう。地下鉄の駅は複雑でよく案内表示を見なければ、目的の場所に辿り着
  けない。交通だけでない。都会生活は、機械を使いこなさなければならない。ものを買うにも、
  電車に乗るにも、車を停めるにも、あらゆるコミュニケーションを行うにも、すべて機械である。
  使い方がわからない、と言っていたら暮らして行けないのである。その機械を使いこなすという
  ささやかな行為が、やはり精神的な緊張と、生きる姿勢が柔軟であることを要求する。そして人
  を輝かせるもっとも基本的な土壌は、緊張と柔軟性ではないか、と思うときが多い。
 ・東京は不統一の町であるという。確かに東京は、ローマやパリやロンドンに比べれば、統一を欠
  く町である。
 ・統一が強制されることは、地方の生活においても見られるところがある。ただ、都会の統一は非
  常に低い次元で要求されている。つまり「共生」に必要最低限の物質的な便利さや譲歩を市民に
  要求するのであって、思想やものの考え方、現実の生き方のパターンまで統一しようというもの
  ではない。
 ・できるだけ抵抗せず、しかし自分だけは忘れず、というのが、都会的な生き方の一つの理想の方
  向だろう。そして、都会人がかなり好きな生き方の姿勢の一つに、悪く言えば慇懃無礼というこ
  とがありそうな気がしてならない。表立った抵抗するのは、何より野暮の骨頂で、それこそ礼儀
  を失するものだ。しかし黙っているからと言って、その相手の要求をのんだというわけでもない。
  その姿勢が慇懃無礼なのである。表面はほとんど抵抗なく統一されることを承認し、内面は極め
  付きの個性を全く動かされない。それが都会人の一種の願わしき状態ということはできそうであ
  る。

【英語を話す庭師たち】
 ・愛郷心というものは、人間の自然だが、冷静なブレーキをかけないと、それは習慣的に自分を中
  心に据えた放射性の視覚を持つことになってしまう。私たちが、自分の生きている世界は、日本
  にとっても世界にとっても、非常に重大な要素を持っているのだ、と思った時、もう既にどこか
  感覚が狂い始めている。
 ・世界中の人が、自分の生きている社会こそ重大だと考えるのである。北朝鮮と韓国の人は両国の
  対立を、アイルランドの人はイギリスとの抗争を、パレスチナ人はイスラエルの中でどうして国
  を造るかということを、それぞれ現在生きるか死ぬかの問題だと考えている。
 ・そういう人たちの存在をあまり考えず、自分、自分の出た学校、自分の町、自分の町から出た偉
  い人、自分の県、自分の県の歴史の中で起きた事件、そういったものが巨大に据えられると、そ
  れが日本史、東洋史、世界史の中では、多くの場合どれほど小さな事件か、バランスを取って考
  えることができなくなる。
 ・むしろ我々は世界の中の日本、日本の中の何々県、何々県の中の何々市、何々市の中に住む自分、
  という形で収斂して考えることができたときだけ、初めて自分が所属する町やそこで起きた事件
  を、世界的なバランスの中において考えることができる。地球上を渦巻くそれらのできごとの中
  にあって、日本に生まれた自分というものを小さく小さく考えられることこそ爽やかな理性とい
  うものである。そしてこのような姿勢を保ちやすいのは、対立する情報がたくさん提供され、対
  立する考えがたくさんあるが故に、人と違う考えを持っていることに対して、無言の弾圧を全く
  受けなくて済む都会の生活なのである。
 ・自分を中心点に据えた放射性視点の中で、しかも自分の属する地域の考え方だけが正しい、自分
  の町の利益を主張することは当然だ、自分の土地だけがひどい被害を受けた、という姿勢で編集
  されたテレビや新聞を見たり読んだりさせられていると、理性的な人間は苦しくなってくるし、
  感情的な人間はますます安心してエスカレートしてくる。
 ・自分をその実態の過不足ない認識に応じて、静かに、小さな存在だと不安なく思えることは、都
  会が贈ってくれたすばらしい英知である。
 ・都会人は団結力が弱い。それが裏目にでることもあるが、私は東京には「県人会」といったもの
  がほとんどないか、あるにしてもあまり強力なものでないことを実にけっこうな傾向だと考えて
  いる。都会には、雑多な価値観の人が集まっているから、基本的に団結しにくい。団結がことを
