「スローサイクリング」(自転車散歩と小さな旅のすすめ) :白鳥和也

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 筆者は静岡で著述業を営んでいるとのことであるが、なかなか個性的な生き方をしている人のよう
に感じる。私もここ数年前から自転車の魅力に取り付かれた人間である。まだまだ駆け出しであり初
心者の域をでないが、筆者の語ろうとしている自転車の魅力というのに、いろいろ共感できるところ
が多かった。私も頭の中で薄っすらと、こんな自転車の楽しみ方をしていきたいなと思っていたとこ
ろに、書店でこの本を見つけて、思わず購入してしまった。自転車にもいろいろな楽しみ方があると
思うが、私の年代には、やはりこのようなスローサイクリングがいちばん合っていると思う。ただ自
転車でひたすら走るのではなく、風を切るのを愉しみ、風景を愉しみ、そして気に入った所や興味
の湧いたところでは自転車を降りて、じっくり愉しむ。自転車の良いところは、比較的手軽に楽しめ
ることと、車などと違って、比較的自由に路地裏にも入り込めることである。目的地を決めないで、
心の赴くままに走るというのも自由さを満喫できて愉しい。走る速度も車などと比べるとかなりスロ
ーであるので周囲の風景を愉しむ余裕がある。また徒歩と比べると、その行動範囲は飛躍的に広い。
「自転車=自由さ」というのが私の持つ印象である。自由さに一番の価値を置く人間にとっては、や
はり自転車は魅力的であると思う。

序章
 ・ことさら、スローサイクリングをやろう、スローに走ろう、と思って私は自転車を続けてきたの
  ではなかった。ただ、脇道の魅力に抗いきれなかっただけだ。街道筋を走りながらも、傍らの木
  立へと回り込む小道や、山裾に見える集落の中を行く道が気になって仕方がなかっただけだった
  のだ。
 ・おびただしい寄り道と遠回り。しかしそれはまた、自転車という、不自由さがあるがゆえに自由
  という矛盾した乗り物を愛するわれらサイクリストの性向の帰結でもある。無駄のないルート取
  りを常に考え続け、決して余分なことをしないかしこい人は、たぶん自転車には乗らないであろ
  う。
 ・この地上で、少し遠くにいる誰かにとどくようにボールを投げようと思ったら、放物線という回
  り道を辿るほかはない。なぜならこの世界には重力があるからだ。それは遠回りのルートである
  けれど、結局そこを通らざるおえない道であるからだ。
 ・ゆっくり走ることは、ある意味とても簡単であると同時に、そうではない部分も含む。なるほど
  技術的、体力的には長距離を走るサイクリングや、峠を目指すツーリングより負担は少ないが、
  代わりに今日はこれだけ走ったぞと自慢できることもなくなるわけだし、ゆっくり走って視野が
  広がった分、知ること、気づくことも増える。

スローサイクリングの世界へ
 ・高原の片隅の、言ってみれば画像的にはどうということのない辺りに、魔法が満ちていた。私た
  ちは異種の時間の中に迷い込んだのである。
 ・タンデムという自転車は、わが国では走行が許されるエリアに制限があるために、ちょっと特殊
  な感じに見られがちだが、欧米ではスタンダードな車種のひとつであるし、何よりカップルで自
  転車の旅を愉しむのにはまたとない機材なのだ。
 ・少なくとも20世紀後半から現在まで、世の中の主流は、すべてを速く効率的に生産的に進めよ
  うということで動いてきた。CPUの演算速度は、何か特別な電磁気的現象の臨界点にでも達し
  ない限りまだ当分速くなり続けるであろうし、高速を超えるものも探求され続けるだろう。
 ・注意すべきは、そういう「早く、もっと早く」が、経済機構や社会システムだけでなく、ふつう
  に善良に生きている人びとの魂にもある通路を伝わって浸透してきていることだ。コンビニで会
  計を急ぎ、前の人の勘定がまだ終わっていないのに買ったものをレジに置いてしまうような習慣
  は、太平洋側の都市の多くで顕著になってきているが、チャップリンの「モダンタイムス」によ
  く似て、買い物をする人自体が、工業化社会の非人間的な側面の言い古された比喩である、ベル
  トコンベアに乗っかっているような感じがする。
 ・「自分には才能がない」と勝手に決めつけ、途中で放り出す。そうではない。実際は、才能どう
  こう云々する前に、学ぶ根気と忍耐がなかったのだ。
