田舎暮らしができる人 できない人 :玉村豊男

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田舎といっても地方都市、町、村などいろいろなレベルの田舎があると思う。もっとも東
京に住んでいる人から見ると、東京以外はみな田舎らしい。
東京と田舎を行き来して一番感じることは「生活リズムのスピード感である。とにかく東
京の生活リズムは速い。毎日が何かに追い立てられるみたいに過ぎていく。それに比べる
と田舎の生活リズムはゆっくりだ。東京から田舎に移動すると、まるで時間が止まってい
るように感じる。それだけ田舎の生活リズムがゆっくりしていることなのだろう。
とにかく刺戟に飢えている若者世代は、そんなのんびりした田舎はつまらなく感じ、刺戟
の多い東京に憧れる。これは当然なのかもしれない。しかし、老年期になってくると、東
京の速い生活リズムにだんだんついていけなくなってくる。
最近、都会では「逆切する中高年者」が問題になっているという。これは都会の速い生活
リズムについていけなくなった中高年者が、その苛立ちを抑えきれなくなっているのかも
しれない。
ゆったり時間の流れる田舎で暮らした思い出は、今でも思い出すことができるが、なぜか
しら東京での過ぎし日の思い出は、ほとんど思い出せない。東京のほうがいろいろたくさ
んの刺戟的な経験をしたはずなのにである。
都会での生活はおカネさえあれば、ほとんどのことが解決できる。とても効率的で便利で
はある。しかし、その反面、経済至上主義の枠組に強く組み込まれていく。田舎も最近は
かなり都会化されてきたとはいえ、まだまだ不便なことは多く、おカネがあっても解決で
きないことが多い。ましてや、そのおカネを稼ぐ機会もぐっと少ない。自然とあまりおカ
ネに頼らず、いろいろなことを自分でやらなくてはならなくなる。その分、経済至上主義
の枠組みから一歩外に出ることができる。おカネの奴隷になるか、それともおカネから少
し離れた自由人になるか。それが都会で生活するか、田舎で生活するかの違いのような気
がする。

田舎暮らしの魅力
・海外旅行へは若い頃から何度も行っていますが、東京に住んでいた頃は、成田空港から
 東京に戻ってこれから自宅へ帰ろうとするとき、大荷物を抱えてまた列車やバスに乗り
 込もうとする地方在住者の姿を見て、かわいそうに、まだこれから旅をしなければなら
 ないのか、と憐れんだものです。その憐れみは、蔑みに似ていたかもしれません。東京
 や大阪など大都会に住んでいる人は、心のどこかで田舎に住んでいる人を馬鹿にしてい
 る。私もそのひとりでした。いまでは、まったく正反対ですね。また東京の悪い空気の
 中の狭い家に帰るのか、と、蔑み、いや、憐れみの心を私は抱きます。
・フランス人は、リタイアしたら「川のほとりで暮らしたい」とよくいいます。仕事をし
 なければならない時期はしかたなく都会で暮らすけれども、ゆっくり時間が使える年齢
 になったら田舎で自然に囲まれて暮らしたい、という意味です。そう遠くないうちに、
 日本もそうなっていくのではないでしょうか。
・たまに東京に出張してホテルに泊まると、まず、窓を閉め切られた部屋の閉塞感が重苦
 しい。エアコンの人工的な風も鬱陶しいし、大概は暑すぎるか、寒すぎるか、空気が乾
 燥しすぎているのかのいずれかで、田舎の自然な空気の快適さにはほど遠い。
・東京に住んでいたときには気づかなかったが、都会では、どんなに静かな夜でも完全は
 静寂はなく、暗騒音が常に神経を逆撫でしているのだ。東京の夜が、いつまでも明るい
 ことにもびっくりさせられます。  
・東京のマンションで暮らしていた頃は、白いワイシャツを着て外出すると、一日で襟が
 黒くなったものです。ベランダに干しておいたシャツにも、よく見るとこまかい黒い粉
 のようなものが付着している。
・東京に住んでいる人は(それも地方から東京に出てきている人はとくに)東京以外には
 モノも情報も楽しみもない、と思い込んでいるようです。たしかに、東京には東京でな
