創造的遊び人間のすすめ  :藤井康男

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この本は、今から40年近く前の1981年頃に出版されたものである。この頃の日本は、
丁度バブル経済が始まった頃ではなかろうか。世の中全体がその豊かさを実感し始め、浮
かれ始めた時期とも言えるかもしれない。今の時代から見れば、うらやましい時代であっ
たと言えるのではないか。そんな時代背景もあって、当時はこんな「遊び」に関した本も
多く出版されたようである。
筆者は製薬会社「龍角散」の創業家に生まれた人物であり、その会社の社長をはじめ大学
助教授などを歴任したようである。プラモデルの収集やレコードの収集など、趣味も多く、
また分筆家としても活躍したようだ。まさに日本の良き時代の恵まれた人物を代表するよ
うな人生を歩んだ人物だったように感じる。ただ、筆者の跡を継いで「龍角散」の社長と
なった息子さんによれば、筆者は「典型的なぼんぼん」であり、ほとんど会社に寄り付か
ず古参役員に経営を任せきりの放漫経営だったという。そのため筆者の息子さんが社長に
なった時には倒産寸前であった、と言われている。
これはなにも、一つの会社の例ばかりではなく、当時の日本は、多くの人々の気持ちにゆ
とりがあった時代であったのだろう。日本の経済成長が永遠に続くとの幻想のもとに、い
かに遊ぶか、とにかく遊ばなければいけないと苦心していた。「レジャー」とか「余暇開
発」とかの言葉が巷にあふれ、まさに「昭和元禄」の時代でもあったような気がする。当
時は、その後にやってくる「失われた30年」とも言われる大不況の時代など、だれも想
像しえなかったのであろう。

筆者は性に関しても、独自の理論を熱心に展開している。おそらく筆者は、その方面でも
かなりの遊びの経験が豊富だったのだろうと推察する。「うぶな男は決して若い女性と接
してはならない」という話は、当時、「成田離婚」というのが話題になった時代であった。
新婚カップルが、新婚旅行で海外に行った帰りの成田国際空港で、即離婚というケースが
多発した。その背景には、新婚旅行先において、性知識豊富な花嫁が、性的にうぶな新郎
に呆れ果て、三行半を突きつけたのだと言われていた。当時は、マスコミに話題をにぎわ
したが、現在は、そういうケースは少なくなったのだろうか。
筆者の性に関する主張の中には、現代においては、批判が集中しそうな内容も多いのでは
とも思えるが、しかし、現在のような少子化問題の核心を衝いているような部分もあるの
ではないかと思える。古い人間の考えだと、簡単に退けるのは惜しい気がする。

この本の内容で、とくに共感するのは、「日本人は価値観が似かよっている。そのため、
日本では価値観の差によって作られる人間社会の多様化という現象が起こらない」「日本
の社会では、違うことを許さないような社会的圧力がある」という内容だ。これはつまり、
日本の人間社会は「世間」によって支配されているということなのだろう。ここに現在の
日本の発展が停滞したままであることの本質的な問題があるように思える。同じものを大
量生産する時代には、その日本社会の特性がとてもプラスに作用したのであろうが、今の
時代は、そういう大量生産という役割は、他の国が担っている。日本はもっと、高付加価
値を生み出さなければならない立場に立たされているが、みんなで同じでないと安心でき
ないという日本人社会はそれが苦手な社会なのだ。

しかし、この本が出版された当時に、巷にあふれていた「余暇」という言葉は、今の時代
はほとんど死語になっているような気がする。今の時代は、定年になっても「余暇」など
と言ってはいられない時代になった。「今日より明日は貧しくなる」ということを、否が
応でも実感させられる時代となった。長生きすることがリスクとなる時代となった。「余
暇」をどうしたらいいかなどと悩む暇があったら「老骨にムチ打って働け」と公然と言わ
れる時代となった。
高度成長期のあの時代に、この国がもう少し、その時に蓄えた「豊」を、もっとマシなこ
とに使っていたら、今のような借金だらけの国にはならなかったはずだと思うのは、私だ
けだろうか。

はじめに
・昔から「仕事」はつらいもので、やらねばならぬ事。「遊び」は楽しいが、ぜひ必要な
 ものではない。ゴルフ大流行の世の中だが、あまり好きでも上手でもないのに無理して
 つきあっている人が結構いる。よそ目には苦しそうだが、喜んで仕事をしている人もい
 る。中には遊びか仕事かわからないものもある。
・現代は「遊び」が必要悪どころか人生に不可欠であり、場合によっては仕事以上に重要
 であり、遊べない人間は脱落者になりかねない風潮になりつつある。一つには豊かにな
 り過ぎ、一つには長寿になり過ぎ、その両方共があまりにも急激にやってきたからであ
 る。
・しかし本当の「遊び」は実は「仕事」なんかよりずっとむずかしい。そして本当に上手
 に遊べないような創造性や活動力や好奇心の欠如した人間に、現代のほとんどの仕事は
 向かないのである。
・遊びというものは結構むずかしい。遊び方、遊ばせ方のうまい子供と下手な子供がいた。
 当然上手な方は大将になり下手な方はひとにくっついていることになる。遊びが上手で
 ケンカが強ければ、これはガキ大将ということになる。昔なつかしいガキ大将は子供の
 世界のリーダーで親からも先生からも習わないことをみんなに教える教師の役も兼ねて
 いた。
・大人になってからも盛大に遊び続ける永遠の子供のような人物が時々出現する。レオナ
 ルド・だ・ヴィンチ、エヂソン、平賀源内、また現代では本田宗一郎・・・。そういっ
 た大物でなくても見まわすと大人になってからも面白がって実にいろんな事に手を出す
 人が必ずどこにでもいる。そういう人達にとっては仕事も遊びの一種ではないかと思え
 るほど楽しそうに仕事をする。
・「遊び」は頭の悪い人にはできない。気持ちにゆとりがなくてはだめである。創意工夫
 と創造性の伴わない「遊び」は人間の「遊び」とは言えない。貧しい生活で食うのに追
 われていてはできない。生命力にあふれ、健康でなければ「遊び」を本当に楽しめない。
 「遊び」は人間であることのあかしでもある。本当に遊びを楽しむには魅力的な人柄と
