生き上手 死に上手 :遠藤周作

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この本は、今から31年前の1991年に刊行されたものだ。
生き上手とはどういう生き方なのか。そして死に上手とはどんな死に方のことなのか。
誰もが興味をおぼえるタイトルである。
この著者はカトリック教徒ようだが、キリスト教一辺倒ではなく、仏教の心も合わせ持っ
ているようで、同じカトリック教徒作家の曾野綾子氏とは、ちょっと違う感じがした。
いろいろ共感できる内容が多いのだが、私の心に一番響いたのは、次のようなものだった。
・信仰とは思想ではない。宗教とは思想ではない。心の奥底の無意識から出る心の叫びな
 のだ。
・目先に役に立つことを追いかけるのは文明であって文化ではない。
・さしあたって役にもたたぬことの集積が人生をつくるが、すぐに役に立つことは生活し
 かつくれない。生活があって人生のない一生ほどわびしいものはない。
・恋はだれにでもできる。しかし愛のほうは誰にでもできるというわけではない。
・愛の第一原則は「捨てぬこと」。人生が愉快で楽しいなら、人生には愛はいりません。
 人生が辛くみにくいからこそ、人生を捨てずにこれを生きようとするのが人生への愛で
 す。

ところで、生き上手とはどういう生き方なのか、死に上手とはどういう死の方なのか。こ
の本を読み終えてみても、残念ながら私には、いまひとつわからなかった。


自分の救いは自分のなかにある
・不幸がなければ幸福は存在しないし、病気があるからこそ健康もありうるわけだ。だか
 ら両者はたがいに依存しあっているといえる
・結局、我々の人生には絶対的なものなどありはしないということにつきる。
・どんな人間の心にも、小さなことを絶対化してしまう傾向や癖があるらしい。病気の時
 ではこんなものは相対的なものだと考えようとしても、当事者の病人にはやはり「苦し
 くって、苦しくって」仕方がないのである。それは理屈や御説法ではどうにも処理でき
 ない場合だってあるのだ。
・我々の人生の一時的にはマイナスにみえるもの<挫折、病気、失敗>にも必ずプラスと
 なる可能性があり、その可能性を見つけて具現化さえすれば過去のマイナスもいつかは
 プラスに転ずるということだ。
・どんな人間にもそれを人に知られるくらいなら死んでほうがましだと思うほどの秘密が
 心の奥にかくされている。何だ、そんなことかと他人は考えるかもしれないが当人に
 は噛みしめるのが実に辛い秘密なのだ。多くの人間は、自分一人でその秘密をまるで近
 よってははらぬ村井洞穴のように一生のあいだ持ちつづけ生きていくだろう。
・しかし、人生が本当に営まれているのはこの暗い洞穴のなかである。我々が自分に正直
 になり、神とむきあえるのも、この暗い洞穴のなかにおいてである。
 
・人が正しきことをなそうとする時、その正しきことがかえって彼の心をおごらせる。
・民主主義の我が国では何かというとスローガンが次々と出る。正義のスローガン、美し
 いスローガン、高いスローガン、スローガン自体はまちがいない目標であろう。しかし、
 そのスローガンを守ろうとすればするほど、逆にそれにふりまわされ、スローガンを裏
 切るような人間のエゴイズムや虚栄心が露呈される。戦後から今日まで我々はそのよう
 な現象を自分のなかにも社会のなかにも何度となく見てきた。これを考えると、スロー
 ガンをかざす心のなかにあるどうにもならない自己撞着に問題があったのだ。
・この矛盾や自己撞着のぎりぎりまで思い知らされた時、人は思わず自分の非力と無力と
 を悟り、「仏よ、神よ、何とかしてください」と叫ぶのであろう。一遍上人や親鸞上人
 のような他力宗教のことを考える時、私は同時に人間の心の自己撞着を連想してしまう。
・この人生になかで何よりも我々がもてあますのは心である。心を制御しようとして、そ
 れが本当にできたという自信のある人は私には羨ましい。しかしその人が本当に心のな
 かにひそむ矛盾撞着を噛みしめて制御したのかどうか疑わしく思うけれども。
 
