男たちへ :塩野七生

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この本は、1989年頃に出版されたもので、当時、興味を持って購入して、途中まで読
みかけたのだが、当時は、その内容についていけずに、途中で投げ出しして、本棚の奥で
ホコリをかぶったままとなっていたものだ。今回、再挑戦して、なんとか最後まで辛抱強
く読み通すことができた。
“フツウの男をフツウでない男”にするための、「男性改造講座」とのことである。男がほ
んとうの大人になるための最良のバイブルであるとされているが、とにかく辛辣な内容が
多い。
もう30年も前のものなので、内容的にも古さを感じる部分もあるのだが、それでも、現
代にも通じる部分もあり、今でも参考にできるものもある。

昨今の国会議員や高級官僚の不祥事を目にして、いったいどんな学歴の持ち主かと確認す
ると、なんと驚くことに、その多くは日本の最高学府と言われる「東大」卒が多いことに
気づく。もちろんこれは、国会議員や高級官僚になれる人の多くは「東大」卒なんだとい
うこともしれない。
日本の最高学府と言われる「東大」を卒業いているのだから、教養も十分あり、人間的に
も尊敬できる人だろうと思っていたが、昨今の不祥事を起こす「東大」卒の人たちを見る
と、その一般的な見方は、どうもあやしいものだったとも言えるだろう。
激しい受験競争に打ち勝って「東大」に入れたのだから、きっとお勉強はよくできた人だ
ちだと思うのだが、「東大」に入ってから、どんなお勉強をしたのか知らないが、どうも
人間としてまだ未熟ではないのかと思ってしまう「東大卒」の人がいるのはどうしてなの
だろうか。

この本の中で、「頭が良い人」とはどういう人なのかに書かれており、なるほどと納得し
てしまった。確かに「東大卒」=「頭の良い人」でない例は、しばしば見かけるからであ
る。しかし、そう考えると、いくら一生懸命勉強しても、持って生まれた素質がない人は、
必ずしも「頭の良い人」にはなれないことになる。素質がない人は、いくら努力してもム
ダだということなのか。もし、そうだとすれば、それもなんだか悲しい気もする。いずれ
にしても、いくら知識で身を固めても、教養は簡単には身につかないということなのだろ
う。それでも、知識を振り回して、自分の思いを他人に押し付ける人間よりも、少しでも
自分の「哲学」を持つ人間になりたいものである。

それにしても、この筆者の言い分は、なかなか辛辣だ。不幸な男についての章において、
男の人生が幸か不幸は四十代で決まるという説を展開しているのだが、この言い分からす
ると、四十代で不幸な男は、その後に人生においても幸福になることはないということに
なる。言い換えれば、四十代で幸福を手にすることができない男の人生は、それ以降どん
なに頑張ってもムダであるということになる。生きている価値がないと言っているような
ものである。その言い分は、あたっているかそうではいかは別として、それでは、四十代
で幸福を手にできない男は、それ以降はどんな生き方をすればいいというのであろうか。
ぜひ筆者に訊いてみたいものだ。
いずれにしても、とても私は、フツウでない大人の男にはなるのは無理だと強く思った。

頭がよい男について
・女は結局のところ、頭の良いのが最高だ。ここで言っている頭の良いということは、お
 しゃべりしたりする時のためばかりに取っておかれる類の基準ではない。ベッドの上で
 あろうと、どこでもいつでもすべての行動を律する、いわば基本、ベースと言ってもよ
 いものだ。だから、有名大学の競争率の高い学部を卒業して、一流企業や官庁や大学に
 勤めている人が、頭の良い男とイコールにならないという例も、しばしば起きるのであ
 る。日本では、教育はあっても教養のない男(これは女も同じだが)は、まったく捨て
 られるほど多い。
・つまり、ここで言いたい「頭の良い男」とは、なにごとも自らの頭で考え、それにもと
 づいて判断をくだし、ために偏見にとらわらず、何かの主義主張にこり固まった人々に
 比べて柔軟性に富み、それでいて、鋭く深い洞察力を持つ男、ということになる。
・なんのことはない。よく言われる自分自身の「哲学」を持っている人ということだが、
 哲学と言ったってなにも難しい学問を指すのではなく、ものごとに対処する「姿勢」を
 持っているがいないかの問題なのだ。だから、年齢に関係なく、社会的地位や教育の高
 低にも関係なく、持つ人と持たない人のちがいしか存在しない。
・丹波哲郎という俳優は、まあ男っぽい面がまえの俳優とは思っていたけれど、頭のほう
 も上等な男とは思っていなかったので、意外や意外、と感心した次第。  
・「おれは軍隊で一小隊以上は指揮したことはないんだけれども、このままだとどうせ全
 滅するんだったら、弾が飛んでくる中にいっぺん立ってみようと立つんだ。そうすると、
 兵隊は敵も見ないで全部おれのほうを見ている。こっちはハラハラしながら、もうあと
 三十秒立っていよう、三十秒に間に弾に当たったら運が悪いんだと思っている。そして
 ゆっくりと塹壕に下りる。こういう場合にオドオドしたら、何と言ったってだめなんで
 す。反対に今言ったような行動した後なら、兵隊を手足のごとく動かすことができる。
 どこにでもついてきます」と丹波は語った。 
・私でも書くときは、読者は頭になく、眼の前の担当編集者に向かって書く。彼を、でな
 ければ彼女を、うならせてみたいという思いだけで書く。なぜなら、それが上手くいけ
 ば、その向こうにいる不特定多数の読者にも自然に通じる、と確信しているからである。
・「俺だって、好む演出家と好まない演出家がいる。演出家で嫌いなタイプは、弱い者い
 じめをするやつと、必要もないのに動物を殺すやつ。「豚と軍艦」という映画は好きだ
 ったけど、監督は嫌いになった。最後のところで、波打ち際に仔犬の死骸が五、六匹浮
 かんでいるシーンがある。それを撮る時、今まで飼っていた犬をわざわざ注射で殺して
 水につけた。生きている犬が死んでいく過程だったら、それもやむをえなかったかもし
 れないが、死んでいるところだけなら、オモチャの仔犬を水につけたって同じことなん
 です」と丹波は語った。
  
嘘の効用について
・母親は普通、息子や娘に嘘をついてはいけないと教える。しかし、このての教育は、ま
 たは家庭でのしつけは、もうそろそろ考え直してみてはどうであろうか。嘘をいわない
 ことを第一の徳としてきたアメリカ人の、素朴かもしれないが単純そのものの思考や行
 動が、彼らが絶大なる力を持っているだけに、どれほど否定的な影響をもたらしている
 かを思えば、そうそう簡単にワシントンを見習えといってもいられまい。これにわが日
 本は、嘘から出たマコトという深い洞察をわらわす格言を持つ国でもあるのだから。
・とはいえ、私は、何にでも嘘をつけといっているのではない。嘘を有効につくことは、
 真実さえ言っていればよいのと違ってたいへんに頭の良いことが要求されるのだ。そう
 そう誰にでも勧められることではない。世に言う見え据えた嘘とは、頭の悪い人のつく
 嘘の典型で、もちろん、つくよりも付かない方がよいに決まっている。
・つまり、嘘とは、真実を言っていては実現不可能な場合に効力を発揮する、人間性の深
 い洞察に基づいた、高等な技術の成果なのである。バカにできることではない。
・また、ウソはすれた大人の言うことであって、純真な子供は言わないというのもたいへ
 んな誤解である。子供も頭がよければ、実に巧みに嘘をつく。このような場合、大人は、
 子供の嘘を受け止めてやらないといけない。嘘をついたという理由だけで叱るようでは、
 子供の頭脳の正常な発達を阻害するだけであろう。
・いかに両親に真実を話すように日頃から言い聞かせていても、所詮、効果はないのであ
 る。子供自身に自分の得になるか損になるかの判断力がないから、悪い道は踏み込むの
 だ。常日頃から無邪気にしても巧妙にしても、子供ながら頭をふりしぼってついた嘘を、
 笑って受けとめてくれたほどの親なら、子供は、大切な時には、意外と真実を語るもの
 なのである。   
 
再び、嘘の効用について
・それにしても、なぜ日本語の「愛」の言葉というのは、われわれ日本人にさえ自然に響
 いてこないのであろう。不自然にしか響いてこないということは、嘘を言っているよう
 にしか聴こえないということである。
・「あなたを愛している」それを言う当人が、女である場合はまだよい。女は簡単に、自
 分で自分を酔わせることができるから、「あなたを愛しているわ」ぐらいは、ごく自然
 に口にすることができる。つまり、女が言えば、まあまあ相当な程度にはほんとうに聴
 こえるのである。
・ところが、日本語で男が言うと、もういけない。高倉健が、「オレはおもえを愛してい
 る」なんていう図を想像してみてください。日本人同士のラブシーンが、概して無言の
 うちに展開されるのは、このあたりの事情を考慮しての結果のように思えるのだが、ど
 うだろう。
・つまり、日本語による愛の表現力は実に貧しいのだ。それらを口にする時に不自然さを
 消してくれる、リズムが欠けているからである。いや、リズムが伴うように、言葉自体
 を作らなかったからである。
・こういう現実を知ってというわけか、われわれ日本の女たちは、日本語による愛の表現
 はどうもわが国の男たちにとっては不得意であることから、「好きだよ」程度で満足し
 ているのが大勢のようである。だが、大変につまらない恋愛しか味わえないことになる
 のも、知ってのうえでのことであろうか。
・私も、個人としては、恋人には迷惑はかけたくないと常に思っている。しかし、恋人と
 は、ひどく迷惑をかけてくる女は困るにしても、まったくかけないという女ではものた
 りない、と思う存在であることを知っている。
・要するに、世の男とは、少しぐらいならば、「迷惑」をかけて欲しいのだ。もしも、そ
 れさえもイヤだと言う男がいたら、それはもう男ではない。
・というわけで、恋人には、自然に響かないために、恥ずかしいというかためらうという
 か、そういう思いなしには口にできない言葉を言わせるという、「迷惑」をかけてみて
 はどうだろう。「ボクは、キミを愛している」と言わせるのだ。
・人間というものは、いかに心の中に思っていても、それを口にするかしないかで、以後
 の感情の展開がちがってくるものである。なぜなら、心の中で感じているうちは、自分
 の耳で聴くことはないのに反して、いったん口にすると、誰よりもまず自分が聴くこと
 になる。つまり、言葉というのははっきりした形になって、頭に入ってくるということ
 だ。男は、絶対に、彼自身の頭脳を通過したことでないかぎり、彼自身の心に定着させ
 ない。だから、どれくらい真実が含まれているかどうかは、問題ではないのである。口
 にして以後、真実が含まれはじめるのだ。  
・そして男は、二度目に同じ「言葉」を口にするようになった時、最初の時のためらいを、
 必ず少しばかり忘れているはずだ。そして、三度目、四度目。男は、いつのまにか、彼
 自身も意識しないうちに、相手の女をほんとうに愛していることに気がついて、誰より
 もまず枯れが驚くだろう。
・「口に出さなくても愛している」とか「言葉を越えるほどの愛」とかいう言葉を耳にし
 たり、書いてあったりするのを目にした時、私は、哀れみさえ感じる。そんなことは、
 外側を変えることによって内側を変えるという、人間相手にしか通用しないこの愉しみ
 とは終生無縁な、感受性の鈍い人々だけの話と思うからである。
・禁断の甘い匂いは、禁断を犯さないかぎりかぐことはできない。男たるもの口にすべき
 言葉ではない、とされてきた言葉を、言わせてみてはどうであろう。そのためにいかな
 る策謀をこらそうと、いかなる手を使おうと、絶対に試してみる価値はある。口にすべ
 きでない言葉を言った後の男の変りようを見れば、納得がいくはずだ。最初の柵を越え
 れば、次の、そしてそのまた次の柵を越えるのは、ずっと簡単にいくのだから。
・恋人でも夫婦でも、男女の関係には、友人同士とはどこか違うものがなくてはつまらな
 い。親と子の関係に似て、人間の長い一生のうちで、そうそう何度も恵まれるものでは
 ないのだから、恵まれた以上、完全に味わうよう努力すべきではないかと思うんだが、
 どうでしょうか?

