お葬式をどうするか :ひろさちや

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日本という国は、宗教に関してとても変な国だ。子どもが生まれると「お宮参り」とか
「七五三」とかいうことで神社にお参りし、お正月には「初詣」ということで神社にお参
りする。しかし、その一方ではクリスマスということではしゃぎ回る。
結婚式だって神前の式を行う人もあれば、教会で式を行う人もある。神社は「神道」とい
う宗教でありクリスマスや教会はキリスト教であり、まったく別ものの宗教であるはずな
のにである。
さらに、死に至っては仏教徒でもないのにお寺のお坊さんから「戒名」をもらい、お経を
あげてもらって葬儀を行う。まさに神道・キリスト教・仏教の「はしご」である。
このような国は世界を見ても珍しいのではないだろうか。以前、「日本は神の国である」
と語った日本の首相がいたが、確かに日本はたくさんの神のいる国であり、真の宗教のな
い国でもあると思う。
仏教に関して言えば、日本の仏教は「葬式仏教」だといわれる。本来、仏教は人の死とは
直接は関係のないものなのに、日本では江戸時代あたりから仏教が人の死と結びつき、だ
んだん僧侶の収入の手段として仏教が利用されるようになってきたようだ。それがいまで
は習俗としてすっかり定着してしまっている。しかし、その習俗は、仏教という面から見
れば、極めて矛盾だらけのようだ。「戒名」ひとつをとってみても、仏教徒でもない一般
の人には、戒名などというものは不要なのである。
あの終戦直後に活躍した「白洲次郎」は、「「葬式不要・戒名無用」という遺言を残し、
葬式を行わせなかったという。きっと、日本の葬式仏教の矛盾をよく理解していたのだろ
う。
「お墓」も問題だ。いままでの習俗ではお墓は「○○家」という墓石を建てるが、現代の
ように核家族化進むと、次男、三男は結婚して実家を離れると実家とは別に新たにお墓を
作らなければならない。跡を次ぐ男のいない女だけの家のお墓は、お墓を守る人がいなく
なり無縁仏となっていく。このままでは日本中の土地が無縁仏のお墓で埋め尽くされてし
まうことになる。

<白洲次郎 遺言書>

http://iyasi-tokimeki.ddo.jp/matitanken/buaiso/images/0044.htm

まえがき
・釈迦もイエスも、お葬式といったものを重視していません。はっきり言えば、どうでも
 いいことと考えておられます。なぜなら、それは習俗だからです。結婚式と同じような
 儀式なのです。しかも、この葬式という儀式は、自分の葬式を、自分でやるわけにはい
 かない、ちょっと風変わりな儀式です。
・現代日本において、この葬式という儀式が、へんにややっこしくなってしまいました。
 なぜかといえば、葬式が仏教の専売特許のように思われているからです。

なぜ日本人は「お葬式」にこだわるのか
・宗教は習俗とは違い、一人ひとりの信仰と思想の選択が重要な要素を持ってきます。と
 ころが、わが国の宗教の現状を見ると、この習俗を宗教の中にごちゃ混ぜに入れ込んで、
 都合のいいところでは宗教の教理を力説し、別の都合によっては習俗を持ち出してきて
 それがあたかも宗教であるかのように見せかけ、迷信の粉をまぶして人々を脅して利益
 を得ているものも少なからずあるような気がします。
・現代の日本人の中でも、ある人々は人間には霊魂もあるのだから、肉体の処理ばかりで
 なく魂の処理もなさなければならないと考えているはずです。だからわたしたちは、お
 葬式には肉体と魂の処理という二つの次元があるということを忘れてはいけないと思い
 ます。
・お葬式の時には「忌中」という札を貼りますが、この忌とは社会的に一定の期間行動を
 慎むことが強制されることで、じれが四十九日なのです。忌中にある人は、その間ほか
 の人と接触してはいけないとされているわけです。
・「喪」というのは自発的に故人のために自分の行動を慎むことをいいます。ですから、
 こちらは喪に服さなかったからといって社会的な制裁があるわけではありません。また
 期間が定められているわけではありません。
・喪の最中に別の祝い事があって人にお祝いを言われたとすれば、お礼を返さなければな
 らないのです。なぜなら、喪は忌と違い、他人の接触が禁じられているわけではないの
 ですから、交際は別の次元で続けなければならないわけです。
・よく年賀状の時期に、「喪中につき年賀の儀は欠礼いたします」というようなハガキを
 目にしますが、喪は自発的な行為ですから、その意味ではこれも変な文章だといえます。
 他人と接触してはいけないのはあくまで「忌」のほうです。だからその場合、「忌中
 につき年賀の儀は欠礼いたします」と書くべきです。
・四十九日を過ぎれば年賀状は出しても差し支えないわけです。
・お葬式は基本的には習俗ですから、死体の処理、肉体の処理ということに関していえば、
 どんな民族でも行います。お葬式は本人がやるものではなく、周りの人間がやるもので
 す。つまり、人間が共同体を営んだ時には、別の言い方をすれば文化が生まれた時には、
 共同体の成員の死体を放り出しておくわけにはいきませんから、そういう意味でのお葬
 式はどんな民族でも営むといえます。
・かつてのソビエトのような共産主義社会では、唯物論が支配していて霊魂など認めない
 でしょうから、その場合のお葬式は死体の処理だけでいいということになるでしょう。
 今の日本人の精神構造を考えると、半分唯物論、いや、90パーセントは唯物論者のよ
 うな気がします。だから、現代の日本人のお葬式はほんとうは死体の処理だけでいいで
 しょうが、それでもどこかで霊魂なんかないと断言できないところがあり、死体の処理
 だけでは不安で、10パーセントぐらいはなにか霊的な処理をしておかないといけない
 というような強迫観念を持っているのでしょう。
・外国から仏教という新しい教えが入ってきたからこそ、そこではじめて今までの自分た
 ちが持っていたものを神道と名付けたというわけです。その意味で、私は神道を、「日
 本人の宗教」と呼んでいるわけです。
・本来仏教はお葬式をやらない。仏教がお葬式と結びついたのは江戸時代になってからな
 のです。仏教はお葬式をやるものだと思い込んでいる日本人の常識がおかしいのです。
 仏教はお葬式はやりません。今でも南都六宗といわれる奈良の寺院では、お葬式は一切
 やっておりません。
・キリスト教には「死の秘蹟」というものがあり、臨終の時にしっかりとその儀式を行い
 ます。キリスト教において死は重要な意味を持っており、臨終の儀式もきわめて重要な
 儀式です。その意味では、キリスト教は仏教と違い、最初からお葬式にタッチしている
 と考えていいわけです。
