死にたくもないが、生きたくもない :小浜逸郎

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人生八十年時代と言われ、日本は世界最高の長寿国となっている。巷では「生涯現役」
「いつまでも元気で枯れない」「アンチエイジング」などという言葉がもてはやされてい
る。しかし、長生きするということは、本当に幸せなことだろうか。「いつまでも枯れな
い」とか「アンチエイジング」と叫んでみても、そういうふうに叫んでいる本人は気づか
なくても、実際の身体はどんどん老いていく。他からは異様に見えてしまっているかもし
れない。
特に筆者が熱心に論じているのは老人の性の問題である。老人になったからといって性欲
がなくなってしまうわけではない。よく「色ボケ」などと言われて顔をしかめられること
があるが、老人になりボケてしまっても性欲だけは依然として残っている場合がある。性
の問題は、若き日も、そして老いてからも悩ましい問題のようである。
その他にも、年齢的には完全に老人の域に入っていながら、本人は老人になったことを認
識しない、肉体年齢と精神年齢との乖離から起こるいろいろ問題が生じる場合がある。人
は生まれた時から老いがスタートするとも言われる。いくら老いに抗しても老いていくこ
とは避けられない。老いていくことに抗せずに、受け入れていくことも重要なようである。

あと二十年も生きなくてはならない
・住み通すことのできないこの世で長生きして、醜い姿になるまで生き延びたところで、
 何になろうか。命が長ければながいほど恥をさらすことになる。長くても四十歳に満た
 ないころ死ぬのが、ほどよいタイイングである。その年輩を越してしまうと、容貌を恥
 る心もなくなってやたらと世間の人々と交わりたがるようになる。そして、傾きかけた
 夕日のように余命幾ばくもない年をしながら、子どもや孫をかわいがり、その将来が栄
 えることを期待してそれを見届けようと長命を望み、ひたすら世間的な名誉や利益をむ
 さぼる心だけが深くなっていき、もののあわれも感じ取ることができなくなってしまう。
 これはまことに情けないことだ。
・私たちは「いつまでも枯れない」のではない。ほんとうは枯れかけているのに、その後
 もだらだらと生きてしまうので、「枯れきることが許されない」だけなのだ。もちろん、
 個人差が大きいことを否定しない。しかし、「老い」がはっきると訪れてくる年齢帯は、
 平均的に見てだいたい五十代後半から六十歳あたりに集中する。
・朝起きたときにしばしば腰の痛みが残る。脚の筋力が弱っているうえに体のバランスが
 悪くなって、歩いててもふらつく。階段や坂を上るとすぐ息が上がってしまう。
・物忘れがひどくなった。固有名詞が出てこない。新しい本などを読んで勉強してみても、
 中身が頭に残れない。物事に対して新鮮な感動を得られなくなっている。新しい物事に
 取り組もうとする意欲が低下している。仕事や勉強に集中力が続かない。
・「老い」は内側からひたひたと押し寄せてくる。五十代後半くらいからその兆候はにわ
 かに顕著になる。これは昔とあまり変わっていない。問題なのは、ほんとうは枯れ始め
 て疲れてきているのに、あと二十年も生きなくてはならないという点である。
 
「生涯現役」のマヤカシ
・いろいろなことが面倒くさくなってくる。何がある行動をとることの意味が強く感じら
 れなくなってくる。
・酷な言い方かもしれないが、老い始めた私たちの先行きには、輝かしいことはありえな
 いだろうという覚悟をまず固めなくてはならない。輝かしさはじっと待っていればやっ
 てきてくれるものではない。そして輝きは自分の内部からは自然に遠ざかる。つまり徐
 々に輝きを失っていくだけなのだ。
・何か生きがいを見つけて、そこに集中できる人はできりかぎりそれを続けるがいい。し
 かし、そのような人の活動や表現も、他人の目には、そこに老いの兆しが表れているの
 が見えることは避けがたい。だからだんだん下り坂にしかなっていかないことを潔く認
 めてしまったほうがよいのである。
・今も昔も五十代後半から六十くらいが、人間にとって、死と境を接した「老い」の関門
 にぶつかる重要な説目だということである。この、五十代後半から六十くらいを何とか
