「大河の一滴」 :五木寛之

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「人間の人生は大河の一滴のようなもの」、「人生とは苦しみの連続である」という言
葉が続くこの本は、改めて人生とは何か、しあわせとは何かを考えさせられ、心に重く
のしかかってくる。
「人生は明るく楽しいものでなければならない」というような先入観に捕らわれて、や
やもすると自分の置かれた境遇を嘆いたり、思い通りいかないことに怒ったりしてしま
うが、そもそも人生とは明るく楽しいものではなく、また自分の思い通りになんかいく
ものではないのだという考えを持っていれば、もっと心を軽くして生きていくことがで
きるのかもしれない。
「人は泣きながらこの世に生まれ」てきて、そして「ひとりで死んでいく」。ほんらい
人間は孤独な存在なのであると思えば寂しさも和らぐような気がする。人は何かを期待
するから、その期待を裏切られたと憤慨する。何も期待しなければ、憤慨することもな
いのかもしれない。
そして、「人間はただ生きているということだけですごいのだ」という言葉に勇気づけ
られる。何かを成しとけたとか、そういうものがなくても、とにかく自分の人生を最後
まで生き抜けたということだけで、自分の人生は価値あるものなのだと思えてきた。
また、人生を生き抜いていくためには、感動することや「ときめき」を持つことが重要
であるとのことである。ささやかなことでもいい、毎日の生活に感動や「ときめき」を
持ち続けていけば、この生きにくい世の中も、生き抜くことができるのではないかと、
思うようになっきた。

なぜかふと心が萎える日に
・人間はだれでも本当は死と隣り合わせで生きている。自殺、などというものも、特別
 に異常なことではなく、手をのばせばすぐに届くところにある世界なのではあるまい
 か。ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、人は日常生活を投げ出すこともあり
 えないことではない。ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩
 み出すこともあるだろう。私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているの
 だ。
・人はだれでも日々の暮らしの中で、立ち往生してしまって、さて、これからどうしよ
 う、と、ため息をつく場面にしばしば出会うものなのだ。
・物事をすべてプラス思考に、さっと切り替えることのできる器用な人間ばかりならい
 いだろうが、実際にはなかなかうまくいかない。私たちはそんなとき、ふーっと体か
 ら力が抜けていくような、なんともいえない感覚を味わう。
・心が萎えたとき、私たちは無気力になり、なにもかも、どうでもいいような、投げや
 りな心境になってしまうものだ。
・そんなとき私は、いろいろな方法でそこから抜け出そうと試みるものだ。まあ、たい
 ていの場合はうまくいかなかった。結局は、時間が解決してくれるのを待つしかない
 のだ。時の流れは、すべてを呑みこんで、けだるい日常生活の繰り返しの中へ運びさ
 っていく。待つしかない。それが人生の知恵というものだろう。

人生は苦しみと絶望の連続である
・どんな人にも人生のふっとしたおりに「心が萎える」という状態が必ずあるものなの
 だ。しかし、考えてみると、そこには人生に対する無意識の甘えがあるような気がし
 ないでもない。そもそも現実の人生は決して楽しいだけのものではない。明るく、健
 康で、幸せに暮らすことが市民の当然の権利のように思われている最近だが、それは
 まちがっていると私は思う。
・人は生きていくなかで耐え難い苦しみや、思いがけない不幸に見舞われることがしば
 しばあるものだ。それは避けようがない。
・人生というものはおおむね苦しみの連続である、と、はっきりと覚悟すべきなのだ。
 私はそう思うことで「こころ萎え」た日々からかろうじて立ち直ってきた。
・人生とは重い荷物を背負って遠い道のりを歩いていくようなものだ。
・人生の苦しみの総量は文明に進歩に関係なく一定なのだ。昔の人が今の私たちより幸
 せだった、などとは私は思わない。平安時代と、明治や大正のころと、そして先端技
 術時代のいまと、人間の営みはほとんど変わっていないような気がする。
・ちがうのは、地球と自然の寄生物であったヒト科の動物が異常に増殖し、地球や自然
 を大量に破壊する存在になったことや、天変地異を恐れ超自然的な力を信じていた人
 間たちが、科学の進歩とともに宇宙に主人顔をしはじめたことぐらいのものだろう。

