定年後のただならぬオジサン  :足立紀尚

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定年後をいかに生きるか。この問題は、いつの時代でもシニア世代にとって悩める大きな
問題だ。しかし、団塊世代前と後とでは、社会的な背景が大きく違ってきていると思う。
団塊世代以前の世代では、60歳定年と同時に年金の受給資格も得られたので、「定年後
をいかに生きるか」は「年金生活をいかに過ごすか」と言ってもよかった。言い換えれば、
経済的に比較的恵まれた世代だったと言えるのではないか。しかし、団塊世代以降の世代
では、年金受給資格を得られるのは65歳となり、60歳で定年を迎えても、そのまま年
金生活に入るということはできなくなってしまった。60歳定年までによほどしっかりし
た蓄えがない限り、多くの人は60歳定年を迎えてもリタイア生活に入ることは難しく、
何らかの形で働き続けなくてはならなくなった。このため、60歳定年というのは、実質
的には言葉だけのものとなり、いまでは65歳定年が多くに人にとっての定年と言えるの
ではないだろうか。
もっとも、65歳を過ぎて年金を受給する年齢になっても、今の時代の生活は高コスト生
活となっており、年金だけの収入ではやっていけない家庭も多いのではないかと推察する。
このような社会的背景から、昔のように定年後の時間をいかに過ごすかというような悩み
は、いまでは「贅沢な悩み」であると言えるのかもしれない。
しかし、そうは言っても、60歳定年後も、はたまた65歳を過ぎても、同じ会社にしが
みついたまま、老いを迎えるというような生き方も、ひとつ会社での世界しか知らないと
いう、視野の狭い生き方となってしまい、せっかくの一度っきりの人生としては、なんだ
かもったいない生き方であるようにも思えてならない。
60歳、あるいは65歳を過ぎたら、それまでの生き方とはきれいさっぱりオサラバして、
まったく異なった人生も経験したみたい。そういう気持ちがふつふつと湧いてくる。年金
の受給資格が得られた後ならば、その年金で最低限の生活はできる。後は、経済的に許さ
れる範囲内でいろいろ自分のやりたいと思ったことにチャレンジしてみる。単に趣味とし
てではなく、個人事業としてやってみるのもいいのではないか。それで稼げなくても、毎
日の生活の張り合いになるだけでもいいのではないか。たとえそれが、失敗に終わっても
いいではないか。チャレンジしなかったという悔いを残して人生を終えるよりも、チャレ
ンジした結果として失敗だったという人生のほうが、潔く人生を終えることができるので
はないか。そんな気持ちにさせられる本である。
ただ、ちょっと気になるのは、シニアは経験が豊富だから誰でも生きる知恵や技術を持っ
ているという考えである。果たして、ほんとうにそう言えるのだろうか。そう言えるのは
一部のシニアの人の場合だけではないだろうか。昔のように社会が比較的単純だった時代
には、そう言えたかもしれないが、現代のような複雑で変化の激しい社会では、過去の経
験がすでに古すぎてほとんど役に立たないという場合が多いのではないだろうか。そのこ
とに気づかずに、過去の古い知恵や技術を持ち出しても、それは単なる「老害」となって
しまう場合もあるのではないだろうかとちょっと心配になった。

まず会社を捨てて、社会と格闘しよう
・いわゆる猛烈サラリーマンだった人ほど、定年になって会社を離れた途端、何もするこ
 とが見つからない場合が多い。それまでエネルギーを会社に傾注してきただけに、次な
 る対象が容易に見つけられない。他に生きがいを探そうとするものの、仕事以外に何も
 ない。そんな現実に直面して、結局会社に留まり続ける人生を選ぶことになる。
・なにしろ定年後は長い。リタイアした後にも、ざっと20年という年月が待ち受けてい
 る。これだけの時間を何に費やすかについての正解はない。会社のように上司の決裁が
 要るわけでもない。定年後をどう過ごすのかについては、一人ひとりが、それぞれ決断
 して時間の使い方を決めてゆくことになる。いまや、これがすべての日本人にとって自
 身の問題として取り組むべき大問題になっている。 
・それまで40年間も会社の水に浸かって生きてきたわけである。自分では立派に一本立