 ・速度という意味に限らず、人に自慢できる記録や距離や標高にこだわらず、「ゆっくり」と自分
  のサイクリングの世界を構築すればいい。そのとき人は、熟知していたと思い込んでいた風景の
  傍らに、まったく別の新しい世界を見ることになる。通勤電車から眺めていた何の変哲もない路
  地の裏側に、旧き良き時代の痕跡や、あなたに縁のある何かを見つけたりするのだ。それは世界
  が変わったからではない。あなたが変わったからなのである。
 ・自転車は、自分の体力で行けるところまでしか行けない、という明瞭な限界がある中で、誰しも
  が自由を味わえる乗り物なのだ。そしてとても不思議なことに、私たちはその、限界が存在して
  いるということにむしろ、開放感を感じているらしいのだ。もちろん、記録に挑みたくなるのは
  人間の本性であるから、その限界をいくらか拡大することはできよう。が、大局的にはさして変
  わらぬ。超人であろうと、凡人であろうと、あなたの身体が許すだけ、ということなのだ。そし
  て超人であろうと、凡人であろうと、身体が許すところまでは、行動半径を広げることができる。
  そしてなおかつそれには限界があるのだが、そのことが逆にむしろ、私たちを自由にする。その
  自由は、人よりたくさん走れた、人より速く走れた、ということに由来する自由ではなく、競う
  という一方向への思考から解放されることの自由であろうと私は信じる。
 ・20世紀は、誰にでもできることの重要さを見失った時代だったかもしれない。まあ受験という
  システムの影響もあるかもしれないが、ともかく順位づけが日常のあらゆるところに浸透してい
  る。勝ち組か、負け組か、その短絡的な二元論もひとつの帰結だ。
 ・自転車の良いところは、家から出発すれば即フィールドだということだ。つまり、自転車で遊ぶ
  ために、必ずしも遠くまで自転車を運んでいったりしなくてもいいのだということだ。
 ・新しい自転車を手にした日、ちょっと散歩くらいのつもりで出かけたら、面白くてどんどん先に
  行ってしまった。気付いたら、もう隣の町、それでもまだ足りなくて、駅三つ分くらい遠くまで
  出かけて、帰り道で日が暮れてしまったなんて経験、きっと誰にでもあるのではないだろうか。
 ・自転車で遊べるフィールドは、特別なものではない。それは、そこにある道、道路なのだ。もち
  ろん閉鎖された特別なコースを使うダウンヒルや、トラック競技という例外的なジャンルもある
  けれど、こと、自転車でいろんな風物を見て回る、という領域に関しては、道や道路がそのまま
  活動のフィールドになるのだ。
 ・日常と非日常の間にきちんとボーダーを設けて、よし、今日はオフだ、全部遊びだ、というメリ
  ハリのあるライフスタイルもうらやましいと思うが、まあそう固く考えず、日常も非日常も、楽
  しければいいじゃん、気楽に行ったり来たりしようよ、というボーダーレスなスタイルも悪くは
  ない。むしろ、私たちがどうしようこうしようと考えて決めるというよりも、自転車が導いてく
  れると言ったほうが事実に近いだろう。
 ・自転車びとは、我知らず、境域や壁を越えている。努力してそうしたというより、恩寵のように、
  自転車びとは日常を超えた世界の中に入っていく。あるいは、日常の中にそれまで気づいていな
  かった価値あるものを見出す。散歩の一歩先へ。そこへごくごく自然に連れて行ってくれるのが、
  自転車だろうと私は思っている。
 ・長い間見続けてきた地元の風景が、灰色の砂に覆われた海辺の民家の石垣が、皮膜でも剥がされ
  たかのように、見知らぬ土地の見知らぬ眺めのように、迫ってきたことがある。そのときは、ま
  るで、私が少年時代からその土地で暮らしてきたことが虚構だったかのような幻惑感があった。
 ・近代以降、道路はひたすら、そこを通過する物量とその速度を拡大する方向に突っ走ってきた。
  輸送機関の発明と進歩は、道路の進化と双子の兄弟だった。馬車は自動車に変わり、道の一部は
  鉄道となり、道はやがて舗装され、人びとは往来の脇に追いやられ、人びとの歩くことのできな
  い道路をトラックや自家用車が行き来するようになった。いつのまにか、道は、人びとの物質生
  活を豊かにする方向に進みすぎたあまり、人びとの精神生活を路傍に押しやってしまったのであ
  る。幸いなことに、すべての道がそうなってしまったわけではない。歩いたり、自転車で走るこ