・私は悪をやることもじつに難しいが、逆に善をやるのもかなり難しいと考えるようにな
 った。私のような小人物には大悪をやるには努力と勇気がいるものだから、さいわい今
 日まで小悪はつみかさねても大悪に手を出し自分の人生を滅茶苦茶にしなくてすんだ。
 小心、臆病もやはり役に立ったわけである。
・しかし逆に善いこととなると、これは意外に努力なしに感情だけでやれるものだ。しか
 し感情に突き動かされ行なった愛なり善なりは相手にどういう影響を与えているか考え
 ないことが多い。
・ひょっとするとこちらの善や愛が相手には非常に重荷になっている場合だって多いので
 ある。向うにとっては有難迷惑は時だって多いのである。それなのに、当人はそれに気
 づかず、自分の愛や善の感情におぼれ、眼くらんで自己満足をしているのだ。
・その苦い体験を今かみしめてみると、やはり原因は二つある。ひとつは相手の心情に細
 かい思いをいたさなかったこと、もうひとつは自己満足のあまりに行き過ぎてしまった
 ことである。だから過ぎたるは及ばざるがごとし、とは名言である。
・愛だって同じだ。愛しているからすべてが正しいと思ったら大間違いである。愛されす
 ぎる重荷もあることを、愛する側は考えておくべきであろう。
・仏教が幻影といういっさいの色相を我々人間はこれを幻影とは知らず、しがみついて生
 きていく。恩愛、欲望、肉体、異性、みな幻影とは考えられぬところに我々人間の情け
 なさや悲しみがある。
・だがこの色相を幻影と思わず徹底して執着していくと、いつかその「性を認得する」に
 至る。そしてその性のなかに救いの可能性がひそかにふくまれていたこともわかる。
 
・アンドル・ワイルは、自身も医者だが、従来の医学とはいささか違ったホメオパシー医
 学によって自分の病気を治した患者である。
・その治療法の原則の一つとして「類似の法則」というのがあるそうだ。それは「健康者
 に特定の病状を起こす物質には、それと類似した病状を持った病人を治す効力がある」
 ということである。
・「類似の法則」は自らマイナスや欠点を拒否したり否定したりせず、逆にそれを利用す
 るやりかたのことだろう。これは意外と日常生活に役に立つ。
・自分の性格や素質の欠点はこれを治そうと思ってなかなか治るものではない。むしろ逆
 利用するほうがいいのである。 
 
・自分の人生をふりかえり、この年齢になってみると、私はかつて冒した愚行も、かつて
 私の身に起った出来事も、たとえそれがそのまま消えてしまうように見えたものでも、
 決して消えたのではなく、ひそかに結びあい、からみあい、そして私の人生に実に深い
 意味を持っていたことに気づくのだ。
・私の人生のすべてのことは、そう、「ひとつだって無駄なものはなかった」と今にして
 思うことができる。ひとつつぃて意味のなかったことはなかったと思う。
 
・戦国時代の「荒木村重」という織田信長の武将の一人だった男に関する資料を読んだ。
 この男は今の阪神地方を領地として、信長のために一向一揆と戦ったり播磨地方の攻略
 を羽柴秀吉と共にやったが、やがて信長にたいして無謀な反乱を起こした。
・この男の資料を読んでいるうちに、信長という人物に仕えたら彼のように反乱を起こす
 のも無理はないと思うようになった。
・信長は現在の若い女性に人気があるようだが、現実に彼の所業を見、彼のそばにいたら、
 その横暴、冷酷に耐えられなかっただろうと思う。
・信長の家臣に対する操りかたは、「恐怖させる」ということだったが、部下を「恐怖さ
 せる」ような操縦術は決して長つづきしない。荒木村重は反旗をひるがえし、明智光秀
 も反乱を起こしてしまった。
・信長ら家来を恐れさせたが、畏れさせはしなかった。「恐れ」と「畏れ」とは根本的に
 ちがう。「恐れる」のは人間の恐怖が底にあるが、「畏れる」のは相手に対する尊敬が
 根底にある。