ブッダは究極のマイナス思考から出発した
・毎日の暮らしの中で、あまりにも人を無視した乱暴な扱いを受けることがある。
・私たちは、人生は明るく楽しいものだと最初から思い込んでいる。それを用意してく
 れるのが社会だと考えている。しかし、それはちがう。
・人は泣きながら生まれてくるのだ。弱肉強食の修羅の巷、愚かしくも滑稽な劇の演じ
 られるこの世間という円形の舞台に、私たちはみずからの意思ではなく、いやおうな
 しに引き出されるのである。あの赤ん坊の産声は、そのことが恐ろしく不安でならな
 い孤独な人間の叫び声なのだ。
・いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないのか、人生は苦しみ
 に連続である。人間というものは、地球と自然と人間にとって悪をなす存在である。
 人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでいく。私たちは泣きなが
 ら生まれてきた。そして最後には孤独のうちに死んでいくのだ。

なにも期待しないという覚悟で生きる
・私たちは「泣きながら」この世に生まれてきた。私たちは死ぬときは、ただひとりで
 逝く。恋人や、家族や、親友がいたとしても、一緒に死ぬわけではない。人は支えあ
 って生きるものだが、最後は結局ひとりで死ぬのだ。
・どんなに愛と善意に包まれて看取れられようとも、死とは自己の責任で向き合わなけ
 ればならないのである。
・だから、親は子どもに期待してはいけない。子も親に期待すべきではない。人を愛し
 ても、それはお返しを期待することはできない。愛も、思いやりも、ボランティアも、
 一方的にこちらの勝手でやることではないか。そう覚悟したときに、何かが生まれる。
・なにも期待しないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いや
 りが「早天の慈雨」として感じられるのだ。そこにおのずとわきあがってくる感情こ
 そ、本当の感謝というものだろう。親切に慣れてしまえば感謝気持ちも自然と消えて
 いく。だから慣れないことが大切だ。いつもなにも期待しない最初の地点に立ち戻り
 つつ生きるしかない。
・国民は国をつくることはしても、国家や政府をあてにすべきではない。銀行や企業や、
 勤め先の会社に期待しないのは当然のことだ。自分の心や魂のことを寺や教会におあ
 ずけになるわけにもいかない。生き方を思想家や哲学者に教えてもらうわけにはいか
 ない。

小さな人間像への共感
・私たち人間は小さな存在である。
・空から降った雨水は木々の葉に注ぎ、一滴に露は森の支死湿った地面に落ちて吸い込
 まれる。そして地下の水脈は地上に出て小さな流れをつくる。やがて渓流は川となり、
 平野を抜けて大河に合流する。その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が
 私たちの命だ。濁った水も、汚染された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は
 広がる。やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、ふたたび雨水と
 なって地上に降り注ぐ。
・自殺するしかない人は、そうすればよいのだ。死のうとしても死ねないときがあるよ
 うに、生きようと努力してもそういかない場合もあるからである。だが、大河の一滴
 として自分を空想するようになったとき、私はなにもわざわざ自分で死ぬことはない
 と自然に感じられるようになってきたのだ。

少年のころ大同江のほとりで感じたこと
・「人は大河の一滴」それは小さな一滴の水の粒にすぎないが、大きな水の流れをかた
 ちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いていくリズムの一部なのだと、川の
 水を眺めながら私はごく自然にそう感じられるのだった。