  との不可能な道は、今のところ、まだ一部である。
 ・そうしたストレスの多い道から、ほんの少し外れるだけで、にわかに昔日の匂いがよみがえって
  くるような路地、土と樹と木漏れ日を感じる小道、混沌の大都会の中に高貴で浮世離れした時間
  が折り畳まれた一角などが見つかったりする。人はそうした道を、裏道、田舎道、路地裏などと
  呼んだりする。それらは、物流の動脈として物質の世に有用とされることもないのであるが、そ
  れゆえに、人の心をくつろがせ、和ませ、生きることの根源的な歓びを、もう一度、まるで耳打
  ちでもするように、教えてくれる。
 ・近年、山手線内で最も効率的で便利な乗り物は自転車であろうという評判がとみに高まっている。
  雨の日や荷物の多いときなどは別として、スローサイクリングだから、別にビジネスのように急
  ぐ必要もないし、効率云々を言う必要もないのだけれど、この、普通は1馬力にも満たぬ非力で
  軽量な乗り物が、財力と地位の象徴でもある一部の自家用車や、縦横に張り巡らされた地上及び
  地下の鉄道網より優れた面があるということは、快哉を叫びたいくらいのことだと思う。
 ・東京を少し歩いたり、自転車で走ったりしたことのある人なら容易にわかることなのだが、過大
  な交通量のほとんどは、一定規模以上の道路に集中している。ちょっと裏通り、裏道に入ると、
  そこは車も少なく、歩行者もまばらな、静寂な環境だったりすること多い。私は個人的にはその
  ようなところに都市の一面の素顔があるのではないかと思っている。
 ・都市の中には、実は先鋭的な人工物ばかりではなく、かなりの自然が残っていたり、喧騒の中に、
  静寂が島のように浮かんでいたり、近未来的な景観の底に、昭和の残像がまだ生き生きと活動し
  ていたりする。
 ・スローサイクリングのフィールドとしての「田園」や「田舎」は、むしろ「里」という言葉が示
  す領域に近いのだろうと私は思う。個人的には、深山や荒海といった厳しい自然環境ではなく、
  そうした環境の余韻が多少残っているものの、基本的に人の生活環境であるような人里が、田園
  スローサイクリングのフィールドとしてふさわしいと思っている。
 ・スローサイクリングの愉しさのひとつは、道の選択の自由ということがあると思うので、田園や
  郊外では、そういうことがしやすいエリアをフィールドとして設定するのもポイントだと思う。

スローサイクリングのフィールド
 ・自転車で走ることの気持ちよさのひとつは、開けた空間の中を進むことだ。これは、静かな裏道
  を探すこととはちょっとまた別のニュアンスになる。
 ・川や水路は、都市環境の中で数少ない、建物の立っていない空間だ。もちろんその上を自転車で
  走るわけにはいかないが、河川沿いには、そこそこの走りやすい環境ができていることも少なく
  ない。都市近郊のサイクリングロードは、だいたいにおいて一定規模以上の河川敷や堤防上に設
  けられていることが多い。
 ・私鉄沿線といったムードの線路脇には、ありふれた都市の日常の中で何か詩的なものが残されて
  いる。なぜか線路脇の道には、ゆっくり走ったほうが得だなと思う風物に出会うことが多い。線
  路沿いにはいろいろ発見があるだろう。
 ・毎日毎朝、満員電車の中から眺めている沿線の風景の中に、どこか印象的な一角があったりする。
  ちょっとした公園とか、雰囲気の良さそうな小道とか、線路から少し離れた住宅街の岡の上に向
  かう道とか。そういうものを見つけると、私はたまらなくそこに自転車で行ってみたくなってし
  まうのである。
 ・臨海、臨海エリアもまた、海面や水面という開けた空間を感じることのできるエリアであり、自
  転車でこそ味わえる、風の匂いに満ちている。川や線路とちょっと違うのは、人工物の存在感が
  より大きいことだろうか。なお臨海エリアは、都市の一部である割にはひと気が少なく、女性だ
  けのサイクリングはちょっと気をつけなければならない面もあるので、その点はお忘れなく。
 ・誰でも失敗はしたくないので、情報やデータを仕入れて、間違いのない旅をしようとする気持ち
  はよくわかる。しかしそれがまた、面白みを削る。絶対的に保証された人生などどこにもないの
  に、人はそれを求めたがる。スローな自転車旅の愉しみの中には、行程の面白くない部分、不愉
