葬式は、要らない  :島田裕巳

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我々一般の人は、普段の生活の中で仏教と接することはとても少ない。身内に死者が出て、
初めて仏教と接することになることが多い。葬式のためだけの仏教、まさに葬式仏教であ
る。自分の家がなんという宗派なのかさえわからないのが実態である。
死者は寺の僧侶から戒名を授かることになるが、その戒名とはどういうものなのかもよく
わからない。僧侶が読経する意味もわからない。何がなんだかわからないまま、あわただ
しく葬式が行われる。そして、なによりも困るのが御布施や戒名料である。いくらぐらい
が相場なのか、まったくわからない。親戚などの助言を受けて、これもなにがなんだかわ
からないまま収めることとなる。なんだか不可解な気持ちを持ちながらも、それでもなん
とか無事に葬式を終えることができたという安堵感だけが残る。
葬式は、元々は貴族だけが行うものだったらしい。この世での贅沢な暮らしをあの世に持
っていきたいという貴族の願望から始まったようである。それを考えると、我々一般の庶
民は、本来は葬式とはあまり縁がない存在だった。それが、明治時代からの、いわゆる
「坂の上の雲」の時代から徐々に一般庶民にも広まり、戦後の高度経済成長期の一億総中
流意識の中で、いっきに広まったようだ。
葬式は、その成り立ちからして贅沢なものだ。右肩上がりの経済成長期の時代には、それ
も許されたであろうが、これからの時代は下り坂の時代である。本来、贅沢である葬式を
以前のように盛大に営むことも困難になりつつある。そしてまた、今の時代はサラリーマ
ン家庭が大半を占めている。以前は葬式は家の葬式であったが、今のサラリーマン家庭で
は、個人の葬式になっている。葬式は家族葬が急速に増えているという。
この本を読んで、葬式やそれに伴う御布施、戒名、戒名料の背景がわかったような気がす
る。そして自分の葬式について考えるいい機会となった。

はじめに
・実際に葬式を出す場面に直面したとき、必要なのは葬儀の細やかなやり方についての知
 識ではない。しきたりも現代では地域差がなくなり、さほど煩わされない。それに葬祭
 業者に全面的に任せてしまえば、遺族は細やかなことを心配しなくてよくなっている。
・いったい私たちにとって、葬式はどんな意味をもつのか。そもそも、本当に葬式は必要
 なものなのか。
・実際に葬式をあげた後、私たちは、本当にこれでよかったのかと考え込んでしまうこと
 が少なくない。
・とくに戒名の問題は、納得できないことが多い。なぜ戒名というものは存在するのか、
 そこにはどういう意味があるのか、院号は必要なのか、戒名料はなぜとられるのか、戒
 名がないと成仏できないのか。
・現実に一番難しいのは、故人の遺骨をどこに葬るのか、つまり墓の問題である。
・最近は、散骨などという、墓を作らないでもいいやり方が広まりつつあるが、果たして
 それを選択していいものだろうか。
・いちばん大切なことは、納得できる葬式をあげることだ。あるいは反対に、納得の上で、
 葬式をしないこと、または簡略化することである。
 
葬式は贅沢である
・葬式は贅沢である。贅沢とは何か。それは、必要の限度を超えて、金銭や物などを惜し
 みなく消費することである。
・財団法人日本消費者協会が2007年に行なった調査では、葬儀費用の全国平均は231
 万円である。その内訳は、葬儀一式費用(葬儀社へ支払うもの)が142万3千円、飲
 食接待費用(料理屋、香典業者などへ支払うもの)が40万千円、御布施・心付け(寺
 などへ支払うもの)が54万9千円となっている。
・葬儀費用については地域差が大きい。四国が全国最低の149万5千円であるのに対し、
 もっとも高い東北は282万5千円で、四国のほぼ倍である。
・日本の葬儀費用は、世界と比較してみても、飛び抜けて高い。1990年代前半、アメ
 リカの葬儀費用は44万4千円、イギリスは12万3千円、ドイツは19万8千円、韓
 国は37万3千円だった。
 葬式は法律によってしなければならないと定められているわけではない。つまり、葬式
 などいっさいしなくても罰せられない。
・死者が出ると、医師に死亡診断書を書いてもらい、それをもって役所に行き、死亡届を
 提出する。すると火葬許可証(埋葬許可証)を渡される。そこまでの手続きは必要だが、
 それ以降どうするか法的に決まっているわけではない。
・遺体の処理については「墓地、埋葬等に関する法律」(墓埋法)で定められている。
 この墓埋法において重要なのは次の3点である。
 @死亡後あるいは死産後、24時間経たなければ、埋葬も火葬も行なってはならな
  いこと。
 A火葬は火葬場以外で行なってはならないこと。
 B埋葬は墓地以外で行なってはならないこと。
・自分で火葬したり、焼いた骨を勝手な場所に埋葬してはならないと規定されているだけ
 である。葬式のことは、墓埋法ではまったく規定されていない。
・死者が出たとき、何らかの葬式をあげるのが普通だが、それは習俗や慣習であって、法
 律の次元では葬式をしようとしまいと自由なのである。
・昔から「葬式無料論」を唱える人たちはいた。たとえば最近人気の高い白洲次郎の場合
 である。白洲が死の5年前に残した遺言が、一、葬式無用、一、戒名不用、であった。
 白洲の葬儀は、遺言どおり遺族が集まって酒盛りをしただけであった。正子夫人が亡く
 なった際も葬式や告別式は行われなかった。
・葬式だけではなく墓の否定、つまり墓を作れないことも可能である。墓埋法では、遺骨
 の埋葬は墓地以外の場所で行なってはならないと規定されているだけである。もし遺骨
 を埋葬しないなら、状況は違ってくる。墓を作らないあり方の一つが「散骨」である。
 散骨するなら埋葬の必要はない。よって、墓をつくる必要もなくなる。
・最近では、散骨を行う葬祭業者も増え、幅広く実践されるようになった。ただ、散骨は
 規制すべきだとする声もあり、業者の「散骨場開発」を規制する条例を制定した自治体
 もあって、その是非が議論にもなっている。
・散骨すれば、墓を作る必要はない。死者が出たとき、病院から火葬場に直行し、焼いた
 遺骨をどこかに撒くのなら、葬式もいらなければ、墓もいらない。これほど簡単なこと
 はないし、死者を葬る費用も節約できる。しかも合法だから法律で咎められることもな
 い。
・葬式が贅沢だというのは、法的にその実施が規定されていないからである。葬式は、絶
 対に必要なことではない。しかし私たちは死者が出れば葬式を行い、しかも相当な費用
 をかけて死者を弔っている。
・かつて「密葬」と言われた家族だけの葬式は、最近「家族葬」と呼ばれるようになり、
 それを選択するケースが増えたが、家族葬もあくまで葬式の一つの形態であり、それさ
 え行わないケースは現実には少ない。
・葬式を行わないと、故人と関係があった人たちには死者とのけじめがつかない。生きて
