君たちはどう生きるか :吉野源三郎

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この作品は、いまから年前の1937年に発表されたもので、少年少女を対象とした作品
として長年重版され読み継がれてきたもののようだ。
しかし、残念ながら私は少年時代にこの作品と出あうことはなかった。
最近になってこの作品の存在を知り、もうすっかりいい齢であったが、読んでみた。
内容は、15歳の少年とその叔父とが精神的な交流により、貧困や学校でのいじめなどの
体験を通じて、少年の人間としての精神的な成長を描く内容となっている。
1937年という昭和の戦前の時代の作品のため、現代ではあまり使われない語彙や表現
もあり、また現代とは異なる社会背景なので、現代の人からすると、ちょっと違和感を覚
える部分もあった。
現代の中学生がこの作品を読んで、作者の言わんとしていることを、はたしてどこまで理
解できるのだろうかと、私自身は感じてしまった。

今年になり、この作品の題名と同じ「君たちはどう生きるか」という宮崎駿監督の映画が
公開され、あらためて注目されたようだ。
ただ、本の内容と映画の内容が同じなのかどうかは、映画を見ていないのでわからない。


プロローグ
・なぜそれほど苦しまなければならないのか。
 それは、君が正しい道に向かおうとしているからだ。
 「死んでしまいたい」と思うほど自分を責めるのは、
 君が正しい生き方を強く求めているからだ。
 人間というものの、あるべき姿を信じているからだ。
 きっと君は、自分を取りもせる。
 僕たち人間は、自分で自分を決定する力を持っている。
 
へんな体験
・一人一人の人間はみんな、広いこの世の中の一分子なのだ。
 みんなが集まって世の中を作っているのだし、みんな世の中の波に動かされて生きてい
 るのだ。
・もちろん、世の中の波というのも、一つ一つの分子の運動が集まって動いてゆくのだし、
 人間はいろいろな物質の分子とはわけがちがうものなのだし、そういうことは、君がこ
 れから大きくなってゆくにしたがって、もっともっとよく知ってゆかなければいけない
 けれど、君が広い世の中の一分子として自分を見たことは、決してちいさな発見ではな
 い。
・君は、コペルニクスの地動説を知っているね。コペルニクスがそれを唱えるまで、昔の
 人はみんな、太陽や星が地球のまわりをまわっていると、目で見たままに信じていた。
・これは、一つは、キリスト教の教会の教えで、地球が右仲の中心だと信じていたせいも
 ある。 
 しかしもう一歩突きいって考えると、人間というものが、いつでも自分を中心として、
 ものを見たり考えたりするという性質をもっているためなのだ。
・ところが、コペルニクスは、それではどうしても説明のつかない天文学上の字鎰に出会
 って、いろいろな頭を悩ました末、思い切って、地球のほうが太陽のまわりをまわって
 いると考えてみた。 
 そう考えてみると、今まで説明のつかなかった、いろいろなことが、きれいな法則で説
 明されるようになった。
・そして、ガリレイとかケプラーとか、彼のあとにつづいた学者の研究によって、この説
 の正しいことが証明され、もう今日では、あたりまえのことのように一般に信じられて
 いる。小学校でさえ、簡単な地動説の説明をしているようなわけだ。
・しかし、この説が唱えはじめられた当時は、たいへんな騒ぎだった。
 教会の威張っている頃だから、教会で教えていることをひっくりかえすこの学説は、
 危険思想と教えられて、この学説は、危険思想と考えられて、この学説に味方をする学
 者が牢屋に入れられたり、その書物が焼かれたり、さんざんな迫害を受けました。
・世間の人たちは、そんな説をうっかり信じてひどい目にあうのは馬鹿らしいと考えてい
 たし、そうでなくても、自分たちが安心して住んでいる大地が、広い宇宙を動きまわっ
 ているなどという考えは、薄気味が悪くて信じる気にならなかった。
・今日のように、小学生さえ知っているほど、一般にこの学説が信奉されるまでには、何
 百年という年月がかかったのだ。
・人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、これほど
 まで根深く、頑固なものなのだ。
・コペルニクスのように、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして、その中を
 動いていると考えるか、それとも、自分たちの地球が宇宙の中心にどっかり座り込んで
 いると考えるか、この二つの考え方というものは、実は、天文学ばかりのことではない。
 世の中とか、人生とかを考えるときにも、やっぱり、ついてまわることなのだ。
・子供のうちは、どんな人でも、地動説ではなく、天動説のような考え方をしている。
 それが、大人になると、多かれ少なかれ、地動説のような考え方になってくる。
 広い世間というものを先にして、その上で、いろいろなものごとや、人を理解してゆく
 のだ。  
・しかし、大人になるとこういう考え方をするというのは、実は、ごく大体のことに過ぎ
 ないのだ。
 人間がとかく自分を中心として、ものごとを考えたり、判断するという性質は、大人の
 間にもまだまだ根深く残っている。
 いや、こういう自分中心の考え方を抜けきっているという人は、広い世の中にも、実に