 ちしていたつもりでも、そのじつ、有形無形の恩恵を得つつ会社によって守られてきた。
 これが定年になって初めて実感することのようなのだ。
・定年後をどう生きるかという課題は、われわれ日本人にとって比較的最近になって登場
 してきた。少なくとも「人生50年」だった3、40年前までは存在しなかった問題で
 ある。このため過去に遡って先人の例を参考にすることは難しい。
・世の中では「あの団塊世代がそう簡単にリタイア生活に入るとは思えない」とも言われ
 いる。これまで勤めてきた企業に定年後も居続けることに意欲を示す人たちも少なから
 ず見受けられる。もっとも年金の受給が65歳に先送りされた事情なども考慮すれば、
 これまでのように60歳で早々に会社を辞めてリタイア生活に入ることが難しいという
 事情もある。労働力を確保したいという会社側の事情も重なって、雇用の延長を打ち出
 す企業も増えている。だからといって、これは定年がなくなってリタイアが消滅するこ
 とを意味するわけではない。リタイアの時期が何年後かに先延ばしになるだけで、会社
 を離れる日はいつか必ずやって来る。それが60歳なのか、それとも65歳か?もしか
 すると68歳、いや70歳かもしれない。その時期は人によって違う。
・だが、ただお金を得るという目的のためだけに、あるいは他に何もすることがないから
 といって会社に居続け、会社にしがみついているというのでは、本人にとっても会社に
 とっても良好なことではない。これは老害と言われても仕方がない。
・会社を離れて初めて気がつくことだが、世の中には会社の仕事以外にも情熱を傾けるに
 値する、たくさんのことが溢れている。このことは、定年後に社会と実際に関わって新
 しい挑戦を始めた多くの人が語っている。定年をきっかけに、会社を出て社会と格闘す
 ることで、世の中からさらに尊敬される方法もあるのである。 
・かつて日本人にとっての人生の価値基準として、俗に言う「カネ」「オンナ」「勲章」
 という3つのものがあった。これを現代風の言い方に解釈するならば、会社に勤めて家
 族を養ったということのみでは、けっして理想的な人生の水準には到達しないというこ
 とである。人間は年齢を重ねるにしたがって自身のための欲求を満たすのみならず、他
 人のためになって社会の役に立つことで一目置かれたいと考える。いわゆる一廉の人物
 として認められることを望む。
・定年を迎える時期というのは子育て、家のローンなどの制約がある30代、40代の働
 き世代の頃とは違って、自身が食べていくためだけのお金があれば事足りる。しかも、
 現在は年金制度もあるから、食べるための心配もない。にもかかわらず、先行きへの不
 安感から会社に留まって、いつまでもお金を稼ぐために仕事を続ける選択肢しかないと
 いうのでは、いわば勉強好きの優等生が社会に出ることを恐れて卒業の時期になっても
 学校に留まり続けているのに似ている。
・会社の外にも、いままで知ることのなかった、さまざまな世界が広がっている。だが現
 実には、いまの日本で会社を努め上げるということは朝から晩まで仕事に追われるばか
 りで、とても一人の個人として市民生活を両立させることなど難しい。 
・定年の年齢に達して食うに困らない立場になったことで、ようやく会社から踏み出して
 社会に向き合うことができるようになる。にもかかわらず、いつまでも会社で仕事を続
 けることにしか目が向かないのでは、見方によっては会社に逃げ込んでいると言われて
 も仕方がない。
・近い将来の日本では全人口の3分の1が65歳以上の老人で占められることが予想され
 る。そんな超高齢社会が到来する時代を目前にして、すべての老人が一律に庇護される
 べき社会的弱者だという考え方は、もはやナンセンスである。だからといって、リタイ
 アすることを恐れるあまり、他にやるべきことがないから、ずっと会社を居場所にする
 というのでは、会社に引きこもっていると同じである。次世代を担う若い人たちの機会
 を奪うことにもなる。
・世の中には「定年後になったら、本当に自分が好きなことをして過ごせばよい」などと
 いう人がいる。はっきり言って、これは絵に描いた餅である。温泉やゴルフといった趣