 いた人間を失うことは、家族以外の人間にも大きな出来事で、何らかの形でその死を確
 認したいという思いが生まれる。そのため葬式をいっさいしないと、せめて焼香だけで
 もしたいとお申し出る人があらわれる。故人の意志で葬式はせず、家族葬だけで済ませ
 た結果、故人を知るものから「自宅にうかがって焼香したい」と希望され、かえって面
 倒な事態を招くこともある。
・葬式を出すことと、葬式に多額の費用をかけることとは直結しない。それでも、葬式に
 費用をかける意味が出てくる場合もある。その典型が「社葬」である。社葬は、会社の
 会長や社長、重役など、重要なポジションの人間が亡くなったとき、会社自体が施主に
 なって行う葬式である。注目すべきは、この慣習が日本特有のものだという点である。
 海外には、社葬にあたるものは存在しないのだ。
・その会社の社葬は、取引先に対して、さらには社会全体に向かって、後継者の披露の機
 会ともなる。後継者が喪主をつとめることも多い。立派な葬儀をあげられるかどうかに
 よって後継者の評価も変わる。
・葬式にいくら費用をかけても、何かが残るわけではない。祭壇はすぎに壊され、棺も、
 いくら高価な材料を使っても、火葬されれば、ただの灰になる。飲食もそれを楽しめる
 わけではないし、香典返しも、カタログから商品を選ぶシステムが広がっているが、果
 たしてそれが必要なのか、疑問を感じることも少なくない。
・葬式は決して喜ばしい場ではない。その点で、贅沢をすべき機会ではないはずである。
 だが現実には葬式に金をかけ贅沢をする。
 
急速に変わりつつある葬式
・直葬とは、故人が亡くなった後、いったん自宅に遺体を安置し、近親者だけで通夜を行
 うものの、その後、遺体を直接火葬場に運び、やはり近親者だけで見送って、それで終
 わりにするやり方である。
・もともと直葬は、なくなっても身元がはっきりしない人や生活に困窮していて十分な葬
 式代が出せない人のためのもだった。それが、一般の人々の葬式でも利用されるように
 なり、現在、東京では20パーセントが直葬だとも言われている。直葬の普及率は東京
 が圧倒的に高く、地方ではまだ5パーセントから10パーセント程度である。
・現在、大半の人は病院で亡くなる。直葬では、故人の遺体を寝台車に乗せ、自宅や葬儀
 社が用意する一時的な安置所に搬送し、とりあえずそこに安置する。そこで遺体は棺に
 収め(納棺)、近親者だけで通夜をする。会葬者は呼ばない。いったん自宅などに搬送
 するも、火葬まで24時間以上の経過が必要だからである。
・通夜が済めば、翌日、霊柩車で火葬場に出棺する。そして、やはり近親者だけで故人に
 別れを告げ、遺体は荼毘にふす。最後に、収骨、骨あげをして葬式は終わる。これが直
 葬のもっとも基本的なやり方である。
・ただ、火葬場で僧侶に読経してもらうこともあれば、骨あげが済んでから精進落としの
 ために近親者で食事をとることもある。
・直葬では基本的に近親者以外の会葬者を呼ばない。その点では、密葬、家族葬の一番簡
 略化された形態だとも言える。
・故人が80歳あるいは90歳を超えて亡くなり、大往生を果たしたとすると、たとえ通
 夜と葬儀・告別式からなる一般的な葬儀を行なったとしても、参列者の数は決して多く
 ない。女性だと、近親者以外に参列者が誰もいないことが起こり得る。故人の友人や知
 人は、すでに鬼籍に入っていたり、存命でも、葬式に出向く体力や気力が備わっていな
 いことが多いからである。無理に列席すれば、それこそそれが原因で病気になり亡くな
 ることも起こり得る。遺族も、高齢者には、身内の葬式に参列してくれとは声をかけに
 くい。
・葬式を近親者だけで営むのであれば、世間一般に向かって故人が亡くなったことを告知
 する必要もない。近親者が最後のけじめをつければそれで済む。直葬の増加は、寿命が
 のび、いわば大往生が増えてきたことが大いに影響している。
・直葬もそのなかに含まれるわけだが、現在では、近親者だけで行う葬儀としては「家族
 葬」が定着している。家族葬は、葬儀の形式というよりも、近親者だけで行う規模の小
 さな葬式全般を指す。以前は「密葬」と呼ぶのが一般的だった。
・一般の葬式では、生前、故人とゆかりのあった人たちに声をかけ会葬者を集めるが、家
 族葬の場合は、まったく声をかけないか、一部のごく親しい人たちだけに声をかける。
 あるいは、「家族葬なので会葬は不要である。」と告知することもある。
・これも、高齢者の大往生が増え、会葬者の数が自然と減ってきたことによる。会葬者の
 数が少ないのなら、近親者だけで済ませ、会葬者に負担をかけるまでのこともない。そ
 うした遺族側の希望が強くなってきたのである。
・普通なら通夜と葬儀・告別式で二日かかるところを、一日にまとめた「ワンデーセレモ
 ニー」という形式も生まれている。もともと通夜は、近親者だけで営むものだという感
 覚があり、一般の会葬者が参列するのは葬儀・告別式のほうだった。ところが、サラリ
 ーマン社会の傾向が強くなり、葬儀・告別式に参列するには仕事を休まなければならな
 くなった。そのため一般の会葬者でも、葬儀。告別式ではなく、むしろ通夜に参列する
 ことが多くなってきた。通夜や葬儀・告別式の曜日がいつかも影響するが、通夜の方が
 会葬者が多い場合も少なくない。
・故人がまだ若かったり、現役あるいは退職後それほど時間がたっていない場合には、会
 葬者はかなりの数にのぼり、通夜と葬儀・告別式を二日に分け行う必要がある。だが逆
 に、会葬者が少なければ、通夜を含めた葬式を二日にわたってやる必要もない。そこか
 らワンデーセレモニーという形式が生まれることになった。この場合には、通夜を葬儀、
 告別式といっしょにしてしまい、火葬は翌日の昼間に近親者だけで行うことになる。
・通夜は近親者だけで自宅などで行い、葬儀・告別式のほうだけ会葬者を招くというやり
 方もある。会葬者を呼ぶ機会を葬儀・告別式に限定するのがワンデーセレモニーだと考
 えていいかもしれない。
・全体に葬式の簡略化が進んでいる。手間も時間も制約され、当然、費用も従来型の葬
 式に比べかからなくなっている。僧侶も呼ばなければさらに節約できる。
・葬式は、社会的な慣習であり習俗である。慣習や習俗は昔から受け継がれてきた伝統で
 ある。
・1990年代に入り、バブル経済が崩壊した後くらいから、媒酌人を立てない結婚式が
 急増する。その後、媒酌人を立てない結婚式の形態が急速に広がり、今では、それが当
 たり前になった。結婚式の変化と最近の葬式の変化は、深いところで連動している。背
 景に「家」の重要性が失われてきたという事態がかかわっている。以前は、結婚は二人
 の男女、個人の結びつきであると同時に、二人が育ってきた家同士の結びつきであると
 認識されていた。
・近年では、故人を直接知らない人には葬式への参加を求めない傾向が強くなった。そこ