 まれなのだ。
・ことに、損得にかかわることになると、自分を離れて正しく判断してゆくということは、
 非常にむずかしいことで、こういうことをついてすら、コペルニクス風の考え方をする
 人は、非情に偉い人といっていい。
・たいがいの人が、手前勝手な考え方に陥って、ものの真相がわからなくなり、自分の都
 合のよいことだけを見てゆこうとするものなのだ。
・しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇
 宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断して
 ゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることができないでしまう。
・おおきな真理は、そういう人の目には、決してうつらないのだ。
 もちろん、日常僕たちは太陽がのぼるとか、沈むとかいっている。
 そして、日常のことには、それで一向にさしつかえない。
 しかし、宇宙の大きな真理を知るためには、その考え方を捨てなければならない。
 それと同じようなことが、世の中のことについてもあるのだ。

勇ましき友
・君は、水が酸素と水素からできていることは知ってるね。
 それが1と2との割合になっていることも、もちろん承知だ。
 こういうことは、言葉でそっくり説明することができるし、教室で実験を見ながら、は
 はあとうなずくことができる。
・ところが、冷たい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水を飲ん
 でみない限り、どうしたって君にわからせることができない。
 誰がどんなに説明してみたところで、その本当の味は、飲んでみたことのある人でなけ
 ればわかりっこないだろう。 
・同じように、うまれつき目の見えない人には、赤とはどんな色か、なんとしてお説明の
 しようがない。
 それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなのだ。
 こういうことが、人生にはたくさんある
・人間としてこの世に生きているということがどれだけ意味のあることなのか、それは、
 君が本当に人間らしく生きてみて、その間にしっくりと胸に感じとらなければならない
 ことで、はたからは、どんな偉い人をつれてきたって、とても教えこめるものじゃあな
 る。
・むろん昔から、こういうことについて、深い智恵のこもった言葉を残しておいてくれた、
 偉い哲学者や坊さんはたくさんある。
 今だって、本当の文学者、本当の思想家といえるほどの人は、みんな人知れず、こうい
 う問題について、ずいぶん痛ましいくらいな苦労を積んでいる。
 そうして、その作品や論文の中に、それぞれ自分の考えを注ぎ込んでいる。
・たとえ、坊さんのようにお説教をしていないにしても、書いてあることに底には、ちゃ
 んとそういう知恵がひそめてあるのだ。
・だから、君もこれから、だんだんそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆか
 なければいかないのだが、しかし、それにしても最後の鍵は、やっぱり君なのだ。
 君自身のほかにはないのだ。
 君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう
 偉い人たちの言葉の真実を理解することができるのだ。
 数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには決してい
 かない。  
・だから、こういうことについてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、
 信実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。
 君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはい
 けない。
 そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく
 考えてみるのだ。
・そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰り返すことのないた
 だ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかってくる。
 それが、本当の君の思想というものだ。
・これは、むずかしい言葉で言い換えると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆ
 け、ということなのだが、このことは、本当に大切なことなのだよ。
 ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みん
 な嘘になってしまうのだ。
・君に立派な人になってもらいたいと、心から思ってはいるけれど、ただ君に、学業がで
 きて行儀もよく、先生から見ても友だちから見ても、欠点のあげようのない中学生にな
 ってもらいたい、などと考えているわけじゃあない。