  快な部分だって入ってくる。それを全的に受け入れるかどうかが、愉しみの分かれ道だと思うの
  だけど。
 ・全国ネットのテレビ局で放映しているドラマばかり見ていると、世の中の大半の人は都市に住ん
  でいるような気がしてくる。誤解である。東京に住んで、小田急線で小田原までしか行ったこと
  がなくて、その先は自分で旅をしたことがないような人は、箱根の向こう側には名古屋まで街が
  ないんじゃないかというようなことをぼんやりと考えたりする。誤解なのだ。それは20世紀に
  起こった、ある情報による別の情報の侵食現象なのであって、自分の身体で世を見ている人はそ
  うは思わない。
 ・近代以降、日本の経済的発展は太平洋側を主軸として行われてきたのであるけれど、北前船の往
  来が端的に示すように、むしろその上の日の繁栄は、日本海側にあった。そうした過去の栄華の
  残照が、現在の日本海側の空気感に独特の刻印を与えていると思う。それは、千年を超えて積み
  重なった時間の層であり、諦念を伴った透明な哀しみの層でもある。
 ・欧米諸国に比べ、サイクリングロードがまだまだ桁ひとつ少ない日本において、途中まだ工事区
  間はあるものの、本州と四国を約80kmものサイクリングロードで結んだこの「しまなみ海道」
  の存在感は実に大きい。そしてしまなみ海道の果たした大きな役割は、単に本州と四国を自転車
  で渡れるようにしただけではなく、今まで、離れ離れの島の集積であった、瀬戸内海西部を自転
  車で愉しみながら旅できる環境に変えてしまったことだ。
 ・日本における美しい町並みの条件のひとつが、水景との連動であることは言うまでもない、大な
  り小なり、見事な町並みは水に関係している。先に揚げた湧水もその例だが、ほかにも堀割や水
  路などが独特の印象を生み出している例は数限りなくある。
 ・水路や堀割はまた、石垣などの遺構の野外博物館でもあるのだが、そういう風景に自転車は実に
  よく似合う。誕生の頃から相当に進化しているとはいえ、どこかやはり古くから人とともにある
  風景になじむものがあるに違いない。
 ・樹木は都市やその近郊だけでなく、田園においても、麗しい風景に欠かすことができない存在だ。
  それは単に風景にうるおいを与えてくれるなんていうだけではない。樹木は、生命の全体性や存
  在としてのあり方を無言で語り続け、それゆえに人は自らとまったく違う存在である樹木に惹か
  れる。サイクリングを長く続けてきた人には、忘れることができない樹や木立の記憶がひとつや
  ふたつあるのではないだろうか。
 ・スローといいながらも、自転車にはやはり徒歩と違う機動力がある。もちろん機動力そのものは
  内燃機関のついたモーターサイクルにはかないはしないが、自転車ならではの有利さは、その静
  かさだ。これは自然の中で活動する時には、熊などの危険動物にあらかじめ自らの存在を教えた
  ほうが良い場合を除き、ひとつの大きな利点となる。
 ・古くからある道をゆっくり探訪するのは、自転車ならではの愉しみだ。距離を気にせず、時間を
  贅沢に使うスローサイクリングなら、さまざまな寄り道の誘惑がいっぱいの旧道筋は、実に実に
  打ってつけの素材なのだ。
 ・ふつうに人びとが暮らしている旧道筋の中に、ぽつりぽつりとこぢんまりとした保存公開家屋や、
  かわいらしい博物館などがあるところは、ツアーの観光バスは訪れない。施設自体のキャパシテ
  ィが小さく、何十人も人が入ることができないからだ。ところがそういう、旧道筋の中に人びと
  の市井の生活が今もなお続いているところこそ、むしろ格好のスローサイクリング街道だ。私た
  ちサイクリストは、迷惑にならぬところに自転車を立てかけ、ゆっくりと復元された宿屋などを
  見て回ることができるし、近所の人と気楽に会話を交わすこともできる。美味しくて安い食堂な
  どを探したかったら、地元の人が行くところを尋ねてみるとだいたい正解なのだ。
 ・鉄道好きの人が喜ぶ旅は、むしろ亜幹線やローカル線での旅であることが多い。そこには国鉄時
  代の古い車両や駅舎というノスタルジックな光景が今のなお見られるからというのが第一の理由
  だろうが、それだけでなく、そこには郷愁を誘う事物を通じて、何か根源的な鉄道の詩が現れて
  いるからであろう。
 ・私たちは、人の作り上げた観光ビジョンの中で、良いお客として振舞うために自転車に乗ってい
