定年後7年目のリアル :勢古浩爾

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この本は「定年後リアル」の続編である。筆者の定年から7年後の状況や心境を記載する
つもりだったようだが、現実は、7年経ったからといって、それほど状況に変化はなく、
題材に苦労したのが見て取れる。そのため、リアルというより、読んだ本の解説や感想に
多くの文面が割かれている。それはそれで、こんな本もあったのか、と興味をそそられる
箇所もあるのだが、全体的には、最初の「定年後のリアル」に比べると、「無理して書い
たな」という面は否めないだろう。

流れゆく日々
・七年ほど前に退職してから現在まで、生活上の変化はほとんどない。暮らし向きが劇的
 によくなったということもなければ、極端に悪くなったということもない。よくいえば
 安穏、悪くいえば停滞。ただ交際の範囲はますます絞られてきた。厭世や厭人を気取る
 つもりはないが、これも自然の成り行きである。交際がさらに縮小したことで、人に会
 うために、夜、都心や別の町に出かけることはほとんどなくなった。いっそすっきりし
 た。もう夜の都心などおっくうである。
・身体的には以前に比べて、さらに弱体になったかもしれない。足がさらに脆弱になり、、
 身体も固い。 
・行くところは限られている。時々図書館、時々公園、時々本屋、時々ショッピングモー
 ル、そして喫茶店である。長居できる喫茶店が激減し、あったとしても混んでいる。 
・夕食を摂る最中からテレビタイムがはじまる。まあ、観るわ見るわ。この時間をもっと
 他のことに有効に使えば、もっと中身のある本を書けたのに、と思うが、やめられない。
 テレビをつけたまま、パソコンも見る。本を読む。たまに文章も書くが、大半はテレビ
 だ。
・交友だ旅行だ登山だ同好会だソバ打ちだと、毎日を楽しく生き生きと過ごしている人か
 ら見ると、なんとつまらない生活だ、ああはなりたくないわな、と思うかもしれない。
 しかしそんなことは私の与り知らぬことである。もっと強くいうと、知ったことではな
 い。人にどう思われるかを意識しながら生きているのではなく、まただれに見せるため
 の日々(人生)でもないからである。
・なにかがきっかけで、このような生活が変わるかもしれない。頑として変えない、とい
 う気はない。が、変わる方向が見えない。それにたとえ変わったとしても、いずれはま
 た、このような生活に戻るような気がする。性分である。
・現在の同輩や先輩はいけない。いけない、というのも偉そうだが、目につく彼らの言動
 が性に合わないのである。一様にキャップをかぶり、いまだにおれがおれがの「おれ様
 意識」が抜けず、群れたがり、カラオケを歌いたがり、訊かれてもいないのに「まだあ
 っちのほうは現役だよ」と埒もないことを自慢したがり、若者みたいにケータイやスマ
 ホに夢中で、目下の者にふんぞり返りたがる。 
・現在の同輩や先輩たちに共感を覚えるとしたら、「類は友を呼ぶ」が「同病相哀れむ」
 かは知らないが、もっとしょうもない、ひっそりとして出張らず、うだつのあがらない
 人たちである。ほんとうは、世間で見立たず、マスコミの目が届かないこのようなひっ
 そりとした人のほうが、「生き生きとした」人たちよりも一般的であろう、と思う。
・わたしは町中の隠棲者でいい。世間の中の隠棲など矛盾だが、他人と一ヵ月間話さない
 ことなどふつうである。世間の中に住んではいるが、世間との交際はない。
・医療の発達、衛生環境の改善、健康意識などによって、わたしたち日本人は長寿になっ
 た。それでもやはり人は死ぬ。長生きする権利などない。現代人にないのはこの覚悟で
 ある。  
・私たちは七百年前の人間よりよっぽど高級な人間になっていると思いがちである。人生
 を楽しむ権利があり、幸せになる権利があると思っている。そんなものはない。定年退
 職する人の多くが「これから食っていけんのかね」と思うように、人間の基本は今でも
 おなじ衣食住である。
・四十前後の頃、250ccのオフロードバイクに乗っていた。しかし、今では自転車が
 合っている。その分歩けばもっとスリムになるだろうが、もう手放せない。困るのはパ
 ンクだ。もう何回パンクしたことか。盗難にも三回ほど遭った。それでも自転車は中年
 に合っている。 
・世の中で評価されるのは「なにかをやっている人」である。六十をすぎてもスケジュー
 ル帳を用事てびっしりと埋めている人がそうである。全然うらやましいとは思わないが、
