人生は五十一から  :小林信彦

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この本は、今から22年前の1999年に出版されたもので、内容的にはかなり古い。
しかし逆に、その古さが、”そういえばそんなこともあったな”と、懐かしさが呼び起こさ
れ、なかなか味わい深いものとなっている。
それに、当時はバブル崩壊後の大不況の最中だったのだが、なんだか新型コロナ禍の最中
の現代とどこか世相が似ている感じがする。結局、20年以上経っても、世の中変わった
ようで、さほど変わっていないんだなと思える。
もっとも、大きく変わったこともある。当時は、六十歳の還暦を迎えれば、仕事からリタ
イアするのが当たり前になっていたが、いまは六十歳どころか六十五歳を迎えても、まだ
まだ働く人が大勢いる。これは、幸せなことなのか、それとも不幸なことなのか。人それ
ぞれ違うだろうが、自分自身は六十五歳を過ぎても働きたいという気持ちには、まったく
ならなかった。できるなら六十歳で完全リタイアしたかった。
自分がいったい何歳まで生きるのか。それは誰にもわからないが、大抵の人は、一応自分
の親の亡くなった年齢を意識している人が多いのではないだろうか。この本の著者の父親
は、五十歳で亡くなったという。この本のタイトルはそこから来ているという。そうであ
るならば、自分の親父は七十三歳で亡くなったから、”人生は七十四から”ということにな
ろうか。しかし、日本人男性の平均的な「健康寿命」が七十三歳前後だと言われているか
ら、七十四歳で何か新しいことを始めようと思っても、はたしてまだ身体の自由が利くか
どうか。まったく自信がない。そもそも、自分の親父の亡くなった年齢まで、はたして自
分が生きられるかどうか。あまり自信がない、というのが正直なところだ。
この本の中に、”五十代と六十代はまったく違う”ということが書かれていたが、ほんとに
そうだと思う。六十代になったら、まるで坂道を転げ落ちるように体力・筋力が衰え、身
体のあちこちに不具合が生じるようになった。五十代のころは、”老化”というのは頭では
わかっていたつもりだったが、その”老化”というのを実感するのは六十代に入ってからだ
った。しかし、それでも、八十代以上の人に言わせれば、”六十、七十はまだヒヨコ”だと
いう。そんな言葉を聞くと、これから先の人生が、恐ろしくなってくる。


はじめに
・いやでも、人間は歳をとります。歳をとるのは当たり前だ。こわいことじゃない。こわ
 いのは、社会に対して機能しない人間、人生に目的を持たない人間になってしまうこと
 だ。
・ぼくの経験でも、五十を過ぎて、ようやく、世の中や人間関係のからくりが見えてきた
 時に、肉体の老化があらわになりました。そして、今の日本は、”肉体の老化”だけが取
 り上げられて、中年後半からの智恵は問題にもされないのです。こうした傾向は東京オ
 リンピック
以降のことであって、それ以前の人は、なにかというと、五十過ぎの人たち
 に智恵を借りていたものです。それはまた、日本人そのものの生活の智恵でもあったよ
 うに思えるのですが。