・死は公平だ。どんな人にも公平にやってくるからだ。
・死後の世界はあるだろうか、ないだろうかと考えなかった人はいない。死の門口まで行
 って甦生した人々の話を読むと、ある共通した体験がある。外国人のそれには滑り落ち
 ていく感じがあり、そしてやがて光に満たされる。その光は実に心地よく、やさしそ
 うである。また現実に病室が見え、自分をかこむ医師の姿、家族の悲嘆もはっきり目撃
 できるそうである。
・死の淵まで行って生に戻ってきた人はその後、死を怖れなくなるというが、その人たち
 が味わったその経験はいわゆる死後の罰とか制裁がないことを彼等に教えたせいかもし
 れない。
・いずれにせよ、死は思ったほど辛いものではなさそうだ。

・本当の宗教とは我々が「神も仏もないものか」と思った地点から始まるのだ。それが少
 しずつではあるが、私にもわかってきた気がする。逆にいうと、ある宗教を信じて、我
 々の具体的な願望をそのまま実現できたから、その宗教が本物だと必ずしも思わなくな
 ったのである。よくこの宗教を信じたから病気が治ったとか、癌から解放されたという
 話をきくが、私の宗教観は今はそれと合致しなくなったのである。
・神仏の智慧は我々の知をはるかに超えている。我々が「かくあれかし」と思っている以
 上に善いことが、「かくあれかし」の非実現によってもたらされるかもしれぬ。私は昔、
 長い病気をして三回手術を受けたが、今となってみると、その病気が私に与えてくれた
 ものは計り知れぬほど大きかった。生意気な言いかたを許してもらえるならば、私は病
 気があってよかったとさえ、今では考えている。

・信仰とは思想ではない。意識で作られる考えではない。信仰とは無意識に結びつくもの
 なのだ。たとえばマルクス主義は意識を軸とした思想だが、宗教とは思想ではない。そ
 の人の一番、心の奥底の無意識から出る心の叫びなのである。つまり本当の信仰とは合
 理主義や理屈をこえたものなのだ。
・イエスが復活したというと、多くの日本人はこれを甦生と混同して笑うのである。しか
 し復活とは甦生ではない。 
・復活とは我々が我々を生かし、我々を包んでいるあの大きな生命に戻り、そのなかで生
 きるということなのである。この大きな生命を仏教者も禅などによって体で感じている
 はずだ。そしてそれを悟りとよんでいるが、悟りを更にこえた生命体に参加することを
 復活というのである。

余白のなかの完成
・戦後の日本人に一番深く根差した考え方は、一種のプラグマティズム的な考えで、すぐ
 役立つか、役にたたぬかという実用主義、機能主義の発想である。だからたとえば戦後
 の東京の街をみても役にたたぬとみえるものは見捨てられるか、軽視されているのが実
 によくわかる。
・たとえば東京は外国の都市にくらべ、市民が憩う公園も街路樹も実に貧弱である。公園
 や街路樹は機能主義の東京にはそれほど重大なものではないからである。
・外国の都市では街路樹の整備に随分と金をかける。そのおかげで堂々たる樹が街にうる
 おいを与え、市民の疲れをとる。この「うるおい」が都市生活者にとってどんなに大事
 であり、深い役割をしているか承知しているからだろう。まさに無用の用なのである。
 そして無用の用が文化なのである。
・目先に役に立つことを追いかけるのは文明であって文化ではない。東京には文明はある
 が文化が乏しいのはそのためだ。 
・これは何も都市の問題だけではない。我々の人生にとっても同じことがいえる。さしあ
 たって役にもたたぬことの集積が人生をつくるが、すぐに役に立つことは生活しかつく
 れない。生活があって人生のない一生ほどわびしいものはない。
 