 にも冠婚葬祭が家の儀式から個人の儀式へと変化してきたことが示されている。家の儀
 式であれば、家の存在をアピールし、さまざまな形でその家への支援を求める機会とも
 なるが、その性格が失われれば、結婚式や葬式を盛大にする必要もないのである。
・一般に「墓地を買う」という言い方をするが、実際には、墓地を買うことはできない。
 墓地は販売されず、使用料をとって貸し出すかたちとなる。ただ貸出期間が長期にわた
 って設定されていて、「掃除料」などの名目使用者が金を支払い続けるかぎり、そこを
 自分の家の墓として長期にわたって占有できる。
・逆に、掃除料が滞り、さらには参拝し管理する人間がいなくなれば、その墓は「無縁化」
 する。一般の墓は祭祀を継続する後継者の存在を前提とする。つまり家に跡継ぎがいな
 ければ墓は守り続けられないのである。
・墓には、それを守る子孫が必要になる。ところが、どの家にも跡継ぎが生まれるわけで
 はない。たとえ子どもがいても、女の子ばかりだと他家に嫁いでしまい、墓が無縁化す
 る可能性が出てくる。
・永代供養墓は、核家族化が進み、跡継ぎのない家が増えたことで生まれた供養の形態で
 ある。墓を求める際に、永代供養料として行っての金額を支払うことで、たとえ墓守と
 なる跡継ぎがいなくても、寺が命日に読経するなど供養を続けてくれるのである。永代
 供養墓にもさまざまな形態があり、個人墓や納骨堂形式のもの、あるいは合同墓もある。
・永代供養墓が登場し普及した背景にも、家のあり方の変化がある。サラリーマン化が進
 むことで、その必要性が薄れた。養子をとったり、婚外子を作ってまで家を存続させる
 必要がなくなったことで、代々にわたって家が残らなくなり、それにともなって後継者
 の存在を前提としない供養の方法が求められるようになったのです。
・大都市に出てきた人間は、そうした祖先崇拝の信仰からから切り離され、多くは無宗教
 の状態におかれた。家のなかには仏壇も神棚も祀らず、新たにその家に死者が出るまで
 その状態が続いたのである。そして、死者が出ても、必ずしも特定の菩提寺と檀家関係
 を結ばなかった。公営や民営の霊園などに墓地を求めたのであれば、葬式に特定の宗派
 の僧侶を呼ぶ必要もない。葬儀社の紹介で、導師として僧侶を呼んでも、それは一回限
 りの関係で、読経してもらい戒名を授かるだけなのである。
・最近徐々に増えつつあるのが無宗教式である。特定の寺と檀家関係を結んでいなければ、
 僧侶を呼ぶ必要もないわけで、戒名料や布施に意義を見いだせない人たちが無宗教式を
 選択している。
・どのような形式を選択するにしても、最後は、火葬した遺骨をどこに埋葬するかが問題
 になり、そこに墓の選択といった事柄が生じてくる。
・最近では、従来の形式の墓を建てないという選択肢も生まれている。散骨もその一つだ
 が、他に「樹木葬」や「宇宙葬」「手元供養」といったやり方をとる場合も出てきてい
 る。
・樹木葬では、墓石を建てる代わりに植樹し、その下に遺骨を埋葬する。
・宇宙葬は、カプセルに入れた遺骨を人工衛星に載せて宇宙に打ち上げるものである。
・手元供養は「自宅供養」とも呼ばれ、遺骨を墓に埋葬せず、手近なところに置いて供養
 するものである。遺骨は、納骨容器やペンダントにおさめるのが一般的だが、プレート
 や人工のダイヤモンドなどに加工することもある。ペンダントやダイヤモンドなら、普
 段から身に付けていることも可能で、故人に対して強い思いを抱き、亡くなってもずっ
 と寄り添っていたいという願う人々には歓迎されている。
・重要なのは、新しい葬式のやり方をとった場合、費用がそれほどかからない点である。
 直葬の費用は多くても30万円ほどで、僧侶に読経を頼んでも50万円以内でできる。
 もっとも簡素な形式を選んで、近親者だけが集い、会食もしなければ10万円程度で済
 む。
・家族葬も、会葬者を呼ぶ場合よりはるかに安く済む。会葬者がいないのだから、香典返
 しの面倒もなければ、形だけの飲食の提供も必要ない。散骨や樹木葬なら墓に金はかか
 らない。葬儀費用の平均231万円に墓の費用は含まれない。人を葬る上で、節約しよ
 うと思えばいくらでもその余地がある。宇宙葬の費用は100万円である。決して安く
 はない。それでも一般の葬儀費用と比較するなら、はるかに安い。100万円で葬儀を
 出すとすると、今の標準からすれば、かなり質素なものになる。
・都会に出てくるときに、故郷の祖先崇拝の世界から離れてしまったため、都会の家には
 仏壇もなければ、神棚もない。当然、墓もない。最初は、亡くなったときに、故郷の実
 家の墓に葬られたいと考えていたかもしれないが、長い都会暮らしでその思いも薄れた。
 遠い故郷に墓があると、子どもや孫が墓参りにも来てくれなくなるので、墓は都会にあ
 ったほうがいい。最近都会で亡くなるのは、そうした人たちである。彼らにとって、す
 でに故郷の葬式のやり方は自分たちの生活に合わないものになっている。ならばすべで
 都会式でも構わない。葬式の新しいやり方が急速に広まっているのも、50年以上前に
 都会に出てきて、そのままそこに定着した人々がちょうど死を迎える時期になってきた
 からなのだ。
 
日本人の葬式はなぜ贅沢になったのか
・今日の仏教は「葬式仏教」と言われるように死者を葬ることを第一の使命にするが、飛
 鳥時代から奈良時代にかけての仏教は、国府津な学問の体系として受容され、葬式仏教
 の側面はまったくもたなかった。
・もし仏教が日本に伝わらず、やがて仏教が人を葬ることにおいて中心的な役割を果たす
 ようにならなかったら、それは神道に任されていたことだろう。現在は神道も仏教の影
 響を受けて「神葬祭」という神道式の葬式を編み出している。神葬祭は、仏教式の葬式
 に比べればかなり質素で、費用も多くはかからない。
・仏教式の葬式を派手にすることはいくらでも可能である。大きな祭壇を設け、さまざま
 な飾りつけをし、導師として何人もの僧侶を呼べば、相当に派手になる。日本人の葬式
 が贅沢になったのも、仏教が葬式を担うようになったからである。
・浄土教信仰では、人が死後に生まれ変わる「浄土」の存在が強調されたが、浄土もまた
 現実とは異なる異界の一形態である。浄土教信仰では、なんらかの罪を犯した人間が堕
 ちる地獄の恐ろしさが強調された。
・平安貴族は、死後。地獄に堕ちることを恐れ、極楽浄土への往生を強く望んだ。平安時
 代末期には、仏法がすたれ、それによって世の中が乱れるとする。「末法思想」が広ま
 った。末法の訪れに不安を感じた平安貴族たちは、こぞって浄土式庭園や阿弥陀堂を造
 ることに力を入れた。この時代の阿弥陀堂として、岩手・平泉中尊寺の金色堂などがあ
 けられる。それも贅を尽くしたもので、中尊寺の金色堂は、堂宇全体が金で覆われてい
 る。浄土の世界を地上で形にして表現することは相当な贅沢であった。それでも平安時