 味の楽しみは、他にやるべきことや義務を果たした上で、その楽しさが初めて実感でき
 る。人間は純粋に個人的な趣味や自分の好きなことだけでは有り余る時間が過ごせない。
 すぐに飽きてしまって長続きしないのである。
・人間には社会の他者との関わりを持つ中で得られる書類の喜びがある。そうした活動の
 ほうが、どうやら結果的に長続きするようなのだ。社会や他者と関わることには、むろ
 ん困難や課題も伴う。だが、社会と向き合いつつ、さまざまな課題を克服しながら他人
 とコミュニケーションを図ることで、自身の社会性も維持していく。これによって、結
 果的に健康で快活に生きてゆくことができる。社会的な活動を維持することで、自分が
 世の中に存在していることの意味を確認することにもなるわけである。人間はいくつに
 なったも、自身が世の中に存在している意味と必要性を実感できなければ、生きてゆく
 ことができない。会社からリタイアすることが、そのまま社会からのリタイアを意味す
 るわけではない。 
・定年シニアには、若い人たちにはない。オジサンとしての強みがある。それは自身の人
 生の中で積み重ねてきた経験値が豊富にあることだ。さまざまな人生の局面で得てきた
 体験と、これらとともに得た知恵や生きる技術。こうしたものを元手にして、ひと味も
 ふた味も違った生き方と活動を実践している定年シニアたちは現実に存在している。
・定年シニアが社会に積極的に関わることによって、日本の社会がもっと生きやすいもの
 になり、またシニア自身にとっても生きがいが感じられて元気なリタイア生活を得るこ
 ともできる。そんな社会が実現する兆しは、すでに出てきている。そうした動きが今後
 もさらに加速すれば、よりよい社会が変わってゆく。これから定年を迎える世代が社会
 に目を向けてよくことで、社会の質を変えてゆくことになる。
 
仲間と一緒に「居場所」を確保する
・リタイアの生活に入るにあたり、さしあたって必要なのが居場所の確保である。心おき
 なくリラックスした状態で、誰かに遠慮することなく時間を過ごすことのできるお気に
 入りの場所、それが居場所である。家でよいではないかと思われるかもしれない。だが
 家というのは休息の場であって本来は活動の場ではない。しかもどんなに気の合った夫
 婦でも、家で四六時中、顔を突き合わせていればそのうち気詰まりになる。リタイア生
 活とは言っても、居場所の確保はできれば家の外に確保するのが望ましい。
・定年を迎えて間もない60代や70代の人たちは、まだまだ元気な場合がほとんどだ。
 彼らを老人と呼ぶには早すぎる。こうした人たちにとって必要なのが、昼間の時間を過
 ごすための場所である。勤め先を定年になったあと、行くところがなくて、ずっと家に
 いるというのでは、どうしたって老け込むのが早くなる。日中どこにも出かけずに家に
 いて、ひたすらテレビを見ているというのでは、いくら健康な人でも気持ちから老けて
 くる。 
・こうした「定年ひきこもり」にならないために大切なことが、まず第一に他人と接点を
 のもてる自分の居場所を確保することである。人間は人と何かを一緒にすることで、そ
 こから刺激を受けて元気に生きていける。社会と関わる接点を持つことは世の中で考え
 られている以上に重要なことなのである。自分にとって心おきなく過ごすことのできる
 居場所と、そこで過ごす仲間を見つけること。このふたつが健康な定年後を過ごすため
 には欠かせない。
・たしかに定年になってから個人にできることは会社にいた頃に比べると限られているか
 もしれない。会社のような資本はなく、専門の技能とノウハウを有する専門のスタッフ
 がいるわけでもない。だが定年シニアには、それまで積み上げてきた人生の経験がある。
 有り余る時間がある。これらを利用して根気よく、そして着実に進めてゆけば、少しず
 つ形になってゆく。まず、できることを自分たちで楽しみながらやってみることである。
・この日本では、何かあるとすぎに役所を頼みにしたがる。そうではなく、自分たちでで
 きることは、時間をかけて自分たちの知恵と工夫で何とかする。何でも行政と税金を頼
 みにするのではなくて自助努力で事を成し遂げることが、これからの社会では求められ
