「人びとの中の私」 :曽野綾子

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 人間は、人間の中で生きて、はじめて人間になれる、と言われる。しかし、人間の中で生きるとい
うことは、そこにはいろいろな人間関係が生ずるということである。この人間関係というのは、なか
なか難しいものである。できることなら、みんな良い人間関係を築きたいと思う。しかし、良い人間
関係を築くということは、そんなに簡単なことではない。良い人間関係を築けずに悩み苦しみ、辛い
思いをすることのほうが多いように思う。この本は、そんな人間関係に苦しんでいる人に、心の安堵
感を与えてくれるかもしれない。「人間関係の基本は永遠の失敗」だと言われると、なんだか安心感
を覚える。
 しかし、筆者の人間に対する洞察力には、いつものことがなら関心させられる。「人間は集団の中
にいる時のほうが危険である」とか、「見栄を張る人は弱い人である」とか、納得させられることば
かりである。「よく生き、よく暮らし、みごとに死ぬためには、限りなく、自分らしくあらねばなら
ない」という言葉を目にしたときには、思わず感激してしまった。
 私はこの本を読んで、これからの自分の生き方の指針にしたいと思ったことのひとつに、「人生楽
に生きるには、他人からよく思われようと思うことをやめること」というのでる。つまらないことで
思い悩み、せっかくの一度っきりの人生を台無しにしてしまわないために、私もこれからはこのよう
な生き方をしたいと思った。

まえがき
 ・私の強味は、自分のまちがいを認められるところにあるのかもしれない、と考えるようになった。
  それは私が、世の中の秀才たちを身近に見て、彼らが、自分のまちがいを許し得ないために、人
  間味を失い、人間が硬直しているのを見て、少し気の毒になったこともあずかって力がある。
 ・人間関係の基本は永遠の失敗ということに決まっている。しかしそれだけにごく稀にうまく行っ
  た時の嬉しさは貴重だし、うまく行かなくても当然の苦しみが私たちの心を柔らかなものにする。
  苦しみさえも、死ぬ時に考えて見ればないよりはあった方がましかも知れない。それが生きる手
  応えというものなのだから。

黄昏の中の灯
 ・私たちの一生は、ひとと共に始まる。子のない人間はいくらでもいるが、親のない人間はいない。
  狼少年のような特殊な例は別として、人間とふれ合わずに大きくなる人間はいない。私たちは、
  無限に、人間によって救われ、人間によって育てられ、人間を傷つけて生きている。
 ・もしも、私が、生まれた時以来、ずっと森の中で一人で生きて来たのなら、私は恐らく、裏切り
  や、憎しみという言葉を知らずに済んだであろう。その代わり、愛や、慕わしさ、という表現も
  知らなかったであろう。
 ・世界とは、まさに人間のことなのである。原爆で人間が死に絶えた地上には、地表はあるが世界
  はない。そういう光景を「死の世界」などと言うが、そこにはほんとうの死さえないのである。
  死とは生を持つ人間だけが認識する変化である。
 ・仕事とは、人間と人間との関係において、計画され果たされるのである。組織的な職場において
  は、地位が上がるほど、人間関係は複雑に、重いものになって行く。私のように楽なことの好き
  な女は、男たちが、なぜ管理職になりたがるのか、憶測はついても、本当には理解できない。

独りぼっちの広場
 ・私たちは一人でいる時より、むしろ集団の中にいる時の方が危険である。一人なら自分を保てて
  も、集団になると、自分を失うのはいともたやすい。一人の場合、自己を保つことは、善であり、
  美であるが、集団の中では、個人を失わないことは異端と言われる。しかしそんなことはないの
  である。一人の場合にも大切なことは、集団の中の個人になっても重要である。