 人それぞれの生活であり人生である。本を読んだりテレビを観たり公園でのんびりは、
 なにかをやっていることには入らないのである。   
・意志の種類によって、偶然や人様の意志や運が入り込んでくることは避けられない。流
 れに踏ん張りはしても、流されることはあろう。それは悪いことばかりではない。もし
 水流がなければ、自分の意志だけでどこまでも進んでいくことができるだろう。そんな
 めでたい人生などとものもない。いや、それはむしろ過酷な人生というべきか。流れて
 いくことは、人生の過半の必然であり、日々の過半の必然である。
 
じじいで悪かったね
・六十七歳というのは、じつに中途半端な年齢である。ただ、六十歳だったのが六十七歳
 になったからといって、精神的・肉体的にどこかで極端に衰えたな、老け込んだな、と
 自覚することはほとんどない。ただ、もうほとんど七十歳だな、と思う。人から年を訊
 かれて、「六十」と答えるのと、「六十七」と答えるのでは、向こうが受け取る感じに
 違いがありはしないか。「六十」なら、ああ還暦か、まだ老人の入り口だな、くらいで
 すむと思うが、「六十七」だと、うわ、もうほとんどいじいじゃないか、となりそうな
 気がする。 
・なにしろ年寄りが山のように増えてしまうもんだから、国も大変だろう。今や国民の四
 人に一人が六十五歳以上の年寄りだ。日本国ができてから、はじめて経験する未曾有の
 事態である。国が社会の活力や生産性や増え続ける医療費や年金について憂慮するのは
 あたりまえである。ご老人たちも、少しぐらい医療費負担が増えたからといって、年寄
 りは死ねということが、という情けないことはいわないように。自分の子どもや孫には
 平気で大金を使っているのだから。
・これども、国が心配しているほど、世間の人はこの「老人大国」をまったく気にしてい
 ないようである。あらゆる場所に、年寄りたちがいることはもう見なれた風景になって
 しまったのである。「老い」を予算削減の対象としてしか見ない政治、逆に消費ターゲ
 ットの上得意としてしかみない経済を外れたところで、老いと若さは全体として互いに
 なじんでいるように思わる。いいことだ。
・わたしたちは、じいさんのようでじいさんではなく、じいさんではないようでじいさん
 である。いくら自分で、おれはまだ若いといっても無駄である。自覚と世間の視線のギ
 ャップという、この中途半端を生きるほかないのである。へんなじじいで悪かったな。
・自分の中で、なにがどうなったら、「じいさん・ばあさん」という呼びかけを泰然と受
 け入れることができるようになるだろう。やはり一番不快なのは、見て目も内面も古く
 なった人、と見られることが嫌なのだ。
・もう「老」は全面ブラック・イメージで覆われており、現在では「老師」や「古老」や
 「老熟」の人などどこにも見られはしない。生ぐさい「老」ばかりである。わたしだっ
 て、「老熟」からはほど遠い。まずはそこそこの人格、知識、経験、公平性、寛容心は
 身につけてきたと思っているのに、六十も半ばを過ぎてなんたるザマか、とほぞを噛む
 ことが少なからずあり、自信と思っていたものがうぬぼれでしかない、ということを知
 ること、二、三にとどまらない。
・「人は見た目が9割」といわれるまでもなく、自分もそう思っているがゆえに、老いも
 若きも目指すのは「見た目」である。となれば、「老」が「若」にかなうわけげないこ
 とは自明である。じゃあてんで、「老」は内面の美で勝負しようではないかといったと
 ころで、そんなものはないのである。あったところで、外からは見えないし、見えたら
 見えたで、人を貶めたがっているガサツな連中から、なに気取ってやがるとか、何様の
 つまりだ、なんていわれてしまうのだ。そしてそういうことをいいたがるやつの内面が
 どうなっているかといえば、たいていの場合、おれをもっと大事にしろ、おれの気分を
 害するな、なのである。
・今知ったのなら、今からでも成長しようとすればいいのに、と思う。今さら成長や成熟
 などめんどくさい、楽しければいいじゃないか、という気持ちはわかるが、成長や成熟
 によって、もっと楽しめることができてくることもある。
・成長するとか成熟するとはどういうことか。寛容の幅が広がり、理解の深さが深まるこ
 とである。感情を抑えることができ、人のいうことを聞くことができるようになること
 である。なにが大切かを見抜くことができ、自分を律することができるようになること
 だ。べつに穏やかな八方美人になることではない。そのことによって、それまでの自分