  るわけではないのだ。そういう意味では、せいぜい道標などで旧道の存在をある程度明らかにし、
  探せば何かやはり過去を忍ばせる事物などが見つかり、それ以外はただサイクリストをほったら
  かしにしてくれるような類の旧道が、やはり魅力的なのだ。
 ・いったいなぜだかよくわからないのだけど、テレビなどのメディアと通して紹介される地方都市
  のありようは、少しもローカル的に見えないことが多々ある。どうもそれは、中身の問題ではな
  く、スタイルの問題ではないかという気がする。つまり、テレビ番組の多くは、基本的には、中
  央集権的な目線で物事を見る語り口のスタイルが基本だから、物事をいかに語るか、という視点
  から少しもローカル的ではない。テレビというメディアには常に非ローカル化させて見せるとい
  う傾向がある。だからいつのまにか、テレビを見ている人もその目線に同化し、ローカルなもの
  を見ているつもりで、限りなく中央集権的なものの見方になっていく、無意識的に共通語の思考
  になっていく。そして、いつのまにか、地方ごと、いや町や村ごとで異なるものの考え方や感じ
  方という面が見えなくなってくる。名物や人物や面白い温泉というものが記憶に残っても、より
  本質的な差異や個性が存在することがわからなくなってくる。
 ・街のそれぞれが違う表情を見せるのは、そこに暮らす人びとの気風が違うからである。街を見る
  ことは、だから、人を知ることに必然的に通じる。それが交流というものの本質であろうと私は
  思う。

スローサイクリングのスタンス
 ・サイクリングを愉しんでいると、ともかく食事が美味しい。だから、せっかく見知らぬところを
  ゆっくり走っているのだったら、その土地ならではのものを味わわない手はない。地産地食と言
  われるように、その土地の風にふれ、道に遊び、そして地場のものを食するのは、スローなサイ
  クリングの特権でもある。
 ・スローにサイクリングして美味しいものを食べるには、なにもえらく遠出しなければならないと
  いうことではない。むし逆かもしれない、ご近所にあるものの価値をまず探してみるものだ。テ
  レビや雑誌で流通している情報ではなく、面倒でも自分で手に入れた情報で旨いものに出会うと、
  ことのほかうれしい。 
 ・ちょっと離れたところに家庭菜園を借りて、毎週手入れに行くなんてのも、本当のスローフード
  サイクリングかもしれない。また、甘党の人には、洋菓子屋さんや和菓子屋さんを巡ることを愉
  しみにする人もいる。最近は閑静な住宅街や地方都市の街外れに有名なパティスリがあることも
  多いのでそういうものをひとつの目当てにルートを考えて見るのも面白い。
 ・最近はゆっくりコーヒーを愉しめる純喫茶風のお店が減ってきたけれど、自転車でコーヒー店を
  訪ねるのもいいものだ。遠出する気のない休日に、ちょっと郊外までコーヒーを飲みに行く、な
  んてことは私もしばしば愉しむ。
 ・都市内でのスローサイクリングで、あるとうれしいなと思うのは、露天のカフェテラス。風と日
  光が気持ちよい季節なら、ちょっとコーヒーブレークするのも、できれば屋外にテーブルを並べ
  たような空間がいい。傍らに迷惑にならないように自転車を立てかければ、愛車談義もできそう
  だ。目のとどくところなら盗難の心配もないし。
 ・自転車に匹敵するほどの詩情をたたえた乗り物がほかにあるとすれば、それは、帆船やヨット、
  木製の手漕ぎボート、気球やグライダーぐらいなのではないだろうか。およそ、強大なる原動機
  をつけた乗り物のほとんどは、詩的なものから遠く隔たったところにある。
 ・鉄道には一種の哀しさがある。それが線路の上を進むものである限り、レールから外れたところ
  を走るわけにはいかない。鉄道車両は、定められたレール上を進むよりほかに道はない。そうい
  った明瞭な限界があるところが、もしかしたら、人力でしか進まぬ自転車と同じように、詩情に
  結びついているかもしれない。
 ・少しずつではあるけれど、カップルや夫婦でサイクリングを愉しむ人が増えつつある。自転車は、
  スローサイクリングであってもやはりアウトドアスポーツの一領域であるから、紫外線も浴びる
  し、落車や事故などの危険もあるのが事実だが、それにしても同じく屋外のレクリエーション活
  動としてポピュラーなハイキングやトレッキング、ウォーキングなどの分野に比べて、女性の比