・また、将来君が大人になったとき、世間の誰からも悪くいわれない人になってくれとか、
 世間から見て難の打ちどころのない人になってくれとか、言っているわけでもない。
・そりゃあ、学校の成績はいい方がいいにきまっているし、行儀の悪いのは困ることだし、
 また、世間に出たら、人から指一本さされないだけの生活をしてもらいたいと思うけれ
 ど、それだけが肝心なことじゃあない。
 その前に、もっともっと大事なことがある。
・君は、小学校以来、学校の修身で、もうたくさんのことを学んでいるね。
 人間としてどういうことを守らねばならないか、ということについてなら、君だって、
 ずいぶん多くの知識をもっている。
・それは無論、どれ一つとしてなげやりにしてはならないものだ。
 だから、修身で教えられたとおり、正直で、勤勉で、克己心があり、義務には忠実で、
 公徳は重んじ、人には親切だし、節倹は守るし・・・という人であったら、それはたし
 かに申し分のない人だろう。
 こういう円満な人格者なら人々から尊敬されるだろうし、また尊敬されるだけの値打ち
 のある人だ。
 しかし、君に考えてもらわなければならない問題は、それから先にあるのだ。
・もし君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからとい
 って、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうと
 するならば、それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間にはなれないのだ。
・子供のうちはそれでいい、しかし、もう君の年になると、それだけじゃダメなのだ。
 肝心なことは、世間の目よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、
 それを本当に君の魂で知ることだ。
・そして、心底から、立派な人間になりたいという気持ちを起こすことだ。
 いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくとき
 にも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわ
 き出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはならない。 
・世間には、他人の目に立派に見えるように、見えるようにと振る舞っている人が、ずい
 ぶんある。そういう人は、自分がひとの目にどう映るかということを一番気にするよう
 になって、本当の自分、ありのままの自分がどんなものかということを、つい、お留守
 にしてしまうものだ。
 僕は、君にそんな人になってもらいたくないと思う。
・だから、君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも
 大切にしなくてはいけない。
 それを忘れないようにして、その意味をよく考えてゆくようにしたまえ。
・少しむずかしいかもしれない。
 しかし、簡単にいってしまえば、いろいろな経験を積みながら、いつでも自分の本心の
 声を聞こうと努めなさい、ということなのだ。

ニュートンの林檎と粉ミルク
・人間は生きてゆくのに、いろいろなものが必要だ。
 そのために、自然界にあるいろいろな材料を使って、いろいろなものを作り出さなけれ
 ばならない。
 自然界にあるものを取ってきて、そのまま着たり食べたりするにしても、やっぱり、狩
 りをしたり、漁をしたり、山を掘ったり、何かしら働かなければならない。
 ごくごく未開の時代から、人間はお互いに協同して働いたり、分業で手分けして働いた
 り、絶えずこの働きをつづけてきた。
 こればかりは、よすわけにはいかないからね。
・ところで、人間同士のこういう関係を、学者は「生産関係」と呼んでいるのだ。
 最初、人間は地球の上の方々に、ごく少数のかたまりを作って生きていたから、こうい
 う協同や分業も、その狭い範囲の中で行われていた。
 その時代には、自分たちの食べたり着たりする物ができあがるのに、どういう人が骨を
 折ってくれたか、すっかり見通しだ。
・ところが、そのうちに、そういう小さな集まり同士の間に、品物の交換が行われたり、
 縁組がはじまったりして、だんだん人間の共同生活が広くなってきた。
 人間の集まりも大きなものになってきて、とうとう国というものを作るようになった。
・もうこの頃になると、協同や分業もだいぶ大規模となり、その関係が複雑になって、自
 分たちの食べる物や着る物を見たって、いったい誰と誰がこのために働いたんだか、い
 ちいち知るわけにはいかない。
・それから、もっと時代が進んで、商業が盛んに行なわれるようになり、国と国との間に
 さえ取引が行われるようになると、人間同士の関係は、ますます込み入ってくる。
 世界の各地がだんだん結ばれて、とうとう今では、世界中が一つの網になってしまった。
 つまり、人間同士の世界的なつながりを土台にして、その上で仕事をしているわけだね。
・こういうわけで、生活が必要なものを得てゆくために、人間は絶えず働いてきて、その
 長い間に、いつの間にか、びっくりと網の目のようにつながってしまったのだ。
 そして、見ず知らずの他人同士の間に、考えてみると切ってもきれないような関係がで