 乗り切ると、たぶん、そのあとはまた違った人生の境涯がおとずれてくるのだろう。
・日本では親子世代間は、両方がもたれ合うような関係になっている。子どもは親の経済
 力を当てにしている。また、親は子どもに出ていかれるのも寂しから、経済力があるか
 ぎりは特に自立を強いない。
・日本人の勤勉な国民性や、豊かになってから日が浅いために、たとえ貯蓄があっても簡
 単には不安から抜け出せない歴史的事情などにその要因を帰すべきではないか。
・少なくとも、団塊世代以上の年齢層では、勤勉のモラルは残っている。ホリエモン現象
 に道徳的な嫌悪感情から眉をひそめたのも、中高年世代以上に集中していた。
・たしかに景気の側面からは、小金を持った高齢者が財布の紐を締めて遊興に走らないこ
 とは、大きなマイナス要因かもしれない。高齢者よ、もっと消費せよと煽る声もないで
 はない。日本人は優雅に遊ぶことを知らないといって避難する向きもある。しかし、時
 間があれば悠々と遊ぶことよりもやはり働くことを選んでしまうという日本人の平均的
 な国民性は、当分の間あまり変わらないと思う。
・日本の高齢者の現実の労働力率の高さや「働く意欲」の高さの秘密は、「働いて稼ぐ」
 ということに込めている「社会的な被承認欲求」の強さにある。つまり、録をはんでい
 るかぎりは一人前の社会的な個人として認められたいという欲求である。
・一定の報酬が得られることが、そのまま、その人が一定の社会的人格の持ち主であるこ
 とを証明する大きな象徴的意欲を持つのである。そのことによって、「私はこれだけ稼
 いだ」という実感が、そのつど自分のアイデンティティを支えるのである。
・六十歳以後も何か仕事に就いていたいという欲求の源は、自分が社会的存在としてのア
 イデンティティを保っていたというところにある。
・お互いに好きなことを楽しんで、何かあったら協力する。定年後は、いかに夫婦がすれ
 違い、顔を合わさないか。それが「離婚しない秘訣」だと思います。
・日本人は、宗教的敬虔さのようなタテの価値軸にはあまり忠実ではない。それよりも、
 「働く人々」の仲間入りをしているという、具体的な、ヨコの価値軸に身を寄り添わせ
 る。そのことによって「世間」から暗黙の承認を得て、そこに日々の安心を見出すとい
 う特性が強いのである。日本には、「社会」があるのではなく「世間」があるにすぎな
 い。
・日本の高齢者の労働力率の高さは、日常の心の安定のために「世間」を重んじるという
 文化的価値基準を象徴するものとなっている。
・もともと生きていることそのものに意味なんかあるはずがない。ただ人間は、何かの活
 動に自分を託して、そこにみずから納得できる意味を作り出さざるをえない存在だと言
 えるだけである。
・財産がいくらあったら悠々自適が可能なのかという基準、尺度がない。そのため大方の
 人は、多少の小金があったとしても、経済的な不安からそれほど自由にはなれないだろ
 う。
・人間はすぎに退屈する動物であり、自分のやっていることの「意味」を考えてしまう動
 物である。趣味に生きるといっても、そんなに一つや二つの趣味に没頭して長い年数を
 明け暮れる人がたくさんいるだろうか。
・およそ趣味というものは、余暇とした与えられた時間を埋める試みであり、孤独を慰め
 る営みである。趣味が高じて仕事になってしまう場合は別だが、仕事にはならないから
 趣味なのである。仕事にはならないということは、社会への基本的な開かれとは別の領
 域でそれを追求するほかないということだ。
・人間の本来の営みは何か。恋愛や結婚生活や労働である。趣味は、これらの本来の営み
 の外側にある。それは、あくまでも生活の中心からは浮き上がっている。
・年金生活に対する不安は、無趣味の人の勤労意欲を促すだろう。少し余裕がありながら、
 まだまだ不安だというくらいのところがちょうどいいのかもしれない。年金に頼ること
 が難しくなるこれからの日本は、無趣味の人にとっては、勤労によって長い時間を埋め
 ていく格好の舞台だと思う。
・無趣味な人の中なかにも、恋愛関係にだけは強い関心を抱いている人がたくさんいる。
 今日では、高齢者になっても、多くの人が心身のよりどころとして新鮮な異性関係を求
 める存在であることは常識となっている。
 
年寄りは年寄りらしく
