「いい人」をやめると楽になる :曽野綾子

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 現代は人間関係で疲れている人が多いみたいだ。昔と比べると、人と人とのつながりが薄くなって
きているはずなのに、人と人との関わりで疲れてしまうのは、どうしてなんだろうと思うことがある。
一つには、それだけ人間関係が複雑になってきたことが原因かもしれない。それと、できるだけ周囲
の人に嫌われたくない、周囲の人に悪く思われたくない、という気持ちが強くなってきているからな
のだろうか。周囲の人から嫌われたくない、悪く思われたくない、つまり「いい人」でいたいと思え
ば思うほど、自分の心にいろいろな重荷を背負うことになる。そしてやがてはその重荷によって、身
動きがとれなくなってしまうことになる場合もある。人間関係に疲れてしまうのである。この本は、
そんな人にオススメの一冊である。この本では、無理に「いい人」を演じなくてもいい、あるがまま
の自分でいいのだ、と説いていて、読むと心の重荷がスッと取れる感じがする。

まえがき
 ・若い時には、人は多かれ少なかれつっぱっている。いい顔を見せたい。あんまりばかだと思われ
  たくない。私はそれを向上心というのだろうと思って来たが、年を取るに従って、それもうそ臭
  く思えて来た。
 ・日本で生きることというのは、選択を伴ったものである。しかし私は途上国を歩いているうちに、
  生きることには選択もできない場合が多いことを知った。夕飯に食べるものがなければ、人はど
  うするか。盗むか、乞食をする他はないのである。どちらもあまりいいことではない。しかし乞
  食をすることも盗みをすることも悪いとなると、国中貧しくて産業はなく、飢饉に襲われた土地
  ではどうして生きて行ったらいいのだ。
 ・日本では、いい人の反対は悪い人だと多くの人は思っている。しかし現実には、いい人でも悪い
  人でもない中間の人が、人数として八割に達するだろう。私もまた、その中の一人、と思うとほ
  っとして楽しくなる。
 ・日本人は勉強家で優秀な人が多いのに、考え方が幼児化するのは、黒か白かでものごとを片づけ、
  その中間の膨大な灰色のゾーンに人間性を見つけて心を惹かれるということがないからなのかも
  しれない。
 ・私がいい人をやめたのはかなり前からだ。理由は単純で、いい人をやっていると疲れることを知
  っていたからである。それに対して、悪い人だという評判は、容易にくつがえらないから安定が
  いい。いい人はちょっとそうでない面を見せるだけですぐに批判され、評価が変わり、棄てられ
  るからかわいそうだ。

人はみな、あるがままでいい
 ・人はお互いのやることを、むしろ笑いものにしながら、友情を保つ。ただその人の中に一点秀で
  ているところがあれば、そしてそれを見つける眼力がお互いにあれば、友情は続くのである。秀
  でているところ、などと言うと、また世間はすぐに常識的なプラスの意味でしか考えない。しか
  し世間は複雑で、秀才でなく凡庸、協調でなく非協調、勤勉でなくずぼら、裕福でなく貧困、時
  には健康でなく病気すら、その人を創り上げる力を持つ。
 ・人が「出社拒否症」や「帰宅拒否症」になるのは、簡単な理由からだ。つまり原因は、ただただ
  その人が勝手に持つことにした向上心のせいなのである。向上心があるからこそ、職場では立派
  な業績を上げようと頑張り、家庭ではいい父親や知的な夫を演じようとする。だから職場は絶え
  間ない緊張の場所になり、家庭でも息が抜けずに疲労が重なることになる。出世など考えず、
  人の侮辱も柳の風と受け流せば、職場も辛い所になりようがない。家に帰れば風呂に入って鼻歌
  を歌い、いそいそと飲んだくれて低俗といわれるテレビの番組を眺め、後は雄と雌になる時間を
  持てば、心は休まるはずであった。それができることこそ、才能というものなのである。あるい
  は、家に帰ってほんとううちこむ趣味道楽があれば、家は秘密の快楽の場所になる道理であった。
 ・生きている間だけ、私は少し人より勝手なことをさせてもらった。おかしなことを考え、不思議
  な土地への旅をし、しなくてもいいことをたくさんした。しかし死んでまでまだ存在を誇示した
  い気分はまったくない。死んだ後のことを私は何一つ望まない。死んだ後はきれいさっぱり忘れ
  られるのがいいのである。肉体が消えてなくなったのを機に、要するにぱたりと一切の存在が消
  えてなくなるようにしてほしい。考えてみると、人から忘れ去られる、というのはじつに祝福に
  満ちた爽やかな結末である。