「同じ言語」で語りあえることの尊さについて
・これが自分の世界なのだ、と言えるものを持っている男なんて、まったくスデキではな
 いか。それも、古の人たちと語り合っているのだ、などという表現で伝える男なんて、
 ステキでなくてなんであろう。
・私たちの周囲には、きっとこの種のノーブルな魂の持ち主が、意外と多くいるような気
 がするのだが。そして、それを見出すかどうかは、私たちの心の中に、ステキな要素が
 どれくらいあるかどうかにかかっている。
・私の友達の一人に、恋をしている女がいる。相手の男も、彼女を愛している。ただ、二
 人とも、結婚することもできなければ、同棲することもできないのだ。お互いにある事
 情によって、女には女の事情、男には男の別の事情があって、結婚にまでもっていくこ
 とが許されないからである。
・よく、結婚は愛する相手とするものであって、愛が失われれば結婚を続けることはない
 というが、現実は、その一刀で切断するほど簡単ではない。愛情をまっとうするとか、
 愛を成就するとかいうが、すべての恋愛が結婚や同棲という幸運な形でまっとうできる
 とはかぎらない。当人たちの、勇気の有る無しには関係ない。ここしばらく奔放な生き
 方が賞賛の対象によくなるが、奔放な生き方を貫ける人は、もともとそれをできる環境
 に恵まれていたか、それとも、古い言葉を使えば人間のしがらみに、無神経でいられる
 「大胆」な人にかぎる。不倫の恋が、しばしば、人間関係の倫理に敏感な人々の恋に冠
 される非難の言葉であるのは、なんとも皮肉な現実ではあるけれど。
・不倫の恋は、世を忍ぶ恋でもある。彼女には、自分の恋を誰にも打ち明けることが許さ
 れない。相手の男の社会的立場もあって、母親にさえ言えないと、彼女は言った。私も、
 相手が誰であるのか知らない。だが、この私の女友達は、好きでそういう関係を続けて
 いるのではない。
・私は、恋愛は交通事故と似ていて、一生事故にあわない人もいれば、幸か不幸か、何度
 かあってしまう人もいるのだ、などと言ってみたけれど、なぐさめにもならなかったよ
 うに思う。  
・この彼女は、死んだら無縁墓地に入るのだと決めている。上野にあるお寺には無縁仏を
 まつる墓があるそうで、その人たちの骨はみな一緒にされて、埋められているらしい。
 無縁の人でなくても、自ら望めば入れてもらえるらしいのだ。彼女は、死んだらそこに
 行くと決めている。相手の男が、こういうことが可能だと言ったことがあって、彼女も、
 じゃあ二人ともそうしましょう、と言ったというのだ。二人とも、遺言者をつくってそ
 の中に明記したという。無縁墓地でも一緒にいられるなんて、彼女にとってはこれほど
 愉しい夢もなかったのであろう。 
・くだらないロマンティシズムだと笑う人はそれでよい。私だってそれを聴いた時は、骨
 がカラコロいっぱいのつまった墓の中で、お互いに離れたところに投げ込まれた二本の
 骨が、ちょっと失礼などと言って、他の骨をかきわけて近づく図を想像して、悪いけれ
 ど笑ってしまったのだ。 
・無縁墓地でしかそい遂げられない恋愛なんて、それが不倫であろうとなかろうと大恋愛
 にはちがいないが、現実はかくのごとく滑稽で、それでいてやりきれないものである。
 だが、それを笑う精神をもちあわせながらも、それを生きていく糧にしなければならな
 いとしたらどうだろう。笑いながらも、相手の「世迷言」を真っ向から受けとめるのが
 友情にしても愛情にしても、情愛を感ずる相手に対する「礼儀」ではないだろうか。
・このような関係に一度でも恵まれた人は、幸運な人だと私は思う。まったく、交通事故
 と同じで、死ぬ人もいれば瀕死の重傷を負う者もあり、かとって、かすり傷だけで助か
 る人もいるという具合で、代償はさまざまです。しかし、代償を払う価値は充分にある
 のではないか。少なくとも、生きていくことは素晴らしいと、心の底から言うことがで
 きる。 
・よく、話題のない人、という評価を耳にすることがある。だが、話題のまったくない人
 などいるものではない。共通に話題がないか、それとも、精神的なつながりを持ってい
 ない者同士が話すからである。共通の話題だけに限るならば、同じ職場に勤めていたり
 同郷の出であったりするだけで、話の種がつきない程度には見つかるだろう。だが、と
 もに同じ「世界」に遊ぶために必要な、「同じ言語」で語ることができるつながりとな
 ると、恋愛に似ていて、一生会わない人と何度となく会う幸運な人とはっきり分かれる
 ように思えるのだ。
 
女には何を贈るか
・同性間の愛情にはまったく偏見を持っていない私には、相手が異性であろうが同性であ
 ろうが、関係ないことである。問題にしているのは、その関係のあり方なのだ。そして、
 愛情の介在する関係が甘美な決闘ならば、贈り物は武器に役目を果たす。それなのに、
 チョコレート花を贈っていれば義務を果たしたと思うのは、武器を有効に使っていない
 ことと同じではないか。いや、何も贈らなくても自分に気持ちは相手に通じている、と
 信じきっている男にいたっては、それ以下だから論ずるに値しない。
・しかし、女とはやっかいな存在なのですね、ほんとに。なぜかというと、男との関係が
 一つではもの足りなくなる存在なのである。毛皮も宝石も大好き、花も大好き、チョコ
 レートは肥るからなくても我慢するが、時には知的な映画も見たいし、ハイブロウな本
 も贈ってもらいたいし、この香水はキミに似合う、なんて言われて贈られると、ゾクゾ
 クするし・・・。 
・要するに女には、贈れるものならなんでも贈ったらよいのです。そうすれば女は、贈ら
 れたものに応じて、さまざまな変身をしてみせまる!
・贈っては絶対にいけないもの。ブラジャーとパンティー。この二つを買う時、女は試着
 室にこもり、自分の身体に完全にあうものに出会うまでは出てこない。つまり、真剣勝
 負の対象なのである。

人前で泣く男について
・人前で泣く男がいる。それもこの頃では、昔のように大の男が人前で泣くなんてみっと
 もないという基準が崩れたのか、しばしばという感じでよく見かけるようになった。
・私には、人前でなく男ではなく、人前で泣ける男、と言い換えたほうが適度だと思うけ
 ど、まあいずれにしても、人前で泣くのは女の専売特許と思わされて育った私には、少
 し困惑気味の現象なのである。いや、女だって人前では泣いてはならぬと、私などはし
 つけられてきたのだから。 
・誰もが同じテレビ・ドラマを見て泣くというわけではない。多くの人が泣いたという
 「おしん」の幼女時代も、私には少しも泣けなかった。それはきっと、私が苦学力行と
 か苦節十年とかが、あまり好きではないからだろうと思う。それどころか、そういう人
 は偉いとは感心はするけど、成功後のそういう人たちの言葉や行ないの端はしに、なに
 かしらゆがんだり貧乏くさかったりするところを見出すことがあって、そのたびに、で
 きるならば人間、陽の当たる道を進むにこしたことなし、と思ったりするのだ。
・なにひとつ苦労のない人生を、良しとするわけではない。ただ、人間には、運に恵まれ
 る人と恵まれない人がいる、と思うだけである。そして、四十歳以前は天与のものであ
 る割合が大きいが、四十歳以後の運はその人自身の「せい」である場合のほうが、大き
 くなるものだと思っている。 
・私の友達の一人に、フィレンツェの美術館に勤める若い婦人がいる。その人はつい最近、
 八歳になっていた一人息子を失った。思いがけない事故だったから、まったく不意に襲
 った不幸だった。
・その当時、彼女の涙を見た者は誰もいなかった。人前をはばからず顔をクシャクシャに
 して泣いていたのは、夫のほうである。彼女は涙ひとつこぼさなかった。絶望は頭の働
 きを止めてしまったらしく、彼女の行動はなにかしら機械的だったが、それ以上に胃の
 働きも止めることがあるのは、私は知らなかった。彼女は、その当時、食べるものはみ
 な吐いてしまっていたのである。機械的に口にするのだが、三十分もたたないうちに、
 それを全部吐き出してしまう。彼女が拒絶する代わりに、胃が拒絶してあげているよう
 だった。彼女の夫は、それをひどく嫌った。涙は理解したにちがいないのに、嘔吐は理
 解できなかったのである。
・六カ月して、彼女は家を出た。夫のほうは、妻が家を出てから六カ月もしないうちに、
 別の女と同棲生活を始めた。離婚の正式な成立を待って、その女と再婚するつもりだと
 いう。彼女は今もひとりだ。悲しみは時が経てば薄れるし、なにか別のことで入れ換え
 も可能だけれど、絶望はそれが不可能なのだろう。過去は忘れ、未来に眼を向けるべき
 だなどという一般的な忠告を、私はすることができない。今の彼女は、一見なんの不幸
 もうかがえない、その道では見事のプロの仕事ぶりで活躍している。だが、私は彼女と
 会うたびに、ほんとうの絶望は涙を枯れさせてしまう、と思うのだ。これは、女でも男
 でも同じではないだろうか。 
・たいして悲しくもないのに、人前で嘆きの場面を展開できる人がいる。ざめざめと、涙
 を流せる人がいる。そういう人は、人前であろうと一人であろうと関係なく、泣ける人
 なのだ。そういう人にとっても悲しみとは、量でも質でもなく、悲しめるという行為の
 問題なのである。
・これはなにも、悪く評しているのではない。悲しみに簡単に乗れる人と乗れない人のち
 がいだけなのだから、別の言い方をすれば、実に想像力が豊かで、その想像力のおかげ
 で、実際の悲しみよりは深い悲しみを味わう傾向の人が、これにあたる。もう一つ別の
 言い方をすれば、感情移入が容易にできる人のことだ。
・人前でざまざまと泣くことができる男は、やはり少々ウンサンくさい感じをまぬがれな
 いのは、いたしかたないことである。悲しみの酔うのは、せいぜい馬鹿な女の独占であ
 ってほしいものだ。
・ただし、ひとつだけ許される場合がある。それは、別れたいと告げた女に対し、ハラハ
 ラと涙を流しながら、留まってほしいと願い男の涙である。これは男と女が逆であって
 も同じだが、こういう場合、涙を流すほうは、完全に自分の誇りもなにもかも捨てて対
 しているのだ。泣いて頼んでも結果が変わるという保証はないのに、いやほとんどの場
 合は変わらないものなのだが、それでもあえて行なうほうを選んだのである。そこは自
 己陶酔はかけらも存在しない。存在する余地がない。
・男と女の関係で「有終の美」を尊ぶならば、お互いにあっさりときれいに別れるよりも、
 どちらか一方が涙を流す別れであるような気がする。そして、こういう場面で流す男の
 涙は、男の涙の中では唯一許されてしかるべき涙だと思う。

