将の器 参謀の器 :童門冬二

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この本は、戦国時代の武将や江戸時代の将軍やその家臣などを例に挙げながら、リーダー
とスタップの資質や役割についてわかりやすく解説したものである。
筆者の説では、企業におけるリーダーと働き手の関係は、車に例えるとセルモーターとエ
ンジンの関係だという。リーダーがセルモーターで働き手がエンジンだ。働き手であるエ
ンジンは未熟なため自分ひとりでは起動できない。そのためリーダーであるセルモーター
が最初に起動してエンジンを回してあげる(動機づけ)必要があるという。
確かのそのとおりだと思うのだが、しかし、実際にこれを実行できているリーダーはどの
くらいいるのだろうか。実際問題として、セルモーターでエンジンを回してあげることを
せずに、いきなり「なんでおまえは回らないんだ」とか「いつになったらおまえは馬力を
出すんだ」と、叱りつけるリーダーも多く存在するのではないだろうか。

リーダーは正しく生きなければならない。これは社会の合意として守られなければならな
いことである。しかし、リーダーがこの合意を守らなければ、下の者は上部不信となり社
会や組織が乱れる。昨今の国のリーダーや企業のリーダーを見ても、この合意を蔑ろにし
ているリーダーがなんと多いことかと感じる。実際に不正をやっていなかったとしても、
リーダー不正を疑われるようなことやっていたことが明らかになると、それが影響して組
織や社会全体がどんどん乱れていって、やがては崩壊につながってしまう。リーダーは、
自分のいる立場は、そういう責任があること立場であることを、しっかりと自覚しなけれ
ばならないはずだ。

「西郷南洲遺訓」というものがある。これは西郷隆盛自身が書いたものではなく、西郷を
慕って鹿児島まで出かけていった出羽庄内(山形県鶴岡市)の大名だった酒井家の家臣た
ちが、西郷と接して西郷の言ったことをメモしたものだという。その中に、次のような内
容があるという。
「国民のために政治をおこなう者は、己を慎み品行を正しくし、ぜいたくを戒め、節
約につとめ、仕事に専念して国民の模範となるようにしなければならない。そして国
民がその働きぶりを気の毒に思うくらい尽くさなければ政令はおこなわれない」

公の行事である「桜を見る会」を私物化していたことがいたことがバレて、右往左往して
いる、とても「将の器」とは言えない今の日本のリーダーたちに、読み聞かせたい内容で
ある。

はじめに
・現代は、「戦国時代と幕末時代とがダブって訪れている」といわれる。日本人の価値観
 が根底からかわり、個人も社会も国も、「二十一世紀をどう生きるか」という模索の努
 力を続けている。これはまさに、応仁の乱後の戦国時代だ。いっぽうアメリカをはじめ
 外国列強の日本の経済政策に対する関心はつよく、時に内政干渉にちかい容喙(口出し)
 があったりする。幕末開国時代が同じだった。
・こういうときに特に問われるのが、「トップリーダー(将)とブレーン(参謀)」の能
 力だ。二つの時代が複合するいま、だれもが持つべき要件は、先見力、情報力、判断力、
 決断力、行動力、体力の六つだ。 
・国の内外の情報にもピンと耳を立て、目を大きき横にひらくことが必要なのだ。そうさ
 せるパワーの源は、なんといっても「好奇心(関心)と情熱」だ。
・あらゆる仕事は手順として、1.情報を集める、2.集めた情報を分析する、3.問題
 点について考え、解決のための選択肢を用意する、4.それをひとつ選ぶ、5.実行す
 る、6・結果が悪ければ別の選択肢を選ぶ、というプロセスをたどる。このうち、「将
 (トップ)」の役割は4の決断に重点がおかれる。1から3までは参謀の役割だ。
・いま働くひとのほとんどが参謀的役割を果たしている。つまり実働者【ライン)かその
 ままブレーン(参謀、スタッフ)なのであって、ことさらに参謀という存在が求められ
 ているわけではない。 
・いまの働き手はすべて、「自分で考え、選択肢を用意する」という責務を負っているの
 だ。そしてリーダーのすべてが「将」の責務を負っている。
 
将たる器とは
・いかなる人間も受け容れ、活かしきる器量はあるか
・人間の楽しみは、やはり飲むことや女性と接することだ。歓楽街は若者にとっても必要
 な活力の再生の場所なのだ。歓楽街には人間の喜怒哀楽がすべて凝縮している。
・竹田信玄は「厳しい環境の中にあって、最も可能性のある手持ちの資源は人間だ」と考
 えていた。そのため、「人づくり・人育て・人使い、には切実なものがあった。しかし
 彼は、子供の時から苦労していたので、単に機能として部下を育てたわけではない。深
 い愛情があった。彼は「人を育てるにしても、まずその人間がどういう性格で、どうい