・お葬式が仏教とは別物であったのと同様、お通夜も仏教とは関係ありません。実は、お
 通夜というものはどの民族でも行います。なぜならば、古今東西を通じて死の確認とい
 うのが非常に難しかったからです。今では医者が100パーセント判定できるかのよう
 に言っていますが、それは正しくはありません。完全に死んでしまったと思っている人
 が生きていたというケースは相当ありますし、お棺の中におさめられたあと、ごそごそ
 と音がするので開けてみたら生きていたという話も聞いたことがあります。
・人間はできるだけ死の判定を遅らせようとしてきました。死の確認ができるまで見てい
 ようというわけです。それが「お通夜」です。ですから、昔は48時間たたないと埋葬
 を許可しかせんでした。それが今では24時間に短縮されましたが、そのようにして死
 の判定を遅らせてきたのです。
・各民族ともお通夜というものは派手に陽気にやります。死者の周りにみんなが集まって、
 トランプをやったり歌を歌ったりして行うのです。お通夜は悲しみの中でやるものでは
 ありません。
・お通夜のあとは、「葬儀」があって「告別式」があるわけですが、これはたとえて言え
 ば、結婚式と披露宴の関係のようなものと考えればいいのだろうと思います。結婚式は
 一種の通過儀礼ですが、披露宴はそれを祝う宴会です。私は葬儀と告別式は違うものだ
 と分けて考えています。ですから、大事なのは結婚式でありお葬式(葬儀)なのです。
 披露宴はやってもやらなくてもいい。それと同じように、私は告別式もやってもやらな
 くてもいいと思っています。

仏教における葬式の起源
・お釈迦様が亡くなった時にお坊さんではなく在家の人々が葬儀を執り行ったように、日
 本でも昔からお坊さんはお葬式をやっていないのです。
・お坊さんが本格的にお葬式を始めた時期と理由は、「江戸時代」とはっきりしています。
 理由はキリシタンの取り締まりです。江戸幕府はキリシタンを弾圧しました。だから、
 自分はキリスト教徒ではないということを証明させるために、「檀家制度」を設けて日
 本人全員をお寺に登録させました。つまり、お寺が役所の戸籍係と同じ仕事を担ったわ
 けです。その登録簿は「宗門人別帳」といい、それによって当寺の檀家であるという証
 明をします。
・江戸幕府はキリシタンをよく知っていましたから、キリスト教徒のお葬式をやる人たち
 をチェックすればキリシタンかどうかがわかることになります。幕府は仏教の僧侶に葬
 式をやるように命じたのです。
・それまではだれが葬式をやっていたかといえば、村の長老です。村の長老は、実は神主
 でもあったのです。明治維新以前は神主という特別な職業があるわけではありませんで
 した。神事を行うときは、すべて氏族の長が神職を務めていたのです。
・日本人の死後の世界観とは、まず、人間が死んだ直後の霊魂は荒れているとして、これ
 を「荒御魂」といいます。この荒御魂のうち、いちばん荒れている状態を「精霊」とい
 います。精霊が少し落ち着いた段階が荒御魂というわけです。遺族が荒御魂を丁寧に祀
 り、鎮魂の儀礼をしていけば、最後には、「和御魂」になるとされています。日本人は、
 この精霊と荒御魂の段階をまとめて「トホケ」と呼びました。そして和御魂になった霊
 魂を「カミ」と言ったのです。「ホトケ」というのは、死んで荒れている状態お霊魂な
 のです。
・お正月とは、「お正月さま」あるいは「年神さま」、または「歳徳神」と名付けられる
 神さまで、ご先祖さまの集合霊なのです。各自の家のご先祖さまの集合霊が、それぞれ
 の家に戻ってこられる時がお正月というわけです。この神さまが戻ってこられるときの
 依代が、門松です。
・お正月には、このように神さまが家に帰ってきて、家族が神さまといっしょに寄り集ま
 って、共同で食事をします。神さまと人間がともに食事をするわけです。お正月に使用
 する箸は、両端が丸くなっています。あれは、片一方は神さまが食べられるのでそうな
 っているのです。ご先祖の集合霊と子孫たちがみんなで寄り集まっていっしょに食べる、
 そういう儀式を行うのがお正月です。
・12月13日を「すす払い」といいます。すす払いというと、ほとんどの人は大掃除の
 日だと錯覚していますが、そうではありません。家の中が祭場になる準備を始めるのが
 12月13日で、これがすす払いです。一家の長が祭りを行いますから、神主は12月
 13日から物忌みに入ります。神主が潔白になるわけで、これを「精進潔斎」といいま
 す。
・お盆の行事とはなにかといえば、これもまたご先祖さまの集合霊が帰ってこられる時な
 のです。ただし、お盆ではまだ神になっていない精霊と荒御魂のご先祖さまが帰ってこ
 られます。だから、「ホトケ」の集合霊がお帰りになるのがお盆であるということがで
 きます。
・お盆では7月7日からご先祖さまを迎える準備をします。具体的には、7月7日に精霊
 棚を作ってお祭りするのです。今までは別の行事のように思われていますが、実はこれ
 が七夕の行事です。
・お正月:和御霊になった霊魂をお迎えする行事
・お盆:ホトケの段階の霊魂をお迎えする行事
・「お彼岸」というものがありますが、これはお正月やお盆とはまったく別の仏教行事で
 す。習俗ではなく、お花祭りや成道会などというものと同じような仏教における行事で
 すから、分けて考える必要があるでしょう。
・庶民の家では、この位牌は二代か三代くらい祀ればいいとされています。そうすると、
 死者は「鬼籍」に入ることができます。
・中国人は、家の中に位牌を安置する位牌堂を持っています。そお位牌堂に匹敵するもの
 として仏壇が作られたものと考えられます。これもたぶん、江戸時代あたりのことでし
 ょう。
・私は、仏教徒なら仏壇に向かって手を合わせるとき、位牌ではなしにほとけさまを拝む
 べきだと思います。ところが、日本人は中国人にならって仏壇に位牌を同居させてしま
 いました。つまり、仏壇が位牌棚化してしまっているのです。その意味では、われわれ
 は仏壇から位牌を取り出してしまったほうがよい。そのほうが本来の仏教に戻れるので
 はないかと私は考えます。

お葬式のかたちと作法
・現在では、ほとんどの人は病気でなくなると言っていいと思いますが、病院では患者が
 亡くなると、遺体はきれいに洗って鼻や耳に綿をつめます。これは「清拭」といわれて
 いますが、宗教的な意味合いは特にないと考えていいでしょう。
・かつては、人が死ぬとまず「湯灌」といい、死出の旅路につくために死者の体が洗い清
 められました。それから、男性ならひげを剃り、女性なら薄化粧をして髪を整え、「死
 に化粧」が施されました。今ではこれらは清拭のなかに含められ、魂の処理の意味はほ