 くては味わえない魅力や面白さがいっぱいあります。が、そこは仕事で行く場所であっ
 ても、あるいは遊びに行く場所であっても、住む場所ではない、と私は感じています。

いままぜ田舎暮らしなのか
・40歳を前にして、都会の浮き草生活から逃れそう。まだ体力のあるうちに、自然の中
 で自立して生き抜こう。このまま社会の歯車となって埋没することだけは拒否したい。
・昔の田舎暮らし実践者は、その多くが変人でした。というか、当時は、田舎のほうには
 都会からの移住者を受け入れようという気運も受け皿もなかったので、それこそ筋金入
 りのエコロジストとか、よほど覚悟を決めたドロップアウトでなくては、田舎暮らしを
 決心することができなかった。
・日本の田舎は、いま崩壊の危機に直面しています。若い人たちは都会に流出し、農業の
 後継者は絶えて、村に残されるのは老人ばかり。高齢者率はますます高まり、あと何人
 かお年寄りが亡くなりでもしたら、村そのものが立ち行かなくなる、という「限界集落」
 も増えています。
・私は、2007年以降、団塊の世代を中心にした大量の人びとが、都会から田舎へ、都
 市生活で培った意識と感覚をもって移住し、そこで新しい生活をはじめることで、日本
 の社会は大きく変わるのではないかと期待しているのです。彼らによって都会の風を吹
 き込まれた田舎は、古い農民意識や村意識からしだいに覚醒して、まだ十分に残ってい
 る豊かな自然環境を美しく育みながら、それと共生して生き残る方向を見出すのではな
 いかと。
・かつては、自分たちの暮らしを支えている人びとの姿が、おぼろげながらであっても見
 えていた。着るもの、飲むもの、食べるもの、住むところ、簡単な普段着ならミシンで
 手縫いできたし、飲む水はペットボトルではなく井戸から汲んできた。もちろん野菜は
 近くの畑で採れたもので、味噌汁に入れるニラやミョウガは裏庭に生えている。障子の
 張替えはおとうさんの仕事。雨漏りがすれば、家を建てた大工さんが直しに来てくれた。
 そんなふうに、自分の暮らしはこういう人びとによって支えられているのだ、というこ
 とを、実感として理解することができたのです。
・ところが、いつのまにか、どんどん生活の輪郭線が拡大していって、いったいどこまで
 が自分の生活に関係する範囲で、どっから先が自分と関係ない世界なのか、その境目
 が曖昧になってしまいました。
・私たちが面白がって農業をやっているのを見て、都会に住む友人は興味を示しますが、
 田舎で生まれ育って東京で就職した会社勤めの人間は、「農業のどこが面白いの?」と
 いってあきれたような顔をすることが多い。
・しかし、そんなことをいっている地方出身のサラリーマンたちも、そろそろ定年が近く
 になってくると、俺も田舎に帰って畑でもやろうかなあ、などとつぶやきはじめるので
 す。 
・田舎のよさ、自然の魅力を理解するには、ある程度の人生経験が必要です。若い頃は、
 誰でも日常から逃れたいと思うものです。田舎の子は、都会に出て都会の子のように遊
 びたい。都会の子は都会の子で、都会独特のあの閉塞感から抜け出したい。
・東京のような大都会で、大きな組織や仕事にかかわり、刺戟と緊張に満ちた時間を生き
 ることは、その人にとってなにものにも代え難いキャリアとなるものです。一生田舎か
 ら出ずに暮らすより、一度はそういう経験を積んだほうが、より有意義な人生を送れる
 のではないかと思います。
・しかし、一旦外を出歩くと白シャツの襟が真っ黒になるような都会で、他人に翻弄され
 ながらストレスに満ちた日常を重ねていれば、しだいに疲れが溜まってくるのは当然
 です。若いうちは目先の変化やめまぐるしさを生き甲斐と思い込んで夢中になることも
 できますが、ある年齢に達してそろそろ自分の人生のありようが見えてくる頃には、こ
 のまま惰性に流されてはいけない、という想いが心の底に淀むようになり、せめて残さ
 れた人生の日々は、自分の納得のいくかたちに仕上げたい、と願うものです。
・私は、40代くらいまでは、できることがあればなんにでも手を広げて、失敗を恐れず