 豊かな知識とさかんな実行力と、時には強力なリーダーシップを必要とする。反対に
 「遊び」の下手な人は、智力・体力共に余裕がなく、創造性に欠け、気持ちにゆとりが
 なく、人間的魅力がない。人生そのものに対して積極性に欠け、すべてお座なりで生気
 がない。人生の楽しさを知らないのだから、変に意地悪で嫉妬深くつきあいにくい。
・今の子供は可愛そうだ。本当の遊びを知らず大人になってしまう。勉強に明け暮れ、成
 績の上下に一喜一憂するようなことだけで、もっとも感受性の強い夢多い、言い換えれ
 ばみのりの多い筈の貴重な成長期を全く無駄にしてしまうのだから、父母の責任たるや
 重い。現行の教育制度の罪もあるが、自分の道をえらべない子供もそれを助けてやれな
 い教師も親もすべて問題である。子供の時思いっきり遊べなかった人間は確実に欠陥人
 間になる。せめて大人になって思い通り遊びをしようと思っても、子供の頃の新鮮であ
 った好奇心や感動が薄れてしまい無心に楽しむことができなくなって、世間なみの大人
 の遊びしか興味を持てなくなってしまっている。ここでいう大人の遊びとは遊びの種類
 を言うのではない。遊ぶ時の心、遊ぶ態度をいうのである。子供は無心に遊ぶ。しかし
 大人の遊びには雑念が入る。
・純粋に遊びに徹することこそ「遊び」のもつ本来の意味がすべて生きてくる唯一の方法で
 ある。現代の社会で行われている遊びの多くが悪い意味での大人の遊びになってしまっ
 ている。その証拠は「遊び」につきものの言いわけである。接待に必要だとか、取引にた
 めだとか顔を売るためだとか、なぜことわらなければならないのか。それは本来日本人が
 持っている「遊び」の罪悪感のせいもあるだろう。しかし、もし自分の妻とセックスをす
 ることが子孫繁栄のためだとか、りっぱな子供をつくるためだとか、いちいちいいわけを
 する人がいたら感心されるより笑われるだろう。
 
「遊び」とは何だ?
・”遊ぶ”というと、日本人はだいたいあまりいい意味には使わない。”遊び人”とか、
 ”遊び半分”とか”遊び惚ける”とか・・・。とにかく日本は儒教の影響が非常に強か
 ったので、遊ぶとか、余計なことをするとかということに対して”いいことやない”と
 いう考え方が強かった。
・ろ日本人の先祖は、一万年も昔にすでに不完全ながら土器を作っていた。この縄文土器は
 専門家の説によると、人類最古に属する土器であるという。当時は、ろくろもないし、土
 器を焼くかまどもない。ひねりという不完全なやり方で器を作り、薪を積んだその中で焼
 いたというような非常に原始的な焼き物である。だから生焼けで、もろいし、非常にこわ
 れやすかった。
・縄文時代、つまり一万年も昔というのは、発掘された骨の調査によると、当時の平均寿
 命は十七歳前後である、と推定されている。そして縄文土器を作ったのは、縄文人の中
 の女性であることが確認されている。十七歳位までしか生きられなかった古代女性が、
 生活用具のために作った土器に、何の理由であのようなすばらしい芸術的表現をやった
 のか、それは、まさに”謎”である。
・日本文学研究者のドナルド・キーンさんが、縄文土器について、おもしろい論文を書い
 ている。「世界の芸術を並べると、左右対称でない美は、左右対称の美よりも進歩した
 美である」というのだ。古い時代には人間は左右対称でないと落ち着かなかった。ヨー
 ロッパでは、有名な庭園、お城、建物がすべて左右対称に厳しく仕上げられた。中でも
 有名なのがベルサイユ宮殿で、まさに左と右が折り返したように見事になっている。ま
 た、東京駅の原型になったアムステルダム中央駅も、東京駅がまさにそうであるように  
 左右に小さな塔を配し、真ん中に大きな塔を配するというまことに見事な左右対称性を
 誇っている。
・ところが、わが日本では、驚いたことに対称の美というものは、むしろないといってい
 い。桂離宮を出すまでもなく、お茶やお花を持ち出すまでもない。とにかく日本人は、
 何だかよくわからないが、変わった枝ぶりの松だとか、右と左がちょっと不揃いな模様
 を見て喜んでいたらしい。そして、その美の原型が縄文土器にすでに表れていることを
 ドナルド・キーンさんが指摘している。
・縄文土器の模様が表れた最初のきっかけ、これは想像でしかないが、おそらく粘土をこ
 ねている女性が、ある時、その粘土のすべすべの素肌を見ていて、何か空虚な物足りな
 い気持ちを持ったのだと思う。
・当時の人間はギリギリの状態で生きていたのである。だから十七歳になると、ほとんど
 生きている人がいない。病気にかかれば、まず100%助からなかったし、獣に襲われ
 ることもある。天変地異によっても殺される。今の世の中から考えると、想像もできな
 いようなひどい状態であった。そんな生活の中で、ある女性がこの縄文土器の素肌を見
 て、何かそこにつけてみたくなった。
・発掘していく時に、普通の状態だと、上の方は時代が新しく、下の方は古い。地震や地
 滑りで上下が転倒しない限り、この原則は崩れない。縄文土器のすばらしい模様が、あ
 る地方一帯で見つかると、掘り進むにしたがってその模様がどんどん縮まって、最後に
 あるところで消滅するのだという。
・おそらく十七歳に達しない縄文の乙女がこしらえてものが、周囲の人の賛嘆を得て”あ
 の人の模様を習ってこよう”とか”まねをしよう”という意識が、文明と呼ばれないよ
 うな中で生活していた人間にあったという事実、さらに言えばファッションというのが
 一万年も前にあったという事実、これはまことに驚嘆に値することではないかと思う。
・つまり縄文土器に模様を彫ったり、それをまねたり、流行させたりということは、生活
 とは関係ないし、遊びの原型である。この縄文土器の取っ手のつけ方、あるいは土器の
 形のつくり方にドナルド・キーンさんに言わせると、左右不対称を意識的に造り出して
 いた事実があるという。
・古代の農業は普通の場合、焼き畑農業といって密林を焼き払う。最初の一年は、その灰
 の肥料によって穀物ができるが、二年目にはあまりできがよくなくなるので、次々に密
 林を焼き払って、奥へ奥へと進んでいく。
・自然破壊ということが現在、声高に叫ばれているが、すでに自然破壊は有史以前から行