 う可能性を持っているかを見極めなければだめだ」といっていた。「人育ては、まず人
 を見ることから始まる」というのである。
・信玄は「臆病者や注意力が散漫な者をそのまま見捨ててはいけない。それぞれ欠点があ
 っても逆に長所もある。長所を活かして別な面に吹き向ければ、その人間の使い道が必
 ずあるはずだ。こいつはだめだというような決めつけ方が一番いけない」といっている。
 この、「どんな人間にも必ずひとつは見所がある」という態度が、部下に彼に対して、
 「この大将のためなら、川中島で戦死してもいい」と思う忠誠心を生んだに違いない。
・話の聞き方に四通りの反応を示す若者たちの使い方について、信玄は次のようにいう。
 ・人の話をうわの空で聞いている者は、そのまま放っておけばいい部下も持てないし、
  また意見をする者も出ない。一所懸命忠義を尽くしてもそれに応えてくれないし、ま
  た意見をしても身にしみてきかないからだ。従ってこういう人間に対しては、面を犯
  して直言するような者を脇につけるおとが必要だ。そうすれば、本人も自分の欠点に
  気づき、自ら改め、一角の武士に育つはずだ。 
 ・二番目のうつむいて人の話を身にしみて聞く者は、そのまま放っておいても立派な武
  士に育つ。
 ・三番目の、あなたの話はよく分かります、おっしゃるとおりですという反応を示す者
  は、将来外交の仕事に向いている。調略の任務を与えれば、必ず成功するに違いない。
 ・四番目の席を立つ者は、臆病か、あるいは心にやましいところがあるものだから、育
  てる者はその人間が素直にその欠点を自ら告白して、気が楽になるようにしてやらな
  ければならない。 
・信玄は、新しい人間を召し抱える時にも、「百点満点の完全な人間を採用するな。人間
 は少し欠点があった方がいい」と命じた。また、「武士で、百人中九十九人に褒められ
 るような人間はろくなやつではない。それは軽薄な者か、小利口な者か、あるいは腹黒
 い者である」といい切っている。
・竹田信玄は人間を見る目が鋭かった。「どんな欠点がある人間にも、必ずひとつくらい
 いいところがあることを本人並びに周りに知らせることが大切だ。それが指導者の役割
 だ」と考えていた。この彼の、
 ・欠点があるからといって、決してその人間を見限らない。
 ・小さな過ちをとらえて、おまえはもうだめだというような決めつけはしない。
 という人の育て方は実に見事である。
・信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」といった。「貧しいこの国で、手持ちの資源で最
 も可能性を持っているのは人間なのだ」という考え方である。
・人間が向上心を失ったらおしまいだ。人の役に立ちたいという気持ちを常に持ち続ける
 ことが大切だ。それにはいつも情報を集め、好奇心を持つことが必要だ。好奇心と情熱
 さえあれば、多少の失敗があってもそれを吹き飛ばして、さらに新しい道が発見できる。
・人を育てる時に一番むずかしいのは、育てられる側が、「自分をどう評価しているか」
 ということである。得てして若い人たちとつき合っていると、この、「自分で自分にく
 だす評価」つまり育てられる側の自己評価と、「育てる側の評価」とが食い違うことが
 多い。しかし、自分に自信を持っている若い人は、こういう食い違いを発見すると、
 「育てる側が間違っている」と思う場合が多い。  
・しかしこのことは、いってみれば見解の相違であってお互いに生きていく上での価値観
 の差なのだから簡単にはいかない面が多々ある。だからといって、若い人の持っている
 「自分で自分に抱いている評価」を全面的に正しいとすることができない場合もある。
・組織の秩序とかルールとか、仕事のやり方とか、生き方の問題など先人が経験からいろ
 いろと積み重ねてきたものがある場合には、よけいそうなる。とくに現在は、「価値観
 の多元化」といわれ、極端にいえば人間一人ひとりが自分の価値観すなわちモノサシを
 持って生きているから、これがしっかり合わないとどうしてもきぎしゃくする。
・織田信長や豊臣秀吉の時代は、「個人の戦争から集団の戦争へ」と、戦争の形を変え始
 めていた。いまの言葉を使えば、仕事は組織でおこなうのだから、「チームワーク」を
 大事にしろということだ。その中で、能力のある人間が能力があるからといって勝手な
 ことをすればチームワークが乱れてしまう。信長や秀吉がなによりも禁じたのは個人の
 スタンドプレーである。    

参謀たる器とは
・エズラ・ボーゲルは、日本の「組織と帰属する働き手」の問題について、次のような考
 え方を提起した。
 ・日本の企業組織では、働く人間がトップからヒラに至るまで、自分の属している組織
  を一艘の船に見立てている。