 ・何がなくちゃだめだ、とか、誰がいなくちゃいけない、なんて思うのは、間違いだ。何がなくて
  も、誰がいなくても、人間は何とかやって行くんだから。ことに自分がいなくなったら大変、な
  んて思うのは大間違いだ。そんなことを思うから、威張る人が出てくる。
 ・私とその人との友情に支障がないのは、私たちがお互いに、「あるがまま」を許容して、相手の
  本質の部分を本気で批判したり、拒否したり、冒したりしないからだと思う。つまり私たちがお
  互いが一致する部分で付き合い、相手が不得意とする分野や体質的に合わない部分には、けっし
  て相手を引きずり込まない、という礼儀を守って来たのである。
 ・特別な人を除いて死は家族のものである。葬式は家族の行事である。ましてや長生きして、社会
  から引退していた人の死は、密かに静かにあるのが、私は好きだ。しかし死の後始末は、その家
  の好みによっていかようにもすればいい。
 ・日本ではいい人はどこから見ても傷のない人であるべきなのだ。栄誉ある軍人墓地に葬られる人
  は、終生正しい人手なければならない、という感覚をもっている。
 ・他人を全体的に理解することはほとんど不可能だ、という認識があると、社会や人生を、部分的
  に評価して、過不足ない現実を掴む。しかしその人の道徳性などで判断すると、人間の全体像は
  ますますわからなくなる。
 ・よくわからないが、うまく行かない相手とは何も無理をすることはない。どこでもいいから、ウ
  マのあう会社を見つけてそこと仕事をすればいい。
 ・すべての人に正当に理解されようと思うと無理が出る。たまたま気心が合う者同士で、どうにか
  何かをやっていけば、そのうちにメデタク終わりが来るのである。
 ・相手がすぐ、こちらの思い通りにしてくれる、などと期待すると始終怒っていなければならない
  から、すべてことは成りゆきまかせ、と初めから思い諦めたほうが、こちらの神経が疲れずに済
  む。
 ・人間には醜い心があるから、他人の不運も時には楽しいものである。だから、自分が失敗した話、
  女房にやっつけられた話、自分の会社がどんなろくでもない所かというような愚痴をこぼすこと
  は、聞く相手にそこそこの幸福を与える。
 ・人生の半分を生きて、これから後半にさしかかると思うと、好きでないことには、もう関わりた
  くない、とつくづく思う。それは善悪とも道徳とも、まったく別の思いであった。1分でも1時
  間でも、きれいなこと、感動てきること、尊敬と驚きをもって見られること、そして何より好き
  なことに関わっていたい。人を、恐れたり、醜いと感じたり、時には蔑みたくなるような思いで、
  自分の人生を使いたくはない。この風の中にいるように、いつも素直に、しなやかに、時間の経
  過の中に、深く怨むことなく、生きて行きたい。
 ・友達をいい人か、悪い人か、に分けているうちはだめなのだ。いい人は多いが、すべてにおいて
  いい人というのもないものだ。悪い人もたまにはいるが、ほんとうに悪い人、というのもごく小
  数だ。ただ趣味が合わない人がいて付き合えない場合もあるが、それは、相手が悪いのではなく、
  生き方が違うだけのことだ。
 ・努力家という人は、ほんとうは困った存在だと思う。怠け者を自覚している人は、自分にも他人
  にも会社にも社会にも負い目があるから、けっしていばらない。その結果、自分の本質と評判が
  かなり一致する。しかし努力家は、自分は正当なこと、立派なことをしていると思い込んでいる
  から、他人にも自分と同じようにすること、他人が自分に感謝と称賛を送ることを、必ず心の中
  で要求している。

性悪説のすすめ
 ・腐りかけた果物、心が病んでいる人間は社会や周囲に往々にして迷惑をかけるが、しばしばすば
  らしい芳香を放つのである。もちろん常識的に言えば、果物は腐っていないほうが、人間は心が
  病んでいないほうが始末がいい。しかしその腐りかけの部分がないと、人生の芳香もない。それ
  が、文科系の人間のものの考え方の特徴なのである。
 ・人は誰でも自分の生き方を自分で選ぶ他はなかった。もっともそれでも運というものがある。め
  ちゃくちゃな生き方をしても、どうにか生きていく人もあり、用心に用心を重ねていても、嘘の
  ような事故に遭う人もいる。
 ・私たちは人を尊敬する時にも深く感動して快楽を味わうが、時には人を侮辱することでつまらな
  い自信をつけ、精神の風通しをよくすることもある。つまりほんとうは人間というものは誰でも
  五十歩百歩なのだが、自分の中にある醜い情熱を人が代行してくれると、安心してその人を侮蔑
