自転車ツーキニスト  :疋田智

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この本は、いまから18年前の2003年に出版されたものだ。
当時の私は、初心者レベルを脱しなかったが、自転車での街散歩を趣味にしていた。東京
で単身赴任生活を送っていたので、休日には自転車で都内散策にあちこちと出かけていた。
そういう私にとって、この本はまさにバイブル的な存在であった。
現在のコロナ禍において、コロナ感染リスク回避のために自転車通勤を始めた人も多いよ
うだが、そういう人たちにとっても、この本はとても参考になるのではないかと思えた。
また、この本を読むと、ヨーロッパ諸国に較べて、いかに日本が自転車後進国であるかが
わかる。ヨーロッパの環境に敏感な国々では、エコロジーな自転車を積極的に交通政策の
中に取り入れているようだが、日本では地球温暖化が叫ばれる現在に至っても、自転車を
取り巻く環境は、未だにほとんど未整備のままで、自転車は邪魔物扱いのままである。本
来、自転車は、もっとも地球環境にやさしい乗り物はずなのに、これは非常に残念なこと
だと私は思う。


はじめに
・「自転車ツーキニスト」とは何か?自転車通勤する人のことだ。それも自宅から駅まで、
 というのではなく、自宅から会社まで行っちゃおうよ、片道15kmぐらい何ともない
 ぜ、という人たちのことを指す。
・自転車の趣味は、一般に思われているよりもはるかに裾野が広い。ロードレースに出た
 り、ダウンヒルなどのMTB競技に出たりと、そういう人たちは、一説にはスキー人口
 などより多いのだという。 
・自転車にさほど興味がなかった人たちの一部が、自転車通勤って結構いいかもと思って
 くれた。5万円から7万円くらいするクロスバイク(街乗り用のスポーツ自転車)が、
 じわじわと売れはじめ、東京都心などを自転車で移動する人が増えていった。そして、
 同時にこの街が自転車のために何とも不都合に出来ていること、この街の空気がとても
 汚れていることなどが、それらの人々に実感されるようになっていった。
・ヨーロッパの特に北東部、ドイツ、オランダ、デンマークなどで、自転車が大注目され、
 街作りの基本がクルマから自転車へと変わっていき、自転車こそがエコロジーのための
 本命の一つとなっていることを考えると、この流れはそうそう変わらないだろうと思う。
 
自転車通勤をはじめて頃(1999年秋)
・都心で自転車の乗る人の姿を見ることが多くなった。
・特に都心において、自転車便がバイク便よりも有利な点は多い。ランニングコスト、維
 持費が格段に安くこと、シリアスな事故にいたるケースがオートバイに較べ少ないこと、
 都心地域に限るとオートバイよりも自転車の方が速い場合が多いことなどだ。
・少年時代には誰もが乗ったはずの自転車なのに、ふと気づくと久しくサドルに跨らなく
 なる。誰でもそうで、無論、私もそうだったのだけれど、考えてみればもったいない話
 だ。
・小学校、中学校、高校と田舎で育った私は、どこに行くにも自転車だった。田舎の子供
 たちは大抵そんなものだ。電車なんて無いから。
・だが、いつしかそれらをあっさり捨ててしまう。大人は自転車に乗らないものだからだ。
 クルマと電車。それが所謂大人の乗り物なのだ。
・実際にお隣の韓国では、いい年の大人が自転車に乗っているのは恥ずかしいこととされ
 ているらしい。だけど、どうだろう。本当は自転車は決して子供の玩具などではないし、
 これぽっちも恥ずかしがる必要などない。それどころか、環境問題が叫ばれる現在、自
 転車に乗ることは圧倒的に正義である。
・マウンテンバイクなどの派手派手自転車が多少、気恥ずかしければ、英国風の渋い高級
 な自転車にお乗りになるといいと思う。高級な自転車というものは、必ず素人にも「お、
 ちょっと違いな」と思わせる美しさを備えているのだ。
・以前、皇居二重橋の前あたりで、洒落たクロスバイクに乗る初老の紳士を見かけたこと
 がある。白いひげを生やし、半ズボンをサスペンダーに吊って、その下からは筋肉質の
 太股が見えていた。我が道を行く、という風格である。夏の頃でカンカン帽子を被って
 いた。実に恰好良かった。自転車に乗る私を見てにやりと笑った。あんたもこちら側に
 来たか、と言っているようだった。

私が自転車通勤をはじめた理由
・バブル経済の崩壊直後に不動産屋に乗せられて買ったマンションだった。その価格がお
 よそ半値になった頃、私はそこの自治会の福理事長になった。理事長、副理事長は一年
 毎の順送りで、とうとう私の順番になってしまったというわけだ。30世帯ほどの小さ
 なマンションで、住んでいる人たちは皆、私よりも歳が上だった。それまではほとんど
 近所づきあいがなかった。住民総会にも初めて参加した。集まったおばさんたちは下落
 する資産価値と、繰り上げ返済について熱っぽく語った。そのパワーに多少辟易しつつ、
 明け透けのリアリティと生活感に少し感動した。
・住民総会での、私のとっての初めての議題は「自転車置き場の整理をどうするか」だっ
 た。ある奥さんは「見るからに全然使っていない汚い自転車があるでしょ、ああいうの
 は捨ててしまえばいいのよ」と言った。
・私は内心、少々慌てた。その誰のものとも分からない汚い自転車のうちの1台は間違い
 なく私の自転車だったからだ。このマンションを買って5年間、1度も乗ったことがな
 いドロップハンドルの自転車だった。
・その自転車を買ってから10年以上が経つ。大学を卒業する直前に町田の専門店に行っ
 て買ってきた。当時としては値段的に多少無理をした。「ランドナー」と呼ばれるタイ
 プ。その車輪の周りには金具がガシャガチャと付いている。テントなどのキャンプ用具
 も積める。
・大学を卒業する際に卒業旅行と称し、それに乗って東京から宮崎まで行ったことがある。
・マンションの裏口から入ると、自転車置き場を通る。私の自転車は、その一番隅にひっ
 そりと立てかけてあった。 
・「捨てるしかないかな」と私は妻に囁いた。「あまり目立たないようにしてね」と妻は
 言った。