大河の一滴として自分を見つめる
・いま、人間は少し身を屈する必要があるのではないだろうか。いつまでもルネッサン
 ス時代の人間謳歌ではやっていけないのではないのか。自分をちっぽけな頼りない存
 在と考え、もっとつつましく、目を伏せて生きるほうがいいのではないのか。
・本当のプラス思考とは、絶望の底の底で光を見た人間の全身での驚きである。そして
 そこに達するには、マイナス思考の極限まで降りていくしか出発点はない。私たちは
 いまたしかに地獄に生きている。しかし私たちは死んで地獄へ堕ちるのではない。人
 はすべて地獄に生まれてくるのである。鳥は歌い花は咲く夢のパラダイスに、鳴物入
 りで祝福されて誕生するのではない。
・極楽はあの世にあるのではなく、天国や西方浄土にあるのでもない。この世の地獄の
 ただなかにこそあるのだ。極楽とは地獄というこの世の闇のなかにキラキラと光りな
 がら漂う小さな泡のようなものなのかもしれない。
・癌やHIVも、いずれも克服される日がくるかもしれない。しかし、人は死を治すこ
 とはできない。生まれたその日から、日いち日と死という場所へ歩きつづけるのが私
 たちの人生である。生きるとは、死への日々の歩みにほかならず、私たちはすべて死
 のキャリアであり、それが発病しないよう止める手段は永遠にない。
・出会った人間は、別れる。どんなに愛し合い信頼しあった夫婦でも、いずれどちらか
 が先立ち、別れなければならない。一緒にむつまじく暮らすことができるのも、その
 日までのことである。親も子と別れる。子はおおむね親に先立たれる。その逆のこと
 もしばしばあるが、いずれにせよ人は去っていく。
・存在するのは大河であり、私たちはそこをくだっていく一滴の水のようなものだ。と
 きに跳ね飛び、ときに歌い、ときに黙々と海へ動いていくのである。

「善き者は逝く」という短い言葉
・いま自分が生きている時代をどう見るかは、その人その人の立場による。現在の政治
 や、経済や、医療や、教育のことを考えると、私はひどいことになっているなあ、と、
 もはやため息すら出ない感じがする。
・生きのびた者と帰ることができずに倒れ去った者とをわかつものは、いったいなんだ
 ったのだろう。強い信仰をもった人間か。それとも体力や才覚に恵まれた者たちか。
 いつも希望と前向きの積極性を失わなかった人々か。
・私には心のなかに深く押し隠しているものがある。そうではない、という声がいつも
 どこからか聞こえてくるのだ。悪いやつが生き残ったのさ、善い人間はみんな途中で
 脱落していったじゃないか、と。
・あの極限状態のなかを脱落せずに生き残ったのは、人より強いエゴ、他人を押しのけ
 てでも生きようという利己的なエネルギーの持ち主たちでなかったのか。そして人一
 倍身勝手で業の深い者たちだったのではなかったか。

屈原の怒りと漁師の歌声
・大河の水は、ときに澄み、ときに濁る。いや、濁っているときのほうがふつうかもし
 れない。そのことをただ怒ったり嘆いたりして日々を送るのは、はたしてどうなのか。
 なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。

この世に真実はないのか
・この世には「真実」もあれば、「うそ」もある、それが本当だと思っている。生きる
 意味もあれば、むなしさもある。だが善き人もいれば悪しき人もいる。というふうに
 善と悪とを対立させる人間を分けようとは考えない。人はおかれた状況や立場、その
 ときの他者との関係のなかで、あるときは善意を、あるときは悪意を露出させる不確
 かであやうい存在なのではあるまいか。世間というものをも、またそのように揺れ動
 きつつ流れていくものなのである。

私たちは「心の内戦」の時代に生きている
・私たちはいま平和な時代に生きていると思っていますが、それは大きなまちがいであ
 って、じつは大変な戦いの渦中にあるのかもしれない。見えない戦争、シャドー・ウ
 ォーとでもいいますか、私たちは「心の内戦」というもののまっただなかにいるので
 はないのか、ということを平和のなかでふっと一度ぐらいは考えてみる必要がありそ
 うな気がしてなりません。