 代の貴族は、多くの資金を投入し、おびただしい資材をそこに費やしたのである。
・釈迦の教えからすれば、死後、地獄に堕ちることを恐れたり、西方極楽浄土への往生を
 願って莫大な金を費やすことは、無駄で虚しい営みのはずである。ところが現在におい
 て豊かで幸福な生活を送った貴族たちは、死後もその永続を願い、現世以上に派手で華
 やかな浄土の姿を夢想した。たんに夢想しただけではなく、浄土を目の前に出現させよ
 うと試みた。ここにこそ日本人の葬式が贅沢になる根本的な原因がある。少なくとも浄
 土教信仰が確率されなければ、浄土に往生したいという強い気持ちは生まれなかっただ
 ろうし、死後の世界を壮麗なものとしてイメージする試みも生まれなかったに違いない。
・浄土真宗の開祖となるのが親鸞である。親鸞は念仏行の実践とともに、救いを阿弥陀仏
 にゆだねる他力本願の教えを説いた。親鸞の活動によって、浄土教信仰は貴族から一般
 民衆のもとへと変貌した。
・葬式と仏教の結びつきは、葬式を華美で贅沢なものにするきっかけを与えた。葬式が最
 初から神道と結びついていたなら、それは質素なものにとどまったであろう。ところが、
 仏教では、死者が赴く浄土の世界を、徹底して豪華で美しいものに描く出す志向があっ
 た。その影響で、葬式が派手で贅沢なものになっていったのである。
・浄土をそのまま地上に実現しようとしたのは、平安貴族である。平安貴族は、自分たち
 が実現した豊かで贅沢な暮らしが死後も持ち越されることを願い、死後の世界を並外れ
 て豊かなものに描き出していった。
・葬式のときに、もっとも費用がかかるのが祭壇である。その祭壇は、浄土を模したもの
 だと言われる。庶民は阿弥陀堂を建てることもできなければ、ました浄土式庭園を造る
 こともできない。葬式の祭壇には、せめても浄土に近づきたいと思う庶民の願望が示さ
 れているのである。

世間体が葬式を贅沢にする
・葬式をあげるとき、特定の宗教や宗派の形式にこだわらず僧侶はもちろん神主や神父、
 牧師の手も煩わせないのが、無宗教式だ。この無宗教四季の葬儀は、徐々に増加する気
 配を見せている。喪主としては、普段付き合いのない僧侶を呼んで、しかも多額の布施
 や戒名料をとられるのは納得がいかない。
・しかし、ほとんどの場合、無宗教式ではなく、仏教式で葬儀が営まれる。特定の寺の檀
 家になっていなければ、つまりは寺に墓がなければ、仏教式を選ばなければならない必
 然性はないのだけれど、慣習に従って仏教式で葬儀を営む人が多い。
・仏教式の葬儀を行う場合、寺でそれを営むこともあるが、最近では、むしろそうしたケ
 ースは少なくなってきた。自宅が広ければ、自宅でもできるが、それだけのスペースの
 ある家はいまどき珍しい。多くは専門の葬儀場で営まれる。
・最近では少なくなったが、以前は、遺体を葬儀場から火葬場へ移動する際に、宗教的な
 装飾を施した「宮型霊柩車」が用いられるのが一般的だった。さらにその前は、葬式を
 行う寺から遺体を埋葬する墓地まで葬列を組んで運ぶ慣習があり、霊柩車での搬送には
 その名残が見られる。死者を手厚く葬るには、葬列を豪華なものにする必要があるとい
 う感覚があり、それが宮型霊柩車に結びついたのだ。
・仏教式で葬儀をあげれば、どうしても華美なものになる。神道式の神葬祭が普及しない
 のも、それが仏教式に比べて、あまりに簡素に見えるからかもしれない。
・あまりにも簡素な葬式では、個人の業績を否定し、その価値を貶めるものに思えてくる。
 葬式は、故人の人生を直接反英する。成功者にはそれにふさわしい葬式が不可欠だとい
 う思いが、成功者の葬式をひどく贅沢なものに仕立て上げていく。
・アメリカや要六派の映画を見ていると葬式のシーンが出てくる。日本に比べれば、それ
 はずっと質素である。少なくとも立派な祭壇は出てこない。故人がキリスト教徒なら、
 協会で礼拝を行い、墓地に埋葬して、それで葬式は終わる。
・「世間体が悪い」という言い方があり、それは、自分の行動が世の中からどのように見
 られているかということと深く関係する。世間体が悪い行為は、恥ずかしいものと考え
 られ、日本人は絶えず世間体を気にしている。そうした意識がもっともよくあらわれる
 のが、葬式である。世間体の背後には世間があり、それは、その人間が生活を送る狭い
 埴での人間関係を指している。それは、国や社会といった広い範囲での人間関係とは区
 別されるが、日常的により需要なのは世間のほうである。
・葬式では、この世間や世間体ということが顔を出す場面が多い。布施や香典の「相場」
 というものに、それがあらわれている。
・布施や香典は、あくまでそれを行う側の気持ちによるとされてはいるものの、もっとも
 重視されるのは、自分がいくら出したいか、あるいは出せるかではなく、他人がいった
 いいくらだしているのかである。こうした世間や世間体の感覚が日本人のなかに育まれ
 ている上で重要な、あるいは決定的な働きをしたのが、村落共同体の成立である。
・村のなかでは暗黙のうちに家の格というものが定まっていて、家の格に応じて、どの程
 度の規模の葬式を出すのか、あるいは、どういったランクの戒名を授かるかが決まるよ
 うになっているのである。
・普段の生活では陰に隠れた形になっている家の格がもっとも明確に表に出てくるのが戒
 名を通じてである。村では戒名は4種類に分かれていた。一番ランクの高い戒名が院号
 居士で「○○院△△□□居士」の形をとる。その下が院号のつかないただの居士で「△
 △□□居士」となり、さらにその下が「信士」で、一番下が「禅定問」である。これは
 男性の場合で、女性だと、上から順に院号大姉、大姉、信女、禅定尼となる。
 
なぜ死後に戒名を授かるのか
・仏教界は「戒名料」の存在を否定している。戒名料は故人が戒名を授かったときに遺族
 が自発的な意思で捧げる布施の一種であり料金として定まっていない、というのがその
 理由である。しかし現実には、戒名のランクに応じた相場があり、寺によってはま戒名
 料と称してその額を紙に書いて本堂に貼り出しているところもある。
・寄付の額を決めるのも、戒名のランクである。戒名のランク、つまりは檀家のなかでの
 その家の格が基準になる。一度ランクの高い戒名を授かってしまうと、次に死者が出て
 葬式を出す際、同じランクの戒名を授けてもらわねばならなくなる。檀家の側がそうし
 た事柄を理解していないと、いきなり高額な戒名料を支払わなければならない事態に直
 面し、戸惑ったり怒りを感じたりする。寺の側は、檀家がそのあたりの事情を理解して
 いることを前提にしているから、当然の負担を要求しているつもりになっているが、事
 情がわからない檀家には理不尽な思いだけが残る。
・戒名というのはあの世にいくときの「パスポート」の名前だ。
・戒なき坊さんから戒名を受けるという根本矛盾がある。僧侶は与えられた戒をかたく守
 らなければならないはずが、現状はとてもそうなっていない。日本の僧侶は妻帯し、酒