・私の自転車は確かに粗大ゴミだった。いつか磨いて乗ろうと思っているうちに、今にな
 った。
・幼い頃、自転車が好きだった。小中学時代を宮崎で過ごし、休みになると日南海岸を走
 った。
・高校を経て大学に入ると、その当時の大学生の例に漏れず、私は堕落しきった生活を送
 ることになる。自転車の代りにクルマに乗った。助手席に女の子を乗せるためだった。
 脚力などもはやあろうはずもなかった。自転車のことなど忘れていた。
・しかし、いざ卒業間際になって、ある日、ふと悲しくなったのだ。かつての一番の夢だ
 ったはずの自転車での放浪を、何の意味もなく私は放棄しようとしていた。卒業論文を
 ようやく書き終えたとき、私の頭の中に酒も飲まず煙草も吸わず、ひたすらべダルを踏
 んでいた中学時代の自分が生き返った。
・私はこれまた当時の例に漏れず、ふやけた「卒業旅行」をしようとしていた。ロスアン
 ジェルスでも行こうかと思っていた。当時のガールフレンドと一緒に。
・それをやめた。ガールフレンドは怒ったが、すぐに別の相手を見つけたらしかった。
・私は旅行の費用はほほすべて自転車の購入に充てた。そして都内で1週間ぐらい練習し
 た後、私はかつての私が走った宮崎に向ったのだ。思った以上の満足感が私を満たして
 いた。
・少年時代の私が突然に頭の中に蘇った。私は息を吹きかけてフレームの同じところをご
 しごしと磨いた。何をすればよいかはもう分かっていた。私は朝から自転車の再生に取
 り組むことになった。
・マンションの目の前で作業をやっていたために、奥さんたちが何人も目の前を通り過ぎ
 た。きっと、あなただったのね、と思われているに違いない。だが、私は後ろめたいと
 言うよりも照れくさかった。
・乗り慣れるうちに尻の方が慣れて、サドルに馴染んでくる。そのサドルはかなり長い間
 のご無沙汰ではあったものの、私の尻の旧友であることは間違いなかった。
・妻が、土曜日に私の自転車、買いに行くわよと言った。どんなのと聞くと、スーパーで
 売っているようなのでいいよ、安いヤツ。でもママチャリじゃないのね。ママチャリじ
 ゃ長い距離走れないでしょ、と言った。
・「これがいいと思ったの」妻は私を緑色の自転車の前に連れていった。見ると女性用の
 スポーツ車 というような形のもので、前に3段、後ろに7段の21段変速だ。
・私の妻が当時買った2万4800円の自転車は20kg以上あった。この重さは中国製
 ママチャリとほぼ同じで自転車の性能を大きく削ぐ。一般的に、ちゃんとしたスポーツ
 自転車はクロスバイク、ロードレーザー(ドロップハンドルのヤツ)であろうが、マウ
 ンテンバイク(MTB)であろうが、10kg〜13kg程度(もしくはそれ以下)と
 いうのが当り前のところだ。
・私の妻が買った当時の自転車では、坂道が上げれない。ディレイラー(変速機)が付い
 ていたって、話は同じだ。ディレイラーは足の力を効率化はしてくれるものの、絶対的
 なパワーを与えてくれはしない。また、重いと、それだけ漕ぎ出しに力が要る。すぐに
 止まれない。結局のところ、自転車にとって重量はそのまま最重要の性能部分に直結す
 る。
・その軽いフレーム、パーツを作ることにコストがかかるのだが、この値段ではそんなコ
 ストはかけられない。結局、自転車は鈍重で、長い距離を走ることのできない、つまら
 ないものになってしまう。
・自転車なんてそんなもの、近所のスーパーや最寄りの駅まで行ければいいさ。そういう
 考え方があることはよくよく承知の上で言うのだが、安かろう悪かろう、どうせ悪いな
 らばさらに安く、そういう考え方は間違っていると思う。なぜなら、自転車にはもっと
 もっと高度な、素晴らしい可能性があるからだ。それを知らないのは、先進諸国の中で
 は日本人そして韓国人ぐらいのものだ。
 ヨーロッパでの使われ方を見ているとそれがよく分かる。オランダ人、ドイツ人などに
 とっては自転車は10kmや20km走るのは当り前の道具だ。そして、その彼らは自
 転車に邦貨換算で7〜8万円程度のお金をかける。日本に蔓延する激安ママチャリなど、
 彼らにとってはそもそも論外なのだ。
・私の勤めるテレビ局は赤坂にある。日暮里から赤坂まで地図上でおよそ10km。自転
 車のスピードは20km前後というところだから単純計算では30分だ。だが、無論の
 こと信号、渋滞、坂、その他の存在を考えて、倍の1時間は考えなくてはならないと思
 う。
・それでも1時間だ。そんな馬鹿なと思う。クルマで会社まで行っても1時間はゆうにか
 かる。地下鉄でもドアトウドアで考えると45分程度だ。自転車でそれらと同等の時間
 で走れるとは、もとより思わなかった。
・自転車にまたがってすぐに気づいた。ズボンの裾がギアの油で黒くなる。仕方がないの
 で、ズボンの裾を靴下の中に入れた。恰好が悪い。そう言えば、以前はそれ用のマジッ
 クテープを持っていたはずだった。帰ったら探そうと思う。やはり基本的なことを忘れ
 ていると思った。
・テレビ局に勤めていると、特殊な場合を覗きスーツをほとんど着なくなる。これは私に
 とって好都合だった。ポロシャツとチノパンにデイパックを背負って自転車に跨ればい
 い。普段の出勤の服装と何ら変わらない。スーツ姿で自転車というのもぞっとしない姿
 だから、この時ばかりはテレビ局に勤めていることに感謝した。
・自転車にもスピードメーターがある。時速何kmという現在のスピードだけでなく、走
 行距離、積算距離、平均速度、走行距離、最高速度などがデジタルで表示される。商標
 の上ではサイクルコンピュータなどというそうだ。
・東京という街、特に都心は自転車にとっては実に走りにくいところだ。まず、自転車は
 どこを通ったらいいのかよく分からない。本来自転車は軽車両に属するから、車道の端
 (路側帯)なのだろうが、この街の車道の端はそもそもが自転車が通れるようには作ら
 れていない。
・では、歩道かというと、歩道上は歩行者に対して危険だし、何より少し人通りの多いと
 ころは走ること自体が不可能だ。歩道に乗ったり降りたりの凹凸、煉瓦敷きの凹凸など