 にできなかったことができるようになることだ、と思う。自尊心の防衛からついやって
 いた保身を、やらなくなることである。
・まだまだ未熟で前途多難。世間からの呼びかけなどはどうでもよい。いちいち気にして
 いたらきりがない。私たちは、自分ひとりだけの「老い」をそれぞれ生きていくしかな
 いのである。じじいになっていくことは避けられない。ただし、どんなじじいになるか
 は、自分の責任である。
・定年後をどう生きたらいいのか。平均寿命が延びたおかげで、まだあと二十年、八万時
 間もあるぞ、といわれる。つまらない計算などするんじゃないと思う。なにが八万時間 
 だ。わたしたちの生きるのは一日一日の二十四時間だけである。その積み重ねである。
 老後の貯金は六千万円必要だ、という論法もおなじである。八万時間が一度に来るわけ
 じゃない。   
・年齢には慣れる。年齢は思うほど自分を規定しないものである。自分の感覚のまま生き
 ればいいのだと思う。というより、日々にあっては自分の年齢など忘れているものだ。
・定年後、どう生きるか。そんなことは、ほんとうはどうでもいいのだ。だが、わたした
 ちは平穏の中で生きていくしかない。ありがたいことだといえばそうなのだが、そう思
 ってはいけないだろう。幼稚な人間でも、世界に対しては謙虚でありたいと思っている。

なんといおうと昔は懐かしい
・昔はよかった、と言う人がいると、かならず、そんなことがあるもんか、昔なんかろく
 なもんじゃなかったはずだ、と言う人が現れる。昔がいいと言う人間は、ただたんに昔
 を美化しているだけであり、それは耄碌した兆候に他ならない、と。そりゃ、そうだ。
 昔はすべてよく、今は全部だめ、ということなどあるはずがない。今のほうがはるかに
 いいということは多々ある。官憲がとりあえず低姿勢になった。独身者が生きやすくな
 った。新聞の勧誘員が来なくなった。社員旅行が減った。非喫煙者が守られるようにな
 った。理不尽が減った。コンビニが便利。パソコンができた。携帯電話もできた。貧が
 減った。気軽に海外旅行に行けるようになった。なにより、戦争がない。
・昔はよかった、というのは錯誤である。しかし、つい、昔はよかったなあ、と思ってし
 まうのは、わたしたちが現在に生きているからである。日々、現在を生きていると、い
 やでもその細部までが見える。人々の言動の細部まで見える。なんの脈絡がつかなくて
 も、世界の動向が細部まで見える。よくなったこと、便利になったことの弊害の細部も
 見える。すると、現在のいろいろなアラが見えてくるのも道理ではないか。見物高いマ
 スコミがまた、そういうものが大好きなのだ。そこで「当節」の「下品になりさがって
 いく」さまばかりげ、見えてくるのだ。いいことは、あって当然のこととして視野から
 外れてしまう。世の常である。ところが、昔はよかった、と言うときの「昔」の記憶か
 らは、あらゆる細部がぼやけるか消えてしまっている。みんながみんな「上品」だった
 はずもないし、人情がどこにもあったわけではないが、いい「昔」だけが記憶として残
 って売るのである。 
・今では付き合う人は好きな人間だけである。読むのは好きな本だけだ。若い頃の強迫観
 念的な読書はやめた。頭のいい人間たちが挙げる署名を見ると、あれも読まなければ、
 これも必要だな、と思い、買っただけで安心していた。モノなら金で買えるのだ。そし
 てそれだけのことだ。そら以来、もう自分がほんとうにおもしろいと思える本だけを読
 めばいいのだと思うようになり、見栄を張った神経や義務感から解放された。
・金が腐るほどあっても豪邸などほしくない。有名レストラン、鮨店、日本料理屋にもさ
 したる関心はない。高級腕時計はいらない。好きな人間のタイプはもうはっきりしてい
 る。好きな風景もわかっている。旅先のホテルだけはまずまずのホテルに泊まりたい。
 わたしは安上がりの人間なのだ。
   
理想の老年モデルはいない
・人はこれまで生きてきたように、そのあともそのように生きる他はない。人には人生の
 上でいくつも岐路がある。たいした岐路ではなかったが、私にもあった。いくつかの岐
 路があったし、いくつものべつの生き方もあったはずだが、結局、この道を生きてきて
 しまった。世の中には、驚くべき転身をしたり、それまでとまったく違う生き方をする
 ような人がいる。しかしそのような場合でも、人は変わるべくして変わるのであろう。
 それもまた、その人の資質だったといいたい気持ちがわたしにはある。