 にチャレンジするのがよいと思っています。仕事も、恋愛も、人間関係も、さまざまな
 経験を重ねることで人生の厚みが増すのですから。
・しかし50歳の声を聞くようになると、過剰な情報や際限のない物欲に振りまわされて、
 絶えず焦りながら他人より前を歩こうとするよりも、他人と比較や競争に悩まされるこ
 となく、みずから選んだ暮らしのスタイルの中で自足した毎日を送りたい、と思うよう
 になるものです。それまでにあちこちを走りまわって集めた情報やモノの中から、自分
 にとって本当に必要なもの、自分が本当に気に入ったものだけを選んで、それらに囲ま
 れてその後の人生を過ごすことができたなら。
・定年が視界に入ってくる頃、自然に囲まれた田園で、少しでも手ざわりを感じることの
 できる暮らしをしたい、と多くの人が思うようになるのは、当然の流れなのです。
・人生の経験を重ねると、自然の見方も変わってきます。若い頃は、サクラの花を見ても
 さほどの感慨は催さないものです。それが歳をとると、花の盛りを見ても、散り際を見
 ても、なにかしらものを想うことが多くなる。
・若い頃はいつもヒマを持て余していたものですが、それはなにを見ても風景の中身がか
 らっぽだったからではないでしょうか。

バリアが低くなった田舎暮らし
・昔と較べると、村びとの生活圏は飛躍的に拡大しました。村の暮らしに縛れることは
 少なくなり、人びとは隣組以外にも新しい仲間をつくるようになりました。このあたり
 の状況は、都会も田舎もそう変わりはありません。趣味のサークル、勉強会、仕事づき
 あい。とくに女性たちの動きは活発で、彼女たちの日常の交際範囲はとうの昔に隣組の
 境を超えています。
・田舎の人の行動半径は、思いのほか広いものです。たいがいの家には、複数のクルマが
 あります。ご主人が通勤に使うクルマ、昼のあいだ奥さんが買物やつきあいに利用する
 クルマ、そのほか、近くの会社で働く息子か娘がいればその通勤のためのクルマ。そし
 て畑仕事のための軽トラック。田舎はクルマがなくては移動てきませんから、みんなが
 クルマを持っています。
・クルマで30分、というのは、ちょっとそこまで、という距離です。東京の人は、自分
 たちだけが便利なところに住んでいると思っている。たしかに、家から歩いて食事の店
 に行ける、というのは便利ですが、商店街のまんなかに住んでいるのでもない限り、歩
 けば10分や20分はかかるでしょう。歩いて20分というと、ちょっと遠いと、東京
 の人は思うのではないでしょうか。しかし、実際に歩いている距離はたいしたことはあ
 りません。
・クルマで20分、といっても、東京と田舎では走る距離が違います。田舎の道は、ほと
 んど信号がありません。制限速度はありますが、道路はいつも空いています。信号ごと
 に止められ、渋滞でろくに走れない東京とちがって、田舎はスイスイ走れるので距離が
 稼げます。ですから、ちょっとそこまで、といってクルマで30分乗ると、田舎では相
 当遠くまで行けるのです。赤坂から新橋に行くのに虎ノ門の交差点を曲がるだけで40
 分かかったとか、六本木の交差点を渡るのに信号待ちで1時間かかった、などというの
 とわけが違う。その意味では、ことクルマという交通手段に関しては、東京より田舎の
 ほうが便利といえるでしょう。
・田舎暮らしを考えるなら、田舎がクルマ社会であることをよく認識しておく必要があり
 ます。クルマなしでは、生活が成り立たない。それも、夫婦なら2台は必要です。
・農村地帯の青年は、東京は疲れる、といいます。駅や歩道橋で、階段をのぼらなければ
 ならないから、日ごろ歩いていないので、足が弱っているのです。東京のサラリーマン
 のほうが、よほど足腰が強い。機械化された現代の農作業は大半がクルマ(農業機械)
 に乗る仕事で、専業農家の職業病は腰痛です。
・そのかわり、クルマに乗れない人は生活に困ります。バスはあっても本数が非常に少な
 いし、停留所にたどりつくまでに長い距離を歩かなければならない。巡回バスなど行政
 が用意するサービスもありとはいえ、古い家にひとり残されたお年寄りなど、歳をとっ