 も車輪が通過するのに非常に不適でもある。ついでに言うならば、車輪が通るのに不適
 なのは、同時に車椅子にとっても不適だ。バリアフリーが急務だと思う。
・要するに自転車というものは、東京の交通社会、特に都心では「走ってもいいが、いな
 くても構わない。走らないでくれたらもっと良い」という存在なのである。いわば交通
 社会の「ミソっかす」。そう考えてみると、自転車には何ら反則切符がないことも至極
 納得ができる。
・自転車の走行に関しては、大きな罪が3つ。無灯火運転、2人乗り、泥酔運転。これだ
 けだ。 
・都心で自転車に乗っていると「交通政策」というべきものに、どうしても思いを馳せる
 ことになる。
・歩行者として街を歩いている場合は「交通」という言葉など頭をかすめもしないだろう。
 一方、クルマに乗っていると「交通とは俺のことだ」と思いがちだ。しかし都心で自転
 車に乗ってみれば分かる。自転車は「交通」というシステムの中に漂っていると思う。
 頭の中は「交通道徳」だの「交通違反」だのの「交通なんとか」でいっぱいになること
 請け合いだ。「交通」の最底辺のいる自転車は、最底辺であるが故に様々なしわ寄せが
 集中する。専用のレーン、信号機がない。
・保護もされない代りに自由かつ無責任。それは自転車のべダルを踏むことの快感の一つ
 とも言える。 
・自転車は都心においてはあくまで異端なのだ。それが厭なら電車に乗ればいい。厭でな
 い人間が自転車に乗る。クルマはさぞ邪魔であろう。
・都心を走る自転車が増え、少なからぬ人々が道路の使い方に疑問を感じ始め、国交省、
 環境省などが「自転車への移行」を唱え始めた現在、はっきりと自転車レーンを求めな
 くてはならない時代が来たのだと思う。何しろ現実的に車道を通る自転車は、常に危険
 と隣り合わせなのだ。その状況は悪くなることはあっても良くなることがない。より多
 くの人が自転車の恩恵を享受するためには、こういう危険はこれ以上、放置されてはな
 らないと思う。
・そもそもで言うと、自転車は軽車両のカテゴリーに属するから、法律上は車道を走らな
 くてはならない。だが、現在の車道の状況を鑑みるに、それはあまりに現実的でないこ
 とは明らかだ。だからして、多くの歩道(全歩道の実に98%)は「自転車の通行も可」
 とされている。事実、ほとんどすべてのママチャリライダーは、歩道があれば歩道を走
 っている。
・ということは、日本のほとんどの自転車は、現状として歩道を走っていることになる。
 それが往々にして歩行者に迷惑をかけがちで、放置自転車の遠因となっているのはご承
 知の通りだ。
・車道をクルマの聖域としているしわ寄せが、歩道に押しつけられている。後になって、
 私も段々分かってきたのだけど、そういう道路行政を行っているのは、先進各国の中で
 日本だけなのだ。「一般道路行政は弱者優先」。この万国共通の原則が、この国では無
 視されていると思うのは私だけでないと思う。
・クルマにはほとんど乗らなくなった。学生時代から乗っている12年目のクルマは確か
 に愛車と言っていい。途中、3回目の車検、4回目の車検などの時に、別のクルマのカ
 タログを取り寄せたこともあったけれど、その度に、なんのまだ走るのにまったく支障
 はないじゃなかと思い直してきた。
・1500ccの小さなクルマであり、燃費がいいことが二酸化炭素対策に貢献すると思
 ったことが一つ。もう一つは一台の乗用車を造るのに費やす莫大なエネルギーと、廃車
 の際に出される莫大な産業廃棄物を鑑みてだ。どうしても動かなくなったら買い替える。
 一つのクルマを壊れるまで長く使い続けるというのが結局のところ一番エコロジカルは
 ずだと結論したのだ。
・そのクルマにこのところまったく乗らなくなった。理由は簡単で、自転車の方が都心で
 は圧倒的に便利だからだ。 
・まず速い。少し走れば渋滞で、信号で、ゴーアンドストップの多い東京という街では、
 クルマの方が自転車より速い時間帯は、僅かに深夜帯だけだ。首都高を使っても同じこ
 とで、山手線の中に限定すると遠い近いにかかわらず必ず自転車が勝つ。自転車の乗り
 慣れれば分かってくるが、オートバイのスピードにすら遜色がない。一方通行を逆進で
 きて、渋滞の中でもスピードの落ちない自転車はかなりスピーディな交通手段なのだ。
・その次が駐車の問題だ。これに付随して「駐車場代がかからない」という言わずもがな
 のメリットがある。移動に際してお金がほとんど要らない。駐車場代や高速料金は無論
 のことで、それ以外にも自転車に乗っていると何となくお金を使わなくなっている自分
 に気づく。
・目的とするものが多少期待外れでも、お金を使おうとしなくても何となく朗らかに充実
 しているし、楽しい。それは、やはり自転車の効用だと思う。目的までの行き来がその
 まま爽やかな娯楽になり得ているということだ。
・都内のクルマでの移動はそうはいかない。クルマに乗ること自体に、何かしらの心躍る
 ようなことがないと、なかなか都内でのクルマ移動は楽しい移動にはならないと思う。
・「エンスー」と自称する人々がいる。そのまま訳せば「自動車に熱狂的な人」という意
 味だ。何だか暴走族のお兄ちゃんたちのことのようだが、そうではなく、彼らが好むの
 は古いローバーやアルファロメオなど。それらのクルマのボンネットを開けてああでも
 ないこうでもないと言い募っているのが彼らだ。少し古い外国車や大いに古い日本車が
 好きな車マニアたちのことをまとめてエンスーというのだと思っていればそんなに間違
 いはない。
・大学時代の友人の中に、このエンスーがいた。FMラジオ局に勤める彼の愛車はMGだ
 った。古いイギリス製のオープンカーだ。中古の程度が良くなかったか、これが実によ
 く壊れた。家にあるよというより、また工場だと言っている時間の方が長かった。元気
 に動いていても、250kmに1回はオイルを入れなくてはならないという。だから彼
 のクルマのトランクの中には、オイルタンクとやかんが常にあった。彼の休日の大部分
 はそのクルマをいじって過ごすことに費やされた。彼はそのクルマのことを「苦労して