自分を憎む者は他人を憎む
・命のてごたえとか重さとか、命の尊さとか、かけがいのない貴重な生命という実感が、
 いま社会全体から失われているということがあるのではないか。自分の命がまたとな
 い貴重なものに思えたならば、不幸な出来事にぶつかったとしても、それをひょいと
 軽く投げ出すことはとてもできないと思う。しかし、いまは、それほど多く自殺者が
 いるという事実が、命の軽さというものを証明しているような気がするのです。
・マンフォードという思想家が、自分を愛している思想家が、自分の愛していない人間
 は他人を愛することができない、といっています。自分を憎んでいる人間は他人を憎
 む。自分を軽蔑している人間は他人の命も軽視する。だからたとえ幼稚な愛であって
 も、人はせめてナルシズムからでも出発するしかないのではないか。
・自損行為と他損行為とはじつは一体である。両方ともに命の重さが感じられないとい
 うことに原因がある。自分の命というものを尊敬できない人間は、他人の命というも
 のも尊敬できない。自分の命が重く感じられない人間は他人の命も軽く感じられる。
 もっと露骨な言葉をあえて使えば、自殺と殺人とは裏表の関係にあって、自殺が多い
 ということは殺人行為も多い時代と考えていいのかもしれない。
・私たちは自分の命というものを、その重さの実感というものを、なんとか取り戻す必
 要がある。そうでなければ、学校教育や家庭のあり方とか社会の介護とか、いろいろ
 なことだけを論じて、いま日ごと起きてくるさまざまな事件を減らしていこうと努め
 たところで、それは無駄なんじゃないか、と思ったりします。

現実から消えた最後の風景
・私たちは死というものの現場に立ち会うことが少なくなった、あるいは死というもの
 をはっきりと眺め、それに接する機会が少なくなったということが、死の実感を喪失
 させる原因のひとつになっているのかもしれない、と思います。

命をささえる見えない力
・ときおり、ふっと自分の人生はこれでよかったのだろうか、と自問自答することがあ
 ります。物事がうまくいっているときは、あまり考えないものですが、ちょっと体調
 が悪かったり、仕事が思うようにいかなかったり、あるいは、身近なところで人間関
 係のトラブルがあったりするとき、ふと立ち止まって、「人間の命の価値はどこにあ
 るのか」と考えてしまいます。
・最近、痛感しているのは、人間はただ生きているということだけですごいのだ、とい
 うことです。
・私は人間の価値というものを、これまでのように、その人間が人と生まれて努力した
 り頑張ったりしてどれだけのことを成し遂げたか、そういう足し算、引き算をして、
 その人間たちに成功した人生、ほどほどの人生、あるいは失敗した駄目な生涯、とい
 うふうに、区分けをすることに疑問をもつようになりました。
・人間の一生というものはそれぞれが、かけがいのない一生なのであって、それに松と
 か竹とか梅とかランクを付けるのはまちがっているのではないか。
・人間の値打ちというものは、生きている、この世に生まれて、とにかく生きつづけ、
 今日まで生きている、そのことにまずあるのであって、生きている人間が何事を成し
 遂げてきたか、という人生の収支決算は、それはそれで二番目ぐらいに大事に考えて
 いいのではなかろうか、と思うようになりました。
・人間は一生、なにもせずに、ぼんやり生きただけでも、ぼんやり生きたと見えるだけ
 でもじつは大変な闘いをしながら生きつづけてきたのだ、というふうに、ぼくは考え
 ます。
・事業に失敗したり、あるいは犯罪に走って仮に刑務所の堀のなかで一生送るような人
 生であったとしても、それはそれで人間の価値というものには関係なく、やはり尊い
 一生であった、と、ぼくは思います。
・無名のままに一生を終え、自分はなにもせず一生を終わったと、卑下することはない
 のではないか。生きた、ということに人間は値打ちがある。どのように生きたかとい
 うことも大切だけど、それは二番目、三番目に考えればよい。生きているだけで人間
 は大きなことを成し遂げているのだ。そういうことを、ぼくら戦後の混乱の時代を生
 き抜いてきた人間は、いまさらのように考えたりすることがあります。