 ・したがって、トップは船長であり、働き手はすべて乗組員になる。
 ・そのため全乗組員が船を自分たちの運命共同体と考えている。帰属意識が強く、この
  船の船長に対してロイヤルティ(忠誠心)を持っている。
 ・このことを端的に表しているのが、日本における”うちの”という表現だ。うちの会
  社、うちの社長、うちの部長、うちの課長、うちの社員、うちの従業員等の表現がこ
  れを示す。
 ・”うちの”というのは、乗組員たちが日本独特の家族意識を持って行動するというこ
  とだ。
 エズラ・ボーゲルは、これを日本企業の強みとみた。だからこそ日本の経済はここまで
 発展したのだといい切った。
・この”うちの”意識に対して批判がなかったわけではない。批判はむしろ日本側から湧
 いた。つまり、若い人たちからすれば、この”うちの”意識は、古いということになる。
 そういう古さに振り回されている自分たちが何か外国に対して気恥かしくなり、同時に
 現代性を失っているとみた。そのため、極力この”うちの”意識を破壊しようという動
 きが活発になった。
・「いまさら社長に対して忠誠心などあるものか。給料をくれているのは社長個人ではな
 く、会社という組織なのだ」という意識を前面に出した。これによって、ロイヤリティ
 だけでなく、組織の運命共同体としての船とむるような”帰属意識”まで薄れてしまっ
 たといわれる。
・これは果たして正しいことなのかどうか疑問だ。自分の属している企業組織を船と見立
 て、そこに自分の生活を託する気持ちは決して悪いものではなかろう。このへんの解釈
 や結論の出し方が日本人はつねに短兵急であり短絡すぎる。
・同じことをやっていても、日本人がいい出すと納得しないが、カタカタで逆輸入される
 とわれもわれもとすぎ雷同する。こういうことで、日本独特の大切なものがかなり失わ
 れている例が多いのだ。 
・戦国時代でも武士のタイプは、「知型人間」と「情型人間」の二つに分かれていた。知
 型人間は頭脳の働きによって自分の行動を決める。したがってこういうタイプの人間に
 とって大切なのは、「何をやっているか」であり、同時に、「何のためにこのことをお
 こなうのか」という目的意識の把握である。反対に「情型人間」は、ハートに受けたイ
 ンパクトによって行動を決定する。となると、「何をやっているか」よりも「誰がやっ
 ているか」という相手の人間性が問題になってくる。
・いまの若い人たちの労働に対するモチベーション(動機づけ)は、次の三条件に対する
 納得だといわれている。このことは、働き手が属する組織に対する意識を強く持つか、
 あるいはロイヤリティを持つかとは別問題で、人間の働く場には常に存在してきたもの
 だ。いまに始まったことではない。戦国時代でも同じである。
 ・目的の把握
  自分は何のためにこの仕事をしているのか?
 ・寄与度あるいは貢献度の認識
  自分のやった仕事は、どれだけ組織あるいは社会に対して役に立ったのか?
 ・公平な評価
  それに対して、組織はどういう評価をしてくれたのか?
・職場でリーダーと働き手の間にゴタゴタが起きるのは、常にこの三つをめぐっての論争
 だ。というよりも、働き手の方がもの三つに対して納得しない場合が多い。それは主と
 してリーダーの責任による。つまり、「きみに頼む仕事はこういう目的のためであり、
 やってくれた仕事は会社のため、社会のためにこれだけの役に立つ。だからそうしてく
 れれば、会社はボーナスをこのように増やし、また異動時にはきみの職位を上げてさら
 に活躍してもらう」ということを明確にしないからだ。 
・そしてその動機づけで各ことができないのが、「情報の提供」であるしかし情報を提供
 しただけではだめだ。
・情報の処理は、
 ・分析
 ・その中に含まれている問題点の摘出
 ・考える
 言いかえれば、情報の分析、考察、判断、決断などのプロセスを踏むということだ。
・しかし、熟練者ならこれがすぐできるが、未熟な人々は情報の提供だけではすぐこれは
 できない。そうなるとリーダーが、その手助けをする必要がある。多くは、「分析」に
 おける手助けが必要になる。   
・働き手はそれぞれが自分の中にこれらの行動をおこなえる内燃機関、すなわちエンジン
 を持った存在である。しかし人間である以上、たとえ自分のことでも自分自身がよく分
 からない場合がある。それが経験不足ということだ。そこでリーダーの役割は、それぞ
 れの働き手が持っているこの潜在能力を発見し、育てて生かすことだ。 
・リーダーが、なかなか分かってもらえない未熟な働き手に腹を立てて、いきなり、「な
 にをやっているんだ!ああやれ、こうやれ」と、相手に考える時間を与えずにすぐ動か
 すようなことをすれば、相手はモラール(やる気)を失ってしまう。 つまりリーダー