 きてしまっている。
 誰一人、この関係から抜け出られる者もない。
・むろん、世の中には、自分で何も作り出さない人がたくさんあるけれど、そういう人た
 ちだって、ちゃんとこの網目の中には入っているのだ。
 生きてゆく上では、一日だって、着たり食べたりしないではいられないから、やっぱり、
 なんとかこの網目とつながっていなければならないわけだろう。
 働かないでも食べてゆけるという人々は、それはそれで、この網目と、ある特別な関係
 がちゃんとできているのだ。
・君が大きくなると、一通り必ず勉強しなければならない学問に、経済学と社会学がある。
 こういう学問は、人間がこんな関係をつくって生きているということから出発して、
 いろいろ研究してゆく学問だ。
 たとえば、時代と共に、この関係がどんなに変わってきたかとか、この関係の上にどん
 な風俗や習慣が生まれてきたかとか、また、現在それがどんな法則で動いているか、な
 どということを研究している。 
・君が、誰にも教わらないで、あれだけのことを発見したのは、立派なことなのだよ。
 たとえ、それが学問上わかり切ったことであっても、僕は、やっぱり君に敬服する。
 君ぐらいの年で、あれだけ考えてゆくことは、容易にできることじゃないもの。
・ただ、君に考えてもらわなければならないのは、本当に人類の役に立ち、万人から尊敬
 されるだけの発見というものは、どんなものか、ということだ。
・それは、ただ君がはじめて知ったというだけでなく、君がそれを知ったということが、
 同時に、人類がはじめてそれを知ったという意味をもつものでなくてはならないのだ。
・人間は、どんな人だって、一人の人間として経験することに限りがある。
 しかし、人間は言葉というものをもっている。
 だから、自分の経験を人に伝えることもできるし、人の経験を聞いて知ることもできる。
 その上に、文字というものを発明したから、書物を通じて、お互いの経験を伝え合うこ
 ともできる。
・そこで、いろいろな人に、いろいろな場合の経験を比べ合わすようになり、それを各方
 面からまとめあげてゆくようになった。
 こうして、できるだけ広い経験を、それぞれの方面から、矛盾のないようにまとめあげ
 ていったものが、学問というものなのだ。
・だから、いろいろな学問は、人類の今までの経験を一まとめにしたものといっていい。
 そして、そういう経験を前の時代から受け継いで、その上で、また新しい経験を積んで
 きたから、人類は、野獣同様の状態から今日の状態まで、進歩してくることができたの
 だ。
・一人一人の人間が、みんないちいち、猿同然のところから出直したのでは、人類はいつ
 までたっても猿同然で、決して今日の文明には達しなかっただろう。
・だから僕たちは、できるだけ学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければな
 らないのだ。 
 そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。
 骨を折る以上は、人類が今日まで進歩してきて、また解くことができないでいる問題の
 ために、骨を入らなくてはうそだ。
 その上で、何か発見してこそ、その発見は、人類の発見という意味をもつことができる。
 また、そういう発見だが、偉大な発見といわれることもできるのだ。
・これだけいえば、もう君は、勉強の必要は、お説教しないでもわかってもらえると思う。
 偉大な発見がしたかったら、いまの君は、何よりもまず、もりもり勉強して、今日の学
 問の頂上にのぼり切ってしまう必要がある。
 そして、その頂上で仕事をするのだ。
・しかし、そののぼり切ったところで仕事をするためには、いや、そこまでのぼり切るた
 めにだって、自分の疑問をどこまでも追っていく、精神をうしなってしまったてはいけ
 ないのだよ。
・君が生きてゆく上に必要な、いろいろな物をさぐってみると、みんな、そのために数知
 れないほどたくさんの人が働いていたことがわかる。
 それでいながら、その人たちは、君から見ると、全く見ず知らずの人ばかりだ。
・広い世間のことだから、誰もかれも知り合いになるなどということは、もちろん、でき
 ることじゃあない。 
・今の世の中では、残念ながらそれが事実なのだ。
 人間は、人間同士、地球を包んでしまうような網目をつくりあげたとはいえ、そのつな
 がりは、まだまだ本当に人間らしい関係になっているとはいえない。
 だから、これほど人類が親補しながら、人間同士の争いが、いまだに絶えないのだ。
・だが、人間は、いうまでもなく、人間らしくなくちゃあいけない。
 人間が人間らしくない関係の中にいるなんて、残念なことなのだ。たとえ「赤の他人」
 の間にだって、ちゃんと人間らしい関係を打ち立ててゆくのが本当だ。
・では、本当に人間らしい関係とは、どういう関係だろう。
 君のお母さんは、君のために何かしても、その報酬を欲しがりはしないね。
 君のためにつくしているということが、そのままお母さんの喜びだ。
 君にしても、仲のいい友だちに何かしてあげられれば、それだけで、もう十分うれしい
 じゃないか。  
・人間が人間同士、お互いに、好意をつくし、それを喜びとしているほど美しいことは、
 ほかにありはしない。
 そして、それが本当に人間らしい人間関係だよ、君はそう思わないかしら。