 とんどなくなって肉体の処理として行われているのが実態です。
・遺体に死に化粧を施したあと、「死に装束」が着せられます。霊場を巡る巡礼者のかっ
 こうで、これから死出の旅路に出るために身につけさせる服装でしょう。
・死に装束は魂の処理の名残を感じさせる習俗です。最近はほかの宗派でも正式な死に装
 束を着せることは少なくなりました。その代わり、死者が生前好きだった服装をさせた
 り、葬儀社が用意した略式の経帷子を遺体の上にかけて済ませることが多くなっている
 ようです。
・病院であれ家庭であれ、人が亡くなると、その場に立ち会った人たちによって、割り箸
 の先に脱脂綿を巻いて糸で縛ったものに水を含ませ、死者の唇に塗ってあげます。これ
 を「末期の水」とか「死に水」と呼んでいます。
・今は病院で人が亡くなると、遺体は霊安室に運ばれて、遺族から特に指定がないかぎり、
 病院が葬儀屋さんに連絡をして家に運ばれるようです。葬儀屋さんは遺体を運ぶ専門の
 車を持っていますが、自分で運びたいという人は自家用の車で運んでも法的には問題な
 いそうです。ただし、死亡診断書と埋葬許可証を持っていなければならないとのことで
 す。
・家に運び込まれた遺体は、頭を北の方角に向けたいわゆる「北枕」に寝かせられます。
 このいわれもはっきりせず、迷信と考えていいと思います。
・北枕に寝かされた遺体の布団の上、または枕もとには、小刀とカミソリ、包丁やはさみ
 などが置かれます。これらは「守り刀」と呼ばれ、魔除けや鎮魂の意味を表すといわれ
 ますが、やはり俗信からくる習俗と考えていいと思います。
・遺体の枕もとには、白木や白布をかぶせた台が用意され、その上に香炉、燭台、花立が
 並べられます。これを「枕飾り」といい、花立てには樒がいけられます。ほかに、水や
 茶碗にはごはんを盛り、箸を一本立てたか枕飯、枕団子などが用意されるところもあり
 ます。
・棺おけを家から運び出す時は、日本でも昔から通常の戸口は使いませんでした。わざわ
 ざ壁をぶち破って出すとか、あるいは窓から出したりしたのです。要するに、死者が知
 らない出口を設けてそこから出す。そして、出したところで棺おけを二、三度ぐるぐる
 回して方向をわからないようにして運ぶなどという方法が取られました。これらも死者
 の目をくらまし、家に帰ってこられないようにするための迷信です。
・これらの習俗も、同じ日本でも地域、地方によってまったく違います。たとえば北海道
 あたりではお通夜を大事にし、みんながお通夜に行きます。ところが、大阪あたりに行
 くとお通夜は身内だけでやるものだという認識になり、よほど親しい者でないとお通夜
 には呼びません。本葬に来てもらうんだという考えです。もっとも、これも最近ではだ
 いぶ様変わりしています。
・日本の家族はいまだに神棚と仏壇がいっしょに祀られている場合が多いのですが、原
 則として、神棚は神道の祭壇、仏壇は仏教の祭壇ということですから、両方がいっしょ
 にあること自体がおかしいのです。
・明治維新のとき、日本は天皇を神として担ぎ上げ、国民に国家神道を強要して軍国主義
 の道を歩みました。その際、日本国民各自の家に神棚を置けと強制したものですから、
 いまだに神棚と仏壇の両方を置いている家もあるわけです。
・一応、神棚と仏壇を使い分けていた昔の日本人は、葬式があると、つまり死者が出ると
 すぐに神棚を隠しました。神棚の戸を閉め、白い半紙を貼って神棚を閉じたのです。神
 棚に線香や灯明をあげたら怒られますから、神さま、ちょっとお眠りくださいというわ
 けで休業していただいていたということです。
・江戸時代以降葬式仏教の流れというものができて、お葬式や法要の中に古来からあった
 さまざまな習俗が取り入れられたのです。それがいまだに日本の各地で行われ、わたし
 たちの生活を形作っているというわけです。
・わたしたちの庶民がそこまで習俗に縛られる大きな要因のひとつに、やはり死体が怖い
 ということがあるのは見逃せないでしょう。ですから、死者を怒らせまいとする工夫が
 またいろいろな習俗を生み出すことになります。
・「棺」が物としての棺おけを表し、それに遺体を入れたものを「柩」というのだそうで
 す。
・もともと香典とは不幸があった身近な家に食料を持っていく「食料香典」のことでした。
 それがお金にとって代わる「金銭香典」になったのは、大正期から昭和期のことだとい
 われています。つまり、お葬式をお金が支配するようになったのは最近のことなのです。
・現代人は、どこかで香典をお金のやり取りと錯覚しているんだと思います。基本的に、
 「香典半返し」「祝儀倍返し」などといわれて一応の原則のようなものがあるのですが、
 それはだれにもそうなのではなく、持っていく人、返す人が限られているということが
 よく理解されていないようです。
・結婚祝いや香典を持っていくのは、本家に対する分家の人間なのです。本家のお祝いだ
 から、分家の人間がご祝儀を持っていく。本家のほうでは、「分家の人間がうちの娘の
 結婚祝いに来てくれた。本家の面目が立ってよかった」ということで、今だったら二、
 三万円包んできたものに対して、五、六万円くらい返す。それが本家としてのしきたり
 なわけです。
・では、分家の結婚式に本家がどうするかといえば、本家は費用を全部出してやります。
 それが本家の務めだからです。これを、本家が分家と関係ない家にまで同じことをやっ
 ていたとしたら、本家はやがてつぶれてしまうでしょう。そういう意味で、ご祝儀や香
 典をやり取りする家は限られていたのです。
・香典を持っていける人間は限らているのです。親族や近隣の親しい人です。たとえばお
 祝い事やお葬式があったとき、隣近所からご祝儀や香典を持って駆けつけていきます。
 隣近所は付き合いがあるのですからあたりまえですね。しかし、この場合、香典返しを
 してはいけないのです。香典返しをしたら村八分にあってしまいます。なぜなら、付き
 合いというものは長いものですから、この次なにか向こうの家で同じようなことがあっ
 たときに、今度は反対に同じようにしてもらえばいいということです。
・今の儀礼的な香典やご祝儀を考えると、昔のやり方のほうがずっと理にかなっているよ
 うに思えます。わたしはもう一度、今の香典やあり方を考え直したほうがいいと思いま
 す。
・我が国の習俗としては土葬が基本で、火葬が急速に不急し出したのは戦後です。今でも
 火葬が100パーセントではありませんが、すでに全国的に普及したといっていいと思
 います。仏教が伝わってくるまでは、土葬がすべてだったと言えます。火葬は仏教とと
 もに日本に入ってきたのです。お釈迦さまも火葬でしたから、日本でも火葬は高貴な人
 の死の処理として受け入れられ、一部の人に実施されたのでしょう。