コロッケとタクアンの贅沢
 ・ひとに自分をよく見せることについての、異常なまでの情熱を持つ人は、それだけで、体中がこ
  ちこちになっている。人間は果たして、とりつくろうことで、そんなに、他人を、完全にごまか
  し得るのだろうか。人間は決して、そんなことでは、ごまかせないのである。
 ・私は、昔から、本当の金持ちだと思われる人に何人か会った。すると、彼らは、世間一般で考え
  る金持ちとは、かなり違ったのである。まず彼らの服装は、流行に殆どのっていなかった。彼ら
  はむしろ金がなさそうな顔をしていた。ボロボロの古いカバンを後生大事に下げていたり、医者
  にいくのをさぼっていたら歯がぽろりと欠けた話をしたりした。
 ・大臣と知り合いだったり、社長の奥様と同じ先生についてお茶を習ったり、特定のエリートのグ
  ループに入っていることが嬉しかったりする人を見かける時、その人は、多分弱いところのある
  人だと思っていいのである。なぜなら、これらの人々は、金、権力、社会的基盤、などというも
  ので、自分を補強しようとやっきになっている。そして、しばしば勝気と言われる人は、ほんと
  うはあまり自分に自信のない人で、序列とか、世評とかを、死にものぐるいで、大切にしている
  のである。
 ・ほんとうの意味で強くなるにはどうしたらいいか。それは一つだけしか方法がない。それは勝気
  や、見栄を捨てることである。すぐばれるような浅はかな皮をかぶって、トラに化けてた狐のよ
  うなふるまいをしないことである。

一人で生きていく
 ・私は早寝早起である。世の中には、今でもまだ、早寝早起がよくて、遅寝遅起はだらしない、な
  どと道徳的に考える人がいるらしい。そういうことは全くない。生活の周期を決めるのは、第一
  にその人の生理である。第二に社会状況がそれを決定する。
 ・民主主義というものは、実にこの辺りの苦悩から出たのである。それぞれに千差万別の人が、同
  じになることなど、決してできない。できているように見える場合もあるが、それは恐怖政治に
  よるものである。もし自由が尊く、本当の自由を保とうとしたら、当然、人間はその中で千差万
  別になって行く。少なくとも個性を持つ人ならそれが当然である。しかしそれを超えて、私たち
  は何とか生きていかねばならない。お互いの違いを守って、どうやら暮らそうとする苦悩に満ち
  た重い壮大な妥協が、民主主義の本質なのである。
 ・私は昔流に、人生は耐えるべきものだ、などと言われると、少々反発を覚えるが、嫌でもおうで
  も、ガマンしなければ生きていけないことだけは、本当である。 
 ・私たちは、他人を嫌ったり憎んだりする時、少なくともそこに、多少の、道徳的な、或いは、誰
  が聞いても納得のいくような、常識的な理由がある、と信じている。あいつは酒乱だからいやだ。
  サギ的な言辞を弄する人間とはとても付き合っていけない、というような言い方である。しかし、
  これらは殆どの場合、摩擦の根拠になっていない。「調子のいいことばかりいう男」も悪口を言
  われるが、「お愛想の一つも言えないボクネジン」も非難の対象にならないではない。「金もう
  けばかり考えている奴」と「経済的無能者」。「出世欲の権化」と「世をすねた男」。どっちに
  転んでもいけないのである。要はただ、悪口を言う人と言われる人の姿勢が違う、というだけの
  ことなのである。
 ・しかし、人間は、つきたての餅のようなものである。すぐ、なだれて、くっつきたがる。違いを
  違いのままに確認するということが、実は恐ろしくてたまらない。できたら、ひとと何とかして
  違わないのだ、と思いたい。しかし、実際はれっきとして違っているので、つい、悪口を言いた
  くなるのである。
 ・人間がどんなに一人ずつか、ということを、若いうちは誰も考えないものである。身のまわりに
  は活気のある仲間がいっぱいいる。死ぬ人よりも、生まれる話の方が多い。しかし、どんなに仲
  の良い友人であろうと、長年つれそった夫婦であろうと、死ぬ時は一人なのである。このことを
  思うと、私は慄然とする。人間は一人で生まれて来て、一人で死ぬ。
 ・生の基本は一人である。それ故にこそ、他人に与え、係わるという行為が、比類のない香気を持
  つように思われる。しかし原則としては、あくまで生きるのは一人である。それを思うと、よく
  生き、よく暮らし、みごとに死ぬためには、限りなく、自分らしくあらねばならない。それには、
  他人の生き方を、同時に大切に認めなければならない。その苦しい孤独な戦いの一生が、生涯、
  というものなのである。