 るんだよ」と言いながら、聞きもしないのに長々と嬉しそうに語った。彼に言わせると、
 現在の日本車は「味」が無くて駄目なのだという。走るだけの箱に過ぎないという。快
 適なのは駄目なことだという。
・「ケイターハム・スーパーセブン」というとんでもないクルマがある。エンスーたるも
 のまずはこれを褒めなくてはエンスー足り得ずという種類のクルマだ。むき出しの鉄板
 と車輪、屋根のない弾丸のような形、エアコンその他が一切ついておらず、それでいて
 300万円を超える。特に高性能とかというとそこには大きな疑問符がつき、勿論と言
 うべきか、よく壊れる。よく商品として成り立っているものだと思う。
・このクルマには幌がない。雨が降ったらどうするかというと、濡れて走るのだ。雨の日
 は濡れる。あまり長い距離が走れないスピードが出ない。吹きさらし。乗るのに苦労す
 る。故障したら自分で修理する。そして乗ること自体に喜びがある。
・クルマに乗る楽しみは確かにある。が、多くの人にとって、その楽しみは新型の出現に
 よって確実に浸食される種類のものだろう。より高性能で、より快適であることは、ク
 ルマの魅力そのものでもあるのだから。
・エンスーの人々はそこに何らかの力で抵抗しようとする。だが「旧型こそがいいのだ」
 と言うのは勝手であるが、そこには無理があると多くの人々が感じるのも道理だ。
・そもそも壊れる自動車をありがたがって乗ったり、しなくてもよい苦労をわざわざする
 のはなぜか。人と違っていたい、クルマそのもののスタイルがよりクラシカルで好きだ、
 というような理由は無論あるだろう。だがその根底にあるのは「クルマなんてこれくら
 いの出来が気持ちがよいのだ」という思いだと思う。もっと快適に、もっと高性能とい
 う考え方は、確かに技術の進歩を押し進めてきた原動力だが、それは同時に、いくら食
 べても腹一杯にならない餓鬼道でもある。それが必ずしも幸せに通じないということに、
 ここ数年、社会全体が気づいてきた。エンスー人口の増殖の理由はそこにあると思う。
・クルマは快適であれと思う。その点、日本のクルマは模範に近い。エアコンが効いて、
 静かで、荷物がたくさん積める、排ガスが少ない、燃費の良いクルマ、それが理想型だ。
 その理想型に最も近いのは、当然、エンスーな人々が最も嫌うクルマ群と重なる。そん
 なクルマなら乗らなくてもよいと思うかも知れない。その通り。乗らなくてもよいので
 ある。代りに自転車に乗る。そこにはダイレクトな走行感など掃いて捨てるほど在る。
 いじる楽しみなんてそれこそ車体全身すべてがそうだ。
・98年の冬、自動車評論家の「徳大寺有恒」氏にお会いしたことがあった。熱っぽく自
 動車を語る一方、「最近、自転車の凝ってるんだよ」とも言ったものだ。「自転車はね、
 面白いんだよ」
・排気ガスの少ないクルマに乗ることは知的なことだ。そっちの方が「恰好いい自分」を
 演出できるんだって。されに言えば自転車の方がもっと恰好いいってね。
・ボクはもう20年間も「小さなクルマの方が良いんだ」って言い続けてきたんだよ。だ
 けど、日本が豊かになるに伴って、クルマはどんどん大きくなった。下らない見栄だよ
 ね。日本人の。本来はね、クルマの排気量は1リットルが一番合理的なんだ。1リット
 ル、それ以上は要らない。そう思ってリッターカーに乗るのが一番恰好いいよ。
・自転車に乗っていて、やはり困るのは雨が降ったときだ。朝から雨が降っていたりする
 と私は自転車には乗らない。台風などが近づいていて「多分、午後から降るな」という
 ときも乗らない。
・私の場合、自転車で会社に行くのと、電車で会社に行くのとで、ほとんど通勤時間が変
 わらないから好都合なのだ。 
・雨だと電車に乗る。一日ちょっぴり寂しい。会社の近くにいつも自分の移動手段が待機
 していないことに何となくの不安を感じたりする。以前はそれが当り前だったはずなの
 に、変わったものだと思う。それでも乗ってこないのは、やはり雨の中を自転車で走る
 のはつらいものだからだ。
・とるべき手段は二つある。一つは自転車を職場のある赤坂に放ったまま、タクシーで帰
 る(私の帰宅はいつも深夜だから)という道。もう一つが、それでも乗って帰る道だ。
 で、私は後者ととる。
・雨の中、自転車の乗る場合、それ以上濡れない方法というのがあって、つまり完全に濡
 れネズミになってしまえば、それ以上濡れない。どうせ帰るのは自宅だし、すぐに風呂
 に入ってしまえばいいわけだ。
・困るのが背負った荷物だ。私はノートパソコンをいつもその中に入れているので、完全
 に濡れてしまうわけにはいかないのだ。 そこでポンチョなのである。上から被ってし
 まうポンチョは、ブカブカの貫頭衣のようなものだ。小さく手軽で通気性も良いし、自
 転車にはうってつけである。ただ風に弱い。残念なことにポンチョは膝から下が駄目だ。
 ズボンと靴はどうしたって諦めざるを得ない。
・私は眼鏡をかけているので、それにどうしても雨粒が付いて視界が悪くなる。夜間はそ
 の水滴に自動車のライトが乱反射して、わけの分からないことになってしまう。
・雨の日は、クルマの乗っている人たちにとっても視界が悪くなりのだから、クルマが通
 常以上に自転車に気を留めなくなる。 
・現在の基本ポリシーは、「雨の日は乗らない」をよりいっそう徹底させている。夜に雨
 が降った場合は、かなりの頻度で赤坂に置いて帰る。そのココロは、やはり雨の日の車
 道は危険だからだ。
・それでも自転車の乗らねばならない場合、私のほとんど唯一のオススメは野球帽をかぶ
 ることだ。庇を前にして、目深く被る。これで眼に入る水滴を撃退しようというわけだ。
・また、雨の日こそ歩道を通ることを薦める。こういうときぐらいは、日本の自転車行政
 の矛盾を逆手に取って、自分の身を守ろう。
 
自転車のある風景
・自転車のある風景はいつも爽やかでフレンドリーだ。これは世界のどこに行っても同じ
 だと思う。オランダでもドイツでも(自転車最先進国2つ)、タイだってパキスタンで
 だって自転車は必ず「いいもの」だった。
・ペダルを踏んで、自分の力で風を切って進んでいく自転車という道具が似合う風景には
