もう親を捨てるしかない :島田裕巳

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非常に衝撃な本のタイトルである。だが、今の日本社会の現状は、この本の内容とそれほ
どかけ離れたものではない。近い将来、この本のタイトルのようなケースが日常茶飯事に
なってくる可能性は大きい。
増え続ける高齢者、減り続ける出生率、そして膨大な国の借金。この国は、まもなく高齢
者を支えることができなくなってしまうであろう。
この国が生き延びるには、「老人を捨てろ」という政策を打ち出すしかないのかもしれな
い。かつて、この国が貧しかった昔、「姥捨て山」というものがあったそうだが、21世
紀に同じようなことが再びこの国で行われるかもしれない。我々は覚悟をしなければなら
ない時代を迎えつつある。

はじめに
・親を捨てる。今や、そうした時代が訪れている。それほど事態は深刻だ。
・介護に人生を費やし、その犠牲になっている人たちは無数に存在する。「介護離職」と
 いうことばがあるくらいで、介護のために仕事を辞めざるを得なくなった人間は少なく
 ない。離職してしまえば、必ずや悲劇を招き寄せることになる。介護による悲劇に陥ら
 ないためには、もう親を捨てるしかない。今や、日本の社会はそうした状況におかれて
 いるのである。 

孝行な子こそ親を殺す
・1998年から2015年までの18年間で、全国で起こった介護殺人や心中が716
 件にのぼった。これは心中を含むわけだが、年平均では約40件である。そのうち、夫
 婦間での事件が333件で、47%を占め、子が親を死亡させたケースは331件、
 46%にのぼった。
・厚生労働省の2013年の調査によれば、在宅で介護している介護者の性別は約7割が
 女性であるという結果が出ている。にもかかわらず、男性による介護殺人が多いのだ。
・仕事中心で生きてきた男性は悩みを周囲に打ち明けることが少なく、孤立するケースが
 多い。介護の負担を抱え込んで、うつ状態になりやすいのではないか。
・ほとんどの人間は生涯において雑人など一度も犯さない。よほどのことがなければ、人
 をあやめたりはしないものだ。まして、介護殺人に及ぶような人たちは、雑人はおろか、
 いっさいの犯罪と無縁な、むしろ真面目な人たちである。
・ところが、家族の介護を自宅で行うことで、最後は介護される人間を殺すという事態に
 至っている。しかも、こうした事件が頻発し、毎年のようにくり返されている。
・介護殺人に至るようなケースをなんとかなくしたいというのは、誰もが思うところだろ
 う。だが、自殺者や交通事故による死者を減らすことに比べれば、日本の社会は、介護
 殺人の防止に対してはそれほど力を入れていないようにも見える。極端に言えば、仕
 方のないこととして放置されているようにさえ見えるのだ。しかも、国は自宅介護を推
 奨している。それは、介護殺人をよりいっそう増加させる可能性をはらんでいる。
・介護される高齢者の側も、それまで当たり前にできたことができなくなると、それ自体
 に苛立ち、リハビリが進まなければ、焦りの気持ちも生まれる。そうなると、怒りやす
 くなり、怒りは介護をしてくれる人間に対して爆発する。果ては、「死んだほうがまし
 だ」とも言い出すが、簡単には死には至らない。そうなると、家族にとっては、高齢者
 がわがままで言うことを聞かないうっとうしい存在になってくる。それでも、介護する
 側が、元気であるあいだはいい。だが、不眠状態に陥れば、欝にもなり、果ては介護殺
 人や無理心中に至る。介護保険の制度だけでは、とてもそれを救うことができないのだ。
・国の方針は、2013年に大きく転換した。在宅介護を中心にしようというのである。
 それは介護にとどまらず、医療にも及んでおり、在宅医療・介護を推進するというのが、
 現在の国の方針である。そこには、膨大な額に達している医療や介護にかかる費用を削
 減したいという目的があるわけだが、国はその面は強調しない。
・介護殺人に至らないためにはどうしたらいいのだろうか。究極的には、親を捨てること
 である。そんなことを言い出せば、「人非人」であるという非難を覚悟しなければなら
 ない。たしかに、介護が必要になった親を捨てるなどという行為は、相当に惨虐なこと
 であるように思える。
・殺したくはないが、状況があまりに過酷で、生活が成り立たなくなり、精神的に追い込
 まれていったからこそ、やむを得ず親を殺し、その罪を背負うために自分も死のうとし
 たのである。しかし、親を捨てていれば、介護殺人に至ることはない。親も人生の最後
 に殺されることはないし、それまで前科のいっさいない子どもが殺人者になることもな
 いのだ。