・火葬というと、「お骨上げ」を思い起こします。焼きあがった骨を、二人がひと組にな
 って箸で拾い、骨壺におさめる習俗のことです。これは「箸渡し」ともいい「橋渡し」
 につながるので、死者が三途の川を無事に渡れるように祈るところからきているなどと
 説明されますが、実際には無意味な迷信で、だれかがやり出したことを、そのとおりな
 どと言って儀式化されてしまったのでしょう。こんな風習は古い伝統ではないと思いま
 す。ただ言えることは、日本人はなぜか骨にこだわる民族だということです。お骨上げ
 自体もそうですし、最後にほとけさまが座って合唱している姿をしているなどといって、
 のどほとけを故人ともっとも近い人が拾うなどという風習にも骨へのこだわりがあると
 思います。
・火葬にしたあと、東京都では遺骨を全部持って帰らせます。昔は遺骨はほんのちょっと
 拾い上げて骨壷に入れた程度でしたが、今は灰まで全部骨壷に入れて帰らせます。それ
 は、「うちのおじいちゃんは金歯をしていたのに、金がなくなっている。たぶん火葬場
 の人が金をくすねたんだろう」などと言われないようにするためだと言われています。
 実際には、金は全部溶けてなくなってしまうのです。そのため、骨壷が年々大きくなっ
 ています。
・火葬の順番について言えば、お葬式。告別式があってそのあと火葬に行く場合とか、逆
 に火葬してからお葬式・告別式を行う場合とか、地方によってさまざまです。ある地方
 では、人が亡くなるとまずお坊さんがすぐに枕経を読み、それから火葬場に行って荼毘
 に付し、そのあとお葬式を行うそうです。そういうところもありますし、先にお葬式を
 やってそれから焼き場に行くところもあるというように、いろいろです。それは、火葬
 の歴史が浅いからいろいろなパターンができてしまったということです。
・火葬場から帰ってくると、「精進落とし」といって宴席が設けられます。これは、物忌
 みにふけっていた時期が解けて日常生活に戻るという意味で行われる行事です。
 精進とは、もともと悟りを求めて行う努力のことですが、その期間が開けることを「精
 進落とし」と呼ぶようになりました。この期間が明ると魚や肉、お酒などがふるまわれ
 るのですが、これを葬儀を手伝ってくれた人へのお礼の意味が合わさって行われるよう
 になったのが現在の精進落としの姿です。
・火葬場から帰ってきた時に塩をかけますが、これは死体が穢れているからその穢れを清
 めるということです。今、浄土真宗などでは、故人がが穢れるはずがないのであって、
 こんなのは迷信だから、塩をまくなどというばかなことはするなと言って反対運動をや
 っています。
・お葬式を通じて、また終わったあとも「お焼香」が行われます。これはなぜ行われるの
 でしょうか。基本的には、死体が臭いからその臭いを線香で消すということです。お香
 を頭にあててくべる人もいますが、あれもやめたほうがいいでしょう。なんでも拝めば
 いいというわけではありません。死者という対象を拝むこと自体間違っているのです。
 本来、わたしたちはご本尊さま、つまりほとけさまを対象として拝むべきなのです。そ
 れなのに、死者を拝んでいるケースがいっぱいあります。

宗教の世俗化とお葬式
・よく問題にされることに、お坊さんに対するお布施と葬儀社の料金の問題があります。
 これをごっちゃ混ぜにしている方も多いのですが、まずお坊さんと葬儀社は違うという
 ことをよく認識する必要があります。
・今の日本人の大半は、葬儀屋さんにある程度お任せということになってしまうのではな
 いでしょうか。そうやってお任せコースにしてしまうと、葬儀社はお金を儲けたいので
 すから、それ相応の料金を取られます。その代わり、お任せすれば、「お寺さんだって
 何宗でも連れてきますよ」と言って、お坊さんの手配までしてくれます。
・一般の人の仏教離れに拍車をかけている原因のひとつは、この葬儀社とお坊さんの癒着
 にあるのではないでしょうか。お坊さんも収入源を確保しなければ生活ができないとい
 うことはわかりますが、みほとけの弟子としての誇りまでは手放してほしくないもので
 す。
・お坊さんが葬儀社にお葬式を紹介した場合、お坊さんに支払われる紹介料の平均は葬儀
 料金の一割だそうです。反対に、葬儀社からお坊さんに、「お葬式の導師として檀家を
 紹介するから、お布施の三割をバックマージンとしていただきたい」といった話も日常
 的にあると聞きます。本来お布施と葬儀料金はまったく別物なのに、それを混同してし
 まう要因を葬儀社とお坊さんが作っているという側面もあります。
・布施とはもともと欲や執着を捨てさせていただく行であり、葬儀料金は商行為として定
 められる定価です。
・お葬式には死者の肉体の処理と魂の処理という二面性がある。肉体の処理は葬儀社で十
 分できるはずである。問題は魂の処理ですが、ほとんどの人がこれはお坊さんを呼ばな
 いとできないと思っています。しかし、私はそこをもう一度考え直してほしいと思うの
 です。魂は、どのように処理するのがいちばん理想的なのでしょうか。それを考えると
 き、二つの方向性が出てくると思います。つまり、一つは魂を「邪霊」と見て、その恐
 ろしい霊魂がわたしたちにたたるからこれを鎮めようという考え方です。もう一つは、
 そうではなくて、魂は安らかなものなんだという見方です。
 私は後者のほうがいいと思います。仏事をやらないと私たちに不幸をもたらすんだとい
 うような強迫観念で故人を見るのでは、私は亡くなった人がかわりそうだと思います。
・今多くのお坊さんたちが口にするのは、「先祖供養をしないと故人の霊が浮かばれませ
 んよ」というようなことです。私がお坊さんの方に認識もらいたいと思うのは、「仏教
 でなければ霊魂を鎮められない」などと言えば、それは脅しになっているということで
 す。
・インチキ宗教の見分け方は、私はこう思います。
 ・インチキ宗教 :世間のものさしで勝負している宗教
 ・ほんものの宗教:世間のものだしを超えたところに別のもうひとつのものさしを持っ
  ている宗教、ほとけさまのものさし、神さまのものさしというものを持っている宗教
・この宗教に入信すれば金持ちになれますよなどと言っているのは、みんなインチキです。
 貧乏なら貧乏でいいのではないですか。病気なら病気でいいのではないですか。
・インチキ宗教は大学に合格できるのが倖せで、落ちるのが不幸なんだというように教え
 ます。そして、この宗教を信じれば大学に入学できるなどと言って合格祈願をやったり
 するのです。 
・世間のものさしで勝負しようとするのがインチキ宗教なんです。現実の仏教も相当イン
 チキ化しているというのは指摘しておかなければなりませんが、とりわけ、新興宗教は
