スイス探訪 :國松孝次 (したたかなスイス人のしなやかな生き方) |
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この本は、いまから21年前の2003年に刊行されたものだ。 この本の著者は、オーム真理教事件のあった警察庁長官時代の1995年3月に南千住の マンションで狙撃され、一事重篤な状態にまでなった人物だ。犯人は逮捕されず、事件は いまだに謎のままだ。 著者は1997年に退官し1999年から2002年の間、在スイス特命全権大使として スイスに滞在したようだ。そして、そのときのスイス滞在経験のもとに執筆したのがこの 本のようだ。 スイスというと、私は「永世中立国」「アルプスの少女ハイジ」や「マッターホルン」ぐ らいしか知らなかったのだが、スイスのことをもう少し知りたいと思い、この本を手に取 った。 まず読んで初めて知ったのが、スイスの首都は「ジュネーヴ」ではなく「ベルン」だとい うことだ。恥ずかしながら、私は今までスイスの首都はてっきり「ジュネーヴ」とばかり 思っていた。 調べてみると、スイスの都市で一番大きいのがチューリッヒで人口が約39万人、次に大 きいのがジュネーヴで人口が約19万人、三番目がバーゼルで人口が約17万人、そして 四番目がベルンで人口が約14万人となっているようだ。 スイスが「永世中立国」というのは知っていたが、非武装中立ではなく、ガチガチの武装 中立であり国民皆兵を国是とする国であることも、この本を読んであらためて知った。 また、スイスというと、牛や羊がのどかに草を食む牧歌的な風景のイメージがあり、農業 国だと思っていたのであるが、食糧の60%は輸入に頼っているというのは、ちょっと意 外であった。 スイスの一番特長的なのは、やはり、直接民主制をとっている国だということではなかろ うか。これは、例えば、国会の決議を経て決まった法律であっても、それに不服な有権者 が五万人以上の署名を集めて要求すれば、その法律は国民投票にかけられ、過半数以上の 国民が反対の意思を表明すれば、その法律は、無効となるということだ。 私は、これこそ「国民に主権がある」といえるのだと思った。 私は日本でも「国民の主権」を強化するために、国民に衆議院の解散権を持たせるべきだ と思う。有権者の1割の署名を集めて要求すれば国民投票が実施され、国民投票で過半数 以上の賛成があれば衆議院を解散させ総選挙を行うことができるというものだ。 こうすれば、2割程度の支持率しかない政権にいつまでも政治をやらせておかなくで済む。 国民投票を要求してさっさと衆議院を解散させて、新しい政権に政治をゆだねることがで きるようになる。これで少しは「国民に主権がある」ことを実感できるようになるのでは と思うのだが、どうだろうか。 なお、この本を読んで私が一番興味を持ったのは、スイスの外国人対策に関してだ。 スイスも少子高齢化の問題を抱えており、外国人労働者はなくてはならない存在になって いるという。どのように外国人を受け入れていくか、スイスでも悩みながら試行錯誤を繰 り返しているようだ。もう20年以上も前の話だ。 スイスは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の四言語が公用語の多言語 国家であり、スイス企業の労働者の4分の1は外国人であるという。 そんな国のスイスですら外国人の帰化問題を抱えているというのだ。 翻って、同じ少子高齢化に悩む日本はどうだろう。最近になって、これではまずいと、少 し外国人労働者の受け入れ政策を変更し始めたが、それでも、まだまだ甘いのではと私に は思える。 外国人労働者の受け入れに反対の人もまだまだ多い。ましてや、外国人の帰化の問題につ いては、ほとんど議論もされていない。このままでは、日本は高齢化が極度にまで達して 老人ばかりの国になり、日本はほんとうに立ち行かなくなるのではと、私は心配している。 |
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歴史の刻印 ・「ウイリアム・テル」を知っていますか。 ウイリアム・テルといえば、シラーの戯曲やロッシーニの歌劇の主人公として有名なの だから、皆知っていると思われるかもしれないが、実は、そうでもない。 ・テルと並んでスイスゆかりの創作上の人物として世界的に著名なのは、いうまでもなく、 アルプスの少女ハイジである。 ・スイスの東の「マイエンフェルド」は、ハイジ物語の原作者、「ヨハンナ・シュピリ」 がここに滞在し、その構想を練ったといわれており、ハイジに憧れる日本人観光客が数 多く訪れる。 ・日本人にとって、スイスは、おそらく世界中で、最も好感度の高い国のひとつであろう。 毎年、延べ100万人に近い人々がスイスを訪れ、その美しい自然を愛でで帰る。 日本人は、皆、スイスのことが好きで、スイスのことをよく知っていると思っている。 ・しかし、日本人が好きで知っているのは、「グリンデルヴァルト」であり、「ユングフ ラウヨッホ」であり、「マッターホルン」であり、牛や羊がのどかに草を食む牧歌的な スイスの風景なのである。 ・いいかえれば、日本人が知っていると思っているのは、ハイジに代表される美しき国ス イス、つまり、ハイジの世界のなかのスイスなのだ。 しかし、その一方で、日本人は、スイスの歴史や文化についてはあまり興味を示さない。 ・スイスの首都はジュネーヴと思い込んでいる人がいるが、スイスの首都はベルンだ。 ・スイスは、人口736万人の小国で、国連には大議論の末、2002年にやっとのこと 加盟したばかりだし、欧州連合(EU)には依然として入っていない一風変わった国で ある。 ・しかし、この「欧州の島国」といってよい国の人々が、いかにしたたかに、また、いか に知恵を絞って、欧洲列強に伍して自己の存在感を示しているのかを知ると、これは、 日本もスイスの人々のものの考え方や社会の仕組みなどについて、もっともっと研究し、 参考にしてもよいのではないかと思う。 ・たしかに、明治初期と並んで、戦後の一時期にも、連合国軍最高司令官マッカーサー元 帥が、「日本は、太平洋のスイスたれ」といったことがあり、それを契機にスイスの歴 史・文化への関心が高まったという。 ・特に、スイスは永世中立国だというわけで、日本の非武装中立論者が、スイスに熱い視 線を向けた。 しかし、スイスは、ガチガチの武装中立、国民皆兵を国是とする国だから、勉強すれば、 これは話が違うということは、すぐにわかるわけで、「美しい誤解」がとけ、以後、 日本人の関心は、スイスの観光面に特化していった。 ・スイスは本当に面白い国で、独特の直接民主制と連邦制、安定した政治・社会の仕組み、 特化した分野に独自の強みを発揮する経済力と科学技術力などには、じゅうぶんに研究 に値するものがある。 ・スイスほど素朴なまでに国民主権の原則を尊重している国は他に例を見ない。 連邦レベルで見ると、連邦政府が起草し、連邦議会が可決した法律も、国民に異議があ り、有権者5万人以上の署名を集めて要求すれば、その法律は国民投票にかけられるこ とになる。 その国民投票で、過半数以上の国民が反対の意思を表明すれば、その法律は、無効とな る。 