仕事なんか生きがいにするな  :泉谷閑示

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 題目に興味を持って読んでみた。しかし、題目から想像していた内容とは、ちょっと次
元が違ったように私は感じた。もっと、現実的な問題として書かれているのかと思ったが、
内容はかなり哲学的であり、現実的な問題とかけ離れているようじ感じ、いったい、結局
なにが言いたいのか、私には共鳴や理解ができなかったというのが、正直な感想である。
筆者の謂わんとすることは、なんとなく理解はできるが、どうにも抽象的な内容に偏りす
ぎてしまっているようところが残念だ。筆者は精神科医らしいが、精神科医とはこのよう
な世界に身を置いているのだろうか。
現代人は「生きる意味」を失っているというが、そもそも「生きる意味」とはなになのか。
「生きる意味」に悩むことができる者は、現代に生きる人たちの中においても、一部の恵
まれた層の人たちではないだろうか。未だに大方の人たちは「生きる意味」など考える余
裕などない生活を強いられているのが現実ではないだろうか。
「生きる意味」とか「有意義に過ごす」とかというような言葉に縛られず、自由に自分の
心のおもむくままに毎日を送り、生きることを楽しみたいものである。

はじめに
・人間は、生きることに「意味」が感じられないと、生きていけなくなってしまうという
 特異な性質を持つ、唯一の動物です。
・私たちは今日、少なくとも物質面や衛星面において、そして何より情報化という側面に
 おいて、様々な欠乏や不具合を解消し、かなり便利で安全な生活を手に入れました。し
 かしその一方で、この一見豊かになった現代において、「生きる意味」が感じられない
 と苦悩する人々が、急激に増えてきています。
・人間という存在は「生きる意味」を見失うと、精神が衰弱してしまうのみならず生命そ
 のものまでもが衰弱し、ついには死に至ってしまうこともある、ということです。
・何らかのハングリーな状況に直面すると、人はどうしても、まずはその解決を図ろうと
 し、それさえ解決すれば幸せになるのではないかと考えてしまうものです。しかし実際
 のところは、問題が解決されても喜ぶのはほんのつかの間で、すぐさま別の不足が気に
 なってきて、気付けばまたもやハングリーな状態に陥ってしまいます。このように、初
 めは幸せになるための手段だったはずのものが、いつの間にか自己目的化して、出口の
 ない欲望の悪循環が生じてしまいます。経済的安定を求めたり、利便性の向上を目指し
 たりしたことも、このような自己目的化のループによって肥大化した結果、今日のよう
 な経済至上主義と情報過多の時代が招来されたのだと言えるでしょう。
・社会的成功や世間的常識などにとらわれず、俯瞰的にこの世の趨勢や人々の在りようを
 眺めることができたとき、人には必ずや「実存的な問い」が立ち現れてくるものです。
 
生きる意味を見失った現代人
・人は「主体性」を奪われた状態のままで、自力で人生に「意味」を見出すことは原理的
 に難しいものです。まずは、人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、
 すなわり「自我」を復活させることから始めなければなりません。
・世の中のテンポがせわしいものになり、私たちはついつい「役に立つか立たないか」を
 性急に求めて、近視眼的に、目に見えてすぐに役立つものに傾倒してしまいます。
・落ち込んだ人間は、自分が何かからっぽになったように感じる。まるで手足が萎えたか
 のように、活動するのに何かが欠けているかのように、身体を動かすはずの何かが足り
 ないためにうまく動くことができないかのように感じる。そこで、何かを摂取すると、
 からっぽだとか、萎えたとか、弱ったとかいう感じはしばらく消えて、自分はやっぱり
 人間だ、確かに何かを持っているし、無ではないと知覚する。人は自分の内の空虚を追
 い払うために物を詰め込む。これが受動的な人間なのである。彼らは自分がちっぽけだ