  解決する場合もないではないが、多くの場合、団結は個人を圧迫する。
 ・都会的な姿勢というものは、能力主義的判断に則っているものである。組織が多くの人間を扱わ
  なければならない以上、一々その出身を確かめている閑もないのである。それに、同郷だから優
  遇するなどということをしていたら、その会社や組織は厳しい競争社会では確実に落語する。ど
  この誰でもいい、家柄も素性も問題でない。有能かそうでないか、だけが判断基準になる。それ
  ほどに都会は冷酷で厳しい所なのである。
 ・都会は実力の世界である。浅ましいほど実際的である。人情もないわけではないが、それに振り
  回されていたら、組織は動かなくなる、と割り切っている。

【小空間の主人】
 ・都会というものは、本来決してけばけばしさの過剰なところではない。けばけばしいものの目的
  は、けばけばしく目立つことで、相手を打倒することにある。しかし都会では、競争相手が多す
  ぎるので、どれをどう打倒しても、それでこちらが勝ったということにはならない。そこで最初
  から自分らしく、自分にとってもっともいいことがいいのだ、という自分本位的なものの考え方
  が定着するようになる。ただ自分の評価する範囲において、自由に最高の表現を選ぶのである。
 ・時々、都会の機能性が人間を押しつぶすとか、機能的なものの中では人間性がないがしろにされ
  る、とかいうような意見に出会うことがあるが、私からみるとこれはおかしな論理だと思う。な
  ぜなら機能的であるものは、必ずその機能を使う主人を持っている。つまり命令する主人を持た
  なければ、本来機能は動かないはずのものなのである。そして言うまでもなく、その主人は人間
  である。もし機能的なものが人間を押しつぶす、というなら、そういう人はどこに行ってもほん
  とうの意味で自分が自分の主になることができない人だし、必ず何かほかのものに押しつぶされ
  るであろう。
 ・都会は決して派手なところではなく、ただ、めいめいが自分の最も必要とするささやかな生活の
  条件、望み、といったものを確保することに何の遠慮もいらないところなのである。しかし最高
  の贅沢というものは、その人の望むものが叶えられることしかないから、そういう意味で都会は、
  機能的、人工的な生活を愛する者にとっては、この上ない場所である。

【窓の向こうの家族団らん】
 ・いつでも自由に自然の中に出入りできる、という自由を確保している限り、私は人間が日常住む
  所は、人工的な空間でなければ快くないということを、しみじみと感じている。
 ・文化の恩恵を受けた生活とは、まず第一に、風、埃、寒暖、雨などの、自然を断絶できることで
  ある。このようなものにさらされていると、少なくとも私は集中して長時間、構築的にものを考
  えることが不可能になったのである。文化的生活とは何か、という条件の第二は、水平で滑らか
  な平面が身の回りに存在することである。このような平面が与えられない限り、人間は思考した
  結果を、書き留めるという行為からスタートして、それをまとめたり、記録したり、組み立てた
  り、組み換えたり、集大成したりするということがかなりむずかしくなるということがわかった
  のである。第三の点は、すなわち電気の供給がなされていることである。
 ・当節の日本の「地方」はミニ都会ばかりだから、日本全体が都会みたいなものなのだが、本来の
  都会という概念にまともに比較対照されるのは、電気も水道も下水も、時としては道もない原始
  である。私はこういうほんものの自然の中では、決して長く生きることはできないし、またでき
  たとしても幸福ではない。
 ・家はどのような規模・スタイルであれ、夫婦の単位が空間的に確立されている所に住めることが
  基本である。できれば別居がいいが、これから高齢社会になると、年とった親を見なければなら
  ないという夫婦も多くなるだろう。同居の場合でも、夫婦の部屋はきちんと整備されており、勝
  手に入って行くような不作法は厳禁である。話し声が筒抜けだったり、ドアに鍵がかからないよ
  うな部屋しか夫婦の居場所がないという家はみじめだと都会人は考えるのである。
 ・都会では、その人が、その人らしい能力をどこにいたら一番自然に伸ばせるか、ということだけ
  を考える。そのために、最近では、親はできるだけ、子どもとは別に住み、子供に自由な生活を