・いうまでもなく、わたしの人生に無限の可能性などなかった。どんな夢も希望ももつこ
 とは可能だったろうが、実際のところ、わたしが知らず知らずのうちに身につけてしま
 った性分からして、それらは最初から限定的であった。思い返せば、こうなる他なかっ
 たし、こう生きる他はなかった人生である。しかし、それと同時に、こんな人間にはな
 らない、こんな生き方はしない、こんな付き合い方はしない、とことらから蹴り返した
 現実もある。その結果が、現在のわたしである。主観的にも客観的にも、わたしは人間
 としてとうてい「理想的」なんかではない。当然のことだ。結局、この程度にしかなれ
 なかったか、という思いはある。後悔はないが、無念ではある。
・完璧な人間などいないよ、神様仏様じゃあるまいし、ということはとくにわかっている。
 が、それは言い訳である。人間は弱いものだ、どんな人間もミスはする、も言い訳であ
 る。そういうことを自分にいって、自分を許してしまうのが嫌である。もし許すなら、
 他人をこそ許そうではないか。なかなかできませんが。「人間だもの」という言葉が嫌
 いなのも、それが言い訳だからである。むしろすべきことは、反省して、二度としない、
 と決心することではないか。
・世間一般で無意識のうちの行われている人間選手権や人生選手権での評価など知らない。
 自分のとっての人間選手権や人生選手権においてなら、わたしがわたしに下す評価は、
 人間選手権では可、人生選手権では良である。世間の風潮、流行、好悪、行動様式、評
 価基準を見て、そんなものはいらない、そんなことはしない、そんな評価は認めない、
 と思う。いろんな人が教えてくれる、定年後の生き方や老後の生き方など、わたしはい
 らない。

定年後に「生きがい」はなくていい
・今や「生きがい」は大げさである。ついでにいえば「充実感」も「充足感」も「達成感」
 も、ことさらな言葉である。なにかをする前に、いきなり「生きがい」や「充実感」を
 求めるのは本末転倒である。なにかをしたあとに「充実感」がないと嘆くのは贅沢であ
 る。なにをやっても「虚しい」というのは病である。「あなたにとって生きがいとはな
 んですか?」というのは頭の悪いマスコミが発する愚問である。ただ訊いているだけな
 のだ。ゆえに、「そういえば、おれの生きがいってなにかなあ」と考えるのは無駄であ
 る。ちょっとした希望がある。愉しみがある。夢中になれる。することがある。そうい
 うものがあれば十分だ。なにもなければしかたがない。なにもしなくてもいい。その代
 わり、充実感がないなあと愚痴らないこと。なにもしないことを楽しむことができれば
 いいのだ。  
・定年退職者の「プライド」というが、そんなものはたいしたことではない。もつほうが
 間違っている。ただ馬齢を重ねただけの人、ただ先に生まれたというだけの人だってい
 るだろう。まったく畑違いの仕事に就くのなら、「プライド」もへってくれもない。た
 とえ相手が年の離れた若者でも、頭を低くして教えを乞うのは当然のことである。もし
 助けられたのなら、相手が年下でも「ありがとう」というのは当たり前のことだ。
・退職したとき、せめて足だけは元気に、と思い、毎日自転車に乗っていればそれが維持
 できるのではないかと考えた。二つの道があったときには困難なほうを選べ、というの
 がわたしの鉄則なのに、ウォーキングやジョギングを選ばすに、自転車を選んだのがそ
 もそも甘かった。ビュンビュン飛ばさないまでも、最低スイスイ走る程度の漕ぎ方でな
 いと、効果はない。てれてれ漕ぐだけでは、何キロ走ろうと全然ためである。気がつい
 てみると、愕然とするほど足の筋肉が衰えていたのである。
・老化現象はいろいろなところに出る。度忘れがひどい、というのもその一つだが、小便
 の切れが悪い、それもしつこい、というのもその一つだろう。いつ頃からか、小便をし
 たあと、ズボンに収めると、腿に水分がかかるようになったのである。あれ、まだ残っ
 ていたのかと思い、それからは小便のたびに、振って、振って振って、振り切って、も
 うこれで最後のひとしずくまで出尽くしただろうと納得したところで、ズボンに収める
 ようにした。ところが、敵は狡猾でしつこいヤツだ。そこまでしてもまだ、腿を伝った
 りするのである。いったどこに残っていやがったのこの野郎は、と思うのだが、いまだ
 に謎である。あんなに振ったのに、この仕打ちか。もう、舌打ちするしかない。これは
 あきらかに老化の一現象であろう。

Alone、but not lonely?
