定年後のリアル :勢古浩爾

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定年後の生き方について書かれた本は多いが、その多くは、いわゆる「社会的成功者」の
立場にいる人が書いたものがほとんどである。この本は、比較的より一般人に近い立場の
人が書いたものであり、そのぶん共感できる部分が多い。たぶん私の定年後の生き方も、
この本に書かれているような生き方に近いのではないかと思う。
多くの本で書かれている定年後の生き方は、私にとっていずれもレベルが高すぎる生き方
だ。たぶん大方の人たちにとっても、そうではないだろうか。スポーツの世界でたとえる
なら、オリンピックを目指すアスリートたちの生き方をすべきだと、説いているような内
容である。もし、そんな生き方ができるならば、現役時代にとっくにやっている。定年後
になって突然そんな生き方をしようと言われても、できるはずがないし、また、すべての
人がオリンピック選手を目指す必要はないというのも当たり前の話である。
平凡な毎日でいいと思う。もう無理をする必要はない。心の赴くままに、今日一日を過ご
せれば、それでいいのではないか。私はそれで十分しあわせだ。老後の二十年というが、
その二十年、みんなに保証された二十年ではない。それに、歳を重ねるにしたがって加速
度的に時間が過ぎるのが早く感じるようになる。加速度的に老いがすすんでいく。老後を
いかに生きるかと思い悩んでいる間に、「お迎え」が来るかもしれないのだ。

まえがき
・定年退職が間近に迫っている人たちが口にする言葉はだいたい決まっている。次の三つ
 である。一番目はなにをおいてもこれ、「おれ、食っていけんかね」である。つまりお
 金の問題だ。再雇用や再就職でこの先数年、いくばくかの収入があるにしても、いずれ
 それも終わる。となると生活資金の基本は年金と貯金だけである。二番目が、「おれ、
 なにをするかなあ」である。生きがい、やりがいの問題である。仕事がなくなれば、も
 うすることがない。そして最後が「おれ、糖も出ているし、血圧もたかいからなあ」で
 ある。健康問題である。
・退職本や老後本は山のようにあるが、そんな退職本や老後本はほとんど役に立ちません。
 夢や希望を売りものにする本はなおさら役に立たない。というのも、この先私たちはど
 うすればいいのだ、なにか教えてくれ、というように具体的な方策を他人や本に求める
 根性がすでにだめである、と私は考えている。そんな魔法のような「方法」や「答え」
 など、どこにもないし、だれも知らないのである。有名人や学者や金持ちや偉い人や成
 功者に訊うても無駄である。あなたのほうが、彼ら(有名人や学者など)より、生活者
 としてはよほどまとも、ということはあるのである。どこまで行っても、あなたの老後
 であり、あなたの人生である。自分で考えるしかないのである。
・高齢化社会という「社会問題」は、じつは当の高齢者なんかほんとうはどうでもよく、
 高齢者以外の人間(政治家、経営者、現役の会社員、若者、子どもたち)の「問題」な
 のである。当の高齢者たちはほったらかしなのだ。高齢者が国や社会から望まれている
 ことは、振り込め詐欺にひっかかって何百万円もだまし取られるくらいなら、貯め込ん
 だ金をガンガン使って、早くコロリと逝ってくれ、であろう。だから一人ひとりの高齢
 者の「問題」は、あくまでも、自分で自分をどうにかしなくてはならない「個人の問題」
 である。定年退職者は自分で「自分のリアル」を見つめるしかない。他人に訊いても、
 他人はあなたのことなんかどうでもいいのである。
・「自分のリアル」は自分にしかわからない。ワラをもつかみたい気持ちはわかるけど、
 所詮ワラにすぎない。他人の空虚なワラよりも、自分の確かな一本の糸のほうがよほど
 大切である。
  
身分はただの素浪人
・生きていくとは、社会性を獲得することだった。だがもうそれもない。いまや何者でも
 ないということか、元々何者でもなかったのである。勤めていたときは、会社という組
 織のなかで、何者かである、と思っていただけなのである。今や残っているものは家族
 や知人とのプライベートなつながりだけである。パブリックはもうない。が、そんなこ
 とは、ふつうの人にはほとんど問題ではないだろう。
・退職後はもはや勤めに出るつもりはまったくなかったので、雇用保険はもらわなかった。
 この雇用保険受給までの手続きがじつに人を舐めているのだった。おいそれと支給しよ
 うとしないのである。支給条件に「就労意欲を示す」というのがある。いい年をして見
 せかけだけの「就労意欲」など示せるか、と思った。もう「就労」などしたくないから、
 会社を辞めたのである。ある統計によると、日本人が失業保険をもらっていない比率は
 77パーセントと知って驚いた。OECD主要加盟国のなかでは圧倒的な高率である。
 それだけ日本国は、ケチで形式的な制限を課して支給しようとしないということなのだ
 ろう。 
・厚生年金は支給額が多少減ってもいいから早くもらうことにした。いつまで生きられる
 かわからないからである。健康保険は組合の任意継続に加入した。私が退職後にしたこ
 とは、この年金と健康保険の手続きだけである。あとは、ハローワークに見学をかねて
 一回行っただけである。
・いままでのつきあいは職場関連、仕事関連の人間関係ばかりだった。それが退職で全部
 なくなる。忘年会も花見も赤提灯もカラオケもない。年賀状も途絶える。来るのはDM