  させたい、と願う人が多くなった。
 ・都会では、何か積極的にしないこと、行動の振幅が大きくないことは、悪と同じではないにして
  も悪に近い、ということが、普通のサラリーマンの生活を見ていてもよくわかる仕組みになって
  いる。物欲の塊もいれば、権力の権化もいる。いつ死ぬかと思うほど働く人もいれば、徹底して
  夢を食べて生きているバクのような人物もいる。総じて悪は人生のすばらしい反面教師である。
  だから悪の多い都市は、それだけで豊かな土地とさえ言えるのである。

【ヘロデ大王に栄華】
 ・私は利己主義者だから、少しくらい自然を破壊しても電気や水道がいつも供給され、道路が整備
  さて、治安が確立し、通信、交通の組織がよくできており、さまざまな文化施設の恩恵にも気軽
  に浴することができる生活がしたい。
 ・休日ハイキング、森林浴、休暇村で体を鍛えながら暮らすこと、などは決してほんとうの自然と
  接することではない。それは、人間に都合がいい程度の慣らされた自然だから、むしろ人工の自
  然というべきなのである。
 ・全天候型ということは、人間の行動が常に「予定通り」行われ得ることである。そして都会の生
  活は、大地震とか、台風とか、何かよほどの大規模の異常事態か災害が発生しない限り、いつで
  も、予定どおり行動できる、という全天候型の機能を持っている。
 ・人生は予定通りではつまらない。登山の醍醐味は、その時々の天候や人間的状況と闘って、刻々
  の答えを出していくことだ、という考えにも大賛成だが、しかし社会全体が平凡に求めるところ
  は、予定通りすべてのことが支障なく運ぶということなのである。とすると、それはやはり都会
  型の機能が的確に動くことだ、ということに他ならない。

【渦中の人】
 ・「渦中にいる」という感覚が、人間を奮い立たせるようである。私の知る限り「渦中にいる」人
  でも、静かで地味な性格の人はいくらでもいる。彼らは別に目立ちたがり屋でもなく、権勢を張
  ることに夢中なのでもない。それはその人の望みというより、宿命的な状況なのである。
 ・「渦中にいる」ことがどう違うのかと言われると困るのだが、「渦中にいる」ことはその人を輝
  かせる。ストレスという名で呼ぶひともいるが、適度の緊張がその人を魅力的にするのである。
 ・都会、というところはさまざまなサービスを受け易いところである。東京のどこがいい、という
  質問に対して、「何でもリースできるのがいい」という若者の返事をいつか雑誌で読んだことが
  あって、思わず笑ってしまったことがあった。恐らく私の想像を絶したものまで借りるのだろう
  と思う。
 ・夫と私は、将来もう少し時間ができたら、いろいろなことをして遊ぼうと計画を立てている。日
  本国内の温泉巡りもいいけれど、夫はとにかく町が好きだと言う。芝居を見たり、本屋に行った
  り、展覧会や画廊で絵を見たり、喫茶店で若い女の子を眺めたり、とにかく無責任に物見高く生
  きられたらいいと思うのである。私はその他に音楽会に行くという楽しみもある。
 ・全く都会は、年齢に関係なく、ものを習うのに便利なところだと思う。それも、自分の好きな、
  おかしなものを習うことが出来やすい場所なのである。
 ・今後、政府は高齢者を教育することが、いかに割に合う「投資」か、ますます理解するようにな
  るだろう。それによって、社会のお荷物になるボケ老人は減り、日本社会の知的水準は上がり、
  軽薄な若者が嫌がってしないような労働で老年がカバーできるものもかなり出てくるのではない
  か、と私は考えている。

【トルティーヤの魅力】
 ・外国に出て行って仕事をしたり勉強をしたりする場合、私たちは初めから「よそもの」なのだか
  ら、ルールを知らなくても、暮らし方がおかしくて見えても、当然という気分がある。しかし都
  会から地方に来た場合などは必ずしもそうはいかない。日本人なんだから、これくらいのことは
  知っていてもいいんじゃないか。こういうことは常識なのに、都会の人ってないも知らないねえ、
  と言われるのが怖さに、妙に頑張ってしまう人がけっこういるのである。
 ・反対に地方から都会へ来た人も、ほんとうは楽ではないだろう。都会は人が多すぎて「他人ばか
  りの寄り集まり」という感じだし、故郷の人々の眼は、あの人は都会に行ってどうなるんだろう、