  することができる。そういう事件が起きると、だから人は大喜びするのである。
 ・「ほどほど」という形容詞がつく状態ほど、愛や許しを思わせるものはない。ほどほどの自信、
  ほどほどの貧乏あるいは豊かさ、ほどほどの挫折感、ほどほどの誠実、ほどほどの安定、ほどほ
  どの嘘、ほどほどの悲しみ、ほどほどの嫌気、ほどほどの期待または諦め、すべて人間を深く、
  陰りのある、いい味と香のする存在にする。そのような人は、人間の分際を知った判断をするか
  らである。
 ・生きるということは、これまたほどほどに人を困らせることでもある。ほどほどに大地を汚し、
  森を荒らし、水と空気を汚染し、ほどほどに他人の受ける便利や幸福の分け前を、力で収奪する
  ことである。その疚しさをほどほどに減らそうとする時、初めて人間は少しのことを考える行動
  を取れる。
 ・冗談でも不真面目なことは許さない、という人もいるが、私は口だけなら、できるだけ不真面目
  でいたい、とずっと思ってきた。そのほうが精神が健康になるのである。
 ・寛大についても、暖かい心で人を許す人もたくさんいる。しかし総じて私たちは誰も意地悪なの
  である。とすると、相手が自分の思い通りにならない時、私たちはその人を苛めるという手に出
  る。しかし少なくとも、相手が大して眼中になければ、相手の非や能なしぶりを責めることもな
  い。
 ・正しく相手の言ったことを記憶するなどということ、正しくその時の状況を把握するなどという
  こと、正しく他人の心理を理解するなどということは、ほとんど不可能と思ったほうがいい。
 ・あれほど強く、現世はろくな所でない、と思ったおかげで、私はその後、それよりはるかにまし
  な世界を見た。すべてのものは比較の問題なのだ。私が拒絶的に冷たく考えていたよりもはるか
  に人の心は温かかった。ほとんどすべての人の中に驚くばかり多彩な才能が隠されていた。そし
  て何より、悪いことばかり常に期待していると、運命はけっしてそのようにはならないのも皮肉
  だった。悪くて当然と思っていると、人生は思いの外、いいことばかりである。しかし社会は平
  和で安全で正しいのが普通、と信じ込んでいると、あらゆることに、人は不用心になり、よくて 
  当たり前と感謝の念すら持たないようになり、自分以外の考え方を持つ人を想定する能力にも欠
  けて来る。
 ・人間は、ある部分は隠せても、全部を隠しとおすことはできない。むしろ、自分の中にある醜い
  部分、嫌らしい部分をはっきりと意識して、そのことに悲しみを持つ時、自然、その人の精神は
  解放され、精神の姿勢もよくなる。
 ・片隅に生きるということはほんとうにすばらしいことなのだ。悪の影響は薄まり、思い上がると
  いうことなく済み、かつ、基本的な自由を謳歌できる。自由のない生活など、人間の基本的な幸
  福さえ拒否されているということだ。
 ・ささやかな悪行が、ささやかにできる場所にいないと、人間は囚人になってしまう。
 ・最悪の人間関係は、お互いに人の苦しみには関心がなくて、自分の関心にだけ人は注目すべきだ
  と感じることである。反対に、最高の人間関係は、自分の苦しみや悲しみは、できるだけ静かに
  自分で耐え、何も言わない人の悲しみと苦労を、無言のうちに深く察することができる人同士が
  付き合うことである。
 ・およそあらゆる人間の上下関係はかりそめのものである。だから、そんなものは本来、本気にな
  って信じなくてもいいことなのである。
 ・その時々において、人間は、気楽に楽しんで、上下関係を承認できるくらいの「大人気」があり
  たい。なぜなら、間違った平等意識こそ紛争のもとだからである。というのは、完全な平等とい
  うことは、神の前以外、いかなる動物社会にもないことなのである。
 ・勝気で、他人が少しでも自分より秀でていることを許せない人は、自分の足場を持たない人であ
  る。だからいちいち自分と他人を比べて、少しでも相手の優位を認めない、という頑固な姿勢を
  取ることになる。
 ・人間は誰でも、自分の専門の分野を持つことである。小さなことでいい。自分はそれによって、
  社会に貢献できるという実感と自信と楽しさを持つことだ。そうすれば、不正確で取るに足りな
  い人間社会の順位など、気にならなくなる。威張ることもしなくなるし、完全な平等などという
  幼稚な要求を本気になって口にすることもなくなる。
 ・人間はいいことだけをして生きているわけではない。それどころか、いい加減にその場その場で
  お茶を濁してこそ、生きていけるのだ。
