結論で読む人生論  :瀬古浩爾

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この本は、筆者が著名な人生論の書籍をひも解き、自分の考えを展開するという手法をと
ったものだ。そのためか「定年後後のリアル」や「定年後7年目のリアル」に比べると、
かなり小難しい内容となっている。賢者と言われる人たちの人生に対する「語り」は、崇
高な内容が多く、凡人にも及ばない私にとって、難解なことが多かった。理解できそうな
部分だけ抜き出してみるのがやっただった。今までの勉強不足を痛感させられた一冊であ
った。この歳になっても、まだまだ人生の修行が足りない。

賢者、かく語りき
・ひとは人生でふたつの台地を登る。年齢という台地と、社会的地位という台地である。
 だれもがそのふたつの台地を登り、長い平坦な道を歩いてから、やがて坂を降りてゆく。
 台地のさも傾斜も形状もひとによってちがうだろう。登るときの人生、歩むときの人
 生、降下するときの人生は、それぞれ異なるだろう。
・二十年ほど前までは、程度の差こそあれ、ほとんどの人が一斉に台地を登ることができ
 た。いまはどうか。登る前から立ち止まる。登ろうとして、ずり落ちる。平坦なところ
 でへたりこむ。わずかに一握りの人間たちが順調にに登っていき、その内のあるものは、
 登りきったところで呵々大笑している。台地の下を振り向きもしない。裾野ではもう登
 ることをあきらめた者もいるようだ。
・一人ひとりちがう人生。その人生を論じて、人生論はいかにも大ざっぱである。なにを
 言っても該当し、なにを言っても不適切である。なにを聞いても感心し、なにを聞いて
 も身に応えない。
・人はだれしも、自分が快適になれるために、自分の幸福のためにのみ生きている。自分
 の幸福を望む気持ちを感じないから、その人は自分を生きていると感じていない。自分
 の幸福を望む気持ちなしに、人は人生を想像できないものだ。一人ひとりの人間にとっ
 て、生きるということは、幸福を望み、獲得することと同じだし、幸福を望み、獲得す
 ることは、生きることと同じである。
・現在、なにごとも無事に暮らせるなら、人生はおよそ80年である、と言っていいかと
 思う。そして普通に考えれば、20歳までのゆるやかな人生と20歳から40歳までの
 峻嶮な人生、40歳から60歳まあでの踏破する人生と、60歳から80歳までの下降
 する人生が同じなわけはないのである。つまり、生涯を通じて通用する人生観などない。
・大人はみんな昔から大人だったような顔をしているが、なんにもわからず洟を垂らして
 いた時があったのである。その洟垂れ小僧がいまではなんでもわかっているような顔を
 しているが、なに、ほんとうはなにもわかっちゃいないのである。そうでなくても、ま
 すます大人への成り方がわからなくなってきているのだ。
・特に1970年以降、どうも人間は成長しなくなったのではないか、という疑いがでて
 きた。現代では、立派な人間に成長するというモチーフはかなり後退したように見える。
 楽しく生きる。これが現代の人生の目標第一位だ。そうである以上、人間的成長などま
 ったく必要でないのも道理である。楽しく生きるためにはお金と処世術だけでいいのだ
 から。   
・むろん現在でも、人間の成長、人格の陶冶を人生の目的とする人はいるだろう。だがい
 かにも少ない。ほとんどの人は、人並みに、堅実に、安定して生きていくことができる
 ならそれで十分だ、と思っている。もしかしたら、これが依然として目標第一になのか
 もしれない。さらに、安定しながら健康にで楽しく生きる、といえば、それが最強の目
 標となるのか。だが、そのことがむずかしいのだ。それにそのような安定志向の人生観
 は、自分が積極的に選んだ人生観だとも思えない。時代に焚きつけられて、しかたなく
 選ばされているとしか思えないのだ。
・40歳を過ぎると誰も心の中に化け物が棲んでいることに気がついている。自分の不運、
 悔恨と羞恥に満ちた半生の出来事、努力の果ての失望、そしてそれら一切へ向けての怨
 みにも似た薄暗い感情。自分はそういうものを何ひとつ抱えていないと言い切れる人は、
 よほどの幸運児が、よほどのお人よしであろう。もし、内臓されたこれらの感情を吐き
 出して、心地よく受け止めてくれる相手−−配偶者にその力はない−−がいたら、われ
 われは彼を相手に何時間でも心中の魔を打ち明けることに躊躇しないであろう。