 とセールスの電話と宅配便ばかり。近所は知らん人間ばかり。  
・退職したわかったことは、確かに毎日楽ではあるが、これといってとくにどうというこ
 とはないということだった。毎日が日曜日は、思ったほど、心弾むようなことではない
 のである。あっても最初だけである。すぐ慣れる。常態化する。恋愛感情のトキメキが
 冷めていくのと同じである。一番いけないのは好きなことができるという、その好きな
 ことがないことである。もしあったとしても、好きな焼肉や寿司を毎日食えるか、ちゅ
 うのである。
・定年退職でやった自由になれる、と思う。が、何事もそうだが、そう思っているうちが
 華である。夢や希望が実現しなかったときには失望感がやってくるが、それが実現した
 ときの達成感は意外とあっけないものである。ないことはないが、すぐに薄れて慣れて
 しまうのだ。  
・人間にはうれしいことも、楽しいことも、そんなにあるわけがないのである。夢や希望
 は実現したい。しかし実現されてはならない。もし実現したら、また新たな夢や希望を
 必要とする。 
・”毎日が日曜日”というのはウソである。他の曜日があってこその日曜日である。退職
 者は曜日を失うものである。だがそんな無曜日の安穏な時間がいい。もちろん夢や希望
 は実現されるにこしたことはない。が、夢や希望を持つことによって、それが逆にフラ
 ストレーションにしかならないとしたら、その持ち方がおかしいのである。
・毎朝、好きな時間に起きて、好きな場所に行って、好きなものを食べて、好きなことが
 できれば、もうなにもいうことはない、と空想した。ところが、これ、実際にやってみ
 ると、特にどうということもないのである。好きな時間に起きて、というところだけは
 楽でいいのだが、あとの、好きな場所も、好きな食べ物も、好きなことをしてというの
 も、別にすくなものなどないのであった。いや、まあ好きなときに起きて、好きなとこ
 に行って、好きなものを食べてはいる、といっていいのだが、だから、それがなんなの
 だ、という程度なのだ。
・好きなことをするといっても好きなことはなく、好きなところに行くといっても、ほん
 とに好きなところ(海外とか)行くと金がかかってしょうがないのである。結局、好き
 な時間に起きて、好きな時間に寝る、ということだけが退職後の実体である。   
・もしかしたら人間は、自分の「幸せ」を永遠に気付かないのではないかと思う。好きな
 人と結ばれたり、事業が成功したり、夢が叶ったりして、「ああ、幸せ」と思うことは
 あるのだろうが、それも常態になってしまえば、必ず色褪せてしまうものである。もし、
 今のわたしが「幸せ」な状態であるなら、勤めていたときだって「幸せ」だったのであ
 る。 

「リアル」も千差万別
・かつてない高齢化社会を迎えて、退職後や老後の生き方を模索する言説が氾濫している。
 不安を煽り悲惨さを強調するものもあるが、多くは充実して生きがいのある老後の生活
 を示そうとする夢と希望と楽しさに満ちたものである。自分のほんとうの”リアル”を
 知るのではなく、ウソでもいいから、そういう明るい老後を示してもらいたい、不安を
 払拭したいという需要に応えるものであろう。
・社会・政治問題としての「高齢者問題」など、わたしたちにとってはどうでもいいので
 ある。この自分の、そしてこの自分たちの夫婦の個人的な定年後の生活だけが、切実な
 「問題」なのだ。
・人間はほんとうのことを知りたい。感動するのはノンフィクションだし、意外な事実を
 知ると、目からウロコが落ちた、となる。が例外がある、自分のほんとうのことだけは
 知りたくないらしいのである。「ほんとうのこと」というのが「リアル」であり、「リ
 アル」とは、いうまでもなく「現実」のことである。わたしたちは自分の「リアル」を
 知っている。自分の能力も性格も生活のレベルもわかっている。わかっているが、それ
 を認めたくないのだ。わたしたちは実際の自分以上に自分を強く大きくて人並み以上の
 存在だと思いたいのである。だから他人から、実際のおまえはこれこれだ、と言われる
 とおもしろくない。  
・「老人」と一言いっても、その処遇や社会的な位置づけ、文化的意味合いは、歴史をみ
 ればその時代時代の社会の道徳的規範のありようによって異なってきた。また、どの時
 代にも、その人が所属する階層やそれまでの経歴、個人の生き様によって、老後の過ご
 し方は異なってくる。さらに老いに対する個人的な対応は、すべて人間の数だけあり、
 その内容も千差万別だ。
・定年後の不安といえば、やはり金と健康だろう。それにもうひとつ、生きがいなんても
 のもある。これが定年後(あるいは老後)の三つの不安であるといっていい。これらの
 不安は別に老後世代に限ったことではないだろうけど、定年者にはなにしろ収入が途絶
 えている。これから入ってくる予定もない。しかも体力は衰退し命の先もぼんやり見え
 ている、ということで他の若い世代にくらべると、一層逼迫度は高くなるようである。  
・そうでなくても、今の日本人はもう金と食べることと健康のことしか興味がないように
 見える。とくに退職後であれば、どう考えようと、これはらは後退戦であるという意識
 があり、そのなかでなんとか健康で少しでも長く楽しく生きることしができればオンの
 字だ、と思っているはずである。 
・仕事もなくなり、子どもも成人んした。さてこれから日々を精神的に充実して生きるた
 めにはどうしたらいいか。そこで出てくるのが趣味だが、逆に言えば、はたして趣味だ