・老いの入り口に立たされた団塊世代の人々の多くは、むしろ、どうすればなるべく不幸
 せにならずに自分のこれからのを生きていけるかという「私的」関心に支配されている
 にちがいない。
・お金も大事だ。人から嫌われないように身近な人間関係をうまくやり繰りすることも大
 事だ。どうやって時間を埋めれば自分が少しでも充実できるかということに心を砕くこ
 とも大事だ。
・ある種の人は消極的な理由によっても自殺すると思う。自分がだれかに必要されなくな
 ってしまった、意欲を持って取り組むべきことがなくなってしまった、一通り何かが終
 わってしまった、何も面白いと思えることがなくなってしまった、など。人は、ことさ
 らに不幸感情に支配されているのではなくてとも、これから先生きていても仕方がない
 という心境に陥ることがある。そうなれば、実行にはいたらないまでも、自殺を意識す
 ることはごくふつうのことだと思う。
・ただだらだらと長生きしてどうするのだ。オランダで合法的とされている安楽死、けっ
 こうじゃないかと思う。
・生命尊重・健康第一の思想が間違っているというのではない。しかしこの思想があまり
 に全面に出て、何が何でも延命がよく、長寿がめでたいこととして宣伝されると、それ
 はそれでちょっと待ってよと言いたくなる。
・幸せな老人がいるかたわらには、孤独で不幸せな老人もたくさんいる。そういう老人た
 ちが自分の高齢を祝ってもらって嬉しいだろうか。幸せな老人の映像を見て、自分との
 違いに憤懣を募らせるのではないか。
・老いていくということは、活発に動いている現実社会に適応できなくなっていくことで
 ある。そのことはだれでも認めざるをえない、そしてだれにとっても避けられない事実
 である。彼らの一定割合が社会的弱者に転落していくことを、曇りない目で見つめなく
 てはならない。その冷厳な実態を、一人一人の老人が引き受けるのでなくてはならない。
・競争とスピードと技術革新を重んじる現代社会のあり方は、かつてに比べて老人をお払
 い箱にする割合を増やしているかもしれない。
・幼稚園児扱いされることにばかばかしさを感じながらも仕方なくしたがっている老人や、
 折り紙を折る老人ホームの入居者たちの姿に、やがて自分にも確実にやってくる本格的
 な老いのイメージを託し、そうしてその前にただ立ちすくんでいる。このただ立ちすく
 む姿勢こそ、老いを前にした私どもの年齢のリアリティがある。
・普通の人は、欲望の視界を徐々に縮こませながら、日常的な営みにかまけることで孤独
 と不安を糊塗しがなら、なるべく迷惑と厄介にならないように気遣いながら、何だかし
 ょぼしょぼと置いていくのである。
・別に「よく生きる」ことなどいまさらできるわけでもなく、ゆっくりと老いていくので
 ある。長生きしたって、そんなにいいことがあるわけがないが(少しはあることを否定
 しないが)それでも長生きしてしまうのである。
・「若い者にはまだまだ負けない」と言ってみても、またじっさいそのように実践できた
 としても、しょせんは元気を気取る域を出ない。しょうがないから「やっこらさ」と腰
 を上げるのである。まさにそのように気張らなくてはならないということが、「若さ」
 に力には勝てないことを証明している。
・高齢者の性の問題が、さまざまな波紋を巻き起こしていることは、いま水面下で少しず
 つ語られ始めている。人間のエロス的な意識は。年齢が高じてもそう簡単に枯れきらな
 いようだ。
・人間が異性を求める感情は、生殖目的に直接無筋ついてはいず、また直接の性行為や肉
 体的な性欲の充足だけをめがけていはいない。それは人恋しさという心的なかたちをと
 るので、いくら年をとっても完全になくなってしまうということはほとんどありえない。
・永年暮らしてきた中高年夫婦がセックレスになり、それでも習慣と惰性から夫婦関係を
 続けていく場合、その間の心理関係の綾は、どのように処理されていくばきなのか。夫
 が性関係を強要しても、妻がそれを拒否する。逆に妻がひそかにそれを求めていても、
 夫がすでに妻に対して性的関心をなくしていたり、不能だったりする。こうした場合、
 それぞれが諦めるしかないものなのか。
・老人の元気な活力をできるだけ引き出して、それを生かそうとすればするほど、それは
 「いつまでも枯れきらない」ことを同時に進めることになる。したがって、エロスの面