・生活が苦しければ苦しいほど、よく苦痛に耐え、よく楽しみを享受するものだ、とさえ
 言えるだろう。単にこれからさき起こるかもしれない不幸まで予見する暇がないからだ。
 行動はすべてを運び去り、すべてをしばりつける。自分の注意をあげてじゅうぶんむず
 かしい行動に向ける人、そういう人はかんぺきに幸福である。自分の過去や未来のこと
 を考える人は、完全には幸福にはなれない。要するに、自分のことを少しも考えないこ
 とだ。  
・われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。
 人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、もっとも偉大なことをも完成
 できるほど豊富に与えらえている。
・多忙で時間を浪費している人間の例として、私はとりわけ酒と性のみに熱中する者たち
 を第一に挙げる。つまり、これほど恥なことに心を奪われる人間はないからである。こ
 れ以外の者たちは、たとえ名誉への空しい夢に魅せられても、その誤りは見かけが悪く
 ない。強欲な人間とか短気な人間を挙げてくれてもよい。また不当な増悪とか不正な戦
 争に熱中している人間も。こうした連中は、みな男らしく過ちを犯していると言える。
 しかるに飲食や性欲に耽けるもののすることは恥ずべき汚辱である。
・快楽を受け入れる前によく吟味し、良しと認めた快楽でも高く評価しないか、あるいは
 せいぜい認めるにとどめる。しかも快楽の使用が楽しいわけではなく、その節制が楽し
 いのである。しかし節制は快楽を減ずるから、いわゆる最高の善には害がある。  

神よ、あなたを信じて大丈夫ですか
・「自分の人生は自分で生きて知れ」。これは鉄則だ。もちろん、言葉や音楽や絵画や映
 画から衝撃を受けることはある。他人の生き方を見て、自分の惰弱を痛感することはあ
 る。だがやはり、自分の人生は自分の身をもって知るよりほかなない。それが「自分の
 場所という思想」だ。「つひに知り得ぬもの」だけではない。どんなに渇望しようと、
 どんなに悔しかろうと、ついにできなかったこと、ついに叶わぬこと、ついいに結ばれ
 得ぬこと、があることをも知るために。
・自分の人生観が揺れながら屹立するか倒壊するかは、たったひとつのことにかかってい
 ると思う。だれのために生きるか、という意味である。 

霊的人生論ってなんだ
・自分の現在に不安がある。将来に関して大いに不安である。自分ではどう判断していい
 のかわからない。したくもないのだ。だから、その判断をだれかに任せて自分はその判
 断の責任からの免れたい。だれかに、おまえは大丈夫だといってもらいたい。それも絶
 対的な存在によって。隣家のハゲおやじや、近所の脂肪おばさんじゃ、だめだ。なにか
 人知を超えた存在、超常的な存在によって不安を払拭したもらいたい。
・不安なのは当然である。なにしろちっぽけな自分や俗人の判断には、絶対の正解がない。
 保証もない。人生の先はだれにも見えない。それがわかる人はいないのか。これがまた、
 いるんだよね。というより、わたしゃわかるよ、という人である。霊能者等の職業人だ。
 ところが、近所の脂肪おばさんじゃだめなはずなのに、占いをしているのはみな厚化粧
 のおばさんじゃないか。街角で灯りをつけ筮竹を立てて、微動だにせず座っているのは
 七三分けに背広を着たただの会社員風のおっさんではないか。おかしいと思わんか、と
 思うのだが、思わないらしいのである。特に女性たちが、ワラをも掴む心境なのか。母
 娘連れが診てもらっている。若い恋人らしいカップルがいる。はたして中年のおっさん
 とその息子という客はいるのか。見たことがない。現代の社会不安や生きづらさは女性
 に、それも若い女性に一番多く集中しているということか。よくわからないが、そうか
 もしれない。あるいは、自分で考え、判題して、その結果はすべて自分が負う、という
 ことが苦手な人間が、日本の女に多いということなのか。よくわからないが、たぶんそ
 うである。 
・陶芸教室を通じて、アメリカの教育システムの弱点もわかるようになりました。「創造
 性をみせろ」、「ユニークな人間になれ」という要求が絶えずあるので、何でも創造的
 で面白くなければならないと思うようになってしまっています。その考えが邪魔になっ
 て、結局セミナーで簡単な茶碗を作ることに苦労します。「人生を面白く」というアメ