 けで残りの20年を暮らしていけるか。趣味があればまだいい。無趣味な人間はどうす
 るか。贅沢な悩みである。好きにすればいいのである。もしそんなものが欲しければ自
 分で考えるしかない。他人から教えてもらうことはできない。趣味が見つければよし。
 見つからなくてもよし。三食食べれて、とりあえず健康なら文句をいう筋合いでもある
 まい。わたしはもう決めた。テレビを見て、散歩をして(自転車だが)、本を読むだけ
 でけっこうである。あとは時々旅行。なにかをしたければするし、そうでなければやら
 ない。 
・若いときは志望した学校があり、就きたい仕事があったはずである。一緒になりたい異
 性のタイプがあり、思い描いた生活や人生のかたちがあったにちがいない。もっと明確
 な夢や希望を持っていた人もいたにちがいない。だが、いずれにせよそれから茫々数十
 年。そんな志望が思い通りに叶った人はごくわずかの人だけではないか。もちろん私も
 含めてほとんどの人は、背に腹はかえられないと、目前の、手近なところで、落ち着い
 てしまったのである。志望しなかった学校に行き、思いもしなかった仕事に就き、タイ
 プではない異性と一緒になり、それで大した不満もなかったのである。
・人気企業ベストテンランキングの会社に入ろうと入るまいと、有名になろうとなるまい
 と、成功しようとすまいと、つねにあなたの人生はあなただけの人生であるしかなかっ
 たし、現在もそうである。このことを腹の底で納得することが大切だと思う。「豊かな
 セカンドライフ」といわれても、急に新しい世界が開けるわけではない。定年退職後や
 老後はこれまでの人生の延長である。
 
もう六十歳とまだ六十歳のあいだ  
・人間の年齢は社会的年齢である。自分の年齢など、ほんとうは自分にとって大した意味
 などない。ただ社会生活上必要なだけである。毎年毎年誕生日がやってくるたびに、あ
 あまたひとつ年をとったか、と思ってしまう。つい社会的年齢を意識するのだ。
・わたしのこころは基本的に幼少年期からずっとおなじものである。中年になってもここ
 ろはひとつなのだ。あちこち傷がつき、あるところ柔らかく、あるところは堅く、ある
 ところは広く深く、あるところは狭いままだが、基本的には、子どものときからこち運
 んできたこころである。中年になったからといって、中年用のこころと取り替えるわけ
 ではない。見た目はどこから見ても中年男なのに、こころはそうではないのである。わ
 たしはこれを自分年齢だと考えるが、その中核は、多くの人にとっては少年期や思春期
 のときのこころのままではないだろうか。
・六十歳という年齢はじつに中途半端な年齢である。身体的に、もう若くはないことはは
 っきりしている。では、じいさんばあさんかというとまだそうでもない。初老という言
 葉がまた微妙なのだが、八十歳くらいまで生きるのが普通になってくると、六十なんて
 まだまだなのである。
・生理的年齢もおなじで、今では元気な六十歳がほとんどである。昔なら、もう死んでい
 てもおかしくないのであるしかし体もまだ動くし、思考力だって劇的にダウンしている
 わけではない。その点からいうと六十歳定年というのは、その現状に合っていないとい
 わなければならない。六十五歳定年の会社が増えているようだが、それが主流になって
 もいいくらいである。つまり社会的年齢としても生理的年齢にしても、六十歳というの
 は「まだ六十」である。
・六十歳という社会的年齢は、老人界の新参者である。自分年齢では「まだ若い」という
 意識のなかで生きているが、その裏側では、こっそりと「老後」のことを考えているの
 だ。「もういつ死んでもおかしくはない」という意識がこころの底にやはり食い込んで
 いるのである。
・ミもフタもないことをいうと、六十歳の男女は、はっきりいってもう見た目が汚いよね。
 わたしもそのなかに入っているから。一般的には、やはり「老い」は醜いのだ。自分た
 ちですら、自分が汚くて嫌なのだ。しかたのないこととはいえ、そうなのだ。でも心映
 えは立派!といいたいが、これまた様々な未練を引きずって幼稚なのだ。口では「年を
 重ねた美しさ」「シブさ」「いぶしき銀」などといいながら、だれもそんなこと信じて
 いないのである。
・「若さ」「美」に固執するのは女に多いと思われるが、いやいや男も中々である。かれ
 らがとくに強調したがるのは「元気」である。「おれ、まだまだ現役だよ」というその
 顔がもうヒヒジジイじみて卑しいのである。なにかといえば、すぎに「まだ若いものに
 は負けん」といいたがるのである。
・四十、五十になると、あとはもう衰退し凋落していくだけでしかない。だれもがもう
 「美」や「元気」のピークはとっくに過ぎたと感じるのである。それが六十ともなれば、
 過ぎたどころの話ではない。だがその事実を認めたくない。もう若くないと知りつつ、
 いやまだ若いはずである、若さを保てるはずであると思いたいのだ。
・こころが若いのはいい。しかし。なかには気位も利己心も無作法も昔のままというじい
 さんばあさんがいる。こうなると、これほど醜い生き物もない。外見の醜さに内面の醜
 さが二乗されて、にっちもさっちもいかないのだ。年寄りのわがままは許してあげなく
 ちゃ、という気はわたしにはまったくない。六十年も七十年も生きて、いったいなにを
 してきだのだといいたいくらいである。
・現代の年寄りに賢人の知恵を求めるのはもはや無理だろう。しかしもう六十歳なら、せ