 大部分がインチキ宗教だということは言えるでしょう。
・既成仏教が世俗化し、現世的なものさしでしかものを見れなくなったとき、インチキ宗
 教がはびこります。ある面では、超能力的なことを言ったりオカルト的なことを言った
 りしますから、一見世間のものさしを超えた宗教のように見えるわけです。
・インチキ宗教が一時期すごい勢いで伸びたのは、まだ貧富の差が激しい時代に生じた現
 象です。インチキ宗教への入信の動機は、「貧・病・争の三本柱」であるといわれるよ
 うに、貧しさや病気、家族や職場、身近な人などの人間関係のトラブルが日常の問題だ
 った時代にインチキ宗教は急成長しました。この宗教を信じれは、貧・病・争から逃れ
 られると謳ったからです。
・江戸時代にお坊さんは葬式をやらなければならなくなりました。そのため僧侶仲間でや
 っているお葬式の方法を取り入れることにし、死者をひとまず弟子にして弟子のお葬式
 をやる形をとったわけです。弟子にするために出家させ、死者に戒名を与えた。それが
 戒名のいわれでした。
・日本では死んではじめて仏門に入るわけですから、その時初めて戒名がもらえる。そう
 いう意味では、わが国では在家信者のためのほんとうのお葬式をやっていないのです。
・江戸時代においては、たとえば曹洞宗や浄土真宗の信者は比較的身分の低い人が多かっ
 たといわれますが、それに対して、臨済宗や浄土宗には高貴が人が多くいました。徳川
 将軍家は浄土宗でしたから宗派として位は高いし、臨済宗も高い。
・戒名は出家してお坊さんになった時の名前なんですから、出家もしないのに戒名をつけ
 る理由がありません。出家というのは、師匠についてそのもとで修行することで、その
 時に教団の一員として守るべき戒律を授かります。これを「授戒」といいますが、授戒
 した時に授かる名前が戒名ですから、師匠もいないのに自分でつけてもなんの意味もな
 いわけです。
・本来は師から授かるものであるはずの戒名が、現実には「売り買い」されているという
 のが実態のようです。
・1990年に互助会の大手が行った「現代葬式実態調査」によると、戒名料と読経料を
 合わせたお布施の平均は50万9千円でした。
 ・10万円未満  6.7%
 ・~30万円  24.2%
 ・~50万円  22.3%
 ・~70万円  23.3%
 ・~100万円  5.8%
 ・~以上    17.5%
・遺族の方は、お布施をお葬式と法事の料金のような受け取り方をしていますし、現実に
 はお坊さんのうちにもそういう意識の人がいると思います。しかし、本来お布施とは、
 自分の欲望や執着を捨てるための行なのです。わたしたちが苦しむ理由は、お金持ちに
 なりたい、いつまでも健康でいたい、長生きしたい、そんな無理な欲望にこだわるから、
 達成されない苦しさに身を焼くのだということです。だから、そんな欲望やこだわりを
 みずから捨ててみることでわたしたちは苦しみから解放されるのです。その修行がお布
 施です。

供養の本質、お墓の問題
・お墓とは、基本的には「死体置き場」です。お墓の問題は霊魂の処理とは無関係です。
 現在日本では火葬がほとんどですが、私はできればほんとうの火葬にしてほしいと願っ
 ています。ほんとうの火葬とはなにかといえば、全部焼き上げてほしいということです。
・仏教の発祥地であるインドでは、お墓は作りません。インド人は、家族が亡くなると死
 体を全部焼き、ガンジス河に一切合財流します。
・日本人には火葬という風習はありませんでした。一般には土葬でした。火葬にしないか
 ぎりしたいは消えませんからどこかに葬らなければなりません。それがお墓だったので
 す。お墓のいちばんの目的は、死者が化けて出てこないようにすることです。だから、
 死体はできるだけ深く埋めて、出てこないように大きな石をぽんと載せました。これが、
 「墓石」です。だから、お墓を立派にするということは、死んだ人に「出てくるな、化
 けてくるな」と言っているのに等しいと私は説明しています。遺体を捨て、死んだ人を
 封じ込めること、それがお墓の主目的であります。
・現代では火葬になったと言いましたが、日本人の行っているのはほんとうの火葬ではな
 く、「火土葬」とでもいうべきものです。ほんとうの火葬とは、私はインド流のものだ
 と思います。火葬にするのであれば焼けるだけ焼いて、残った骨は全部流したほうがい
 い。捨ててしまったほうがいい。それがほんとうの火葬です。ところが、日本の場合ま
 だ土葬の名残があるから、遺骨に執着してその遺骨をお墓におさめるんですね。だから
 純粋な火葬葬ではないと私は思います。その中半端さが、単なる骨の捨て場であるお墓
 に対して幻想を抱かせ、迷いを生じさせることがしばしばあります。
・夫婦仲の問題で、「今の夫とは決して同じお墓にいっしょに入りたくない」などという
 声も増えていますが、これだってお墓に対する執着で、いつまでも自分がお墓の中にい
 るという思い込みです。それが進歩的で自立した女性の考えというなら、それはむしろ
 迷信にとらわれた退歩的な考え方といったほうがいいでしょう。お墓の問題は、基本的
 には死体の処理の問題で、決して霊魂の処理とは関係ないということを銘記すべきです。
・日本人はどうしても遺骨にこだわります。日本人は形になったものを死者に見立てて悼
 むという文化があるのでしょう。執着を断ち切るというよりは、執着を探して歩いてい
 るような感じがしないでもありません。私は、骨なんていうのはカルシウムなんだし、
 焼いてしまえば炭素なんだから、そんなものにこだわる必要はないと思うのですが、い
 まだに日本人はそう思えないんですね。ほんとうにインド人とは対照的です。
・私たちはこの世で死を迎えても、必ず輪廻します。そうすると、また生まれ変わるので
 すから永遠の死ではありません。消滅ではないのですから、お墓を作ったらおかしいの
 です。別の生命に生まれ変わっているのに、この墓はなんなのということになってしま
 う。それがインド仏教の考え方です。ところが、日本人は仏教を学びながら、その輪廻
 という考え方についてはまったく学んでいない。だから、いまだにまだ「我」というも
 のにこだわり、お墓に執着しているわけです。  
・日本人は、自分お家のご先祖さまが大事なんだと思い込んでいるのですが、、実は、こ
 れがほんとうの仏教がいちばん嫌う考え方なのです。自分の両親だけを幸せにする。あ
 るいは自分の祖父母や曾祖父母、わが身のご先祖さまだけは倖せであって欲しいなどと
 いう拝み方は、インチキ宗教の宣伝する常套手段です。そこのところに早く気がついて
 ほしいと思います。
・お墓はいまだに家督が継ぐものという形になっており、首都圏に出て仕事をしている次