連邦の政府と議会が一致して、国連や欧州連合に加盟することを「決定」しても、国民 投票でノーといわれれば、その決定は完全に覆されてしまうことは、過去の例が示すと ころである。 ・このシステムの長短は、様々に論ずることができるが、それは、ひとまず措くとして、 ひとつはっきりしていることは、このシステムだと、物事を決めるのにかなり時間がか かるということである。 もう少し、スピーディー事を運ばないと急激に動く国際情勢から取り残されてしまうの ではないかと、傍から見ていて気をもむのだが、スイス人の多くは、現在のシステムが 最良のもとと信じて疑わない。 ・現在、このスイス独特の直接民主制が、特に欧州連合(EU)との関係で厳しい試練に 直面しているのは、よく知られているところである。 国内でも、四周を欧洲連合諸国に取り囲まれているスイスが経済的に発展していくため には、欧洲連合に加盟する以外に道はないという説が有力に唱えられている。 ・しかし、スイスが欧州連合に参加するためには、伝統の直接民主制をかなり制限しない とやっていけないのは目に見えている。 ・早い話、スイスの代表が、ブラッセルに行き、欧州連合諸国代表と話し合って決めた事 を国に持ち帰って、議会の承認を得たとしても、国民投票にかけられて否決されるとい うのでは、他の諸国と完全に歩調が狂ってしまう。 ・スイスは、今、国際協調と直接民主制の両立を図るという難しい問題を抱えているので ある。 ・スイスの直接民主制は、州のレベルに行くとさらに鮮明になる。 多くの州は、規模の点からいっても、代議制をとらざるをえなくなっているが、州の住 民は、大幅な発議権、異議権を持っていて、住民主権の原則は貫かれている。 ・産業革命以前のスイスは、これといった産業はなく、また、美しい山河もそれを観光資 源として活用しようなどということは思いも及ばなかった時代には、地味に工作不能の 荒涼とした地ばかりが多く、食えない余剰人口は、外国にその職を求めて流出せざるを 得なかった。 その場合、もっとも需要の多い傭兵となるのが、一番手っ取り早く、かつ、有利であっ た。 ・有用なスイス人傭兵は、各地で評判がよく、除隊後もその国に留まって事業を始める者 もあれば、かなりの金を貯えて帰国する者もあった。 ・スイスの各地を訪ねると、ヴェルサイユ宮殿には遠く及ばないが、それなりに由緒あり げな城郭がそこかしこに残っている。 そのうちのいくつかは、傭兵成功者の築いたものである。 ・スイス人傭兵が持ち帰り、蓄積された財は、かなりの額にのぼり、それは各州の財政を 潤し、各種の事業を興す資金となった。 今をときめくスイスの銀行のなかには、傭兵の給料の国内送金と管理運用から業務を発 展させていったものが、かなりある。 ・さらに、国内生産物の国外での売りさばきや資金調達など、事業を展開するうえで、傭 兵時代に得た人脈、情報網はかなりものをいったに違いない。 ・現在のスイスは、ひとり当たりの国民所得でみる限り、日本、アメリカをしのぐ富裕国 であるが、そうなったのは、20世紀になってからのことで、18世紀までは、国内に 産業らしい産業もなく、外貨を得ようとすれば、それこそ傭兵になる以外にこれといっ た道のない貧しい国であった。 ・それが、19世紀ヨーロッパ各地のひろがった産業革命の波をうまくとらえて、スイス 各地に綿織物、時計などの特色のある産業が興ってくるのであるが、その起業にかなり 大きく寄与したのが傭兵のもたらした資金と人脈と情報網であったのである。 ・考えてみると、ヨーロッパのど真中位置するスイスが長きにわたって侵さず侵されずの 中立を守ることができたということは、地政学的には奇跡に近いことである。 スイスは、昔から国民皆兵による完全な武装中立の国であるが、周りの大国から見て、 スイスが武装しているが故に、どんなに欲しくても手が出さないということは、実際に は考えにくい。 やはり、スイスが中立を維持できたのは、スイスの中立が近隣の大国にとっても有利に 働くという事情があったからである。 ・スイスの側から見れば、中立であるからこそ、どこの国にでも傭兵を供給することがで きた。 諸国の側から見れば、中立国であるが故にスイスでの傭兵の募集は自由にできたし、さ らにいえば、スイスの中立を認めるかわりに有能なスイス人傭兵を傭うことができたの である。 ・傭兵というのは、しょせん人間の出稼ぎであり、「血液」の輸出である。 また、傭兵は、そうする以外に生活の糧を得ることにこと欠いたスイスの貧困を物語る ものであった。 ・スイス中部の観光都市「ルツェルン」は、四森州湖を眼前にする風光明媚の地で、市の 中央部氷河公園の傍にある「瀕死のライオン像」には日本人観光客も多く訪れる。 ・この像は、よく知られているように、フランス革命当時ルイ16世一家を最後まで守っ て全滅したスイス人傭兵の慰霊碑であり、スイス人傭兵の忠誠と勇猛さを世に顕彰しよ うとするものであると説明されている。 ・そのことに、すこしも間違いはない。 しかし、考えてみれば、スイスは、ハプスブルク王家と戦って独立を獲得した根っから の共和制の国であるのに、そこから送り出された傭兵がブルボン絶対王朝を守り共和国 軍と戦って命を落とすというのは、なんと皮肉で悲惨な話であろう。 ・傭兵の伝統は、現在もなおスイスのなかに脈々と生きている。 ひとつは、はっきりと形として残っているもので、ローマ法王庁の衛兵がそれである。 ヴァチカンの衛兵は、スイス人である。 これは、1506年、時の法王ユリウス二世との間に結んだ傭兵契約に由来するという 長い伝統を持つ。 ・ここにも悲しい歴史があり、1527年の名高い「ローマの略奪」事件が起こった時、 法王クレメンス七世を守って147名のスイス人傭兵が戦死した。 ・もうひとつは、無形のものであるが、スイス人気質に見られる国際性と先取の気象は、 傭兵の伝統が育んだものが現在に生きている好例だと思う。 特にビジネスマンや科学者に見られる特質だが、スイス人は、国際的に洗練されていて 国の違いなど頓着なく良いものはどんどん取り入れる傾向が強い。 ・また、狭い国土を離れて海外に雄飛し、国際的な舞台で活躍するスイス人は数多い。 ちなみに、現在、海外居住スイス人の数は約58万人。人口比にすれば日本の10倍以 上に当たる人が海外に進出していることになる。 こうしたスイスイ人のバイタリティーは、スイスの繁栄の原動力である。 ・こういうと、必ず反論があって、いや、スイス人は、独自の地域主義にとらわれていて、 閉鎖性が強い、だいいち、欧州連合に加盟していないのは、その証拠だという人がいる。 ・要するに、スイスを見る場合、ふたつの座標軸があって、ひとつは国際主義、他のひと つは地域主義。 そして、このふたつは併存しているので、どちらを見るかで、まるっきり判断が違って くる。 スイスの複雑さの根源は、ここにあると思う。 ・いずれにせよ、スイス人は、国際主義と地域主義を巧みに使い分け、いつも注目されて いるわけではないが、気がつくとしっかり実利をとってそこにいるという存在感を示し ている。 ・ここにひとつのエピソードがある。 主人公の名は、ポール・グリュニンガー。