 ・当時から私は、適当にだらしがないことは、一つの大切な知恵だと感じていた。私の育った家が
  不和だったのは、父が厳密な性格だからであった。だから私は、「明日できることは今日しない」
  ことで自分に引け目を感じ、他人に対して寛大な人になりたいと考えた。
 ・私はものの考え方は不純がいいと思う。むしろ小さなことで不純を許すほうがいいと思う。人間
  には、自分を疚しく思う部分が必要だ。自分が正しいことしかしてこなかった、と思うような人
  になったら、周りの者が迷惑する。自分の内面や美学や哲学には不純であってはならないけれど、
  生きていくための方途については誰も理想どおりにはやっていないのだから、その誤差をおおら
  かに許せる人のほうが好きなのである。

失礼、非礼の領域とは
 ・友情に関しても、自分がまだ相手をほんとうに知っていないと思うこと。これが友情の基本だと
  いう気がします。どんなに親しい友人であれ、自分はあの人を知っていると思うことじたいが恐
  ろしいことですし、非礼でもあるのです。
 ・結婚というシェルターみたいなものの存在を充分に利用しながら、浮気という禁断の木の実もお
  いしい、というような甘えた男女が私はどうも好きになれない。夫以外の男との浮気はどうして
  心を震わすのだろう、などと聞くと、そんなことしにしか心が震えないんですか、と聞き返した
  くなる。ささやかな人間関係の信頼に応えない人生は、基本のところですばらしくもないし、ド
  ラマチックでもないのである。
 ・人に印象なんか聞くものではない。すぐ返ってくるのはお世辞だけだ。それに、よそものにその
  土地の魅力なんか簡単にわかるわけがない。褒めたとしたら、その土地の持つ毒を知らないから
  だし、反対にその土地に悪い印象を抱いたとしても、普通の外来者はけっしてそんなことを口に
  しない。
 ・皆が平等に、いっしょに、という発想は不可能なことだ、と私は思っている。人間にはお互いに
  馴染めない生き方や考え方をする人というものがある。しかしだからといって相手が邪魔なので
  ない。お互いに侵さず侵されず、相手の生活をきっちりと幸福に守らなければならない。
 ・世の中には、対等に見られるのが嫌いで、自分はいつも一段相手より上でなければ気がすまない
  と感じる人や、すぐに僻んで相手は自分をばかにしていると思う人がいるが、どちらも私には重
  荷である。何より爽やかでおもしろいのは、お互いにささやかの欠点はあるが、あくまで対等と
  信じ込んでいる関係である。
 ・体の悪い高齢者を働かすのは気の毒だが、体の健康な老年に働いてもらうのは少しも悪くない。
  年を取ったら、遊びの旅行をしたり、のんびり友達と付き合ったりするのが当然で、働けないな
  どというのはもってのほかだと考える人にも認識を改めてもらわねばならない。状況が変わるの
  が人生というものだろう。今はそう考えねばならない社会情勢に変わってきたのだ。青年だろう
  が老年だろうが、社会の変化の波を受け、それに対応しなければならない、という基本原則に変
  わりはない。
 ・人間は、その人の体力に合う範囲で、働くことと遊ぶことと学ぶことを、バランスよく、死ぬま
  で続けるべきなので、もうアメリカ式の引退したら遊んで暮す、という発想は時代遅れだと思う。
  そして当然のことだが、できればただ自分が生きるため以上に働き、つまり人の分も生産する働
  き、をしたほうがいいと思う。
 ・私の小さい頃、母たちの世代はよく遠慮したものだった。今では遠慮するなどということがない
  から、もうどういう時に遠慮をするものかさえ、わからなくなっている世代も多いだろう。しか
  しそれとなく、人にあまり面倒をかけず、邪魔をしないように配慮するということは、日本人に
  独特の能力で、それはやはり一種のみごとな精神性の表現だったような気がする。
 ・外国では、せめて語学が達者で、おしゃべりをさせれば知的な会話に参加でき、自分自身の人生
  をしっかり歩いてきたという風格を持っていれば、太っていて美人でなくても、いささか年をと
  っていても、小柄でやせていて貧乏風の服装をしていても、皆注目する。しかし、黙っている人
  は、何より内容空疎なつまらない人と思われる。
 ・色気というと、日本人の多くは、セックスの話をすることだと思っている。それほど日本人はそ
  の点について教養も貧弱なら、教育も悪いのである。色気の基本は、相手に関心がありますよ、
  という気持ちであり、それを態度で示すことである。現実にはそうでなくても、男も女も礼儀と
  して、相手に関心がありますよ、と言い続けなければならない。関心ということは、これまたセ