 ている。
・定年後の居場所というのは、なにも特別なものである必要はない。人はそれぞれ置かれ
 ている立場や興味、関心、得意な分野というものがある。居場所を見つけるために、ま
 ったく見当もつかないという人は、まず自分を客観的に見つめ直すことから始めるのが
 よいのではないか。これまで自分が歩いてきた来し方について、いま一度きっちり点検
 することで、その取っかかりが得られることも多い。意外に、定年後の新しい居場所が
 見つかる可能性が高い。
・定年後の居場所は、いわばリタイア後のホームグランドのようなものである。居場所を
 つくる際に必要なのは、同じ立場の仲間を見つけることである。そうすれば、同じ分野
 の関心や興味を共有しやすい。
・いままでの経験を活用して居場所を確保するという方法もある。これまでに関わってき
 たビジネスという切り口で居場所をつくるというものである。なにしろ、男にとっての
 仕事は昔も今も人生における一大テーマなわけである。定年になった後で、自分の思う
 通りの理想的なビジネスを立ち上げて、一国一城の主になってみたい。このように考え
 る人は、ことのほか多い。
・人間には働くことを純粋に楽しみたいという欲求もある。ボランティアもけっこうだが、
 仕事として何かをする場合には責任がついてまわる。対価をもらっている以上は、中途
 半端では済まされない。どうしても真剣にならざるを得ないわけである。お金を貰うと
 いうことは、社会に対して必要性の高い貢献をしている証にもなる。ボランティアと言
 えば聞こえはよい。だが、言い方を変えれば、「お金が要らないなら歓迎する」という
 ことでもある。
・定年後に自身で仕事を立ち上げる場合は、仕事そのものを楽しみやすい条件が揃ってい
 る。多くの人にとっては、すでに子育ても終えているため教育費などの負担から解放さ
 れている。家のローンも払い終えている人が多い。なおかつ厚生年金も貰える立場にな
 れば食べることにも不自由しない。お金を儲けるということについての切迫感がないぶ
 ん、気の進まない仕事を無理にする必要がない。嫌々ではなく、「本当に自分が考える
 理想的な働き方をしてみたい」と考える人にとって、さまざまな思いを具体的な行動に
 移すことができる条件が揃っている。

自分の「仕事」を立ち上げる方法
・人間は元気なうちは何かをやって時間を潰していかなければならない。単に好きなこと
 を趣味として続けてゆくよりも、仕事という方法で社会と厳しく対峙するほうが緊張感
 はあるに違いない。仕事を続けてゆくことで社会の役に立ち、その報酬として対価をも
 らうほうが自然と張り合いが出る性格の人もいるだろう。だが、自分でビジネスを始め
 ることだけが定年後の仕事のあり方なわけではない。自分の持ち味や身の丈を考えつつ、
 仕事そのものを楽しむことを念頭に置くのであれば、そのための軒先を借りるという方
 法もある。
・人が生きゆくうえでとりわけ切実度の高いのが食事の部分である。食べる行為は、人間
 にとって何を措いても欠かせない。命と健康に関わるものだからだ。年を重ねても、毎
 日おいしい食事を食べて健康に過ごすことへの関心は増すばかりである。
・この日本には、その土地に固有の暮らしと文化も存在する。農業のみならず、林業、水
 産業、あるいは物づくりなどに目を向けることで、特色ある地域づくりをすることは可
 能である。定年シニアの力を活かして生きやすい社会に変えてゆくために、その地域性
 について再確認することも、ひとつの方法である。これも定年シニアにとって知恵と工
 夫の見せ所である。
・仕事や経済は、あくまでも手段であって目的ではない。経済を切り口にすることによっ
 て、シニア自身が工夫を凝らしつつ楽しみながら社会と関わってゆく方策なのである。

孫の世代に「知恵と技術」を伝える楽しみ
・定年シニアにとっての強みは、何といっても人生の経験が豊富な点である。さまざまな
 経験を積み重ねることによって、多種多様な知恵や生活のための身近な技術が蓄積され
 ている。
・いまの世の中では、情報や知識が重要なものと考えられる傾向がある。このことは「情
 報社会」や「知識社会」などという言葉が流行していることからも窺い知ることができ