 リカ教育の要求はひょっとしたら残酷なものかもしれません。大体の人の生活はつまら
 ないものですから、失望するに決まっています。一方、日本人はつまらなさに不満を感
 じなように教育されていますので、きっと幸せかもしれません。
・いや、あいにくそうでもない。いまや子供のまま大人になり、準アメリカ人となった日
 本人は、「個性」「自分」「自由」に夢中だ。自分だけはない。自分の家族、自分の所
 属する組織にしか関心がない。自分、家族、組織という聖域意識が醜悪なファシズムに
 転化していることもわからず、ただ見苦しいだけの存在に成り果てている。自分だけの
 幸福を追求しながら、すこしも幸福ではない。それとも幸福なのか。自分を求めて、自
 分を突き崩しているのだ。

人生に意味はないのか、楽しまなければ損か
・一生遊んで暮らしたい、とだれもが一回は思ったことがあるにちがいない。一回どころ
 でないか。わたしも同類である。だが哀れなことに、これはビンボー人の発想なのだね。
 一生遊んで暮らせるほどの資産を持っている人間は、ビル・ゲイツやアラブの石油王を
 筆頭に、世界中に相当数いるはずだが、彼らは仕事をやめようとはしないのである。中
 には遊んでいるやつもいるだろうが、ビンボー人にはそれが理解できない。おれならす
 ぐやめるのにな、と、みんな思っている。人間は遊ぶために生まれてきたんだなあ、っ
 てそんなことあるものか。なにをするために生まれてきたのか、だれにもわからないの
 である。そのような気分になるのは、わたしたちが嫌々学校にいったり、仕事をしたり
 しているからである。確かに実感はあるが、ずっと遊んでいてみなさい。仕事をせんと
 や生まれけん、といいだす人間が必ず出現するから。現に、いるのである。もう業です
 な。おそらく人生というものは、遊んで暮らせるほど甘くないのだ。そんな不埒な人間
 には、ちゃんと人生が「退屈」というものを用意しているのだ。いやだね。どんなに金
 があっても、家の中に何年も閉じこもっていても、人間はなにかをせずにはいられない
 し、してしまうのである。不届き者は、しなくていいことまでしでかしてしまうのだ。
・女は、羞恥と慎みを装っていたあいだは、ずっと、貴重な存在だった。演技をやめてし
 まったせいで、どれほどの欠損を女は被ったことだろう。もうとっくに、女には何の値
 打もなくなっている。なにしろ、私たち男とそっくりなのだから、生をなんとか堪え忍
 べるものにしていたさまざまな虚偽の、最後のひとつが、こうして消えてゆくのである。
・苦しむことが多ければ多いほど、私たちは権利要求をしなくなる。抗議するとは、その
 人間が、どんな地獄も通り抜けたことがない証拠である。   
・仕事を厭々ながら続けている人は多いと思う。そういう人は一つだけ確実に真実を見て
 いる。それは、所詮いかなる仕事も、それほど重要ではないということである、じつは、
 地上には命を懸けるに値するほどの仕事なんか、まったくないのである。そう薄々感じ
 ながらも、人は仕事にすがちつく。なぜなら、そうでもしなければ人生は退屈で退屈で
 たまらないのだから。
・私はほんとうのところでは、すべての仕事に意味なないと思っている。人間はどうせ死
 ぬのだから、ではない。そもそも人間の存在自体に意味がないからである。大きくいえ
 ば、 そもそも宇宙自体に意味がないからである。ただ「在る」だけだ。人間の存在に
 意味がないのなら、その人生にも意味がない。目的もない。仕事なんかに意味があるは
 ずがないのだ。天賦人権説なんて嘘っぱちである。自然権なんかない。株式時価総額世
 界一なんかかったくの無意味である。芸術も、千人斬りも、世界遺産も、金メダルも、
 男の隠れ家も、豪邸も、巨乳巨根も、無意味。真の愛なんてくそ食らえである。
・人間の存在は無意味である。人生も仕事も家族も金も無意味である。だが、幸か不幸か、
 ではなく、幸にきまっているが、人間は思考する動物である。その無意味に耐えられな
 い人間は、「意味」という概念を発明したのである。ついでに「価値」も発明した。意
 味のないものに意味を見つけ、価値のないものに価値を与えたのである。
・人生とは、畢竟、価値観の問題である。自分にとって、自分の人生にとって、なにが価
 値があるのか。どんな価値を自分の価値とするのか、その問題である。金だ、という者
 がいる。愛だ、家族だ、仕事だ、セックスだ、いや毎日が楽しければなんだっていいと