 男や三男は、本家のお墓には入れないといって霊園を買わなければならないという強迫
 観念に取りつかれているようです。しかし、こういう時代になってお金がない、体は弱
 る、どうすればいいのか、という相談が増えています。しかし、何度も繰り返している
 ように、お墓は宗教とは関係のない死体の処理場なのですから、いくらでも解決法はあ
 るにではないでしょうか。私が考える現実的な解決方法は、今先祖代々の墓というのが
 ありますが、なにも分家だからといって差別する必要はない。一族郎党みんなで入れば
 いいんです。そうすれば、一家系にお墓は一つでいいはずです。
・人はお墓の下に眠っているわけではありません。お墓は単なる死体の処理の場所であり、
 道具なのだと認識することは、無神論者だとして非難されることはないのです。むしろ、
 お墓を拝むことより大事なことがあると私は思います。
・お葬式は自分でやるものではありません。お葬式は遺された者のやる仕事、父が死んだ
 ら子どもがやり、子どもが死んだら親がやる仕事なんです。そして、遺された者がした
 いようにやればいいんです。それを遺言として、こうしてくれ、ああやってくれなどと
 いうのは遺族に迷惑をかけるだけです。  
・JRには遺骨の忘れ物もいっぱいあるらしいです。それを集めて東京では中野のほうで
 供養して、一年に一回納骨していると聞きました。
・私たちにとって大切なのは、遺骨ではなく死者の霊魂だと思います。私は、ある新興宗
 教の教団の偉い方と対談した時、「あなた方は先祖供養だなんて言っているけれども、
 ちょっとおかしいんじゃないですか。ご先祖さまの霊がこのへんに漂っているなんて、
 そんなばかな話はない。霊がただよっているから供養しなけばいけないと言われたとす
 れば、それは侮辱だ。それは仏教の考え方ではない」
・私は仏教の考えでもなんでもないのに、現実に行われている習俗を説明するために、わ
 ざと仏教にこじつけて説明しているのがインチキ宗教の現状だと思います。さらに先祖
 供養を謳い文句にして、霊園販売業者などが霊園をどんどん建てて商売の道具にしてい
 る。こんなことをやっていたら、土地がなくなってしまいます。現実に庶民の不満が出
 てきているし、都会の仏教ではそれがいちばんの悩みなんです。一方、田舎ではまだま
 だ安泰で、地方のご住職なんかはこの問題に気づいていません。 
・最近、東京都では「合葬埋蔵」といい、ひとつのモニュメントを建ててその下に大きな
 納骨場を作り、希望する都民がみんなそこに入るという制度を打ち出しました。全部の
 費用が13万円だといいます。お参りはモニュメントに向かってすればいいわけです。
 このような方法なら、時代に即した遺骨の処理方法として評価できますし、お墓の土地
 不足にも対応できるヒントになるかもしれません。
・どうしてもお墓を作るというのであれば、三十三年くらいお墓を安置して、あとは人に
 譲るなり破棄するなりすればいいと思います。三十三年たてば、霊魂は集合霊となり神
 さまになるか、仏教的にいえばお浄土のほとけさまになったのですから、お墓から下ろ
 していいのです。
・お墓を下ろすことを「弔い上げ」といいます。位牌なども、何代か祀ったあと弔い上げ
 をして破棄をすればいいのです。庶民なら二代くらい祀ればそれで終わりとしたほうが
 いい。
・ものごとに終をつけるのは大事なことです。儒教だったら三回忌、足かけ二十五ヵ月。
 神道や仏教だったら最長三十三回忌、これでいいんだと思います。
・弔い上げをしてお墓を返した時に、まるで自宅の土地や家を売ったようにお金がもらえ
 ると思っている人も多いようですが、それはできません。お墓は自宅の地所と違い、売
 買はできません。使用権を購入するのであり、英大供養料を支払うということで、土地
 を買うものではないのです。
・世の中は変わります。必ずこんな時代ではなくなる。墓なんか作らなくていいようにな
 ります。それは、少なくとも百年後には変わっていると私は予言しておきます。いや、
 それ以前に、もっと早くは変わるでしょう。そうすると、考えるだけばかばかしいとい
 うことになります。そのころになると、葬式仏教はなくなります。葬式によってしか成
 り立たない仏教は滅びます。これは確実です。そして、たたりなんてなくなります。同
 時に、お墓参りの内容も変質していることでしょう。
・おもしろいことに、イスラム教徒はお墓を作るのですが、お墓参りをしてはいけないと
 いう決まりがあります。なぜならば、イスラム教はただアラーの神だけを拝むことが正
 いとされているからです。それ以外のものを拝んだら、イスラム教徒として破門されて
 しまいます。だから、絶対にお墓を拝んでもいけないしお墓を詣でてもいけないのです。
・欧米人は自分の死んだ親のお墓に行って偲ぶことはするのでしょうが、日本人の場合は
 「お墓参り」ということばのニアンスにも含まれているように、故人を拝んでしまうわ
 けです。死者を拝んでいるとしたら、これはおかしなことなんです。 
・人生に迷ったとき、私たちは親や友人、自分の昔の恩人などのお墓に行って問い尋ねた
 り語りかけたくなることがあります。そういうことは拝むこととは違い、自分の思い出
 や心の中に生きている故人と対話したいからでしょう。故人を偲ぶことによって、自分
 の心の整理をしているわけです。
・ところが、故人を拝むという行為は、故人が心の中に生きているのではなく、お墓の下
 とか黄泉の国とかに実際いるものだと思っているということでしょう。これはおかしな
 ことですよね。日本人はこれが問題なんです。
・そうではなくて、ご先祖さまは自分の心の中にいるんだと考えることができればいいん
 です。ご先祖さまはお浄土におられると思えば、それが正しい仏教の教えなんです。とこ
 ろが、日本人はどうしても死者がお墓にいるように錯覚し、実体化してしまう傾向が強
 いのです。今の仏教はそれを錯覚だと教えず、逆にそういう習俗に妥協して本来の主張
 をどんどん弱めた理論を説いています。だから葬式仏教などといわれるおかしな状況を
 生み出してしまっているのではないでしょうか。
・人間はどうしても目に見えるもの、形に現れたものしか実感できないから、親や友人な
 どなくなった大事な人が心の中にいるといわれても想像力が働かない。だからそれを補
 うためにも、形状化したお墓や仏壇が必要なんだという反論がありそうですが、人間は
 たようであり、必ずしも実体化されたものしか信仰できないということはありません。
・イスラム教では、実体化されたものを拝んではいけないのです。なぜならば、アラーと
 は宇宙に偏在している神で、まんべんなく存在しているものだからです。だからイスラ