・現代への反省は人間性の喪失、機能第一主義、科学的合理主義ですべてを割り切れると
 いう傲慢など、色々な形で今、行なわれている。
・我々現代の日本人の心の奥にさえやはり宇宙の命おあらわれである花や小鳥をいとおし
 むなにかが働いている。それは我々日本人の根本にある自然観であり宇宙観であって、
 時代が変わっても決して消えないであろう。そしてこれを機能第一主義の現代が消そう
 とするならば、我々は孤独になり、ストレスを起こしてしまうだろう。よい意味でのア
 ニミズムを我々はもう一度、この生活のなかでとり戻すべきなのである。
 
・阿川弘之の小説「井上成美」は、戦争中の海軍という組織にあって、ともすれば目先の
 情勢に眼がくらみ、大局の見通しをあやまった軍人が多かった時、良識と信念とを失わ
 なかった一軍人の生涯を書いた作品である。
・おそらく、この作品が多くの読者を得たのは、組織のなかで信念を守りつづけた強い男
 のイメージが現代のサラリーマンたちの切実な願望になっているからだろう。しかし、
 実際、我々が大きな組織の属していて自分の信念を守るということは大変にむつかしい
 ことだろう。
・私が昔から小西行長という太閤秀吉の家臣の生き方に非常に興味を持ったのは、彼が井
 上成美とちがった形で自分の信念を守ったからである。
・その生き方とは、秀吉や秀吉を支える組織に外見は服従しているとみせかけながら、陰
 では自分の信念をひそかに実現しつづけるという巧妙な方法である。いわば面従腹背の
 この生き方は、秀吉が朝鮮を侵略した時に最も発揮される。
・井上成美の強い生き方は立派である。しかし私のように強くなれない者にとって小西行
 長の面従腹背の生き方は複雑な妙な魅力がある。

・胸に手をあてて一寸、考えてみると自分の人生では主役の我々も他人の人生では傍役に
 なっている。夜、ねむれぬ時、死んだ友人たちの顔を思い出し、俺はあの男の人生の傍
 役だったんだな、と考え、いい傍役だったかどうかを考えたりする。もちろん、女房の
 人生の傍役としても良かったのか、どうかをぼんやり思案もしてみる。
・本当の夫婦愛とは「女房に持ってみればみな夢」からはじまるのではなにか。表面的な
 美しさや魅力のメッキがはげて、当人の欠点やアラがわかってきたところから本当の夫
 婦愛がはじまるのだ。夫らが「女房に持ってみればみな夢」ならば、女房のほうは「亭
 主持ってみればみな夢」である。お互いさまというところだ。そして本当の夫婦とはこ
 の夢が破れたところに情味、情愛を感じ、それをスルメのように噛みしめてできるもの
 ではないのか。

・我々に欠点とみえるような心の傾きや性格もそのなかには何らかのプラス点がやはりか
 くれているのに、我々は欠点は欠点としてそれを捨てようとする。悪い性格は悪い性格
 とだけ限定してしまう。
・だから子供を教育する時、いかの多くの親が「その欠点をやめなさい」「その性格を治
 しなさい」と言うことだろう。しかしじっと観察しているとその欠点があればこそ、そ
 の性格があればこそ、その子がその子である場合が多いのだ。いや、欠点のなかにこそ
 実にその子の長所がひそかに眠っていることぐらいは、子供を観察した教師ならすぐに
 わかる筈だ。