 いう者までいるだろう。なんだ、そんなものに価値があるかよ、と他人の価値観に文句
 をいってもはじまらない。
・もちろん、世の中、金だ、と信じていた者が、それを手放して、真の人生とは他人と共
 に生きていくことだ、ひとりへの愛だ、というように変わることはある。そのとき私た
 ちは、おそらく、価値以上の価値、つまり「意味」を見出だしたのである。ではなぜそ
 こに「意味」を見出したのか、と問うてもはじまらない。見出したから見出したのだ。
 なぜなら、そこから先のすべては「無意味」の底だからである。
・経営者はどのように人生を考えているのか、などといっても、経営者も様々である。現
 在もっとも旬なのはベンチャー起業家である。その中でも最も現在を象徴する人物、す
 でに小学校の文集の趣味欄に「お金を集めること」と書いていた堀江貴文はいったいど
 うか。松下幸之助や本田宗一郎のような大人とちがって、子供がそのまま大人になった
 ような人間である。思ったことを吟味することもなく、そのまま公言した、ということ
 においては稀に見る逸材である。つまり幼稚である。彼の思考は単純そのもので、物事
 はすねて0か1、プラスかマイナス、賢いかバカ、自由か不自由、成功か失敗、勝か負
 け、儲かるか損か単純なに二分法しかないようである。これは一方では明快に映るが、
 他方ではただの幼稚さでしかない。堀江氏は1972年生まれ、こんな若い身空で「金
 を持っているやつが偉い」と信じたのが哀れである。ただし私は金に恬淡としているわ
 けではない。金を持っているやつは偉くはないが、当然、金は人生に必要である。下手
 したら、もしも金があったら、人生の悩みの半分くらいは解消するのではないか、と思
 えるほどに必要である。
・「立派な人間」とはなにか、などと聞き返している場合ではない。自分で考えることで
 ある。聞き返してばかりの人生、人に問いばかりを発している人生、そんな暇があるな
 ら、自分に聞き返し、自分に問うべきなのだ。そのための「自分」である。そのために
 一人ひとり自前の脳を持っているのだ。立派な考えを持ったからといって、立派な人間
 になる保証はない。だが、腹の底から「人生はやはり金だな」と思っている人間が「立
 派な人間」になることは絶対にない。
・人間は日常生活の中で、楽しいことよりも不快なことをより多く体験して生きる存在で
 ある。それゆえ「楽しみのために生きることはまったく不可能」であり、「楽しみのた
 めに生きる必要」もないし、それは「そもそも割に合わないこと」である。そもそも
 「楽しみのために生きてはならない」とさえ言い切っている。
・生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。た
 しかにに人生にはまたよろこびもあります。そのよろこびを得ようと努めることはでき
 ません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くも
 のなのです。しあわせは、決して目標ではないし、目標であってもならないし、さらに
 目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。
・私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、
 私たちは、生きる意味を問うではならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問い
 を提起しているからです。私たちは問われる存在なのです。私たちは、人生が絶えずそ
 のときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答えをださなけ
 ればならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私
 たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きることに責
 任を担うことです。
・人生を意味のあるものにできるのは、第一に、なにかを行うこと、活動したり創造した
 りすること、自分の仕事を実現することによってです。第二に、なにかを体験すること、
 自然、芸術、人間を愛することによっても意味を実現できます。第三に、第一の方向で