 も飲む。どちらも五戒によって戒められている。
・僧侶が破戒の道をたどっている以上、戒名を授けるなどありえないのに、現実は、葬式
 の際に僧侶による授戒が行われており、これは極めて矛盾したことだ。
・仏教界で行われる戒名や戒名料についての説明はどれも奥歯にものがはさまったままの
 ような言い方にしかなっていない。膨大な数存在する仏典では、戒名について説明され
 ていない。それも、戒名という制度が存在するのは、仏教が広まった地域のなかでも、
 この日本だけだからである。
・日本でも、出家した僧侶はその証に戒名を授かる。その点は、他の仏教国と同様である。
 ただ、一般の在家の信者の場合にも、死後には戒名を授かる。それが、日本にしかない
 制度なのである。出家者は世俗の生活を捨てたわけで、出家の際にまったく新しい人間
 に生まれ変わったと言える、新しい名前はその象徴である。
・一方死者は、生の世界から死の世界へと移るものの出家したわけではない、俗人は、俗
 人のまま亡くなったはずである。にもかかわらず俗の生活をすてたかのように戒名を授
 かる。本来、出家という行為と密接不可分な関係にあるはずの戒名が、それと遊離して
 しまったのである。
・他の仏教国の人が、こうした日本の戒名のあり方を知れば不思議に思うだろう。しかも、
 日本では、出家であるはずの僧侶が妻帯し、普通に家庭をもっている。それは破戒では
 ないのか。日本の仏教は葬式仏教に成り果てたことで堕落してしまった。そう考える人
 は少なくない。その堕落の象徴が、戒名と戒名料なのである。
・じつは多くの宗教に出家の制度は存在しない。出家があるのは仏教とキリスト教のカソ
 リック、それに東方教会(ロシア正教、ギリシア正教)だけである。同じキリスト教で
 もプロテスタントには出家者はいない。
・日本で最初に戒名を授けられたのは聖武天皇である。平安時代に栄耀栄華を極めた藤原
 道長でさえ、戒名はやはり2字で、「行覚」だった。聖武天皇や藤原道長は生前、出家
 得度した際に戒名を授かっており、それは仏教教団の一員になった証にほかならない。
・本来、仏教に存在しなかった戒名という習慣が確立され、社会に浸透した。しかも戒名
 は、ランクをともなうことで、村野身分秩序を安定させる役割を担うようになった。そ
 の点でも、戒名は仏教の教えとは関係ないものなのである。
 
見栄と名誉
・明治時代の戒名のうち、院号が占める割合は18パーセントにすぎなかった。それが大
 正時代になると、わずかに増えて20パーセントに達する。さらに昭和の時代に入り、
 その割合は10パーセントに落ちる。
・院号のついた戒名が飛躍的に増加するのは、戦後になり、高度経済成長がはじまってか
 らのことである。昭和30年代から40年代にかけては院号のついた戒名が55パーセ
 ントと半数を超える。さらに昭和50年代から60年代になると64パーセント、平成
 に入ると66パーセントに達した。
・誰もが簡単に院号を授かれるわけではない。院号を授けてもらうには、寺に対して日頃、
 経済的に貢献をしていなければならない。
・地方の農村地域ならば、院号の戒名は全体のわずか20分の1で、5パーセント程度に
 すぎなかった。農村では戒名のランクの背景にその村の身分秩序が歴然としてかかわ
 っている。村の有力者でなければ院号のついた戒名は授かれないのがしきたりである。
 ところが都会では村落共同体のような強固な地域共同体は存在しない。
・檀家関係を結ぶ必要のない一般の霊園に墓地を求めたなら、誰もが院号のついた戒名を
 望み、それを授かることができる。高度経済成長の時代には、物価の面でのインフレが
 進行し、収入とともに物の値段も上がったが、戒名についても院号のインフレ化が進ん
 だのである。
・サラリーマンには子孫に残せるものはほとんどない。あるとしたら自宅だが、一般サラ
 リーマンの買える家は、他人に誇れるほど立派な屋敷ではない。そんなサラリーマンン
 にとって、自分が生きた証として残せるものが案外、戒名に限られるかもしれない。ど
 うせ授かるなら平凡なものではなく院号のついた立派なものが欲しい。本人もそれを望
 むが、喪主となった遺族も世間に対する見栄から立派な戒名を望む。都会における院号
 のインフレ化の背景には、そうした都会人の欲望がからんでいる。
・日本の消費者協会の調査では、戒名料を含め寺院に支払われる布施は全国平均で54万
 9千円という結果が出ていた。ただし、これには読経料と戒名料がともに含まれていて、
 そのうち戒名料がいくらなのかは詳細にはわからない。
・死後に与えられる一般人の戒名には、その人間が俗世間で果たした功績が反英されてい
 る。その点で、戒名は死後に与えられる勲章であるとも言える。そのために、戒名を見
 ただけで、故人がどういった人間だったのかがわかるようになっているのである。
・墓を作るには、墓地を求め、そこに墓石を建てなければならない。墓石については全国
 優良石材店の会が2008年に行なった「お墓購入者全国アンケート調査」結果によれ
 ば、墓石にかけた費用は全国平均値で176万3千円だった。
・一頭地にある都営の青山霊園の場合、一区画が400万円から1000万円程度である。
 郊外の八王子市にある都立八王子霊園の2009年における公募の使用料は、4平方メ
 ートルで114万8千円だった。
・墓地も宅地の場合と同じように、便利な場所にあればあるほどその使用料は高い。少し
 不便な場所でも、墓石を含め200万円から300万円はかかるだろう。
・墓石も、贅沢をしようとすれば切りがない。高級な石を使えば、500万円以上かかる
 こともある。
・昔なら、墓が残るのは権力者だけだった。一般の庶民は、土葬され、その上に目印とし
 て墓標が立てられるだけで、立派な墓石を使った墓が残ることはなかった。ところが、
 現在では、墓石を建てる慣習が広まり、墓さえ求めれば、それが半永久的に残る頃体制が
 作られている。それ自体、相当に贅沢なことなのである。
 
檀家という贅沢
・村落共同体では、「葬式組」というものが存在し、機能していた。村のなかで死者が出
 たとき、葬式を出すだんどりをつけ、実際にその手伝いをするのが葬式組である。葬式
 組に任せていれば、喪主となる家の人間は、葬式にまつわるこまごまとしたことを気に
 する必要がない。
・都市においても、地域共同体が機能しているところでは、葬式組が組織され、同じよう
 な役割を果たしていた。しかし、都市化が進み、核家族化が進んで、地域共同体が機能
 しなくなっていくと、葬式組に任せることができなくなり、そのかわりに葬祭業者が参
 入することとなった。
・今、都市で葬式を出す場合、葬祭業者に葬式全般の実施を委託するのが一般的になって
 いる。そもそも、ほとんどの死者は病院で亡くなり、遺体の自宅や斎場への搬送という
 ことからして、葬祭業者の手を煩わせなければならない。病院に出入りの業者がいて、