 めて行動の美くらいは自分のものにしたいと思う。老醜ほど見苦しいものはないのであ
 る。 
・高齢者の性についてどう考えるか。そんなこと、法に触れない範囲で、勝手に、好きに
 すればいいのである。だれかに訊けば、明確な答えを出してくれる。本を読めば、適切
 な答えが書いている。そんなことはありえないのである。赤の他人に「答え」を求める
 のがそもそもまちがいである。いかにも「わたしがお答えしましょう」みたいな本があ
 っても、そんなもの役に立つはずがない。あたりまえのことである。探せば、中高年や
 老年と性、ステキな性や豊かな性、といった類の本があるだろう。みんな「中高年の性
 問題」、「老年の性問題」として書かれているだろう。なんでもかんでも「問題」であ
 る。人間はいくつになっても性欲はなくならない、といわれたところで、だからどうし
 たんだ、である。そんなのは「問題」でもなんでもない。一人ひとり勝手にすればい
 いだけのことである。
・勝手にすればいいのに、勝手にしないのである。人に指示してもらいたらしいのだ。な
 んでもそうである。自分が食べるものなのに、「お店のお勧めは?」なんて訊いてしま
 うのである。自分の食べるものくらい自分で決めろよ、と思うが、人に決めてもらって、
 テコでも損をしたくない風情である。これはいったいどういう心理なんだろうか。自分
 で選んで失敗する責任を負いたくないというのか。食べるものくらい自分で選べよ。着
 るものも、読むものも、お勧めは?とは訊かないが、世間の動向はきちんち情報を把握
 して、ちゃんと「お勧め」えお選んでいるのである。現代の日本人は「白線まで下がれ」
 だの「手すりにつままろう?」などと指示してもらわなければならないめでだい国民で
 ある。だからなのか、ついには「わたしの老後のお勧めの生き方は?」とまで訊く始末
 である。 
・「若さ」に比べてみて、まだ六十歳かもう六十歳かと考えるのはまったく意味がないと
 思う。「死」に照らしてみてもあまり意味がない。「去る年は追わず、来る年は拒まず」
 でいいのではないか。社会的年齢や生理的年齢をちらちら見ながら、それぞれの「ここ
 ろのリアル」で生きていけばいいのだ。
  
なにをしてもいいし、なにもしなくてもいい
・定年退職は「終着駅」ではなく、「乗換駅」だ、とうまいことをいう人がいる。確かに
 定年までは、社会(政治)によって一定の公式のレールが敷かれてあった。そのレール
 を走る電車に特急、快速、鈍行の違いはあり、また人によっては途中で多少分岐。逸脱
 したりするものの、たしかに既成のレールは敷かれてあったのである。どの電車を選ん
 だかは家族の環境や経済状況と、自分自身の力量や判断ではあったのだが。
・このレールは自然といえば自然、強迫観念といえばほとんど脅迫観念的である。むろん、
 唯一絶対のレールではない。せいぜい社会で一人前と認められるためのモデル路線であ
 る。仕事だった、終身雇用というレールに乗れば、一応終点まで無難に行くことができ
 だ。かれどいまやこのレールは、大学までは従来どおりだが、それ以降になると、むか
 しほど堅牢性もなければ安定性もない。正当性さえいくらか失われている。というより、
 べつのレールの存在も可能になっている。しかし、モデル路線としては、いまだに大多
 数の人々が走ろうとする路線であることにかわりはない。むしろ格差社会といわれる現
 在では、たとえ鈍行であっても、このレールの上を走ることができたらオンの字、とい
 うことになっている。それはともかく、定年退職になると、その先のレールがないので
 ある。退職とはその駅で降りはしたものの、やはり「終着駅」だったのである。その駅
 にポツンと立って周囲を見渡してみても、ほとんどの人には「乗換駅」もその先のレー
 ルもどこにもありゃせんのである。
・退職までは国と社会がレールを敷いてくれていた。ところが定年で、いきなりそのレー
 ルが途切れる。おまえはもう国家や社会や会社にとっては用済みである。あとは勝手に
 しなさい、ということなのである。口では「長い間ご苦労さんでした」といいながら、
 態のいい厄介払いである。あとはなにをするもしないもあなたの勝手ですから、と放り
 出されたということである。もしもその先のレールが欲しいなら、それはもう各人が敷
 くしかない。どんな方向にどんなレールを敷くのか。それまでに蓄積してきた資産と価
 値感と技量とけいけんとで、一人ひとり自分のレールを敷くしかないのだ。ただし乗客
 は自分ひとり。運がよければ配偶者も一緒か。だがそれがどんなものであれ、個人の力
 で敷くのだから、脆弱であることはまぬがれない。安全の保証もない。遅々として敷設
 は進まない。 
・定年退職者は子どもが大学を出るまではと頑張ってきた。その子どもも就職sれば、も
 はや親としての義務も責任もない。四十年近く仕事もしてきた。これで社会的な義務も
 責任も一応は果たしたはずである。もこれで個人的にも社会的にも義務や責任から解放
 された、と考えていいのではないか。あとはなにをするもしないも、自分の自由である。
 どの方向に歩き出そうと、あるいは日向ぼっこをしようと、あなだの自由である。
・わたしの前に「第二の人生」のレールはない。レールなどもういらない。一日一日、似
 たようなところをぐるぐる歩いているだけである。どこかで迷い道に踏み込むかもしれ
 ない。歩いていく道が野道であろうとデコボコ道であろうと、それはそれでいい。どの