 という不安を持ち、その不安を忘れようとして消費し、消費人となる。
・外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らわ
 すために消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、
 その内実は「受動」でしかないのだ。
・物を次々に手に入れないと気が済まない。何か物足りないので、空腹でもないのに食べ
 物を詰め込む。休日を「有意義に過ごした」と思いたいので、出来合いのレジャーや娯
 楽に時間を使う。スケジュールに空白ができるのがイヤなので、用事を隙間なく詰め込
 む。通勤時間といえども時間を無駄にしたくないのだ、経済新聞を読んで経済情勢につ
 いてキャッチアップするか、語学学習にあててスキルアップを図る。独りぼっちの感覚
 に陥らないように、LINEやツイッター、メールなどのネットツールで常に誰かとつ
 ながっていようとする。家にいる間は、観ていなくても、とにかくずっとテレビをつけ
 ておく。
・現代人の「空虚」は、「空白」「無駄」「無音」といったものによって実感されられや
 すいので、これを避けるために様々なツールが生み出され、人々はそれに群がります。
・「受動」的であることになじんでしまった私たちは、自らの内面と静かに向き合うこと
 が、いつの間にかすっかり苦手になってしまいました。
・人間が「受動」的な状態に陥ってしまうと、「空虚」「空白」を埋めてくれるもの、つ
 まり「役に立つこと」「わかりやすいこと」「面白いこと」を渇望するようになるわけ
 ですが、しかしこれは、内面的な「空虚」から目をそらすための「代理満足」に過ぎな
 いので、そこには必ずや「質」的な不満足が生じてきてしまいます。代理のものでは、
 やはり「心」が本当に求めているものとは違うので、真の満足には至らないのです。こ
 の「質」的な不満足に対してわれわれの「頭」は、代わりにこれを「量」的にカバーし
 ようとあがきます。その結果、際限なく「量」だけが増大していってしまうことになる
 のですが、これが「依存症」の本質的なカラクリなのです。
・人間は、それでもやはり動物の一種であるのですから、飢えの問題を真っ先に解決しよ
 うとします。しかし、それがある程度満たされたとき、人は、次に安全の欲求、所属の
 欲求、承認の欲求などに向かっていき、最後には高次の欲求である自己実現の欲求に向
 かいます。 
・現代の若い世代の人々は、情報化が進んだことによって、大人たちが表面上演じている
 「社会的自己」すなわち「役割的自己」について、その舞台裏の空疎な実態を、かなり
 早い段階から知ることができる環境にあります。そのために、昔の世代のように楽観的
 で希望に満ちた将来像を描いたり、夢に向かって無邪気に進むことができにくくなって
 いるのではないかと思われます。それゆえに、物質的困窮の有無にかかわらず、ハング
 リー・モチベーションを原動力にしてひたむきに「社会的自己実現」を目指すような生
 き方自体が、もはや時代錯誤な昔話のごとく響くようになってしまったのです。
・現代の学校の多くは、いつの間にか「学問」ではなく、社会の「役に立つ」人間を養成
 するために「役に立つ」勉強を教え込むことを主たる使命と考えるようになり、実在的
 なテーマを扱う余裕を失ってしまったのかもしれません。しかし学生たちの中には、意
 識的にせよ無意識的にせよ、それでも「こういうことについて知りたかったのだ」「考
 えたかったのだ」という欲求が、熱く潜んでいたのです。
     
現代の「高等遊民」は何と闘っているのか
・人間には、「労働」というものを軽蔑するものとして、なるべく避けようとする傾向と、
 逆に「労働」によって生命の喜びが得られる傾向とがあり、この両者を併せ持つややこ
 しいところがあるのです。
・私たちの現代とは、決してギリシヤ時代よりも進歩したのではなく、皆が「労働する動
 物」という名の奴隷以下の存在に成り下がってしまい、人間らしい「観照」も「仕事」