おしゃれな男について
・おしゃれな人とは、男女を問わず、自己顕示欲の強い人である。しかし、おしゃれと一
 目でわかるおしゃれな男の自己顕示欲のやり方は、実に率直で屈折の少ないものだ。な
 ぜなら、他人におしゃれを一目でわからせてしまうおしゃれが好きだなんて、まったく
 カワイイと言うしかないではないか。つまり、この種の男ほど、われわれ女にとって、
 御しやすい男はいない。才能が劣っているとかではなくて、こうも腹の中がわかっちゃ
 う男は、女にははなはだ都合がよいというだけである。
・また、彼らは例外なく、どんな女にも優しい。女には優しくしたいと思って優しいので
 はなく、優しくすべきだと思って優しいのだけれど、女の最大公約数は、しかし、こう
 いう男に弱いものである。女は本能的に、この種の男が無害であることを知っている。
 そして、女は、真に有益であるかどうかということに、関心をいだかない存在でもある。
・おしゃれとわからないおしゃれな男ほど、亭主にしても恋人にしても、始末におえない
 男はいない。まあ、友達どまりにしておいたほうが無難だ。なぜなら、おしゃれは自己
 顕示欲の一表現だと言ったが、この種の男の表現法が、屈折しすぎているからである。
 普通、彼らは、超高価なセーターに洗い晒しのジーパンなどを着ていたりする。この組
 み合わせは、わざと、なのである。おしゃれと思われたくない、といって、その他大勢
 とはちがうところも示したいのだから。 
・いつここの線でいかれると、この種の男の屈折して底がよどんでいる胸の内を見るよう
 で、御免こうむりたい気分になってくる。屈折しすぎた精神の持ち主は、誰でもどんな
 ものでも、自分の延長を見てしまう。こういう精神状態ほど、惨めで情けないものはな
 い。
・一方、その他大勢と同じでよしとするタイプは、まだまだ救いがある。まあ、亭主くら
 いならしてよろしい。ただ、私ならば、ネクタイピンがいいとなれば、猫も杓子も同じ
 ようなものをしているような現象は、その上にある顔まで同じようで、退屈しかしない
 けれども、なにしろ、その他大勢と同じ水準で、誠実でもあるにちがいない。女を美し
 くする要素の一つには安定というものがあるから、彼らは、この種の貢献ならばしてく
 れるというわけだ。
 なにごともめんどうでおしゃれをしない男だが、めんどうということは、おしゃれだけ
 でなく、すべてにつながることがあり、また、めんどうだからということは、感受性や
 好奇心の欠如を、カムフラージュするのに使われることが多いからである。時間がなく
 て、という言いわけとよく似ている。私は時間がなくて本を読めません、という弁解を、
 絶対に信じない。
・ただ、日本では、この種の言いわけが、意外と寛容に受け取られているようである。め
 んどうでおしゃれしない、とか、時間がなくて映画も見られない、とか、なんでも仕事
 が忙しいという立派な言いわけになってしまうのだ。しかし、これが進むと、仕事が忙
 しくて、性愛もうとくなってしまった、ということになる。そして結局、仕事が忙しく、
 生きるのが手薄になってしまって、ということに至る。
・この種の男は、たいていが奥さんが選んで買ったものを身に着ている。そして、こうい
 う男を我慢できる女に面白いのがいるはずもないから、つまり男がわかる女がいるはず
 がないから、そういう女の選んだつまらないものを身につける結果になるのだ。女の選
 んだ男物というのは、なぜ、ああも明白にわかるのだろう。
・天然記念物について話したい。実は、「天然記念物」と分類してみたが、ほんとうのと
 ころは、どう表現したらいいのかわからないのである。ただ、もしかしたら、ここに分
 類される男こそ、これまではすべての男のおしゃれをしない大義名分であった、君子は
 辺幅を飾らず、を適用できる男たちではないかという気がする。
・この種の男は、ほぼ例外なく、仕事面で絶対の自信を持っている。絶対といっても百パ
 ーセントではない。この男たちは、自信とは、六十パーセントの自己の才能への自信と、
 四十パーセントの自分の才能を越えたなにか、これは運と言い換えてもよいが、その二
 つが微妙に配合してできあがるのを知っていて、要は、この配合の割合をなるべく永続
 的に保つのが、仕事の成功につながるのを熟知しているのだ。彼らの自信は、自分には
 それができる、という意味での自信である。日本語では「器の大きい人」と言うのかも
 しれない。
・それで、仕事面でこうも絶妙に自己顕示欲を充足できるこの種の男たちは、おしゃれの
 面でも発揮する必要性を、ほとんど本能的に認めない。おしゃれ男であると人に思われ
 ると仕事にさしつかえるなどという、ある意味でも論理的合理的な判断からではなく、
 まったく、本能的に欲しないのだ。
・では、美に対するセンスが欠けているかというと、まったくそうではない。自分はしな
 いが、相手の美しい装いには、とくに女の美しい装いには、実に敏感に反応する。ただ
 し、他の男たちのように、とくにおしゃれと一目でわかる男たちのように、即座に言葉
 でもって示さない。まあ、君子なのだから仕方がないにしても。
・それで、この種の男たちはどういう服装をしているのかというと、これがちょっと表現
 に困るのだ。男の装い上のよきセンス、とわれわれが普通思っているものからは、完全
 にはずれている。それならば、普通と変わっているかというと、変っているとも言える
 し、変っていないとも言える。それでいて、他人に不快感は絶対に与えない。そして、
 服装全体から、なにか他とはまったくちがう感じを与える。 
・天然記念物は、希少価値があるから天然記念物であり、やはりそのままで眺めていたほ
 うがよい。ところが、この種の男が、ほんもののワルなのである。女は近づかないこと
 にこしたことはない。われわれ女が御すなど、不可能な男でもある。カワイイところな
 ど、まったくない。一見スキばかりという感じなのに、実はつけこむスキのない男なん
 て、どうしようもないではないか。この種の男には、全面降伏するしかないのかもしれ
 ない。女だけでなく、他の男たちも。
 
殺し文句についての考察
・まず第一に、「殺し文句」とは、剣を使わずに相手を殺す方法であり、平和的な殺人手
 段である。
・第二に、殺す殺すと言っていては相手もかまえてしまって殺せなくなるから、相手のス
 キに乗じて、グサリと一突きで殺さなければ、ほんとうの効果は生まれない。ほんとう
 の効果とは、殺られた相手が殺られたこと自体に快感を感じるということである。
・第三に、この殺人手段には、性別はまったく存在しない。男が女につかうものだという
 ことになっているが、そんなことはまったくない。女が男に向かって使ってもよいし、
 男同士でも女同士でも使用可能であるところが面白いのだ。 
・第四は、「殺し文句」とは、絶対に真実百パーセントでもないし、かといって、嘘百パ
 ーセントでもないという「真実」を、使うほうも使わないほうも、とくと認識している
 必要があるということである。この点を押さえておかないと、だまされた!というみっ
 ともない事態に至ってしまう。
・第五だが、「殺し文句」とは言葉で殺すから、相手が潜在的に相手も最も欲しているこ
 とを的確に察知する能力が、使い手にはなによりも要求される。
・最後に、「殺し文句」を適材適所で駆使できる能力は、実の高度なテクニックに属する
 ので、バカがやると火傷するから誰にもは薦められないが、これが上手くやれるように
 なると、高杉晋作ではないが、「面白きことなく世を、面白く」生きるのに一助ある。
 「殺し文句」の功罪の功の最たるものは、人生の色どりを与えてくれるということだろ
 う。
・結婚詐欺があいもかわらず、するほうが男でされるほうが女であるのは私などには心外
 だが、洋の東西を問わず、結婚が、女が一番喜ぶエサ、であることも事実なのだから仕
 方がない。まあ、私のように、結婚していることの唯一の利点は、結婚というものをあ
 らためてしなくてすみという点である、などと思っている女は、やはり少数派なのであ
 ろう。
・人間というものは、男とか女とかにかぎらず、二人でいれば、何かを話さねばならない
 動物である。言葉が必要でない場合もあるにはあるが、まったく言葉なしで長時間一緒
 にいることはむずかしい。ために、われわれ人間は他の動物と区別される。
・対話とは、必ずしも真実であることばかりを話していては成り立たないことを知ってい
 る。会社の企画会議ではないのだ。生身の人間同士の、つながりを深めるのが対話なの
 である。それが男と女である場合、しばしば双方とも(男にかぎらず女も)、自らの願
 望を口にすることがあるものだ。なぜなら、人間は、客観的に真実であることと、主観
 的に真実であること、つまり自分自身が真実であると思いたがっていることを、常に明
 確に分離して話すことができない動物だからである。  
・ベッドの中であろうが外であろうが、男と女の対話の無視できない部分は、虚実皮膜の
 間で進められるものである。嘘でもない、ほんとうでもない、願望という形で交わされ
 るのだ。なぜなら、願望とは、それを口にした瞬間は、口にした者にとっては、これ以
 上とない真実なのだから。 
・「もう生きていく力がないわ。あなたを刺してやりたい。三十過ぎてあなたという人を
 見抜けなかった私が、バカだった」などという女は、純情で情熱的で一途になるタイプ
 であって、友人でも、もう少し大人の恋のできる人かと思った、という感想を述べるこ
 とになる。こういう時に口にされる「大人の恋」とは、不倫の関係でも適当にオトナに
 行動して、浮気の甘い果実だけ味わう、という感じで使われる。もちろん、そういう関
 係も多いであろう。だが、すべてがそうではない。
・オトナも、激しい恋はするのだ。若い人のように眼前に自由が広がっていないだけにな
 お、燃えあがる炎のような恋をするのだ。しかし、二人ともオトナだと、「ボクたち二
 人のための家を建てよう」という男の言葉を女も真に受け、二人で一緒に、九十九パー
 セント実現しない家を考えはじめる。その家がいつまでたっても現実にならなくても、
 女は、約束を守らないなら死んでやる、などとは絶対に言わない。二人のための家を建
 てないと思ったときの男の愛情を、なによりも大切に感じるからである。もしもこのよ
 うな「嘘」に小ざかしいものが混じっていれば、どんなに激しく燃え上がった恋でも欺
 くことはできない。

女の性について
・男が女に対して誤りを冒すのは、国際政治の世界で日常茶飯事のように起こる「摩擦」
 とその原因に、実によく似ている。
・現実主義者が誤りを冒すのは、相手も現実を直視すれば自分と同じように考えるだろう
 から、馬鹿なまねはしないにちがいない、と判断した時である。
・現実主義者を男に代えれば、まったく同じことが男女関係にもいえるのだ。
・私は、私の同性である女たちが、男たちに比べて劣っているといっているのでは、まっ
 たくない。それどころか、われわれ女が、デメリットはしばしばメリットに変るうる、
 ということに気づき、それを仕事なり人生なりに活用しはじめると、男と同等に達する
 どころか、男を越えることも容易なのである。
・ほんとうの女は、男と同等になろうなどというケチなことに、必要以上に固執しないも
 のである。必要、というのは、法律面に属する事柄である。それよりも、男を越えるこ
 とのほうに情熱を燃やすものだ。同等や平等よりも、越えるほうが、よほど刺激的では
 ないか。
・わが日本の中でも優れた女は、つまり男を越えた女は多くみかけるようになったが、さ
 てこの女たちが、パブリックな立場を離れてプライベートな場になっても、あいもかわ
 らず男を越える見識を発揮しるかというと、必ずしもそうではない。
・こういう女たちの前に劣勢を意識しはじめた男たちが、あれほどの才能にあふれるキャ
 リア・ウーマンなのだから、とか、あれほどの内助の功を発揮した奥さんなのだから、
 とか思って、彼女たちに自分たちと同じ類の見識を求めると、完全に裏切られるだろう。
 なぜならば、女は、女に性によって動くことが多いからである。とくにプライベートの
 場であったりすると、男の「見識」からすると想像もつかないような、非常識な言動を
 とることが多い。 
・女はなぜ、裸になりたがるのか。ここでは、肉体としてのヌードはとりあげない。精神
 的な意味での裸を問題にする。この傾向を解くカギは、まず女が、秘密を守ることがむ
 ずかしいという性の持ち主であることに、求められてもよいかもしれない。なにしろ、
 しゃべりたいのだ。いや、しゃべらないといられないのである。
・昔は、こういう女の性向を少なくともおもてには出ないように押さえる、知恵があった。
・人間の弱さを深く理解した宗教でもあるカトリック教では、懺悔というものが活用され
 た。信者は教会に行き、あの小さな箱のようなものの中にひざまずいて、その向こうに
 すわる司祭に、犯した「罪」を告白する。ある人を愛してしまいました、なんて具合に。
 ところが、カトリックともなると司祭も人間探究の精神に満ちているから、それは困り
 ましたね、ロザリオを何回と、アベ・マリアを何回となえなさい、なんてことではまず
 終わらない。もっとくわしく、聞きただしてくる。どんな男か、とか、どんなふうに知
 りあったのか、とか。どんなふうに愛しあったのか、とかまで聞いてくることがある。
・これに、なぜか、懺悔するのが女だと、ことこまかに、つまり赤裸々に、ついつい話し
 てしまうのだ。  
・司祭と懺悔者をへだてるのは、密につまった格子である。小さな格子窓をはさんで、薄
 暗い中で進むこの種の問答は、淫猥以外のなにものでもないと思うが、このシステムが
 女の「性」を他人に迷惑をかけないで発散させるのに、実に有効であったことは認めな
 いではいられないであろう。しゃべりつくして満足した女は、アベ・マリアの百回ぐら
 い喜んでとなえたにちがいない。このシステムが、宗教の勢力失墜とともに重要さを失
 いつつあるのは、実に残念である。昔からの智慧が、文明の進歩とともに消えていく一
 例でもある。
・キリスト教のない国の女だって、似たような知恵をもっていた。お嫁入りのときに一緒
 にきた、乳母というか女中というか、まあこの種の信頼できる同性である。未婚の娘で
 あった頃からの仲だから、彼女にはなんでも話す。しかも相手の地位が下だから、話す
 のも気が楽だ。既婚未婚にかかわらず、昔の女は、この種の打ち明け相手をもっていた
 のだった。乳母も女中もいない女でも、隣り近所に、誰かわけ知り顔をしたい、つまり
 人生相談にのってくれる、女がいたのである。
・このような昔の智慧が失われてしまった今、女たちは、「性」に忠実であろうとすれば、
 なにか他の手段をみつけなければならない。
・この種に女たちに対して、男たちが絶望し、なぜあんな二人だけの間のことまでしゃべ
 ってしまうのか、と責めたとしても無駄である。赤裸々であることが、女の「性」なの
 であり、つまり、女にとってはよほど「自然」な生き方なのである。
・男だってこの頃は、赤裸々に書いたりしゃべったりするのがいるではないか、といわれ
 そうだが、あれはあくまでも「赤裸々的」であるだけで男性の性の根元の欲求から生ま
 れる衝動ではない。実際、そういう男は、同性から軽蔑されることはまずおいても、わ
 れわれ女からみても、不自然である。精神的にしても真っ裸になりたいという欲求は、
 男の本来の性に反するのであろう。懺悔のときにしても、微かに入り細にわたり愛の行
 為を告白するなんていうのは、よほど重症のホモ以外にはちょっと考えられないのだか
 ら。
・しかし、なかには裸にならない女もいます、というだろう。だが、この種の女たちなら
 ば安心と、男たちが、彼らと同じ言動を、二十四時間中の二十四時間期待するとしたら、
 これもほぼ完全に、裏切られることになる。
・なぜなら、彼女たちは、パブリックな場では「裸」にならないが、それはおんなの性に
 反した生き方をしているのであるから、プライベートとなると反動がくる。つまり、バ
 ランスをとる必要からである。パブリックでも「赤裸々」である女以上に、この種の女
 はプライベートになると、赤裸々になるものと、男は覚悟するべきなのだ。
・男たちよ!女には、頭のできのいかんにかかわらず、あなたがたと同じ種類の「見識」
 を、二十四時間中の二十四時間、求めてはいけないのです。八時間ぐらいが限度だと思
 っていたほうが、無難なのです。そうでないと、思わぬ火傷をするはめになりますぞ。
・要するに、すべての女は、程度の差こそあれ、自分の本来の性とそうでないそれに反し
 た言動を、どこかでバランスをとって生きているのである。  