生の手ごたえを実感して生きる
・社会の役に立つ人間は立派な人間である。存在する理由がある。社会の役に立たない
 人間は存在する理由がない、という考え方。あるいは強い人間、有能な人間、豊かな
 人間だけをもてはやす時代の風潮を見ていますと、私たちは最近の犯罪が社会の弱者
 に向けられたことが多いのに、あらためて気づきます。
・これから先も、たいへん生きづらい、むずかしい時代になってくるのだろうと思いま
 す。そのなかでも私たちは生きていけなければなりません。どんなにつらくても、ど
 んなにいやでも、自分の命というものを大切にしつつ、この世の中を生きていく。そ
 のこと自体に値打ちがあるのだ、と考えて、一本のライ麦のように、目に見えない根
 を全宇宙に張りめぐらしながら私たちも生きていく。生きていくことを大切にしよう、
 というふうに、あらためて考えます。

あれか、これか、の選択ではなく
・光があれば影があり、プラスがあればマイナスがある。生があれば必ず死がある。人
 間の生命の本質は、これら両極のものが混ざりあったところにあるのではないのでし
 ょうか。
・あれもこれも、と抱え込んで生じる混沌を認め、もう少しいいかげんになることによ
 って、たおやかな融通無碍の境地をつくることが、枯れかけた生命力を生き生きと復
 活させることになるのではないでしょうか。
・いま、この平和な時代に、われわれはばらばらである。孤立して生きている。人間と
 人間同士が、お互いになんの関係もなく、物のように存在している。こういう不幸を、
 われわれは感じているわけです。
・どんなに経済的に、恵まれ、どんなに健康に恵まれ、あるいは幸せに生きたとしても、
 孤立している人間というのは、生きているときに本当につらいものなのです。生きて
 いることが喜びと感じられない。そこへ忍び寄ってくるのが、そのような、時代全体
 が高揚しているとき、その時代に自分も一緒に巻き込まれていく快感、あるいは興奮
 ではないでしょうか。そういうものがあるような気がして仕方がありません。ファシ
 ズムとかナショナリズムとかというもののきわどさは、そのへんにあるような気がし
 ます。