・癌を告知すべきか、否かの問題が近頃、また、あちこちで論じられている。私は医者で
 はないが、自分なりの意見を持っている。答えは簡単だ。まず手術やその他で治る癌な
 らば、はっきり医者は患者に言うべきだ。しかし、私は癌告知の問題が今更、医師のあ
 いだで問題になるのは、西洋医学そのものの責任であるような気がしてならない。
・長いあいだ医学は人間の生理的な肉体だけを考えて発達してきた。したがって医学は肉
 体の死はすなわちその人間全体の死とみるようになった。患者もまた自分の肉体の死が
 生命の死、すべての死だと思っている。だから多くの医師は患者の肉体死を一週間でも
 十日でも延ばすため、人工的な延命をすることが正しいと考えて疑わない。だが、一週
 間や十日、生ける屍のように生きつづけて何の意味があろう。
 
生活の挫折は人生のプラス
・はっきり言おう。現代日本では役にもたたぬ老人を持てあましているのだ。それは今の
 日本では人間の価値を考えるのに「いかに役にたつか、たたないか」の尺度をもってし
 ているからだ。役にたつものは会社でも社会でも善、役にたたぬものは無用、現代日本
 の人間観は、この機能主義に変わってしまい、最近ますます強くなっている。
・そんな日本で税金を食い、家族の負担になる老人は過去に社長であろうが重役だろうが、
 ボケたり寝たきりになれば、マイナスの存在となる。大きなゴミに扱われるのだ。だか
 ら私の心にも戦後の延命医学のおかげでいつまでも生きることが果たして人間の幸福か、
 どうかの疑問がある。

・私は悲劇的でない時代が今まで人間の歴史にあったか、欠点のない時代が過去に存在し
 たかと思い、自分の生きている時代の悪さだけをあげつらう勇気がない。
・強いて言うと、六十六年間、生きてきた私にとって一番、よかった時代は戦後の五、六
 年間である。これからすべてが始まるという希望が社会にあった時。あの解放感、生き
 ている悦びを全身に感じた毎日。
・だがその五、六年がすぎた後、民主主義といわれたもののカラクリが次第にわかり、戦
 前と何も変わっていないことを感じはじめた。そして我々は宗教を失い、つまり人間の
 価値を機能主義の尺度で計るようになっていった。それでも今のところ、あの戦争中に
 くらべれば、まだマシだ。

・一日、五十〜六十人以上の患者を捌かねばならぬ開業医や大病院の医師はいわゆる「三
 分間診療」をせざるを得ない状況にあるし、それだけの患者に来てもらわねば現行の保
 険では医院や病院を維持できぬ場合も多い。だからお医者さまたちが充分な説明ができ
 ぬ事情はよくわかる。しかし事情はそれだけとは言えない場合がある。
・お医者さまのなかにはいまだに患者の質問を嫌う人がかなりいる。こうした扱いを受け
 た患者は傷つく。傷つく理由は叱られてということではない。そこには医師と患者との
 人間的コミュニケーションをぷっつりと切る何かがあったからである。
・たしかに患者は医学について素人である。しかし患者は素人でも素人がわかるように病
 気について説明してくれ、薬について説明してもらいたがっているのだ。それはこれか
 らの説明によってこそ自分が体をあずけるその医師を信頼できるきっかけになるからで
 ある。
・まず患者の心には自分のかかっている医師を信じたいという欲求があることを医療者側
 はなによりもわかっていただきたい。患者は信じることのできぬ医療者に体や命を托す
 ことはできぬ。その信頼欲求には当の医師の医術と共に人間的に信じられることも含ま
 れている。
・その条件として患者は自分の病気や治療方法に説明を求めるのだ。だがそれを冷たく拒
 絶される時、患者の信頼感は途端にうすれてしまう。相互の信頼感の希薄な医師患者関
 係では恢復がハカバカしくないことはよくあることだ。信じている医者がくれる薬はた
 とえにせ薬でも患者の病気を好転させる場合さえある。
・夏の病院ではカーテンごしに医師と患者の問診の会話が診察を持つ者の耳に聞こえてく
 る。そんな経験をお持ちの読者もおありだろう。あるいは裸体で診察を受けている診察
 室に担当医であない方が断りもなしに入室してくる。そんな例は日本の病院では珍しく
 ない。悪気ではないと知っていても患者たちにとってはこれは決して愉快なことではな
 い。愉快なことではないだけでなく、自分の病気や病歴を医師に正直にうち明けること
 にビビるようになる。
・この医師だけにうち明け、この医師がうち明けたことを無責任に他に漏らさないという
 信頼感があればこそ患者は自分の身内の病気や自分自身の病歴を言えるのだと知ってほ
 しい。
・多くの患者の診察時における注文や願望だけを調べてみても、今までの医療者が意外と
 悪気なく患者の気持に無知でいたことがよくわかる。それは私が常々言ってきたことだ
 が、長いあいだ日本の医学は患者心理をほとんど軽視していたことに原因があるのだ。
 