 も第二の方向でも人生を価値あるものにする可能性がなくても、まだ生きる意味を見出
 すことができます。自分の可能性が制約されているということが、どうしようもない運
 命であり、避けられず逃げられない事実であっても、その事実に対してどんな態度をと
 るか、その事実にどう適応し、その事実に対してどうふるまうか、その運命を自分に課
 せられた「十字架」としてどう引き受けるかに、生きる意味を見出すことができるので
 す。     
 
まじめな人生は最強である
・世界の貧困率というものがある。「所得が全国民の所得の半分以下の人の割合」によっ
 て示される貧困率のことである。2005年の各国のその貧困率を見てみると、日本は
 全世界で5位である。1位はメキシコ、2位アメリカ、3位トルコ、4位アイルランド
 6位ポルトガル、7位ギリシャ、8位イタリア、9位イギリス、10位オーストラリア
 となっている。
・「生活の中で大事にしていること」というアンケートをとると、「個性・自分らしさ」
 や「自立・自己実現」を筆頭にあげる団塊ジュニアは、意外にも「下」の層に多いのだ
 という。その原因について、「自分らしさ」や「自己実現」を求める者は、仕事におい
 ても自分らしく働こうとする。しかしそれで高収入を得ることは難しいので、低収入と
 なる。よって、生活水準が低下する。そういう悪いスパイラルにはまっているのではな
 いかと推測されている。 まあそんなところだと思う。むしろ、低収入だからこそ、逆
 に「自分らしさ」を気取っているということがあるかもしれない。
・現在の日本は、努力が報われなくなった社会だ、といわれる。だったら、無駄だとわか
 っていることは最初から努力しない、気楽で「まったり」とした生き方で生きていく、
 とある種の若者たちが考えたとしても故のないことではない。あるいは、上なんか目指
 してもきついだけだ、自分の好きなことだけをしてこぢんまりと生きていければそれで
 十分だ、と。だが生憎、なんの努力もしないでのんきに生きていけるほど、現代の社会
 は甘くはない。いや、現代だけにかぎられない。努力なしでは稲の一本も育たないので
 ある。  
・どんな時代にあっても、努力なしでは何事も始まらないし、何事も終わらない。確かに
 無駄になる努力は掃いて捨てるほどある。けれども無駄になってこその努力である。無
 駄にならない努力などどこにも存在しないのだ。
・私たちが死んで残る魂、意識体そのものの価値が問われるのが、人生だと思います。現
 世にあったとき、名声を得た、財産とつくった、高い地位についたということが、その
 魂の価値になるのでしょうか。また、おもしろおかしく波乱万丈の人生を生きたことが、
 魂の価値を高めることになったのでしょうか。私はそうではなく、生きているあいだに
 どのくら世のため人のために貢献したか、つまり生きているときにどのくらい善きこと
 をしたかが、万人に共通する魂の価値だろうと思っています。人間性を磨くこと、すな
 わち魂を磨くこと、それが大事なことであり、魂を磨く、つまり人間性を高め、素晴ら
 しい人格を身につけることこそが、人生の本当の目的なのです。それを抜きにして現世
 を生きる意味はありません。
・悩み暇があったら誰にも負けない努力で働く。第二に、謙虚にして驕らない。第三に、
 毎日反省する。反省するには悩むこととは違います。第四に、足るを知って、生きてい
 ることを感謝する。第五に、自分よりも相手によかれという利他の心をもって生きるこ
 とです。
・他人の欠点を直してやろうという気持ちは、たしかに立派であり称賛に価する。だが、
 どうしてまず自分の欠点を改めようとしないのだろう?他人を矯正するよりも、自分を
 直すほうがよほど得であり、危険も少ない。利己主義的な立場で考えれば、たしかにそ
 うなるはずだ。 
・人を批判したり、非難したり、小言をいったりすることは、どんなばか者でもできる。
 そして、ばか者にかぎって、それをしたがるものだ。
  
人生の価値、人生の意味
・どんな小さな仕事でも、与えられた仕事を完全にやることだ。それでその仕事ではあい
 つは日本一だ、といわれるようになりゃあ、オレはもうそれだけで坂本竜馬以上に立派
 で人々のため国のためにつくsていることになると思うんだ。
・自立とは、自身の判断で状況を正しく把握し、それに沿って実際に行動できることを指
 します。肝心な問題を他人任せにしたりせず、いかなる誘惑にも負けず、いかなる脅し