・親もまた、捨てられることを覚悟すべきではないだろうか。親を捨てなければ、親も助
 からないし、子どもも助からない。果ては介護殺人に至るかもしれないのだ。介護殺人
 に至らないまでも、果たして子どもは親を自らの力で介護しなければならないものだろ
 うか仕事や生活を犠牲にしてまで、介護を優先させるべきなのだろうか。その点も疑問
 になってくる。これからも、高齢化が進み、要介護認定される高齢者も増えていくわけ
 だから、事態は相当に深刻である。しかも、社会全体の経済状況は悪化し、政府や日銀
 が主張しているのとは異なり、これから経済が発展していくことなどとても見込めない。
・今私たちは、親を捨てることを真剣に考えなければならない時代に立ち至っている。そ
 うしなければ、過酷な現実を生き残ることができなくなっているのである。

日本人は長生きしすぎる
・高齢者を家で抱えることは、その家にとって大きなリスクである。介護の負担が生じる
 可能性があるし、介護される側が認知症にでもなれば、肉体的な負担が増え、さらには
 精神的なストレスが高じる。しかも、徘徊によって事故を起こす危険性があり、そうな
 れば、多額の賠償金を請求されることもあるわけだ。  
・日本尊厳死協会では、尊厳死の法制化をめざしている。ただそれは、現在でも実現して
 いない。この協会は、現在12万人近い会員を抱えている。膨大な数である。しかも、
 超党派の「尊厳死法制化を考える議員連盟」も組織されている。にもかかわらず、障害
 者の団体からの反対もあり、法制化にまでは至っていない。今度こそ法案が上程される
 という話は、国会が開かれるたびに流されるが、上程さえされたことはない。
・超長寿社会とは、高齢者になってもイヤが生存している可能性の高い社会である。昔は、
 結婚する年齢が若かったこともあり、親と子の年齢差は今よりもかなり小さかった。そ
 れでも、65歳になれば、親の20歳のときの子どもだと親は85歳になる。となれば、
 生存している親は、かなり数として少なかったはずである。高齢者の子どもが、後期高
 齢者の親の介護をすることは、老老介護の一種である。それは、かなり過酷な介護状況
 覚悟しなければならないことを意味する。たとえ、介護ということにいたらなかったと
 しても、いつまでたっても親がいるという事態に遭遇しなければならなくなってきた。
 果ては、自分が死ぬときに親が健在という事態も珍しくなくなってきた。
・もう一つ、超長寿社会になったことで生じるようになった問題が、「孤独死」や「無縁
 死」の増加ということである。その背景を探っていくと、親を捨てざるを得ない現実が
 浮かび上がってくる。 
・無縁死というのは、自分ひとりだけで住んでいる、つまり単身者世帯で亡くなった死者
 が、死後何日も発見されないという事態をさしている。これが孤独死とも呼ばれるわけ
 だが、そうした死を迎える人間が年間3万人を超えているというのだ。
・孤独死を防ぐ対策が必要だという声は上がっており、政府や地方自治体も対策を立ち上
 げたりしている。しかし、介護殺人の場合もそうだが、是が非でも孤独死を防がなけれ
 ばならないという状況にはなっていない。真剣に孤独死に一掃を訴え、その方向で熱心
 に活動しているのは、宗教団体の創価学会くらいではないだろうか。地域にネットワー
 クを張っている創価学会に入会すれば、たしかに仲間の会員が頻繁にまわってくるので、
 孤独死という事態は避けられるであろう。
・2010年の国勢調査によれば、日本の世帯数は5184万世帯で、そのうち、単身者
 世帯が1678万世帯を占めていた。これは全体の32.4%で、単身者世帯がもっと
 も多くなっていた。世帯数全体は20年で1.27倍に増えているが、単身者世帯にな
 ると1.79倍にも増えている。結局のところ、単身者世帯の増加が、世帯数の増加の
 大きな原因になっている。ただし、単身者世帯がすべて高齢者だというわけではない。
・単身者世帯が増えたのは、戦後、多くの人間が地方から都会に出てきて、新しい世帯を
 作るようになったからである。それが、根本的な原因である。
・地方の家では、異なる世代が同居して生活している。3世代同居は当たり前で、4世代
 同居ということだってあり得る。そうした家では、まさに代々続いてきた家と言えるも
 のである。同じ家でも、都会にある核家族とはそのあり方が根本から異なる。都会にで
 きた家は規模の小さな核家族で、とても代々続いていかないものである。
・都会に生まれた家というものは、それほど遠くない将来に消えていく宿命にある。核家
 族の寿命は、結婚してその家庭が生まれてから、残された夫婦のどちらかが亡くなるま
 での50年程度と考えれるのではないだろうか。核家族は、最後の段階で、必然的に単