 方向に歩き出そうと、それはあなだの自由である。どこにも歩き始めなくてもいい。日
 向ぼっこをしながら、しばらく様子見をしてもいい。それもまたあなたの自由なのだ。
 ただし、この自由は有限である。完全な自由などこの世にはない。
・仕事が大事なのは仕事をしているあいだだけで、辞めてしまえば、仕事など大事でもな
 んでもなくなる、というのが不思議である。あたりまえのことだ。もう仕事がなくなっ
 たのだから。仕事をしているときの高揚感がなくなったからといって、とくに空虚感も
 欠落感もない。あの日々はなんだったのか、とも思わない。あれはあれだったのだ。戦
 争に行って九死に一生を得て帰ってきたのではないのである。
・周りを見れば、仕事をしている人がほとんどである。みんな今でも毎朝電車のラッシュ
 にもまれているであろう。ご苦労さん、と思う。その他方で、どう、おれたち、バリバ
 リやっているよなあ、といううっとうしい雰囲気を外に出している会社員たちには、そ
 う目の色を変えなくても、と思い、もう少し静かにやれば?君の仕事なんか他人にはど
 うだっていいんだから、と思う。
・人間にとって、自分に興味のないことは無価値である。そしてその興味とは、自分が思
 ったほど広くも深くもなく、つねに狭く、つねに幼稚なものである。しかし人間はその
 ようにしか生きられない。いや、おれは広いぞ、という人がいても、それはそれでけっ
 こうである。 
・人はどうでもいいことをこの世の一大事みたいに論じていたりするのである。それがも
 ううっとうしい。議論からはなにも生まれない。結局人は、自分の立場があるからうる
 さく主張しているだけなのだ。立場がなくなった人間にとっては、そのことがばかばか
 しいのである。かれらも立場を離れてみれば、もう次の日から、昨日までの甲論乙駁が
 何事でもなかったような顔をするのである。どんな立場もなくなるということが、これ
 ほど自由だとは知らなかった。そのことを知っただけでも、退職の意味はあったといっ
 ていい。  
・趣味なんか暇つぶしであり、ちょっとした楽しみだけでいいのである。それをやってい
 る間は夢中になれる、時間を忘れる、だけでいいのだ。他人に迷惑さえかけなければ、
 どんな趣味でもいいのである。長つづきすればそれにこしたことはないが、三日坊主だ
 ってかまわない。三日、楽しめればそれだけでも十分である。無理やりなにかを始めて
 も、好きでもない人を無理に好きになろうとするような義務感が伴って、どこかウソく
 さい。ウソくさいけど、もちろんやって悪いことではない。もしかしたらそれがおもし
 ろくなることだってないわけではないからである。まあ、お見合いみたいなものだね。
 けれど、「なにかいい趣味ないかな」と焦る必要もないでしょう。やらなくてもいいの
 である。
・趣味関連で、同好の士というものができるのもむしろ厄介である。それが楽しんじゃな
 いか、といわれるだろうけど。決められた時間に決められた場所に行くというのもおっ
 くうである。もう交際範囲がやたら広くて、人ともうじゃうじゃ付き合っている人がい
 るのである。よく疲れないものだと感心するが、それがたぶん楽しいのだろう。やはり、
 みんな生き生きとした、交際範囲の広い定年後の生活をしたいのであろう。若者たち
 から、おれもおsっさんになったら、あんなに元気でかっこいいおっさんになりたいな
 どと思われたいのであろう。
・定年退職者が陥りやすい錯覚がある。もしこの先二十年も生きるとすると、膨大な、無
 為の時間が広がっているように見えて、「うわあ、どうすればいいんだ。なにもするこ
 とがないぞ」と思ってしまうことである。しかし十代二十代の二十年間とはわけがちが
 うのである。頭も体も衰弱していく二十年間である。容貌は汚くなっていく二十年間で
 ある。 
・いくら本好きであっても、朝から晩まで二十年間も本を読み続けることなどできはしな
 い。新聞を読み続け、テレビを見続けることはできない。友人とあって食事をし、お茶
 を飲みしゃべる。酒を飲む。散歩に出る。小旅行に行く。まあ、なんでもいいです。な
 にをしてもいいのだが、しかしなにをしようと、それも一時的であり、朝から晩まで、
 二十年間もし続けることはできないのである。どんなに親しい友人でも毎日会うことは
 できない。結局なにをしようと、自分ひとりだけの無為の時間はやはり膨大に残るのだ。
 考えて見ると、ある意味、学校や仕事はじつによくできた暇つぶしだったのである。
・その残った自分ひとりの時間がこれまた長い。夢中になっているときの一時間はあっと
 いう間だが、暇をつぶすための一時間は中々過ぎていかないのである。なにをしても、
 やはり残ってしまうひとりの時間。こいつをどうするか。外に出れば出たで、電車に乗
 るにも喫茶店に入るにも、美術館や展覧会や映画に行くにも、安い昼食をとるにも金が
 かかる。自由とはじつに金のかかる代物なのである。
・このひとりの時間をどうするか、どうやって埋めれば(つぶせば)いいのか、しかも
 二十年間も、と考えてしまうのが間違いである。そもそも二十年間なんて約束された時
 間ではないのである。そんなあるかないかわからない二十年丸々を先取りして、どうし
 たらいいのかなんて、取り越し苦労というものである。二十年も膨大な無為の空白の時
 間がある、と考えるのが錯覚なのだ。
・考えることは、今日一日のことだけで十分である。せいぜい今年の夏はどこか小旅行に
 でも出かけるかな、くらいでいい。趣味であっても、どうせ暇は全部つぶせないのだ。