 る。これに対して、知恵や生活の技術については、どちらかと言えば旧態依然としたも
 のと思われているところがある。だが、これは誤解である。情報社会とは、平たく言え
 ば、多くの情報が溢れ返っている社会のことである。こうした社会では誰でも簡単に情
 報が収集でき、なおかつ発信が可能である。こうした社会では、情報とういうのは、い
 わば水が高いところから低いところに流れるように、一定の法則にのっとって伝達がお
 こなわれる。情報社会においては必要なことは、おうした溢れ返る情報の洪水の中から、
 自分にとって本当に有用なものを吟味して取捨選択する能力であり、また自身の情報を
 発信するためのスキルなのである。
・こうした時代には、逆に知恵や生活の技術に希少価値が出てくるという面がある。そも
 そも知恵や生活の技術は人間が生きてゆくには必要にして不可欠のものである。人間は
 情報や知識のみでは、そのうちに行き詰まってしまう。知恵や生活の技術は一見すると
 無駄で役に立たないように見えるかもしれない。しかし、そこには人が生きてゆくため
 のヒントが詰まっており、また根っこになり得るのである。ところが困ったことに、こ
 の知恵や生活に技術は放っておいても情報のように勝手に伝達することがない。知恵や
 生活に技術は人から人に直接、伝わってゆく。しかも情報や知識のようにとにかく頭の
 中で理解できれば事足りるといった類のものではない。身体を使って、体験することに
 よって、初めて身につくのである。文字通り体得することによってのみ学ぶことができ
 るという性質がある。 
・知恵と生活の技術は、何ら特別なものではない。意外と身近なところに転がっている。
 子どもたちのためになるといった教育的な見地からスタートしないほうが奏功するよう
 なのだ。立派なお題目から始めた活動はツマラナイものになってしまう。まずシニア自
 身が関心のあることをおもしろがって、これを夢中になって続けてみる。そうするうち
 に、少しずつ活動の幅が広がってゆく。これが結果的に子供たちのとって生きた知恵や
 技術を伝える場にもなり得る。
・最近では企業組織においても「サーバント・リーダー論」なるものが言われ喧伝されて
 いる。組織の活動を活発化するために、その中心を担うリーダーが奉仕者の役割を担う
 べきだとう考え方である。独楽の軸のようにリーダーが積極的に動くことで周囲を引っ
 張ってゆく。このサーバント・リーダーという考え方は、もともとはキリスト教の考え
 方に由来する。今後の日本では定年を迎えたシニア世代が、まさにサーバント・リーダ
 ーになることが求められている。高齢化する一方の社会において、それまでの人生で蓄
 積してきた知恵と生活の技術を活用して、社会全体に刺激を与えることは可能なことで
 ある。
・あるコミュニティー活動を活発なものにすべく盛り上げてゆくには、その活動の中で、
 ある誰かがサーバント・リーダーの役割に徹する必要がある。目先に利害にとらわれる
 ことなく、活発に動くことである。すると、その姿勢に刺激を受けた別の誰かが動き始
 める。池に投げ込まれた石による波紋のように、やがて全体に活動が広がってゆく。
・そのためには、まず行動を起こすことである。そして自分がもっとも慣れ親しんだ得意
 分野を活かすことである。そして自分も楽しむことも大事である。特別な内容である必
 要はまったくない。自分にとっては当たり前で何でもないことが、いまの子どもたちや
 若い世代には、思いがけず新鮮に映るものなのである。
・次世代に知恵や技術を伝えてゆくための活動をするには、何か特殊な体験やノウハウが
 要るわけではない。すでに半世紀以上の人生経験があるのだから、誰だって生きるため
 の知恵や技術といったものは身についている。そうしたものを活用すればよいだけのこ
 とで、難しく考える必要はない。  
・一人の人間はいくつもの要素から成り立っている。同じ人が、さまざまな分野に関わっ
 て生活しているわけだから、時として複雑の引き出しを備えていることもある。しかも、
 これらの要素はお互いに関係し合っていることもある。
・核家族化が進む昨今は、子育ての悩みやストレスをひとりで抱え込んで育児ノイローゼ