 何かいつも共通した匂いがある。その匂いは必ず自然で人間的で好ましいものだと思う
 のだ。
・自転車は明らかに美しい。特に機能を絞りに絞って軽量化を目指したロードレーザーの
 フォルムは芸術だとさえ思う。妻の友人の中には、その手の自転車を部屋の壁に何台も
 飾っている人もいるそうで、実はその手の人々は結構な数、存在する。
・街を歩いていても、必然のデザインでなく、デザインのためのデザインを多く目にする
 ようになった。その理由は建築などのポストモダン思想にもあるのかも知れない。
・本来、男性というものは、機能美をこそ求めるのが良しとされていたのではなかったか。
 少なくとも機能美を良しとすることが建前ではなかったか。殊更に飾らないのが男らし
 いことではなかったかと。何だ、恰好だけじゃん、と言われることを少年だった頃の私
 は恐れた。私だけではなくほとんどの男たちはそうだったように思う。
・文化文政時代を持ち出すもなく、一つの社会文化が終わりを迎えようとするとき、男た
 ちは着飾る。私たちは間違いなく世紀末を生きている。
・東京都心の東半分、いわゆる下町は自転車に適した町だ。と言うよりクルマで走るのに
 適していない。一方通行の細い道が網の目のように巡らされ、それがことごとくくねく
 ねと曲がっている。いつの間にか袋小路に入ってしまう。気づいたときには周りを壁で
 阻まれ、バックするにも道は曲がりすぎていて、大変な技術を要することになる。
・三ノ輪あたりの、吾妻橋あたりの小さな家々の間を縫って存在する道沿いには、そこに
 住む、恐らくはお爺さんお婆さんたちの丹誠の鉢植えが並び、窓に簾がかかり、郵便ポ
 ストが突然現われる。私はゆっくりとしてスピードで、そこを行く。ゆるりとした風が
 顔を撫で、煮物の匂いが漂っている。自転車の良いところは、そういった細かな町の匂
 い、佇まいに気づくことができることだ。
・観光地でも何でもない町で、古い餡パン屋を発見し、これまたいつからあるのかという
 質屋を発見し、の鶏頭を眺めたりする。ああ、こんなところにと思いながら、いつの間
 にか次の町に来てしまいました、というのが心地よい。自転車で街を往くことは一番身
 近で小さな旅なのだ。
・どんなところも住めば都となる。それは住むことによって何の変哲もない町に色々な種
 類の発見をしていくということだろう。自転車は通り過ぎるだけで、簡単にそれを実現
 させてくれる。早過ぎも遅すぎもしないスピードで下町を流すと、頭の中に町のカタロ
 グが出来あがる。
・下町で私が特に気に入っているコースは谷中だ。
・自転車旅行には大きく分けてツーリングとポタリングがある。前者が一日あたりの走行
 距離が100kmや150kmを越すような本格的な旅で、後者はゆっくりとご近所近
 くを50km程度走ろうかという自転車の散歩だ。
・かつて私が見た一番真っ当な都心の風景は、ヘルシンキにあった。フィンランドという
 北欧の小国の首都は、人口50万人ほどのこぢんまりとまとまった爽やかな町だった。
 国会議員(お爺さんと呼んでも良い年齢の人だ)が、堂々と自転車に乗ってインタビュ
 ーの席に現われた。短い夏の間だから、誰もが、なるだけそよ風に顔を晒したいのだ。
・豊かな海産物が揚がる港から、湖の迫る住宅地まで、つまり町の端から端まで、自転車
 で巡ることができる。町の姿はたおやかに美しく、地面に足が付いているという趣があ
 る。市民生活が日本や中国よりも豊かそうに見え、また実際そうであろうことは、残念
 ながら明白だった。
・この小さな国の豊かさはアメリカのように豊かな国土と資源を背景にしたものでもなけ
 れば、イギリスのように海の外から略奪してきたものでもない。産業といえば伝統的な
 漁業と林業以外に、精密機械、特に携帯電話の「ノキア」が目立つくらいだ。
・読み解く鍵は、「この程度が気持ちよいのだ」という姿勢ではないかと思う。同じもの
 を長く使い、本当に必要なもの以外は敢えて望もうとしない。そうしてもう一つ言うな
 らば、なるだけ自然の恩恵を享受し、それを大切にしたいという気持ちだろう。
・同じヨーロッパのコペンハーゲンや、アムステルダムには、普通の道路には必ず自転車
 専用レーンが設置されている。排ガスの脅威はかつてヨーロッパの森に酸性雨をもたら
 した。現在は言うまでもなく地球温暖化だ。将来を見越し、ヨーロッパの国々は次第に
 「クルマ文明」を制限する方向に向い始めている。
・激安自転車の品質の低さは現代の中国の技術が必ずしも低いからというわけではないこ
 とだ。日本の激安売りが、中国に「もっと安値に」と言うからこうした製品はできる。
 質を落とし、それで初めて実現できる価格だ。非は向うでなくこちら側にある。だが、
 それらのことは一般の人にとって、いずれも店頭で見た際には気づかない種類のものだ。
 そして日々乗るうちに実際に壊れる。「自転車ってこんなものか」という意識が植え付
 けられていく。安全もさることながら、自転車というモノの魅力が日々失われていく。
 「安かろう、悪かろう」が、確実に、日本の自転車を使い捨ての道具にした。使い捨て
 の自転車なんてまったくエコじゃないよ。されに言えば、そうした自転車軽視が自転車
 泥棒の蔓延に繋がっている。
・自転車が身体にいい理由は、一般に思われているように足腰を鍛えているからではない。
 自転車が健康的であることに論を待たないが、その本当の理由は、一定時間、筋肉を絶
 えず動かし続けていることにあるのだという。それも人間の筋肉で最も大きい端の筋肉
 群を動かし続けているところに意味がある。
・その最大の筋肉群を動かすのに、多くのエネルギーと大量の酸素を必要になる。それに
 は大量の血液循環が必要で、結果として呼吸器系や循環器系の働きが活発になり、新陳
 代謝が促進される。つまりこの一連の流れが理想的な有酸素運動、いわゆるエアロビク
 スになるというわけなのだ。それが心肺機能を高める。さらに足の筋肉群が収縮するこ
 とが大脳に刺戟を与え、脳神経を活発化させるという説もある。つまり痴呆の予防にな
 る。