 身者世帯になってしまう。 
・都会は、いろいろと便利なものがあるので、ひとり暮らししていても不自由を感じない。
 これが地方だと、今ならコンビニくらいはあるかもしれないが、ひとり暮らしには不便
 である。さらに、最近では、「おひとりさま」を大切な客として尊重しようとする動き
 もあり、以前よりもはるかにひとりでいることの居心地がよくなっている。なぜ結婚し
 て、家庭をもうけ、苦労して子どもを育てていかなければならないのか。そうした疑問
 に対して答えを出すことが難しい世の中になっているのである。
・家庭を作れば、少なくとも、夫婦の相手方の親族との付き合いが生まれ、それは面倒な
 ことであったりする。その割に、結婚に意義を見出せない。今は、そうした社会になっ
 ているのである。    
・サラリーマン家庭で子どもを作ることに意味があるとすれば、それは、子どもを媒介に
 して地域などにつながりができるということである。とくに幼稚園や保育園、そして小
 学校に上がれば、親同士の関係も生まれるし、地域とかかわることも多くなる。それは、
 単身者には難しいことである。
・今は、自分が住んでいる地域にひとりも知り合いがいなくても、生きていくことはでき
 る。 格別不便ではないし、寂しいと感じることもない。地方とはまるで環境が違うの
 である。
・結婚し、子どもを作ることは、人生における一つの選択肢、オプションになっていく。
 それを選ぶかどうかは、本人次第なのである。しかも、雇用が流動化するなかで、非正
 規雇用という状況におかれれば、なかなか結婚にはむかわなくなる。あらゆることが、
 家を作らないという方向にむかっている。私たちは、今や、「家のない社会」へと向か
 っていることを認識しなければならないのである。
・それだけ弱体化した家において、介護を行うということ自体が無理である。家族の数が
 多いなら、それぞれが分担して老いた人間の介護にあたることができた。ところが、現
 代のとくに都会にある家では、介護される人間1人に対して、介護者は1人か、せいぜ
 い2人である。とても仕事などしていることはできず、介護に専念ずれば、仕事を辞め
 なければならず、生活が破綻する。現代の家には、そこに生きる人間を最期まで守りき
 るだけの力はない。それでも、自宅で介護しようとすれば、破綻は目に見えている。

終活はなぜ無駄なのか
・今や高齢者のキーワードは、「子どもには迷惑をかけたくない」である。
・現在では、家族だけで行う、あまり金をかけない葬儀、「家族葬」が普及するようにな
 ってきた。すでに、この家族葬が葬儀の中心になっている。さらには、火葬場に直行し、
 荼毘に付すだけで終わりにしてしまう「直葬」も、首都圏では全体の4分の1を占める
 までになった。ひっそりと亡くなり、葬儀には多くの参列者を呼ばないということがど
 こでも当たり前になりつつある。  
・墓を購入しない人たちは、散骨や樹木葬を念頭においているらしい。ただ、樹木葬につ
 いては誤解が多い。正しくその意味を理解していない人が少なくないように見受けられ
 る。そもそも樹木葬は最近生まれた埋葬の仕方なのだが、それができるのは墓地として
 認可を受けた霊園だけである。墓石を建てない代わりに樹木を植えるのが、樹木葬とい
 うことになる。ところが、樹木葬を希望する人たちの意識としては、墓に埋葬すること
 とは区別されている。むしろ、散骨に近いものとして認識されている。
・親の方は、「子どもには迷惑をかけたくない」が基本方針だから、墓など作らず散骨し
 てほしいと望む。そこには、墓への埋葬を望まない本人の思いもあるし、そもそも死ん
 だらそれで終わりなのだから、墓への埋葬など不要だという気持ちも働いている。とこ
 ろが、子どもの方は、まず「子どもには迷惑をかけたくない」というのは、随分と水臭
 いことではないかと考える。自分が親から頼るにされていないようで、そこに納得でき
 ないのだ。
・散骨するなら、基本的に墓は作らないわけで、墓がなければ墓参りにも行けなくなる。
 それが、子どもたちが親の希望に反対し、散骨に抵抗する大きな理由になっている。
・墓参りはかなり盛んなわけだが、最近では、一方で、葬儀の簡素化とともに、年忌法要
 を行わない傾向が強くなっている。そのことが、どうやら墓参りの流行と関係している
 ようなのだ。
・年忌法要とは、なくなってから1年がたったときの一周忌や、その次の年に行われる三
 回忌、そして七回忌や十三回忌などである。年季法要をしなくなったのは、特定の寺の
 檀家になっていないことが増えたからである。檀家になっていないと、法要のやりよう
 がない。その結果、せいぜい家族で墓参りをして、食事をして済ませてしまうというス