 になるという話も聞く。働き世代の亭主は帰宅が遅い家庭も多い。地域にも身寄りのな
 いお母さんたちにとって、なじみのない都市で子育てをするうえで、子育て経験を終え
 たシニア世代の女性の存在が大きな支えとなっている。
・定年を迎えたシニアの世代は長い年月をかけて、生きるための知恵や技術を蓄積してき
 た。そうしたノウハウを伝承してゆくことも、また技術の一部である。これは、いまの
 日本の社会にもっとも欠落しているものなのかもしれない。
・知恵や生活の技術を次世代に伝えてゆく活動に関わることは、些末なことかもしれない。
 が、しかし地域社会を創ることに確実につながってゆく。しかも誰にでもできることな
 のだ。それは定年シニアが地域の子や孫の世代の関心に訴え掛ける接点をもつことから
 始まる。

親の世代と自身の「老い」を乗り切るために
・自分の楽しみとして腕を深めてゆくうちに、自分が身につけた腕前を他人に見せたくな
 るものなのである。なにごとも自分のなかだけで満足している状態では飽きてくる。人
 に見せたりして働きかけることで、喜んでもらいたいと考えるようになる。自分の楽し
 みを社会化することによって、活動も息の長いものとなる。社会との結びつきのなかで
 コミュニケーションを図ることで、世間における自分の存在とポジションが確認できる。
 これが結果的に、自分の居場所づくりにつながることも多い。重要なのは、活動を継続
 することである。気が向いた時に何回かやってみたいというのでは、わからない。
・世間一般では、年をとることで日々の食事についての関心度が若い時よりも高くなって
 いる傾向がある。本来、食べることは古今東西、すべての人間にとって最大の関心事で
 もある。
・年を重ねるにつれて、人間はさまざまな経験を重ねる一方で、これとは逆に負の状況も
 生じてくる。これは否定しようのない事実である。経験の蓄積がアドバンテージや得意
 なこととは限らない。逆境やハンディもその人の特性であり、また持ち味である。
・さまざまな高齢者のニーズに合わせつつ、地域で安心して年をとっていけるこミュにテ
 ィーづくりが行政頼みというのでは、どうにも心許せない。行政まかせでは、仏像だけ
 造って心を入れず、ということになりかねない。その場所で生活してきた住民による手
 作りのかたちが理想である。これは、まさしく定年シニアが得意とする役まわりという
 ことになるだろう。  
 
「脱病院化社会」がやって来る
・会社といっても、これまでの長い人間の歴史のなかで、たかだか200年ほどのものに
 過ぎない。日本では、たった百数十年の歴史である。それ以前には会社など存在してお
 らず、したがって定年もなかった。定年後をどう過ごすかということについて、実はそ
 れほど大騒ぎする問題でもないのである。単に労働生産性が高まって人間の寿命が伸び
 ただけのことで、つまり任性のボーナスの時間くらいに考えればよいのではないか。
・近代になって、さまざまな社会装置が登場したことによって、社会の効率と生産性は飛
 躍的に高まった。これと同時に、やがて社会の質も大きく様変わりすることとなった。
 働き手は会社に、子どもは学校に、生産に従事できない病人や怪我人は病院に、高齢者
 は老人ホームに、といった具合に、それぞれが居るべき場所へと振り分けがおこなわれ
 ることになったからである。
・いまの社会の仕事に就くことは、とりもなおさず誰もが何かの専門家になることを求め
 られることでもあるのだが、その一方で、自身の生活においては、仕事以外のことは、
 それぞれの分野の専門家に委ねざるを得ない。ところが、彼らは高度な専門知識を盾に
 とって物事を勧める上での主導権を握ろうとする。それどころか、専門家が素人の無知
 をよいことに、自分たちの有利になるように、不正な方法を用いて、こっそり事を運ぼ
 うとする場合すらある。 
・現在のように高度に専門化が進んだ社会では、それぞれの専門家は間違いを犯さないと
 いう前提の上で物事が成り立っている。だが現実は、ご承知のように、この数年、そう
 した専門家が信頼を裏切る事件が次々と明るみに出ている。とにかく難しいことは専門
 家に任せておけば間違いないとされていたが、少なくとも現在の日本社会では、すっか