ついていない若者たち
 ・「ついていないなあ」という若者たちの多くは予測と努力をしないのである。運命は変えられな
  い部分と、変えられる部分と両方あることに気づいていない。

人生の脇道に迷い込む前に
 ・特別な偉大な人間でない限り、金はあってもなくても人間を縛る。金のある過ぎる人は、金の管
  理に、多大の時間と心理と労力を割かねばならないであろう。と同時に、金がなさ過ぎると、僅
  かな心理も増幅して感じるようになる。
 ・人間は、金がないことによっても、心が歪むが、同時にありすぎることによっても歪む。金持ち
  が不幸になるケースは、聖書にでもでてきそうな、教訓用のつくり話でなく、実際に多いのであ
  る。
 ・金は、使うも使わないも、必要性にかかっている。だから、使わなくて済むものなら、使わない
  ほうが、人生は軽やかだし、いるものなら、ないと制約される。金が少しあったほうがいいのは、
  人間が金から解放されるためなのであって、金に仕えるためではない。だから、あり過ぎると、
  人間にはそれが重荷になるのも道理なのである。
 ・酒を飲んで、自分を失うことは、たとえ一生に一度でも、私はいけないと思う。病気と眠ってい
  る時以外に自分が何をしたのかわからない瞬間などというものが、人間にあってはいいわけはな
  い。私たちは、そうでなくても、自分を失うときがある。恐怖や驚愕、外的に怪我をした場合、
  など、私たちはどんなに理性的であろうと思っても、そんな気持ちが全く役に立たなくなる瞬間
  があることを知っている。だから、酒くらい飲んで、人間を放棄してはいけない。
 ・勝負ごとは、人生の持ち時間の切り売り、というより浪費に近い。浪費は決して悪いこととは言
  い切れないが、少なくとも、時間の浪費は読書と考えごとの時間を奪う。それは、もう仕事を終
  わった老年にとってはいいが、若い人々のすることではない。

無邪気なお断り
 ・この世で無邪気であっていいことなどあまり無いように私は思っている。いくら子供でも、泥足
  で家の中に入っていいことはないし、相手が傷つくかもしれぬような言葉は避けるように、幼い
  うちから訓練すべきである。なぜなら人間は一人で生きているのではないので、どのような規模
  の社会に住もうと、数の多少はあれ、他者の存在があることは間違いないのである。とすれば他
  者を意識して生きることこそ人間社会の本質と言うべきであって、自分勝手に人のことなど考え
  ずに生きたいという人があれば、その場合は砂漠か荒野にでも行って一人で暮す他ない。他者を
  意識せずには暮らせないということは、確かに困ることなのだが、そのお陰で私たちは多数の人
  間でしか作り出せないあらゆる組織的な恩恵を受けているのである。今われわれが着ている衣類、
  食べている物、楽しんでいる娯楽、それらの90パーセントまでは、他者が私に与えてくれたも
  のである。それを享受しておいて、片方で他者の気を兼ねたくないなどというのは筋が通らない。
  言葉を言い換えれば、人間は徹底して他者を意識したときに初めてそれを乗り越えて「一見無邪
  気な関係」を作り得るのである。無邪気であるといえることがいいことだと、無条件で思われて
  いるので、世の中のあちこちには、いい年をして少しも本当に大人になろうとしない連中がうよ
  うよしている。
 ・今の若い人びとはしつけられることが嫌いだ、と我々老世代は思っている。事実、ちょっと叱っ
  ただけで、翌日から、ぷいと出て来なくなる若い人たちの話しをよく聞く。昔は叱られると、め
  そめそ泣くのは女と決まっていたが、この頃では、男の方が翌日からすねて出て来なくなるらし
  い。
 ・人間は、愛憎が表裏一体をなしているものだから、好きなものには人一倍憎しみを持っており、
  憎んでいるものには、無関心なものより憧れているのである。だから甘やかすと同時に厳しくも
  しなければならない。そうでないと若者の心をつかめないのである。
 ・あることの影響について鈍感な人びとというものが、この頃、次第にふえつつあるという。何も
  高級なことではない。お風呂屋で平気でまわりの人にお湯をひっかける人物。通り道で立ち話を
  する女房共。列を乱す男たち。なぜそのようなことができるかというと、自分たちの行為が、周
  囲や社会にどういう影響を及ぼすかということを、全く能力として考えられない人たちだからな
  のである。
 ・これらのことは、わざわざ改まって意識的に考えなければならぬ、というほどの高級なことでは
  ない。人間が、ある行為をする時、多くの場合、ぱっと一瞬のうちに自動的に結果を予測しうる
  という程度の単純なことである。多分、ゾウや、キリンや、犬には、それだけの知恵はない。人
  間だけがそれを予測しうる。しかしそれをやらない、動物並みの人間もまた、ふえて来つつある
  のである。