  と興味津々で後を追っているから、それに応えるためにも、羽振りがよくなったように見えるこ
  とが必要である。
 ・しかしどちらかと言うと、都会から地方逃げ出すということは、楽そうでいて、実にむずかしい
  ことが多い。しかし地方から都会へ、更に都会から外国へ、と逃げるコースは、人が思うほど楽
  な要素がある。
 ・都会には物々しい光景、例えばデモやサミットの時の機動隊の出動風景とか、天皇ご不例の時の
  マスコミの動きの激しさなどは、もっとも都会的な光景である。あまりの激しさに、当事者の中
  には過労で死ぬ人も出るほどだが、それは一つのもっとも都会的な快楽だという面がないと言っ
  たら嘘になるだろう。そういう時、人々はあらゆる組織の中で極限まで自分を働かせている。私
  のように「よく続くわねえ、偉いわねえ。さあ、うちは早く寝ましょう」などという怠け者には、
  とてもその高揚した気分を理解することができない。
 ・そこには退屈の影もない。人々はすべて歴史のひとこまを自分が作っているのを知っている。
  退屈に耐えられる人は偉人であり、退屈は人に深い思索をもたらすが、同時に退屈がないという
  ことほど、ささやかな幸福もないのである。多くの事件を抱え込む都会は、その分だけその軽薄
  な幸福の分け前に確実に与っている。

【未亡人をなぐさめる】
 ・昔、地方の知人が、飛び込み自殺をしたことがあった。はっきりした理由はない。お金に困って
  いたとか、ひどい病気があったとか、子供のことで心配ごとがあった、というような外面的な理
  由は一つもなかった。私たちはその死を聞いたとき、「そりゃ、初老性鬱病だわ」と言ったので
  ある。私は初老性鬱病の病理をよく理解しているわけではないけれど、ホルモンのバランスのく
  ずれか、何かで、人間が感情のコントロールができなくなる年頃というのがあるらしい。精神科
  のお医者さまにもっと早くタッチして適当なお薬をもらっていたら、こんなことにならなくて済
  んだのではないか、とそれだけを皆は悔やんでいたのである。
 ・鬱病、ストレス、不眠などというものは、都会なら、今や風邪並みに社会に公認された平凡な病
  気である。つまり誰だってかかる可能性のある病気というわけである。
 ・もちろん自殺は誰にとってもショックだが、だからと言って、それは深刻な事態というよりも、
  むしろある年代をうまく乗り切れなかったケースと感じである。しかし地方で家族が自殺すると、
  残された人々は、都会では考えられないほどの推測、憶測、陰口の対象になるようである。それ
  はもう、土足で人の家の座敷に上がり込むような無礼さだという。誰もがかかる鬱病という純粋
  に生理的な病気によって自殺したというふうには考えない。遺族に対して、実の残酷なことであ
  る。
 ・地方では、そういう時、核心に触れる会話やお悔やみは逆に失礼になるから、むしろ触れずに時
  間が経つのを待とうというのが、世間智と思われているようである。勢い遺族が受け取るのは、
  どれもこれも、型にはまった儀礼的なだけで、心の温かさの伝わってこない弔問の言葉だけであ
  る。
 ・都会流の考え方によると、そんなことをしたら、寂しい未亡人は、そのもっとも困難な時を、一
  人で耐えなければならない。初七日が来なくても、四十九日が過ぎなくても、未亡人が一人にな
  らないよう、電話をかけたり、密かに食事に招待して励ましたりすることほど、いいことはない。
 ・私たち夫婦は、東京タワーに上る趣味がある。もちろん高い所なら、新宿副都心の高層ビルの一
  つでもいいのだが、東京タワーから見える景色の方がなじみが深いのである。私たちが自然に見
  ることはできない高みからものを見るということは、人間の意識をずいぶん変えるのではないか
  と思われる。不思議なことに、高みからものを見ると、健全な感覚の人間なら、謙虚な気持ちに
  なる。自分が蟻並みの小さな存在だ、ということがわかるからである。反対に普通の高さからし
  かものを見たことがないと、人間はともすれば背伸びしたくなり、その結果思い上がることにさ
  えなる。だから、都会のビルというものは、けっこういい精神の解放と発散をさせる場所なのだ
  と思う。

【心優しい「殺人鬼」さま】
 ・都会がいかに開放的かということは、たくさんの人々が、いかに突飛なファッションを着ている