 でも「困った元気」を発揮する可能性が高まるはずである。「美しく老いる」とか、
 「いつまでも元気で」などの美辞麗句をいくらちりばめたところで、それらの言説は、
 老いを迎える人々の人生の実相の上澄みをすくい取るだけである。その現実生活の最も
 具体的な場面には触れてこない。
・人間は有限の生命体で、しかも消滅するのではなく、衰弱するように出来ている。だか
 ら、衰えるものの選択を自分の知恵でしなければ、犯罪にもつながるのだ。諦め上手が、
 諦め下手かで、長い人生の幸福は決まる。
・美しく楽しく生きられる人生の五ヶ条
  ・いくつになっても男と女
  ・肌の若返りは心の若返り
  ・バランスのよい食事と適度な運動
  ・よく笑い、よく話し、そしてよく噛む
  ・長生きこそ最大の誇り
・長生きすることで、周囲に疎んじられることもあれば、対人関係で、これまでには考え
 られなかったトラブルの発生も予想される。老人ホームで、痴呆が進んだ人たちが起こ
 す性的なトラブル、嫉妬や恋愛感情お葛藤などには、施設の人々も対策に困り果ててい
 るそうである。
・長生きは、さまざまな条件の単なる結果であって、心がけでどうになるものでもない。
 むしろ大事なのは、長生きしてしまったときにどう振舞うかではなかろうか。
・人生の終末が見えてきて、それゆえにこそ最後の残り火をかき立てたいという気持ちも
 とてもよく理解できる。もう思い残すことなくなり、経済的、身体的な条件にも恵まれ
 た高齢者が、人に迷惑をかけないかぎり自分の人生を燃焼させたいと考えるのは、当然
 の成り行きだとも言える。だがそれは、どうしようもなくそうだという「事実」を語っ
 ているにすぎない。だれもがアホをやってしまうものだという意味でなら、人はまさし
 く「いくつになっても男と女」なのである。自分はいい年をして相変わらずアホをやっ
 ているなという自覚が伴っているなら、それはそれでよい。ところが自覚がだんだんな
 くなってくるのが加齢であるから始末が悪いのだ。  
・杖をついたり車椅子に乗るようになったりした高齢者が、性的なことに出を出したり恋
 愛沙汰にはまったりした場合、その切なさを理解することは必要であろう。しかしそれ
 は、周囲の立場からすれば、あくまで「理解してあげる」「優しく見守ってあげる」と
 いう範囲のことであって、おおいに推奨すべきこととはどうしても思えない。
・育ち盛りの子どもたちの健康に神経を使うのは当然だとしても、私たちいい年をした大
 人が、自分たちの健康維持を一種の自己目的として、そのために過剰の神経を使うよう
 な文明社会の大げさぶりは、どこかおかしい。
・何のための健康なのかが忘れられて、「健康維持」という題目だけが一人歩きし、一つ
 の宗教的な「お札」と化してしまっているのだ。
・その健康維持のためにたくさんの時間や金を費やし、そのために長生きが実現したとし
 て、その長生きして得た時間で何をするのだろうか。やっぱり健康維持のために時間や
 金を費やし続けるのだろうか。
・健康維持や治療のために私たちは生きているのではない。健康維持や治療はあくまで充
 実した毎日を送るための手段にすぎない。健康は活動のための外的な条件であり、枠組
 みである。
・もういい年なのだから、いまさら健康、健康と血道をあげなくてもいいじゃないか。仮
 に寿命を延ばすことができたからといって、たかが数年の違いだろう。周囲の人間は、
 あなたの長生きなどそんなに望んでいないかもしれないのである。
・適当に道楽し、しかるべき時が来たらさっさとくたばる。なかなかそううまくことは運
 ばないだろうが、それが理想である。
 
老いてなおしたたかな女たち
・私たちの生活感覚は、別に一人暮らしをしているのではなくとも、すでに個人として生
 きるという意識でかなりの部分が充填されている。したがって、子どもの結婚や孫の誕
 生それ自体によって、さほど意識が変容するとは考えられない。
・高齢者の性愛問題は、男性の場合、性的不能になっても性的好奇心のかたちで持続する
 し、女性はもともと性愛問題を、より多くの心の問題、つまり恋愛関係の問題としてと
 らえる傾向を持っている。そこで、やはりある年齢に達したら「一丁あがり」というこ
 とにはならずに、ずるずると引きずることになるだろう。