年の始めの・・・
・年齢を”数え”ではなく、”満で数える”ようになったのは1950年(昭和25年)から
 である。当時の男性の平均寿命は五十八歳と記されている。戦争・敗戦と、いろいろあ
 ったわりには年齢が高い。敗戦後、急に寿命が伸びたのですね。
・私が小学校のころは”虚弱児童”と呼ばれて、公舎の地下で太陽灯を浴びていた。青い眼
 鏡をかけて、じっとしているのである。二十歳まで生きるのはむずかしいだろう、と医
 者は言った。
・二十代までなんとか生きのびると、ストレスで胃をやられ、高名な外科病院の医師に、
 会社をやめないと命は保証できない、とはっきり言われた。そんな人間だから、五十に
 なった時は、さすがに感慨があった。
・考えてみれば、”人生五十年”とほぼ決まっていた時代のほうが、生きるのが楽だったの
 ではないかと思う。戦前の東京の商人だと、五十を過ぎれば隠居で、小唄を習ったり、
 万年青の葉を洗ったりしていればよかったのである。しかし、なんというか、時代が悪
 いのか、職業によるのか知らないが、五十過ぎても、人生がず〜っとあるんですね。で、
 ず〜っと生きなきゃならない。
・眼が丈夫で、近眼・乱視を知らなかった人は、突然、腕時計の数字が見えなくなったり
 すると、びっくりするらしい。レストランでメニューが出てくると、眼鏡をかける人
 (老眼)外す人(近眼)がいるのが面白いのだが、ぼくは後者で、老眼は自然になおっ
 てしまっている。近眼の眼鏡を外すだけである。
・五十を過ぎて困ったのは、なんでもない固有名詞が想い出せなくなることである。

初老性うつ状態のこと
・昨年末の伊丹十三監督の自殺は同世代であるところのぼくの周囲で大きな話題になった。
 ぼくはこの監督の映画をほとんど観ていない。「お葬式」と「タンポポ」はテレビで観
 た。旅先で「マルサの女」を観た。要するに、ぼくは伊丹監督の仕事に興味が持てなか
 ったヒトで、だから私生活も興味がない。女生とか写真週刊誌とかいうが、それは一つ
 のきっかけであって、根本の原因ではないと思う。自殺の原因というのは、他人が考え
 てもわかりっこない。ごく古い話を持ち出せば、芥川の自殺だっていまだにわからない
 ではないか。
・ぼくが六十になろうとするころ、指圧の名手である老人にこう言われた。「六十代は五
 十代と違いますよ。五十代なんて若いものです。六十代に慣れるには、二、三年かかり
 ますよ」
・もともと体力のないぼくだが、それでもなお、体力は衰えるのである。まずモノへの執
 着が薄くなった。1930,40年代のアメリカ映画のビデオを集めていたのだが、こ
 んなことをして何の意味があるのだろうと、ふと思うようになった。ぼくが病気で伏せ
 るようになったら、すべてが無用のものである。本だってそうだ。書庫にある本や雑誌
 はぼくにとっては大事だが、世間には全く通用しないだろう。
・その年の春、ぼくは”他人が自分を必要としていない・・・”と思い始めていた。初老性
 うつ状態というのだろうか。とにかく、すべてが面倒くさく、どうにでもなれという気
 分だった。この気分は決して悪くはない。モノに執着しないのは、いっそ、さっぱりし
 ている。
・気力があれば、”いや、しかし・・・”と自分に反論するのだが、体力が衰えていては気
 力もない。要するに、無気力。そして大きな喪失感があります、胸の真ん中に。こうし
 た心理状態だと、女生とのごたごた、借金、ギャンブルの落とし穴、病気、ちょっとし
 たことが引き金になって、あの世にジャンプするのは容易である。いや、容易かどうか
 はわからないが、条件はととのっている。
 
うつ状態どころじゃなく
・ぼくは近所の医師にビタミン注射を打ってもらい、ベッドに横になる日が多かった。今
 にして思えば、これが六十になった節目だったのである。それまでのぼくは、男の人生
 の節目を奇妙な形ですり抜けてきた。
・男の最初のネックである三十歳。この時は結婚したばかりで、あろうことか会社をクビ
 になり、憂いに沈んでいる余裕などなかった。次のネックである四十歳は、第一次石油
 ショック
の年である。灯油やトイレットペーパーが店頭から姿を消す。超インフレで生
 活が危くなり、それから逃れるので精一杯。五十歳。この時はただ仕事が忙しく、ユウ
 ウツになるヒマなし。
 