 て運転ができなくなったら移動手段は極端に限られてしまいます。
・通信手段の発達が田舎暮らしの不便を解消した、ということでいえば、なんといっても
 インターネットの出現ほど大事件はありません。インターネットは、暮らしのスタイル
 を根本から変えてしまいました。
・衛星放送が開始されたときも、これで都会と田舎の格差がなくなった、情報はどこへで
 も同じように天から降ってくるのだ、といって技術の発達をよろこんだものですが、衛
 星放送がとくに田舎暮らしに影響を与えることはありませんでした。一方通行の放送で
 はそれ以上のインパクトはなかったのです。
・都会暮らしの楽しみは、ふらりと散歩に出て本屋に入り、面白そうな本が見つかったら
 それを抱えて近くの喫茶店に入る。コーヒーを飲みながら、静かな店内でゆっくり本の
 ページをめくり、時の窓の外に目をやって道行く人の姿を眺める。そういう時間である
 と私は思っているので。
・しかし、インターネットの普及は行動を一変させてしまいました。もう、資料探しに東
 京に行く必要はありません。知りたいことがあったら、パソコンの前に座るだけでよい
 のですから。たとえ人里離れた田舎に住んでいたとしても、いながらにして世界中の情
 報が検索でき、教えを請えば姿の見えない無数の人が寄ってたかって教えてくれます。
・買物も、インターネットで激変したもののひとつです。それこそ本を買う場合でも、本
 屋さんへ行くよりネットのほうがずっと早い。いまや、あらゆるものがそうですね。実
 際に町で探すより、パソコンの中で探すほうが早く確実に見つかります。東京に住んで
 いても、都心のデパートや専門店に行くよりネットショップのほうがはるかに能率的で
 す。たしかに大都会にはモノとヒトがともに集積していて、ヒトの中でモノを探すショ
 ッピングという行為の魅力は田舎では味わい難いものですが、モノを手に入れる、とい
 う目的を果たすだけなら、インターネットのおかげで都会と田舎の格差はなくなったと
 いっていいでしょう。それを支えているのが宅配便サービスの充実です。
・私は、日本人が世界中の中で生きていくには、宅配をお家芸にするのがいちばんいいの
 ではないかと思っています。商品を、間違いなく、ていねいに運び、正確な時間に、き
 ちんと相手に届ける。しかもその場で代金を受け取り、事務処理までして、帰って会社
 に報告する。こういうことをやらせたら、日本人の右に出る国民はありません。
・もしも日本が沈没して、外国で生きていかなくてはならなくなったら、寿司職人になれ
 ない人は宅配業者がいちばんです。いや、沈没しなくても、世界中に日本の宅配便シス
 テムを広め、汗をかきながら律儀にものを運んでいれば、日本人は世界の敬意を集め、
 戦争の準備をしなくても平和に生きることができるでしょう。
・かつては、通信販売は日本では普及しないだろう、といわれたものでした。あれは国土
 が広大で、ちょっと買物に行くにも何百キロもクルマを走らせなければならないアメリ
 カのような国だから発達したのであって、家を出ればすぐに商店街があるような狭い日
 本では利用されないだろう、というのがおおかたの予測だったのです。見事に外れまし
 たね。
・田舎暮らしでも、物欲は満たしたいものです。いくら手づくりの暮らしをするにしても、
 なにからなにまで、というわけにはいきません。必要なものは買わなくてはならないし、
 必要でなくても欲しいものがある。便利なもの、贅沢なもの、流行しているもの。我慢
 してばかりでは楽しくありません。作務衣を着てロクロに向かい、玄米と無農薬野菜だ
 けで暮らす。それも尊敬すべきライフスタイルですが、どうお俗っぽい私には苦手です。
 きれいな空気と広い空、豊かな自然に囲まれた田舎で、お洒落に楽しく暮らしたい。そ
 のためには、楽しめない不便さ、は困ります。さいわいなことに、この何年かの急速な
 変化により、インターネットと宅配便という欲望満足装置が揃ったからこそ、エコロジ
 ストやドロップアウトでなくても田舎暮らしができるようになったのです。