気狂いカメラマンたち
 ・人と人とのつき合いにおいて、もっとも難しいのは、分を守るということである。社会は、あら
  ゆる面で、規模の大小の差はあれ、組織で以って成り立っている。つまり持ち分というのがある
  のである。この持ち分の限度についてわからない人が時々、様々な運営をじゃまする結果になる。
 ・組織を変えることは容易ではない。どの会社でも、先に述べたような持ち分があって、その持ち
  分が、けちな縄張り根性と癒着している場合があり、ほんのちょっと皆が寛大な気持ちになりさ
  えすれば、たやすく改良が行われるということさえ、実際には、移せないものである。そういう
  場合、純粋な人は、何とかしてこの会社や学校を良くしようと思って頑張る。しかしそれらの行
  為は、その人の純粋な気持ちとは裏腹に、その持ち場にいる人の心を乱すばかりなのである。物
  事を改変するには、おもしろいことに必ずある程度の時間がかかる。その時間は、一見無駄なよ
  うに思えるが、決してそうではない。もしある人間が、ある状況を良くしようと思うなら、その
  人はこの時間に対して逆らわずに待つということができなければ、その資格に欠けるのである。
 ・いささか逆説めくが、自分の勤めている会社や、自分の通っている学校や知人の家庭などを、そ
  れほど愛することはない、と私は思っている。つまり愛という名の下で、自分の美学をおしつけ
  ることはないのである。我々は、もっと冷酷になるべきである。組織に対する愛は、自分の小さ
  なポジションの限界をはっきり知り、まずそれを完全に果たす、ということで、初めのうちは充
  分なのである。この冷酷さを守れる人だけが、将来そのような冷たさを捨てて、大局を掴まえて、
  その組織を良くすることに力を貸せるのである。まず足下を固めよ、ということである。どんな
  に小さくとも、自分の専門職を完全に果たし、その分野で有能な人間として社会に評価されてこ
  そ、その次の段階に進み得る。
 ・組織のからくりを冷静に見て、一個の車輪に過ぎぬ自分から逸脱せぬことと、一朝事ある時には
  飲まず食わずで身を挺する覚悟とは、車の車輪とエンジンの関係のようなものである。車輪は飽
  くまで端正に、他との調和を考えるという限度を守ることができなければ、車はまっすぐ走れな
  い。しかしその背景には、単なる一つの車輪であればいいという人まかせの姿勢があってはいけ
  ない。自分の人生を走らせるものは、国家権力でもなく、自分を雇っている会社でもない。そん
  なことを許してはいけないエネルギー源はたった一つ自分の情熱なのである。しかし人間が単純
  であると、車輪だけになるか、車輪もないエンジンだけになりたがるか、どちらかになってしま
  う。対外的テクニックとしては冷酷に、分を過ぎたことをせず、内面的には情熱的に自分に与え
  られた仕事を深くきわめて行こうとする。この一見矛盾する生き方を二つながら操れれば、その
  人はみごとというほかはない。