 ム教の教会をモスクといいますが、そのモスクに行ったらなにもないのです。拝むべき
 像もなにもない。ただ、こちらがメッカの方向だよと示しているところがあって、その
 方向に向かって拝むのです。 
・人間というものは実体化されないと信仰できないというのは嘘だということになります。
 イスラム教徒はそんなばかなことを考えていません。そして自分の精神性を高めよう、
 高めようとしています。そんなイスラム教から見れば、イエスの像なんか拝んでいるキ
 リスト教徒は、まだ精神性の低い段階ということになります。ましてや、お墓がなけれ
 ば拝めないという日本人の精神性はまことに幼稚な段階です。
・基本的に、人間はどこかで死者がたたると思っているところがあります。つまり、死者
 の持っている霊魂的な部分、別なことばで言えば怨念のようなものがいつまでも残ると
 思っているのです。そして、この怨念を鎮めないと死者は私たちに害をもたらすととら
 えています。これはどこの国にもある通念かもしれません。供養とは、このたたりを鎮
 めるために行われるお供えの儀式といっていいでしょう。 
・仏教では供養でたたりを鎮めるなどとは一言もいっていません。私たちの、死者はたた
 るもんだと思う心がたたっているのです。そんな迷信に振り回されてはいけません。
・にほんの庶民の間でも、「お墓なんて、少しおかしいんじゃないか」という声が出てき
 て、「自然葬」が叫ばれるようになっています。もう、お墓に必要以上の意味を持たせ
 ることが変だということに、みんなが気づいているのです。
・厚生省もことここに至って、態度がだいぶ軟化しました。墓埋法の定義によれば、遺骨
 を墓地以外のところに埋葬しなければいいわけです。ですから、遺骨を細かく砕いてパ
 ーッと山や海にまいてくるのはかまいません。それから、交通の頻繁なところや漁場で
 はない海であれば、節度をもって遺骨をまくことは違法ではないという解釈がなされる
 ようになってきました。 
・ただ、自然葬も先祖供養のような意識を卒業してやらないと、かえって大変な問題を呼
 び起こしたりします。あとでたたりみたいなものに怯えたり、長男が自然葬に踏み切れ
 ても次男や三男が反対するとか、おじさんやおばさんが出てきて、「あんた、なにやっ
 てるの」などと言い合い、骨肉の争いになるようなもめごとが起こるという例はたくさ
 んあります。結局は、日本人全体が習俗を乗り越え、ほんとうの宗教を身につけなけれ
 ばならないということだと思います。
・どうして嫁いだ先のお墓に入りたくないとか、実家のほうに入りたいなどという気持ち
 になるのか私にはまったくわかりません。それは結局、前近代的な意識のままでお墓を
 大事にしているのと同じことではないでしょうか。そのような主張は、お墓信仰の強い
 地方にはむしろ少なく、逆に都会の女性論者に多いようです。つまるところ、今、夫や
 その家族といっしょにいたくないという気持ちの投影なのでしょうから、死んでからの
 問題にするのではなく、生きているうちに別れてしまえばいいということです。
・仏壇なんてなければなくていいんです。イスラム教徒のように、神仏は宇宙にまんべん
 なく偏在していると信じて、どこにいてもちゃんと拝めるという態度が大事なのです。
 仏壇がなければ拝めないというのは、よほどレベルが低いと思ったほうがいいでしょう。
 だからといって、あってはいけないというのではありません。あってもいいのですが、
 とらわれてはいけないというのです。 
・今、あちらこちらのお寺や霊園で、無縁墓、あるいは無縁仏が増えて困っているようで
 す。無縁仏とは、だれも祀らなくなった仏のことです。無縁仏は、何々家の墓といって
 いるかぎりどんどん出てきます。なぜなら、こんなに核家族化が進んで、それぞれの家
 族がお墓を持とうとするからです。
・昔の家族というのは、本家と分家があって、みんな合わせると、五、六○人もの一族郎
 党がいたわけです。それが一つの墓に入っていたのですから、だれかがお祀りすること
 ができました。しかし、今のような核家族になり、三人あるいはせいぜい四人くらいの
 家族で一つのお墓を作っていたら、子孫は絶えやすいし、お墓が無縁になるのはあたり
 まえです。各自が各自の家で墓を作ろうなどといっていたら、すべてのお墓がやがては
 無縁仏化してしまいます。
・先祖供養を進める人たちの原点には、自分たちの先祖は善人だった、すばらしい人だっ
 たという前提があるような気がします。それは実はとても危険な差別思想で、天皇制の
 影響があるのだと思います。つまり、天皇にどれだけ近いかが先祖供養の誇りになって
 いたり、侍や庄屋だったことを自慢して先祖供養を支えているわけです。反対に天皇や
 それに類する権威から遠ざかると、人間ではないかのように扱われる。これは国家神道
 の座標軸です。仏教とは関係ありません。世界宗教といわれる宗教の座標軸は、無限の
 かなたに存在する神谷ほとけだけが完全なものであり、最善なのです。そういうはるか
 かたなの座標軸から見れば、人間などというのものは、みんな不完全な悪人です。それ
 が宗教の原点でしょう。

仏教にみる理想の死に方
・現代人は霊魂の問題、死後の問題についてどのように考えているのでしょう。あるいは
 どう考えればいいのでしょう。私たちは、なんでも「化学的」に証明されたものでなけ
 れば信じないように訓練されてきています。そして、現代科学は霊魂なんてないと教え
 ていると思い込んでいます。でも、それは錯覚です。現代科学は、あるものについては
 研究できますが、ないものについては「ない」と断言するようなことはできません。
・同様に、霊魂はあるとかないとかということに関して、現代科学はなにも言えません。
 だからなにも言っていません。ところが、たいていの人は現代科学は唯物論だと思い込
 み、霊魂がないと言っていると頭の中で信じ込んでいます。
・現代人は、根本に戻って教えを学ぶべきだと私は思います。それはなにかと言えば、あ
 れこれと考えない、思い煩うことのない訓練を積むことです。
・考える訓練ではなく考えない訓練、それが正しい仏教の修行です。
・「私はこういう死に方が理想です」とか、「このように葬られるのが理想です」とかと
 いう理想に縛られないことです。多くの人がいかなる死に方がすばらしい死に方かと考
 え、そんなものがあると思っているようですが、それは錯覚です。死などというものは、
 私たちが選べるものではありません。自殺という手がありますが、しかし、自殺だって
 自分の思いどおりの死に方ができるかどうかはわかりません。 
・いい死に方だ、悪い死に方だなどというのは、たいてい周りの人が言うことです。事故
 や事件で死んだ人に「こんな無残な死に方をした」などと言いますが、でも、死は死で