スローライフは忙しい
・スローライフとは、暮らしに手間をかけるライフスタイルです。なんでも簡単に買って
 済ませたり、人に頼んでやってもらったりするのではなく、生活に必要なこまごまとし
 たことをできるだけ自分たちの手でこなし、すぐに結果を求めるのではなく、その結果
 に至る過程を楽しむこと。
・たとえ能率が悪くても、暮らしを他人まかせにしないほうを選ぶ。たとえ仕上がりは無
 骨でも、大量生産品より手づくりの面白さを好む。
・田舎暮らしは、基本的にスローライフです。どんなにものぐさ人間でも、田舎に住んで
 いる限り、落ち葉が落ちたら落ち葉を掻き、雪が降ったら雪を掻き、最低限生活に必要
 なことは自分たちの手でやらなければなりません。おカネさえ払えば誰かがやってくれ
 る、ということばかりではないのです。田舎では、暮らしにかかわるものの仕事に
 時間を取られることが、都会と較べると非常に多い。
・ロハスとは、健康に気をつけバランスのよい食事や適度な運動を心がけ、次の世代によ
 い環境を残せるように配慮する、地球に優しい暮らしかた、とでもいうところでしょう
 か。
・健康的な生活に関する正しい知識と地球環境に関する進んだ認識をもつ、知的レベルの
 高い、したがっておそらくは可処分所得も高い消費者層、というのがロハスの該当者で
 あると考えてよいでしょう。
・健康に注意してヘルシーでナチュラルな食べものを選び、必要ならダイエットをしてス
 リムな体形を維持し、ジョギング、ウォーキング、ジムワーク、ヨガ、ピラティス、太
 極拳など、からだを動かすことにも積極的だが、疲れたら休み、気が進まないときはサ
 ボり、要するに無理をせず自分にできる範囲で続ける。ロハスな消費者の「持続性」と
 いうのはそんな感じでしょうか。
・これは私の感覚ですが、ロハスという言葉は、やや都会的な匂いがします。田舎に移住
 してジャガイモの畑をつくる、というより、マンションのベランダでバジリコを栽培す
 る、というような、要するに、軟弱な感じ、ですね。もちろん、それが悪いといってい
 るわけではないのですが。
・東京や大阪からどこかの地方都市に移るのは田舎暮らしではなく転勤に近いかもしれま
 せんが、それでも地方都市の郊外だったりもっと小さな町だったりすれば、田舎暮らし
 を味わうことは十分可能です。地方に生活する人は、平日は町の会社で働きながら、週
 末には家の田んぼを見まわり、夏は近くの川にアユを釣り、冬はクルマで20分のスキ
 ー場に行く、という、まさしく田舎暮らしを楽しんでいるのですから。
・まず、別荘を買ってそこにしばしば滞在する。慣れたら通年で住めるように改造し、本
 格的に生活の拠点をそこに移す。段階を踏んだ移住は賢明な方法です。別荘地でなくて
 も、都会と田舎にふたつの家をもって、状況の変化に応じて両方を利用する、という人
 もいます。田舎暮らしのかたちは、それを望む人の数だけある、といっていいでしょう。

田舎暮らしの意味するもの
・田舎に居を構え、自分の手で草を刈り、土を耕し、周囲の自然と折り合いをつけながら
 つつましく毎日を暮らす。額に汗して精一杯働き、風呂に入って唸り、酒を飲んで頬を
 緩める。誰に指図されるのでもない。自然の則に従った暮らし。人間が生活するのだか
 ら田舎でもカネはかかるが、都会で暮らすよりは安く上がる。だいいち、カネをもうけ
 た先になにかの目的があるわけではない。死ぬまでの時間を愉快に過ごせればそれでよ
 いのである。そんな境地に達することができる田舎暮らしは、決してカネでは買えませ
 ん。
・きわめて高度に発達した資本主義は、個人生活のあらゆる場面を市場化して金銭の対象
 とし、そのために生活の輪郭線はますます不透明になり、手ざわりのある暮らしの実感
 は日に日に薄れていく。その中で、私たちは、自分の暮らしを自分の手に取り戻すため
 に、自分の時間を自分の自由に使うために、いったいなにをすることができるでしょう
 か。 
・田舎暮らしには、ものを買わずに自分でつくる、人に頼まず自分でやる、など、経済外