・行為や欲望のあり方としての男の性は、そのつど単発的な傾向が強く、したがって、そ
 の対象を心理的な意味であまり選ばない。魅力的な(どんなところに魅力を感じるかは
 人それぞれだが)異性のボディがそこにあれば、性欲を刺激され、相手かまわず行為に
 向かって突き進んでしまう。
・男のセクシャリティは、特定の他者を「愛する心」に結びつきにくいところがある。心
 と体が分裂していると言ってもよいし、性欲がまったく性欲として実存から自立してし
 まっていると言ってもよい。
・これに対して女のセクシャリティは、欲望と特定の他者を「愛する心」との間に明瞭な
 分裂がなく、彼女の性欲は、だれかを好きになることにほどよく結びついている。それ
 は、だれかに積極的に「愛」を感じることによって強く開かれる。だから複数の男に言
 い寄られた場合でも、簡単に誘惑されることなく逃げて平然としている。自分の気に染
 ない男の誘いにうかうかと乗ったりしない。
・自分の性的魅力があることを多少とも自覚している女ならば、その魅力に磨きをかけて、
 いい男が現れるのを待っていればよい。あるいは、いかにいい男を誘い込むかに心を砕
 いていればよい。
・女が男を求めるのは、純粋な性欲の処理に迫られてというよりは、愛されることを期待
 してのことである。女は男よりもよりはっきりと自分の好きな男を「選ぶ」。つまり彼
 女の体と心は男ほど分裂していない。したがって、一見ふだんは性欲になど市販されて
 いないように見えながら、いったんこれと思えば、男よりも強い性欲に促されることが
 ある。
・男にとってインポテンツは、女性が考えているよりもはるかに深刻な問題である。年を
 とるにしたがって、例の五本指ではないが、男としての能力が意志に逆らって生理的に
 衰えてくることは否定しがたい。バイアグラがあれほど売れるのも男の切なさを示して
 あまりある。
・男の「異性を求める心」と性的な欲望とは分裂している部分もあるので、真剣な恋をす
 る情熱のほうは限りなく無に近くなったとしても、若い女の尻をさわりたいといった感
 覚だけはなかなかなくならない。
・高齢男性の性は、なるべく若い女の体にさわりたいとか、それを覗きたいとか、ただ体
 を重ねて温もりをたしかめていたいとかいった、子どもの性的嗜好によく似たものにな
 っていくのではないだろうか。
・男性は年を重ねるほど、性的には成熟どころか、ますます自分本位で幼稚になっていく
 危険があるのかもしれない。
・子どもをもてなかった寂しさを埋め合わせる方法はけっこうある。仕事や趣味に打ち込
 むこと、新しい人間関係のネットワークを作たり、これまでの人間関係を大切にしよう
 とすること、断念の上に立って自分の心身に磨きをかけること、など。女性はそういう
 生き方の知恵に無意識に長けている人が多い。
・女性は、自分の気に入った男を誘い込む手段として、容色の美、みめうるわしさが何と
 いっても最高の武器であることを本能的に知っている。それでなければ、あんなに努力
 するはずがない。
・性愛関係で、女性がいくつになっても望んでいることは、性の快楽そのものではなく、
 性の快楽を通じて「愛されている」と実感できることである。
・中高年層の性の意識調査結果
 ・男性は、相手の性的欲求が自分より乏しすぎると感じている割合が高い。逆に女性は、
  相手の性的欲求が自分より強すぎていると感じている割合が高い。
 ・「気乗りのしないセックスがあるか」という問いに対して、男性は「ない」と答える
  割合が高い。逆に女性は「ある」と答える割合が高い。
 ・「望ましい性的関係は?」という問いに対して、男性は「性交渉を伴う愛情関係」と
  答える割合が高い。対して女性は「精神的な愛情やいたわりのみ」と答える割合が高
  い。
 ・さすがに65歳を超えると、男性でも前者が急減し、代わって後者の傾向が増加して
  くるが、それでも70代の男性で「性交渉」を重んじる割合は4人にひとりを占める。
  対して女性70代で「性交渉」を重んじるのは、10人にひとりほどである。
 ・女性の場合、「精神的な愛情」のほうが、すでに55歳から急増して、全体の半分を
  占めるようになる。また70歳を超えると、「その他」「無回答」が3割に達する。