ジャーゴンと御用聞き
・戦後、日本語の乱れが云々されたが、これはおかしい、とぼくは思ったのは1960年
 代半ばごろである。小説で生活できないぼくは、今でいうコラム、当時でいう雑文を書
 いていたのだが、さまざまな理由で断わざるを得ない仕事がある。「今回は外してくだ
 さい」と、ぼくが言うと、相手である新聞記者または年収者は、「そうですか、じゃ、
 またなにかあったら、よろしく」初めはあっさり聞き流したが、(待てよ)と思った。
・戦時中、または戦後もある時期までは、御用聞きというものがあった。大体は魚屋だが、
 経木に筆で記した品書きを持って勝手口から現われる。毎日、魚を食べるわけではない
 から、「今日は間に合ってるわ」と断る。すると、魚屋は、「はい、じゃ、また、なに
 かあったら、よろしく」と言って、帰ってゆく。この言葉と同じなのである。ぼくは言
 葉に神経質な方だと思うが、1960年代半ばより前は、こういう言葉づかいを編集者
 はしなかった。こんな失礼、かつ大ざっぱな言い方はしなかった。

景山さんのこと
・背の高い青年だった。1970年(昭和45年)にはこんなデカい青年はそうはいない。
 「景山民夫」二十二歳。
・景山さんのエッセイは端正な文章で書かれている。しかし、よく読むと、”嘘だろう”と
 いう部分がある。恰好が良過ぎる。読者へのサーヴィスなのだろうか。
・ぼくの知り限り、景山さんは彼の複雑な「家庭の事情」を小説にしなかった。上昇志向
 の強い作家だったら、必ず書いたであろうことを断乎書かなかった。なぜ、ぼくが彼の
 「家庭の事情」の一端を知っているかというと、彼みずから雑誌「宝島」の小さな笑い
 のコラムに書いていたからである。ここらが景山さんの独特の”バランス感覚の欠如”
 であろう。
・ある日、新作の冒険小説とともに宗教の本が送られてきて、ぼくは景山さんから遠ざか
 った。ぼくの母方の祖母が某宗教の熱心な信者だった体験から、カミサマ方面はすべて
 遠慮することにしている。
・宗教に入ってからも、マスコミ人景山民夫はテレビやラジオに出、いろいろサーヴィス
 していた。使い分けるともりだったのだろうが、本心は宗教にあったとぼくは思う。不
 幸な焼死の知らせをきいて思い出したのは1970年冬の出逢いだった。

乱歩と三島
・一人の青年が熊本の書店で三島由紀夫の「仮面の告白」を手にする。何気なく手に取っ
 たのだが、青年は体内に、毒物にも似た丸薬が投げ込まれ、それが溶けながらみるみる
 青い泡をふき上げ、全身にひろがってゆくように感じる。1950年(昭和25年)夏、
 青年の名は「福島次郎」、二十歳。
・その気のないぼくは、この小説を「告白」と読むべきかどうか迷った。頼りとする巻末
 の解説は新文学についての第一人者「福田恆存」であるが、解説を読んでも、「豊穣な
 る不毛」という最初の一語以外、なんだかよくわからない。ごく単純に読めば、これは
 同性愛者の告白なのだが、そう読んでは間違いではないかと迷ってしまう。これは「芸
 術家小説」ではないだろうか?こうした迷いは、「仮面の告白」という題名のためで、
 作者の罠にひっかかったことになるのか。
・ある時から、ぼくは三島作品を同性愛者の書くものとして読んでいた。すべて、リアル
 タイムで読んだが、意識したのは「鏡子の家」あたりからであろう。
・そのころ、ぼくはいつ潰れてもフシギではない小出版社に勤めていて、金主は晩年の
 「江戸川乱歩」だった。乱歩が人を接待するとなると、まず赤坂の高級料亭。そのあと
 は銀座のゲイバーである。ゲイバーは有名な店で、五十歳以下の男は、三島由紀夫と誰
 々の二人しかこない、と若い子が言う。ぼくは二十六歳、小柄だが、色が白いから、身
 体じゅうを触られる。接待の相手は女好きそうな中年の新聞記者であるが、いつの間に
 か、男の子の手を握っている。「人間、こんなものだよ」と乱歩はぼくに囁いた。
・乱歩は六十代で、体調が悪く、基本的には無表情、不機嫌であった。仕事の話をしてい
 る時、ふと、歌舞伎役者その他、ホモ・セクシュアルの人々の噂を口にしたが、その中
 に三島由紀夫の名前があった。三島由紀夫は乱歩邸での新年会にきていたが、ある年、
 三島、態度がデカいぞ、とからむ男がいて、以来こなくなったと推理作家の「日影丈吉
 さんからきいた。
・三島由紀夫は「金閣寺」から急に神格化されたが、ぼくは以前の陰気な「鍵のかかる部
 屋」あたりが好きで、「金閣寺」以後では「美しい星」が好みだ。評論の分野でいえば、
 日本で唯一の世界的な作家谷崎潤一郎を、感覚的及び論理的に把握していたのは三島由
 紀夫だけだった、と今にして痛感する。