黄金時代を遠く離れて
・戦後、私たちは新しい民主的な近代社会をめざして、焼け跡・闇市から出発するわけ
 ですが、そのなかでもっとも嫌われたのが浪花節的なこと、封建的なこと、前近代的
 なことであり、べたべたした人間関係、濡れた叙情である。こういうことで、「情」
 と名のつく言葉などは、ほんとに目の敵のようにされてきたような気がします。「感
 情」という言葉もそうです。
・しかし、ぼくは、感情というものはものすごく大事なことだと思うのです。感情のな
 い人間といったら、これはロボットですから、人間は感情が豊かなほうがいいと思い
 ます。
・私たちが一生懸命、乾いた社会、乾いた文章、そして乾いた人間関係を求めてきた結
 果、どうなったかということを50年たってふり返ってみますと、私たちはじつに見
 事に、めざしたものを実現したという苦しい後悔があります。
・私たちは人間関係においても、文章においても、そして、この社会のありかたにおも
 ても乾ききって、ひょっとしたら、もうひび割れかかっているのではないかと思うよ
 うな世の中をつくりあげてしまったのではないでしょうか。
・千年単位の世紀末を前にいいましたけれども、ぼくらの前には、もういっぺん新しい
 戦後の焼け跡・闇市というものがひろがっているのではないか。ひろがっていながら、
 じつは、ぼくらにはそれが見えていないだけのことなのではないか、そう思えてなら
 ないのです。
・ぼくらの前にあるのは実は廃墟である。大きなビルがたくさん立ち並び、そして、は
 なやかな風俗が、あるいは流行がそこにくりひろげられているけども、じつは、ここ
 は焼け跡であり闇市であるのだ、というような認識が少しあってもいいのではないか。
・考えてみると19世紀末、わらわれはものすごい傲慢だった。その傲慢ななかで、ぼ
 くたちは大きな過ちを犯し続けてきたのではないでしょうか。ぼくたちは自分たちが
 地球上のことを全部わかるような気持ちになっていた。でも、ほんとうにわかってい
 ることはごくわずかである。大宇宙の秘密のほんとの一部だけをちらっとかいま見た
 だけかもしれない。にもかかわらず、私たちが犯した過ちはほとんど大部分、99パ
 ーセントまで見えた、と思ってしまったところにあるのではないか。
・人間は喜ぶと同時に悲しむことが大事だ、というのもそのひとつ、励ましと同時に慰
 めるということしかできないのではないかとういうこともそのひとつです。
・そして人間にはプラス思考というものも役に立つけれども、ひょっとしたらマイナス
 思考とか、あるいはネガティブ・シンキングとか、こういうものもすごく大事なこと
 ではなかろうかと考えるようになってきました。
・ぼくらは光と影の両方に生きているのです。日と、そして夜と、その両方に生きてい
 る。寒さと暑さのなかで生きている。こういうふうに考えると、その片方だけで、ひ
 とつの車輪だけで走っていこうとする危険さを、いまあらためて感じざるをえません。
・冷戦構造崩壊後の世界では、民族の対立や宗教のちがいをもとにした紛争が、戦争の
 火種になっているといわれます。しかし、お互いのちがいを見いだして、目くじらを
 立てて対立するよりは、お互いの共通点を並べながら共存を模索するほうが、お互い
 の利益になる、と、当然ながら思うわけです。二つの異なる世界がただ対立して排除
 しあうのではなく、まず共通点を見いだし、いかに共生共存するかを模索するのが、
 免疫学にのっとった「寛容」という精神なのではないでしょうか。
・あれもこれも、生も死も、光も影も、喜びも悲しみも、みんな抱え込んで生じる混沌
 を認め、もう少しいいかげんに行儀悪くなって、たおやかな融通無碍の境地をつくる
 ことが、枯れかけた生命力をいきいきと復活させ、不安と無気力のただよう時代の空
 気にエネルギーをあたえることになるのではないか。
・いろいろなものを受け入れて、たくさんのものを好きになったほうが人生、楽しいの
 ではないか。
・善悪、苦楽、生死、さまざまな対極するものの狭間で、振り子のように揺れながら、
 スイングしながら、一時いっときの「命」を輝かせながら生きていたい、と、最近は
 ことに強く思うようになりました。

たゆまぬユーモアは頑健な体をしのぐ
・人間がこの極限状態のなかを耐えて最後まで生き抜いていくためには、感動すること
 が大事、喜怒哀楽の人間的な感情が大切だ、と考えるのです。
・無感動のあとにくるは死のみである。なにか毎日ひとつずつおもしろい話、ユーモラ
 スな話をつくりあげ、お互いにそれを披露しあって笑おうじゃないか、と決めるので
 す。
・ユーモラスというのは単に暇つぶしのことではなく、ほんとに人間が人間性を失いか
 けるような局面のなかでは人間の魂をささえていく大事なものだ、ということがよく
 わかります。

体のなかの辺境を大切に生きる
・都市中心、東京中心の日本文化論がいま横行していますが、この国がいきいきと活性
 化するためには、地方と呼ばれる末端が元気でなければ駄目なのである。

歯の一本一本にも人間の魂が宿る
・人間にはやりたいことがあり、その人それぞれの個性というものがある。その人間の
 個性を生かしつつ、その人間のやりたいことをやって生きていく。そういうことが意
 外に大事なことなので、規則正しい生活というものをあまりに強調しすぎることによ
 って、規則正しい生活をしなければならないということが人間の心と体の自由を奪う
 ようになっては、これも問題なのではないか、と考えたりすることがあります。
・自分の生活というものが、かけがえにない、ふつう一般の人間のなかにいつつ、なお
 一般の人間ではなく、なんのナニガシという、他にくらべるもののない、一個人であ
 るということも大事にしながら生きていきたい。