  対して男性で「精神的な愛情」を第一に挙げるのは、65歳以上でも3割ほどである。
 ・離婚願望は女性のほうが男性よりもずっと高い。反対に、「配偶者以外の異性に惹か
  れることがあるか」という問いに対しては、男性のほうが女性よりもずっと高い。
 ・70代女性の「その他」「無回答」の割合の高さは、その内実がわからないが、想像
  するに、「そんなことはもう考えない、どっちでもいい」という乾いた態度が多いの
  ではないかとおも言われる。   
・団塊の世代が老いていくと、きっと性愛関係をめぐるいざこざが量的に目立つかたちで
 顕在化してくるだろう。そこには、当事者同士だけではなく、たとえば彼らの子ども世
 代との心理的・経済的な葛藤なども含まれるだろう。
・枯れてもいいのに枯れきることができないという中途半端な長い年月が、滑稽かつ悲惨
 な悲喜劇をあちこちで生むのではないか。心すべきことなり。  
・女性も男性並みに働くことを促す男女共同参画政策が、どうして少子化を食い止めるこ
 とになるのか、その結びつけの論理はまったく納得できない。いつの間にかこの無理な
 結びつけが政治の場で当然のように通るようになってしまった。この政策は、共働きで
 経済的に余裕があり、子どもをすでに持つことができている人たちだけを特権的に優遇
 するという意味で、公平な制度設計とは言えない。
・いくら育児環境が整っていても、いまどき、好きでもない人と一緒になろうなどと考え
 る男女がいるとはとうてい考えられない。「好きだからこそ結婚する」というモチベー
 ションの強さがかえって結婚相手に対する理想水準の高度化を生み出した。それが未婚
 ・晩婚化をもたらしているのである。なまじ経済力もあるから、適当なところで手を打
 つ女性があまりいなくなってしまったわけでだ。
・女性の労働力率が高まることが、どうして出征率の増加に結びつくのかがロジックとし
 てまったくわからない。  
・閉経や容姿の衰えなどよりもずっと前に、三十代の未婚女性あるいは既婚でも子どもを
 生んでいない女性にとって、すでに「老い」の問題は、かなり早期に意識化されている
 かもしれない。出産年齢の身体的な臨界点が近づいてくるという絶対的な事実を突きつ
 けられているからである。
・女性は、この出産の身体的な臨界期を意識することで、「老い」に対する焦りを男性よ
 りも早く自覚せざるをえないのだ。これからどうやって人生を設計していくのかという
 問題は、比較的若い女性にとってこそ切実である。大部分の女性は、愛するに値する人
 に愛されることを人生最大の課題と考えているからである。
・熟年離婚が増えていることからも想像できるように、多くの女性は、甲斐性のない配偶
 者をわりあい簡単に見限るようになってきているのだと思われる。
・中高年男性が仕事で失敗して困り果てたときに、それをどこまでも連れ添う気持ちが女
 性のなかで希薄になっている。たとえ離婚しなくても、女性は長年連れ添った配偶者を
 心理的にやすやすと見捨てていることがおおいのではないか。
・女性の見限り意識は、男性の側の無意識の反転した鏡でもある。おそらく、家族メンバ
 ーの意識と無意識における個人主義的な傾向は、男女とわず、もうずいぶん前から進ん
 でいるのだ。その心理的な現実をまずお互いが認め合わないと、相手に対する期待感情
 は空を切ってしまうだろう。
・五十代から六十代の男性の多くは、現実的にか心理的にか、その反遇者から見捨てられ
 ている。そして女性は男性よりも長生きする。おまけに晩婚社会になり、女性は一生の
 間で、パートナーなしで生きる期間がずいぶん長くなったことになる。それでも女性は、
 別に悲鳴など上げない。同性同士の仲間作りがうまいし、日常のこまごましたことで自
 分を充足させる術にも長けている。
・中高年女性の離婚願望は強く、かつ、精神的な愛情やいたわりがないなら男性とつきあ
 いを続ける必要性などないと感じているフシがある。つまり、女性は年を重ねれば、性
 愛問題へのこだわりを超越することができてしまうのである。この違いは、年齢が進め
 ば進むほど、顕著になるだろう。老いを迎える男性は、孤独に平気で耐えるこの女性の
 したたかさ、あるいは孤独をうまく回避する生のテクニックを少し見習うべきかもしれ
 ない。

長生きなんかしたくはないが