 は相手の気づいていない能力を気づかせるような火つけ役になり、ヒントを与えること
 が大事なのだ。相手のエンジンを動かすセルモーターの役割を果たすことが大切だ。そ
 してあと、本人の自己努力に任せる。これこそ、「働き手一人ひとりの自己開発の動機
 づけ」をおこなうことが、いま最も求められているリーダーシップなのではないだろう
 か。
・人を育てるということは、何といっても時間と根気が必要だ。 
・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、自分の部下に対して、「組織の成員は、ニギリメシの
 米つぶでなければならない」「組織の成員はおカユになるな」と説いたという。「おカ
 りだ。だから自分の大切なものは、汁に吸い取られてしまっている。また集めようとし
 ても集まらない。しゃもじを使うより仕方がない。そこへいくとニギリメシの米つぶは
 違う。ニギリメシという組織に属していても、握られた米つぶが一粒一粒、自分は米つ
 ぶだという主張をしている。つまり自分にとっていちばん大事なアイデンティティをし
 っかりと持っている。組織の成員は、すべてニギリメシの米つぶであるべきだ。しかし、
 米つぶだからといってそれぞれが好き勝手なことをしていいということではない。握ら
 れているということは、やはり組織に属し、組織のルールを守り、その秩序にしたがっ
 ているということだ。これが本当のチームワークであり、米つぶたちのおこなうことが
 そのままチームワークにつながる」ということだった。
・一般社員にとって、仕事をするということは、
 ・何のためにこんな仕事をするのか?という目的
 ・自分のやったことがどれだけ役に立ったのか、という組織目的に対する寄与度
 ・それに対しどんな信賞必罰が加えられたかという評価
 の三つをはっきり認識することだ。いってみればこれら三つについて「納得」すること
 が大切だ。 
・織田信長は若い頃”うつけ”とか”ばさら”とか”かぶき者”とか呼ばれていた。いずれもほ
 め言葉ではない。うつけとはバカのことだ。ばさらというのは仏教用語だが「世の中の
 常識外のことをするような風変わりな人物」という意味である。かぶき者の原語は”傾
 く”というところからきている。傾くすなわち”かぶく”といっていた。社会に対して体
 を斜めにかまえ、皮肉やからかいの気持ちを強く出して、まじめに生きていこうとしな
 い者のことだ。若い頃の織田信長は世間からそうみられていた。
・しかし、信長がうつけやばさらやかぶき者といわれて、城下町をうろつきまわっていた
 のは情報を収集するためだった。信長が終始城下町をほっつき歩いて、そういう流動す
 る人々と接触しているのは、それらの人々が蓄えている情報を聞き出していたというこ
 とだ。しかし単に信長は情報を聞きだしてうんうんうなずいていただけではない。彼が
 知ろうとしていたのは、「同時代人のニーズ」である。 
・信長が流動者たちから聞き出していたのは、
 ・その流動者が通ってきた国では、どういう産品が作られ、またどういう産品が欠けて
  いるか。 
 ・そこの支配者は、そういう調整をおこなうためにどういう政治や行政をおこなってい
  るか。その組織はどんなものか。トップの性格はどういうものか。
 ・その国内で、たとえほしかっても作れない品物にどんなものがあるか。その不足する
  品物を、そこの支配者はどう調達しているか。
 などということだ。信長は民衆生活にとって必要な品物のことから聞き始めた。しかし
 信長は単に国内産品のことだけを聞き出していた訳ではない。彼が本当に知りたかった
 のは、「同じ戦国時代に生きている日本人がのぞむ社会とは、いったいどういうものか」
 ということである。
・ある社会研究機関が「人間は何のために生きるか」ということを七つの項目で示したこ
 とがある。 
 ・平和に暮らしたい
 ・豊かに暮らしたい
 ・平等に暮らしたい
 ・正しく暮らしたい
 ・自己向上したい
 ・パフォーマンスしたい
 ・安定したい
・豊かに暮らしたいというのは収入のことだ。普通の人間としての生活ができるような安
 定した収入を得たいということである。平等に暮らしたいというのは、「差別のない世
 の中」のことだ。人間社会に設けられたいろいろな差別が、多くの人を苦しめている。
 そういうものが取り払われて、人間である以上誰もがその属性によって差別されること
 なく平等に生きたい、というのは戦国に生きた人々もまったくいまと同じであった。
・正しく生きたいというのは、社会正義がおこなわれ、それが社会の合意として守られて
 いるということである。とくに偉い人ほどこの合意を守らなければ、下の者が上部不信
 となり社会が乱れる。自己向上したいということは、生きがいを持ちそれに自分の努力