彼は、大戦勃発時、ドイツと国境を接するザ ンクト・ガレン州の警察長官であった。 彼はナチスの迫害を逃れて国境に押し寄せてきたユダヤ人を見て、入国を拒否した場合 に彼らを待ち受けている運命を思い、人道的見地から1000名を超えるユダヤ人の越 境を認めた。 日本では、同じように、人道的見地から訓令違反を敢えて犯しつつ多数のユダヤ人にビ ザを発給し、その命を救った元リトアニア領事代理、「杉原千畝」のエピソードが有名 だが、スイスにも、「杉原千畝」がいたのである。 ・ただ彼のその後の生涯は、杉原のそれよりさらに過酷なものであった。 グリュニンガーのとった措置も、スイス法令に照らせば、明らかな職務規則違反であっ た。 彼は、1939年、州政府により免職させられたうえ、翌40年には、州裁判所から文 書偽造の罪などで有罪判決を受ける。 そして失意と貧困のうちに1972年この世を去った。 ・彼の事績はしばらく忘れられていたが、1990年代になって、あるジャーナリストの目 にとまり、大々的な報道により世に知られるところとなった。 それを受け、ザンクト・ガレン州政府および裁判所は、グリュニンガーの名誉を回復し、 1998年には、州議会の議決に基づき、彼の得べかりし給与等の補償が、彼の遺族に 対して行われた。 彼の遺族は、それを基金に、「ポール・グリュニンガー賞」を創設した。 ・2002年3月に行われた国民投票で、スイスの国際連合(国連)加盟が可決承認され、 スイスが190番目の国連加盟国になる運びになったというニュースは、日本をはじめ 世界各国のメディアに大きく報道された。 ・普段のスイスは、地味な存在で、そこでの出来事が新聞テレビの国際面を賑わすという ことはあまりないのだが、スイスの国際連盟には、珍しく国際的関心を呼ぶだけのニュ ース性があった。 ・なにせ、国際社会からその存在を証人されている国家で国連に入っていないのは、スイ スのほかは、ヴァチカン市国があるだけである。 ただ、ヴァチカン市国は、カトリックの総本山として、いわば「天界」に属する国だか ら、普通の国で国連に入っていないという変わった国は、世界広しといえどもスイスの ほかにはない。 そのスイスが、国連に入るというのだから、これはニュースであった。 ・それに、多くの人が、一種の驚きをもって気づいたのは、「あのスイス」が、これまで 国連に未加入だったという意外性であったに違いない。 ・国連の欧洲本部は、周知のようにジュネーヴにある。 また、国連の傘下組織ではないが、国際人道支援の中心的存在である国際赤十字社の本 社もジュネーヴにある。 ・こう見てくると、スイスが国連に加盟していないというのは、誠に不思議なことという べきで、世界中の多くの仏の人達から見れば、「今ごろいったい何を言っているのか」 というのが、正直な感想であったろう。 ・加盟反対者は、もちろんスイスの伝統的な中立政策を前面に押し立てて国連加盟の非を 鳴らした。 国連に加盟すれば、スイスは多数決で押し切られ、なしくずし的に外国の紛争に巻き込 まれ、中立政策など吹っ飛んでしまうというわけである。 ・これに対し、加盟賛成者も中立の護持がスイスの国家運営の根幹であることは全面的 に認めたうえで、冷戦終結の新しい国際環境のなかでは、国連に加盟し、そのなかで中 立政策と国際貢献の両立を図ることこそがスイスの取るべき立場であると訴えた。 いってみれば、国連加盟をめぐる議論は中立政策の善し悪しを問うものではなく、新し い時代の中立のあり様をどう考えるかの議論であったのである。 ・実は、スイスの人達と話していると、彼らが三つの表現をよく使うのに気づく。 一つ目は、「スイスは小さい国です」というもの。 ただ、これは、一種の枕詞で、彼らがいいたいことは、それに続く言葉のほうである。 例えば、スイスは、小さい国だが、ネスレのような国際的企業が数多くあるとか、対外 経済開発援助予算のGDP比では、日本にもアメリカにも負けていないとか、要するに、 スイスの良さや特徴を主張したい時の導入に使っている場合が多い。 したがって、この枕詞の部分で、早とちりに「そうですね。本当に小さい国ですな」な どと相槌を言っては不興を買うことになる。 ・二つ目は、「スイスは島国です」というもので、特に我々日本人を意識してよく使う。 確かに、スイスは欧州連合の真っ只中に浮かぶ島国のように見えるし、スイスの独自性 をうまく表現している言葉だが、これも、枕詞に近いから、彼らが何をいいたいかを見 極めたうえで対応しないといけない。 ・三つ目は、本当に彼らが好きな言葉で、「我々は、プラグマティックです」というもの である。 これは、何もプラグマティズムという難しい哲学用語を厳密に使っているのではなく、 要するに、実用的というか実利に聡いというほどの意味なのだが、スイス人は、自らを プラグマティックと規定することに誇りを覚えているふしがある。 ・あまり原理原則に囚われず、現実を直視して、実利を取っていくのが、彼らの人生哲学 というところであろうか。 アイテンティティの在処 ・よく知られているように、スイスは、国防のために国民皆兵制度をとる。 国民皆兵という点については、なにもスイスだけの話ではない。 徴兵制をとり、国民全体に兵役義務をかける国は、ヨーロッパにいくらでもある。 ただ、兵役につかなくてもよい場合が、かなり大幅に認められている国と比べ、スイス ではそれは大変に例外的であるという点が特色である。 連邦閣僚、医師、警察、消防職員など有事には軍と共に働かなければならないような一 定の職業にある者は、在職中兵役免除を受け得るが、その職種は極めて限定されている。 連邦議会の議員ですら、兵役免除は会期中に限る。 ・実際に多くの議員は民兵将校であり、階級が上がった場合や新しい任務につく場合に要 求される訓練は忠実に受けている。 兵役を免除されても、何もしなくてもよいというのではなく、代替的に高齢者介護、医 療補助など非軍事的公共サービス活動につかなければならない。 ・しかし、なんといっても、スイス兵制の最大の特色は、その民兵制度にあり、この点は ちょっと他国に類例を見ない。 徴兵制をとる国々を見ても、徴兵した兵員のなかから職業軍人を育て、どんな小国でも 数万人規模の常備軍を持つのが通例である。 これに対し、スイスでは、現役の職業軍人というのは、おおむね3700人程度で、そ の他の兵員は、みな平時は何らかの本業を民兵であり、その総員は35万人におよぶ。 普通のサラリーマンも街のパン屋さんも農家のオジさんもみな民兵であり、これらの人 々が一朝事ある時は、あらかじめ定められた動員計画に基づき直ちに応召し、48時間 以内に35万人が動員可能な仕組みになっている。 ・20歳になった男性は、まず15週間の初任訓練を受ける。 そして、42歳の除隊年齢に達するまで、兵種によって異なるが、毎年または2年ごと に年十数日の現任訓練を受けることとされ、その訓練総日数は300日と定められてい る。 ・このほか、情報通信隊、医療班、山岳部隊など、特殊な任務を遂行する部隊に配属され た者は、それぞれの特別技術訓練を受ける。 ・また、スイス民兵は、日常それぞれの家庭に銃器の保管を義務づけられ、訓練の際はそ れを持って参集することとされているほか、正規の訓練とは別に休日等に市町村の催す 射撃訓練を定期的に受け、射撃技能の維持向上に努めなければならない。 この射撃訓練も、厳格なもので、一定のスコアをとれないと不合格とされ、追試験を受 ける羽目になる。 ・皆がみな、嬉々として鉄砲をかついでいるわけでもないだろうが、スイス人達の間に行 き渡っている「自分達の国は、自分達で守って当然」という誇りと気概は、生半可なも のではない。 ・スイスは、ある意味では、小さな村落共同体が集まってモザイク的にできあがった国家 の観があって、何事も皆が平等に共同で処理するという気風は、兵役に限らず、すべて の分野について強い。 スイス人を理解しようとしたら、まず彼等が民兵制度に対して持つ誇りと気概がどのよ うなものであるかを理解しない限り的はずれなものになるというのが私の観察である。 ・もちろん、民兵制度に問題がないわけではない。 まず、民兵は、国内に侵入してくる外敵に国民が一致団結して総力でこれを迎え撃つと いう場合には、いかにも力を発揮しそうであるが、この兵を国外に派遣するとなると微 妙な議論を呼ぶ。 ・スイスの場合、国際社会の一員として大いに貢献したい意思は持っているのだが、これ もひとつのスイスの伝統である「中立政策」とのからみで、国外派兵にはきわめて慎重 にならざるをえない。 ・スイスの議員は、連邦だけでなくカントン・レベルでもみな何らかの本業を別に持って いて、議員活動は、一種の奉仕活動としてやっている。 連邦議会でいえば、年に四回それぞれ十数日間の会期中、主とベルンに集まって国政を 議論するが、会期以外の時は、弁護士だったり、会社の重役だったり、農協の職員だっ たり、それぞれの職業を以て暮らしている。 議員としての手当ては、年間3万フラン(270万円)程度であるから、スイスに連邦 議員で生計を立てているひとなどひとりもいない。 要するに、スイス人にとって、民兵も議員もみな公共の役務に服するという意味ではボ ランティアなのである。 ・民兵制度と並んで、スイス独特の発展をとげているものに、民間防衛の制度がある。 民兵が外敵からスイス国土を保全するものであるのに対し、民間防衛は、いわば銃後の 守りを受け持つ。 ・冷戦中は、特に、核の脅威から国民を保護する核シェルター・システムの整備が、民間 防衛の中心的事業として推進され、スイスの国民のほぼ全員収容できるシェルター数を 有するに至るという、スイス人らしい完璧さが有名になり、「もし第三次世界大戦が勃 発したら、生き残れるのはスイス人だけだろう」とまでいわれたものである。 ・スイスで民間防衛の組織化が始まったのは、比較的新しく、1930年代、隣国ドイツ にナチス政権が誕生した頃のことである。 ナチス・ドイツの急速な軍備の拡張に、侵略の危機を読み取ったスイスの人々は、市町 村を中心に、防空壕の整備、防毒マスクの配備、食糧の備蓄、さらにはスパイの侵入に 備える心構えを説いたパンフレットの配備など、様々な自衛措置をとっていた。 ・第二次世界大戦をナチスの侵略を受けることなく乗り切ったスイス人は、1950年代 に入って東西冷戦の時代が到来し、核兵器開発競争の激化が見られるようになると、核 攻撃の可能性を現実のものと認め、核シェルターの整備を急ぐようになる。 ・核シェルターは、現在、換気装置のある新型のものが540万人分整備されており、こ れに旧式のもの100万人分を加えると、全人口の約90%をカバーできることになる。 ・スイスでは、自分の属する共同体のことは、自ら治め、自ら守り、そして、相互に扶助 し合うという精神が徹底していて、それが民間防衛を根底で支えている。 そうした共同体精神は、残念ながら、現在の日本には、まことに希薄なものであり、ス イスの民間防衛のあり様を調べていくと、いやでもそのことに気づかされることになる。 ・さらに、日本とスイスでは、「有事」というものに対する考え方にかなりの差がある。 日本人にとって有事とは、ある日突然に発生する緊急異例の事態であり、いつもどっぷ りとつかっている平時の平穏を脅かす非日常的な出来事と観念されるのが一派的である。 ・これに対し、スイス人は、今日よくても明日はわからない、有事は平時と隣り合わせで、 いつでもやってくるという思考傾向が強く、民兵制度と民間防衛制度の長い歴史と実践 に裏打ちされて、日常生活のなかで有事に向き合うクセがついている。 ・そして、こうした共同体精神や有事に対する考え方の違いは、そのまま有事法制のあり 様の大きな違いとして如実にあらわれている。 ・日本では、一朝事ある時は、日本国民が全員で国を守るという発想はないから、有事対 応といっても、そこで行動するのは、自衛隊や警察などの公的機関であって、国民は、 それに「協力」するにとどまる。 ・したがって、日本の有事法制においては、有事に対処する公的機関の行動が、協力して くれる国民の権利を侵害しないようにするための諸条件が詳細に規定されることになる 反面、有事対処の要諦である臨機応変の柔軟な措置をどう保証するかは抜け落ちること に成り勝ちである。 ・これに対しスイスでは、民兵の軍事行動であれ、民間防衛活動であれ、それがどのよう なものであるか、常日頃の民兵訓練や民間防衛出動によって体験的にわかっているし、 そもそも、共同体構成員の義務として行うものだというコンセンサスがあるから、有事 法制といっても、それは、そうした国民の「義務」を前提として、連保議会や連邦内閣 の権限をごく包括的かつ確認的に規定すればよいことになる。 ・スイスの民間防衛の場合、その魂は、「自分のことは自分で守る」という自守の精神で ある。 私は、国民の安全を守るという仕組みを作ろうとするのであれば、その国民の側に、ス イスと同様の自守の精神がないと、結局うまくいかないと思う。 自分の安全の確保を、誰かほかの者に任せ、その他者の行為と自己の権利を対置して考 えている限り、どのような制度を作っても、「仏作って魂入れず」に終わるだろう。 ・スイスには自国語というものがない。 他民族が混交し、ドイツ、フランス、イタリアという周辺の大国の言語を公用語として いる。 宗教も独自のものがあるわけではなく、周辺国と同じキリスト教国である。 ・勤勉で有能な人的資源を別にすれば、これといった資源に恵まれず、食糧の多くは輸入 に頼っている。 ちょっと見には、とうの昔に周辺の大国に分割・合流していてもおかしくないように思 える。 ・しかし、それにもかかわらず、この九州より少し小さい国土の国がドイツでもなく、フ ランスでもなく、イタリアでもなく、スイスとしてヨーロッパの歴史のなかに堂々と存 在し続けてきたのには、よほど強烈な自己主張の根拠があったに違いない。 ・とにかく、スイス人は、いつも自分のアイデンティティが何かを探し求めている。 それは、そうすることによって、他と異なる自己の誇りを発見し、それに依拠して自己 の存在を主張することができるからだ。 ・日本は、圧倒的多数の日本人によって構成され、海という天然の要害によって他との隔 絶された「自然に在る民族国家」として存在してきたため、その住民たる日本人は、本 来自分のアイデンティティなど考える必要がなかった。 