 今日一日にだって暇はあるだろう。そんな暇はほっとけばいいのだ。暇はなんでもつぶ
 さなければならない、というのが間違いである。その暇もまた退職者の特権である。も
 はや暇は生活の基本である。その暇のあいだに、趣味をしたり、散歩をしたり、旅行を
 したりするのである。
・私は退職後、前よりも楽しんで本を読むようになった気がする。暇つぶしである。暇つ
 ぶしというと、よくないイメージがあるだろうが、そうではない。しかたなくではなく、
 心から堪能しているのだ。だから文学といわれるものは、ほとんど読まなくなった。
 多いのがノンフィクション。とくに戦記物である。不謹慎ないい方だが、これがおもし
 ろくてしようがない。
・「人生の楽園」の番組のなかではいいところばかり映すが、かれらにはかれらの苦労が
 当然あるはずである。ペンション経営など、実際には大変にちがいない。かれらの友人・
 知人たちが、たぶん番組のために召集をかけられたのであろう、客として登場したりす
 る。そば屋の開店には、これまだ同じように、前に働いていた会社の同僚たちが大挙押
 し寄せてきたりする。番組の締めでは、近所の人たちも集合して、必ず酒盛りがはじま
 るのである。しかし、かれらには取材前も取材後も、膨大な淡々とした時間があるので
 ある。だから番組を三十分間見ただけで、あ、いいなあ、これも田舎暮らしをしてみる
 かなあ、などと思うとしたらそれはいささか甘いのである。
・暇な時間が基本だといっても、人間はやはりなにかをしたくなる生き物である。しかし
 人間がすることは、仕事か趣味かしかないのか、と思う。あんなに沢山の趣味があるな
 がら、やってみたいと思うものは意外と少ない。ほんとうは、人間はやることが少ない
 のではないか。楽しいことも、ほんとうは少ないのではないか。
・仕事を辞めてはっきりと変わったことは、昼間の青空をよく見上げるようになったこと
 である。起きるとまず、近くの公園にテレテレと自転車を走らせる。両腕をベンチの背
 に伸ばし、やおら、空を見上げる。青空だ。雲が流れている。風がそよそよと吹いてい
 る。家を一歩出たところから気分は自由なのだが、この青空はもっと自由の感覚に満ち
 ている。はじめて味わう感覚のような気がする。気分がいい。本を少し読む。また見上
 げる。特に台風一過翌日の澄みわたった青空の景色はまさに生の醍醐味であるといって
 いい。申し訳ないが仕事なんかをしている場合ではない。締め切った車なんかに乗って
 いてはもったいない。晴れていて、ほかに用事がなければ、ほぼ毎日公園に行く。たい
 ていはなにも考えない。ふー、いいねえ、と、なにがいいのかわからないが、ボーッと
 するだけである。ときに、とりとめのないことをあれこれと考えないわけではない。あ
 れこれと思い出したりもする。しかし、勤めていたことは、こんな時間はまったくなか
 った。こんなふうにぼんやりとそれを見上げ、雲を眺め、風に吹かれたのは、生まれて
 はじめてのことではないか、と思った。こんなに無為の時間を毎日、一時間も二時間も
 過ごしたことははじめてのことであった。
・この時間にも世界は激しき動いているだろう。学生は学校で学び、多くの人は仕事をし
 ているのだろう。前に勤めていた会社のかれらは苦戦を強いられながら働いているにち
 がいない。悲喜はいま現在も世界中にあるだろう。わたしに悲喜があいわけではない。
 が、すでに社会から九割離脱し、そのことが悲しくもなんともない。もう、ほとんどの
 ことが、どうでもよくなっている。
・公園での時間が経てば、ベンチから腰を上げ、自転車に乗り、やがて町にもどっていく。
 人や車や建物の数が徐々に増えてくる。世間である。そこには生々しい自我が渦巻いて
 いる。おれが、わたしが、と主張している。それをもうあまり見たくはないのだ。
   
さみしいからといって、それがなんだ
・「おひとりさま」というのは、旅館、ホテル、レストラン、飲食店業界が作りだした女
 性「ひとり客」向けの言葉である。しかもおおむね、小金持ち、と相場は決まっている。
 そういう店に来ない金のない(金にならない)ひとりものは「客」ではないから、ただ
 の一名にすぎない。
・上野千鶴子の「おひとりさまの老後」なる本がベストセラーになったが、これを読んだ
 人の少なからぬ人が、なんだ、「おひとりさま」とは結局、友人もたくさんいて、仕事
 もあって、老後の資金になんの心配もない、小金持ちのおばさんのことで、そしてあん
 た(上野)はその上別荘まで持っとったんかい、と不満を表明したものである。上野は
 精一杯、おひとりさまの「平均的なリアル」を書こうとしたはずであるが、人は自分の
 立場にどうしても引きずられるものだから、上野は結果的に、裕福で知的なおひとりさ
 まの「平均」を書いてしまったのである。老後の不安のあまり、読者がワラをもつかみ
 たい気持ちはわからないでもない。しかし、よりによって「大学教授」をつかんでしま
 ったのは浅はかである。専門知識を得ようとして大学の先生が書いた専門書を読むなら
 まだしも、なぜわたしたちは「大学教授」などに「老後」を教わろうとするのだろうか。
 われわれ貧乏人もいい加減目を覚ましていいことである。われわれは他人にたいしてあ
 まりにも「教えてくれ」という欲求が強すぎるのである。
・「東京大学の先生」という肩書にだまされてはならない。べつに「東京大学の先生」に
 かぎらない。「大学の先生」も同断である。(あるいは「作家先生」ないし「インテリ」