・身体にとっては良いことずくめの自転車に最初に気がついたのが、文明の必然として肥
 満最先進国となっていたアメリカ人たちだった。彼らは人間性の回復のために自転車に
 乗ろうと言いだし、それが日本に伝わった。
・石油危機。日本は高度成長を維持すべく、果敢に猛烈にそれからの厳しい数年を切り抜
 けた。石油危機を乗り切った日本は、素晴らしいスピードで再び高度成長の道を驀進し
 ていった。日本のお父さんたちは猛烈なカイゼンとゴウリカとコストダウンを推し進め、
 日本沈没をくい止めた。
・石油危機を乗り切ったことで、それまでの路線は「やはり正しかった。ただ多少やり過
 ぎだったのだ」として継承された。それは大きな意味では日本に限ったことではないと
 思う。アメリカがそうで、アジア諸国が皆そうだった。
・やがて日本は国内で消費できるはずもない1000万台ものクルマを生産するようにな
 り、六畳間に置けるはずもない大きなブラウン管を生産し、それ以上何が要ったのか。
 何も要らない。要らないけど欲しい、そのままに日本の国はバブルに突き進んでしまっ
 た。
・多くの人が言うように、バブルは戦後日本の必然の形だったろう。それは到達点でもあ
 り、戦後経済イデオロギーの完成だった。今となっては薄汚い登場人物の出演する薄汚
 い時代としか認識されないが、そういう認識している当人が、やはりあの時代の登場人
 物だった。
・高校時代にファストフードのシステムを聞いて少し悲しくなった。15分経ったら捨て
 られる運命のハンバーガーに、少し憤りを感じた。だが、そちらの方が売り上げが伸び
 るのだと、結局コストがかからないのだと教え論された。ガラスのコップを洗うより、
 捨ててしまう紙コップの方がずっと安く済むのだと教えられた。
・市場競争の中で、そういうコストの削減ができないことは致命的だと知り、売り上げを
 伸ばし拡大再生産を続けていくことで、市場も活性化され、結局すべての経済活動がう
 まくいくのだと知らされた。
・やがて私自身もそういう考え方に傾いていく。祖母が教えた「もったいない」という言
 葉を、次第に頭の中で合理化して消していった。
・大量の紙とプラスティックとガラスと金属のゴミを出しながら、実際に毎日を生きてい
 る。大量消費の上にこそ現代は成り立っている。
・パソコンを何台も買い替えた。そういうシステムの中で快適な生活が保証されている。
 スーパー、コンビニから吐き出される莫大な量の廃棄物は、おかしなことではないのか。
 それに使われた生命、製造加工輸送するために使われた膨大エネルギーは経済活動の一
 環として無邪気に廃棄されてしまって良いのか。多少コストがかかっても、もう少し無
 駄のない、もったいなくないシステムは編み出せないか。それを受け入れる社会は作れ
 ないか。
・毎日毎日、合理的という名の下に、不合理な資源とエネルギーがただの排気になってい
 く。その排気がこの地峡を痛めつけている。
・自転車に乗り、排気ガスを浴びるようになってから、心の奥底に引っかかっていた小骨
 が痛み出した。どこかおかしくはないか。もうこんなことは止めなければならないので
 はないか。小骨はそう言って疼いている。
 
自転車をめぐり素敵な面々
・芸能プロダクションを経営する桂さんとは、テレビの取材の中で知り合いになった。
 年齢は40歳前後。元自衛官という珍しい経歴を持つ。除隊時の階級は二等陸曹。連隊
 の宴会部長の名をほしいままにし、そのまま芸能を自らの天職と決めてしまった。
・彼は、何だか怪しげな仲間を集めて芸能プロダクションを作った。いきなり始めた当初
 は、当然ながら苦労だれかだったそうだ。しかしながら、とにかくその芸能プロは結局、
 当たった。その頃大きくなり始めたコンピュータゲーム市場に食い込んだのが良かった
 んだよと彼は言う。
・芸能界はやっぱりこれだよな、と言いながらベンツで現われ、これいくらすると思う?
 と言いながら私の腕時計を見せた。ダイヤモンドがたくさん埋まったその腕時計は、ち
 なみに300万円オーバーだと彼は言った。
・一度、彼のマンションに行ったことがある。渋谷区の隅っこに建つそのマンションに行
 ったとき、私はまず「あずき御殿とはこれのことか」と思った。あずきなどの相場で一
 発当てた田舎のご老人がぶっ建てた豪邸。たぶんそれはこれに似たものだ。
・彼の書斎がまた別の意味で驚いたものだった。ウォルナットの机が真ん中に鎮座してい
 るのは予想通りだが、私がその机に向ってみると、そこから見えるところすべてに紙が
 貼ってある。「信念は願望実現の原動力である」「批判を恐れることは成功を恐れるこ
 とだ」「勝利者は断じてあきらめない」などなど・・・。
・やがて、コンピュータゲームの業界が安定期に入り、桂さんの事務所は急速に景気が悪
 くなり始めた。市場そのものの大きさは変わらないところに、同業他社がどっと参入し
 てきたために1人あたりのパイが急速に小さくなり、ギャラが一時期に較べて半減した
 のだという。何より不動産の失敗が大きなダメージとなった。次第に桂さんの顔から笑
 顔が見える回数が減った。
・「僕にとってのバブルがようやく終わったのよ。何だか無理して背伸びしてたのね。そ
 れ止めて、地道にやろうって頑張っていると自然に若返るよ。人間、身分相応なのが一
 番いいね。手の届く範囲で頑張ればいいのよ。いつかまたベンツに、とは思うけどさ、
 でも今は裸一貫人間いろいろあるじゃない。その時々に素直に生きればそれでいいって
 思ってさ。
・ルクセンブルクのグラメーニヤ駐日大使は、自転車の愛用者だという。「外交官が黒塗
 りの高級者ばかりに乗っていたのでは、赴任国の普通の人々の暮らしぶりなど分からな
 い。東京のような大都市を歩いてばかりもいられない。自転車なら裏通りにも入ってい
 ける。面白いものを見つければどこでも止められる」のだそうだ。
・その地の雰囲気、空気、そういったものは本を読むだけでは分からないし、テレビを見
 たって分からない。現場で、色々なものを見聞きし、匂いを嗅ぎ、その空気に触れてみ
 ないと、実感できないことはたくさんある。生の情報ってヤツだ。だから人は旅をする