去っていく老子が残したなぞなぞ
・喜ぶのと同じように、本当に悲しむことが大事なのです。本当に悲しむというのは、
 どういうことか。自分のために悲しむだけでなく、他人のために悲しみ、涙を流すこ
 とでもあります。
・喜ぶことと悲しむことは同じ人間の大事な感情である。明るい気持ちになって、すか
 っとした気持ちになることも大事である。しかし、本当に人間にとって重要なことを
 深刻に悩むことによっても人間の自然治癒力とか、命は活性化していくのだ、という
 ふうに、ぼくは考えたい。

「布施行」とボランティア
・痛みとか苦しみを自分ひとりだけが抱え込んで、他の人たちにはわかってもらえない
 という孤立感のなかにあるとき、その人間の痛みや苦しみは2倍にも3倍にもなる。
・他人の痛みを自分の痛みのように感じることはできるけれども、わかってあげること
 はできないのです。わかってあげることはできないけれども、相手の痛みを自分の痛
 みのように感じることはできる。相手の悲しみや絶望感を、自分の悲しみや絶望とし
 て感じることは人間だったら必ず自然にできるはずです。それができるということが
 大事なのではないか、と思います。
・人間は、喜びを持って生きることが大切です。しかし同じように、本当の悲しみを悲
 しむ、泣くべきときに泣く、心痛むべきときに心痛む、そのことでも自分の「体」と
 「心」を、いきいきと活性化していくことができるような気がするのです。

ものを言え、言え、と蓮如は言う
・むかしの日本人は、もっともっとスローペースで生きていたようです。むかしの日本
 人は、いまとは想像もつかなかったような生活をしていた。たとえば、むかしの日本
 人はあまり走らなかった。むかしの日本人はほとんどものを言わなかった。

いつかおとずれてくる本当のさびしさ
・おまえもきっといつか本当のさびしさを感じるときがくるであろう。そのときにはそ
 のさびしさから逃げるな。そのさびしさをごまかすな。適当にやりすごすな。きちん
 とそのさびしさと正面から向き合って、そのさびしさをしっかりと見つめるがよい。
 そのさびしさことは運命がおまえを育てようとしているのだから。
・人間はさびしさに打ちひがれるときでも、さびしさのなかから本当の信仰が芽生える
 ときもあるのだ。つまり人間的なすべてのものは人間が求めるものへの扉なのだ。だ
 からそれを素直に受け入れて、それとまっすぐに向き合え。

優雅なる下山のやりかたを求めて
・本来、人間が豊かな情念とか感覚をもっています。大きく喜ぶためには、大きく悲し
 まなければならない。深く泣ける人でなければ本当の笑いを笑うことができないので
 はないか。希望というものは絶望と背中合わせになっていて、深く絶望する者だけが
 本当の希望をつかむことができる。明るさと暗さは相対的なものであって、どちらか
 片方だけを見る考え方は必ず行き詰まってしまいます。

癌の立場から見えてくるもの
・世界文明のバイオリズムのなかで考えると、これからは加速から減速へ向かうという
 のが明らかな時代の流れです。いろいろな面で暴走にブレーキをかける知恵が必要に
 なってくる。バブル経済というのも、高度成長の暴走だと考えることができるでしょ
 う。高度成長というのは、峠をめざして坂を駆け上がっていくことでした。
・登山というのは、上るだけではない。無事に下山するまでが登山なのです。いかに安
 全に、しかも優美に下山するかに登山の十分の六があると思います。下山といわれる
 と、なんとなく力が抜けるようだけれど、むしろ、いままで以上に神経を張りつめ、
 技術の粋を尽くして下山していかなければいけないのです。
・日本も、永遠の青春のさなかにはいられないわけだし、いまは朱夏のまっただなかで
 もないだろうと思います。そろそろ白秋期なのだということです。これは決してエネ
 ルギーが落ちる時期ということだけではないのです。無理無休に突っ走っていこうと
 するエネルギーを制御して、ある静かな境地とういうか、成熟した文明を築いていこ
 うとする時期です。
・日本は峠を越えたのです。そして峠を越そうとするひとりひとりの個人もまた、減速
 し制御しながら下山することについて、考えていかなければならないと思うのです。