・年を重ねると、他人が自分の振る舞いをそんなに気にはしていないということがよくわ
 かってくる。だから、恥をかいても高が知れたものとして自分を許せる。失礼なこと
 をされても言われても、いずれ他人というものはそんなものと見なして、さほど傷つか
 なくなる。無益な争いにも疲れてくるし、どんな争いが無益かに関しても、ある種の勘
 がつかめてくる。そうすると、他人との関係を円滑に回すことができる。いわば適度
 に恥知らずになるのだ。
・熟年の利得をうまくキープするためには、単なる個人の心構えだけでは足りない。恵ま
 れた健康状態、恵まれた人間関係、恵まれた経済状況、時間的余裕、充実した毎日を過
 ごしているという実感、もともとの性格などが必要とされる。これだけの条件をすべて
 備えた人というのは、どうみても小数派であろう。何かひとつの条件が欠ければ、熟年
 の利得はそのぶんだけ殺がれてしまう。だからこそ、ただ長生きがめでたいなどと言え
 ないのである。右のような条件が満たされない限り、だれでも疎んじられるガンコジジ
 イやイジワルババアになってしまう危険から逃れられない。私自身はそういう条件を確
 保できないなら、長生きなんかしたくない。
・老人は一般に、活力が衰え、記憶力も減退するから、社会的な人間関係を広げたり、こ
 れまでの関係を良好に維持し続けることが難しくなる。
・したいこと、意欲、精神力といったものが、肉体の衰えの過程にそのまま寄り添って低
 下していくのなら、さほど問題ない。しかし人間というのは、いつも生理的な過程と意
 識の間にズレを持つ存在である。肉体が活発に動かないのに、意識だけは妙にはっきり
 しているということがありうる。
・諦めるということが簡単にはできないので、不満を募らせ、時には身近な人に当り散ら
 したり、鬱的で気むずかしい気分に落ち込んでしまったりする。精神のエネルギーを好
 ましくない方向に費やしてしまうのだ。
・感情ほど厄介なものはない。理性的な側面、公正な判断力や視野の広さ、洞察力などが
 衰えても、自分や他人に対するいらいら感だけは旺盛に残っているということがありう
 る。
・老化の兆候が表れたとき、周囲の人にとって始末が悪いのは、むしろ意識がしかりして
 いて、ある前提のもとではそれなりに筋の通った言い分に固執するような場合であろう。
 一種のパラノイア的な傾向である。前提そのものがおかしいのだが、その前提の根拠は
 本人の感情や気分にあるから、感情や気分が変わらないかぎり、筋の通った言い分がそ
 の感情や気分に利用される。
・総卒中や子もくも膜下出血などのような突発的な事態が生じないかぎり、「老化」は、
 日常生活の連続性のなかで徐々に進行する。だから、老いていく側の身としては、昨日
 よりも今日、今日よりも明日、一歩一歩「ぼけ」に向かっていくのだということを前も
 ってしっかりと自覚しておく必要がある。いつまでも自分は若いのだなどと思い込んで
 いると、周囲のまなざしとのズレが知らぬ間に大きくなって、いらぬ心理的な葛藤を引
 き起こすもとになる。
・一定年齢以上になったら、次のようなことを心がけるべきである。
 ・周囲の人々が自分につちえ言うことをよく聞く
 ・相手の反応を見ながら自分の年齢段階と肉体の状態、精神の状態とを絶えず推し量る
 ・肉体と精神との無理なズレを引き起こさないようにする
 ・自分にできることとできないことをよく見極める
 ・「年寄りの冷や水」「老いの木登り」をなるべく避ける
 ・自分が周りからどう遇されているかについての自覚を怠らない
・いつまでも若くあろうとひたすら心がけるのではなく、「老いて後は子に従え」「若者
 に道を譲れ」を、ほんとうに老いてしまう前からゆっくりと実践するのだ。やみくもな
 老化防止に汲々とせず、身体の衰えをそれとして受容して、精神をその衰えの過程にな
 だらかに合せていく。

あとがき
・ものごとはよろず、そう単純には割り切れないのだ。「悟り」の境地など、なれと言わ
 れてなれるものではない。「悟り」をきわめつつ日常を生きるとは、具体的にはどうい
 う態度なのか、私にはすっきりとはわからない。
・だらだらと老い、だんだんに死んでいく。それがある年齢に達したふつうの人のふつう
 の生きかたというものであろう。このあり方をそのまま認めるしかない。