  ックスの問題ではない。「あなたとお話することは楽しいことです」ということなのである。
 ・日本人は信仰や宗教について、恐ろしく鈍感で無礼である。そのようなものは科学的態度に反す
  る無知なものだから、少々否定的に無視しても当然という感じである。しかし信仰や宗教ほど怖
  いものはない。人が時には命よりも強いよりどころとしているものを、いい加減に扱うというこ
  とは、その人に対する非礼だし、そのような不用心な感覚で国際化などできるわけがない。
 ・信仰や宗教だけでない。私たちは恐れを知る者でなければ人間を理解できないし、若い世代を、
  恐れを知る者に教育しなければならないのである。もちろん恐れを知るということは、相手の言
  いなりになるということではない。しかし違いの存在を骨の髄まで知ることである。
 ・家族にも友達にも裏切られないで過ごせた、ということは、ずばらしいことだ。それだけで、人
  生は半分以上成功している。言葉を替えれば、家族を裏切らなければ、それだけでその人は、数
  人の家族の心を不信から救ったのである。どんなに立身出世しても、家族を不信に叩き込んでお
  いて、人生が成功することなどあり得ない。

「与える」ということ、「与えられる」ということ
 ・人と違って特別だということは、有名にもなるしいいことのように見えるが、当人からすれば、
  平凡ほど偉大な幸福はない、と感じているだろう。
 ・「受けるよりは与えるほうが幸いである」というイエスの言葉が聖パウロの口から伝えられてい
  るが、この精神は戦後の日本でまったく教えられて来なかったものであった。戦後の教育は「要
  求することが、人権だ」という立場に立っていて、それが、人々の心を貧しくしたのである。与
  えるほうが礼を言うという人間関係を、私はこの時教えられたのであった。
 ・先進国における社会福祉制度の普及は、そうした人間の基本的な優しさを消した。そして経済的
  な保障が、国家や社会機構によってなされればなされるほど、先進国の人の心は痩せて貧しくな
  った。私たちは物質的に豊かになると同じ速度で心が貧しくなった。この皮肉な相関関係を私た
  ちは充分に認識して危惧すべきなのだが、その点はほとんど気づかれていない。

「いい人」をやめるつきあいかた
 ・世の中には、良心的で厳密な人ほど神経症にかかります。他人はたぶん自分のことをよく思って
  いないだろうと、人嫌いになります。失敗や手抜きを自分に許さないと不眠症になります。他人
  に愛されないことも悲しいことです。しかし自分にとりたてて悪意がないなら、他人の悪意を甘
  んじて受けるほかない、とこの頃は思うようになりました。一人の人に憎まれても、別の一人に
  好きになってもらえる、ということも、世の中にはよくあることですから。
 ・人間の中には、必ず排他的な心理がある。人はかならず誰かに好かれ、誰かに嫌われる。それを
  いちいち気にする必要はあまりないように思う。嫌われている人の心はあまり乱さないほうがい
  いからそれとなく遠ざかり、自分と気が合うと言ってくれる人と感謝して付き合う。それが自然
  ではないかと思う。嫌う相手に好きになれ、と強制するほうが私は惨めで浅ましくていやだ。
 ・誰でも自分の評判というものは気になるものだ。しかし評判ほど、根拠のないものはない。私以
  外に私のこまかい事情を知っている人はいないのに、その知らない他人が私のことを言っている
  のだから、評判が正しいはずはないのである。それでいてその評判に動かされる人が多い。世間
  というものが眼に見えない力で圧力をかけるのである。
 ・人は他人のことを、正確に理解することはできない。これは、宿命に近いものである。だから人
  間は、正義や公平や平等を求めはするが、その完成を見ることは現世ではほとんどない。それを
  いちいち怒るような幼い人になると、一生それだけで人生を見失うのである。
 ・六十の定年を過ぎたら、いや六十五で老齢年金をもらうようになったら、いや七十を過ぎたら、
  (つまりいくつからでもいいのだが)もう浮世の義理で何かをすることからは、一切解放すると
  いう世間の常識を作ったらどうだろう。もう人生の持ち時間も長くないのだし、健康に問題が生
  じても当然の年だし、義理で無理をすることはない年なのである。
 ・ただおぼろげながらわかることは、外国では、人は自分と考えが違うものだ、と誰もが思ってい
  ることだ。人が違うのだから、考えも違って当然である。しかし日本人はそうは思わない。違う
  ということは、反道徳的なことになる。つまり多くの人は自分が正しいのだから、正しいものの