 にも屈しないで、おのれの信念を最後まで貫き通せる者が、まさに真に自立した人間と
 呼べるのです。
・人生に目的はあるか。私は、ないと思う。何十年も考え続けてきた末に、そう思うよう
 になった。人生に決められた目的などというものはない。人間は人生の目的をもたなく
 ても、生きてゆくことはできる。人生に万人共通の目的などというものはない。
・自己の運命と宿命を受け入れた上で、さて、それからどうするか。答えは一つしかない。
 それは「生きる」ことである。生きて、この世界に存在することである。なんとか生き
 る。生きつづける。自分で命を投げだして、枯れたりせずに生きる。みっともなくても
 生きる。苦しくても生きる。生きていればどうなるというのか。何かが起こる可能性が
 あるというのか。私はあると思う。一瞬の偶然や、変異や、事故が起こる可能性がある。
 そのとき何かが起こると私は信じたい。生きつづけていれば、その瞬間にも出会うこと
 ができるかもしれないではないか。また、できないかもしれない。しかし、生きること
 を放棄したのでは、その万に一つの機会さえ失うことになる。
・目の前の仕事に力を尽すこと。自分のやることを卑下しないこと。

あとがき
・順風満帆な人生には人生論なんかまったく必要ない。耐える人、報われない人、失意の
 人、に人生論がやってくる。こなくていいのに、人生につかまれるからだ。会社に見限
 られて「おれの人生はなんだったのか」と。愛する人に去られて「あの幸せはなんだっ
 たのか」と。子どもを失って「あの子の短い人生はなんだったのか」と。他人の幸せを
 見て「わたしの人生なんてみじめなんだろう」と。失意の果ては均しくこの自問に集約
 されていく。「自分の人生はこれでいいのか、この先どう生きていけばいいのか」
・得意の絶頂にあって他人を見下ろしていた人にも、いずれ人生論はやってくるだろう。
 不測の失敗や不慮の事故や不意の病気に襲われたときに、「調子に乗っていたおれはバ
 カだったのか。何でのぼせあがった人生だったことか」と。人生を舐めすぎていたのだ。
・残念なことに、「人生とはなにか?」「生きるとはなにか?」に正解はない。「おれの
 人生はなんだったのか」とはなんて言い種だろう。天に恥じることなく一生懸命働いた
 人生ではないか。会社に裏切られたなんて泣き言はいわないことだ。「あの幸せはなん
 だったのか」ではない。あの幸せは幸せだったのだ。一瞬の現在によって過去を否定す
 るものではない。「私の人生はどうなるだろう」は、だれにもわからない。なるものは
 なる。ならんものはならぬ。なりますようにと、懸命に生きるだけである。「この先ど
 う生きていけばいいのか」。知らぬ。格別な極意はない、ということだけが確かなこと
 だ。まあ、なにがあっても大丈夫、と無理にでも思うことである。
・確かに荷物は重いし坂道はきつい。それでも一日をきちんと始め、きちんと一日を終え
 ればいい。人に穏やかにし、自分を労り、美しいものを見るようにし、することがあれ
 ばこれまでとおなじように一生懸命にやればいい。ただし、お金はそこそこ貯めておく
 こと。金をバカにするような振りはやめたほうがいい。といって、金、金というのもい
 やである。 
・「なぜ生きるのか?」など、問うのはやめたほうがいいと思う。考えることは必要だが、
 頭のなかで人生をこねまわすのはやめたほうがいい。こねても固まりはしない。固まり
 すぎても困る。本だけを読んで人生を学ぶにあらず。学べるものではない。
・まだ生きている。生きているなら動かなければ・家事でも散歩でも趣味でも交友でも仕
 事でもなんでもいい。動かなければ絶対に「意味」は生じない。集団でなくてもいい。
 共に生きていくひとがいるなら、いっそいい。もしそれしかないなら、ひとりでもいい。
・見事な人生もあれば、やはり愚劣な人生もあるだろう。破天荒な人生があれば、静かな
 人生もあるだろう。もっと正々堂々と生きよ、人間として成長せよ、といひとにいって
 も効果はない。変わるものは変わる。変わらないものは変わらない。変わるなら、自分
 で変わるしかない。つまるところ、どのように生きようとそれぞれの勝手だ、というこ
 とである。勝手だが、ただし人生の不文律は三つ。他人の真っ当な人生を邪魔するな。
 望まれてもいないのに介入するな。他人の人生を嗤うな。あえて付け加えなら、もうひ
 とつ。自分で自分の人生をバカにしないこと。