深き懐 ・スイスは、最近ややその勢いに陰りが出てきたとはいえ、世界に冠たる金融王国である。 スイスの銀行は、その資産管理および運用能力を高く評価され、全世界の25%を運用 しているといわれている。 ・日本などと比べて面白いのは、求人広告である。 スイスの求人広告で、給与を明記しているものなど、まず絶対にお目にかからない。 それは、採用者と応募者が委細面談の上決め、当事者が納得すればよいもので、広告に 麗々しく公示するものではないと考えられているのである。 ・所得税の納税についてもそうである。 個人経営者のみならず、サラリーマンに至るまで、税額は、税務当局との面談によって 決められる。 日本のように一定の給与所得に一定の税率をかけ自動的に税を源泉徴収するなどいうこ とは、スイスではありえない。 ・また、スイス人は一般的にいって、質実剛健で、贅沢は敵という生活態度をとる人が多 いが、金持ちになればなるほど、目立たない質素な生活に徹し、カネについては口が堅 くなるのがスイス流で、自分が金持ちであることをひけらかす人など、いたとすればよ ほぼ変人である。 私の知り合いのスイス婦人に大金持ちといわれる人がいるが、彼女は、いつも地味な黒 のスーツの着たきり雀で一年を通し、贅沢な素振りは一切しなかった。 ・カネにまつわるスイス人の話は、多岐にわたるが、ひとつ定説的にいわれるのは、スイ ス人がカネに吝いというか、厳しいということである。 何せ、山地ばかりで、資源に恵まれず、売れるものといえば、自分の血肉しかなく、傭 兵として他国に出ていって勇猛と勤勉を頼りに財を蓄え、周辺大国の圧力をはねのけな がら、世界有数の富裕国にのし上がった国の人々のことである。甘っちょろい金銭感覚 など出てきようがない。 ・ただ、スイス人はケチなだけかというと、けっしてそうばかりではない。 むしろ、カネに対し一種の潔さを持っており、どのように稼ぎ出した財であれ、人生一 段落したら(典型的には死んだ場合であるが)きれいさっぱり公共に寄付するという気 風があるように思う。それを示すエピソードも数多い。 ・スイスの銀行は、よくも悪くも、スイスを代表する存在である。 スイスの銀行の規模は、大小様々であるが、スイスらしい特徴は、大銀行より規模の小 さいプライベートバンキングのほうに見出すことができる。 ・最近は、日本でも、もったら個人の資産運用に当たるプライベートバンキング部門が注 目されつつあるらしいが、それは、株式会社たる銀行が、株式会社としての有限責任の 範囲内で行う業務であって、スイス伝統のプライベートバンキングとは、その形態、資 産運用の方針などにおいて、まったく異なる。 ・スイスの本来のプライベートバンキングは、資産運用の知識と実績を持つ数名のパート ナーが、いわゆる合資会社を作り、会社の債権に対して、連帯して無限責任を負う形で 長期的に資産運用を行うものである。 ・スイスでは、いわゆる「手に職がある」職人達が、結構高い収入を得て、財産も持って いる。 日本のように教育制度が、大学を頂点に単線的にできていて、例えば大工になるにして も、とにかく大学を出ないと話にならないという雰囲気があるところとは違って、スイ スでは、充実した職業教育制度に乗って技術を磨いておけば、大学は出なくても、大学 卒と比べてすこしも遜色ない社会的スティタスと収入が得られる仕組みになっている。 スイスはひとつの職人天国の趣きがあり、そうしたなかでカネを蓄めた職人達がプライ ベートバンキングのお得意さんになっているのである。 ・スイスに住んでみて実感するのだが、スイス人は、物事を処理するのに、時間をかける ことをまったく厭わないところがあり、それが、スイス人のゆっくりズムを印象づける 結果になっているようだ。 ・スイスの代表的な食べ物といえば、チョコレートにチーズと相場は決まっている。 それに、最近、スイスワインの旨さが知られるようになってきて、スイス代表の一角に 加わる勢いだ。 ・特にチョコレートは、チョコレートといえばスイス、スイスといえばチョコレートを連 想するぐらいダントツのスイスブランドである。 スイスのホテルの泊まるとベッドサイドにさりげなくチョコレートが置かれていて、旅 人は、スイスに到着したことを実感する。 ・食後のデザートとなれば、これはもうチョコレートのオンパレードである。 スイス人自身も無類のチョコレート好きで、街のカフェで、いいオッサンが相好をくず して大きなチョコレートパフェにかぶりついている風景をよく見かける。 ・なにしろひとり当たりの国内年間消費量は9.9キログラム。もちろん世界一で、日本 の消費量の6倍に当たる。 スイス人は、チョコレートを食べまくり、売りまくるだけでなく、チョコレートの製造 技術の革新と品質向上に画期的な貢献をしてきた。 ・スイスのチーズも有名で、評判もよい。 「エメンタール」、「グリュイエール」は世界的に名の通ったチーズだが、その他、 ヨーロッパで最も古いタイプのチーズとされるベルン州原産の「スプリンツ」、「坊主 の頭」という奇妙な名前で知られるジュラ地方の「テート・ド・モアンス」、独特の強 烈な臭いを発するアッペンツェル地方の「アッペンツェラー」なども、チーズ好きには こたえられない名品である。 ・チーズを使ったスイスの料理として最も知られているのは、もちろん「フォンデュ」。 この溶かしたチーズをパンにからめて食べる素朴な鍋料理は、日本でいえばさしずめ 「すき焼き」に当たるであろうか。 スイス人が冬の寒い夜、家族や親しい友人を集めてワイワイガヤガヤと団らんする場合 に欠かせないものになっている。 ・それから、マッターホルン咸・興でツェルマットに行くとよくお目にかかるヴァレー州 の名物料理に「ラクレット」がある。 ラクレットはフランス語の削りとるから来ている名で、火で焙って溶け出したラクレッ トチーズを文字通り削りとり、ジャガイモにからめて食べる。 フォンデュがすこし胃に重いというので、こちらの方を好む人も多い。 ・フォンデュやラクレットによく合う酒となると、当然スイスの白ワインということにな る。 飲んだことのある人はみな賛同してくれると思うが、スイスのワイン、特に白ワインは 本当にうまいものが多い ただ、国外での知名度はいまいちであった。 なにせ、生産量が限られているうえに、スイス人は名うての飲ん兵衛で、ひとり当たり の年間消費量は、約40リットル。 フランスの58リットルには及ばないが、世界第6位という統計があるほどで、造った ワインはあらかた飲んでしまうものだから、なかなか輸出にまわらないのである。 ・スイス人は、他のものなら何でも貿易品にしてしまう名人だが、どうもワインは自分で 飲むものと決めていて、商売の対象に入れていないもののようだ。 ・日本でも、どこのワイン・ショップに行っても、スイスワインを発見することは稀で、 在日スイス人の家に呼ばれでもしない限り、その味に接することは難しかった。 ・スイスの料理は、基本的に郷土料理であり、山家料理であり、家庭料理である。 フォンデュ、ラクレットを除くと、全国区の料理はすくない。みな、多彩な食材を思い 思いに使って、各地域ごとにあるいは各家庭ごとに独自の味を楽しむのがスイス流であ る。 ・さて、スイスを旅するといたるところに緑の牧場が広がっているし、スーパーなどを覗 くと豊富な食材があふれていて、スイスは、牧畜主体の農業国という印象が強いが、実 のところは、農業に従事しる人たちの数は全就業人口の4%台に落ち込んでいる。 食糧自給率は低く、特に野菜類は消費量の60%以上を輸入に頼る。 ・スイスには、スイス語という国語はない。 スイスの国語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語およびロマンシュ語である。 ・スイスで話される言語のうち最大の多数派はドイツ語で、スイスの東部、中部からベル ン州に至る広い地域にわたって「ドイツ語圏」が形成され、人口の約64%がこれを使 う。 ただし、スイス・ドイツ語は、ドイツで話される標準ドイツ語とはかなり違う方言のよ うで、ドイツ人ですら理解に苦しむことがあるらしい。 ・ところで、このような多言語国家に住むスイス人の言語能力については、ひとつの神話 があり、スイス人は語学の天才で、ロマンシュ語はともかく、公用語とするドイツ語、 フランス語、イタリア語はすべて自由に喋ることができると信じられている節がある。 ・たしかに、連邦政府の幹部、ビジネスマン、科学者など一部のエリートの語学水準は驚 くほど高い。 私の知っている連邦政府の役人で、ドイツ語、フランス語、イタリア語に英語の四か国 語はペラペラ、それに加えてスペイン語、ポルトガル語、ラテン語ができて、目下中国 語の勉強が面白くてしかたがないというとんでもないのがいる。 私は、かなり真剣に、「次は日本語をやれ」と勧めたものである。 ・しかし、こうした一部のエリートを除き、ごく普通のスイス人は、別段複数言語を駆 使して日常生活を送っているわけではない。 スイスの言語は「混在」しているのではなく、それぞれの「語圏」をつくって併存して いるわけだから、その語圏のなかにどっぷりつかって生活する限り、その語圏以外の言 葉を使う必要はほとんどない。 ・ふたつの語圏が接するところ、たとえば、フリーブル州やベルン州などでは、たしかに フランス語とドイツ語の両方ができないと不便なこともあろうし、事実こうした地域に バイリンガルが多い。 ・もちろん、多言語国家としてやっていく上で、その国民が少なくとも公用語のバイリン ガルになることが望ましいのは当然のことで、スイスの小学校では、三年ないし四年生 になると、自分の母語と違うもうひとつの公用言語を学ばなければならない仕組みにな っている。 ・しかし、これは必ずしもうまく機能していないようで、識者のなかには、多くのスイス 人は、バイリンガルですらなく、バイリンガルであっても、母語でないほうの語学能力 はじゅうぶんでないと指摘して、語学教育の充実強化を訴える声が聞かれる。 ・外国人の要る風景というのは、もちろん、国によって異なるが、スイスと日本を比べる と、それは、まったく好対照をなすといってよい。 まず、居住する外国人の数が桁違いである。 スイスの外国人の数は2005年3月現在で約147人。総人口のなかに占める割合は 約20%である。 ・このように外国人だらけに見えるスイスの場合でも、スイス人が日本的な感覚でいうと ころの「異人さん」ないし「異邦人」にとりかこまれて暮らしているという意識を持っ ているかというと、だいぶ事情が違う。 ・「ある国民にとって、外国人とは何か」ということを突き詰めて考えだすと、ものすご く難しいことになるのだけれども、アバウトにいって、我々が外国人を見る場合、国籍 が違うということのほかに、文化の違い、特に民族、言語、宗教の違いを意識しながら 見ているのは間違いない。 ・そして、その外国人を見る目は、見る対象となる外国人にどんな人がいるのかというこ ともさることながら、見ている側がどんな文化を持つ人間なのかによって、違ってくる。 ・この点、スイスなどから見ていると、日本語という独特の言語を話し、ほとんどが仏教 か神道の信徒である圧倒的多数の日本民族により構成されている日本という国に住む外 国人というのは、本当に特別な存在だという感を強くする。 ・スイスの場合、たしかに居住外国人は多いが、そのうち約37%は、スイス周辺国、 すなわち、ドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、「リヒテンシュタイン」五国 からの居住者である。 ・これらの人達は、スイスの公用語と同じドイツ語、フランス語、イタリア語を話し、民 族的にも宗教的にもスイス人とあまり変わりはない。 もちろん、国籍が違えば、制度上は、かなり厳格にスイス人とは違う取り扱いを受ける のだが、普通のスイス人から見れば、これらの国の出身者は少なくとも「異人さん」で はない。 ・同じようなことは、実は、我々が西欧ないし北欧と呼んでいる地域の国々から来ている 外国人についても言える。 ・スイスは、これまでのところ欧州連合には加盟せず、ノルウェー、リヒテンシュタイン、 アイスランド三国とともに欧州自由貿易連合(EFTA)を形成している。 ・さて、外国人をどう取り扱うかという外国人対策の観点から見る場合、現在のスイスの 当面する大きな問題は、実は、とりわけ旧ユーゴスラヴィア領から移り住んでくる外国 人に関して生じてきている。 ・かつて、15年ほど前までは、スイスに居住する外国人といえば、その80%近くまで 旧EU・EFTA諸国の出身者であった。 それが、この15年間で様変わりし、旧EU・EFTA諸国出身者の構成比は56%に まで低下。かわりに東欧出身者、なかでもボスニア、ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、 コソヴォといった旧ユーゴスラヴィア領から難民としてやって来たて滞在許可を取得し た人達が急激に伸びている。その数は、なんと居住外国人の4人にひとりは旧ユーゴ系 ということになっている。 ・旧ユーゴ系外国人などが外国人対策上難しいのは、スイス人にとって、民族、言語、宗 教を大きく異にする「異邦人」である上、その固有の文化をスイス国内においても保持 し続けようとする傾向が強く、どうしても文化的な摩擦を生み易いということである。 ・スイスは、帰化に関しては厳しい政策を採っているのに対し、難民の受け入れには伝統 的に寛大な政策をとってきたため、チベットやスリランカなど世界各地からの紛争地か ら難民として入ってきた人達がかなり居住している。 ・しかし、これらの人達は、数的に限られているうえ、スイスの規律に従順に服して生活 しているため、あまりフリクションを起こさない。 ・ただ、旧ユーゴ系の場合、その数が急増し、今や、伝統的にスイス居住外国人の最大多 数派であったイタリア系外国人をしのぐ勢力になると、その異文化に当面したスイス側 に不安といら立ちが生じてくるのは、避けられないことかもしれない。 ・そして、こうしたスイス人の不安感と苛立ちが、極端な形であらわれたのが、国際ニュ ースにもなった2000年3月の「エンメン事件」であった。 ・エンメンは、スイスの中部ルツェルン市のすこし北に位置する人口2万7千人あまりの 中規模都市である。 