 われていたわけである。むしろ自然破壊は、現在よりも激しかったと思われる。古代人
 は、木を焼いて、その跡に木を植えるなどという知識は持っていなかった。アメリカの
 ある地帯では、崖の下に何万という野牛の骨の群積しているのが発見された。それなど
 は、おそらく多勢の古代人が狩りをして、最後に野牛の大群を追い詰めて、崖から追い
 落として食べられるだけ食べて、あとは放って置いた白骨だと思われる。とにかく自然
 破壊というのをやらないと、人間は生きていけなかったわけである。
・遊びというと、日本人は楽なもの、いい加減なもの、苦労のいらないもの、と受け取る
 傾向があるが、実は、遊びとはこの世で一番むずかしいものかもしれない。
・ゲームの専門家の研究によると、最近、コンピュータゲームが非常に発達して、たくさ
 んの種類が出ているが、現在まで、人類はマージャン以上の奥行きが深く広がっている
 興味あるゲームをつくり出していないという。もちろん深みの点では囲碁とかチェスな
 ども比較できるかもしれない。が、その色合いの多彩さ、あるいは広がりの無限さ、変
 化の絶妙さにおいては、マージャンに勝るものはない。その証拠に、マージャンにはい
 ろいろな打ち方があって、ルールがどんどん変わる。国によって、人によって、職業に
 よって、どんどん変わる。これはまた、ちょっと説明を聞くと新しいルールにすっと入
 っていけるというのがマージャンのおもしろさでもある。
・確かに、マージャンには賭博性もあるが、庶民のゲームの中で、あれほど知的に頭を訓
 練させる遊びは、ちょっとない。これからの老齢社会で、老人のぼけを防止するのに、
 マージャンはまず一番有効な武器の一つになるのではないかとさえ思う。
・頭は使えば使うほどぼけないとか、頭の血の巡りがよくなるという説がある。これは事
 実で、ある人々は年をとってもぼけないし、脳溢血でも死なない。その人々とはプロ棋
 士である。おそらくマージャンも徹底的にやって、それをマスターした人というのは、
 頭の動かし方が普通の人よりも抜群にスムーズであると思う。
・スポーツでも同じである。テニスでもゴルフでも野球でも、そのスポーツの醍醐味を本
 当に楽しもうとすると、そこに達するまでには、激しい訓練と大変な苦しみが必要とな
 る。
・とにかく、最近の世の中の欠点は、簡単に飛びつけるものには誰でもとびつくが、ちょ
 っとでもとびつきにくいものは敬遠して避けてしまう。そのために、非常に奥底の深い、
 一生楽しんでいけるたくさんの面白い遊びを多くの人が取り逃がしていると思う。
・昔から”よく学び、よく遊び”と言う。この学ぶことと遊ぶことは、つまるところ、ど
 っちがどっちともつかないほど、最後には一緒になってしまう。

遊びの人類学
・遊びというと、当然、人間のセックスを避けるわけにはいかない。難しいが、やかり無
 視しては通れないので、取り組むことにする。そもそも生物の性行為とは、本能の一つ
 である。本能はまことによくできていて、神様がつくったとしか思えないほど自然の条
 理に合っている。つまり、動物が本能をもっていなかったら、ある季節になって、雄が
 雌を追いかけなくなったら、子孫を増やすことができなくなり、その種は絶滅してしま
 う。
・また、ある場合には、雄は優秀な種を残すために、雄同士が命を賭けてせり合いをする。
 蜜蜂などはとくに有名である。そして、生き残った雄が種を残すように、常に自分の種
 が強くなるように行動する。というように、動物の世界では、性行動は本能としての行
 動である。しかし、人間はこのセックスという行動にも遊びと楽しみの要素を持ち込ん
 でいる。
・いかなる動物もセックスの時には、雄と雌が一定の体位をとってからみつくわけである
 が、人間のように喜々として、その行為に陶酔してやっている感じがしない。動物は、
 何かわからない衝動にかりたてられて、無我夢中でセックスをやり、終わるとケロリと
 忘れてしまう。人間のセックスにある複雑な感情や精神の行動が伴っていないように思
 う。
・今、世の中を見渡すと、セックスの処理については実に無数のシステムが用意されてい
 る。現実には、昔以上に自由にセックスを売買することができる。百花繚乱の観がする
 中で、セックス産業は花盛りである。どうも、人間は、他の動物と違ってセックスとい
 う行為を”特別な遊び”に仕上げてしまったとも思われる。
・文学作品のみならず絵画、彫刻には、古代から現代に至るまでセックスの表現を取り入
 れた作品が無数にある。ロダンの彫刻をはじめ、ルーブル博物館に並んでいる名画の中
 でも、あきらかに性行為を暗示させるものが無数にある。
・日本の浮世絵は、その最たるものである。浮世絵は現在、海外に大量に流出してしまっ
 た。世界に類例のない”奇妙な芸術”だというわけで、海外で非常な関心を集めている。
・日本人がパリの共同便所などで小便をすると、その横から失礼なフランス人がのぞき込
 むことがある。フランス人の一部は、浮世絵に出てくる日本人と同じように、我々の一
 物が、彼らの数倍の大きさであると信じているらしいのだ。男性の一物をあれほど巨大
 に描いた芸術は世界に見当たらない。
・男女の性行為の体位を描くということは、絵画きの修業の中では必ずやらなくてはなら
 ない修業らしい。日本の絵画きも、調べてみればわかるが、女性も含めてすべてそうし
 た種類の絵を残している。やはり、性行為の中には人間の美意識の極限があるからこそ、
 それを描かなければならなかったのだと思う。つまり、人間は動物と違って、性行為そ
 のものに美を感じることができるところまで行ってしまった。そして、性というものが、
 生物の増殖とか繁殖とかを離れて、その行為そのものの快楽を追究するところまで来て
 しまった。
・性行為は、その行為そのものはやはり自分の感覚を追求し、快楽を追求する行為である
 ことに相違ない。が、奇妙なことに、世界の性に関する名著といわれる本を並べて調べ
 てみると、性行為のクライマックスは、すべて「相手をいかに喜ばすか」というところ
 にある。こう考えると、現在のセックス産業の限界は、一方的にお客である男性を楽し
 ませる、楽しんだかのごとき錯覚を与えるという点である。実際の性行為そのものは、