貧しき友
・君も大人になってゆくにつれて、だんだん知ってくることだが、貧しい暮らしをしてい
 る人というものは、たいてい、自分の貧乏なことに、引け目を感じながら生きてるもの
 なのだよ。
・自分の着物のみすぼらしいこと、自分の住んでいる家のむさ苦しいこと、毎日の食事の
 粗末なこと、ついはずかしさを感じやすいものなのだ。
・もちろん、貧しいながらちゃんと自分の誇りをもって生きている立派な人もいるけれど、
 世間には、金のある人の前に出ると、すっかり頭があがらなくなって、まるで自分が人
 並みでない人間であるかのように、やたらペコペコする者も、決して少なくはない。
・こういう人間は、むろん、軽蔑に値する人間だ。
 金がないからでない。
 こんな卑屈な根性をもっているという点で、軽蔑されても仕方がない人間なのだ。
・しかし、たとえちゃんとして自尊心をもっている人でも、貧乏な暮らしをしていれば、
 何かにつけて引け目を感じるというのは、免れない人情だ。
・だから、お互いに、そういう人々に余計なはずかしい思いをさせないように、平生、そ
 の慎みを忘れてはいけないのだ。
・人間として、自尊心を傷つけられるほどいやな思いをすることはない。
 貧しい暮らしをしている人々は、そのいやな思いを嘗めさせられることが多いのだから、
 傷つきやすい自尊心を心なく傷つけるようなことは、決してしてはいけない。
・そりゃあ、理屈からいえば、貧乏だからといって、何も引け目を感じなくてもいいはず
 だ。 
 人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や食物にあるわけじゃあない。
 どんな立派な着物を着、豪勢な邸に住んでみたところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な
 人間は下等な人間で、人間としての値打ちがそのためにあがりはしないし、高潔な心を
 もち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべ偉い
 人だ。
・だから、自分の人間としての値打ちに本当の自信をもっている人だったら、境遇がちっ
 とやそっとどうなっても、ちゃんと落ち着いて生きていられるはずなのだ。
・僕たちも、人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と
 考えたりしないように、また、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を
 何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打ちに
 しっかりと目をつけて生きてゆかなければいけない。
・貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなのだ。
 しかし、自分自身に向かっては、常々それだけの心構えをもっていなければならないに
 しろ、だからといって、貧しい境遇の人々の、傷つきやすい心をかえりみないでもいい
 とはいえない。
・少なくとも、君が貧しい人々と同じ境遇に立ち、貧乏の辛さ苦しさをなめつくし、その
 上でなお自信を失わず、堂々と世の中に立ってゆける日までは、君には決してそんな資
 格はないのだよ。
・もしも君が、うちの暮らしのいいことを多少とも誇る気になったり、貧しい人々を、見
 下げるような心を起こしたら、それこそ君は、心ある人からは冷笑される人間になって
 しまうのだ。
 人間として肝心なことのわからない人間、その意味で憐れむべき馬鹿者になってしまう
 のだ。
・むろん、貧しい人々をさげすむ心持ちなんか、今の君にさらさらないということは、
 僕も知っている。
 しかし、その心持ちを、大人になっても変わらずに持ちつづけることが、どんなに大切
 なことであるか、それはまだ君にはわかっていない。
・だが、僕はこの機会に、その大切さを君に知ってもらいたいと思う。
 それは、君が世の中のことを正しく知ってくればくるほど、ますます大切になってくる
 ことなのだ。 
 いや、世の中のことを正しく知るためにも、決して失ってはならない大切なものなのだ。

・君は歴史の本を何冊も読んだことがあるから、人間が野獣同様な生活をしていた大昔か
 ら、何万年という長い年月、どんなに努力に努力をつづけて、とうとう今日の文明にた
 どりついたかという、輝かしい歴史を知っているはずだ。
・しかし、その努力の賜物も、今日、人類の誰にでも与えられているわけじゃあないのだ。
・人間であるからには、すべての人が人間らしく生きてゆけなくては嘘だ。  
 そういう世の中でなくては嘘だ。
 このことは、真っ直ぐな心をもっている限り、誰にだって意義のないことだ。
・だが、今のところ、どんなに僕たちが残念に思っても、世の中はまだそうはってはいな
 い。 
 人類は、進歩したといっても、まだ、そこまでは行きついていないのだ。
 そういうことは、すべて、これからの問題として残されているのだ。
・そもそも、この世の中に貧困というものがあるために、どれほど痛ましい出来事が生ま
 れてきているか。
 どんなに多くの人々が不幸に沈んているか。
 また、どんなに根深い争いが人間同士の間に生じてきているのか。 