 によって近づいていくということである。「他人や社会に役立つように、自分を向上さ
 せていきたい」という自己努力の願いである。  
・パフォーマンスしたいとは、いわゆる価値の多元化社会に生きる人々の切実な願いだ。
 つまり自分で確立した価値観が社会に認められ、市民権を得るということである。同時
 にその価値観に誇りを持ち、自分を持って生きられるということだ。 

前例をあえて打ち破る
・江戸時代には、三回の経済の高度成長期と、三回の低成長期があった。高度成長期は、
 元禄、明和、安永そして文化・文政の時代である。景気が悪かった時代は、享保、寛政、
 天保だ。
・そして景気が悪かった時には、江戸幕府は必ず、いまの言葉を使えばリストラクチャリ
 ング(組織の再構築のための改革あるいはリエンジニアリング(根本的見直し)をおこ
 なった。しかし、経営改革も根本的な見直しをしなければおこなえないから、この二つ
 は根はまったく同じといっていいだろう。江戸時代の改革は、それぞれ、
 ・享保の改革は元禄のバブル崩壊の後始末
 ・寛政の改革は明和・安永のバブル崩壊の後始末
 ・天保の改革は文化・文政のバブル崩壊の後始末
 というように受け止められている。従って、改革者たちは、前時代の放漫財政を批判し
 非難する。しかし、政治家が一人や二人変ったからといって、本当に政策がガラリと変
 わってしまうものだろうか。
・政策は決して、一人の政治家によってクルクル変わるものではない。必ず、継続性と連
 続性がある。だから、どんなに変わったようにみえても、その中には必ず前の時代から
 の政策がそのまま続けられていることが多い。後世の政治家が、前時代の政治を批判し
 ても、後世の政治家がやっていることの中には、必ず前時代の悪い政治家がやっていた
 政策が含まれているはずだ。  
・享保の改革、寛政の改革、天保の改革は、江戸時代の三大改革といわれるが、二番目の
 寛政の改革と天保の改革は、それぞれ享保の改革を手本とした。そして享保の改革は、
 元禄の垂れ流しの後始末だといわれたが、元禄時代の政策を全部否定したわけではない。
 享保の改革を推進したのは八代将軍徳川吉宗である。
・徳川家康は組織に対し「分断管理」を適用した。とくに、管理職ポストには複数制をと
 った。いろいろなポストは絶対に一人の人間を任命しない。二人以上の人間をこれに充
 てる。家康は「人間は決して完全ではない。能力もパーフェクトではない。そこで、互
 いの欠陥を補わせるために、長所短所をよくみぬき、数人の人間を組み合わせてひとつ
 の目的を達成させるのだ」と考えた。  
・人間が果たしてそういうようにうまく組み合わせられるものかどうか疑問だが、家康は
 この制度を幕府全般に及ぼしだ。制度として確立したのが三代将軍徳川家光の時代であ
 る。老中、若年寄、大目付、いろいろな奉行職などが設けられた。しかしこれらのポス
 トはすべて複数制であって、単数のポストはない。 
・はじめのうちに、いい意味での競争心が湧いてお互いに仕事に精を出した。ところが、
 時代が下るに従って変わってきた。複数制で仕事をおこなうということは、「合議制」
 あるいは「集団指導制」のことである。これが攻めという形をとって積極性を持った時
 はいいが、守りに回って消極的になると始末に負えない。つまり、集団指導や合議制と
 いうのは、うまくいかなかった時の言い訳の理由になる。そのため、出るクギは打たれ、
 頭を出せばモグラ叩きのように叩かれる。結局は、みんな何もいわなくなってしまう。
・他人の意見を重んずる。それも、上位者の意見には絶対に従う。結局、自分のいいたい
 ことを通してもらうためには、他人のいっていることがたとえおかしなことでもこれを
 認める。結局、こういう合議制から生まれる結論というのは玉虫色で、みんなの意見が
 全部入っている。全く対立しているにも拘らず、それが平然と入っている。 
・「大同小異で、小さな違いは棚上げにする」というが、実際には大同小異ではなく「小
 同大異」の場合が多い。違いの方が大きくて、共通するところが少ないのだ。だから、
 なにか事が起こった時はバラバラになってしまう。いきおい失敗を恐れるようになって、
 案そのものも消極的になる。よくいう”石橋を叩いても渡らない”ということになって
 ゆく。徳川吉宗が将軍になった時は、完全にこの悪い面が江戸城に蔓延していた。江戸
 城に勤める役人たちは全部無気力であり、「休まず、遅れず、仕事せず」という状況に
 なっていた。 
・こういう状況になると、仕事に対する知識や技術が磨かれることはなく、人間関係の技
 術が磨かれる。これが細分化され、どんどん発達していく。いわゆる「組織内処世術」
 がはびこる。そして、この処世術に長けたヤツがどんどん出世する。いきおい、猟官運