 ある図式になっていて内実がないといっていい。
・男性は、自分の献身的な行動で、相手の女性をどのくらい喜ばせられるか、どれほど生
 命の極限を味わったかを感じて、自分の喜びとする。これが、人類が長い歴史の末に達
 した”性の芸術”の極限と思われる。
・最初の性行為の時の屈辱は、男の一生をダメにしてしまう。結婚して、新婚旅行の晩に、
 花嫁さんから「あなたって下手ね」と言われたために、一生性行為が不能になってしま
 った例がある。それほど男は単純で無邪気で簡単なものかもしれない。だから、最初の
 晩に、大変な自信をもってのぞむということは、成功率が高く、その後の結婚生活もう
 まくいくといえるわけである。
・が、最近は女性の方が週刊誌の読み過ぎなどで、ものすごく知識をつけて好奇心の固ま
 りでうぶな男性を受け入れるわけだから、悲劇が起きない方がおかしい。
・うぶな男は決して若い女と接してはいけない。経験豊かな年増によってセックスの扉を
 開くべきである。そして、成熟した男は、次に若い娘の花を開かせるべきだ。そして、
 その若い娘が年をとったら今度はメンバーチェンジをして、若い男のリードをすべきで
 ある。
・もし赤線が今後、永遠に許されない、若い人のセックスのリードを女性がやれないとい
 う世の中が続くのであれば、私は人生二度結婚説は検討するに価値のある方法ではない
 かと思う。
・セックスのテーマは”相手をどれだけ喜ばせられるか”ということである。ところが、
 最近は、どれほど自分がセックスで満足するかということにすりかえられてしまった。
 次元が一段も二段も落ちてしまったのがセックスの現状なのである。
・遊びとは、「相手がどのくらい楽しんでくれるか」、「どれくらい喜んでくれるか」を
 我が喜びにできるかに尽きる。だから、セックスも人間がつくり出した遊びなら、相手
 を喜ばせることを楽しみと考えていた昔の方が、性意識は高かったといえるのではない
 か。
・セックスに自信を持った男は、仕事でも必ずいいことをやる。ところが、セックスに自
 信を失った男は、仕事の上でも決していいことはやらない。男は、この世の中で生きて
 いくために、セックスは不可欠である。だから、セックスは遊びだとか、セックスは結
 婚だけの問題だといったのでは大間違いなのだ。
・今の世の中、いろいろなことが起きる。この原因は、セックスに自信を失った男性が非
 常に多いからだと思う。
・動物は、生まれた時は子どもであり、成熟をし、性行為によって子孫を残し、そして老
 化して死ぬ。この順番は変えられない。その順番のどの一つを抜いても、順番を間違え
 ても生物はフラストレーションを起こして、集団自殺したり、狂暴化したり、理屈に合
 わない行動をする。人間も例外ではない。やはり、不自然な行動を強制する社会制度に
 は問題があると思う。
・日本の古代社会には、暗闇祭りとか夜這い、若衆宿という非常に賢明な性教育、セック
 スの処理があり、見事に制度化されていた。現在のような文明社会になると、それがき
 れいに整合されたごとく見えるが、問題を山のように残してしまった。古代社会のセッ
 クスは、現代社会と比較すると、はるかにおおらかで遊びの要素が多く、しかも、相手
 を楽しませようとした点を考えると、現代よりも性意識は高かったといえるのかもしれ
 ない。
・遊びの中で、強調しておきたいことがある。それは耐えること、”禁欲の楽しみ”であ
 る。楽しみを追いかける一方で、楽しみを先に延ばす。楽しみを自ら禁じ、我慢するこ
 とがなければ本当の楽しみは得られない。つまり、古来、快楽を追究する人間は、例外
 なく非常な禁欲家であった。現代は、快楽の追究が中途半端なせいもあるが、禁欲がほ
 とんど人間の行動の条件として上げられなかった。何でもやりたい時にはやっていい。
 我慢は必要ない。これでは、本当の楽しみは得られないし、その楽しみを大きく増幅す
 ることもできない。禁欲そのものは苦痛かもしれないが、その苦痛を通り抜けた時、人
 間の感覚は一つのものに対して、期待される以上の感度を示すという生理作用がある。
 だとすると、子供に禁欲を教えるのは、親としての義務ではないかと思う。
・人間があるものを獲得するためにどれだけの苦労をしたか、ということは、その獲得し
 たものの値打ちに関係している。簡単に手に入ったものと、死ぬ苦しみで手に入れたも
 のの価値は、天と地ほども違うものだ。 
・禁欲の必要もなく簡単に手に入ったものには喜びが湧いてこないのは当然であろう。禁
 欲は、字面を読むと大変にストイックで難しいように聞こえるが、その裏には大きな快
 楽がひそんでいる。その事実をしっかりと考えないと、現代文明は深みがなくなってし
 まう。
・苦痛と快楽は、窮極のところへ行くと区別のつかないものになる。快楽は苦痛とは常に
 紙一重で、人間は苦痛を快楽に転嫁してしまうという才能をもっている。
・人間には大別して、自分を傷つけたいという潜在意識と、他人を傷つけて喜びたいとい
 う潜在意識が共存しているのだ。他の動物には決して見られない人間だけがもつ感覚と
 いっていい。人間を描く小説の世界には、それがはっきりと出ている。サディズムとマ
 ゾヒズムの二つの系譜である。
・一つの系譜は、女性でもここまでは書けないというほどの女性の心理の奥底まで立ち入
 って、女性を切りきざみ、その本質を露骨に表現した小説である。作者は女性に対して
 潜在的にサディズムの嗜好をもっている。モーパサン、永井荷風、芥川龍之介、三島由
 紀夫等がこうした系譜に入り、非業の死を遂げる作家が多い。
・もう一つの系譜は、女性を崇め奉り、まるで女神にひざまずくような小説である。いわ
 ばマゾヒスティックな小説である。スタンダール、谷崎潤一郎、ユーゴー、等が、この
 系譜で、作家として大成しただけでなく、人間として一生を幸せに暮らし、大往生を遂
 げている。
・人間は、とんかく不思議な動物である。どんな人間にもサドとマゾの”奇妙な現象”が
 備わっている。それは、どんなに隠しても、どんなにごまかしても、長い時間観察した
 りするとどこかで本音が出てしまうものである。
・人に対して危害を加え、それで快楽をむさぼるという性質も、人から危害を与えられた