 り過去の神話になってしまった。 
・病院における本来の治療の主体は患者である。にもかかわらず、実際には治療の内藤が
 何でも医者によって勝手に決められてゆく。だが、果たして本当に必要で適切な手術や
 検査なのか?医学についての専門知識がない素人のわれわれには、その妥当性について
 の判断がつかない。こうした専門家任せの状況から脱却して、患者が自身の治療につい
 て主体性を取り戻す社会を目指すべきである。 
・専門家に物事を委ねると言えば、たしかに聞こえはよい。だが言い方を変えれば、早い
 話が丸投げであり、主体性の放棄ということである。この指摘は、現代社会のさまざま
 な分野においても、そのまま当てはまることである。 
・子どもに教えることは、なにも教師にしかできないことではない。知恵や生活の技術を
 子どもたちに伝えてゆくことは、人生の経験が豊かなシニアにこそうってつけの役まわ
 りなのである。また、地域のことを何でもお役所任せにするのではなく、人々にとって
 生きやすいものにするために知恵をしぼって工夫を重ねながら物事を進めてゆくことは、
 その地域に住む住民に与えられた権利であり、また果たすべき役割である。
・これまで、この日本は「国民」はいても「市民」は存在しないと言われてきた。市民と
 は自身の身の回りの課題について、自分と考えを同じくする人たちとともに知恵やさま
 ざまなものを出し合って解決してゆく人たちである。困ったことがあっても、すぐに役
 所を頼みにするのではなく、自分たちの工夫を凝らしながら、自分たちが住む社会を暮
 らしやすいものに変えてゆく。そんな自治の精神を有していることが市民の要件である。
 そうした社会における役割を定年になったシニアが担うことで、地域社会が生きやすい
 ものになるのであれば、これほど素晴らしいリタイア生活もないのではないか。これが
 今後の日本において定年シニアに課せられる使命の一つになると考える。  
・むろん定年後には、純粋な趣味や悠々自適の生活を楽しむ部分もあってよいわけである。
 だが、自分の生活の充足を追い求めるのみでは、高齢化社会へ突き進みつつある日本に
 おいて、やがてシニアがお荷物扱いにされることになりかねない。楽しむべきところは
 楽しみつつも、その一方で社会と積極的に関わりながら、社会コミュニティーを創造し
 ていこうと奮闘する。そんな定年シニアが全体のうちの何割かでも存在することで、シ
 ニアが社会から必要な存在だと思われて一目置かれるようになるのである。 

あとがき
・いまの日本では、定年になったシニアや高齢者の多くが社会から尊敬される対象と見な
 されているとは言い難い。「若い世代に不公平感を残すだけの年金食い逃げである」な
 どという見方もある。高齢者も健康と体力の続く限り会社で働き続けるべきである、と
 いう議論も出てきている。 
・確かに、生涯現役社会と言えば耳になじみはよい。だが、その人が仕事が本当に好きで
 好きで仕方がないというのならともかく、あるいはオプションとして選択が可能だとい
 う話なら別として、すべての高齢者と言われる人たちに一様に働き続けることを求める
 社会のあり方が、はたして真に豊かと言えるのだろうか。
・人間の歴史の中で、現代ほど効率化が進んだ社会もない。そうした中で、せめて最終コ
 ーナーくらいは会社を離れて、自由なひとりに人間として、自身の思い描く時間を過ご
 すことがあってもよいのではないか。会社での仕事だけが、すめての人にとって夢中に
 なれる対象とは思えない。むしろ定年を迎えたシニアには、その年齢に達した人にしか
 できない使命とでも言うべきものがあるはずである。  
・いまどき、世のため、人のため」などと言うと、どこかしら嘘っぽさが漂うことも事実
 である。それでも、人生の仕上げに相当する時期に差しかあった年齢の人たちには、そ
 うした価値観にも少しは目を向ける余裕が欲しい。 
・人生には「自分にはこれしかできない」と考えてエネルギーを費やすうちに、最初はま
 ったく徒手空手の状態でも、やがて少しずつ可能性が広がって希望が見えてくることも、
 時としてある。このことは、ある程度の人生経験とキャリアを重ねた人間なら、誰でも
 知っている。