 自動的にそこに以来することにもなってくる。
・祭壇の選択などでいくつもプランが用意されているとき、施主の側には、できるだけ手
 厚く死者を葬りたいという思いがあり、節約の方向ではなく、金をかけて葬式を豪華な
 ものにする方向を選択しやすい。葬式に金をかけることを惜しめば、それは個人を蔑ろ
 にすることになるのではないか。そこでも世間体の意識が働き、それが金のかかる葬式
 を生む原因になっている。
・都会であるか、ちほうであるかによっても違うが、一般に一つの寺を維持していくため
 には300軒の檀家が必要だと言われる。1年間に営まれる葬式の数は、およそ檀家数
 の5パーセント程度である。300軒ならば、15件ほどの葬式がある計算になる。
・全国に1万4000軒の寺を抱える曹洞宗の場合、住職の平均収入は565万円という
 調査結果が出ている。これはあくまで平均の数字で、多くの寺院では300万円以下で
 ある。
・檀家がいなかったり、その軒数がすくなかったりすれば、寺院経営は成り立たず、住職
 も生活できない。そのため、住職のいない「無住」の寺が増えている。
・檀家の布施がなければ、本来、寺は成り立たない。広い土地を所有していて、その地代
 で潤っているような寺院もないわけではないが、それは特殊で、多くの寺院は檀家の葬
 式の際の布施や戒名料から維持費を捻出している。ほかに週有源がなければ、葬式に頼
 るしかない。現代の仏教寺院がおかれた状況を考えれば、葬式仏教化は必然であり、ほ
 かに寺を成り立たせていく手立てはないとも言える。
・世の中には、とくに都会では、戒名料は高く、そのランクに応じて額が変わってくると
 いう感覚が広がっていて、檀家も、院号居士などランクの高い戒名を授かるなら、高額
 の戒名料を布施しなければならないという覚悟している。
・そこには檀家の側の見栄も働いていて、高額の戒名料をとられたと嘆く人の発言を聞い
 ていると、実際に支払った額をあげるケースが多い。そこには、戒名料の額を周囲に示
 すことで、自分の家はそれだけの財力があることを暗に自慢しているところがないとは
 言えない。
・考えてみれば、寺の檀家であるということは、それ自体ひどく贅沢なことである。寺は
 上層階級のものであり、その檀家になるのも、そうした豊かな階層の人間に限られてい
 た。財力がなければ、生産力をもたない寺院を維持していくことはできない。それが、
 近世になり、江戸時代になると、寺は必ずしも上層階級のものではなく、庶民のものに
 近づいていった。村などにある寺院の場合には、檀家となったのは、みな庶民である村
 人だった。それでも、村には毅然と身分秩序があり、庄屋などをつとめる村の名家が、
 主に金を出すことで、村の寺は維持された。
・檀家の経済力によって仏教寺院が維持されていく。そうした体制は、現在でも基本的に
 変わらない。寺院は民間の宗教団体であり、それに檀家として加わるかどうかは二任意
 である。つまり、檀家であることを望む人間だけが、そのメンバーになればいいわけで、
 江戸時代とは違い、檀家になることが強制されているわけではない。
・寺における毎日の勤めのなかで、供養の対象になるのは檀家の先祖の靈だけで、そこに
 属していない人間の靈は対象にならない。その点で、檀那寺を持ち、供養を委託できる
 ということは特権的なことである。その特権を護るためには、それ相応の負担をしなけ
 ればならない。それは、当たり前の話である。ところが、私たちは、こうしたことを明
 確に意識もしていなければ、自覚もしていない。高額の戒名料を支払わなければならな
 くなると、強い不満を感じ、寺や住職を批判する。本当にそれでいいのか、檀家の側も
 その点について考え直してみる必要がある。
 
日本人の葬式はどこへ向かおうとしているのか
・新たな都市住民の家には、仏壇がなかった。都会に出てくるときに、故郷から仏壇を持
 ってくる人間は少ない。故郷の実家の信仰を受け継ぎ、仏壇を護るのは長男など跡継ぎ
 の役割で、都会に出てきた人間は、その役割を担わない次男や三男が多かった。そのた
 め、都会には、仏壇も、そして神棚も祀らない家が急増した。仏壇は先祖崇拝のための
 もので、そこの家に新たに死者が出ないかぎり、仏壇に位牌を祀る必要がなかったから
 である。位牌がないということは、墓もないということで、新たな都市住民の家庭では、
 祖先崇拝の信仰が意味をなさなかった。
・都会では、家の重要性が低下した。それはとくに都会で増えたサラリーマン家庭に言え
 ることだった。サラリーマン過程の場合には、家庭は生活の場でしかなく、経済活動と
 は無縁である。サラリーマンは、毎日企業に出社し、仕事はそこでこなす。仕事と家庭
 生活とは完全に分離され、その分、家庭の重要性は低くなる。とくに、仕事という面で、
 家庭の存在は不可欠ではなくなっていく。
・サラリーマンの家の子どもが、親と同じように企業に就職しサラリーマンになることは
 ある。しかし、親と同じ企業に就職することは少ないし、親がしていた仕事を受け継ぐ
 ということは基本的にない。たとえ子どもが後継者にならなくても、あるいは子どもが
 いなくても、親は仕事に困ることはない。そこが農家や自営業の場合とは違う。仕事を
 続けるためにサラリーマンが家を守り続ける必要はなくなったのである。
・家を受け継いでいく必要のある仕事についている場合、葬式は社会的に重要は意味をも
 つ。喪主になるのは後継者であり、葬式には後継者を披露する役割がある。ところが、
 サラリーマンの家では、葬式にそうした機能は期待されない。親が亡くなった場合には、
 会社関係の人間が参列することもあるが、仕事をすでに退いている元サラリーマンが亡
 くなっても、会社関係の人間はそれほど多くは参列しない。以前なら、それでもまだ、
 社員の家に死者が出た場合、会社の同僚などがその手伝いをすることはあった。しかし、
 会社での人間関係も次第に希薄なものになり、会社の組織が葬式組の代わりをすること
 もなくなった。そこには、「家の葬式」から「個人の葬式」への変化が見られる。サラ
 リーマン家庭ではあくまで個人のための葬式なのである。
・墓参りの慣習は日本以外の東アジアでも共通することで、中国や台湾、韓国では熱心に
 墓参りをする。ところが、これがヨーロッパになると、墓参りの慣習はほとんどない。
 墓をもうけるものの、それは故人を葬る空間にすぎず、残された家族が命日などにその
 墓に参ることはない。そもそも故人墓が主流で、日本のような家の墓はない。墓参りを
 しないため遺族も墓の場所を忘れてしまう。
・最近では、墓参りの代行もビジネスとして行われる。都会に墓を求めることは難しく費
 用もかかる。そこで郊外に墓を求めることになるが、そうなると、高齢者は墓参りが困
 難になる。それでも墓参りは必要だという観念は強く、そのため代行ビジネスが成り立
 つのである。