  反対は悪いものだということになる。
 ・それが正しいと思ったら、人は密かにそれをやり通す他はない。他人の承認が得られないから悪
  いことだろうと思う必要もなければ、人のしないほどいいことをしていると思う必要もない。つ
  まり、対人関係というものは、定型も規則もないのである。
 ・私よりもっと幸福な人もいるだろうけど、もっと不幸な人もいるだろう、と当たり前のことを考
  えていた。もっと不幸な人に比べると私の幸福は感謝しなければならなし、もっと幸福な人と比
  べると私のほうが人生を知っている、と思うことにした。
 ・会いたい人に会えるかと思うと、心が躍る。人に会うことがこんなに嬉しい人間もいるのに、世
  間には対人恐怖症になる人もいるという。その理由は、いくつもあるだろうが、人によく思って
  もらいたいという不自然な期待と、功利的な目的で会いたくない人にも会わされるからだろうと
  思う。

品性が現れるとき
 ・人を侮辱するという心情というものは、必ずと言っていいほど弱い性格に起因している。つまり
  自分に引け目があるから威張るのだ。相手をばかにして見せでもしなければ、自分の存在がじつ
  は希薄なのを知っているのである。この力学的原理は、昔から今まで少しも変わらない。
 ・友情の妨げになるのは、思い込みです。じつはその人の行動にも心理にも、他人にはわからない
  裏がある、ということがわかれば、人間はけっして極端な判断には到達しないものです。
 ・品位というものは、比較的地味な服装からにじみ出ることが多い。金とか、赤とか、紫とかいう
  色は、人目を引くことが多いが、そのような色を上品に使うのはなかなかむずかしい。
 ・現在、人間は関心を持つのは、風評であり、評判であり、金であり、時にはただ何でもいいから
  有名になることなのだ。どんな行動でも、立居振る舞いでも、道徳の範囲でも、世間がやるなら
  やっていいのである。その結果、じつに薄汚い主婦の売春とか浮気とか万引きとか、学生のヌー
  ドモデルとかAV出演とかが、名前を隠せばいいほうで、時には堂々と本名で披露される。人が
  するからいい、のではないのである。人がしてもしないし、人がしなくてもする、というのが勇
  気であり、品位である。
 ・人がいっせいにあることを口にするような時には、すでにそこにいささかの流行と誇張の部分が
  発生したと見なして、私は自動的に用心するようにしている。
 ・正確に言えば私たちすべてが仮の姿で生きている。子供を失えば私たちは父でも母でもなくなる。
  先生と呼ばれるのは教室の中にいる時だけで、知らない町ではただの男か女である。選挙で落選
  すれば代議士ではなく、退官すれば裁判官でも詐欺師に間違えられる。仮の姿である自分をいつ
  も認識して生きるほかはない。その意識が謙虚さにもなれば、感謝にも笑いにも自由な精神にも
  なるのである。
 ・たぶん私たちがほんとうに困った時に、助けてくれるのは、けっして経済的に余裕のある人でも
  なく、権力者でもないのです。それは、苦しみと悲しみを知っている人、なのです。
 ・健康は他人の痛みのわからない人を作り、勤勉は時に怠け者に対する狭量とゆとりのなさを生む。
  優しさは優柔不断になり、誠実は人を窒息させそうになる。秀才は規則に則った事務能力はあっ
  ても、思い上がるほどには創造力はなく、自分の属する家や土地の常識を重んじる良識ある人は
  けっしてほんとうの自由を手にすることはないのが現実である。いかなる美徳と思われているこ
  とも完全ではないことを知ると、人は何をやっても、自分が百パーセントいいことをしている、
  という自覚を持たなくなる。それが大切なのだ。
 ・生きる人の姿勢には大きくわけで二つの生き方がある、と私はよく思うのである。得られなかっ
  たものや失ったものだけを数えて落ち込んでいる人と、得られなくても文句は言えないのに幸い
  にももらったものを大切に数え上げている人と、である。
 ・最後に残すべき大切なものは「愛」だけだといったら、また歯の浮くようなことを言うと嫌われ
  そうだが、死ぬ時に、人間としてどれだけ贅沢な一生を生きたかは、どれだけ深く愛し愛された
  かで測ることになる。愛は恋愛だけではない。男女の性の差も、身分を超えた、関心という形を
  取った愛の蓄積である。それ以外のものは大地震の時の陶器のようにぶっ壊れる危険に満ち満ち
  ている。
 ・確かに人生では、脅しがきくこともないではありません。しかしそれよりもっときくのは、自分