 的な活動がかなり関係してきます。すべてがおカネに換算される世の中で、おカネに換
 算することのできない(つまりカネで買えない)仕事をやることは、大きな癒しになる
 可能性を秘めています。 
・非貨幣経済では、おカネの動きは少なくても、そのかわり生活の質は高く保たれている。
 それは、まさしく私たちの田舎暮らしが求めるありかたにほかならないのですが、世界
 の国や地域の中には、まだ、そのようなゆるやかな経済の枠組みが残っているところが
 たくさんあります。 
・ヨーロッパの古い国などでは、とくに景気がいいわけでも給料がいいわけでもなさそう
 なのに、なぜかみんなが満足し、豊かそうに暮らしている。それは、過去に築いた財産
 が大きかった、というだけでなく、どこか経済の枠組みがゆるく設定されていて、実際
 に動くおカネとは別のところで生活の質を高く保つ知恵を働かせているからではないか
 と思います。
・今でも昔ながらの町工場はたくさんあります。そういう零細な自営業者や個人の農業従
 事者は、産業革命以降の大量生産システムからなかば逃れているので、いまでも、一家
 全員で働いて稼いでいる、という意識をもつことができるのでしょう。しかし、組織に
 属して会社や工場に通勤するサラリーマンの夫は、平日の時間のほとんどを会社で過ご
 し、勤務時間以外でさえ会社の同僚と過ごしているので、意識がどんどん妻や家族のい
 る日常の暮らしから遠のいていき、とうとう家では自分がはく靴下のありかさえわから
 なくなっているというのに、大声を出せば妻が靴下をもってくるのがあたりまえだと決
 めつけ、まるで自分だけが働いてカネを稼いているような気になっている。産業革命か
 ら二百年後、日本には「オジサン」という人種が生まれました。しすて妻は妻で、「オ
 ジサン」の誕生と同時に、夫の靴下のありかは知っているが夫の仕事や職場については
 なにも知らず、政治や社会や経済についてはさらに関心がなく、他人の迷惑はもとより
 ときにはその存在さえ顧みず、しかしわけもなく自信に満ちている、あの「オバサン」
 と呼ばれる存在に変わっていったのです。
・かつては家の中の仕事だったものが、どんどん市場化されて外に出ていってしまう。掃
 除も、洗濯も、炊事も。そのかわり、おカネさえ出せばなんでも買えるし、やってもら
 える世の中になった。が、こんどはそのおカネを稼ぐのに忙しくなり、おカネができて
 もそれを使う時間がない。生活の質を少しでも上げるためにおカネを稼ごうと思ったの
 に、おカネを稼いだらかえって生活の質が下がってしまった。おカネ、おカネといいは
 じめると、だんだん心が荒んできます。
・ビジネスになるのは、おカネを稼ぐのに自分の時間を売るときです。自分の時間を他人
 のために使い、そのことで収入を得る。気の進まないときでも、気の進まない人と会い、
 気の進まないことをするから、おカネになるのです。
・そういうビジーな仕事を、組織に属しているあいだは、ずーっとやってこなければなり
 ませんでした。定年になって田舎暮らしをしようという人は、そういう世界からそろそ
 ろ足を洗って、残された自分の時間を自分のために使いたいと願っている人でしょう。
 もちろん田舎暮らしにも収入は必要ですから、なんらかの社会的な仕事にかかわる必要
 があるかもしれませんが、それでもできるだけ、自分のやりたいことをやる暮らしに近
 づきたいと思っている。
・これまで他人に売り渡してきた、膨大な時間。それによって、自分と、妻と、家族たち
 を支えてきた。その責任を立派に果たして、ようやく手に入れることができたのが定年
 というご褒美なのです。あの、おカネに姿を変えてしまった膨大な時間の、ぼんの一部
 でもいいから、自分たちの手に取り戻したい、と願いのは、至極当然なことだと思いま
 す。
・社会的にも経済的にもゆるやかな気分と人間関係が残っていた戦後の日本で育ちながら、
 経済の成長とともに隙間なく固められ、先進国になることによってさらに逃れられなく
 なった国際資本主義の枠組みの中で、与えられた仕事に自分の人生を捧げ、妻や家族と