・高齢者は死んでも未練はない。まして祟ったりしない。その意味で葬式は人生の達成で
 あり生涯の総決算である。遺族に悲しみはあるかもしれないが、故人は十分に生きたと
 いう満足感をともなって死の世界に旅立っていったことだろう。
・逆に、若くして亡くなった者には、多くの人が天寿を全うする時だけに、悲しみがよく
 強くなる。遺族は、なぜこんなにも早く逝かなければならないのかと後悔の念にかられ
 る。実際、残された遺族が大黒柱を失って生活に困窮する場合もある。いったいどのよ
 うにこれからの人生を組み立ていけばいいのか、途方に暮れることもある。葬式をあげ
 たからといって悲しみや将来に対する不安が解消されるわけではない。葬式は、けじめ
 をつけるためのものであるが、その点ではまったく無力である。
・戦後において、葬式のあり方、人の葬り方は大きく変わってきた。さらに最近では、葬
 式の規模が小さくなるとともに、葬る場所の選択なども大きな変化が起こっている。
・高齢者には、家族葬、さらには直葬が基本的なスタイルになり、多くの参列者を集める
 ような葬式は少なくなっていくに違いない。
・簡単に変化していかない部分があるとすれば、それは墓だろう。都会では、死者が出る
 まで墓がない家が少なくないが、それを機に墓を求めるようになる。その背景には、墓参
 り教の信仰があり、一家の象徴的な場所として墓が機能することがある。何か重大な出
 来事が起こったとき、それを報告する場としては、墓が一番ふさわしい。年忌法要はし
 なくても、墓参りは欠かさない、そうした家が現在では増えている。
・散骨を希望する人間がかなりの割合に達するにもかかわらず、まだまだそれが一般化し
 ないのも、墓参り教の存在が影響している。家に墓があれば、それを護っていかなけれ
 ばならず、自分だけ散骨してもらうわけにもいかない。おそらく、家に墓のある人とな
 い人とでは、散骨を希望する割合も違うであろう。
・墓は寺の墓地に建てなければならないという観念はそれほど強くなない。むしろ重要な
 のは、墓参りをしやすい場所かどうかである。
・墓が寺になければ、葬式をどういった形式であげようともかまわない。無宗教式で葬式
 をあげることもできるし、僧侶を呼ぶ必要もない。戒名だって授かる必要はない。自由
 度ははるかに高くなる。
・家を代々継承させていくことは相当に難しくなっている。その家に男の子が生まれなけ
 れば、家が途絶える可能性が出てくる。墓を護る人間がいなければ、墓は「無縁化」す
 る。今、どこの墓地でも、この無縁化の増加という事態に直面している。永代供養墓の
 増加も、その影響だが、今や従来の墓の形式が実情にそぐわないものになっている。
・家を単位とした葬式の葬り方が、今や実情に合っていないのだとも言える。葬式をめぐ
 る変化は、これからも続いていくことだろう。
・方向ははっきりしている。葬式は明らかに簡略化に向かっている。それは、葬式を必要
 としない方向への変化だとも言える。今や現実が葬式無用論に近づいているのだ。
 
葬式をしないための方法
・自宅で死ぬのが当たり前の時代は、「畳の上での大往生」が理想とされる死のあり方だ
 った。しかし最近では、自宅で亡くなると、けっこう面倒なことになる。臨終の場に医
 師が付き添っていたなら簡単に死亡診断書を出してくれるが、朝起きたら死んでいたと
 いったケースだと、そう簡単にはいかない。不審死ではないかと警察がやってきて捜査
 するし、検死(司法解剖)を経て死体検案書をもらわないと、死亡診断書の代わりにな
 らない。
・いつ死が訪れてもおかしくない高齢者がいる場合、かかりつけの医師は「自宅で亡くな
 ったときには、まず自分のほうに連絡してほしい」とアドバイスする。それも、警察が
 来たり遺体を検死にまわすことを不要にするためである。
・葬祭業者に依頼して、直葬または小規模な家族葬にしてもらう場合、費用は最低で10
 万円である。一般的には20万円から30万円程度である。
・葬式費用の全国平均万円から考えれば、直葬など簡略化された葬式の料金は相当にリー
 ズナブルである。これなら諸外国の葬式費用とほとんど変わらない。葬式を贅沢にした
 くないなら、直送や小規模な家族葬を選択すれば、希望はかなりかなえられる。
・死者が出た場合、健康保険から埋葬料が出る。現役のサラリーマンなら給料の一ヵ月分
 が埋葬料として給付される。家族に死亡者が出た場合でも、10万円程度の家族埋葬料
 が支給される。国民健康保険は自治体によって額が変わるが、3万円から7万円程度の
 支給となる。
・葬祭業者に依頼して直葬や小規模家族葬を営むなら、家族、親族以外の会葬者はほとん
 どいない。会葬者がいないということは、痛や振る舞いなどの飲食費がかからないこと
 を意味する。香典返しの必要も少ない。
・もっとも簡単なのは、葬式に僧侶を呼ばないことである。 つまり、仏教四季の葬式を
 やめ、無宗教式の葬式をあげるのである。僧侶に導師をたのまなければ、この分の費用
 はいっさいかからない。
・直葬や小規模な家族葬が費用を抑えられるのも、火葬が中心で、僧侶を呼ばないからで
 ある。読経がないのは寂しいと、直葬でも、火葬場に僧侶に来てもらい、火葬にする前
 に読経してもらったりする。だが、そのときだけなので、通夜と翌日の葬儀、さらには
 初七日の繰り上げ法要の際に読経してもらうのと比べれば、さほど多額の布施をする必
 要はない。
・無宗教式の葬式も最近増えており、葬祭業者も、無宗教式を選択肢の一つにしている。
 故人の好きだった音楽を流し、焼香の代わりに献花する、一つの形式を作り上げている。
・仏教式か無宗教式かを選択する場合、それに関係してくるのが、寺に墓があるかどうか
 である。葬式を出す時点で墓がなかったり、一般の霊園に墓があるという場合なら、無
 宗教式でまったく構わない。後で問題が起こることはない。
・その家が寺の檀家であるかどうかは決定的な意味をもつ。檀家ならば、墓の心配をしな
 くてもいい分、さまざまな制約がある。逆に、檀家関係がなければ、葬式も墓も自由に
 選べる。
・地方から都会に出てきて、夫婦だけで作った家庭では、その家に最初に死者が出たとき
 に葬式をはじめて経験する。その死者を故郷に墓に葬る場合もあろうが、そうなると墓
 参りも簡単にはできない。多くは都会に墓を設けようと考える。とりあえず、葬式を出
 す段階では墓がないとする。そのとき、無宗教式ではなく仏教式の葬式を選択した場合、
 葬祭業者に僧侶を紹介してもらうことになるが、そのとき葬祭業者は必ず宗派を聞いて
 くる。葬式を出す側は、実家に宗派を尋ね、それで家の信仰を確認する。
・日本には主な宗派として天台宗、浄土宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗がある。
・葬式の方法は宗派によって異なっており、読経の対象となる経典も異なる。日本の仏教