 り、あるいは、わざわざ自分の体の一部を傷つける、入れ墨とか耳にイヤリングをする
 という奇妙な行動もマゾヒズムの変改だという心理学的な仮説もあるが、とにかく自分
 の体を傷つけて喜ぶなどという変なことは、人間以外の動物はやらない。

愉快な社会は遊びがつくる
・現在のサラリーマンの遊びを考えてみると、そのほとんど、場合によってはすべてが、
 遊びではなく、金儲けにつながっている。映倫、競馬はその典型で、大穴を狙わない人
 はいないのだから、遊びというよりもやはり賭けであり、一攫千金を求めてお金儲けの
 要素が強い。本当に馬が好きで、馬の走る姿に陶酔して、賭けは二の次であるという人
 がいれば、理想的な遊びだが、残念ながら日本には少ないと私は思う。
・日本の競輪、競馬の場合には、よく社会問題になるように、サラ金を借りたり、なけな
 しの物を質に入れたりして、刹那的に一攫千金を望もうとする。そして、競輪、競馬か
 ら足を踏みはずすと、必ず金融機関の使い込みなどへとつながるといった具合に、どう
 も切ない、みみっちい感じがする。こうなると、もう遊びの創造性とか、人間らしい脳
 の余裕の行動とはいえなくなる。それはすべてに言える。
・日本の社会風俗の現状は、自己満足とかお金儲けを「遊び」の中にごっちゃ混ぜにし、
 それをあたかもレジャーとか遊びと取り違えている。 
・人生を欲望だけで突っ走るとどうなるかは多くの例が示す通りである。やはり、そこに
 人生を豊かにする”遊び”が入ってこなければ、儲けたお金を使う価値も出てこないの
 ではないかと思う。
・教育というと、教えるのだから何でも可能になり、育てるのだからもともとあってもな
 くても関係ない、という錯覚を持ちやすい。現在の日本の教育制度の欠陥はそこにある。
 その人間にどんな才能や適性があるかという判定、この二つを無視して、すべて同じ鋳
 型にはめて、同じ教育をしようとする。これが悲劇の原因となっている。全部同じ方向
 を向かせて、一つのルールに走らせようとする。人間の幸せは、一通りの教育ですべて
 できると思っている。しかし、人間の幸せ、成功、暮らし方は、多種多様にわたってい
 る。
・学問などまったくしないのにすばらしい成功を成し遂げた人はたくさんいる。その反対
 に、学問の最高を極めながら、一生うだつが上がらずに幸せになれず死んでいった人が
 いかに多いことか。
・歴史的に見ても、画期的な発明、発見をやった人は、意外に学歴のない人が多い。ジェ
 ームス・ワット、エジソン・・・をはじめ数多い。
・人間が新しいことをやる、新しいことにチャレンジする、あるいはまったく人が気がつ
 かなかったことに気がつくという才能は、現在の学校教育の中では育たないものなので
 あろう。
・現在の教育は、試験の点数をよくし、とにかく学校を卒業するということがすべてであ
 り、ある学問や専門に興味を持つことは二の次になってしまう。だから、大学は出たが
 学問は大嫌いという人が圧倒的に多い。大学を卒業してから本を読まなくなる人がいか
 に多いことか。これは学生の頃、本は試験があるから読むのであって、おもしろくて読
 んでいたわけではなかったからである。
・とにかく学校は、見掛け上の立身出世、資格を得るための制度としか思えなくなってい
 る。学校では、もっと好きなことをやらせるべきなのである。さらに言えば、学問の中
 に遊びが必要なのだと思う。
・遊びとは好きだからやる。自分から進んでやるわけである。ところが勉強はいやいやな
 がらやるわけである。どう考えても、人間が進んでやることと、いやいやながらやるこ
 ととでは、その結果はまったく違ってくる。人間のやったすばらしい結果は、やりたく
 てやりたくてたまらなくて、衝動に追いかけられてやったことから生まれた。
・人間の心とは不思議なもので、物と心は一つのハカリの左右に乗っている。片方が重く
 なると片方が上がってしまうという仕掛けになっている。
・日本は品質管理が世界一だから、日本で作った製品は世界中に売れていく。これは大変
 いいことだ。しかし、見逃せないのは、品質管理がうまかった反面で、人間が平均化さ
 れ、規格化さえてしまった。
・日本の将来は、先端技術の開発にかかっている。日本人がつくり、日本にしかないもの
 を生み出す必要がある。そうした先端技術、巨大技術を生み出すには、英才教育で天才
 的な人間を養成する以外にない。

”男の魅力”は遊びが磨く
・現在の日本人の一生は、生まれ、一生懸命勉強して、できるだけ出世コースに乗って、
 功成り名を遂げて、この後、何ごともなく人生を終るという、いわば平凡なものになっ
 ている。明治時代の青少年立志伝などに出てくる出世物語は、貧乏で恵まれない家に生
 まれた頭のいい少年が、苦学をし、刻苦勉励して、非常に立派な人に見出されて学資を
 出してもらって、学校へ行き、偉くなるというものが非常に多かった。つまり、日本人
 全体が非常に貧しかったわけで、とにかくいい生活をしたい、偉くなりたいというのが
 無条件に多くの人の共通の目標となっていたわけである。
・昭和40年代から50年代にかけて、つまり高度成長末期から石油ショックの時代にな
 って、社会は急に、生甲斐とかやり甲斐のある仕事とか、人生という言葉が流行するよ
 うになった。それまでは、昔の貧しかった時代の延長であって、仕事の内容よりは給料、
 あるいは中身よりは地位あ立場の高いのがいいとされていた。とにかく名誉とお金がつ
 っくいたら、いうことがないという感じであった。しかし物の豊かさが限界を越すと、
 今度は急激に中身が問題となった。いくら給料が高くても好きでもない仕事を押しつけ
 られるのは嫌だ。どんな名誉な仕事でもいやいややったり、苦しいのは御免である、と
 いう具合になってきた。
・かりにお金がたっぷりあり、大きな広い家に住み、社会的地位も高く、表面上、人々の
 尊敬が得られても、夫婦仲が悪かったり、子どもに恵まれなかったり、あるいは友だち
 がいなかったり、趣味がなかったりという人生は、本当の人生ではないという考え方が、
 最近な出てきたようである。とくに高度成長以後に成人した若い人たちには、初めから
 生活はできるという前提がある。食べていくことに心配はないと考えているので、自分