甲山事件裁判の異常な長さ
・自然破壊といった表現はオオゲサとしても、わが家の前のマンション建設業者は敷地の
 すべての庭木を伐ってしまった。それが当然、という発想である。これは町またはフツ
 ーの生活の破壊と思うが、業者は”開発”と呼んでいる。また、田中角栄の”大都市の再
 開発計画”の延長線上に生きている役人たちも、これを”開発”と思うのだろう。両者の
 考えが近いのは当然である。
・バブルが弾けて、大不況がきても、役人の頭の中は変わらない。橋本という名の愚かな
 首相
が不況対策として、ルービン米財務長官のすすめる消費税引き下げではなく、公共
 事業への予算配分を平気で口にできるのはそのためである。毛皮のコートやダイヤなら
 ともかく、米や味噌といった最低の生活必需品にまで消費税をかける国はどこにあるの
 か。
・神戸の甲山事件の被告人が、ある日突然、物証もないまま逮捕されて、釈放、不起訴、
 四年後の再逮捕、起訴、一審の無罪判決・・・と転々として、今年3月に無罪判決にい
 たる。二十二歳から四十六歳までかかったというのが、まず、おそろしい。
・一見単純そうで、実は複雑なこの事件を要約するのは無理なのだが、1972年に中学
 生のころから障害児の世話に 一生を捧げようと志して、父の反対も押し切って甲山学
 園に就職した短大出の女性が、二年後に学園の中で連続して起こった園児の行方不明事
 件にまき込まれ、二名の園児は園内の浄化槽のなかで遺体として発見される。
・「福田ますみ」がまとめたこの女性の”証言”の切なさ、意識の高さに、ぼくは柄にもな
 く涙をにじませた。 