  が見守られている、支持されているという実感です。友達も親も兄弟も自分を信じて期待して待
  っていてくれる、と思う時、さぼっていた心も奮起するのです。
 ・人は少し貧しく、少し閑であることが必要なのだろうか。そうでなければ、どのような優しさも
  示すことができない。日本人は誰もが時間的に忙しいので、私はこの手の基本的な優しさを見る
  ことがめったにないのである。忙しさを誇るなどというのは、思い上がりもいいところなのであ
  る。
 ・男との間の危険を避ける方法を知るべきだ。しかし危険な関係になってもいいと思ったなら、自
  由な女性として、敢然と、自分の責任において、冒険を楽しめばいいことである。しかしその結
  果を、セクハラを受けただの、偽証を要求されただのと言うのは最低だ。女のもっとも嫌らしい
  女らしさが出た話である。こういう女性が、男女同権の足を引っ張っているのだと私は思う。
 ・生活を、辛い義務と思えば辛いだろう。しかしおもしろい、と思えばやることはいくらでもあり、
  うまく行った時は、かなり贅沢な思いにもなれる。義務を趣味にする魔法である。
 ・ことに男性が、一人では何も暮らせないようになっている状態こそ、残酷なものだ。昔風の、男
  子は厨房に入るものではない、などという思想は、ほんとうに困ったものである。人は男であろ
  うと女であろうと、基本的には一人で生きて行かなくてはならない。それができない人は、「自
  由人」ではなく、一人になったらどうしようかという恐怖に捉えられている「不自由人」である。

代価を払ってこそ手に入る関係
 ・何をするにも、人間はその代価を払わなければならない。新しい愛ができたなら、そのことを詰
  られ、辛い目に会い、世間から糾弾され、後ろ指を指されても、その愛を全うする。それだけの
  ことができるなら、私は離婚しても、神に対して自分の新しい愛を公然と顔を上げて報告できる。
  しかしこっそりと浮気するくらい、薄汚いことはない、というのが私の感覚であった。
 ・今はすぐに「知る権利」ばかり言われるが、個人にも組織にも「知られない権利」と「知りたく
  ない権利」とは依然として残っているだろうと思うのだ。その点については、誰もほとんど言わ
  ないのが不思議なのである。
 ・人脈などというものは、それを利用する気がなければ、ほとんど必要ないものなのであろう。そ
  れを手づるに商売したり、政治家といて票を集めたりすることにでもなれば、確かに人脈と呼ば
  れるほどのものがいるかもしれない。しかし私たちが、市井の一隅で、普通に自分の力だけを頼
  んで生きる分には、とくに人脈など要りはしない。子供はその成績に応じた学校に入り、その年
  の経済によって多少運・不運はあるだろうが、ほどほどの会社に自分の力で就職もできるであろ
  う。大会社には、大会社のよさがあるだろうが、私の周囲にはまだ大会社など入らなかったため
  に、伸び伸びとした人生を送れた人というのもたくさんいる。

どうすれば他人の生き方が気にならないか
 ・他人の暮らしはすべてすてきに思える。しかし皆ほんとうの生活を覗けば、円満でも、大した幸
  せでもない。
 ・他人の生き方がきにならないためには、自分の生き方が、確実な選択のもとにある、という確信
  が要ります。べつに正しい生き方をしているという絶対の自信を持てということではありません。
  こう生きるより仕方がない、という程度の見極めでいいのです。たとえ貧乏をしていても、たま
  たま裕福であっても、その人にとってよく合った暮らし方というものはそうそう多いものではあ
  りません。自分にとっていい生き方というのは、けっして他人と同じに生きることではないので
  す。おもしろいことに、自分の生き方についても年齢によって考え方が違って来ます。もしその
  時々で、私たちがだいたいにおいて納得した暮らしをすることができているなら、それは、最高
  の生活をしていることになります。
 ・自分の生き方や進む方向を、他人や、組織や、社会や、国家に決めてもらおうとする姿勢ほど危
  険なものはない。自分一人で生きることが、生命の危険を招くような状況では、徒党を組まなけ
  ればならない場合も生じるかもしれないが、内なる戦い、というものは常に一人で闘うべきもの
  だと、大人は青年たちに教えなければならないのである。
 ・それが何であるかわからないことに関しては、私たちは口を噤むという礼儀がいる。人は自分の
  好みだけをしっかり持ち、その範囲で発言し生きるだろう。その好みを静かに守り、その好みで
  相手を冒したり冒されたりしなうようにすることだと思う。しかしこのルールを守るためには、