 タイルが広まっている。 
・年季法要、法事を行わなくなっても、墓参りについては意外に盛んに行われているのが
 今の状況である。法事を行わないからこそ、墓参りが盛んになっているとも言える。そ
 れも、法事を行わなければ、墓参り以外に家族が一堂に会する機会がないからだ。
・実は、墓参りという習俗はそれほど昔から行われていたわけではない。案外、その点は
 認識されていない。土葬の時代には、遺体は村の共同墓地に葬られ、そこは、時間が経
 つと棺桶も遺体も腐ってしまうので陥没する。したがって、そこに墓石など建てること
 はできなかった。一方で、名主や村長をつとめるような村の名家になると、それとは別
 に「参り墓」を設け、そちらに墓参りした。しかし、一般の村人は、つまりは庶民の家
 では、そんな参り墓など作らなかった。したがって、墓参りなどしなかった。
・墓参りの習俗が広まるのは、むしろ戦後の都市社会においてである。都市部で生活して
 いる人間は、地方から出てきた者が多く、そうした人間の場合、故郷には墓があっても、
 それは自分たちが入るものではなかった。そもそも、都会での生活が長くなれな、そこ
 に定着し、故郷に帰ろうとはしなくなる。そこで、都会に墓を買うことになるのだが、
 住んでいる場所の近くには高くて買えないことが多い。その結果、自然と郊外の不便な
 場所にある墓園に墓を建てることになった。そうした墓には、これも戦後に普及したマ
 イカーで出かけていく。その代わりに、自分たちが住んでいる家は狭いこともあり、仏
 壇を設けたりしない。1年に一度か二度、家族で墓参りをすることで死者の供養を行う
 という習俗が、こうして生まれたのである。決して昔から広く行われていたわけではな
 い。  
・農家もサラリーマン家庭も、家族が生活する場ということでは、同じ家である。しかし、
 そのあり方はまったく違う。サラリーマンの築き上げた家族じゃ、「マイ・ホーム」な
 どと呼ばれて、一時期もてはやされたが、農家との決定的な違いは、経済的な共同体で
 はないということにある。もちろん、サラリーマン家庭でも、基本的に経済は一つであ
 る。親が働いた金で、その家の経済をまかない、子どもはその金で育てられ、学校に
 通う。しかし、自営業の家庭でもなければ、その家の働き手の勤める先は別々で、子ど
 もが親の仕事を受け継ぐということもない。少なくとも、子どもが親と同じ会社に勤め、
 親と同じ仕事を続けるということはまずないのだ。この点からすると、昔の農家や商家
 などと比較した場合、現代のサラリーマン家庭は、果たして「家」と呼べるものなのだ
 ろうか。そこからして疑問を感じざるを得ない。
・単身者の世帯が増えているわけで、単身者世帯は、人の住処ではあるかもしれないが、
 とても家とは言えない。現在の日本社会は、かつての状況とは異なり、とても家社会と
 は呼べない状況にある。したがって、相続というのも、資産を受け継ぐようなものには
 ならない。それは、たんなる金銭の分捕り合戦にすぎないものになっている。分捕り合
 戦であるからこそ、遺産をめぐっておおくのケースでもめる。誰もが必死に、自分の取
 り分を大きくしようとするからだ。死んでいく親の方は、子どもたちのあいだでそうし
 た争いが起きないように、いろいろと配慮しても、分捕り合戦になると、それに加わる
 人間たちは血眼になって奪い合う。
・まの前にある金が人を変えるわけで、「子どもには迷惑をかけたくない」という親の思
 いは、一瞬にして雲散霧消してしまうのだ。さほど財産のない人間は、子どもに財産を
 残そうと考えること自体が間違っているのだ。少額の財産は、子どもを幸福にするより、
 むしろ不幸にする。だったら
 遺産など残さない方がいい。その方がよほど「子どもには迷惑をかけない」という思い
 が実現されるのだ。
・終活が失敗する原因には、親と子のつながりということがある。子どもが弔うことを通
 して親との絆を強めようと思い、親が相続を通して子どもとの絆を強めようとすること
 自体が大きな問題をはらんでいる。親を弔うことが悪いとは言えないが、墓にこだわる
 必要はない。子供たちが集まりたければ、墓参りをする理由にする必要もない。命日な
 どに集まれば、それでいいわけだ。
・親の方も、現在の社会状況において、相続がもたらす弊害の方を考えるべきだ。家1軒
 くらい残しても、それは財産を譲り渡したということにはならない。極端な場合、親の
 住んでいた家が古く、修理も十分になされていなくて、大規模なリフォームをしなけれ
 ば、子どもが住めないことだってある。リフォームの費用を捻出できなければ、それは
 廃屋である。空き家にさえ多額の固定資産税がかかるようになった現在では、不動産ど