 「テレビに出ている人」でもいい)。かれらの学識に対しては尊敬すればいい。しかし、
 かれら「大学の先生」うあ「作家先生」たちが生活者として、あなた以上の人間である
 という保証はまったくないのである。そんな人間に自分の「老後」の生き方を教えれも
 らおう、という根性がだめである。むしろ逆に、あなたのほうが教える資格があったり
 するのである。生活力だってあなたのほうが逞しいかもしれないのである。
・老いたときにかぎらず、人が恐れるのは孤独である。人は社会的動物だから、人のなか
 で生きることはあたりまえである。喜ばしい状態ではない。だれもが、できれば避けた
 い状態である。わたしも同じである。べつに孤島に住みたいわけではない。 
・老年の不安のひとつに、まちがいなくこの孤独があると思われる。とくに男は女にくら
 べて社交的ではないから、配偶者が死ぬと隣近所とはつきあいのない孤独になりがちで
 ある。だからといって老年の女が孤独に強いとはいえないだろう。ひとり暮らしの老人
 が死ぬと、かならず「孤独死」といわれる。人間の死のなかで、もっともみじめな寂し
 い死、というニュアンスがこめられ、かならず、行政や近隣はどうにかできなかったの
 だろうか、といわれるのだが、ただいってみるだけで、どうにもできなかったのである。
・多くの人は好き好んで孤独になるわけではない。なかにはひとり暮らしが好きという人
 もいるだろうが、ほとんどの人は、やむなく孤独になるのである。こまかくいえば、孤
 独とひとり暮らしは違う。ひとり暮らしをしていても遠くに家族や知人がいる人はいる。
 孤独とはそういう人が皆無ではないにしても、ほとんどいないに等しい生活をしている
 人である。  
・自分の現状に対して否定的な言葉を自分に言わないことである。そんな感情が湧きあが
 ってくるのはしかたがない。が、それをさらに言葉として、わざわざ確認し強調するよ
 うに、傷口に塩をするこむように、南進で自分につぶやくことは意味がない。自分をさ
 らに掘り崩すだけである。自分で自分を「みじめ」だなんて、そういうふうにいっても
 なんの益もないのである。こういう言葉の使い方は百害あって一利もない。
・老後に関する言葉も同じである。「豊かで充実した老後」「ステキな生活」「これから
 がほんとうの人生だ」という言葉なんか、どうでもいいのである。そういう暮らしをし
 ている人がいるだろうが、それはあなたではない。むろん、わたしでもない。あやかり
 たい気持ちはわかるが、他人を見ないことである。そして自分も見ないこと。見てもい
 いが、見過ぎないことである。世間の言葉はいうまでもなく無責任である。そんな言葉
 に煽られたり、負けることはないのである。
・幸せには、三つの種類があります。一つ目は仕事もお金も家庭も恋もすべて手に入れる、
 という獲得することで得る幸せ。がんばって手に入れて欲望を満たす。本やに並ぶ成功
 マニュアル本の多くがこれに関するものです。二つ目は、捨てることで手に入れる幸福。
 欲望を捨てて精神的に成長することで自然と見えてくる幸せ。宗教的には一般的な考え
 方です。そして三つ目は、人生のどん底をなんとか耐え、心の平安をぎりぎり保つ幸福
 の知恵です。
・女性は恋愛、男は仕事に依存することが多いものです。適当にやっているうちは傷つか
 ずに済む。反対に無我夢中になっているときは深い幸福感を感じますが、失ったときに
 は、ひどい喪失感に苦しむ。大きく傷ついてしまうリスクがつきまといます。それでも、
 無我夢中で仕事をし、恋をすることは人生で一番大切なことだと思います。本当の幸せ
 は本気で生き、みじめな自分になることを覚悟した人にしか手に入らないものだと思い
 ます。
・あの人かわいそうねえ、みじめだなあ、あわれだなあ、と言ったり思ったりする人間は
 いつでもいる。心の中で思うのはしかたがないが、そういうふうに言っている本人があ
 われでかわいそうでない保証はないのである。そんなことは関係ない。他を見下すこと
 によって、必死に自己防衛しようとする幼稚な心理なんだろうけど、言ったほうが勝ち
 ではないのである。「あんたはなにが楽しくて生きているんだ?」とえらそうに人に言
 うその人間が、どんな楽しさの中で生きているのかというと、きまってたいした楽しみ
 は持っていないのである。   
・今のこの状態がわたしである、だけでいい。それに「みじめ」だの「なにもない」だの
 「だめだ」などという修飾を自分でつける必要はまったくない。「私は孤独だ」も「私
 はさみしい」もいらない。どうしてもそう思ってしまうなら、「さみしいなあ、でもそ
 れがどうした」と思うことである。
・人間は弱いものだ。そんなことはとっくにわかっていることである。だがそんなことを
 言ってもなんにもならない。逃げ口上にしかならない。弱さは無化できる。だが、まだ
 生きていると、意味をつけることである。自分で動ける、歩くことができる、自転車に
 乗ることができる、手は動き、目は見える、と意味をつける。
 
元気な百歳ならけっこうだが  
・「幸せになりたい」だの「楽しく暮らしたい」だのという言葉がある。むろんそのよう
 に願うことはしかたのないことである。しかし、そんな概念にとらわれて、今の自分の
 生活をマイナス目で見ることになるなら、本末転倒である。    
・老後のほんとうの不安というのは、最終的には、どんなに絶望的な病気になっても、生
 活をする金が底をついても、生きる意欲がまったくなくなっても、もう死んでもいいや