オール若者に告ぐ
・世代の断絶と、よく人は言う。そして、それを口にする人は、嘆きと絶望をこめて言う
 のが普通だ。だが、私にしてみれば、世代の断絶は、あってこそ当たり前で自然で、な
 かったとしたら、そのほうが気味悪くて不自然なのである。各世代に断絶があるからこ
 そ、次の世代は新しいものを創り出せるのである。新しいものを創り出すエネルギーを、
 貯えることができるのである。
・「オトナ」の中には、世代の断絶を埋めるために、若者との対話の場をつくるべきだ、
 と主張する人たちがいる。あれは、世代の断絶のメリットを理解できない者の言うこと
 で、メリットを直視することができる「若者」は、そんな軟弱な忠告にのってはいけな
 い。堂々と、オトナの世代との断絶を、味わい食い尽くすべきである。それをした「若
 者」だけがはじめて、凡百のオトナとちがった、自信をもてるなにものかを獲得した、
 「オトナ」に成長することができるからである。
・私若者であった頃、若者に理解の手をさしのべたがるオトナを、気味悪いと思って眺め
 ていたのを思い出す。その頃の私にとって、オトナは、挑戦対象ではあっても、また打
 倒の対象ではあっても、けっして、肩を組み合って共通の話題についてなごやかにお話
 しする、なんて仲ではなかった。そんなことを申し入れてきたオトナがいたとしたら、
 ああ気味悪い、といって逃げちゃっていたにちがいない。
・それよりも、若者などに手をさしのべるなど考えもせず、無視するか、それとも余裕を
 もって遠くから眺めるにとどめている「オトナ」に、非常に魅力を感じたりもしたので
 ある。彼らの断固たる自信が、若い私を刺激しながらも、魅きつけずにおかなかったか
 らである。
・「ボクは、ボクなりの青春を充分に生きたんです。だから、それを過ぎた今でも今なり
 の生き方を充分に生きたいと思うので、他人の青春になんかかまっている暇はないんで
 す」こういう「オトナ」こそ、若者が冷静に客観的に観察し、良いところは盗み、盗む
 のは創造の源泉であるから堂々と盗み、そして、それを越えることを目指せるオトナな
 のである。
・若者に必要なのは、ほんとうの「オトナ」と、反対に理解の顔をしたがるつまらないオ
 トナを、判別する能力である。
・若者の味方ぶるオトナは、大別して、三つに分類できる。
 ・第一:商売上の都合で、つまり金儲けのために、若者に媚びを売る人たち。
 ・第二:マスコミの世界で、雑誌や書籍や新聞やテレビの世界で、若者の味方ぶるオト
     ナたちである。
     若者の味方ぶるほうが、彼や彼女たちの商売にとってより有利であると判断し
     ての傾向だから、商売とつながっている。
 ・第三:心から若者の味方であることを望み、理解者であることもまた、心底から信じ
     ているオトナたちである。    
     この種にオトナは、実は、第一や第二よりも、格段に始末が悪いのだ。
・第三種のオトナは、確信犯だけに、判別もめんどうなことになる。しかも、確信犯だけ
 に、流行にとらわれない。誠心誠意、若者の味方ぶりをつづける。しかし、用心しなけ
 ればならないのがこの種のオトナであって、ために、若者たるもの、世代の断絶こそ双
 方の利益と考え、この種のほんとうにつまらないオトナも、断固、排除するにこしたこ
 とはない。彼らにチヤホヤされていい気になっているうちに三十歳になったというので
 は、「若者」のコケンにかかわるではないか。
・では、世代は断絶してこそ互いに実りのあるものだから、「オトナ」との対話はしなく
 てもよいかというと、やり方次第では、やったほうがよいのである。やり方とは、対話
 ではなく、対決なら大変けっこう、という意味である。
・対決は、大変けっこうで、それをやらなければ両世代とも真の充実は期待的ないほど大
 切なのだが、やるからには堂々と、各世代とももつ唯一の武器、理性と論理を駆使して
 対決すべきであろう。それ以外の武器を使うのは、勝負としても汚いし、まずもって、
 同じ土俵上で対決することを拒否して、勝手に土俵から降りてしまうことと同じである。
 こういう場合、スポーツならば、不戦敗といえども敗けなのだ。
・男でも女でも、くさって悪臭しか発しないような、感情的な対立はやめたらどうだろう。
 理想的な方法で、「対決」することこそ、世代の断絶をほんとうの意味でなくす、唯一
 の方策だと信ずる。

男の色気について
・女は男性の力には眩惑されるが、男の美については定見をもたず、ほとんど盲目に近い
 ほど鈍感である。そして、その鈍感さは、正常な男が男性の美についてもっている鑑識
 眼と大差はない。男性固有の美について敏感であるのは、男色家にかぎられている。
・ここで男の力とある「力」じゃ、おそらく、肉体的な力や経済的力、個人的能力、権力、
 社会的影響力などふくめて、力と呼んでいるのであろう。そういうものに、個々別々か、
 すべて一緒にしてかは問題にしないでおくにしても、われわれ女は「眩惑」されると言
 いたいのであろう。 
・われわれ女は、女の美に定見があるなどとは、もはや思ってはいない。だから、男の美
 についても、それがあるとは思ってはいない。
・まあ、誰が見ても美人というのはいるが、それだからどうってわけでもないと思ってい
 る。美しい人は、醜い人よりも、眺めていて気分が良いことはたしかだけど、それ以上、
 どうってことないじゃない、というわけだ。
・理想美表現に熱中したのは、古代ギリシア人であったことは誰でも知っている。しかし、
 時代ギリシア時代の彫刻なりつぼ絵なりを眺めると、それも古代ローマ時代のものと見
 比べると、理想美を追求していくと、結果としてホモ的美になってしまうのではないか
 と思いはじめている。
・身体ではない。古代ローマ人も身体をきたえることにかけては熱心だったから、身体な
 らば、両方ともたいしたちがいはない。
・顔なのである。顔が、ちがうのだ。理想美と現実美とでは、顔がまるでちがうのである。
・多かれ少なかれ人格を反映させずにはおかない肖像彫刻では、ギリシアとローマのちが
 いは少なくなるが、神像だと、表現はまったく自由になってくる。
・おかげで、ギリシアの神々の彫像は、セウスをのぞけばほとんどが、「男性固有の美に
 ついて敏感である男色家」が、好むものばかりになってしまった。 
・ゼウス神だけにそれを感じないのは、この神は、オリンポスにたむろしていた神々たち
 の頭目で、やはりそれなりの威厳を漂わせなくては具合が悪かったからであろう。威厳
 は、同性愛であろうと異性愛であろうと、あらゆるセックスにアレルギー反応を起こさ
 せる。
・神話だとひどく怒りっぽい海の神ポセイドンは、ホモ的な顔になるはずはないのではな
 いかと言われそうだが、あごひげなどたくわえているにもかかわらず、顔の、なんとな
 まめかしいことか。
・ポセイドンでもこういう結果になるギリシアでは、女神たちも、この基準から自由では
 いられない。女の理想美を追求していった結果、彼女たちは、女でなくなってしまった
 のである。
・美の女神アフロディテでもゼウスの奥さんのヘラでも、智恵の女神アテネでも狩の女神
 アルテミスでも、たしかに肉体は女である。だが、その身体も顔もあまりにも理想化さ
 れてしまって、女特有の、色気というものが感じられない。御立派、御見事という感じ
 で、乳房に舌をはたせたりしたら、アマゾネスのごとく、ガチンとげんこつをくらいそ
 うが気がする。
・色気とは、単に色っぽいということではない。とくに男の場合、まことに複雑なあらわ
 れかたをするものである。種々相という言葉は、色気にこそふさわしい言葉ではないか
 と思うほどだ。
・だから、定見を持たない、あるいはもちえないということは、盲目に近いほど鈍感であ
 ることにはならない。それどころか、敏感であるからこそかえって、定見をもちえない
 のである。
・そして、われわれ女は、男性の力に、それもごく月並みな意味で眩惑されるだけにして
 は、もうちょっとオリコウなのである。もうちょっと、ワルなのだ。
・男たるもの、ダイヤや毛皮に眩惑される女を馬鹿にしてはならない。このような女を馬
 鹿にし軽蔑し嫌悪しすぎると、男色専門の男色家になってしまう。男色家の特徴の一つ
 は、女に対して寛容でないことである。つまり、人間全般に対して、寛容でないことで
 ある。
・女権拡張を目指すフェミニストたちは、われわれ女が男たちから性的対象と見られるこ
 とに、ヒステリックなほどに反発する。
・私は、あれがわからない。なぜあれほどもカッカとくるのか、それがわからない。この
 種のアレルギー反応は、フェミニストにかぎらず、普通のおだやまな女たちまで多少な
 りともあるようで、これをも理解に苦しむのである。なぜあるかというと、性交の直後
 に、こう男性に聞く女が多いではないか。「ねぇ、わたしのこと愛している?」
・われわれ女が男性から性的対象と見られて、なにがいけないのであろう。実際、ある程
 度の時間は、そうではないか。それに、われわれ女も、男を性的対象と見てはいないで
 あろうか。意識するとしないとにかかわらず、絶対にそう見ているはずである。
・とはいえ、男も女も、相手を性的対象として思うだけであったら、性的にもつづかない
 ものなのだから、心配することはないのである。  
・男というにはオカシな動物で、自分が才能豊かな男であることと忙しいことは、比例の
 関係にあると思い込んでいる。私などは、そんなことはないと確信しているけれど、男
 のほうはなぜか、とくに日本の男の場合はほとんどといってよいくらい、忙しければ忙
 しいほどたいした男であり、それを女に誇示する傾向から無縁ではいられない。
・そういう男たちは、暇をつくることこそ、とくに愛する女のために時間をひねりだすこ
 とこそ、男の才能の真の証明であります、などという正論で屈服させようとしてもまっ
 たく効き目の無い人種であるから、それを独占するのは、目的のためには手段を選ばず、
 式の戦法でいくしかない。病気にならないかな、と悪魔にでも願うわけである。それに、
 病床に横たわる男は、意外にも色気を漂わせているものです。少なくとも、たいしたこ
 とをやっているわけでもないのにやたらと忙しがる男に比べれば、ずっとステキで可愛
 らしい。
・もしかしたらその原因は、普段のように、たいしたことをやっているわけでもないのに
 忙しがる、という、男よりは普段は頭のできのよい女から見ればほんとうは笑っちゃう
 コッケイなことを、病床にしばりつけたれたために、できなくなっている良さにあるの
 かもしれない。要するに、忙しがっているときよりは、ずっと素直な状態にあるという
 ことだ。だから、女たちは、病床に男を見舞うとき、常よりはよほど自然な状態にある
 男を発見して、愛しさを感ずるとともに幸福な気分になる。
・それに、普段は勇ましいことを言っているくせに、意外と男は、病気になると弱気にな
 るらしい。たいした病気でもないくせに、死んじゃうんじゃないか、なんてだらしない
 ことを口にするのはその証拠だ。常に弱気な男はこれまた困りものだが、ときたまの弱
 気はけっこうだと、女らしい女ならば賛成してくれるにちがいない。
・それにしても、なぜ男という人種は、忙しがってばかりいるのだろう。といって、才能
 がある男が忙しいのは、古今東西一つも例外はなかった現象である。それはわかってい
 るけれど、しかし、とわれわれ女は思う。忙しい中にも女のために時間をつくるのも、
 男の才能の一つではないかと、病気になってくれないかなと思うのも、それをしてくれ
 る男になかなか恵まれない女たちの、苦肉の策にすぎないのだから。