 ころか、マイナスの「負動産」である。  
・もうひとつ、終活が失敗に終わる要因として考えられるのが老いの問題である。終活を
 はじめたときに、すでに高齢者になっていたとしても、まだ当人は元気であり、そうい
 う状態だからこそ、自分の老い先を考えようとする。しかし、その時点では、自分が老
 いるということが具体的に何を意味するのか、はっきりと理解できていない。老いたと
 きの自分の状態や気持ちが、それより前に時点では具体的に想像できないのだ。たとえ
 ば、就活をはじめた時点では、無駄に命を長引かせる終末医療など断固拒否するという
 考え方に立っていたとする。いさぎよく死にたいと思うからだ。ところが、いざそうし
 た事態が現実味を帯びてくると、往々にしてその決意はぐらつくのである。
・また、老いるということにともなって、もう一つ大きな問題が生じてくる。それは、
 「ボケ」という事態が起こるということである。具体的には、認知症ということにもな
 ってくるが、たとえ、はっきりと認知症だと診断されない状態でも、年をとれば、誰も
 がある程度はボケてくる。それは、肉体の衰えということが根本的な原因になっている
 からだが、考えてみると、年をとってまったくボケないというのも、それはそれで辛い
 ことかもしれない。 
・自らの死が近づけば、それに恐怖を感じるだろう。そのとき、人がしだいにボケていく
 のは、そうした恐怖を忘れさせる、あるいは感じさせないことにもつながっていくので
 はないだろうか。そうした状態のなかで死んでいく方が、死を怖いものとして感じるこ
 とも少ないであろう。その点では、老いたらボケることも必要なのである。そこにボケ
 の機能があるとも言える。
・年をとれば、人に迷惑をかけないでは生きられなくなる。医療も介護もそうだし、葬儀
 や墓など死後のこともそうだ。その点で、「子どもたちには迷惑をかけなくない」とい
 う言葉は、たんなるスローガンであり、きれいごとにすぎない。そして、かえって子ど
 もの生き方を縛る。人には迷惑をかけないと教えられたことが、子どもにとってはもっ
 とも重大な迷惑になるわけなのである。

親は捨てるもの
・欧米社会では、これはイタリアを除く西ヨーロッパやアメリカということになるが、基
 本的に成人した段階で、親から離れて自立し、たとえ親が高齢になっても同居しないと
 いうことが原則になっている。したがって、子どもが同居して高齢者の親を介護すると
 いうことにはならない。親が自立した生活ができない状態になったとしたら、施設に入
 居するしかないのである。
・「スポック博士の育児書」では、子どもには早い段階から子ども部屋を与え、自分のベ
 ットでひとり寝かせるべきだというのである。たとえ、子どもがそれで寂しがったとし
 ても、決して夫婦の寝室に入れてはならないという主張だ。日本だったら、家が小さい
 ということもあるが、子どもが幼い頃には、夫婦のあいだに子どもが寝る「川の字」が
 一般的である。
・川の字の文化に生きている日本人からすれば、ごく早い段階から子どもをひとりで寝か
 せるのは躊躇する。当然、子どもは一緒に寝たいと親にせがんでくる。あるいは、子ど
 も部屋を与えても、夫が出張というときには、子供も心得ていて、母親の寝床に潜り込
 んできたりする。それを拒む母親は珍しい。
・幼い子どもが個室で寝かされる文化と、川の字で寝る文化とでは親子の関係が違う。日
 本は、親のプライバシーを最優先する文化はない。欧米社会では、子どもをベビーシッ
 ターに預けて、親は外出するなどということが珍しくないが、日本ではそんなことをす
 る親はほとんどいないのだ。  
・川の字で寝るということは、一つの象徴的な行為であって、それだけが親離れ、子離れ
 を妨げているわけではない。甘えの文化が確立された日本の社会では、さまざまな事柄
 がそれに結びついている。親は、子どもが自立できるように育てていかなければならな
 いはずなのだが、決してそれには熱心ではない。逆に、子どもの自立の妨げるような育
 て方をしているのである。大学などの高等教育を終えても、親と同居している若者は
 「パラサイト・シングル」と呼ばれる。
・パラサイト・シングルの時代が長く続けば、若者が結婚するチャンスは年齢が上がると
 ともに、ほとんどなくなっていく。40歳までパラサイト・シングルを続ければ、それ
 以降に結婚することはほとんど考えられない。もちろん、パラサイト・シングルを続け
 てきた人間が、結婚はしなくても、家を出るというケースはいくらでもある。だが、そ
 のままパラサイト・シングルを続ければ、親を自宅で介護する役割が背負わなければな