  かを見るとわかる。私はそれが 美的かどうかを判断する任にはない。美的感覚は人それぞれの
  ものだし、いかなる人も、自由主義を標榜する国にあっては、性的な表現の制限の基準を超えな
  い限り、服装は自由であっていいのである。
 ・しかしそうは言っても、正直なところ、服装には必ず主観がつきまとう。好みの無いひともない。
  だから、私から見て、時には「眼を覆うような醜悪」と思われるファッションを着て歩く青年た
  ちがいないではない。その手の流行の先端を行く服装をする人たちは、ほとんどは地方出身者だ、
  と言う人もいる。
 ・多分彼らがそういう服装を努力して身につけるのは、都会的だと見られるためだろう、と思うの
  である。ところが皮肉なことに、自然に都会の住民だと見られるためには、そういう先端的な服
  装をしないことが、第一条件になる。
 ・なぜこういう身なりが「野暮」と見られるかというと、そういう服装は、人間の軽薄さ、不安定
  な心情、自信のなさ、ものほしさ、背伸びする心の姿勢、すぐばれる自己顕示欲、などの現われ
  と受け取れられるからである。
 ・簡単なのである。都会で都会人と見られるためには、普通にしていればいいのだ。例えばジーパ
  ンに普通のシャツといった姿なら、東京の人として少しも不自然ではない。
 ・流行を追うことそのものがいけないのではないが、それにすぐ食いつくことは浅ましいことだ、
  というのが、都会に生まれた者の身に付いた姿勢になっていることが多い。それは、服装に関す
  る姿勢だけではないのである。そのような生活態度を通じて、私は少なくとも、先端的なもの、
  皆がそうだそうだと一斉に賛成の声を上げるものに対して、踏みとどまり、懐疑的になることを
  教わった。流行の服装をし、ベスト・セラーの本を買い、皆がゴルフをすればゴルフ、皆がハワイ
  に別荘を買えば自分も買いたい、と思うような生き方にだけにはならずに済んだ。
 ・都会はたくさんの人の目のあるところである。このことは大きな意味を持つ。それは社会性とい
  うことと同義語だからである。人間が幼時から、刺激によって育つということは明らかである。
  人間の子供に、理想的な食事や環境を与えても、もし周囲にいる育児の担当者が、誰一人抱きも
  せず、喋りかけるということをしなければ、その子が知的に順調に育つことはまずないだろう、
  と思われる。
 ・もちろん村の生活には、都会よりもっと濃厚な人の目がある。しかしたくさんの都会の無責任な
  人の目は、価値観の多様性そのものなので、そこから、人は自分にあった生き方を選ぶことがで
  きるのである。
 ・都会人がきれいだという面をあげれば、総じて姿勢がいいことである。それは履いているものと
  も関係がある。同じ年頃の女たちを比べると、都会の女性たちの方がハイヒールを履いている率
  が多いと思うが、服装を見場よく着こなす二つのキイは、できるだけ踵の高い靴を履いて歩くこ
  とと、日常コルセットないしはそれに準じた下着できっちりと体型を整えることである。
 ・都会の人はあまり大声を出さない。これは不思議である。煩い所に住んでいるのだから、大声で
  喋ってもいいようなものなのだが、大声を出しても相手に聞こえない場合がある、と知っている
  から、逆に大声を出さないのではないかと思う。大声で喋るということはどうもあまり恰好のい
  いものではない。耳が悪い人が大声になるは仕方がないが、声はいつも控え目の方がいい。

【愛の証を見せる人々】
 ・今東京に人口が集中しているのは困るので、それを分散しなければならない、という案があるよ
  うである。確かに、私のようになんの責任もない者だから、都会に人間が集中する時に初めてエ
  ネルギーが生まれるなどと気楽なことを言っていられる。しかし、水道、下水、保安、学校、病
  院、交通、何一つ取っても、集中すれば問題が起きることは間違いないのである。だから、それ
  ら都市の機能を管理運営する方のご苦労は並大抵ではないと思う。
 ・もちろん都会とは言っても、住宅が密集するのではなく、日当たりも風通しもよく、人間が固体
  の尊厳を保つことができるような都市計画は望ましい。しかし、それでもなお都会のエネルギー
  というものはどうしても、ある程度集中化によってこそ可能になることも忘れてはいけないと思
  う。