マザコン礼讃
・アレクサンダー大王が、相当なマザコンとわかって面白かった。その視点で他の歴史上
 の偉人たちを思い浮かべたら、なんとまあマザコンの多いこと、あきれるばかりである。
・これらの人物も世界史上の英雄なのだから、彼らがもともと、並みでない才能に恵まれ
 ていたことは疑いないだろう。それでいて、後年になるまで母親の影響が強かった。こ
 れはなぜかと思って調べてみたら、彼らの母親というのは、自分たちの才能を亭主相手
 に発揮していない。自分の夫の事業でも出世でも、そのようなことに「内助の功」をつ
 くしていない。すべて、息子に対してそそがれたのである。そして、昨今の凡なる母親
 たちならば唖然とするほどの周到さで、彼女たちは、息子に対して影響力をふるったの
 だ。教育ママここに極まれり、という感じがする。 
・アレクサンダーもそうだったが、シーザーも、可愛いだけが取り得の女に惚れていない。
 シーザーの場合は典型だが、クレオパトラのような、男に伍しても立派にやっていける
 女を愛している。これは、異性の才能に敬意をいだくのが普通の環境に育った、男の特
 色ではないだろうか。なかなかのできの母親を見慣れているものだから、なかなかので
 きの女に、抵抗感をいだかないのである。
・父親不在と呼ばれる現象が、とやかく言われ過ぎるのが昨今である。だが、動物の世界
 を見てもわかるように、父親はタネをつけた後は不在なのが当たり前であって、終始居
 られたら、そのほうが異常なのである。タネだって、われわれ母親が、あなたのだよと
 言うから信じたのであって、ほんとうのところは、われわれしか知らない。もしも息子
 たちのできが大変に良かったら、タネは、神とか精霊とか言ってすましていればよいの
 で、そのタネを育てるのは、絶対に母親の権利である。マザコンなどという蔑称にびく
 つくことは、まったくないのだ。堂々と、母親の影響力をふるいつづければよい。
・ただし、重ねてことわっておくが、私の礼讃するマザコンは、ママがいないと横のもの
 を縦にもできない、という類のものとはちがう。当たり前ではないか。もしかしたらわ
 が息子に、ほんとうのパパは、日曜日ともなればテレビの前でゴロゴロしているあのパ
 パとはちがうのよ、と言うことになるかもしれないのだから。

男のロマンなるものについて
・男のロマンとは、ロマンなのだから、男が現実の世界で追求すること以外のものを指す
 はずである。男が現実世界で追求するとされているものは、出世、カネ、女、というの
 が常識らしいから、これ以外のものとなれば、出世に関係なく、カネに関係なく、女に
 関係ないものということになる。
・それならば、女のロマン、は存在するのであろうか。出世に背を向けカネにも背を向け
 るならば、私以上に徹底しているキャリア・ウーマンは、たくさんいそうな気がする。
・また、異性にも背を向けるという「ロマン」の条件だって、私は落第だが、他の立派な
 女にはそれも及第しそうな人を多く知っている。だが、女の場合、この三条件を兼ね備
 えてさえいれば、「女のロマン」的生き方と見られるとはどうにも思えない。そういう
 立派な女たちを、あの人にはロマンがある、と人々は評さないからである。
・「近松の心中物」を観終わった私の胸に浮かんだのは、心中するのは、つまり愛に殉ず
 る女の生き方は、子供をもたない女にしか許されていないぜいたくなのである、という
 ことだった。
・実際、近松の心中物で、子供をもつ女が死んでいるであろうか。子供を残して、愛する
 男とともに死んだ女がいるであろうか。

浮気弁護論
・浮気は、うわついた気分の結果だからいかない、と人は言う。浮ついた気分の結果とし
 ての不貞行為など、許されてよいわけがないというのだろう。
・だが、はたして浮気は、気分がうわついたあげくの行為なのだろうか。
・恋愛は、あらゆる人に恵まれるわけではない。死は、あらゆる人に見舞うが、恋愛は、
 誰にも起こる現象ではない。
・ほんとうに恋をした女には、不貞も不倫も不道徳も、いっさい関係なくなるのである。
 恋愛は、凡人を、善悪の彼岸を歩む者に変える。その境地に達した女が自分をコントロ
 ールできるのは、まったく、ただただ、彼を失うという怖れを、感じるか感じないかに
 かかっている。
・女にとって、恋愛とは、自分の中にあった生命力に目覚めることであると思う。なにか
 の拍子で、恋愛の場合は男の出現によって、自分でも意識しなかったその力に目覚める
 ことである。
・だから、いったん爆発したこの生命力を、常識にわく内にはねこもうとすることほど残
 酷なことはない。男は概して常識的だから、そういうことを言い出すのは、たいがいが
 男の側である。
・一週間に一度会うのがちょうどよいではないか、などということを言う男は、早々にこ
 ちらから捨てたほうがよい。
・浮気は、恋愛することによって引き起こされた血の騒ぎの、単なる派生の一つでしかな
 い。そして、別の道に煮えたぎる血を流さないですむのは、そんなことでもしたらあの
 人に捨てられるという、ごく健全な怖れだけなのである。
・私がのべてきた浮気は、世間でよく口にされる浮気とは完全にちがう。あちらのほうの
 浮気は、生命力の発露の派生の一つなどではまったくない。恋愛と結びついた、情熱の
 爆発口の一つでもない。女性雑誌あたりでよく、浮気をいかに巧みに愉しんでいるかを
 得意気に告白した、読者の作文を載せるが、あのように考える人は、私には無縁な人々
 である。私の言う浮気は、巧みになど行えず、愉しみさえなく、ましてや得意気に他人
 に向かって告白する類のものではない。浮気というものは、もしもしたとしたら、吐き
 気をもよおしかねないほどの後悔の念にさいなまれるし、しなかったとしたら、それは
 ただただ我慢しているだけなのだ。

つつましやかな忠告二つ
・まず、男の、なにかに隠されていない足は、ベッドの上か、それとも、海岸でもヨット
 の上でもなににしても海の近くとか、のどちらかでないと、見られたものではないこと
 を、男たちはしかと認識すべきである。足と言ったが、これはつま先からひざまでの間
 の部分を指す。
・だから、ベッドの上とか海に近い場所以外では、その部分の足は隠されていなければな
 らない。それなのに、日本男子は、なぜか短い靴下を好む。ひざ下にまで達しない、ふ
 くらはぎの真中ぐらいにしか達しない、短い靴下を好むようなのである。
・年齢がどうであろうと、まったくそれには関係なく、男物の靴下は、ひざのすぐ下まで
 おおうものであるべきだ。無地の背広の場合の無地の靴下も、テニスの場合の白いスポ
 ーティな木綿のソックスにいたるまで、ひざ下ぎりぎりまでとどくものでなければなら
 ない。
・男の脚というものは、意外とひざから下が不恰好にできているもので、それをむき出し
 にしては、その上の部分の、まあ見られたこともない太ももまで、台無しにしてしまう
 からである。見られたことのない太ももと、長いソックスで隠した、見られたものでは
 ないひざから下の組み合わせならば、まずは普通、脚全体がなんとか格好がつくように
 変わる。
・短い靴下とスラックスの間に、裸の足がのぞくくらい、醜いものはない。これは、もう、
 みっともなどころか、醜いのである。
・この改善は、どうも日本では絶望的なのではないかと、この頃思うようになった。それ
 は、この頃の子供たちの、あのお尻ぎりぎりまで短いうズボンと、足首までしかない短
 いソックスを見ていて、感じたのである。これは、完全に、ヨーロッパの子供の服装と
 反対なのだ。

女とハンドバック
・男たちは、女のハンドバックを、こまごまとした女特有の品々を入れて持ち歩く入れも
 のにすぎない、と思っているにちがいない。ところが、これが、完全な誤解なのだ。女
 にとってのハンドバックは、女の心の、そして肉体の一部なのである。
・反対に、男にとってのバッグは、ただ単に、ポケットに入りきらないからやむをえず持
 ち歩くだけの意味しかもたない。心の一部どころか、肉体の一部などではけっしてない。
 男と女とでは、「入れるもの」のもつ意味がまったくちがってくるのである。
・女のバッグは、たしかにいろいろな実用小物がはいっている。ただ、女の場合、なにが
 入っているかは問題ではない。持ち歩くという行為自体が、意味をもつのである。
・試しに、ハンドバックを持っていないときの、女を想像してみてほしい。なにかが欠け
 ているはずだ。 

インテリ男はなぜセクシーでないか
・解説屋の隆盛こそ、昨今の日本の非知的現象の最たるものである、とさえ思っている。
 解説屋の仕事は、そのどこを斬っても、赤い血はでない。彼ら自身の肉体も、どこを斬
 っても赤い血は出ないのではないかとさえ思わせる。
・この種の男たちの特徴は、修羅場をくぐっていない弱みではないだろうか。常に頭の中
 でだけ処理することに慣れたインテリは、体験をもとにした考えを突きつけられると、
 意外と簡単にボロを出してしまう。政治でも外交でも実業の世界でもよい。修羅場は、
 人間の生きるところあらゆる場所にある。修羅場をくぐった体験を持つ者は、背水の陣
 でことにのぞむ苦しさも、また快感も知っている。そして、必殺の剣とは、いつ、どこ
 で、どのように振るうものかも知っている。
・インテリ男がセクシーでないのも、毒にも薬にもならない、彼ら特有のものの考え方に
 も理由があるにちがいない。
・男が女に魅力を感ずるのとは、所詮、その女をだいてみたいという想いを起こすことで
 あり、女が男に魅力を感ずるとは、その男にだかれてみたいと思うことに、つきるよう
 な気がする。
・インテリ男がセクシーでないのは、補強する程度の働きしかもたないものに、最高の価
 値をおく生き方をしているからである。ばかばかしいことを、ばかばかしいとはっきり
 述べる、自然さをもたないからである。それどころか、いかにももっともらしく理屈を
 つけることに、全力を集中しているからなのだ。これらの男たちから「男」を感じられ
 ないのも、当然の帰結にすぎないと思えてくる。
・俗にいうインテリ男たちの特徴の最後は、小さな野心しかもtっていないということだ
 ろう。欲望は持っているのだが、それがなんともけちくさい。
・だから、政治家からお声がかかると、みっともないくらいにすぎさまなびく。財界のお
 偉方から接待でもあると、芸者より早く駆けつける。芸者は花代をもらっているのに、
 インテリ男たちは一夜の夕食との引きかえなのだから、それはみっともない以外のなに
 ものでもない。
・なにか自分の心中に実現したいことがあり、それをするのに権力が必要ならば、これも
 かまわない。灰色だろうかクロだろうが、権力者を利用するのならばかまわない。だが、
 利用されて自己満足しているのは、ただ単に、見苦しい振舞いにすぎないのである。
 