高齢者の恐怖心とは
・インドとパキスタンの地下核実験もあって、日本の大衆の目は完全にそれらの方向にそ
 らされている。これでトクをするのは橋本政権だけではないだろうか。
・気がついてみると、夏の靴下がなくなっていた。あっても、ボロボロである。急に厚く
 なったので、あわてて新宿のデパートに立ち寄った。エスカレーターで一階にあがると、
 もう人影はまばらである。水着売り場などシーズンなのだが閑散としている。まして、
 三階の男物の靴下売る場なんて、客はほとんどいない。これはもう、恐るべき眺めであ
 る。
・先日亡くなった「複合不況」の著者は、数年前にこうした光景がくることを予告してい
 たはずである。東京だけではない。ぼくが見た範囲でいえば名古屋のデパートがそうで
 あった。
・バブルのころに東京の店を構えたイタリアのアパレルメーカーから閉店の通知がきた。
 すべては絵に描いたような不況、デフレの構図である。失業者は史上最悪の4.1パー
 セント。16兆円の経済対策で夏から景気が良くなるなんて、絶対にありえない。
・六十五歳異常の高齢者のいる世帯数が、子供のいる世帯数を初めて上回ったと厚生省の
 発表である。これは、ひとことでいえば、高齢者の数がとても多くなり、子供の数が減
 ったということである。
・仮に六十六と六十六の夫婦がいたとしよう。彼らが大学を出て、四十四年間働いてきた。
 飲む打つ買うと縁が遠い堅実な生活を送ってきたので、いくらかの蓄えはある。夫の方
 はバイアグラが自由に買えるようになったら使用してみたいとひそかに考えているが、
 結局は使うまい。数年前であれば、この二人は海外旅行、船旅、国内旅行に出かけられ
 たはずである。下着一つ買うのにケチるようなことはなかった。しかし、今はちがう。
 彼らは恐怖で凍りついている。動くに動けないのだ。
・つい数年前、金利が五〜六パーセントだった時は、六千万円の定期預金があれば、税を
 とられるとしても、年間三百万円の収入を確保することができた。生活は人によって差
 があるが、これに年金が加われば、失業、怪我に備えられた。しかし、現在、年間三百
 万円の収入を金利で得るためにはどれほどの金が必要か、ぼくには見当もつかない。
・六十六の夫婦だから、”自由”かというと、そうでもない。彼らの親の世代は、戦争を乗
 り越えたせいかどうか知らないが、根が丈夫である。インパール作戦の傷を負ったまま、
 車椅子で暮らす九十代の父親がいたりする。夫婦は住宅ローンの支払いを続けながら、
 病院又は老人ホームにいるインパール作戦生き残りの父親の面倒も見なければならない
 のだが、こうした老人問題が日本でひどく遅れていることはいうまでもない。
・景気対策を打ち出したものの、反響はさっぱりだ。危機というと、木村屋のアンパンを
 買いに走ることしか知らない橋本某が首相になってから、政府・政治家・役人・銀行等
 々がすべてインチキであり、彼らが組んでコンゲーム(信用詐欺)をおこなっているこ
 とが国民の目に明らかになったからである。
・1990年代に入って日本の公共事業費は国内総生産の十パーセントにまで上昇した、
 という。しかし、公共事業を増やすだけでは、日本社会全体の富の基盤を強くすること
 はできないし、間違った使われ方をしている。ハードのインフラ整備では効果が期待で
 きない。日本にとって本当に必要なのは規制緩和による航空運賃引き下げなど、ソフト
 面のインフラである。

みっともない語辞典
・生きざま:
 ”死のざま”という言葉はあったが、こんな言葉はなかった。恥ずかしい言葉の定番で
 ある。しかし、学者はそうは感じないらしく、辞典にも入っている。”死にざま”の
 ”ざま”は”ざまぁ見ろ”の”ざま”で、否定的な意味合いがあると思うが、そうでは
 ないと断っている辞書もある。
・癒し:
  要するに、バブルが弾け、無能の政治家・官僚が支配する国で生きていると衝かれる。
  なんとかしたい。温泉ででも休みたい。そういう感情がひろがっているところに、え
  せ文化人と商売人がつけこんできた。アロマセラピー、ハーブティー、癒しの音楽、
  癒しの小説、モノよりココロの時代でございます、ひとついかがでしょうか、という
  わけで、どなたかが”癒し”という言葉は”卑しい”とはっきり言った。それが正解。
・自分探し:
  これは色々な意味がある。青春の中で、あるいは五十を過ぎて、”自分は何者である
  か?””自分は何者であったか?”を考えるのは、まあ、意味がないとはいわない。
  ぼくなど、いまだに探し続けているのだが。これを”自分探し”と文字にしたとたん
  に、うんさくさくなる。”宝探し”みたいにも見える。こういう言葉を口にしたり、
  活字にしたりする神経がいやで、おまえには”自分”なんてご大層なものはないんだ、
  と言ってやりたくなる。