・でな、なぜ、これほど文明の進んだ世の中に、そんないやなことがなお残っているのだ
 ろうか。
 なぜ、この世の中から、そういう不幸が除かれないでいるのだろうか。
・「ありがたい」という言葉によく気をつけてみたまえ。
 この言葉は、「感謝すべきことだ」とか、「お礼をいうだけの値打ちがある」とかとい
 う意味で使われている。
 しかし、この言葉のもとの意味は、「そうあることがむずかしい」という意味だ。
 「めったにあることじゃあない」という意味だ。
・自分の受けている幸せが、めったにあることじゃあないと思えばこそ、われわれは、そ
 れに感謝する気持ちになる。
 それで、「ありがたい」という言葉が、「感謝すべきことだ」という意味になり、
 「ありがとう」といえば、お礼の心持ちをあらわすことになったのだ。

ナポレオンと4人の少年
・偉人とか英雄とはいわれる人々は、みんな非凡な人たちだ。
 普通の人以上の能力をもち、普通の人にはできないことをし遂げた人々だ。
 普通の人以上だという点で、その人たちは、みんな、僕たちに頭を下げさせるだけのも
 のをちゃんともっているのだ。
・しかし、僕たちは、一応はその人々に頭を下げた上で、彼らがその非凡の能力を使って、
 いったい何を成し遂げたのか、また、彼らのやった非凡なこととは、いったい何の役に
 立っているかと、大胆に質問してみなければいけない。
 非凡な能力で非凡な悪事を成し遂げるということも、あり得ないことではないのだ。
・英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬ができるのは、人類の進歩に役
 だった人だけだ。
 そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、悠々と流れる人類の歴史
 の流れに沿って行われた事業だけだ。
・君も大人になってゆくと、よく心がけをもっていながら、弱いばかりにその心がけを生
 かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということを、おいおいに知ってく
 るだろう。
・世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いてい
 る人が決して少なくない。
 人類の進歩に結びつかない英雄的な精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、
 同じように空しいことが多いのだ。

雪の日の出来事
・僕たちは人間として生きてゆく途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、い
 ろいろ悲しいことや、つらいことや、苦しいことを出会う。
 もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。
 しかし、こうして悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たち
 は、本来人間がどういうものであるか、ということを知るのだ。
・心に感じる苦しみや痛さだけではない。
 からだにじかに感じる痛さや苦しさというものが、やはり、同じような意味をもってい
 る。 
・健康で、からだになんの故障も感じなければ、僕たちは、心臓とか異とか腸とか、いろ
 いろな内蔵がからだの中にあって、平生大事な役割を務めていてくれるのに、それをほ
 とんど忘れて暮らしている。
・ところが、からだの故障ができて、動悸がはげしくなるとか、おなかが痛み出すとかす
 ると、はじめて僕たちは、自分の内臓のことを考え、からだに故障ができたことを知る。
 からだに痛みを感じたり、苦しくなったりするのは、故障ができたからだけれど、逆に、
 僕たちがそれに気づくのは、苦痛のおかねなのだ。
・苦痛を感じ、それによってからだの故障を知るということは、からだが正常な状態にい
 ないということを、苦痛が僕たちに知らせてくれるということだ。
 もし、からだに故障ができているのに、なんにも苦痛がないとしたら、僕たちはそのこ
 とに気づかないで、場合によっては、命を失ってしまうかもしれない。
・実際、虫歯なんかでも、少しも痛まないでどんどんウロが大きくなってゆくものは、痛
 むものよりも、つい手当がおくれがちになるではないか。
・だから、からだの痛みは、誰だって御免こうむりたいものに相違ないけれど、この意味
 では僕たちにとってありがたいもの、なくてはならないものなのだ。
・それによって僕たちは、自分のからだの故障を知り、同時にまた、人間のからだが、本
 来どういう状態にあるのが本当か、そのこともはっきり知る。
・同じように、心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことか
 ら生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。
 そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるかということを、
 しっかりと心に捕らえることができる。
・人間が本来、人間同士調和して生きてゆくべきでないならば、どうして人間は自分たち