 動や贈収賄がおこなわれる。ポスト争いが起こる。いつのまにか諸々のポストは、それ
 ぞれ利権の対象になっていた。生産性のある生き方をする者は嫌われ、非生産的でジメ
 ジメしたウエットな生き方をする者だけが重用される。人間の精神がしだいにみじめな
 ものになっていく。  
・改革には、これを阻む壁が三つある。
 ・物理的な壁(モノの壁)
 ・制度的な壁(しくみの壁)
 ・意識的な壁(こころの壁)
 この中で一番厄介なのは最後のこころの壁だ。いわゆる「意識改革」といわれるもので
 ある。長年太平な暮らしに慣れると、それがぬるま湯になって出ると風邪をひく。そこ
 でなんとかしてそのぬるま湯の中に止まろうとする。そのしがみつきの精神は、絶対に
 改革には協力しない。 
・徳川吉宗の考えたのは、
 ・発想の転換
 ・人材登用
 の二つであった。
・吉宗が「大奥に勤務する女性の中で、美しい女性を五十人ほど選んで名簿を持ってこい」
 と老中たちに命じ、「その名簿に載っている者は、家に戻せ」と命じた。「美しい女性
 ならば、何も大奥にいなくても嫁入り先に困るまい。家に戻してやれ。そうでない者は
 嫁にいくまでこの江戸城で仕事をするようにいえ」と命じたという話しは有名だ。
・「日本式経営」というのがある。そしてこれは古いことであり、悪いことなので改める
 べきだという風潮が経済界にある。外国から、「日本式経営は改革されるべきだ」とい
 う意見が強いからだ。日本式経営の中で最も槍玉に上げられるのはつふぃの三つである。
 ・永年雇用
 ・年功序列
 ・恩情的人事管理
 永年雇用というのは、いったん就職してらその組織では定年まで雇い続けるということ
 だ。年功序列というのはいうまでもなく、勤続年限が大きなモノサシとなって、人事給
 与が決められるということである。恩情人事管理というのはトップが温かい気持ちを持
 って従業員を扱うということだ。   
・「日本では、公の存在である組織を私物化している」といわれる。果たしてそうだろう
 か。逆にこういうものを保っているからこそ、日本では、上下の信頼感が生まれている
 のではなかろうか。 
・外国にはこれがない。ないというのは、転職が慣習化しているからだ。また、下の功績
 は上が奪う。だから、上と下の間にあるのは不信感だ。同時に、上は下に情報を伝えな
 い。伝えると自分が損をし、あるいは会社の損失になるからだ。会社の損失になるとい
 うのは、転職ばやりだからその人間が得た情報を持って、敵側の企業に転職してしまう
 ことがある。これは利敵行為になる。「そういうことを予防するためには、下には情報
 を与えないほうがいい」というのが、欧米の企業組織における考え方だろう。基本的に、
 日本以上の差別があり、伊互いに信頼感を持っていないことは事実である。 
・不景気が続いているためか現代人の桜に対する思い入れは深いものがある。東京でも、
 上野、飛鳥山、隅田川の堤、多摩川地域の小金井などには、ドッと人がくり出したりす
 る。しかし現在の東京人や近郊人を喜ばせているこれらの桜は、実をうえば徳川吉宗が
 植えさせてものだ。そして実際の植樹をおこなったのは、名江戸町奉行の名を高めた大
 岡越前守忠相である。 
・徳川吉宗は現在でいうリストラクチャリングあるいはリエンジニアリングをおこなった
 将軍だが、なんといってもそういう改革を推し進めるのは組織と人間である。従って、
 改革当初の人事には相当な意欲がこめられる。普通の改革者だったら、「いまの役につ
 いている人間は全員無能だ。だからこそこんな財政難が起こったのだ。根こそぎ取り換
 えてしまおう」と考える。
・ところが徳川吉宗の人事に対する基本方針は違った。
 ・大幅な入れ替えはおこなわない。
 ・守ってきた永年雇用制や年功序列制は重んずる。
 ・定員減はおこなわない。現員を守る。
 ・政策形成に黒幕のような存在は置かない。 
 ・しかし、いまいる役人たちがそのままの仕事の仕方をしていいというようなことには
  ならない。まだ自分でも開発していない能力を引き出させる。
 というものであった。
・吉宗は改革者のタイプとしては、「独裁型のトップ」である。独裁型のトップがよくと
 るのは、「少数の側近だけを重用する」という方法だ。いわゆる”腹心”だけを相手に
 し、何でもこの少数者と相談をして事を進めるというやり方だ。周りの者のほとんどを
 相手にしない。とくに古くからいる者を相手にしない。  
・しかし、吉宗はそんなことはしなかった。彼はあくまでも、
 ・現在の徳川幕府の組織を重んずる。
 ・その組織に身を置いている人間は活用する。
 ・ただし自分から辞めるという者は止めない。
 ・もし辞めた場合にはその補填に自分の選んだ人物を登用する。
・吉宗が始めた画期的な方法に、「目安箱の設置」があった。投書箱である。これは江戸