 の人生にある意味では、昔の人とは比較てきないほど贅沢な注文をつける。非常に欲張
 った、いわば”青い鳥”を追いかけるように人生を追いかける。 
・ところが、多くの人は、望みはもつが、その望みを実現するための手順、そのために何
 をしたらいいのか、どのような努力をしなければならないか、そうしたことをまったく
 考えない。そして実際には、大きな夢や贅沢な希望を持ちながら、生活は安易に、何の
 努力もせずただ暇つぶしで楽なことばかりをやるというスタイルになっている。
・人間は本当に困った動物である。昔のように食うや食わずの時には必死の努力をした。
 その努力を今やれば、本当に豊かな人生が遅れるはずなのに、皮肉なことに物質的に満
 ち足りてしまうと、人間はあらゆる努力をやめてしまう。
・もしも、今日のような豊かで、恵まれた物質に囲まれた生活に、人間の精神的努力を加
 えたら考えられないほどのすばらしい生活がいくらでも展開できる。が、努力を促す逼
 迫感とか緊迫感がなくなってしまう。
・私は”昭和一ケタ”の生まれである。私たち以前の人間は、働く理由を聞かれた時、自
 分の心の奥底に、それを問いかけてみると、必ず、「働かないと食えなくなる」という
 恐怖感を持っている。
・戦前の日本、あるいは高度成長時代以前には、仕事はそう簡単にはないし、うかうかし
 ていると会社はつぶれるし、街には失業者があふれる。社会保障も失業保険も、健康保
 険もないから、貧乏な人間が病気になれば、もう野垂死するより仕方がなかった。とにか
 く自分が努力をしなければ自分の運命は開けてこない。うかうかしていると飢え死にす
 る。まさに動物の世界の弱肉強食と同じであったのだ。
・人間をもっと広い範囲で眺め、もっと長い時間のモノサシで見たときに、実は、人間は
 食うや食わずの時でも、食えないから働くという気持ちとは別に、少しでも暇があれば、
 何か満足できる遊びをしたいという気持ちが必ずあった。だから、今の若い人たちが、
 これからの生き方の中で、本当の生甲斐のある人生をつかまえたいとか、幸せな人生を
 送りたいと願うのであれば、ある意味で、真の意味での遊びに徹するしか生き方はない
 ということになる。
・私から言わせれば、今の若い人たちのやっているのは遊びではなく暇つぶしである。あ
 まりにも楽々とできる安易な遊びで、暇つぶしというほかない。
・人間が昔からやってきた遊びに類する創造的な行為は、よく考えると、現在のようなす
 ばらしく恵まれた物質的環境ではなく、常に死の恐怖、飢えの恐怖の中で、縄文土器に
 模様をきざんだり、洞窟の壁画を描いたりしていたのである。
・もしかつての人間がやっていたと同様の行動をとろうとしたら、これこそ精魂を込めて、
 命をすり減らすほどの情熱で遊ばなければつり合いがとれないことになる。
・人間が社会を作り、社会の中で人が幸せになるには、その人は愛されなければならない。
 愛されるためには、その人間に魅力が備わっていなければならない。
・人間の世界をよく見ると、本当に人間であることを満喫している人は、有名であるとか
 お金があるとかではなく、”付き合い上手”な人間、言い換えれば、汲めども尽きぬ魅
 力を持った人間が幸せで、生甲斐を感じることができる。
・現代社会は、非常に多種多様に分化して、いろいろな職業、人間、文化が入り混じって
 いる。そこで、いろいろな事に好奇心を持ち、いろんなものにコミュニケーションが可
 能な人間、いわば”雑種人間”とでも表現できる人間の方が、一つのことに優れ、他の
 事は音痴という人間よりも、ずっと使いやすく、能率がよくなるといえるのではないか
 と思う。 
・酒を飲むのは一つの文化である。我々は先輩から無理矢理飲まされて、初めて酒を知る。
 もっとも毎年、先輩から無理に飲まされて死ぬ例があるので、後輩に初めて酒を飲ませ
 る時には気をつけるべきである。
・酒の飲むということは、酒を飲むという文化を伝えていく行為である。つまり、酒には
 酒を飲む順序とマネー、飲むコツ、そして飲むためのいろいろな雰囲気がある。それを
 親から子へ、先輩から後輩へ語り伝えるために、私たちはいろいろな酒の文化をもって
 いる。
・お酒が、ただ本能を満たす動物の餌や水と違って、人間特有の脳と神経、さらには人類
 の生活行動に深くかかわりを持つ何かである。その証拠に、アメリカで宗教上の理由から
 有名な禁酒法を施行した時、この禁酒法という法律のために、密造酒の奨励とギャングの
 蔓延、さらにアル中患者の急増という大変な事態を招いてしまった。つまり、法律によっ
 て禁止しても、どうにもならない強烈な人間の本能とどこかで結びついているのがお酒
 なのだと思う。
・お酒の嫌いな人、お酒を受け付けない人は別として、お酒を飲むことは、今の文明国、
 とくに日本では、商売の取引から人間づきあい、冠婚葬祭すべてに欠かせない。だから、
 お酒をさりげなく上手に飲める人とまったく下手くそな人とでは、長い間には、つきあ
 いや運命に大きな差がでてきてしまう。
・酔えば人間は気が大きくなり、時にはホラを吹いたり、いい加減なことを言うのは当た
 り前であるから、酒の上での間違いといったお互いに寛容になるという約束がある。も
 っとも、これはにほんの非常に悪い風習で、酒の上だから許されるというのはけしから
 んと、よく目くじらを立てる文化人がいるが、私は、逆に、酒の上だから人を寛容に許
 すというのは美風だと考える。
・お酒の飲み方を堅苦しくいうわけではないが、やはり一流の人たちが飲む席にできるだ
 け連なって、そこで恥をかかなような訓練をすることが、まず大事である。そこで、酒
 のマナーを見につけてしまえば、今度は、どんなに乱れた酒の席でも、その人がいるだ
 けでよくわからないが、乱れながらも一本筋が通り、冴々とした雰囲気の中で、お酒を
 飲めば飲むほど楽しくなるはずである。
・お酒は気違い水だとよく言われる。お酒を飲むと、人間の空想力とか喜怒哀楽が極端に
 現われる。さらに進むと神経が麻痺してくる。お酒を飲む時は、しんみりと黙って飲む
 のではなく、騒ぎながら、しゃべりながら、歌いながら飲むように、つまり発散させな
 がら飲むのが一番いいのだと言われる。