エンメンでは、従来審査委員会方式で帰化手続きを行っていたが、同市の外国人率が全 国的平均より高い30%に達していたプレッシャーもあって、審査委員会のあり方に市 民の批判が高まり、帰化の決定を市民投票にゆだねる方式をとることになった。 ・そのこと自体は、さして特異なことではないのだが、特異であったのは、2000年3 月に市民投票が行われるに際し、帰化申請者56名の全員について、その学歴、職業、 趣味、収入、納税額などの個人情報を小冊子にまとめ、有権者全員に配布したことであ った。 ・これでは、個人のプライバシーも何もあったものではないが、さらに世上を驚かせたの は、投票の結果、帰化を認められたのは、イタリア系の四家族のみで、旧ユーゴ系など 東欧諸国出身者は、すべて帰化を却下されるという結果が、出たことであった。 ・当然のことながら、これは実質的な民族差別ではないかという議論がマスコミを中心に まきおこり、国際的にも大きく報道されたし、日本にも紹介されたはずなので、ご記憶 の向きもあるだろう。 ・連邦政府及び各州では、外国人居住者の増加をひとつの現実としてとらえ、新たな外国 人対策の策定を急いでいる。 スイスの外国人対策は、決して完璧なものではなく、ぶれもあるし、悩みも抱えている が、感心させられるのは、その対策に基本的な理念がるということである。 ・それは、外国人の統合というコンセプトで、「外国人が出身国の文化を維持発展させて いくことを許容しつつ、民主主義、個人の人権の尊重などスイスの基本的な文化を尊重 することを求めることである。 ・連邦政府は、エンメン事件の反省に立って、外国人三世には出生時に自動的に国籍を与 えることや、市町村レベルの帰化却下決定に対する抗告権の付与など帰化手続きの緩和、 合理化のための法改正作業に着手している。 ・各州レベルでも、外国人統合の施策として、外国人への各種情報提供システムの構築、 多様な言語教育の実施などを打ち出している。 外国人の政治参画も現実のものとなっており、ジュラ州では、州および市町村レベルで 外国人に選挙権を認めているほか、市町村レベルにおいては被選挙権も付与することと し、すでに何人かの外国人市町村議員が誕生している。 ・ただ、こうした統合政策が、何の抵抗もなく進展していくと予想できるほど現状は甘く ない。 一般のスイス国民のなかには、外国人のスイス文化への「同化」を求める声は根強いし、 帰化条件の緩和にも、スイス固有の地域文化保持の観点から反対の意見もある。 ・また、外国人犯罪の増加による治安の悪化と結びつけて、より厳しい外国人対策を求め る声も出てきている。 ・いずれにせよ、難民を含め外国人の存在は、人々の日々の生活のなかで実感されるもの であるから、エモーショナルな要素が入り込んでくるのは避けられない面があり、外国 人の対策も、そのことを無視して理念に走っても実効性は期し難い。 ・この点、スイスは、厳しい現実に直面しながらも、忍耐強い外国人政策を模索してきた。 厳格な奇貨制度の維持や難民の寛容な受け入れといったスイスの伝統は、試練を受けて いるが、なんとかその根幹はゆるがずにいる。 そして、スイスの外国人対策の真骨頂である「統合」を進めることにより、国際的に開 かれた社会の構築を目指すという基本指針に変わりはない。 ・今日においても、スイスの産業界にとって、外国人はなくてはならない存在になってお り、スイス企業労働者の4分の1は外国人である。 スイスも他の先進国同様高齢化が進み、2025年には65歳以上の人口が全人口の 40%を超えると予想されているから、若い労働力を提供してくれる外国人労働力の需 要は、さらに増えるだろう。 ・単純労働だけでなく、企業幹部にも外国人は多い。 同族支配の弊害が指摘される企業もあるが、企業役員の半数以上はスイス人でなければ ならないという規則のなかでめいっぱい外国人役員をやとって、国際競争に打ち勝って いる企業も多い。 ・知的職業人の典型である大学教授を見ると、外国人依存度はさらにはっきりする。 スイスの州立大学の教授の3分の1以上は外国人である。 チューリッヒ連邦工科大学にいたっては、外国人教授の比率は50%に達する。 こうしたことは、ちょっと他国に類例を見ない。 ・翻って、日本の状況を見るとどうだろう。 日本とスイスは外国人に関する事情がまったく異なるけれども、国際化が進むにつれ、 また少子高齢化が進むにつれ、スイスと同じように外国人労働力の導入は不可避になっ てくると思われ、しっかりとした理念に基づいた総合的な外国人対策を策定しておかな いと、臍をかむことになる。 ・その点、今の日本の対応は、すべてに中途半端であるように思う。 スイスで言うところの外国人統合のコンセプトが確立していないため、外国人労働者と いうと単純労働者をどうするかという問題だけが突出して議論され、知的労働者を含め たひとつの文化としての外国人の存在をどう受け入れるかという発想にとぼしい。 半面、迅速で断固とした対応が必要な不法滞在外国人対策には、行政全体として力が入 っているとはいい難い。 ・「有島武郎」が、ティルダ・ヘックというスイス女性と16年間にわたり書簡を交換し ていたという事実は、知る人ぞ知るところだ。 二人の愛と友情の物語は、感動的であるし、なにより、ティルダの生涯を通じた日本へ の深い情愛は、永く我々の記憶にとどめられてかるべきものと思う。 ・しかし、往時茫々、ふたりの事蹟は、一部の人をお添いて、人々の記憶から消え去ろう としている。 ・有島武郎が、3年間のアメリカ留学を終え、弟の生馬とスイス各地を歴訪したのは、 1906年(明治39年)11月のことである。 ふたりは、ローザンヌから、ジュネーヴ、ベルン、ルツェルンと廻って、シャフハウゼ ンに入った。 そして、ここで、有島は、宿泊先のホテル・シュヴァーネン(白鳥ホテル)の娘ティル ダ・ヘックと運命的な出会いをする。 ・当時、有島28歳、ティルダ29歳。 聡明で芸術的才能にも恵まれた彼女は、一時、舞台女優を志ざしたこともあったらしく、 歌も得意で、有島兄弟が、シャフハウゼンに着いた夜も、歓迎の一曲を歌った。 有島の日記には、「ホテルの娘ティルダ、スイスの野歌を歌う」と記されている。 ・そうしたティルダに、有島は、次第に好意を寄せていくわけだが、シャフハウゼン滞在 中は、皆と楽しい時を過ごしても、ふたりきりで話し合う折は、どうも、なかったよう である。 それが、シャフハウゼンからチューリッヒに出て、汽車でミュンヘンに向かうという最 後の夜に、ふたりは、月明のチューリッヒ湖畔を散策する機会を持つ。 そして、その時、撃壤に駆られた有島は、思わずティルダの手を握ろうとするのだが、 ティルダの拒絶にあったらしい。 ・傷心のまま汽車に乗った有島は、この時の心境を「この夜武郎の頭乱るること甚だし。 車中に呻吟殆ど一睡をなさず。まいりたる気味なり」と綴っている。 ・有島のティルダ宛の書簡は、この悲劇的な別れの翌日、ミュンヘンから出された絵はが きに始まる。 ・最初のころのものは、いささか取り乱したところがあり、そんじょそこらのラブレター めいて、いただけないが、ティルダに、自分には婚約者がいるということを打ち明けら れてからは、毅然として、心の平静を取り戻す。 