 も見失ってしまった時代なのです。そんな本末転倒の時代にあって、少しでも人間らし
 い在り方を求める者は、「食う為」だけの「労働する動物」に成り下がることを潔しと
 せず、「観照生活」を求めて「高等遊民」という浮遊した在り方を選ばざるを得ないと
 いうこともあり得るわけです。
・アメリカにおいて、資本主義の精神はもはや「世俗内禁欲」などという宗教的・倫理的
 意味合いも失われ、スポーツのごとき単なるマネーゲームに変貌していったわけです。
 私たちがグローバル経済と呼んでいるものの正体は、このようなものなのです。
・「労働」から完全に離れてしまうことは、人間から活力と生命を奪い去ってしまうこと
 になる。これは、生き物としての一つの真実です。しかし、だからと言って、「労働」
 によってほとんどが占められるような生活もまた、決して人間的生活とは呼べないでし
 ょう。
・人間らしい「世界」を取り戻すためには、儲かるとか役に立つとかいった「意義」や
 「価値」をひたすら追求する「資本主義の精神のエートス」というものから各々が目覚
 めて、生き物としても人間としても「意味」が感じられるような生き方を模索すること。   
 この狭き道こそが、これからの私たちに求められている課題であり、希望なのです。
 
「本当の自分」を求めること
・「自分探し」なんて時間の無駄である、「本当の自分」なんてどこにもありはしない、
 そんなことを考えている暇があったら何でもいいから働け、といった乱暴な議論があち
 らこちらでなされており、ただでさえ自信が持てなくなっている彼らは、これによって、
 さらに自己否定を強めてしまっているという困った実情があります。
・生まれ育ってくる中で避け難く曇らされてしまい、「頭」でっかちで精神病的にならざ
 るを得ないわれわれの感覚や認識というものを、「心」を中心に回復させることができ
 たとき、人は「本当の自分」になったという内的感覚を抱きます。これは、生まれ直し
 たかのような新鮮さと歓びに満ちたものであり、「第二の誕生」とも呼ばれます。「中
 年期の危機」を解決することとは、この「第二の誕生」の経験を得ることにほかなりま
 せん。
・現代に生きる私たちは、何かをするに際して、つい、それが「やる価値があるかどうか」
 を考えてしまう傾向があります。このような、「価値」があるならばやる、なければや
 らないという考え方に、「意義」という言葉は密接に関わっています。つまり、私たち
 が「有意義」を言う時には、それは何らかの「価値」を生む行為だと考えているわけで
 す。
・うつ状態に陥った人たちが療養せざるを得なくなってまず直面するのが、この「有意義」
 な過ごし方ができなくなってしまった苦悩と自責です。働くとか学校に行くといった
 「有意義」なことができない自分を、「価値のない存在」として責めてしまうのです。
 問題なく働けて社会適応できている時には気付き難いことですが、私たち現代人は「い
 つでも有意義に過ごすべきだ」と思い込んでいる、一種の「有意義病」にかかっている
 ようなところがあります。
・また現代では特に、「価値」というものが「お金になる」「知識が増える」「スキルが
 身に付く」「次の仕事への英気を養う」等々、何かの役に立つことに極端に傾斜してし
 まっているので、「意義」という言葉もそういう類の「価値」を生むことにつながるも
 のを指すニュアンスになっているのです。しかし、一方の「意味」というものは、「意
 義」のような「価値」の有無を必ずしも問うものではありません。しかも、他人にそれ
 がどう思われるかに関係なく、本人さえそこに「意味」を感じられたのなら「意味があ
 る」ということになる。つまり、ひたすら主観的で感覚的な満足によって決まるのが
 「意味」なのです。
・「意義」とは、われわれの「頭」の損得勘定に関係しているものなのですが、他方の
 「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びによって捉えられるものであり、