・表面での付き合いよりもお酒を飲んでの付き合いの方が実はむずかしい。お酒を飲んで
 付き合って気に入られるということは、表面で十年付き合っても得られない信用や友情
 を自分のものにしたりすることができる。が、逆にお酒を飲んで睨まれたり、嫌われた
 ら、表面で十年以上付き合っても起こりそうもないほどの大変な憎しみや怨みを受ける
 ことになる。だから、お酒を飲むということは、非常に危ない橋を渡っていることにな
 る。が、多くの人は、それを知らないで飲んでいる。
・お酒を飲んでいる時に、商売の話、お金の話、政治の話は禁物である。しかし、日本人
 の大多数のサラリーマンは、お酒を飲みながら上役の悪口、仕事の話、政治の話をする。 
 政治の話なら支持する政党が違う場合もある。イデオロギーも違う場合が多い。仕事の
 場合は、酒の席だからといって聞き逃しにできないこともあるし、隣で誰が聞いている
 かわからない。それに、酒席での話は健康によくない。お酒の話になって、その時の話
 が現実に絡んできたら大変な間違いになる。

遊び人間が文化をつくる
・どういうわけか、わが国の多くの一流と称される学者は、非常に難しい顔をしてわけの
 わからないことをしゃべっている。権威に守られていないと学問ではないという一般常
 識である。そのためか、ある学問がおもしろくてたまらないといった調子で語ると、も
 のすごく反発を受ける。
・日本における学問の権威主義は、学問の魅力をできるだけ、一般の人々に知らせないよ
 うにこしらえ上げたとしか思えない。
・日本のが学者と称する人たちは、どこかで考え違いをしている。できるだけ一般人から
 遠ざかり、権威の中に閉じこもっている。そうしないと安心できないからなのだろう。
 また、毒舌を尽くせば学問の好きな学者が少ないともいえる。
・動物は本能でしか生きられない。しかし、人間は価値観で生きる。価値観で生きること
 が人間の特徴である。しかし、価値観は千差万別である。一人一人の人間によって違い、
 国によって違い、年齢によって違う。だから、人間が人間とうまくやって行くには、相
 手の価値観を理解し、自分の価値観を理解させ、価値観と価値観の違いの間を調整する。
 その間をすり合わせていくことだ。
・現在の日本の社会を見ていると、何かが始まると、みんなが一斉にそちらを向いて、飛
 びつく。こういう現象は、外国ではなかなか見ることができない。とくにパチンコは、
 いくら輸出しても、どこの国でも絶対にあれだけの流行はしない。つまり、日本人は一
 民族、一人種、一国家であるから価値観が似かよっている。問題なのは、一斉に何かを
 やるということで、価値観の差によって作られる人間社会の多様化という現象が起こら
 なくなってしまうことだ。
・現代の日本の社会では、違うことを許されないような社会的圧力がある。人がやるおと
 を無理にでも、嫌でもやらないと、付き合いからはずされてしまう。
・最近、問題となっている小学校や中学校の登校拒否の原因がほとんどそうである。つま
 り、子どもたちは、じぶんのうっ憤を晴らすために、誰か一人のスケープゴート(犠牲
 の山羊)を作る。スケープゴートにされた子どもは、とにかく悪いとされ、ことごとく
 苛められる。そのやり方が陰湿で、昔のように一対一で殴り合いとするのではなく、多
 勢で一人を仲間はずれにする。仲間外れにされた子どもは、登校拒否をして自殺すると
 いうケースが非常に多い。  
・現代の大人の社会でも人と違った趣味をもったり、違う価値観を持つことを日本の社会
 は許さない。とくにエリートの集団であればあるほど許さない。これは大変な文化的堕
 落だと私は思う。 
・文化とは、相手の価値観が自分の価値観と違うということが前提となって始まる。違っ
 た価値観同志が遊ぶから、遊びが深くなり、話がおもしろくなる。生まれてから死ぬま
 で、同じ生活をし、同じものを食っていた人間の会話は聞いても、まったくおもしろく
 ない。まったく違う国のまったく違う文化圏から現れた人間がしゃべったら、汲めども
 尽きないおもしろい話になる。だから、遊びのもう一つの原理は、それぞれが強烈な個
 性を持ち、それぞれが強烈な自分の人生をもっていることが前提となる。そうでないと、
 そこには高度の意味の遊びが出てこない。
・現代の福祉は、巨額のお金を使って、盲人用の歩行ベルトや音が流れる交差点を作って
 いる。が、実際に歩いてみるとわかるが、盲人用の歩行ベルトの上には、自転車やポリ
 バケツが乱雑に置いてあって歩けないことが多い。目を開いている人でも乱暴な運転手
 に、青信号の交差点を渡っていてはねられるのに、音を頼りに、目の不自由な人が一人
 で交差点を渡るような制度が、安全といえるのだろうか。
・さらに、私が抵抗を感じるのは、ボランティア活動で、車椅子の人を富士山に登らせた
 り、ヨーロッパへ連れていく。車椅子の人は確かに喜ぶかもしれないが、私は一つの疑
 問を感じる。そのことによって、車椅子の人が次は一人で行けるのだったら構わないが、
 足が不自由で、それはできないだろう。   
・目に不自由な人には、その不自由さを補うべき心の中の楽しみ、そういう身体的条件で
 もできる楽しみや遊びをわからせてやるのが本当の愛というものではないか。五体満足
 が人間の真似をさせて喜ぶのは、やっている人間の自己満足、エゴイズムの方が大きい
 のではないか、という気がする。
・人間のすばらしさは、先天的に与えられた自分の欠陥を乗り越えて、五体健全な人間に
 もできないようなすばらしい仕事をやってのけることに値打ちがある。そうしたすばら
 しい能力を秘めた人間をやたらと過保護にするのはどうだろうか。身障者問題に限らず
 老人問題を含めた福祉について、最近は、健全な人間の一方的な自己満足、選挙対策な
 ど名目だけのような気がする。 
 
”遊びの哲学”を持とう
・人間は、キツネザルから始まって、今日もっとも進歩した人間に至るまでにさまざまな
 変化をみせ、ついには今日のような不可思議な生物を作り出してしまった。人類の特質
 を別な目で眺めると、一つの興味ある事実に気がつく。それは何かというと、追い詰め
 られ、苦しめられ、逆境に立たされた時、想像もできない力を発揮するという特性であ
 る。この特性を人間ほどにもっている動物はいないだろう。