 らなくなる。その点では、パラサイト・シングルは、かなり将来のことではあるものの、
 介護殺人の予備軍である。
・親離れは、親との絆を断ち切るという意味で、精神的な意味での「親殺し」である。大
 人になるということは、親殺しという試練を克服するということでもある。偉大な親、
 あるいは社会的に大きな功績をあげた親のもとに生まれれば、その存在は相当な重荷で
 あり、それを乗り越えていくには、何らかの形での親殺しは不可欠であるとされる。
 実際に親殺しをしないためにも、精神的な親殺しをしておく必要がある。それは、親
 からの自立である。社会は大きく変わったとしても、精神的な親殺しの必要性は変わら
 ない。 
・私たちはどこかの時点で親離れしなければならない。たとえそれが、いかに困難なこと
 であろうと、大人になって親に甘えれば、それはもう終わりなのである。
    
とっとと死ぬしかない
・親は子どもに捨てられるのだとすれば、親の方はどうしたらいいのか。それはもう、
 「とっとと死ぬ」ことである。 
・日本では、自分では食事が摂れなくなった高齢者に対して点滴や経管栄養で水分と栄養
 の補給が行われる。経管栄養とは、鼻チューブや胃瘻のことである。ところが、スウェ
 ーデンでは、点滴も経管栄養も行われず、患者の食べたり飲んだりする能力に任されて
 いるそうなると、患者は栄養が低下しても、脱水になっても苦しむことなく、楽に死ね
 るスウェーデンでは、無駄な延命治療は行わず、苦痛をやわらげる緩和治療に徹してい
 るというわけだ。
・国が年々高くなる医療費を抑えるために、長期入院した場合には、「入院基本料」の点
 数を押さえる政策をとるようになったので、事情は変わりつつある。入院してあら最初
 の2週間は高い医療報酬がつくが、15日目からは段階的に引き下げられ、30日を超
 えると、加算がなくなるのだ。これで、長期の入院患者を病院が抱えるようになると、
 かえって病院経営に影響することになる。
・財政赤字は拡大し、国は膨大な借金を抱えている。それを赤字国債で凌いでいるわけだ
 が、経済学者の水野氏が言うには、貯蓄の伸びが止まれば、それ以上借金ができなくな
 り、赤字国債も発行できなくなる。貯蓄の伸びが止まるのは2016年だとも言う。
・オランダでは、2002年に安楽死を認める法律が制定されている。その際に、重要な
 役割を果たすのが、「ホームドクター(家庭医)」なのである。オランダでは、公的な
 健康保険に入る際に、資格のある医師ひとりと契約しなければならず、その医師がホ
 ームドクターになる。このホームドクターと契約している人間が不治の病にかかり、延
 命治療を望まない、あるいは中止してほしいと望んだときには、ホームドクターが本人
 の意思に従って安楽死を実現する方向に動いてくれるのだ。
・安楽死については、それを「消極的安楽死」と「積極的安楽死」に区別することが一般
 的である。消極的安楽死の方は、延命治療の中止によるものだが、積極的安楽死の方は、
 致死薬を与えるもので、オランダの場合はまさにこれにあたる。しかも、不治の病にか
 かっているかどうかは関係がないのだ。ちなみに、国別の自殺率では、日本は170カ
 国中、17位である。一方、安楽死を認めているオランダは87位とかなり低い。
・実際に、安楽死を実現するかどうかよりも、安楽死という選択肢が最後に用意されてい
 ることで、死の前の苦痛を免れることができることに安心感を見出しているというわけ
 だ。   
・日本人はあまりにも長生きしすぎる時代になっている。その長生きを、さまざまな場面
 で私たちは持て余している。私たちは、いかにとっとと死ぬか、そのことを考えるべき
 時代に突入しているのである。

もう故郷などどこにもない
・実家とは親が住んでいる家のことで、だからこそ帰省してそこに泊まることができた。
 帰省の際に土産は必要でも、宿泊代は要らない。何よりも実家は、帰省した人間が気兼
 ねなく泊まれる場所にほかならない。しかし、実家が親の家であるということは、親が
 亡くなった時点で、実家も消滅することを意味する。その家は、長男などが継ぎ、長男
 一家が住むようになるかもしれないが、そうなると、自然と敷居はまたぎにくくなる。
 そこにはもう気安く泊まれる場所ではない。兄の家になってしまえば、そこはもう実家
 とは言えないのだ。
・私たちは、故郷が永遠に存続するものだと考えてきた。しかし、故郷は決して永遠に存
 続するものではない。あるいは、ある時代にだけ存在したもので、それ以前にも故郷な
 どというものはなかったのかもしれない。
・兄弟姉妹の縁というものも、実家がなくなれば、相当に希薄なものになっていく。実家
 がなくなれば、兄弟姉妹が集まる場がなくなるわけで、法要がなくなりつつある今では、