 の生活をなかば犠牲にして頑張ってきた団塊の世代。その人たちが、いまは、もう歯車
 の仕事はおしまいだから、奥さんのもとに帰ってもいいですよ、といわれている。
・田舎暮らしはひとつの歴史的な必然です。それは、いまから田舎暮らしを考えている世
 代の人たちが、社会経済における系統発生的な歴史を背負っているからです。これまで
 のやりかたを続けていては子孫に地球を残すことができないかもしれないと世界が大き
 く方向転換しようとしているいま、このタイミングで、自由な時間とまだ余裕のある体
 力を授かった人たちには、みずからが営む暮らしのかたちによって新しいパラダイムを
 示す責務がある、といったら大げさでしょうか。

田舎暮らしができる人できない人
・プロでなくても、趣味で絵を描いたり、陶芸を楽しんだり、楽器を演奏したりしたい
 人は、田舎に住むのがいいと思います。スペースの確保や周辺への迷惑だけの観点から
 いっているのではありません。基本的に「ひとり遊び」ができる人は田舎暮らしに向い
 ているのです。
・自由な時間と場所を与えられたとき、自分でなにかやりたいことがあって、それができ
 る人。あるいは、そのときにはとくにやりたいことがなくても、考えてなにかやること
 を見つけ、自分で自分の時間が潰せる人。ひとり遊びができる人、というのはそういう
 意味です。
・いつも人の中に紛れていないと心が落ち着かない人は、田舎暮らしには向きません。酒
 好きにも、酒そのものが好きな人と、酒を飲む人が集まる場所が好き、という人がいま
 す。酒より酒場が好きな人は、毎日のように酒場に行く。そういう人の行く酒場は、い
 つも人で混んでいなければならない。
・理想のイメージをもつことは大切ですが、それに捉われてはいけません。田舎での暮ら
 しかたについても、抱いていたイメージがそのまま実現できるとは限りません。むしろ、
 そうでない場合のほうが多いでしょう。あらかじめそう覚悟したうえで、思いがけない
 現実との出会いを楽しむくらいの気持ちで構えてください。現実の枠の中で自分の理想
 をどう実現していくか、その作戦を練るのが、田舎暮らしの醍醐味のひとつでもあるの
 ですから。
・平常心を失わず、憧れもせず、恐れもせず、自立した生活者として新しい土地への適応
 を考える。難しいことかもしれませんが、対象に対する過剰な愛は往々にして破綻への
 原因となるものです。

田舎暮らしの心配ごと
・全体として和を乱さないように強調し、しかし際限のない妥協に陥らないように自分の
 矜持をひそかにしっかりと守り、譲れないところは譲らずに、しかし不必要なことを荒
 だてることなく、つねに議論の円満な収束を心がけ、卑下もせず、傲慢にもならず、自
 分にウソつかないこと。
・私は、自分が定年のないその日暮らしの職業のせいか、人間は死ぬまで働くべきだ、と
 考えています。このときの「働く」という意味は、かならずしも収入を得るための仕事
 だけを指すのではなく、おカネにはならないが熱中して時間とエネルギーを注ぐことの
 できる趣味や、ほかのことでは得られない生き甲斐を感じることのできるボランティア
 なども含みますが、要するに、好きで、やりたいと思うモチベーションがあり、それを
 やることで誰かの役に立てる、あるいは誰かがよろこんでくれる、つまり自分の存在が
 他人にとって必要なのだということを認識できるなんらかの行為を、人間は死ぬまで続
 けるべきだと思うのです。
・働くことは生きることそのものであり、労働は人間の義務ではなく、権利なのです。
・これまで義務として組織の中でやってきた仕事の経験から得たネットワークやスキルを
 利用して、自分で、あるいは仲間といっしょに、なにかはじめることはできないか。定
 年直後の虚脱感を埋めるためにも、そんなチャレンジは有効かもしれません。
・おカネを使わずに残したまま死ぬのもつまらないし、かといって贅沢三昧しているうち
 におカネがなくなって、貧困のうちに最晩年を過ごすのも嫌だ。うまく手持ちの資金を