【故郷のために歌うのではなく】
 ・都会が提供する夢の場は、かなり人工的なものである。劇場、球場、動物園、遊園地、いずれも
  気宇壮大なものとは言いがたい。しかしそれらを、生活の場に持つことはやはり幸せといわなく
  てはならない。
 ・もっとも最近では、地方の農村部で、自分で小さな動物園を経営したり、自家や自社の比と一隅
  に美術館を開いたりする人も増えてきた。だから、これらが都会独特のものでなくなってきたこ
  とは、すばらしいことである。
 ・しかし東京という都会の持つ最大の特徴は、皇居があることであろう。この広大な敷地は、東京
  を東西南北に分断して、交通の障害になっている、という説もあるし、いざという時のグリーン・
  ベルトとして貴重な存在だという考え方もある。
 ・私は決して総ての人に天皇制をありがたいと思うことを強制しているのではない。東京には、実
  に信じられないくらいのさまざまな考え方の人がいるから、天皇さまが大好きという人も、天皇
  制は民主主義の敵だ、と思っている人がいることも当然である。反対でも、賛成でもいい。それ
  を考えさせるような桁外れなものの存在と言うものを、私は大切だ、と言うのである。
 ・誤解を恐れずに言えば、善でも悪でも、振幅が大きいほうがいい、と私は思っている面があるの
  で、皇居の存在は、どんなにか、東京という都市に、核としての安全性と複雑性を与えているか
  もしれない、と考えている。
 ・劇場の多さも、私が都会を好きな理由である。寄席も能も文楽も歌舞伎も、新劇もアングラ演劇
  もミュージカルも、見たい人々が、それぞれ好みの哲学に合わせて演劇を楽しめるという状況は
  この上なく楽しい。あらゆる人の心を包含するということが、豪華な人生というものだし、幸福
  な生活というものでもあるのだから、それを可能にするために存在している都市の機能は、それ
  だけで住民に生活しやすい場を与えているということになる。
 ・都会の大きな美点は性の表現の多様性が認められることである。人がたくさんいるから、ごく普
  通の女たちを眺めているだけでも変化に富んでいる。襟足に色気のある人も、長い髪の艶がきれ
  いな人も、ちょっと痴呆的な表現がたまらない人も、きつい狐目の人も、あらゆるタイプがいる。
  しかも服装もさまざまである。露出度が過ぎている人も、着ぶくれている人もいる。私はその方
  面にはくわしくないけれども、きっといろいろな秘密のクラブ、特殊な趣味の愛好家の集まりも
  多いであろう。一時、私の家まで、スワッピングの月刊雑誌が送られてきた。
 ・性は、あまりあからさまである必要はないが、圧迫してはいけないと思う。周囲に迷惑をかけな
  い限度で、自由に楽しむ人がそれぞれの方法で楽しんだらいい。研究一本やりと思われていた学
  者が、実は枕絵のコレクターだったりすることは大いに考えられるところである。その選択が比
  較的多岐にわたっているおり、自由で、しかもそのことを隠すこともあからさまにすることも、
  どちらも自由で可能なのが都会というものである。
 ・サラリーマンにとって、呪いの的の通勤電車も、昼には全く面変わりする。多くの場合、昼の電
  車は座れるし、乗り合わせた人々を眺めることは、私には至上の楽しみと言っていいかもしれな
  い。
 ・人が多いことは、個人の尊厳を失わせるという見方も真実だと思う。しかし私にとって、私の出
  会う人は絶対に多い方がいい。私の見られる人生が多ければ、私は豊かな暮らしをしたことにな
  る。私の尊敬する人の数が多ければ、私はたくさんの快楽を味わったわけである。都会はその意
  味でもっとも豪華な土地なのである。人が多いこと。それは、星も、風も、砂も、水も、ことご
  とく高貴なまでに輝いているアフリカにあっても、涙のでるほど贅沢な境地なのである。
 ・繁栄日本の、時には軽率とも言える経済的発展は、日本中に、同じような概観の故郷を作った。
  中心の町並みも、ビジネス・ホテルも、デパートも、文化会館も、どこも、ほとんど同じ高さの
  水準を保っている。そのために郷里の特徴がなくなった、という人もいるが、アフリカや中近東
  を見てきた私は、その平等化をやはり明るい変化と信じて疑わない一人である。どの都市でも町
  でも村でも底辺の条件が保証されたその上で、個性を持たなければならないからである。