・すばらしい仕事や発見は、人間が精神的、物質的に満ちたりた状態ではダメである。利
 な人はそれを知っている。だから自分を追い込んでいく多くの創作や仕事を成し遂げて
 いる。  
・人間は、困った環境で自らがそれを解決することに喜びを見出し、生き延びる手段を発
 見しただけでなく、場合によっては自分を困らせ、追い詰めて、すごい発見や発明をし
 ようという意識を持っているのではないかと思うのだ。
・人間の歴史の中で、人間がすばらしいことをやってのけたのは、必ず人類が絶滅するの
 ではないか、これで文明は終わりではないかという時代であった。例えば、ヨーロッパ
 文明が近代に花開くその直前には、疫病の大流行による大変に悲惨な時代があった。ま
 たルネサンスのイタリアというと、大変夢多く、理想的で、すべての庶民が芸術のたし
 なみをもった天国の時代を想像する。が、中世のフィレンツェなどは陰謀と毒殺と殺人
 で、人間が人間であることをやめたくなるほどの暗い嫌な時代であったという。そうい
 う時代に、人間は、絶妙な美の表現を音楽に絵画に彫刻にやってのけてきた。
・人間の生理的動物としての進化は極限まできていると考えてよさそうである。極限まで
 きているということは、人間の文明をこれ以上、効果的に、機械的に進歩させる必要が
 ないということである。だから、人間はここで立ち止まり、本気で遊ぶことが大切にな
 る。遊びであれば、人間はむやみやたらと能率だけを考えて、これに努めなくても、一
 歩後退してみたり、一見無駄とも思える行動をしても、それはすべて容認される。 
・私は、全人類が、苦しい、つらい状況から常に新しいエネルギーを出して、文明を築い
 てきたように、現代もまたしなければならないと思う。そして、そのエネルギーの源と
 なった遊びをさらに高い次元でとらえ、文明社会を築き上げなければならないと考える。
 そうしない限り、現代社会の大きな乱れを抑え、新しい社会をつくり出すことはできな
 いと思うのだ。
・昔は記憶力のいい人が非常に尊重された。が、現在では、記憶力がいいだけの語部は就
 職したくても仕事がみつからないかもしれない。コンピュータやプロセッサーを使えば、
 膨大な知識を小さな空間に閉じこめて、いつでも好きな時に、好きな順番で取り出すこ
 とができる。だから、諳んじて覚えることは、人間がやらなくていい。記憶力だけでな
 く計算も、コンピュータにやらせれば絶対間違わないし、スピードもある。現在では、
 人間にももうほとんど要求される能力ではなくなった。
・それとなく定年が間近の人たちに会って心の裏側をさぐると、多くの人は、定年後食べ
 ていかれないとか、生活に困るといった心配をあまりしていないようである。それより
 も、今まで会社で使ってきた時間がすべて空白になる。いったいどうやって過ごしてい
 ったらいいのかという不安が、定年の日が迫るにつれて強くなる、という。
・多くのビジネスマンは、会社という大きな組織に、たとえ一部のネジであれ、針金であ
 れ、属しているという安心感があったから平然と生きてこられた。が、そこから離れた
 途端に、実に頼りない存在になってしまう。会社の属しているということは、仕事、給
 料ばかりではなく、同僚あるいは上司、そして仕事を離れたレジャーまで一体となって
 いるのが、日本の場合は普通である。だから、会社を離れたら、その人の人生がなくな
 ってしまうに等しいような不安にかられるのではないだろうか。
・サラリーマンのレジャーをみると、会社なしではできないことばかりである。サラリー
 マンの娯楽は、社用で訓練し、社用で味を覚え、社用の経費ですべてが賄われてきたと
 いっても過言ではない。   
・二十歳そこそこで会社に入って三十年余りたってやめると、今度は、それからだいたい
 同じか、それ以上を会社なしで過ごさなくてはならないことになる。老人再雇用、中高
 年再雇用、第二の人生という声があるが、やはり最初の就職とは違って、どうしても積
 極的にはなれないようだ。食べていくだけの仕事はいくらでもある。その仕事もフーフ
 ーいいながらやるような苦しい仕事ではないから、当然時間は会社にいたときに比べて
 もすごく余ってくる。その余った時間をどのように潰すか、ということに多くの人が悩
 む時代が来るだろうと思う。だから、周囲の年寄りをよく観察することで、自分がその
 年齢になったらどうするか、というプログラムは、やはり若い時に作っておくべきだろ
 う。 
・人生は、やはり経験が重要である。十年生きた人間より二十年生きた人間の方が、多く
 を知っているはずである。ましてや五十年、六十年、七十年、八十年と生きてきた人は、
 昔の社会では非常に大切にされた。何かわからないことができたり、どうしていいのか
 わからなくなった時は、必ず老人のところへ聞きに行った。
・高度経済成長時代には、いわばそうした人間の細かい配慮や心の襞を無視して、札束で
 頬っぺたをひっ叩くことでごまかしてきた。だからそうした人間の細かい心理的な配慮
 や習慣、しきたりを気にする必要はなかった。そのために老人は邪魔にされた。カーつ
 き婆ァ抜きなどという言葉が流行ったのは、まさにその象徴ではないかと思う。
・しかし、これからは老人が圧倒的に多くなる。そして、経済の成長の速度が鈍って、商
 売も細やかな配慮や人の心の襞を大切にした取引が必要とされてくる。そういったとき
 に、常に若々しい老人の知恵が重要になってくる。その役割を果たすためには、あくま
 でも若い人たちと同じような局面で、同じようなことを考えることができなければなら
 ない。  
・人間は自分の生命を大切にすることから始まり、異性を求めて子孫をつくり、三番目に
 財産を蓄え、四番目に人と仲よくしたしくなって社交の本能を満足させ、最後の五番目
 に文化的自己達成を求める。最後の自己実現とは何かというと、自分をつくる、創造す
 る、ということに当たるわけである。それは言い換えれば”遊びの哲学”の発見になる
 わけである。
・遊びとは、人の遊びではなくて自分の遊び、つまり自分に合った遊びを見出して、自分
 の人生を楽しむことである。仕事を楽しむ、自分とパートナーとのセックスを本当に楽
 しむことができる。