 しょう。どんな死に方でも、死んだその人にとっては厳粛なる死なんです。それを無残
 だと言うその遺族の見方がおかしいのです。
・どんな死に様でもいいのです。これが美しい死だとかこういう死に方をすべきだとかと、
 死に方に差をつけると、あの人の死に様は悪かったとかもっといい死を迎えるにはこう
 したほうがいいなどと、どんどん脅しの宗教になっていくわけです。そこがほんものの
 宗教とニセモノの宗教の分かれ目で、仏教はそこを説いていかなければならないのに、
 お坊さんたちは逆にニセモノのほうに便乗している。そこがお坊さんが堕落していると
 非難されるゆえんであり、葬式仏教と悪口を言われる理由なのではないでしょうか。
 
お葬式はどうあるべきか
・「遺族の心の整理」のためにこそお葬式はあるべきなのではないでしょうか。私はお坊
 さんにも、これをやってほしいと思います。大事な人を亡くしたとき、遺族だけでは呆
 然として、とっさに整理がつかないものです。そんな時に真の仏教の教えを説いてあげ
 る。つまり、忘れることが大事なんだよと説いてあげる。その意味でのお葬式をやって
 ほしいと思うのです。それに、お葬式の時に戒名なんてつけてもらいたくないと思いま
 す。在家の人間は出家してないんですから、そのままの名前でいいのです。在家のまま
 でほとけさまに救い取られ、ほとけさまの世界に行った人間がどうして出家する必要な
 どあるんでしょうか。ですから、俗名のままでいいんです。位牌なんかも作らないでも
 らいたい。みんなでほとけさまを拝むんですから。またお坊さんには、「お墓なんかい
 らないぞ」と説いてほしいですね。
・お墓を作ることは、故人への執着を残すことです。インド人のように、思い出は一切残
 さず忘れてあげる。そしてほとけの国に帰られたのだと信じる。故人をこの世につなぎ
 止めるものはなにもないというのが理想なんです。
・お葬式とは基本的に遺族が行うべきものなんです。死体の処理に関しては、近所の人の
 手伝いが必要でしょうし、葬儀社の手に任せてもいい。しかし、それはあくまで肉体の
 処理としてです。お葬式そのものは遺族の問題です。二親等といえば兄弟までですから、
 三親等くらいまでが集まればいい。それ以上は不要です。
・告別式とお葬式はしっかり分けるべきです。ちょうど、結婚式と披露宴とが違うのと同
 じです。最近は結婚式にまで友だちを呼ぶケースもあるようですが、本来結婚式そのも
 のは親族でやるものです。そして、披露宴はやってもやらなくてもいいのです。今は結
 婚式といえばイコール披露宴というように思われていますが、それはブライダル産業の
 言うままにそのような風潮が作り上げられているということで、もともと披露宴などと
 いうのは不必要なものです。
・同じように、告別式も死者を悼む追悼会ですから、遺族が出る必要はないんです。友だ
 ちだけの結婚披露宴に、親族は出ないことが多いですよね。むしろお父さんやお母さん
 が来ると、世代が違うのでしらけてしまったりするからです。お祝いをする仲間だけ集
 まてやればいいんです。 
・告別式・追悼会はやりたい人がやればいいし、逆に通夜とお葬式は親族しか集まっては
 いけないのです。私はこれに参加できるのは三親等、せいぜい四神等までと思っていま
 す。
・通夜とお葬式は、親族だけでやるべきです。血のつながらない人は入れるべきではあり
 ません。
・少しお浄土にお土産を持って帰りたいなあと思うんです。それはなにかと問われれば、
 やはり美しい思い出みたいなものでしょうね。勲章や地位、ポスト、お金、そんなもの
 はお浄土のお土産にはなりません。
・今の日本人は欲望だらけになっています。働くことが悪いというわけではありませんが、
 お金のためだけに働いている。それはエコノミック・アニマルと言われてもしかたがあ
 りません。年を取れば年を取ったなりの役割があるのに、「生涯現役」なんてばかなこ
 とを言っている人がおおぜいいます。もういい加減に、自分の中に徐々にお浄土を作っ
 ていきなさいと言いたいですね。
・ほんとうの仏教というのは、まじめに歯を食いしばって生きなさいとか、聖人君子にな
 りなさいとかというものではありません。もうちょっと気楽に生きなさいというのが、
 私はほんとうの仏教の教えだと思います。そのことを、ストレスが多い日本で少しでも
 わかってもらいたいと願っていますし、また、そのお手伝いができるなら微力でも尽く
 したいと思っているのです。
・国というのは悪いことばかりやっているんだ。第一に、納税の義務などといってわれわ
 れの財産を奪うんだ。第二に、兵役の義務だといってわれわれの命を奪うんだ。そして
 第三に、教育の義務だといってわれわれの魂を奪うんだ。
・無宗教で生きている人間が、なぜ死後宗教的な葬式をやらなければならないのか、私は
 不思議てなりません。大事なことは、生きている間に自覚することです。わたしはほと
 けの国に往かせてもらえると、生きている間にしっかりと自覚しなければなりません。
 自覚もしないのに、死ねばお浄土に届けてもらえるなどと、ほとけさまを宅配便みたい
 に考えているのは仏教徒ではありません。ましてやお坊さんが、死者をまことしやかに
 仏弟子にして、戒名を与えて往生させるなどというのは茶番です。
・キリスト教であれば、契約ですから死の直前でも契約を結べば天国に行けます。仏教も
 自覚の宗教ですから、死の直前に自覚してもかまいません。しかし、死んでからでは契
 約を結べないし、自覚もできません。だから、私たちは生きているうちにそのことを知
 らなければならないのです。
・大地震の危機が取りざたされていますが、私は地震が来たら死ねばいいと思っています。
 だから、私はなにも考える必要はありません。家に食料を蓄えろとか水はどうしろとか
 懐中電灯がどうのと言っていますが、そんなものを用意しても、家にいる時に地震が来
 るなどという保証はどこにもありません。どうしたら生き残れるかなどと考え、いろい
 ろと準備するのはしんどいことです。みんな、どうしたら生き残れるかと発想するから
 しんどいんです。死ねばいいと高をくくればいいんです。
・今の日本の企業は、不景気になればさあリストラだと言いますが、私はこれはおかしい
 と思います。たとえばドイツなんかでは、「ワークシアリング」といって、仕事が少な
 くなったのであればどうやって仕事を分けていこうかと発想をします。ところが日本では、
 この不景気に向かってどうしたら生き残れるかとしか言わない。他人は死んでも、自分
 さえ生き残ればいいという考えでしょう。どうしてみんなで仕事を分けていこうと考え
 ないのでしょうか。みんな欲です。日本人はみんな欲に縛られて苦しくなているのです。