そして、ティルダの婚約を祝福し、それにもかかわらず、変わらぬ固い友情を続けてい きたいと願っている。 ・ふたりは一別以来、二度とあい見えることはなかったが、両者の文通は、爾後、有島が 軽井沢で波多野秋子と心中死を遂げる年の前年の1922年まで16年間にわたって続 いた。 ・ティルダは、その後、婚約を解消し、生涯独身を通すことになるのだが、婚約解消を知 った有島は、懇篤な慰藉の言葉を送っているし、自分の結婚と妻の死についても、率直 な報告をしている。 ・私がティルダについて、すばらしいと思うのは、有島との16年間にわたる交友もさる ことながら、彼女が生涯持ち続けた日本に対する深い愛情についてである。 ティルダが、大事に保管していた「客人帳」を見ると、彼女が、有島の死後も、いかに 温かく心を込めて、ホテル・シュヴァーネンを訪れる多くの日本人に接していたかが、 よくわかる。 それは、ホテルの主人と客との通常の関係をはるかに超える細やかなものであった。 ・ティルダは、有島の死後14年経った1937年、有島家の招きで来日している。 ・こうして、ティルダは、有嶋武郎との思い出を大切にし、日本と日本人を愛し続け、 1970年、93歳で、その生涯を閉じた。 今、彼女の事蹟をたどると、ティルダ・ヘックは、単に有島武郎の友であっただけでな く、文字通り「日本人の友」であったとの感が強い。 しかし、その死後30年余を経た今日、ティルダと有島の交友のことはもちろん、ティ ルダが寄せた日本への限りない愛情のことを、知る者は、まことに少ない。 ・スイスに在留した日本人でもっとも著名な人物といえば「新渡戸稲造」であろう。 彼は、1920年から7年間、国際連盟の初代事務局次長をつとめ、ジュネーヴに住ん でいる。 ・また、古くは日露戦争の際の満州軍総司令官、「大山巌」が1882年から約1年間ジ ュネーヴに留学している。 ・これは、他にも同じことがいえる国があるかもしれないが、スイス在留邦人のひとつの 特色は、永住者のうちに占める女性の割合が約70%と大変に高く、かつその大多数は、 スイス人男性と結婚した日本人女性であるということである。 ・スイスと日本は遠く離れた国なのに、どうしてスイス人男性と結婚する日本人女性が多 いのか不思議に思うが、その出会いの場所については面白い話が合って、それは、英語 の語学校だということである。 ・ロンドンやニューヨークなどにある語学学校には世界中から多くの若者が英語の勉強に 集まってくる。 学生達は、学期が始まってしばらくの間は、皆、真面目に授業に通ってくるが、慣れて くると、ひとり抜けふたり抜けてだんだん授業をサボるのが多くなる。 ところが、スイス人の男性と日本人の女性はまことに真面目で、楽器の最後までキチン と授業に出てくるものだから、自然一緒にいる時間が長くなり、そのうちに恋が芽生え、 ついには、結婚にゴールインすることになるというわけだ。 ・いずれにせよ、スイス人男性と日本人女性の相性がいいのは確かなようだ。 それにしても、女性がひとり異国に移り住んで、生活を始めるというのは大変なことで ある。 異国に住むには、その国の社会や文化にどっぷりとつかり、しっかりと馴染まないとや っていけない。 ・今では、国際結婚など当たり前だし、この国際化の時代、文化の差は縮まっているとい えば、それはそうかもしれないが、私などのようにわずか数年で帰国することを前提に し、しかも大使などという特別待遇を受けながら生活してきたものでも、時に異文化の 壁にぶつかり往生したことがある。 ・まして、一市井人として永住するとなれば、愛する家族と共有する喜びや幸せがあるに しても、言うに言えない悩みや苦しみがあるであろう。 子育てひとつとっても、スイスと日本では文化の違いがある。 「悪いことをしたらあやまる」「人に乱暴はしない」といった「人の和」を重んじた日 本的な子育てと、男の子の乱暴は、危険にならない限り放っておいて、そこでどのよう に自分の身を護るか、どう妥協して状況を打開するかを子供たち自身に学ばせるという スイス流の子育ての差がある。 あとがき ・スイスは、人口の規模からして、日本とは全然違う。 憲法感覚もまるっり違って、スイスは年中行事のように、憲法改正を行う国である。 相違点を探せばいくらでもある。 しかし、しばらく住んでみると、相違点はもちろんあるけれども、驚くほど似かよった 点も多いことに気がついた。 ・両者とも、天然資源に乏しく、頼れるのは、勤勉で有能な人的資源だけということは、 よく指摘されるし、レベルの高い人的資源を生かし、最近は特に科学技術立国に力を入 れているのも似ている。 ・また、私のように長年、治安の維持という仕事に携わってきた者から見ると、スイスが 伝統的には大変治安のよい国である点も日本と似ているし、さらにいえば、その良好な 治安が最近外国人犯罪の急増で脅威にさらされ危うくなっているというところまで、日 本とそっくりである。 ・スイスの歴史を振り返るとき、最も興味深いのは、この国が、フランスでもドイツでも イタリアでもなく、スイスであり続ける原動力になっているものは何か、いいかえれば、 スイスをスイスたらしめているものは何かということである。 人によって、中立主義とか、連邦主義をあげる人もいるだろうし、見方は違うのであろ うが、私は、やはり、それは、スイスが建国以来堅持してきた直接民主制であり、それ を根底で支える強固な共同体意識であると思っている。 ・ただ、こうしたものへのスイス人のこだわりは、ともすると閉鎖的な地域主義に結びつ きやすく、スイス人が隣国の人々から、「他国の人を内に入れようとしない仲間意識」 を指摘されたり、「わかりにくい人達」と評されたりする原因を作っているようだ。 ・しかし、スイス人にはもうひとつの顔がある。 現在の スイスは、ネスレなど国際競争力どの巨大多国企業のほか、高い収益性を誇る 企業を多く擁し、国際社会のなかで独自の地歩を築いているが、その担い手としてのス イス人には、進取の気象に富んだ国際人が多いのである。 ・そして、私がスイスで実見したのは、スイス伝統の地域主義とビジネスをリードする国 際主義の両立と調和を図ろうとする苦心するスイス人の姿であった。 ・そして、その姿は、そのまま現在の日本人の姿に重なるのである。 日本も有史このかた第二次世界大戦後の一時期を除き、外敵の侵攻を受けることなく、 独自の歴史と文化を切れることなく継承してきた。 ・終身雇用制とか、年功序列賃金制などは、それ自体は、別に日本古来のシステムではな いのであろうが、日本人が伝統的に有する精神や気質に最もピッタリくるものとして定 着し、戦後の奇蹟的な復興を成し遂げた企業活動の原動力になったことは間違いない。 ・しかし、それが今国際化の大波を受けて、日本の国際競争力を阻害するものとして、大 幅な変更を迫られている。 ・日本の伝統的なシステムの良さを可能な限る残しながら、厳しい国際競争に耐え抜く力 をどうつけるか、それが現在の日本の課題であるとするならば、それはスイスの当面す る課題と同種のものであるといってよい。 スイスが課題解決のためにしている様々な努力は、日本の明日の課題を考えるとき、大 いに参考になる。 |