「少子化」と「惜敗」
・「惜敗」
 ”優秀な敵機と死闘”これはインパール作戦の記事です。この時代に”敵機”を”優秀な”
 と形容するのは勇気が要ったと思います。しかし、そう認めざるを得なくなった。
 本当は”惜敗”か”敗北”か”大敗”といった表現がふさわしいのですが、”敗”の一字は絶
 対に使えなかった。だから、こうした”自虐的”表現になったわけです。以来五十年間、
 マスコミはこうしたアイマイな、裏を読まないと何が起こっているのかわからない書
 き方をしてきたわけです。
・「少子化」
 これもやたらに使われます。ざっくばらんにいえば、日本で赤ん坊が産まれなくなっ
 たことです。せめて”産児減少”とでもいえばいいのに、役人が智恵を絞って思いつい
 たコトバが”少子化”。これだと、まるで自然体系として子供が産まれなくなったよう
 に見えます。言葉の逃げ、すりかえ、といった初歩のマジックです。
 若い世代が子供を作らなく理由ですが、
 ・子育てにお金がかかる
 ・教育にお金がかかる
 ・家が狭い
 いずれも、もっともな理由ですが、時代が違うとはいえ、これは、十年前、二十年前
 にも同じだったわけですから、本当の理由はちがうと思います。
・橋本内閣二年半の間に、ドル・ベースでみる日本企業の価値は約半分になっているそ
 うです。この”橋本不況”から生じる不安感には前途の希望がまったくない。しかも首
 相はやめる様子が全くないし、 責任をとる気もない。出生率が1.39と史上最低
 になったのは当然のような気がします。
・働く女性の晩婚化が進み、離婚が最高を更新するのは、すべて、”少子化”につながっ
 ていると思います。妙な男と結婚して狭いところに暮らすなんて、仕事が面白い女性
 には不可能でしょう。
・最近、ある本で知ったのですが、童貞が増えているのですね。もう一つ、童貞を失っ
 たとしても、セックスそのものがいやだ、面倒くさい、という”感じのいい若い男”が
 増えているようです。夫婦間のセックスレスという、ある意味では陳腐なこととはち
 がうのです。

サッカー・ファシズム
・シンガポールに有名な「市民戦没者追悼碑」がある。高さ七十メートルの白い塔で、日
 本軍に虐殺された中国人の追悼の碑である。その数は四万〜六万人で、碑の中国名は
 「日本占領時期死難人民記念碑」。この前に立ってVサインをしている日本のカップル
 を何組も見ているから、サポーターたちが似たようなことをやるのが容易に想像できて、
 ぞっとした。
・名前はあげないが、どう見ても日本人とは見えない男がテレビの画面から、”日本選手
 の自信””日本人の愛国心”を異常なテンションで呼びかけつづけていた。これはミニ太
 平洋戦争だな、とぼくは思った。太平洋戦争に突入したころの日本人の熱狂と興奮が再
 現されていた。戦後最悪の不況、デフレ、失業者増大、それらをワールドカップの熱狂
 がおおってしまった。
・六月が近づくと、会社をやめてフランスへ行き、「燃え尽きる」と称する男女をテレビ
 で見かけた。ぜひ、向こうで燃え尽きて欲しいと思った。
・香港映画に出てくる日本人みたいな人物が監督になり、カズという選手を切ったあたり
 から大衆の感情はエキセントリックになり、「さすが監督だ」という声が大きくなる。
 カズはさしずめ、マレー作戦第二十五軍司令官・山下奉文が左遷さえた時のような塩梅
 で、彼に同情する声もあり、監督はトージョーのごとき立場となった。
・NHKは戦時中にも劣らぬ煽動ぶりを見せた。なにしろ、夜のニュースのトップがW杯
 である。”橋本不況”など、かなり後の方になる。来日したサマーズ財務副長官の一行は、
 日本経済が崩壊寸前なのに、日本人はサッカーのことしか考えていない、と本国に報告
 したと伝えられる。
・それにしても、NHKの視聴率獲得作戦は常軌を逸していた。ワールドカップはNHK
 で、BSで、というCM風の映像が入り、”NHKはあなたの受診料で支えられていま
 す”といった文字が出る。
・日本はアルゼンチンに0対1で敗れた。NHKはBSと合わせて六十数パーセントの視
 聴率をとったと宣言した。このあたりから”言論統制”がきびしくなる。サッカーに興味
 がないと発言した人間は”非国民”として新聞で叩かれる。読者の投稿という形で叩かれ
 るのである。 
・現在、マスコミの第一線にいる人たちは戦時中の報道のあり方、言論統制を知らない。
 第一線どころか、”戦争を知らない五十代”が上の方にいる。彼らは自分たちが”太平洋戦
 争中の愚行”をくり返していることに全く気づいていない。
・似たような報道をぼくは想い出す。1945年4月にアメリカのローズベルト大統領が
 死去した時、これでアメリカもおしまいだという報道があった。冗談じゃない、ぼくの
 家はとっくにB29によって焼き払われていたのである。おしまいなのは、こっちであ
 った。
・ここから大本営発表にがたがきて、敗戦の責任者探しが始まる。監督が悪い、にやにや
 していた選手が悪い、と言っているうちに、ジャマイカに1対2で敗れ、監督は辞任を
 表明、戦犯探しが本格的になる。監督を選んだ日本サッカー協会、特に会長に責任があ
 ると決まっているのだが、会長はやめるとは言わない。
 