嫉妬と羨望
・嫉妬と羨望は、ときとして似たあらわれ方をするが、完全にちがう。嫉妬は、本質的に、
 失うかもしれないという恐怖あら生ずるものであり、羨望は、得たいと内心では思って
 いたものが得られそうもなく、それで、実際に得ている者に対していだく、感情だとい
 うことだ。
・嫉妬は、インポテンツではくともいだく。だが、羨望は、インポテンツでなければいだ
 かない。しかし、嫉妬は、インポテンツでなかった者さえ、インポテンツにしてしまう
 危険を内包する。
・私自身のことを言えば、私は嫉妬のかたまりである。愛する男には、あなたの周囲に出
 没する女たちの中で、あなたが少しでも関心を向けた女がいたら、すぐさまその女を石
 にしてしまう、などと言うくらいは朝飯前だ。
・私には多分、愛するとうことはただちに、その人を失う恐れとつながってしまうのだろ
 う。困ったことだが、ものわかりのいい女になる気は毛頭ないから、死にでもしなけれ
 ば改まらないのである。

食べ方について
・食事の仕方くらい、その人の子供の頃の家庭を想像させるものはない。なぜならば、あ
 れだけは、歯並びの矯正以上に矯正のむずかしいことだからである。子供の頃お習慣が、
 どうしても出てしまう。大人になって、上品に振る舞おうといくら努めても無駄なのだ。
 とくに、マナーどおりにしようとするから、もっといけない。自信のなさが、あらゆる
 手の動き口の動きにあらわれてしまう。そして、自然にあらわれるからこそすばらしい
 自信は、どうしたって子供の頃からつちかわれたものでなくてはホンモノでない。
・食事の仕方に、客観的で絶対の基準は存在しないのである。他者に不快感を与える怖れ
 のあるいくつかを除けば、基準は存在しないのである。 
・しかし、他者に不快感を与えることは、やらないのが思いやりというものである。それ
 がなにかと問われても、自分自身で他者の身になってみて、不快感をもよおすことだけ
 をしなかればよいのだと答えるしかない。マナーとは、経験、これにつきる。そして、
 この種の真のマナーは、子供の頃に、母親がしつけるしかない。
・文明とは、文化とちがって、生きるマナーのことである。生き方のスタイル、と言い換
 えてもよい。マナーの確立とは、だから、生き方のスタイルをもつということである。
・少しばかり大げさに言えば、食は文化であり、食べ方は文明である。食をつくることは
 他人のまかせても、その食べ方は自分のものでなければならない。なにしろ、立派な文
 明なのだから、母親のしつけも重要な存在理由をもつのである。 

不幸な男
・幸福か不幸かは、個人的な問題であることに私は賛成である。自分自身がまあ幸福だ、
 と思っている人は幸福なのだし、反対に不幸と思う人は、不幸なのだから。
・では、不幸な男は、なにが原因で不幸なのであろうか。まず、不運であったということ
 を、あげる人は多いであろう。たしかに、運に恵まれたか恵まれないかは、男の一生に
 とって大変な影響がある。しかし、運のせいにばかりはできないような気もする。とく
 に、四十を越えた男の場合の不運は、なにかその人の性格に起因しているように思う。 
 幸運が、その人の性格に原因があるように。
・「原則に忠実な男」がどうして、不幸な男の、つまり男を不幸にする、原因になるかと
 不思議に思われる人がいるにちがいない。なぜなら、原則に忠実な人、という表現なり
 評価なりは、普通、賞賛をふくんだ積極的な意味で使われることが多いからである。
・ところが、それを私は、消極的な意味で使おうとしている。原則に忠実であることこそ、
 男の不幸の原因なのだ、と。いや、もっとはっきり言うと、これこそ、男の不幸の最大
 の原因であると断言してもよい。
・原則に忠実であろうとする考えは、それ自体では大変立派な生き方である。だが、人間
 社会では、相手が存在する。相手がどう感ずるかには関係なく、自分の立派な考えを押
 し通そうとしても、なかなかスムーズにはいかないのが人間の社会なのだ。原則主義者
 が、しばしば、家庭でも職場でも不運に泣くことが多いのは、この種の、思いやりとい
 うかセンシビリティーというか、そういう種類の感情に欠けているからである。これは、
 頭の善し悪しにはまったく関係ない性質である。先天的なものも多少はあるかと思うが
 私の考えでは、両親の教育の仕方に影響されること多き問題ではないかと思う。
・他人の立場になって考える、とは、だから、不幸になりたくない男にとっては、良書を
 熟読するよりも、心しなければならない課題ではなかろうか。妥協をすすめているので
 はない。それにこれは、妥協ではない。人間という存在を、優しく見るか見ないかの問
 題である。 
・ヨーロッパでは、自由党の勢力が減退して久しい。ドイツでもイギリスでもフランスで
 も、先頭に立って政権をとるなどもはや夢、という状態である。この原因は、政治学者
 たちに言わせればいくらでもあるだろうが、その面ではシロウトの私も、彼らの何人か
 と会って話してみて、なんとなく私なりに納得できたような気がした。つまり、自由党
 は、原則に忠実な男たちの集まりなのである。
・彼らはいちように、頭の良い男たちである。知的水準も高いし、生まれも概して良いか
 ら、立ち振る舞いもジェントルマンそのものだ。しかも、彼らの考えていることは、正
 しいのである。政策を聴いているかぎりは、なるほどとうなずくくらい、正論の連続な
 のである。だが、それでいて、有権者の支持は得られない。得はしても、少なすぎる。
・これは、この人たちの態度に原因があるのだ。彼らは、自分たちは正しいことを主張し
 ていると信じているから、それが支持されないのは、有権者が悪いのだと思っている。
 正論を主張することで、彼らにしてみれば、自分たちの責任は立派に果たしたことにな
 るのだ。だから、なにかの手段を通じて、それをわからせようと努力する行為を軽蔑す
 る。なにしろ悪いのは、わからない有権者のほうなのだから、そうまでする必要を認め
 ないのだ。 
・まったく、これこそ原則主義者の典型である。個人の場合ならば、不幸は女や職場の支
 持を失うが、組織となると、存亡にかかわってくる。
・反対に、自由という言葉をかぶせることで同じ日本の自由民主党が、三十年以上も政権
 を維持てきたのは、原則に忠実であろうなどと、まったく考えなかったからだと思う。
・あれぐらい、奇妙な政党もない。政党は主義主張を同じくする政治家の集まりと思う人
 から見れば、なにやらわけのわからない政党である。
・あらゆることに完璧を期す完全主義者もまた、常位不幸であることを宿命づけられた男
 である。完璧を期したいとする、心構えは悪くない。ただ、すべてのことがそれで通せ
 ると思いはじめると、不幸をまぬがれなくなる。
・完全主義者は、なぜか、自分に対してそれを要求するだけではすまず、他人にも要求す
 るものなのだ。ところが、完璧を期す、ということ自体は、意外と主観的な基準によっ
 て決められることなのである。なぜなら、「完璧」そのものが人によってちがいからで、
 Aは完璧をこの程度と思うが、Bにとっては、それでは満足できないことだってある。
・このように、「完璧」そのものが客観的規準をもたない以上、完璧を期す、ということ
 だって、千差万別にならざるをえない。そして、その千差万別なるものをいちように他
 人に強いるという行為は、それこそ、倣岸不遜、人間性の多種多様を無視した、はっき
 り言うと無知なる行為、ということになってしまう。 
・人間性を無視したことを望む者は、人間社会に生きる身である以上、不幸にならずには
 すまない。この点ではまったく、完全主義者は、原則に忠実なる男が不幸にならずには
 すまないと同じ理由で、不幸を宿命づけたれた存在なのである。
・四十にして惑わず、という言葉がある。男の厄年は四十二だ。別にこれらに影響されな
 くても、四十という年齢は、男の人生にとって、幸、不幸を決める節目であると思えて
 ならない。
・三十代の男は、三十にして立つ、という言葉があるくらいだから、十代、二十代で貯え
 た蓄積をもとにして、立つ、ぐらいはしなくてはならない。つまり、なにかをはじめる
 のが三十代ということである。しかし、惑わず、は四十代に入ってからやればいいこと
 だから、立ちはしても、迷うのはかまわないのだ。かまわないどころか、そのほうが自
 然なのである。
・ところが、四十代に入ってもなお迷っているのは、いけないことだと古人は言っている。
 四十にして惑わず、なのである。
・それで私は、四十以上の男の不幸の最大要因は、迷うことにあると判断した。では、四
 十代に入ってもなお男が迷うということは、どういうことであろうか。
・まず、自分の進む道を見つけていないことである。いや見つけはしたのだが、それを進
 むことによって自分の能力が充分に発揮され、他からも認められるという確たる自信が
 もてないものだから、迷わずに進む勇気が生まれてこないのである。  
・四十代の男が、もし不幸であるとすれば、それは自分が意図してきたことが、四十代に
 入っても実現しないからである。世間でいう、成功者不成功者の分類とはちがう。職業
 や地位がどうあろうと、幸、不幸、には関係ない。自分がしたいと思っていたことを、
 満足いく状態でしつづける立場をもてた男は、世間の評価にかかわりなく幸福であるは
 ずだ。
・家庭の中で自分の意志の有無が大きく影響する主婦とちがって、社会的人間である男の
 場合は、思うことをできる立場につくことは、大変に重要な問題になってくる。これが
 もてない男は、趣味や副業に熱心になる人が多いが、それでもかまわない。週末だけの
 幸福も、立派な幸福である。
・困るのは、好きで選んだ道で、このような立場をもてなかった男である。この種の男の
 四十代は、それこそ厄代である。知的職業人にこの種の不幸な人が多いのは、彼らに、
 仕事は自分の意志で選んだという自負があり、これがまた不幸に輪をかけるからである。
・そして、なぜか、四十代でこの立場をもてなかった男は、五十代や六十代になったら希
 望がもてるかというと、まったくそうではなところが悲しい。不幸は不幸を呼ぶという
 が、四十代で望みをかなえられなかった男は、そのほとんどがもうオシマイなのである。
 そして反対に、四十代でそれを得た男は、五十代も六十代も、その勢いで押していくこ
 とになるから、幸せな男と不幸な男の差は、ますます開くことになる。
・立つ、とは決めることであり、惑わず、とは、ただ単にそれを進めることである。
・三十代の男たちとなると、彼らのその後の見当がだいたいはつくようになる。なにはや
 れそうか否かが、ほとんどわかるようになってくるのだ。それが四十代になると、もう
 明白である。話を少ししただけで、これは幸福な人生を歩むかそれとも不幸で終わるか
 が、相当に高い確率で予測できるくらいだ。そして、十年経つと、私の予測はだいたい
 当たっている。これは、顔にもでてくるからである。いくつだったろうか、男は自分の
 顔にも責任をもてという年は。
・四十以後は、幸せな人はますます幸せになるのだし、不幸な人は、ますます不幸になる。
 人は、不幸な人には同情はしても、愛し、協力を惜しまないのは、幸運に恵まれた人に
 対してである。