・私は現在、一人ではあい。孤独ではない。だが日中の大半は、一人でいることがほとん
 どである。孤独とうまく付き合えば「豊かな時間」となる、という人がいる。特段、
 「豊か」という気はしない。貧しいとも思わないが。感じるのは、自由ということだ。
 それは私の孤独の偽孤独だからかもしれない。
・六十歳以上の高齢者のストーカーが急増している。全体に占める割合は9パーセントと
 少ないが、十年前の約4倍の増加である。高齢者の万引きが増えていることは、すでに
 周知の事実だろう。今では十代の万引き件数を上回るほど増加している。年寄りの数が
 多くなったからじゃないのかというと、たしかにそれもあるらしいのだが、それだけで
 はない。ストーカー事件が発生するケースは近所付き合い、離婚した元夫婦、同窓会で
 の再会、上司と部下の間が多い。問題は動機だ。男性高齢者は地域の溶け込めず孤立。
 リストラや離婚や死別で、さびしさを埋めるため、と推測されている。
 
茫々六十有余年
・この先どうなるのか、そんなことはだれにもわかりはしない。この先はわりと近そうだ
 なという予感はあるものの、まったく深刻ではない。先のことは自分ではコントロール
 できません。病気になる前から病気になることを心配するのがいちばんいけないことな
 のです。   
・あらゆる事態を想定し、それに対する予防措置を講じるのが人間の人間たるゆえんでは
 ないか、というのは、そのとおりであろう。それが人間の知恵であり、合理的な人間の
 することだ、と。が、不測の事態に、どのような対策を立て、どのように予防すること
 ができるだろうか。あらゆることを想定しても、とても対策など立てられるものではな
 い。防災キットはないよりまし、という程度にすぎない。家を耐震強化することは悪い
 ことではない。だが大地震はいつくるかもわからず、そのときに家にいるかどうかもわ
 からない。それに他にもまだまだ不安の種はある。
・人間は、といって悪ければわたしは、自分が思っている以上のトンチンカンである。講
 じたはずの対策がまったく見当外れだったなんてことはざらにある。それに個人の力な
 ど高が知れている。思っている以上に非力だ。とてもあらゆる事態に備えるなど、でき
 ない相談である。これはわたし一個だけのことではない。社会や国だっておなじことだ。
・七十歳近くまで、事故にも事件にも遭わず、大きな病気にもならず、なんとか生きてこ
 られたというのは、ただの幸運ではないかという気がする。自分の力なんか微々たるも
 ので、おれの力で生きてきた、なんて実感はほとんどない。最大の幸運は、やはり戦後
 の日本に生まれたことだろう。一番よかったことは、端的に戦争がなかったことである。
 
生きていることはじんわりと心地よし
・二十代や三十代の頃は、自然に意識を向けたことなどはほとんどなかった気がする。だ
 れもが感嘆するような壮大な景色はべつである。町の中の緑、空、雲、雨、風などに感
 覚が向いたことなどなかった。人間ばかりに目が向いていたのだ。大体、二十代くらい
 で、なんてすばらしい世界なんだ、など思うわけがないのである。あるとしたら、ぼく
 たち幸せだね、くらいか。ばかものめが。しかし、ばかなのが二十代だ。それが今では、
 ちょっとした緑を見ただけで、心地よい風が吹いただけで、「ウォタ・ワンダフォー・
 ワールド」だ。なにが変わったのか。緑や青だけではない。柔らかい日差しの中を行き
 交う車、人、自転車を見ていると、穏やかで、この時間だけは、なべて余は事もなし、
 良き哉、という気になってしまう。命が細くなっているのか。その細くなった命の隙間
 から見るから、葉の緑や風の白や空の青を一層鮮やかに感じるのか。そのようなちょっ
 としたことが、じんわりと愉しいのだ。いや、愉しいというより、単純に「いいな」と
 思うのである。
・二十年ほど目から、「楽しく生きたい」「楽しみたい」という言葉を頻繁に聞くように
 なった。「楽しまなければ損だ」という者も少なくない。とくに女の集団に多いのだが、
 ばかでかい笑い声である。嬌声といってもいい。両手を打ち鳴らす者もいる。最初は芸