  率が特に少ないのは、しばしば指摘されるように、自転車がとても複雑な操作を要求する機械で
  あるからだろう。
 ・けれど、自転車のメカニズムや整備にある程度詳しい、中級以上の男性が同行してくれるのであ
  れば、女性の初心者ももっと行動半径が広がるだろう。もっといろいろなところを走ってみたい
  のだけれど、連れて行ってくれる人がいない、という声はよく聞く。注目したいのは、若い女性
  ばかりでなく、子育てもそろそろ卒業という世代の女性にも、サイクリングに関心を持っている
  人が案外多いことだ。
 ・サイクリングの途中で美術館や博物館を訪ねると、なぜ妙に印象的な経験をしたような気がする
  のは私だけだろうか。どうもドライブの途中で立ち寄ったりするのと、明らかに違うタイプの感
  動があるのだ。ひょっとしたら自転車に乗っていることで五感が活性化しているので作品の感興
  がよりダイレクトに伝わってくるのかもしれない。都市や古都のスローサイクリングで、行程の
  どこかに美術館や博物館を入れると、サイクリングそのものが、ある種知的な緊張感や快感に裏
  打ちされた雰囲気になるのが面白い。
 ・東京や京都のような大都市なら、美術館を巡るツアーというのも充分成立する。アート系のミュ
  ージアムだけでなく、カメラ博物館や自転車の博物館なんていうホビー色の濃いミュージアムも
  回ることができる。
 ・美術館や博物館に類するものとして、有名な建築家の手になる建造物を自転車で訪れるという、
  なかなかアカデミックな遊び方もある。東京都心などはさしずめその宝庫であろうが、地方都市
  にも興味深いものがたくさんある。自転車で見て回るには、低層の建築物が格好の対象であろう
  と思う。
 ・神社や仏閣はやはり特別な場所である。特に神社の場合は、風水的な特異点に鎮座していること
  が多いようで、五感全体にその土地のオーラが感じられることがある。そこにいるだけですがす
  がしい気持ちになれるような感じだ。神社はその地域の中でも、わずかに標高が高いところとか、
  尾根の延長線上、あるいは川が大きく流れを変える地点などに鎮座していることが多い。そこを
  吹く風そのものが、たおやかな、穏やかな気に満たされている神域も少なくない。自転車でこう
  した神域を訪れる際には、まずもって神域に敬意を表し、自転車を中に持ち込まないことが常識 
  となるだろう。
 ・身体と五感を使わざるを得ない自転車にまたがれば、また違う風景が見えてくる。ありふれた地
  元の眺めと思っていたもののヴェールが剥がれ落ち、物事の深層の一端が姿を現す。それは単に
  非日常というだけでなく、この世のかりそめの「光」のもとではついぞ見えることのなかった、
  別の種類の光や闇とそれらの交錯から生まれてくる何かだ。

スローサイクリングのノウハウ
 ・半日程度のサイクリングでも、走りたい核心のエリアまで、ほぼ車でアプローチするカーサイク
  リングでは、けっこうディープに愉しむことができるのだ。駐車する場所を充分選べば、5分も
  自転車で走らないうちに素晴らしい風景に出会うことだってできる。自転車だけで遠出すること
  がまだ不安なような初心者の方も、マイカーが比較的そばにあれば何かと心強いだろう。
 ・特にリゾート的色彩が濃いエリアなどは、カーサイクリングにもなかなか好適なのだ。適当な無
  料駐車場が見つからなければ、自転車の出し入れがしやすい、空いた有料駐車場に停めてしまう
  という方法もある。観光的な賑わうようなリゾートでも、車やバスや鉄道で来た人、つまりは現
  地での行動はほぼ車か徒歩になってしまうような人が訪れるところは、だいたいのところさほど
  広がりがない。自転車ならちょっとその先まで気軽に行くことができるし、それだけでもそのエ
  リアに関する認識を大きく変えることだってある。
 ・地方の「道の駅」などは、鉄道の駅からもさほど離れていない場合があり、サイクリングに慣れ
  てきて、軽く分解したスポーツサイクルや、性能の良いフォールディングバイク(折り畳み自転
  車)を袋に入れてパッキングできるようになったら、走りたいところまで走って、鉄道に乗って
  キャンピングカーのところに戻ってくることもできる。
 ・スローな走り方を散歩的、と捉えるとすれば、それは現在もサイクリストの用語として盛んに
  使われている、ポタリングという言い方にいちばん近いだろう。