 で初めておこなったような印象を持たれているが、実はそうではない。吉宗が和歌山の
 藩主であった時代にすでに実行している。全体に、吉宗の江戸城における改革の内容は、
 そのミニチュア版がすべて紀州和歌山でおこなわれてきたものだ。その実績を踏まえて、
 吉宗は修正を加えながら享保の改革を実行したのである。
・吉宗は、江戸城の評定所前に設けた目安箱に対しては、次のような方針を立てた。
 ・住所氏名を明らかにしない匿名の投書は受け付けない。
 ・個人的な批判や自分の不平不満は受け付けない。
 ・あくまでも徳川幕府はどうあるべきか、江戸の生活はどう改善されるべきか、建設的
  な意見に限る。   
 ・目安箱の鍵は吉宗自身が持つ。間で開けることは許されない。従って、投書者は思い
 切った意見を出してほしい。
・投書の中には、「江戸の町では、貧富の差がはなはだしい。とくに身寄りのない老人が
 病気になると、そのまま捨てられてしまってのたれ死にをしている。みるに忍びない。
 幕府の援助で、適当な場所に収容施設を作ってほしい。そして医者が必要なので、もし
 よろしければわたしがその任に当たる」などという意見を寄せた医者もいた。小川とい
 う人物である。 
・吉宗は感心した。大岡を呼んで「この意見を実行せよ」と命じた。大岡は小石川(文京
 区)に老人の療養施設を建てた。小石川養生所と呼ばれた。初代の所長は投書した医者
 である。この人物がのちに小説や映画の”赤ひげ”になった。これが明治維新後、東京
 私立養育院(現東京都養育院)となった。
・徳川吉宗の改革の根本は、「発想の転換とその実行」であった。しかし、だからといっ
 て吉宗は、この発想の転換をいきなり急激に実行しようとは考えなかった。 
 ・発想の転換そのものが、すでに根本的な変革をもたらす。
 ・人間というのは、どんなに新しいことをいっても根本的には保守的だ。総論賛成各論
  反対というクセがある。いやなことは自分のことになれば必ず嫌う。歓迎はしない。
 ・そういう状況があるにも拘らず、改革者が強引に自分の新しい方法を押し付ければ、
  反対者と対立者を生むのが関の山だ。 
 ・改革というのは、改革者の考えを鵜呑みにさせて実行することではない。組織人全員
  が自分を変えて、改革者の理念に協力することである。
 ・そうなると、やはり急激に変化を与えることは好ましくない。漸進法でいくべきだ。
・徳川吉宗は在任中に一度も大きな声を出して人を叱ったことはなかったという。彼は大
 きな身体で、なかなかのスポーツマンだったが性格は明るかった。しかし、言葉つきは
 優しく大声を上げたことはほとんどないという。その点、将軍としては出色の人柄だっ
 たようだ。でなければ、改革に人々がついていくはずがない。リーダーシップというの
 は、よく物の本に書かれているような条件だけではダメだ。理屈にならない何ともいえ
 なう魅力がなければ人はいうことは聞かない。 
・謙虚な気持ちを持つ。これも吉宗の良いところである。
 ・すべて子供の気持ちに戻って、初心・原点の段階から物事をみつめ直すこと
 ・自分のパーフェクト(完全な存在)と思わずに、分からないことは専門家にどんどん
  聞くこと 
 ということは大切だ。このことは別な言葉でいえば、それぞれの方面におけるプロを活
 用するということである。
・江戸時代の武士社会には、中国から来た儒学の影響が強かった。「士農工商」という身
 分制はそこからきている。 
 ・士:国民のための政治をおこなう存在
 ・農:国民の食料その他を生産する存在
 ・工:農民の使う農工具や、国民生活に必要な工具を生産する存在
 ・商:自ら何も生産することなく他人が生産したものを動かすことによって利益を得て
  いる存在
・こういう考えから、「国民の中でも、土から農作物を生産する農民は武士のつぎに尊い。
 商人は、生産者ではないから一番軽い存在だ」という発想につながった。これがいわゆ
 る”身分制”の根本思想である。 
・徳川吉宗は歴代の将軍の中でも最も開明的な考え方を持っていた。彼の積極的な”リス
 トラ”は、単なるケチケチ主義ではない。しめつけ一方ではない。新しい事業もどんど
 ん興したし、また拡大再生産もおこなっている。そのために不足する資金を、彼は倹約
 によって生もうとしていたのだ。正しいリストラの方法である。
・徳川幕府の方針は、「農民は生きぬように死なぬように」という暮らしぶりを強制した。
 そして蔭では、「農民は菜種油と同じだ。絞れば絞るほど油がとれる」といわれた。い
 ってみれば農民の存在は、今日でいえば「税源」として考えられていた。徳 川吉宗は
 すぐれた改革者だったが、こういう農民の扱いに対してどれだけの愛情を持っていたか
 どうかは疑問だ。  