 そこには「味わう」というニュアンスが込められています。
・現代人が「生きる意味」を問う時には、ともすればつい、この「意味」と「意義」を混
 同してしまって、結局「生きる意義」や「価値」を問うてしまっていることが少なくな
 いのです。そしてこれが、問題を余計難しくしてしまっているのです。
・生産マシーンのごとく、常に「価値」を生むことを求められてきた私たちは、「有意義」
 という呪縛の中でもがき続けていて、大切な「意味」を感じるような生き方を想像する
 余裕すらない状態に陥ってしまっているのです。
・人が生きる「意味」を感じられるのは、決して「価値」あることをなすこよによってで
 はなく、「心=身体」が様々なことを「味わい」、喜ぶことにとって実現されるのです。
 「本当の自分」というものは、どこか外に待ち受けていてくれるものではなく、自分の
 内部を、「心=身体」を中心にした生き物として自然な在り方に戻すことによって達成
 されるのです。
 
生きることを味わうために
・何でもないように見える「日常」こそが、私たちが「生きる意味」を感じるための重要
 な鍵を握っているのです。「日常」を死んだ時間として過ごしてしまうと、その退屈で
 苦痛な時間を耐え忍ぶために感性を硬直化させることになってしまい、ある時にたとえ
 素晴らしい非日常的体験を得たとしても、もはやそこに十分な喜びを感じ取ることさえ
 できなくなってしまうでしょう。
・人生を「味わう」ことが、どこか背徳的なことであるかのように見なされ、せいぜい、
 「労働」という苦役を果たした後に、やっと「ご褒美」でわずかに許されるものと捉え
 られている実情が、未だに続いています。例えば、会社員が自分の仕事が終わったから
 といって自分だけ帰ることがはばかられたり、有給休暇を申請しづらかったりするよう
 なことは、まさにその典型的な表れでしょう。
・いつの間にか、経済原理が世の中を動かす中心的な力を持つようになってしまい、人々
 は「質」の大切さを犠牲にしてまでも経済価値を追い求めるようになってしまいました。
 その結果、様々な物事に対しても、プロセスよりも結果の方を重視するような考え方が、
 広く世の中に蔓延するようになったのです。
・あえて無計画、無目的に、自分の行動を「即興」に委ねてみることによって、私たちの
 決まりきった日常が、ささやかながらもエキサイティングな発見と創意工夫に満ちたも
 のに変貌します。これを私は「偶然に身を置く」と呼んでいます。  
・「遊び」とは、子供のような「好奇心」と「創意工夫」によって生み出されるものです
 が、既存の制度の中で「習う」ことによって、効率的に上達はしても、「好奇心」自体
 があべこべにしぼんでいっていしまうようなことが、案外、少なくないのが実情なので
 はないでしょうか。私たちは、もはや「何者かになる」必要などなく、ただひたすら何
 かと戯れてもよいのではないか。それこそが、「遊び」の真髄だと思います。
・「心」の向くまま気の向くまま気軽にやってみる。気が向かなければならない。「継続」
 などと堅苦しく考えたりせず、ただ壮大な人生の暇潰しとして「遊ぶ」のです。
・アリ信仰は、禁欲的に労働して未来に備えることを過度に賛美し、その反作用よして
 「今を生きる」「生きることを楽しむ」ことを良からぬこととして捉えるような、倒錯
 した価値観を生み出しました。「苦しいこと」「我慢すること」こそ正当なことで、
 「楽しむこと」「心地よいこと」は堕落だとして罪悪感を覚える。そういうメンタリテ
 ィで窮屈な人生を送っている人は、今日でも決して少なくありません。
・「今を生きること」を犠牲にして、その分何かを貯め込んで将来うまいことやってやろ
 うといったん卑しい「頭」の発想は、われわれの将来が未知であることの不安にうまく
 つけ込み、数々の金融商品や保険商品等を生み出しました。そういったものをすっかり
 否定するつもりではありませんが、しかし「今を生きること」をないがしろにしてまで
 将来に備えるのは、本末転倒以外の何物でもありません。