 の不調和を苦しいものと感じることができよう。
 お互いに愛し合い、お互いに好意をつくしあって生きてゆくべきものなのに、憎しみあ
 ったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そ
 のために苦しみのだ。
・また、人間である以上、誰だって自分の才能をのばし、その才能に応じて働いてゆける
 のが本当なのに、そうでない場合があるから、人間はそれを苦しいと感じ、やり切れな
 いと思うのだ。 
・人間が、こういう不幸を感じたり、こういう苦痛を覚えたりするということは、人間が
 もともと、憎しみあったり敵対しあったりすべきものではないからだ。
 また元来、もって生まれた才能を自由にのばしてゆけなくてはウソだからだ。
・およそ人間が自分をみじめだと思い、それをつらく感じるということは、人間が本来そ
 んなみじめなものであってはならないからなのだ。
・僕たちは、自分の苦しみや悲しみから、いつでも、こういう知識を汲みだしてこなけれ
 ばいけないのだよ。 
・もちろん、自分勝手な欲望が満たされないからといって、自分を不幸だと考えているよ
 うな人もある。
 また、つまらない見栄にこだわって、いろいろ苦労している人もある。
・しかし、こういう人たちの苦しみや不幸は、実に、自分勝手な欲望を抱いたり、つまら
 ない虚栄心が捨てられないということから起こっているのであって、そういう欲望や虚
 栄心を捨てれば、それと同時になくなるものなのだ。
・その場合にも、人間は、そんな自分勝手の欲望を抱いたり、つまらない家を張るべきも
 ではないという真理が、この不幸や苦痛のうしろにひそんでいる。
・もっとも、ただ苦痛を感じるというだけならば、それはむろん、人間に限ったことでは
 ない。 
 犬や猫でも、怪我をすれば涙をこぼすし、寂しくなると悲しそうに鳴く。
 からだの痛みや、飢えや、のどの渇きにかけては、人間もほかの動物も、たしかに変わ
 りがない。
・だからこそ僕たちは、犬や猫や馬や牛に向かっても、同じこの地上に生まれてきた仲間
 として、しみじみとした同感を覚えたり、深い愛情を感じたりするのだけれど、しかし、
 ただそれだけなら、人間の本当の人間らしさはあらわれない。
・人間の本来の人間らしさを僕たちに知らせてくれるものは、同じ苦痛の中でも、人間だ
 け感じる人間らしい苦痛なのだ。
・では、人間だけが感じる人間らしい苦痛とは、どんなものだろうか。
 からだが傷ついているのでもなく、からだが飢えているのでもなく、しかも傷つき飢え
 渇くということが人間にはある。
・一筋に希望をつないでいたことが無残に打ち砕かれれば、僕たちの心は目に見えない血
 を流して傷つく。
 やさしい愛情を受けることなしに暮らしていれば、僕たちの心は、やがて堪えがたい渇
 きを覚えてくる。
・しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの目から一
 番つらい涙をしぼり出すものは、自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったとい
 う意識だ。
・自分の行動を振り返ってみて、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考え
 るほどつらいことは、おそらくほかにはないだろうと思う。
・そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。
 だから、たいていの人は、なんとか言い訳を考えて、自分でそう認めまいとする。
・しかし、自分が過っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、
 それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなのだよ。
・人間が、元来、何か正しいかを知り、それに基づいて自分の行動を自分で決する力を持
 っているのでなかったら、自分のしてしまったことについて反省し、その誤りを悔いる
 ということは、およそ無意味なことではないか。
・僕たちが、悔恨の思いに打たれるということは、自分はそうでなく行動することもでき
 たのに、と考えるからだ。
 それだけの能力が自分にあったのに、と考えるからだ。
 正しい理性の声に従って行動するだけの力が、もし僕たちにないのだったら、何で悔恨
 の苦しみなんか味わうことがあろう。
・自分の過ちを認めることはつらい。
 しかし過ちをつらく感じるということの中に、人間の立派さもあるのだ。
・人間であるかぎり、過ちは誰にだってある。
 そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい
 思いをなめさせずにはいない。  
・しかし、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうで
 はないか。 
 正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。
・僕たちは、自分で自分を決定する力をもっている。
 だから誤りを犯すこともある。
 しかし、僕たちは、自分で自分を決する力をもっている。
 だから、誤りから立ち直ることもできるのだ。