ウィンザー公夫人の宝石
・ウィンザー公と呼ばれていた元英国国王エドワード八世と、アメリカ人人妻シンプソン
 夫人の恋愛は、王冠をかけた恋、などといわれても、いかに魅力的でもアメリカの恩亜
 ではイギリス王妃としては具合悪かろうし、その彼女との愛を陽光のもとでまっとうし
 たかったら、王冠を捨てるしかなかっただろう。
・二十世紀の王様は、立憲君主制下の君主なので、十九世紀を最後としたヨーロッパの王
 様たちとはちがう。君臨すれども統治せず、なのだから、統治に必要な衆にすぐれた能
 力は要求されなくても、君臨するに必要な、衆に優れた義務感は要求される。
・この場合の義務とは、国民の大多数が望まないことはしてはならないということであり、
 国民の一人一人が、彼らのレベルならばやってもかまわないことも、上に立つ者には許
 されない場合もあるということを、熟知することである。「君臨代」は、国民の税金か
 ら出ているのが、二十世紀なのだ。
・イギリス国民は、アメリカ女を母親にもつチャーチル首相就任を、さまたげはしなかっ
 た。だが、アメリカ女がイギリス王妃になるのは、反対したのである。それは、「統治」
 しなければならない首相には、衆に優れた能力があれば充分と思ったからであろう。一
 方、「君臨」する王様には、一般市民、つまり「衆」よりは優れたモラルを要求したの
 である。私は、イギリス国民のあの場合の要求は、二十世紀の人間として、正しかった
 と思う。
・だから、シンプソン夫人の愛してしまったエドワード八世は、はじめから次のような態
 度をとるべきだったのだ。「私は彼女を愛しているから、彼女と結婚する。しかし、こ
 れでは王冠とは相容れないから、王冠は弟のジョージにゆずる」と。
・これならば、自らの義務を怠ったことにはならない。男の人生は、イコール仕事とはか
 ぎらないのだ。一人の女を心から愛することも、立派な人生の一つの型である。問題は、
 どちらを選択したか、であるにすぎない。
・エドワード八世は、結果としては、後者の生き方を選んだ。ウィンザー公お称号を与え
 られ、臣下に降ったのだから。ただ、はじめの頃は、シンプソン夫人もほしいし王冠も
 ほしい式でいき、結局、つめ腹を切らされたような感じで、王冠を捨てる決断をくだし
 たのである。
・人間の器としてならば、このカップルは、女のほうが格段に優れていたのではないかと
 思う。古代や中世や近世ならば、彼女はまちがいなく、王妃にでも皇后にもなれたにち
 がいない。古代の中世や近世の王様たちは、君臨もしたが、統治もしていたのだから。
・男たちは、女というものは愛されることしか頭にない、とよく苦情をいう。だが、こう
 いうことをいう男は、このような文句は腹の中にしまっておくことをすすめたい。なぜ
 なら、彼らは、少ししか愛されないから自分も同じくらいしか男を愛さない女しか知ら
 ない、ということを公言しているようなものだからである。
・女は、ほんとうに愛されることが、いまにまれにしか起こらない幸運であるかも、知っ
 ているのである。なんだか、タヌキとキツネの化かし合いみたいだけど、相手を化かす
 ことを断念したほうが、恋愛の真の勝利者になれるのではないだろうか。

仕事は生きがい、子供は命、男は?
・女にとって、相手の男が生きがいである場合、これは、言葉で聴いているかぎりは、す
 ばらしく美しくひびく。
・亭主はわが生きがい、なんて言う女は、男にとって夢なのかもしれない。しかし、実際
 にそれを実行されたら、どういう結果になりそうであろうか。
・生きがい、というからには、多くの男にとってそれは仕事だろう。そうなると、女の考
 えを建て前から言うと、自分の男が望んでいることを、実現させてやりたい、という、
 美しい心根になる。
・しかし、男の仕事というのは、実に皮肉なことに、彼らの望みの実現は、彼らの地位の
 上昇と正比例の関係にあることが多い。多いと言っているのであってすべてがそうでは
 ないが、一般的に話をすると、望みの実現イコール出世、という式で解決される人が多
 いのではないかと思う。
・となると、わが男の望みの実現という美しい想いも、わが亭主の出世という、なんとも
 俗っぽい願望とつながってしまうことになる。
・これは、男も女も、俗っぽい人にだけ起こる現象ではないのだ。誰にでも起こる。なぜ
 なら、願望の実現という一見いかにも精神的に高尚な想いも、現実の中でそれを果たす
 となると、俗的になるのを避けられない宿命をもつからである。良い悪いの問題ではな
 い。人間社会の中を通らねばならないすべての事柄は、同じ宿命を負っているのだから。
・では、情熱を傾ける仕事をもと女、まあ簡単にひとまとめにすればキャリア・ウーマン
 と呼んでもよいが、そういう種の女が、自分の亭主の出世に積極的に介入しはじめたら、
 どういうことになるだろうか。 
・この種の女は、まず第一に、頭は悪くはない。そのうえ、人間社会というものを熟知し
 ている。しかもそのうえ、人間への判断力もあるにちがいない。
・こんな女が、亭主の夢実現、つまり出世に全力を投入したら、と考えるだけで頭が痛く
 なるのは、当の亭主自身ではないだろうか。なにもかも事情に通じている者の忠告や助
 言は、ほんとうのところは実に有効なのだが、それが有効であるだけになお、与えられ
 る側は悲鳴をあげるにきまっている。嘘だと思ったら、一度試してみたらよい。
・なぜ悲鳴をあげる結果に終わるのかという理由は、まったく簡単である。というのは、
 その程度のことは、当の亭主自身がすでにわかっていることというのが、まず第一の理
 由で、わかっていることを、あらためて他人の人物、しかも最も心を許せる相手である
 はずの妻の口から聴こうと思う男がいるであろうか。 
・もしいるとすれば、それはただ単に、自分自身で考えていたことを、他人の同意見を聴
 くことによって確認する、という行為にすぎない。
・悲鳴をあげるであろう第二の理由は、助言や忠告が有効であればあるほど、それに影響
 される恐れを、並みの男ならもってしまう危険にある。危険を感じた男は、はじめのう
 ちは悲鳴をあげるに留まるが、まもなく、その見事な妻から離れていくだろう。
・そして、不幸なことに現実は、第二の理由によって起こる結果のほうが圧倒的に多いで
 あろうと思う。 
・つまり、結論を言えば、なかなかの出来の女が亭主を生きがいと思っても、ロクな結果
 にはならないということである。
・仕事は、男にとって生きがいであるならば、女にとっても立派な生きがいになるうるの
 である。そして、子供は、生まれてくる前に母親がキャリア・ウーマンとわかって生ま
 れてくるわけでもないから、仕事ももっていようが専業主婦だろうが、母親の責任には
 まったく変りはない。仕事もちの母親が、まるで綱渡りのような想いで仕事と育児の両
 立に苦労するのも、その辺の事情がわかっているからである。生まれてくる前に母親を
 選べるとすれば、多くの子は専業主婦の母親を選ぶにちがいないのだから。こうなれば、
 もうしようがない。子供はやはり、命なのである。

スタイルの有無について
・スタイルとは、見せかけの反対である。強い信念のことである。
・スタイルの特徴は、深みのある人格が知らず知らずのうちににじみ出て、なにもしなく
 てもいつの間にか、まわりの人間の関心をあつめている、という点にある。
・ところが日本でスタイルと言うと、あの人はスタイルがいい、とか、スタイルが悪い、
 とか使われることが多い。いや、多いどころか全部と言ったってまちがいはないだろう。
 この場合、スタイルという言葉は、肉体的にスマートかどうか、ということしか意味し
 ない。
・スタイルがある、とはどういうことか。
 一、年齢、性別、社会的地位、経済状態などから、完全に自由な人であるということ
 二、倫理、常識などからも自由であること
 三、貧相でないこと
 四、深いところでは、人間性に優しい眼を向けることができる人
 五、ステキな人
・男であろうと女であろうと、だれもがファースト・ネームで呼び合う社会を私は信用し
 ない。そういうなれなれしい人間に限って、暗い廊下で人を撃ったりする。本当に、な
 れなれしい人間社会のほうが用心ものなのだ。 

セクシーでない男についての考察
・部厚いマンガ雑誌を電車の中で読んでいる男
 私は、電車の中でマンガ雑誌を読んでいる男は大嫌いだ。キライとするにも値しない。
 私だったら、男として認めない。
・ロリコン趣味の男
 ロリコン趣味の男は、所詮自分に自信のないことを示しているにすぎないのだ。セーラ
 ー服好み、お嬢様ブーム、ニャンニャン好み、すべては、自分を精神肉体ともに裸にさ
 れたら真青になるかもしれない。
・不安を知らない男
 自信をもつことと不安を知ることとは、成熟した男にとって、矛盾することではまった
 くなく、矛盾どころか、不安を知らないほうがおかしいのだ。
・見苦しい男
 1823年、74歳になっていたゲーテは、19歳の若い娘に恋をした。74歳の文豪
 ゲーテは、若い娘に恋しただけではあきたらず、厳正なドイツ男そのままに、結婚を申
 し込んだのである。
 この事件は、文豪ゲーテだから許されるのである。誰一人、見苦しいなどとは、思って
 も公言しない。
 とはいえ、同じようなことを、普通の男がやっては、文豪ゲーテのようにはいかないこ
 とは明らかだ。ゲーテだって、誰一人公言はしないが、周囲がなにも思わなかったとい
 う保証はない。
・老年は、そして老醜は、誰にも必ず訪れるのである。不安は、この場合、恐怖に近い形
 をとって老いた人を苦しめる。しかし、見苦しいまねをしはじめたらキリがないのだ。
 そして、幸か不幸か、われわれの多くは天才ではない。
 
男と女の関係
・男と女の関係といっても、精神的なものはここではとりあげない。あくまでも「形」と
 しての関係だけだ。
・ヨーロッパで長く暮らしていてときどき日本に帰る私にとって、帰国のたびに、慣れな
 いはじめの数日にかぎったとしても、女だけでお酒を飲んだり話し込んだりしている東
 京の夜の光景は、どうしても奇妙に映ってしかたがないのである。
・ただ、これは、私自身が日本の生活に慣れてくるにしたがって、違和感のほうも薄れて
 くる。日本では、生活の単位が必ずしも、男と女の関係に拠っていないのだと、思い出
 すからである。
・反対に、ヨーロッパでは、仕事以外はなにもかも、男と女のカップルが社会生活の単位
 になっている。
・ただ、私には、このどちらが良いか、ほんとうのところ判然としない。女にとって、都
 合が良いということならば、意外と日本型のほうが、めんどうがなくていいんではない
 かとさえ、感じてきたのであった。
・エスコートと一言で言うが、思うほどに簡単なことではない。ごくごく日常の振る舞い
 だけとりあげても、次のようになる。
 ・エレベーターは、女を先にのせ女を先におろす。
 ・エスカレーターは、これは階段の昇り降りと同じなのだが、昇りの場合は女を先に、
  降りる場合は、男が先に行く。
  理由は、なにかのひょうしに女がよろめいてころがり落ちでもしたら、ただちに男が
  ささえられるように、というためだ。
 ・レストランにようなパブリックな場所に入る時も、先に入るのは男のほうだ。
  男は先に入って、大丈夫となったときにはじめて女を入れる。
 ・自動車にのる場合も、タクシー、自家用のちがいなく運転手がいるときは、運転手の
  後ろには男が座る。 
  だから、運転席が左側にあるヨーロッパ車の場合と、右にある日本車、イギリス車の
  場合はちがってくるのだ。
・しかし、こういう男どもには関係なく、女だけで花園のように花咲かすのも、エスコー
 トの男を見つくろう手間ひまがかからなくていいんではないかと、イタリアの女友たち
 の言ったことがある。なぜなら、こちらは音楽会やオペラに行きたくても、亭主でさえ
 同調してくれるとはかぎらないからである。私個人としては、一人で華やかに着飾り、
 オペラ劇場や夕食会に出かけるのが、ちっとも苦にならないと思うからだ。
・ところが、あらゆる意味で独立したキャリア・ウーマンの彼女は、こう答えたのだった。
 「花園は、蜂がとんでいなくては花園でないのよ」これには、うなってしまった。蜂が
 ブンブンしていることではじめて、花園を構成する花々も、花は美しく香りも高いとい
 うことになるのだ。これはもう、女の自主独立作戦には関係なく、真実である。やはり、
 美しく着飾る気持ちを捨ててでもしないかぎり、女には、男がつきものであるらしい。
 