よく学び よく遊び
・男女間の恋と男女間の愛とはちがいます。
・極端に言うと恋心はちょうど食欲とおなじように努力などいらない。誰にでも起きる感
 情だと言えるでしょう。
・恋とは相手への盲目的な執着です。そしてその執着の炎は恋の苦しみによって、ますま
 す燃え上がるのです。
・彼に別の女性がいるのではないかと苦しんだこと。あるいは彼が遠くに転勤になってな
 かなか会えなかったこと。そういう苦しい時こそ彼に対する執着は更に強くなるものな
 のです。
・これは恋の炎を燃えたたせる油は、苦悩だということです。恋の苦しみはかえってあな
 たの情熱を烈しくさせるものなのです。そして逆にこの恋につくものの苦しみが失われ
 ると、恋愛は色あせていく傾向があります。
・恋愛は相手を美化する行為である。つまり恋愛では、本当の相手の姿を見る眼がなくな
 り、こちらで勝手に美化した別の彼に多かれ少なかれ恋しているのだということです。
 逆に向うも本当のあなたではなく、彼が空想したあなたに恋をしているのです。
・結婚生活では恋愛の時とはちがい、相手の顔をイヤというほど見られます。週に一回の
 デートが待ち遠しいなんてことはありません。
・また夫に別の女性ができるという不安がなくはありませんが、何といっても妻の座とい
 う確たる位置を持っているのですから、心の底に安心感があります。まして子供ができ
 ればその安心感は更に着実なものになります。つまり恋愛の時よりずっと苦しみ、不安
 が少ない状態になっているのです。
・必然的に夫婦間では男女の情熱は少しずつ色あせてきます。苦しみ、不安という油が少
 ないからです。これは水が低いほうに流れるのと同じように当然のことで、よく夫婦の
 倦怠期と言いますが、これはどの夫婦にも必ず起ることなのです。
・このように男女の情熱は消え、美化作用もなくなり、恋愛中とは違って、あの甘美さが
 まったく消滅している長い期間、夫婦が別の形で相手と新しく結びつこうと努力してい
 くことを私は「愛」とよびます。だから「愛」と「恋」とはまったくちがうのです。
・恋はだれにでもできます。しかし愛のほうは誰にでもできるというわけではありません。
・愛の第一原則は「捨てぬこと」です。人生が愉快で楽しいなら、人生には愛はいりませ
 ん。人生が辛くみにくいからこそ、人生を捨てずにこれを生きようとするのが人生への
 愛です。だから自殺は愛の欠如だと言えます。
 