 のだし、ライブコンサートを見に行くのだ。
・ただ、この世にはそういうことが好きな人間と嫌いな人間の2種類がいる。現地の空気
 を吸うのが嫌いで、殊更に出歩くのが面倒で、外で仕事をするよりも、自分のオフィス
 の中でデスクワークをしている方が好き。そういう人は確かにいる。別段それが悪いと
 いうのではなく、そういう人はその嗜好に沿った職に就けばよいだけの話だ。
・ところが、そういう嗜好が決して向いているとは思えないのに、その種の人々が実に多
 い団体が存在する。その名を日本国外務省という。
・特に発展途上国において、日本国外務省の職員、つまり外交官たちは本当に外に出るの
 がお嫌いらしい。彼らはいつも公邸の中にこもって、パーティの準備をしている。大袈
 裟な比喩表現ではない。掛値なしに、本当にパーティの準備ばかりしている。
・ペルーの大使公邸人質事件で、青木大使(当時)が「パーティという非常に重要な職務
 がこの事件をきっかけになくなってしまうのを憂慮する」と言った。私はさもあらんと
 思った。そういう大切なパーティもあろう。だが、毎日毎日開かれるパーティのうちの
 ほとんどにおいて出席者の顔ぶれが変わらない。それはどんな意味を持つのだろう。
・驚いたことに、青木大使は「顔見知りでもない人とのパーティは嫌いだ」とすら公言し
 ているらしい。 
・あの事件をきっかけにして在外公館は色々な批判を呼んだ。しかし、その後今となって
 も、各国の大使館で、今でもその状況が少しも変わらない。
 
自転車的な社会に
・自転車で東京を走っていると、100人が100人とも理屈っぽくなってくる。なぜ東
 京は自転車だとこんなに走りにくいのか、なぜクルマはこんなに渋滞しているのか、こ
 の大量の排気ガスはどこに行き、どこに吸収されていくのか、なぜ違法な駐車が野放し
 になっているのか、などなど、交通や環境について思いを馳せる。
・サドルの上でペダルを踏んでいる限り、アタマは暇だから、そこで考えたことがとりと
 めもなくかつ止めどもなく拡がっていくのだろう。
・そうしたアタマの中の妄想は、最終的には交通改革になり地球環境になる。100人が
 100人ともみなエコロジストになっていく。
・12年も経ったクルマには、無論のこと値段はつかないだろう。私のクルマは中古にす
 らならない。お金を出して引き取ってもらうことになるはずだ。手放すということは、
 そのまま「捨てる」ということを指すわけだ。
・まだ走れるのに、との思いはある。だが、日本の大都市に住むということは結局そうい
 うことなのだ。1台のクルマを作るために費やされる莫大なエネルギーと資源。そいつ
 を捨ててしまうのは大いなる無駄だが、手放した後に新たに買うことがなければ、同じ
 クルマに乗り続けるのと同じだけの意味はある。
・クルマを手放そう。土地をふさぎ、お金を食うだけになったクルマにとっても、新たな
 鉄として出直すことは、きっといいことであるはずだ。そう思い込もうとし、でも、次
 第に本当にそう思うようになった。そして、やがて私は一つのことに気づいた。
・32年の人生の中で、私を取り巻くモノは少しずつ増えてきた。道具が増え、広い意味
 での玩具が増え、部屋が増え、そしてそれらは一度として減ることは無かった。
・クルマを手放すことは私にとって初めての「撤退」だ。恐らく多くの人にとって「クル
 マを手放す」ということがあるとしたら、それは同じ意味を持つのではないだろうか。
・20世紀のどん尻になって、32歳(99年当時)になって、私は生まれて初めて「撤
 退する」のだ。 
・クルマを手放そうと思ったときに、寂しいなと思ったと同時に、奇妙に爽快感を感じた
 のは事実だ。そして、その爽快感は、昨年、自転車を復活させて、ペダルを漕ぎ出した
 ときの爽快感に似ていた。
・少しずつ生活の中に贅肉が溜まっていき、なんだか次第次第に身軽さを失っていったと
 思う。その身軽さを取り戻すことは悪くない。
・生活の贅肉をクルマだと考えるか、それ以外のものとするかは人それぞれだ。自動車産
 業は、言われなくたって大きく転換しつつある。メーカーによっては生き残ること自体
 が難しいという現実がある。
・自動車の排気がどうのというよりも、人々がそれぞれのやり方、つまり自動車に乗るか、
 どうするかを選らばなければならない時代が恐らくやってきたということだ。
・どんなにローエミッション、つまり低燃費のクルマが誕生しようと、それに1億人が乗
 ることになるならば、絶対量としての汚染物質はさほど減ることにはならないだろう。
・さほど、では駄目なのだと思う。中国が、南米、アジア、アフリカの諸国が次の豊かさ
 を望んでいる以上、地球全体の汚染物質の総量を考えると、我々には劇的に汚染物質を
 減らすことを考える義務がある。つまり、大量生産、大量消費という日本の構造自体が
 もうどん詰まりに着ているということなのだ。
・自動車はまったく要らない、などということは、到底考えられない。だが、無駄に走ら
 せることは、 やはり社会の贅肉なのだと知るべきだと思う。
・社会の贅肉、生活の贅肉。自動車以外にもたくさん存在するだろう。それがいったい何
 を指すのか。勿論、それは人によって違うはずだ。しかし、それぞれの人にとってそれ
 がいったい何なのかを考えることを、そろそろ始めなくてはならないのだろうと思う。
・生活を便利にすることと自堕落にすることにはおのずと差があるはずだ。我々はそれを
 特に区別せずにこれまで来たけれど、ひょっとしたら、それを精査しなくてはならない
 時がやってきたのではないかと思う。
・考えてみれば、この世紀は壮大な科学技術の実験場だった。だとしたら、21世紀は恐
 らくその技術の淘汰の時代となるのではないか。
・昔よりも人間は幸福になったのか。多分、なったのだろう。西側先進国の中で、とりあ
 えず人は飢えなくなったもの。でも世界全体を見て、そして先進国の中でも、細部を見
 ていくと、断言できないのが20世紀の辛いところだ。
・そんな中にいて、自転車というのは、精査無用の20世紀が誇る技術だと言える(本当