 それこそ墓参りのときしか集まらないようになる。
・日本の企業は、たんに個人が働いて、給与を得るための組織ではない。社員が忠を尽く
 す場となることで、共同体としての性格を持つようになった。いわば村落共同体の代替
 物としての役割を果たすようになったのだ。それも考えてみれば当然のことだ。という
 のも、企業に勤めるようになるのは、地方から都会に出てきた村の出身者だったからで、
 村にいたときの生活原理が、企業でも生かされたのである。しかし、こうした傾向は、
 非正規雇用が増えることによって大きく変化してきた。日本企業の特徴とされる終身雇
 用や年功序列といったことは、現在の企業でも一定程度受け継がれているものの、それ
 は非正規雇用の人間には及ばない。社員が企業に対して忠を尽くしたのは、それによっ
 て長期にわたって生活が保障されたからである。そうしたことが見込めなくなれば、社
 員が企業に忠を尽くすことはないのだ。
・昔の親孝行は、親が子どもに多くのものを与えてくれたり、残してくれたりしたから熱
 心に実践されたわけである。子どもの方も、それをあてにしていて、その分、親を大事
 にした。親孝行は、決して無償の愛情の発露によるものではない。
・子どもは、ひとりでは大きくなれないわけで、親による養育を必要とする。その点では、
 昔も今も変わらない。そうした点では、子どもは親に「恩」がある。その分、子どもは
 親に対して孝を尽くさなければならないとも言えるが、昔と比較するならば、はるかに
 受けた恩は少なくなり、それに比例して、孝を尽くすための必要性はなくなっている。   
・今の社会では、忠も孝も、その価値を失っている。忠を尽くすべき相手や組織もなくな
 ったし、親孝行が子どもが是非とも果たさなければならない義務ではなくなっているの
 である。それでも、親の介護は子どもがするべきだという考え方は生きている。それを
 当然とは考えない人々も増えてきてはいるが、世間体を考えて、介護の必要な親を抱え
 ていても、施設には入れず、自宅でその面倒を見ている人たちもいる。しかも、政府は
 その方向に舵を切っているのだ。しかしそれは、どんどん時代遅れの考え方になりつつ
 ある。世間体を気にする人たちもまだいるが、世間というものの力も衰えている。
・現代のような社会では、世間体ということばも、だんだんと死語の仲間入りをしそうな
 気配である。世間という言葉は、もともと、具体的に何をさすのかがはっきりしない曖
 昧な言葉だが、世間体を気にしても意味をなさない。そんな時代になってきているので
 ある。私たちがこれまで当たり前だと思っていたものが、次々と当たり前ではなくなっ
 ている。日本の社会は、少し前とは大きく変わっている。根本的な変化を被ってきたと
 いうべきかもしれない。そうした社会で生きるには、価値観の根本的な転換が必要であ
 る。現在進行している事態を押し止めることは不可能である。
・今の親は子どもの教育ということには力を注ぎ、金もかけるし、手間もかける。たとえ
 ば、熟が離れたところにあり、夜遅くなるようだと子どもを迎えに行ったりもする。教
 育に力を注ぐのは、他に子どもに対してやれることがないからだとも言える。
・今の社会は、親の恩ということ自体が、なくなりつつあると言える。子どもがそれを強
 く思い、その後の生涯において親に何らかの形で恩を返さなければならないと感じる状
 況ではなくなっている。  
・近代に入ってからの日本人は、何かと制約の多い地方の村落共同体から離れ、自由な都
 会で生きることを望んできた。とくに、戦後には地方から都市部への大規模な労働力の
 移動があったわけで、その流れに乗って都会に出てきた人間たちは、都会の与えてくれ
 る自由に強く憧れていた。都会に出てきた当初は、生活がうまくいくようになれば、故
 郷に錦を飾ろうと考えていかもしれない。しかし、都会で成功すれば、ふたたび、さま
 ざまな形で共同体の規制がある故郷に戻ろうとは考えなくなる。ちょっと寂しくなった
 ときに、「故郷」の歌なり、地方から出てきた人間の境遇を歌にした歌謡曲を口ずさめ
 ば、それでこころは落ち着く。帰省はしても、すぎに都会に舞い戻る。ずっと故郷に戻
 り、そこに骨を埋まる気にはなれないのだ。
・都会に新たにできた家には先祖などいない。先祖がいないからこそ、先祖を祀る仏壇も
 ない。地方では、仏壇のない家など考えられないが、50年くらいしか続かない都会で
 は、先祖が生まれる前に家がなくなってしまったりするのだ。たとえ、その家で死者が
 出たとしても、墓は設けるが、仏壇は買わない。仏壇があれば、家で死者の供養をしな
 ければならない。ところが、都会の人間は、それを嫌い、たまに墓参りをするだけで、