すべてのものには時季がある
・戦後の傾向のひとつとして個性重視ということが言われてきた。今日でも一寸した人生
 雑誌をひろげると然るべき文化人らしい人が、「個性を大事にせよ」とか、「個性を生
 かそう」ということを強調している。しかし、私はこうした猫も杓子も口にする個性と
 いうものを人間のなかであまり尊重しなくなってきた。
・私は小説家だが、今ふりかえってみると、まずしいなから私だけの作風をやっとつかむ
 ことができたのは五十歳になってからである。しかし、その私だけの作風もふりかえっ
 てみると自分一人の個性でできたのではない。最初は先人の文章の模倣からはじまった。
・ひとつの果物が熟するためには大地の養分や太陽の光、農夫の助力など色々な力がそこ
 に作用しているのだが、それとおなじように私の曲がりなりにも文学とよべるものは多
 くの芸術作品のお陰を受けてやっと成立したものだ。
・それを私は恥ずかしいとは思わない。まして私の作風が無個性だとも思わない。いや、
 逆に私の個性が本物になるためには多くの影響が必要だったのだと思っている。言いか
 えると、私の個性を作る縁がより集まっていたと考えている。
・一人の人間の個性を創りだすためにそこに働いたあまたの縁がある。もしくはそのよう
 な縁を無視して、自分の独力で今日までこられたかどうか、自分の個性は自分自身で創
 りだしたかどうか、もう一度、考えてみると、そうではいことにすべての人が気づくだ
 ろう。
・仏教はこの世にあるものはことごとく絶対的ではないと教えている。絶対的でないとは、
 それ自体で独立して存在しているものは何もないということである。すべてのものは互
 いに支え合って、もたれあって存在しているから、何ごとにも絶態的な価値をおいては
 ならぬと説いている。支え合い、もたれあって存在している関係、それが縁の一つの相
 である。
・しかし、もう一つの縁の相があると私は思っている。それは縁のもつ神秘、ふしぎさで
 ある。そこには見通しや智慧の及ばぬ何かが働いている。そのふしぎに思いあたる時、
 この縁を大事にしたいという気持もおのずと湧いてくる。その気持には眼に見えぬもの
 に対する畏敬の感情もまじっているのだ。このことがしみじみと実感をもってわかるに
 は、「時節」がいるのだ。
 
・東京が巴里のように芸術的な都市とは誰も思わない。永井荷風が既に大正時代に批判し
 ているが正直いって日本の首都は世界のなかで最も非芸術的にして醜悪な都市である。
 その理由の幾つかのうち一つあげておく。
・それは東京が外国都市の醜悪なる部分の模倣にすぎないからである。群立するビルは日
 本の建築家の独善的な実験によって建てられている。心ある建築家を除く彼等の大部分
 は決して大きな都市感覚から建物を作るのではない。街全体の調和を考慮して設計する
 のでもない。彼等は自分の建てる建物のみに熱中し、その建物が隣の建物やその通りに
 調和するか、形や色がその通りを混乱させるのではなく引きたてるのかを一向に考えよ
 うとしない。彼等は外国で習ったり憶えたりしたことを東京で実験しているにすぎない。
 たとえその建物自身が華麗でも通り全体の色彩や形をかき乱し、醜悪にすることをまっ
 たく考えないのである。だから東京は近代化すればするほど醜悪になっていく。
 
・むかし美しかった日本のある風景、それが無残に破壊され、破壊されただけでなく、追
 憶をひき起こす一点もないまでに形を変えてしまっている。そんな経験を私は戦後、ど
 のくらい味わわされたことだろう。その一変した土地に立って茫然自失し、言うべき言
 葉を失ったことが、どのくらいあったろう。
・風景もまた子孫に残してやる財産である。
・この言葉を日本人はすっかり忘れてしまった。今日、我々がたのしむことのできた美し
 い風景を子孫は享受することはできぬ。しかしその点について日本人はまったく無神経
 になってしまった。
・昔の日本人は風景を作ることができた。だが今日の日本人は風景を作るかわりに風景を
 失うことに夢中なのである。仕方がないと言えば仕方がないかもしれぬ。国土狭隘なこ
 の日本では過剰な人間が生きるために形よい山をこわし、風雅な谷を埋め、みどりの木
 を切り、清冽な皮を埋めるより仕方ないかもしれぬ。しかし、もし風景を子孫に残す気
 持があれば、何らかの秩序をそこに考慮してよい筈であり、何らかの方法を思案して然
 るべきである。だが考慮も思案もなく山は消え川は埋まっていく。