 活用して、投資信託でもネットトレーディングでもいいから、必要な金額を必要な期間
 だけ確保する方法はないだろうか。 

農業をやりたい人へ
・定年は長年組織の中で働いてきた人にとっては人生最大といってもいい環境の激変であ
 り、それだけ多大なストレスをもたらします。一方、田舎暮らしも、とくにそれまでは
 ほとんど都会でしか暮らしたことのない人の場合はこれまた人生最大といってもいい大
 変化で、当然ともなうストレスにもおおきいものがあります。そおふたつの大変化が、
 ひとりの人間を同時に襲ったらどうなるか。
・農業は、フリータンスの仕事です。自分で計画を立て、仕事の段取りを決め、日曜日で
 も晴れたら働き、雨が降ったら平日でも休む。自分で時間を管理して自分の自由に使う。
・従わなければならないのはお天道様のご機嫌だけ。ほかの誰にも指図されるわけでもな
 い。 
・素人がはじめる小規模な農業で、生計を立てるほどの収入を得るのは不可能です。プロ
 の農家でさえ赤字に悩むのが現実なのにいくら消費者の視点を生かすとか、現役時代の
 経営や営業のノウハウを持ち込むからといっても、そう簡単には事は運びません。
・たとえそれが収入につながらなくても、私はこれから田舎で暮らそうという人たちには、
 どんなかたちであれ農業に携わる機会をつくることをお勧めします。それは、からだを
 鍛える、健康に良い、野菜ができる、といった実利的な効能ばかりでなく、私がそうで
 あったように、人生の晩年をよりよく生きるための、ある種の価値観を身につけること
 ができるからです。
・畑仕事は、やってもやっても終わらない。いくら予定を立てても、そのとおりいくとは
 限らない。相手は天気と植物だから、雨が降れば作業のスケジュールは遅れるし、温度
 や湿度によって生長のスピードが変わったり、病気が発生したりする。台風が来たらい
 っぺんで倒れてしまう。畑仕事は想定外の出来事の連続です。
・こういう仕事を毎日やっていると、だんだん肝が据わってきます。やることはやらなけ
 ればいけない。だが、できることには限りがある。自分の意志でコントロールしよう
 としても、コントロールできないことがある。だから、人事を尽くして、天命を待つし
 かない。
・達観というよりあきらめに近いかもしれませんが、毎日の労働と生活から得られるこう
 した実感を、私は「農業的価値観」と呼んでいます。都会で机の上の仕事をしていた頃
 は、仕事の計画を立ててそれが期日までに実現できなければ失敗だと考えていました。
 仕事上のスキルが身についてからは、自分の能力の範囲内なら意図したことはなんでも
 できそうな気もしました。より大きな目標を掲げてそれに向かって努力し、結果が出な
 ければ挫折だと思いました。他人と競争するつもりなない、といいながら、どこかで自
 分のポジションを気にしていたかもしれません。
・仕事の成果。人生の目標。他人の評価。もう、そんなことは、どうでもよい、とまでは
 いいませんが、それほどこだわるようなものではない、と思うようになりました。これ
 も農業のおかげです。
・農業をはじめると、もう引越しはできません。どんな引越し便でも畑を持っていくこと
 はできませんから。土地に根ざしたら、そこが終の棲処です。
・人間、生まれる場所を選ぶことはできませんが、住む場所を選ぶことはできます。そし
 て、おそらくそこで死ぬであろう場所も。私は、田舎暮らしをして本当によかったと思
 います。

あとがき
・思えば、団塊の世代といわれる人たちは幸福な時代を生きたものです。終戦後の日本が
 まだ貧しい時代に少年期を過ごし、日本の経済が発展する時期に社会人としての経験を
 積み、戦後日本がもっとも華やかな豊かを謳歌した時代には社会の中核をなす世代とし
 てその果実を味わい、右肩上がりの成長が終りを告げて日本経済がゆるやかな下降線を
 たどりながら円熟期に入ろうとするいま、同じように人生の仕上げに向かおうとしてい
 る世代。自分の人生と社会や経済の発展がこれほどシンクロするケースは、世界の歴史
 を探してもそう多くはないでしょう。