・吉宗の時代は財政がかなり緊迫していた。いってみれば、五代将軍徳川綱吉による元禄
 の放漫財政、垂れ流しの始末を吉宗はしなければならなかった。そのために吉宗は、日
 本国内にかなり新田開発を積極的におこなった。現在でも各地に残っている”新田”と
 いう名は、この吉宗に開発された地域が多いという。しかし吉宗の新田開発も、必ずし
 も農民の生活を豊かにするものではない。やはり、「徳川家の収入を増やしたい」とい
 う発想に基づいている。 
・もうひとつ、日本は狭い国だがいろいろな異変が起こる。不測の災害が起こる。天候の
 異変、長雨、冷夏、あるいはイナゴの発生などがしばしば起こった。そうなると米は絶
 滅する。農民がいかに努力しても、これは抵抗できない。当時、食料は輸入していない。
 国内の産品でも自給自足だ。たちまち国民は飢餓状況に追い込まれる。米を買おうにも、
 値段が高騰して手が出せない。こういう年は必ずたくさんの餓死者が出た。
・江戸時代には大規模なリストラが三回あった。徳川吉宗がおこなった享保の改革と、白
 河藩主松平定信がおこなった寛政の改革と、浜松藩主水野忠邦がおこなった天保の改革
 である。寛政の改革も天保の改革も、「享保の改革を手本にしよう」と志した。
・徳川吉宗の改革には、
 ・倹約という引き締め策
 ・外国の文物を輸入したり、あるいは国内資源に付加価値を与えようとする積極政策
 の二つがあった。しかし、寛政の改革を展開した松平定信や、天保の改革を展開した水
 野忠邦の経営政策は、どちらかといえば前者だけに絞られていた。つまり「減量政策」
 だけをおこなった。これはリストラの一部をおこなったのであって、全部をおこなった
 ことにはならない。そして、あまり締めつけばかりおこなうと国民生活は暗くなり、そ
 れをおこなっている徳川幕府の組織や人そのものもだんだん暗くなってくる。結果、改
 革は失敗する。寛政の改革も天保の改革も、国民に飽きられた。天保の改革の推進者水
 野忠邦は、失脚したその日に数万の江戸市民から石をぶつけられた。こんな例は日本の
 政治史上例がない。つぶてで追われた政治家は彼一人である。
・徳川吉宗の改革が、すべて成功していたわけではない。この改革も基本的には失敗した。
 なぜか。それはやはり吉宗が最後まで、「米経済」にこだわったからである。
・吉宗の後の時代に江戸時代でも珍しい経済の高度成長をもたらした、老中田沼意次の仕
 事はそれなりに評価していい。田沼意次がおこなったのは、徳川吉宗の享保の改革にお
 けるもう一本の柱、すなわち、
 ・輸入品の国産化と、資源に付加価値をつけて高価値化する。
 ということであった。田沼は貨幣経済を率直に重視した。商人の存在も認めた。江戸時
 代全く例がなかった、「商人に税を課する」ということもおこなった。これが日本全体
 を活性化し、各地の産品が競争してつくられ、同時に金の回りがよくなった。しかし、
 田沼自身は賄賂好きだったので、それ致命傷となって田沼も失脚する。しかし貨幣経済
 の進行と、商人の存在をありのままにみつめたのは、田沼意次だけである。
 
時代の先を読みきる
・「西郷南洲遺訓」というのがある。これは西郷隆盛が自分で書いたものではなく、彼を
 慕って鹿児島まで出かけていった出羽庄内(山形県鶴岡市)の大名だった酒井家の家臣
 たちが、西郷に接して、彼の言ったことをそのままメモしたものである。   
・なぜ、東北の大名家の家臣が何人も西郷を訪ねていったのかといえば、戊辰戦争の時に
 賊軍とされた酒井家に対して西郷が寛大な処置をとってくれたからである。本来なら、
 酒井家は潰されその家臣団も全部失業するはずだったが、西郷は酒井家が謝罪金を差し
 出すことによって、家の存立と家臣団の生活を守った。  
・この「南洲遺訓」の中には、つぎのような内容がある。
 「国民のために政治をおこなう者は、己を慎み品行を正しくし、ぜいたくを戒め、節約
 につとめ、仕事に専念して国民の模範となるようにしなければならない。そして国民が
 その働きぶりを気の毒に思うくらい尽くさなければ政令はおこなわれない。ところが、
 せっかく明治維新を実現しながら、多くの高級官僚が大きな屋敷に住み、ぜいたくな着
物を着、財産を残すことばかり考えている。こんなことでは、明治維新の本当の目的は
達成できない。そうなると、せっかく日本国内で互いに血を流しあった人々の犠牲も意
味がなくなってしまう。維新のために死んだ人々に対して面目のないしだいだ」「文明と
いうのは、人間の道が広くおこなわれることをいうのだ。その国の宮殿が立派だったり、
来ている着物がぜいたくだったり、みかけが華麗なことをいうのではない。
 いまの日本でいっている文明は薄っぺらなものでほんとうの質を見失っている。日本人
 が、野蛮だという国々の人の方が、かえって本当の文明を持っていることがある」