 と思っても、それでも生きなければならないし、生かされてしまうという不安があるか
 らだ、と思われる。    
   
貧乏でもほんわか生きたい
・金を持っている老人は貯めこまずにもっと使え、といわれる。だが欲しいものなんかも
 うないのだ。いまさら人間的成長のために金を使う気もない。老後のために持っておき
 たいという気持ちはわかるではないか。ただし、そのままそっくり子どもに残したいと
 いうのは見苦しい。
・結局、どういう人生の価値観を持つのか、ということに尽きるのではないかと思う。高
 齢者にとって金の問題が一番不安というのは、やみくもに金が欲しいということではお
 そらくない。現在の生活をできればそのまま最後まで維持したいという望みのために必
 要なのであって、金はあくまでもその手段にすぎない。そこの保障さえあれば、ほんと
 うは有り余るほどの金など不必要である。べつに贅沢をしたいわけではない。心が逼迫
 しない程度、できればそれよりも少しだけ余裕がある程度で十分なのである。
・いうまでもなく、欲望の合計額が現実の手持ちの額を上回るのはだめである。いい家に
 住んで、うまいものばかり食って、車を持って、年に何回も海外旅行に行って、などと
 自分の欲望を元に考えれば、手持ちの額で足りるわけがないのである。いい古されたこ
 とだが、足るを知らなければならない。世間に煽られて、不要で余計な欲望をかきたて
 られるなど人間の恥である。
・自我をできるだけ縮小したい。つまり「自分という立場」から少しずつ離れていきたい。
 余計なことはもう考えない。論を争わない。それで、できるだけ外の静かな空気を吸う。
 もしそのようにできたら、それでいい。これからの二十年を一気に生きることなどだれ
 にもできない。五年も十年も一日一日の積み重ねでしかないのである。
・若者の刹那主義を戒めるが、定年後から老後を生きる人間は、もう今日一日よければ、
 それでいいのである。下り道を行く者の特権である。あとは野となれ山となれ、ではな
 い。一日の積み重ねでどこまで行けるか、である。それ以後のことはどうでもいいので
 ある。
  
飄々と
・定年後どう生きていけばいいか、などという問いは、自分の内部だけでしか成立しない。
 他人に訊くべきことではない。でてくる答えはひとつである。「好きに生きよう」であ
 る。「好きでなくても、今の生活しかないのなら、それで生きよう」である。せっかく、
 長年の会社勤めから自由になったのだ。今こそ思い切り「自分らしく」、好きに生きれ
 ばいいのである。   
・時々「あなたは老後をだれと生きるのか?」といったもっともらしい問いをする人がい
 るが、格好をつけただけの愚問にすぎない。もし相方(配偶者)がいるならば、ボケと
 ツッコミのふたりで生きていけばいいのである。ひとりならひとりでいきていけばいい
 のである。それしかないのである。無理やり次から次へとつまらない問いをつくりだす
 ことはないのだ。足りないのは、たったそれだけのことを納得しないこころである。
・ひとりの平凡な人間の考えることなどたかが知れている。六十年生きたからといって、
 経験は小さく、度量も小さく、知識も浅く、見聞の幅もちっぽけなものだ。世の中は広
 い。歴史も長い。世の中にはわたしなど及びもつかないほど見事な人がいくらでもいる
 だろうし、経験の広さも深さもわたしなどとは比較にならない人がいある。  
・昨今の少子高齢化や若年層の生き難さの問題などを見ていると、人間はいきづまってい
 るように見えてしかたがない。政治は民主主義、経済は資本主義と市場主義、社会は自
 由主義と権利主義。いずれも現時点において人類の叡智が到達した理想的な地点といっ
 ていい。これらを超える思想はまだ現れていない。が、そこでどんづまっているのも確
 かである。山積する「問題」でどんづまり、予算でどんづまり、なによりも頭でっかち
 になった人間がどんづまっている。もっと幸せな顔をした人間が社会(世界)に溢れて
 いてもよさそうなものなのに、ちっともそうは見えないのである。人間に力量を超えて、
 それらの主義や思想が風船みたいに極限まで息を吹き込まれてぱんぱんに膨れ上がり、
 ついには政治と経済と社会と人間のあちこちが破れ、そこから醜悪なものが外に吹きこ
 ぼれているような状態である。
・あたりまえのことだが、夢や希望がどこかに転がっているわけではない。あなたの定年
 後の夢と希望はこうすれば手に入りますよ、と他人が教えてくれるものではない。夢や
 希望はあるのか?ではない。そんなものは外のどこにもない。あるとしたら、一人ひと
 りの中にしかない。自分自身で考えて、つかんで、実行しないかぎり、夢も希望もどこ
 にも存在しないし、永遠に手に入らない。
・「芯」のこころが、小さいことで充たされればよいのである。刺激ではなく、平安な気
 分に満たされればいい。そのこころを充たす小さな方法はいくらでもある。たとえば、
 本を読んでひとつのことを知る。ひとつの昔のことを知る。ひとりの人を知る。ひとつ
 の生き方を知る。ひとつの考え方を知る。ひとつの別な世界を知る。それで、世界が少
 しだけ広くなる。知ったからといってどうなるわけではないが、それもひとつの平安な
 小さな喜びである。
・人生の方法なんてものはないのである。うまい方法などない。だれもが納得し、実行で
 きる幸福になる方法はなし、老後を楽しく生きる方法はないし、元気で満足な老後も、
 ステキな老後もない。