お台場の向こうの標的
・ころは幕末、東京湾に黒船がくるといけないということで、1853年から1年3カ月
 の間に、品川沖に七つの砲台がつくられた。第四と第七の砲台は未完成に終り、昭和に
 かけて、次々と取り壊され、第三、第六が辛うじて原形を残した。
・「お台場」という呼び方は昔からあったわけで、べつに最近のものではない。ちなみに、
 レインボーブリッジの脇のお台場海浜公園がどうやら第三台場で、芝浦に向かって左側
 にあるのが第六台場、江川太郎左衛門、苦心の跡である。
・出不精のぼくがお台場に来たのは三度目だが、初めて来た時はホテルなどなかった。少
 々の建物だけで、草ぼうぼうの荒地がどこまでも続いていた。典型的なバブル後遺症で、
 なんという税金の無駄づかいかと思うだけであった。
・いまや、フジテレビの建物は”営業中”である。あのタマ、球体の中は上半分が展望台、
 下半分がレストラン・お土産売り場だ。
・しかし、まあ、寒々しい眺めである。フジテレビに向かって松明をかかげている自由の
 女神は少し斜めになっている。自由の女神って、海の方を向いているものではないだろ
 うか?
・お台場のタマキン・ビルの設計者は丹下健三である。また、新宿の都庁舎、タックス・
 タワーやらバブルの塔といわれた中世の教会のような陰気な建物の設計者が丹下である
 のは言うまでもない。つまり、鈴木・丹下コンビがバブル期に盛大な”東京殺し”をおこ
 なったと考えていい。
・鈴木・丹下コンビに欠けていたのは、こんな風に乱暴に東京を変える必要があるのかと
 いう出発点の疑問である。それが人々を幸福にするかどうかという発想が全くなく、税
 金で強行すること、それによって生じる自分たちの利益を考えるのが精一杯であった。