男が上手に年をとるために
・まず、自分の年齢を、いつも頭の中に刻み込んでおくこと。自分の年を忘れるというこ
 とは、私には利口なやり方とは思えない。
・なぜなら、忘れる、という作戦が、実にむずかしい作業だからである。忘れことががや
 さしいのは、心底では忘れたいと思っていることであることはたしかだが、実際には、
 忘れたってたいして不都合はない、と思っていることなら、人間は容易に忘れられるの
 だ。
・それが、忘れっきりにしてはどうも都合悪い、と思っていることは、なかなか忘れられ
 ないものである。
・男でも女でも、自らの年齢は、これにあたる。とくに、四十歳を越えれば、なおのこと
 だ。だから、はじめから無駄とわかっているこのようなことは、やらないほうがいいの
 である。
・自分の年齢と、共存共栄の方法を考え、実行する。
・強いて、若づくりをしないこと。
・ほんとうは、若づくりすること自体が、強いて、つまり無理した結果なのである。だが、
 ときには、気分が高揚することもあろう。若々しい活気にあふれるときだって、あるに
 ちがいない。そういうときに、ジーンズにTシャツ着たって、かまわないのだ。
・居直ること。つまり、自然体であること。
・一カ所、どこか派手な色を使うこと。
・派手さや華やかさの使い方は、その人の遊びの精神の有無をはかる物差しになる。そし
 て、遊びの精神のあるなしは、この精神の発揮の仕方は、その男の頭の善し悪しにつな
 がってくる。
・恋をすること。
・私がすすめたいのは、ほんとうの恋なのだ。そのような恋に出会わなければ、出会うま
 で、読書したり音楽を聴いたりして一人で夜をすごすほうが、ずっと美しい人生のおく
 り方だと思う。そうしていると、いつか出会う。生きているすばらしさを心の底から味
 わせてくれる、ほんとうの恋を出会う。
・優しくあること。
・若者が、優しくあるはずはないのである。すべてのことが可能だと思っている年頃は、
 高慢で不遜であるほうが似つかわしい。優しくあれるようになるのは、人生には不可能
 なこともある、とわかった年からである。自分でも他者でも、限界があることを知り、
 それでもなお全力をつくすのが人間とわかれば、人は自然に優しくなる。優しさは、哀
 しさでもあるのだ。これにいたったとき、人間は成熟したといえる。そして、忍耐をも
 って、他者に対することができるようになる。
・清潔であること
・疲労を見せるのを、怖れないこと。
・無理に元気をよそおう男がいるが、あれも上手に年をとっていない証拠である。疲労の
 原因がどのようなことにあるのかわからないほど、われわれ女は馬鹿ではない。
・セックスは、九十歳になっても可能だと思うこと。

成功する男について
・「成功者」とは、社会的地位の上下とはあまり関係ないかもしれない。なぜなら、社会
 的地位ならばひどく高い男たちの中でも、どうどうしようもないほど程度の低い男たち
 もいて、あんなのにまで関わってはいられないと思うからである。
・第一に、身体全体からえもいわれぬ明るさを漂よわせる男だ。
・人の一生には、多くの苦しみと悩みがないではすまないのが普通だ。たとえ他人には、
 打ち明けなくても、胸の中にしまっておくだけでも、たいていの人はなにかしら苦悩を
 かかえて生きている。その人びとにとって、明るさをもつ人は、それ自体ですでに救い
 なのである。普通の人にとって、明るい人にひかれるのは、ひまわりが太陽のほうに顔
 を向けるようなものである。つまり、ごく自然な願望なのである。
・灯には、常に虫が群れるものである。灯の近くでは死んじゃう宿命しかないと知ってい
 ながら、なお群つづけるのだから、明るさとは、抗しがたい魅力であるのかもしれない。
・第二に、暗黒面にばかり眼がいく人、ではない男
・なにもかも暗く見えてしまう性質の人は、周囲の者に耐えがたい思いをさせないではお
 かないものである。    
・第三に、自らの仕事に、九十パーセントの満足と、十パーセントの不満を持っている男。
・人生やはりくぶんかの楽観主義が必要で、そうでないと、自分自身が耐えていけないだ
 けでなく、周囲の人生まで巻き添えにしかねないのだ。いつもいつも緊張している人の
 まわりには、人は喜んでは集まらないのである。
・第四に、ごくごく普通の常識を尊重すること。
・なぜ普通人の常識を尊重しなければならないかということだが、それは、人には誰でも、
 存在理由を持つ権利があるからだ。そして、しばしば、普通人が自らの存在理由を見出
すのは、世間並みの常識の中でしかないのだ。もしも、人生の成功者になりたければ、
 どんなに平凡な人間にも、五分の魂があることを忘れるわけにはいかない。これは、人
 間性というものをあたたかく見る、ということでもある。

自殺の復権について
・生きがいをもちなさい、とか、なにか熱中できるものをもつべきだ、とか、また、老人
 ボケの最良の方法は、外国語を読むことと、日本語でいいから書くことだ。
・アルツハイマーであろうが日一日とボケていって、奇妙な言動をしたり突然暴力的にな
 ったりする自分を、他人に対して恥かしいと思う気持ちはない。
・日一日と非知的になっていくのを他人の眼にさらすのを、耐え難い屈辱とも考えなかっ
 た。ただただ、本も読めなくなり、書くとなれば支離滅裂なことを書くようになってし
 まっては、私の存在理由がなくなる、と思っただけである。それに、お金もない。
・キリスト教徒が、自殺しないのは彼らの勝手である。だが、身体は親にもらったものゆ
 え、という立場も、二十代までは正しいと思うが、頭の中身に責任をもたないといけな
 くなるその後や、とくに顔まで責任をもたされそうな四十、五十代にまでも、通用しな
 ければならない教えであろうか。 
・頭の中身や顔に自ら責任を持つ年代になれば、肉体をどうしようということだって、自
 らの責任のもとに、自ら決定する権利があるのではないかと、私なら思う。
 
外国人と上手にケンカする法、教えます
・誠心誠意でいける場合は、ケチな策など弄せず、誠心誠意のみで進みべきである。しか
 し、それでは不可能という場合には、上手にケンカすることも、考えに入れておくべき
 である。
・第一、なによりもまず同じ土俵にあがること
 一言で言えば、西欧の論理に従う、ということである。
 これが正しいか否かは、別の問題である。西欧式論理が、世界の共通の土俵でありつづ
 けて久しいということと、これが否であったとしても、いまだこれに代わるものを世界
 は打ち立てていないために、同じ土俵といえば、西欧人の論理しかないのだ。
・第二、それはケンカに入る前に、使用する武器、この場合は言葉だが、その武器の意味
 づけをしっかりしておくことだろう。 
・第三、これは最も簡単なことなのに、日本人にとっては最も難しいことだと思うが、そ
 れは、ユーモアで味つけする、ということである。
・第四、それは、使う武器(言語)は、その独特の言い回しを熟知して活用すべき、とい
 うことである。

あなたはパトロンになれますか?
・私の考えるパトロンとは、リスクを甘んじて受ける行為であり、同時に、学者であろう
 が芸術家であろうが、対象となる相手と、運命を共同分担する行為をいう。
・要するに、相手に賭けるのだ。これはモノになりそうだと思った相手を、経済面と精神
 面双方で、保護して育てる行為なのだから、パトロンというのは、お金を払っていれば
 それですむなどという、簡単な行為ではない。 
・とはいえ、なにかをやろうと思っている者は、個性豊かで気が強いのが普通だから、か
 ゆいところまで手のとどくような親切は、ありがたいどころか迷惑に思うことが多い。
・それで、あなたはすばらしい、という一言を言っただけで、あとは定期的にしろ一時に
 どんとくれるにしろ、お金をくれるだけなのが、ほんとうをいうと、最も理想的なパト
 ロン像なのである。なにしろ、お金を与えるということ自体が、立派な賭けなのだから。
・「きみが必要だったら、いつでも言ってくれたまえ」これは一見大変に紳士的に見える
 が、実際はちっとも紳士的でないのである。  
・真に紳士的な与え方は、黙って与える、につきるのである。きみが必要だったら、いつ
 でも言ってくれたまえ、というくらいの心情の持ち主ならば、それを”言う”という行
 為を相手にさせない程度には、人間の心理に通じていてほしいものである。
・第二に心すべきことは、与えられる側の銀行の口座に振り込むとか、小切手を切るとか、
 というやり方はしないことだ。 
・これはビジネスのやり方である。パトロンの行為は、ビジネスではない。この支払い方
 法では、艶消しになってしまう。ここで”艶”を維持しようと思うならば、現金で与え
 るべきだ。しかも、なるべくならば新札が望ましい。
・それゆえ、与える側は、与えられた側から見返りを望んではならない。ケチケチと見返
 りを要求するようでは、パトロンと呼べないどころか、”旦那”ともいえない。ヒモを
 もつ娼婦だって、もう少し鷹揚である。
・なんだ、これは男と女の関係の話ではないか、と思った人もいるかもしれないが、これ
 まで述べてきた事柄なり条件なりは、学問芸術の保護育成でも、すべて当てはまるもの
 である。まったく、男女の関係ほど面白いものはない。一国の外交だって、所詮はこの
 関係と同じものに帰着すると言ってもよいくらいに、男女関係は、人間関係の基本だと
 私は思っている。  
・それなのに、愛人関係とは比べようもないくらいに高尚ということになっている学問芸
 術への援助という分野でさえ、われわれ日本では、上等なセンスと心構えをもった”パ
 トロン”に恵まれないのが現状だ。
・私がパトロンの第一条件とした、求められるのをまたずに、黙って与える、ということ
 だが、これをしてくれる文化財団は一つもない。”助成金申請”なることをしないと、
 絶対にだめである。つまり、声を大にして要求したほうが勝ち、ということである。
・しかも、個人には”助成”しない。団体でないと、”援助”してもらえないのである。
 文化は個人が創り出す、と私は固く信じている。狂的といってもよいほどの個人の情熱
 が生み出したものと、国家なり何なり公的な組織が旗を振ったあげくに出来上がったも
 のの質と量を比べれば、結果は歴然としているではないか。
・しかし、これも、弁解しようと思えば弁解できないこともない。日本でお金を持ってい
 るのは、個人ではなく企業なのだから、個人に賭けるなどという冒険は許されないとい
 うことなのだ。個人が個人に賭けるならば、人選を誤りました、ですむだろうが、団体
 では、誤りました、ではすまないということにちがいない。  
・だが、このやり方は、ある程度の文化向上には役立つだろうが、すべてを引きずってい
 くほど強力で独創的な文化創造には、ほとんど役立たないと思う。つまり、秀才は援助
 するが、天才はそれからもれるということなのだから。天才には、黙って与えるしかな
 いのである。
・私が第二の条件とした、現金で与えるべし、ということだが、これも、個人対個人の関
 係よりも、団体の関係のほうが支配的な日本は、銀行の口座に振り込む、式しかないの
 である。
・私が第三の条件とした、見返りを望いんではならぬ、などということも、絵に描いた餅
 でしかない。
・文化とうものは、なんとなくぼんやりしたところに、すばらしいものが創り出される余
 地がかくれているのである。”ぼんやり”を拒絶しては、はじめる前から結果まで判明
 している、ケチなものしか創造できない。
・私が最後の条件とした援助は小出しにしてはならない、ということも、これではもう、
 絶望的というしかないではないか。
・これで、ルネサンスが創り出せるものであろうか。多分、与える側も、日本では創り出
 せないと、心中では思っているのではないかと、この頃では私も考えるようになってい
 る。
・しかし、団体しかパトロンにならないという日本の現状では、文化想像という面から見
 れば、無視できない欠陥を内包している。評価の定着した、つまりリスクのないものに
 しか、助成金を出さないということだ。