  静かな理性と、何より双方に勇気が要ることを、若者たちに自覚してもらう必要がある。
 ・自分に自信のある人は、他人がどう言おうとほとんど問題ではない。他人の批評など、おまんま
  の足しにもならないものなのだ。人は、他人にも理解されるように努めるべきだが、他人から理
  解されなくても、ほとんど何の痛痒も感じなくて済むべき部分を持っているはずだ。
 ・規則というものは、ほんとうは自分に厳しく、人には甘く、という二重適用ができるくらいの含
  みがあるべきだと私は密かに思っている。もちろんそれができなくても、少しも悪人ではないけ
  れど、心が成熟していず、温かみもない人が多いのが現実のように思う。
 ・自分の職業上、それが正しくないと思ったら、仕事も地位も捨てて筋を通すのが人の正当な生き
  方である。その結果、自分の父や夫が今までの肩書を失って、一生まったく思ってもみなかった
  境遇に甘んじようとも、私ならそれを誇りに思う。命を取ると言われたら、それは踏み絵だから、
  臆病な私は信仰を捨てて相手の言いなりになりそうが気もするが、出世ぐらいなら簡単に諦める。

憎しみによって救われることもある
 ・日本人の多くは、ほんとうに人を憎んだことがない。これほど自分の人間愛を立証することが好
  きな人たちは事実そうなのだろう。しかしほんとうに憎んだことのある人でなければ、ほんとう
  の愛の立地点もまた見出し得ない、とこの頃思うようになった。憎しみも薄く、愛も薄いなどと
  いう生き方を、私はどう評価していいのかわからないのである。
 ・人間は辛いことがあっても、楽しいことがあれば、みごとに心を切り換えて生きていくことがで
  きる。付き合いの世界が拡がれば、特定の人の「毒」を強く感じずに済む。自分の運命を客観的
  に見ることができるようになるし、自分を痛めつける人に対しても自然に寛容になる。

人は誰の本心も本当はわからない
 ・人間は他人を語ってはいけない。それは無責任なものなら「噂話」となり、やや慎重なものなら
  「伝記」になり「追悼記」「思い出の記」になる。しかし私はこのどれも、信じない。人は共に
  生活したことのない他人の心の内などを正確に書けるわけがない。

愛から離れた親にならないために
 ・子供に要求されると、専用の部屋、空調設備、携帯電話、トレンディーな小物など、何一つ買う
  ことを拒否することのできない親たちこそ最低の親なのである。英国では今でも子供に困苦を耐
  えさせる伝統はあるそうだ。
 ・最近の学校では、希望はしきりに教えるけれど、運命の限界は教えない。昔は運命の限界なんか
  毎日の生活の中でいくらでも見られた。家庭には老いて死んでいく祖父母がいたし、結核のよう
  な死病といわれた病や、今日食べるものもない貧困などを、救ってくれる組織もなかった。しか
  し今では、社会に救済の制度ができているから、病気が放置されることも飢え死にすることもな
  く、人の生涯の基本的な姿はいよいよわからなくなる。
 ・運命や絶望を見据えないと、希望というものの本質も輝きもわからないのである。現代人が満ち
  足りていながら、生気を失い、弱々しくなっているのは、たぶん、絶望や不幸の認識と勉強が足
  りないからだろう。
 ・死を前にした時だけ、私たちは、この世で、何がほんとうに必要かを知る。私たちは日常、さま
  ざまなものを際限なくほしがっているが、もし明日の朝には世界中の人類が死滅する、というこ
  とになった時には、誰もがいっせいに、今まで必要と信じ切っていたものの99パーセントが、
  もはや不必要になることを知るのである。お金、地位、名誉、そしてあらゆる品物。すべて人間
  の最後の日には、何も意味を持たなくなる。最後の日にもあったほうがいいのは「最後の晩餐用」
  の食べなれた慎ましい食事と、心を優しく感謝に満ちたものにしてくれるのに効果があると思わ
  れる、好きなお酒とコーヒー、あるいは花や音楽くらいなものだろう。それ以外の存在はすべて
  いらなくなる。その最後の瞬間に私たちの誰にとって必要なのは、愛だけなのである。愛され
  たという記憶と愛したという実感の両方が必要だ。
 ・今の親や先輩や教師は、いったい何をやって来たのだろう。彼らは子供からよく思われることだ
  けを念願し、鍛えもせず、怒りもしなかった。それはあたかも求愛する人と似ていた。とにかく
  その人に悪く思われなければいい、という姿勢で尻尾をふってごきげんをとる。すると相手はま
  すますいい気になる。おもしろいことに、いい気になると人間は要求が大きくなり、自制心を失
  うから、不機嫌になる。