寛容のすすめ
・日本人はいま、なにかを必死で求めています。自分たちが生きていく上での確信のよ
 うなもの、生きていくささえになる強いバックボーンが欲しいと思っている。それを
 求めて、みんなが模索しているけれど、まだ見つかっていないのだと、ぼくは思いま
 す。そして、そういう希求に対するひとつの非常に素朴な返答として、とにかく自分
 だ、自分の生活、自分の家族、それから個人個人の肉体だということになるのは、す
 ごくよくわかります。
・時代を象徴するコンセプトが60年代には「ラブ・アンド・ピース」だったとすれば、
 これからは「トレランス(寛容)」ということになるでしょう。「寛容」とは許すこ
 と、欠点を認めることであり、そして、激励ではなく、慰めであるとぼくは思います。
 つまり、がんばらなくてもいい、がんばれない人にがんばれなんて言うことはないよ、
 ということです。深刻に落ち込むこともまた、人には大事なのです。
・一般的に喜びは人間の生命力を高めるけれど、悲しみは逆に低下させると考えられが
 ちですが、じつはそうではない。本当に深く悲しむということは、感動することです
 から、喜ぶのと同じように人間の生命力を活性化し、免疫力を高める。ということは、
 私たちが悩んだり、つらい思いをして、ときには涙を流して悲しむことも、人間の体
 にとって大事な行為である。暗いときにも、さびしいと思う気持ちのなかにも、大事
 なものがあり、がんばらなくてもいいよ、という思いやりもあるということです。
・いま、自殺とか、いじめとか、教育現場の問題がいろいろといわれていますが、学校
 教育の画一化がいちばん大きな問題だとぼくは思うのです。
・いま学校教育は、精神的にも胸を張って背筋をのばして、元気で前向きということを
 強制します。めそめそする子、さびしがる子、暗い子はよくない。孤独癖のある子は、
 協調性がないといわれてしまう。協調性がないということは反面、個性があるという
 ことなのに、そういう変わった子供は、いじめの対象にされてしまう。
・いじめの問題を、子供は本来、残酷だからとか、いじめによって淘汰されていくんだ
 という人がいるけれど、そうではない。あれは大人の社会の反映です。大人の社会が、
 元気な人間、明るい人間しか認めないという立場をとるから、そうでない人間を子供
 たちは攻撃するのではないか。
・いま、私たちの生活様式自体が画一化されて、そのなかで順応てきない人間は認めな
 いという社会ができあがってきています。それが子供たちに反映していじめのような
 問題が起きている。そう考えると、親としてはまず自分が画一的ではないさまざまな
 多様性を認めていく考え方を身につけていかなければならない。世の中にはいろいろ
 な人がいていいのだということを、みずから示すようにしなければならないと思うの
 です。
・物事をこうでなければならないというふうに考えないで、親ができるだけリラックス
 して、ゆったり生きていれば、そばにいる子供もぴりぴりしないですむのではないで
 しょうか。ぼくの子供のころを思い出してみると、両親が緊張して、お互いにいがみ
 あっているときがいちばんつらかった。緊張は伝染するのです。そうやって緊張した
 子供が学校にいけば、当然、ほかの子供たちとのあいだに緊張関係も出てくるのは当
 然だろうと思います。

「励まし」だけでは救われない魂をどうするか
・孤立した悲しみや苦痛を激励で癒すことはできない。そういう時にはどうするか。そ
 ばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人に手に手を重ねて涙をこぼ
 す。それだけでもいい。深いため息をつくるのもそうだ。熱伝導の法則ではないけれ
 ど、手の温もりとともに閉ざされた悲哀や痛みが他人に伝わって拡散していくことも
 ある。

あとがき
・市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間
 の草刈場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義とい
 う巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめとうとしている。そ
 のあがきは、ひょっとして21世紀の中つづくかもしれない。つまり私たちは、そん 
 な地獄に一生を托することになるのである。