 では、どの宗派も共通する経典は存在しない。「般若心経」は、一般にも広く親しまれ
 ているが、すべての宗派が取り入れているわけではない。主にそれを唱えるのは、天台
 宗や真言宗それに禅の系統の宗派である。
・実家の墓に葬らないというのであれば、宗派の違いは意味をなさない。葬式の導師とし
 てどの宗派の僧侶に頼もうと、それは遺族の自由である。もっとも、自分とまったく関
 係のない宗派に来てもらうわけにもいかず、実家や親族に聞いて、家の宗旨を確認する
 ことになるが、重要なのは、たまたま来てもらった僧侶とのあいだには寺檀関係がなく、
 その関係は基本的にその葬式限りのものだということである。
・寺と檀家関係を結び、その信者になっている以上、寺の経済を支えるために戒名料を支
 払い、戒名を授かることは檀家としての義務になっている。そうしたしきたりに従いた
 くないというならば、檀家関係を解消するしかない。墓を寺に墓地から一般の霊園に移
 せば、檀家関係など結ぶ必要はない。私の家でもしたことがあるが、故郷の実家の墓を
 処分し、遺骨を都会にもってくるというときに、そうしたやり方をすれば、それ以降檀
 家としてのつとめを果たす必要はいっさいなくなる。それは、戒名のことに煩わされる
 必要がなくなるということを意味する。
・寺の檀家にならないのであれば、あるいは寺の墓地に埋葬されないのであれば、戒名な
 ど必要はない。したがって、葬祭業者に紹介してもらった、その場限りの関係の僧侶に
 戒名をさずけてもらう必要はない。戒名を授からなければ、戒名料を払う必要もない。
・寺檀関係を結んでいない僧侶に院号のついた戒名を付けてもらい、その対価に高額な戒
 名料し支払いを要求されたとすれば、それは大きな問題である。高い戒名料を請求する
 僧侶がいるなら、その僧侶は「ぼったくり」と言われても仕方がない。
・戒名料の相場は存在するが、その相場も寺檀関係が成り立っていることが前提である。
 ランクの高い戒名は、その寺の檀家として寺に十分な貢献をする意志があることの表明
 であり、だからこそかなりの額を布施するわけである。
・戒名が死後の勲章の性格をもち、故人が送った生涯や業績、性格を集約するものである
 ならば、本当は、個人のことをよく知らなければ、戒名はつけられないはずである。
・寺檀関係を結んでいても、その寺の住職が個人をよく知っているとは限らない。僧侶の
 側も故人を知らなければ、どんな文字を使うかに苦慮する。まして、葬祭業者の紹介で
 導師をつとめた僧侶は、故人をまったく知らない。故人を知らないままつけるのは、戒
 名の性格に矛盾している。遺族が満足し納得できる戒名が授けられるわけもない。
・葬式は直葬か家族葬にし、戒名は自前でつける。その後は、一周忌や三回忌などに家族
 が集まって食事をする。年忌法要は寺院に頼まない。そうすれば、人を葬ることに金は
 かからず、贅沢にはならない。とても全国平均の葬儀費用、231万円など必要ではな
 い。
・逆に一番金がかかるのが、新たに寺の墓地に墓を求め、檀家関係を結んだ場合である。
 檀家であること自体が一般の庶民にとっては贅沢なのだから、その分の出費を覚悟しな
 ければならない。それが嫌なら、公営の墓地や民間の霊園という選択が考えられる。ど
 ちらの場合にも、檀家関係を結ばないので、戒名を授かる必要はなく、多額の戒名料を
 支払う必要はないし、葬式の形式も自由に選択できる。
・葬式はしなくてもいいが、遺骨はどこかに葬らなければならない。最後に残されたのは、
 墓の選択であり、その解決はかなり難しい。
 
葬式の先にある理想的な死のあり方
・人間だけは、死後に何かを残そうとする。それは、本人の願望であることもあれば、家
 族、遺族の希望であったりもする。
・人間が死んだ後、何かが残るということは、その人の生きた証がそこに見えるというこ
 とである。人は、死後に何かを残すことを目標に奮闘し、頑張っているとも言える。
・死後に何も残らないとどこか悲しい。遺族も周囲の人間も、故人が残したものにふれる
 ことで、改めて本人の生涯の意味に納得し、そこに慰めを見出す。
・生きているあいだにいくら金を儲けたとしても、それをあの世にもっていくことはでき
 ない。生きているうちに使わなければ、それは別の誰かのものになる。どうせなら、も
 っと多くの人たちに役立って欲しい。そうした思いを実現する寄進という行為は、人が
 生きた証としての意味をもつ。
・葬式は、いくら金をかけてもその場かぎりのもので何も残らない。参列した人々の記憶
 に残るだけである。ならば、具体的に死後に何かを残した方がいい。それだけの経済力
 があるのなら、葬式に金をかけるよりも、よほど有意義なはずである。
・親は、子どもに財産を残したいと思う。財産は、自分が人生を頑張り通し、その結果、
 成功を勝ち得た証でもあるからである。しかし、親の思いとは裏腹に、財産があればあ
 るほど、相続のときにもめる。それだったら、遺産などないほうがいい。生前、財産の
 大半を寄付する人もいるが、葬式で贅沢をし、金を使い切るのも案外、相続にまつわる
 もめごとを避ける手立てになるかもしれない。
・人間はいつ死ぬか、予想ができないわけで、葬式をあげた時点で、財産をすべて使い切
 った状態にするのは至難の業である。財産を使い切って死ねれば、それは格好いい生き
 方になるが、よほど綿密な計算をしないとそうはいかないだろう。
・ひとりの人間が生きたということは、さまざまな人間との関係を結んだということであ
 る。葬式には、その関係を再確認する機能がある。その機能が十分に発揮される葬式が、
 何よりも一番好ましい葬式なのかもしれない。そんな葬式なら、誰もがあげてみたいと
 思うに違いない。
・最期まで生き切り、本人にも遺族にも悔いを残さない。私たちが目指すのはそういう生
 き方であり、死に方である。それが実現されるなら、もう葬式がどのような形のもので
 も関係がない。生き方とその延長線上にある死に方が、自ずと葬式を無用なものにする
 のである。
 
おわりに
・近年、葬式の簡略化が大幅に進んでいる。それはやがて、葬式を実質的に無用なものに
 していくであろう。
・村落共同体の力が衰え、もう一つの共同体である家族の役割が低下して、共同体の行事
 としての葬式の意味は変わった。死はあくまで個人のものとなり、共同体のものではな
 くなった。そうなれば、葬式の必要性は薄れていく。
・しばらくのあいだは、人口構成の関係で死者の数が増えていく時代が続く。そのために、
 急速にその事態が顕在化していくことはないかもしれないが、死者の数が減少するよう
 な時代になれば、一気に事態は変わるかもしれない。
・葬式仏教が衰退し、葬式を無用なものにする動きが強まっていく。それは歴史の必然で
 あり、その流れを押しとどめることは難しい。すでに私たちのこころのなかには、葬式
 など要らない、葬式仏教はなど必要ではないという気持ちが生まれている。