 済まそうとする。死者には家から離れ、遠くに行って欲しいと、無意識にうちに望んで
 いるのだ。そんな形の家を作ってきたのだから、都会の人間は、最後単身世帯になり、
 たったひとりで死んでいくことを覚悟しなければならない。ひとりは寂しいかもしれな
 いが、他の人間と生活することの煩わしさが、ひとり暮らしを選択させたのだ。ひとり
 で生きていれば、最期、孤独死になるのも仕方がないことである。
・もう日本は、かつてとは違い、家社会とは言えない。家が社会生活の究極的な単位でさ
 えなくなっている。家がそれだけ脆いものであるということは、その家に住んでいる、
 あるいは住んでいた親子の関係も脆いということを意味する。兄弟姉妹の関係になれば、
 もっと脆い。家や家族の関係が脆いものである以上、人はひとりで生きていき、ひとり
 で死んでいくしかない。子どもに介護を期待すること自体が、そうした状況からすれば、
 あり得ないことである。子どもはそんな義務を果たす必要はないし、親はそれを期待で
 きないと覚悟すべきである。 
 
おわりに
・一時先進国において経済格差が相当に縮まったのは経済成長の恩恵によるもので、現在
 格差が拡大しているのは、低成長の時代に入ったからだという。そうなると、経済格差
 をこれ以上拡大しないためには、経済の成長が必要だということになり、「アベノミク
 ス」と呼ばれるような成長戦略が政府によって唱えられることになる。しかし、グロー
 バル化が進む現代の社会においては、先進国だけが経済成長の恩恵にあずかれる時代で
 はなくなった。経済競争は、すべてがグローバルな市場において展開され、先進国の人
 間だけが高い賃金を享受することなどできなくなっている。しかも、すでに日本も人口
 減少社会に突入しており、高齢者が増え続けていくなかで、労働力人口は減り続けてい
 く。それでは、経済の発展などまったく望めず、逆に大幅な縮小を覚悟しなければなら
 ないのだ。
・要は、私たちはこれから、相当に厳しい社会になっていくことを予測し、それを覚悟し
 なければならないのである。そのために、私たちは身軽になっていなければならない。
 とくに、親の介護を引き受けるような事態になれば、それは、破壊的に状況に発展する
 危険性がある。介護する側にもそうだし、される側も、それによって行き詰まり、果て
 は介護殺人で死ぬことにもなりかねない。殺人には至らなくても、介護によって介護す
 る側に生活や人生は失われていくことになる。金があり、親を立派な施設に入れること
 ができるなら、そうすればいい。しかし、それができるのは、限られた人間だけである。
 それなりに収入がある人間でも、子どもの教育費にかなりの額を費やしてしまったこと
 で、老後の貯えを結果的に失うことになる例も少なくない。親の側からすれば、子ども
 に十分な教育を受けさせてやることこそが自分たちのつとめであり、子どもがそれによ
 って社会的な成功を収め、ひいてはそれが自分たちの老後にも役立つと考えているかも
 しれない。だが、子どもの教育に金をかけたからといって、それは親の恩ということに
 はならない。それで恩を着せるのだとすれば、子どもにとって本当に迷惑な話だ。よく
 政治家は、努力が報われる社会こそ、政治のめざすところだと言う。しかし、これから
 の社会はそれほど甘いものではない。いくら努力したとしても、努力だけでは報われな
 い。しっかりと将来を見据え、将来において破綻しないための戦略と戦術を立てて臨ま
 ない限り、未来は切り開かれない。そういう社会になっていくのである。これから私た
 ちが生きる社会は、サバイバルを必要とする社会である。
・子どもはひとりの個人として生き、親もひとりの個人として生きなければならない。子
 どもは親に甘えているわけにもいかないし、親も子どもに甘えているわけにはいかない。
 むしろ、親が子どもにしてやれる最善のことは、早い段階で子どもを捨てることである。
 捨てられる子どもは、自分で生きていく術を見つけていかなければならなくなる。もち
 ろん、それで誰もが自立できるわけではない。だが、自立できないものは生きられない
 というのが、生物界の根本的なルールであり、人間もその例外ではないのである。たと
 え、捨てたらその子どもがだめになると分かっていても、あえてそこで捨てなければな
 らない。それを怠ると、今度は自分たちが年老いてから、子どもによって捨てられるこ
 とになる。その方が、子どもを捨てて、それ以降自分たちの人生を努力して切り開いて
 いくよりも、はるかに困難な事態におかれることになるのである。
 
<日本尊厳死協会>
http://www.songenshi-kyokai.com/