 人だちの真似だったが、今では癖になってしまったのだろう。
・わたしが楽しかったことはいずれもたいしたこのではない。代打逆転満塁さよならホー
 ムランのような大熱狂はない。が、心の底からほんとうに楽しいことばかりだった。楽
 しまなければならない、と思って、楽しかったことはただ一つもない。そもそも、さあ
 楽しむぞと、無理にたのしもうとしたことがない。楽しまないと損だ、など考えたこと
 もない。楽しさとは「楽しいな」とか「楽しかったな」と、その最中かあとで感じるも
 のだった。それが今では最初から「思い切り楽しみたい」とか「楽しもうと思う」と意
 志しているのである。感情を意志する?そんなばかな。その根性がどこかさもしいし、
 勝手にしな、といいたくなるのも無理からぬことではないか。それで楽しかったの?と
 訊いてみたい。 
・現在のわたしは、もう楽しさは薄まってきている。そのかわり、じんわりと愉しいとい
 うほうになってきたような気がする。「楽しさ」と「愉しさ」の表記の違いが内容的に
 どうちがうのか知らないが、私は勝手に「楽しさ」は、わははの楽しさであり、「愉し
 さ」はじんわりの愉しさというニュアンスで遣っている。で、現在は日々の小さな愉し
 さだけでかなり満足している。人々の楽しそうな姿を見て、おれもああいう楽しさがほ
 しい、とは思わない。どこが楽しいのだろうと思ってしまうのだ。わたしの愉しさはわ
 たしの愉しさである。人の楽しさを真似してみてもしかたがない。
・あることで頭がいっぱい、というのはよくない状態である。仕事のことを考えて頭がい
 っぱい、というのは執着である。「あること」というのはいろいろあるが、結局は自分
 のことで頭がいっまいなのである。ろくなことではない。それでも頭に浮かんでくるん
 だから、しょうがないじゃないか、ということはある。だからわたしは、そのつどその
 つど、消すようにする。頭を切り替えて、べつのことに意識を向けようとする。
・自嘲もしない。自分で、「もうじじいだしな、あとは死ぬだけだよ」など思わない。
 「つまらん人生だったな」というのは一番いけない。だったらなというのである。ほか
 のじいさんたちを見てやっかまないこと。
・私の好きなのは、「大丈夫」であり「なんとかなる」である。なんともならないことも
 あるが、そのときは「なるようになる」でいくしかない。「どうってころない」もいい。
 「たいしたことない」も「ほっときゃいい」も好きだが、これでたまに失敗する。それ
 でもいい。  
・人に寛容であることと、自分の非を認めることはむずかしい。過ちを自分で気づいて、
 自分て訂正することなら、それほどむずかしいことではない。しかし、人に指摘されて、
 それを認め、謝罪することはその何倍もむずかしい。自分のプライドが傷つくように思
 われるからだ。人間は自尊心だとプライドを守れば守るほど、その自尊心やプライドは
 ますます惨めなものになっていく。自分の小さなプライドなんかに固執するより、自分
 の「過ち」や非を率直に認めることによって、大きな人間に「変わ」ことのほうがもっ
 と大事だ。
・狭量は弱く、寛容は強い。逆境を経験した人間がすばらしいのではない。逆境を乗り越
 えた者がすばらしいのだ。 
・定年というゴールは微妙である。なかには、さあこれであとはなんの憂いもない。資金
 よし家族よし健康よし、第二の人生を思い切り楽しむぞ、という人もいるだろうが、ほ
 とんどの人はあまりうれしくないのではないか。いささかの安堵と、いささかの虚脱感
 と、かなりの不安が、入り混じったような感覚ではないかと思う。   
・死のゴールだけはいけない。これだけはわからないほうがいい。先であればあるほどい
 い。いざとなったときの余命宣言はしかたがないが、ほんとうは自分の現在地など知り
 たくはないのである。だから今は逆に、そんな先のゴールを考えないことが希望となる。
 考えてもどうにもならないことは考えないのが希望だ。ふつうのゴールはまだその先が
 あるからいいのだ。死はそこで完全に生き止まりになるから、救いがない。ゴールであ
 ることの意味がない。