ロマンスカーの哀愁
・いきなり、ロマンスカーといっても、関東以外の地域の方は、なんのことか分からない
 かも知れない。東京の新宿駅から小田原駅を経て箱根湯本まで走る新幹線風の電車であ
 りまして、正式には小田急ロマンスカーというのかな。とにかく、箱根湯本まで1時間
 25分で行ってしまうという便利な乗物です。ロマンスカーに初めて乗ったのは、開業
 してすぐ、1957年(昭和32年)7月だった。
・しかし、「ロマンスカー」という名前は、当時でもいかにも古めかしい。ロマンスカー
 という名前は昭和初期から使っていたという。戦時中は、ロマンスカーなどという名称
 は許されない。戦後、昭和24年に新宿ー小田原間で、ロマンスカーの名が復活したと
 いう。なにしろ超特急、しかも車中で美女が食事のサーヴィスをするというのだ。
・考えて欲しい。新幹線が東海道を走るのは昭和39年秋である。それより7年以上早い
 そのだ。そして、女性は美人ばかりである。ユニフォームのスカートが短かったような
 気がする。三島由紀夫の小説「美徳のよろめき」が話題になった時なのである。
・その後、ロマンスカーは時代と共に少しずつ変化した。スチュワーデスかと見紛う美女
 たちは少なくなった。ロマンスカーは大衆化し、乗客もロマンスとはほど遠いおじさん
 おばさんが多くなった。とはいえ、これらの人たちの体力、熱気は凄まじい。電車に乗
 り込むやいなや、椅子を向かい合わせにし、缶ビール、弁当を配る。得体の知れぬエネ
 ルギーに圧倒される。

人生の秋とリストラ
・日本中の大都市が片っぱしからボーイングB29に爆撃されている時、日本はいつギヴ
 アップするかという時、なぜか中学の夏休みはあった。ぼくは今でいう上越にいたのだ
 が。長い長い夏休みである。なんたって、夏休みに入った時には、時の首相が米・英・
 中国に対して”戦争継続を表明”している。これが引き金になって広島・長崎へ原爆投下
 があり、ソ連が日本に宣戦を布告した。8月15日、昭和天皇の”戦争終結”のラジオ放
 送
があり、8月30日にマッカーサーが厚木におり立って、夏休みが終わった。戦争と
 平和の境い目である夏休み。僕は十二歳だった。
・この夏休みの目もくらむような長さ、不安に比べれば、そのあとの時間は短い。七年後、
 敗戦による混乱がしずまりかけた東京で、父親が死んだ。五十歳。当時の死病である結
 核によるとはいえ、その時代でも早死にといわれた。
・おかしなもので、人間は五十で死ぬ、とぼくは思い込んだ。今どきの若い人のように人
 生の計画を立てないぼくは、自分は五十まで生きるかな、ぐらいにしか考えなかった。
 自分が五十になった時は、変な気がした。(おいおい・・・)という気分である。父親
 の方が若くなってゆく、奇妙なものである。
・中産階級は昔の方がラクだった、とつくづく思う。満六十になったら還暦祝いの赤いチ
 ャンチャンコを着る。貸し家の店賃の取り立てをするぐらいで、万年青の手入れと小唄
 の稽古で日を過ごす。今は、そうはいかない。
・父親が死ぬ前の一、二年、ぼくは”社会に対して機能しない人生”となった父はつらいだ
 ろうなあ、と思った。十代でもそのくらいは感じるのである。”手に職がない”ままに、
 和菓子屋の主人になったのが、父の不幸の始まりであった。本当は車が好きで、エンジ
 ニアになりたかったのだが、祖父の命令で家業を継いだ。平和な時代には、それでも、
 やっていけたのである。店は奉公人に任せておけばよい。
・日中戦争が始まり、父は町内会の仕事、消防団の仕事で忙しかった。きわめておとなし
 い二枚目だった父は、頼まれればいやとはいわなかった。父の不幸は”戦後”である。
 空襲で家と財産を失い、できることは何もなかった。せめて饅頭でも作れれば、それだ
 けで一財産築けた時代であるが、”手に職がない”のでそれも不可能。彼を必要とした共
 同体、町は消滅していた。社会が必要としなくなった人間、めっきり髪が薄くなった父
 は正にそれであり、ぼくは悲しかった。
・サラリーマンが四十代でリストラの対象になる世相を見ると、ひとごとではないのだが、
 ぼくは、まず晩年の父を思い出す。そして、人生は五十一から、と祈らずにはいられな
 い。