 は19世紀末に 生まれたのだけど、20世紀に完成した)。何に負担をかけるでもな
 く、自らの力で、人間の移動範囲を画期的に伸ばす。実にすばらしい。これをもっと活
 用する方法はないかと思う。特に東京のような大都市においては、必ず有効に作用する。
 私はそれを断言するつもりだ。
・大袈裟なことを言うならば、社会全体として自転車を使いやすい街に作るべきなのだ。
 アムステルダムをはじめとする西欧の東側や北欧の諸国の町々はすでにそうなっている。
・日本という国は戦後、「撤退」を知らずにここまで来た。今の不景気は、ひょっとした
 ら「撤退」するにちょうどいいチャンスだ。便利さ追求から少し撤退してみるのだ。そ
 したら、本当に必要なものが見えてくる。本来の気持ちの良さがわかる。
・アップルコンピュータ社の創業者、スティーブ・ジョブズ氏は、インタビュワーに問わ
 れて、 パーソナルコンピュータの理想像を「自転車のようなコンピュータ」だと言っ
 た。
・人は、世界一足の速い人間がどんなに速く走っても時速40kmを超えられないが、自
 転車に乗ればできる。しかもそこには人力以外の動力はまったく必要ない。つまり自転
 車は人間が元来持っている能力を無駄なく引き出しているだけなのだ。人間の本来のキ
 ャパシティをより効率的に提示するものが自転車であり、そうした「道具」として成立
 することが、コンピュータの進歩していく道だと、彼は位置づけた。
 
快適な自転車通勤のために
・仕事場から自宅までの大まかな目安は、大体15kmというところだろうと思う。これ
 ならば、どこであれ、誰であれ、必ず1時間程度で行き来できる。と同時に、初心者の
 場合、これ以上になると少しキツく感じるかもしれない。まあ20kmでもまったく無
 理とは言わない。この場合、1時間半程度をみるといい。ちょうど高価目のロードレー
 ザーならば、もっと速く行けるはずだ。
・自転車はまあママチャリでも悪くはないが、5kmが限界だろう。新たに買う場合なら
 ば、是非ともスポーツタイプの自転車に5,6万円以上を出すことをオススメする。き
 っとその軽さと速さに値段以上の満足があるはずだ。
・ディレイラー(変速機)などは、できればリアに7段以上は欲しい。フロント(べダル
 の周辺)にも2枚(またはそれ以上)あるとなおのこといい。
・ロードバイクは、ドロップハンドルの自転車だ。舗装路をいかに速く疾走できるかとい
 うことのみを考えた究極のバイク。フレームが軽くてタイヤが細い。硬い乗り心地に目
 をつぶれば、何しろ速い。値段は若干お高くて、最も安いものでも6,7万円から。上
 限はない。
・マウンテンバイクは、山の中の非舗装路をガンガン登っては降りていくという競技のた
 めに作られたタイプ。前後のサス、太いタイヤなどは、街乗りに使うにもふんわりと乗
 り心地がいいし、段差なども楽に乗り越えられる。本当に軽いMTBは実は若干お高く
 て、10万円以上はする。
・ロードとMTBの中間、街乗りに特化した「クロスバイク」という種類もある。スピー
 ドもそこそこで乗り心地も悪くない。細めのタイヤを履いている。値段も、4,5万円
 程度からあり、結局のところ、ママチャリから乗り換え、または初心者の場合、私とし
 てはこれが一番オススメだと思う。
・私が残念に思うのは、いずれにも共通して泥除けが付いているモデルが少ないことだ。
 泥除けは、前者の2つのタイプに取り付けると、非常にダサく見えてしまうのが難で、
 店頭で見かける最近の自転車には、ママチャリ以外は付いていることが非常に少なくな
 った。だが、この泥除けは通勤に使うためには必須とは言わないまでも、あるととても
 快適なのだ。
・自転車通勤を続けていると必ず雨に出会う。または雨上がりに出会う。路上が濡れてい
 る時、泥除けがないと、尻と背中がぐしょ濡れになる。これはどんな雨具を着ていても
 防げない。泥除けは必需品に近い。
・クロスバイクにドロップハンドルを装着する人もいる。ドロップハンドルは、慣れない
 人には危なっかしく感じるものだが、あのハンドルは競輪選手のように下の部分を握る
 ことだけを目的としたものではない。走り方によって最低3種類の握り方ができるので、
 長時間、自転車に乗る場合、疲れが少ないのだ。
・私が装備としていつも持っているのは、小振りの野球帽とウィンドブレーカーだ。ウィ
 ンドブレーカーは人それぞれの好みだけど、野球帽は目を守るために必須だと私は考え
 る。
・さらにヘルメット。これは必ず被るべきだ。スポーツ自転車の専門店などに行くと、流
 線型の派手派手のヘルメットが1万円前後で売られている。太股までの例のモッコリパ
 ンツ(レーサーパンツという)とともに着用すれば、それなりに見えるのだけれど、通
 常の街乗りの格好では、被るのが少々気恥ずかしい。
・スピードメーターもあった方が面白いし、励みにもなるというものだ。
・自転車用具とは少し違うけれど、オススメなのは、サドル交換だ。この手の自転車に乗
 り出すと、100人中100人が言い出すのが「尻が痛い」という台詞だ。慣れないう
 ちは、足でも股でも腕でもなく、痛いのは尻。この手のスポーツ自転車のサドルは、堅
 いのだ。やがて慣れてくるのではあるが、最初のうちは尻の痛みは自転車の楽しみを大
 いに殺ぐ。自転車に乗ること自体が厭になってくる。それでは元も子もないので、サド
 ルを交換してみよう。コンフォート型ということでいうと、真ん中に溝の付いたタイプ
 が最近のトレンドだ。さらには、ママチャリタイプのサドルに交換というウラ技もある。
 スプリングとクッションが効いて、尻の痛みが確実に軽減する。慣れてきたら、もとの
 サドルに戻すといい。堅くて細いサドルの方が絶対に力は入る。スピードも距離も伸び
 る。だが、最初のうちは快適な方が優先だ。
・ライト。最近のスポーツタイプの自転車には、標準では付いていないことが多い。よっ
 て、これは是非もので必要。
・手袋は冬になると必要になってくる。人によっては耳当ても欲しくなるかも知れない。
・さらには、ズボン裾留め(長ズボンの場合は必須)、フラッシャー(紅くチカチカ光っ
 て後続車に存在を知らせる)