偽者と付き合って蒙る迷惑
 ・女の中には、男はすぐに自分に惚れるものだと思い、アリジゴクのように待ちかまえているのが
  いる。何人かの共同作業の中でさえ、すぐ特定の相手と特定の関係を結びたがる。それが女らし
  さというものなのだろうか、と私のようにモテない女は、疑問に思うわけである。
 ・国家であろうと、ある組織であろうと、個人であろうと、徹頭徹尾悪かったり、一点非の打ちど
  ころのないくらいよかったりするということはないのである。
 ・一人の人間のなかに、偉大なところと、卑怯なところと、優しさと、鈍感さが、共存しているの
  が普通である。ところが弱い人は、相手の中に良さと悪さを同時に見出すことが怖い。良い人だ
  けど、悪いところもあるなどと思ったら、その人の人格に傷を付けてしまうように思い、悪い人
  の中に、小さな良き点を見つけるのは、悪人を承認することだと思ったりする。
 ・国家、組織、個人ばかりではない。あらゆる制度も、ものも、そうである。害毒をもたぬものは
  この地上に存在しない。美しい花すらも、その匂いで喘息を起こす人がいる。
 ・男でも女でも、かっとなる人は、まず弱い人である。かっとなった時に人間は攻撃的になり、あ
  たかも強者の如くみえる。しかし、それはヒステリー以外の何ものでもない。弱い人間は正視し、
  調べ、分析するのを恐れる。自分自身もその対象にされて分析されるのを恐れるからである。し
  かし、本当に強ければ、怒る前に、まず対象に関する、冷静なデータを集め始める。その対象が
  好きか嫌いか、などということはずっとずっと後のことでいい。好くにも嫌うにも、認めるにも
  拒否するにも、ます知ることである。
 ・大勢と一緒に広場で叫ぶ人も弱い人である。人間はそれぞれに自分をあらわす方法を持っている
  はずである。地道に、長く一生をかけて。正しいと思うことは決してひとに譲らず、ひそかに戦
  って死ねる人は、本当に強いのである。自分と反対の立場をとる人を許せないのも弱い人である。

秀才万能の終焉
 ・そもそも人間の能力差を縮めようというのは、たとえば、頭のいい人間の方が、頭の悪い人間よ
  り能力もあり、出世もする、という単純で、しかも不正確な判断から出ているのである。私は、
  確かに、あちこちで、頭がいいために、いい仕事をしていると思われる人々に会うことがあるが、
  それはあくまで眼に見える範囲であって、頭がいいために、いい仕事もできず、埋もれている人
  が、世間にはまたうんといるのである。反対のことも言える。時々、私は、どうしてこのような
  鈍感な人が、このような責任のある地位に就いていられるのか、不思議に思うこともある。しか
  し、その人がなぜ、そこまで出世できたかというと、それは、彼が目から鼻に抜けるような秀才
  ではなかったせいなのである。秀才は第一、他人から、尊敬されもするが、嫌われもする。

さまざまな旅
 ・旅というものは、あらゆる意味で人生に似ている。第一に、それは楽しいものだろうと、期待し
  ていると、不愉快なことばかり目立つものである。その代わり、さぞかし大変だろう、と思って
  いると意外と楽しいこともある。旅は、本質的に楽なものではない。なぜなら、自分の馴れてい
  る環境が変わるので、それに対しては自分の肉体も精神も、全力をあげて拒否するのである。
 ・異質の文化に接触すると、人間は、さまざまな形で、耐えているのである。食物に耐えている人
  もいる。言葉が通じないことに耐えている人もいる。高温や湿度など、自然の変化に耐えている
  人もいる。人間の心の違いに耐えている人もいる。ショックが起こるポイントは様々だが、皆自
  覚がなくても耐えているので、疲労するのである。疲労するとどうなるか。人間は弱い点が、最
  もあらわに押し出されて来る。この現象は何も旅行ばかりではない。一朝事がおきて、「逆境」
  に追い込まれると、私は少なくとも、普段にもまして浅ましくなる。旅というものは、自分のそ
  のような弱点があると重々知ってでかけるべきものである。
 ・日本人は約束を守ることに道義的責任を感じたりするのが好きだが、地球上の恐らく過半数の人
  間は、約束は守れる時だけ、守るものだ、と思っている。だから、ちょっとした突発事件がおき
  ると、もう、予約のあるはずのホテルも飛行機もなくなってしまう。彼らに、なぜ約束を守らな
  いのか、などと詰問することは、私の体験ではムダである。その人間にとって、主観的に、約束
  を守れない理由など、星の数ほどある。そういうルーズさがいやだったら、日本的道義の確立し
  た日本にいることである。

上目遣いの茹で卵
 ・日本人の多くは、社会主義政権こそ、自由で公正だと、信じ切っている。自民党が決して公正で
  ないなら、革新もそうではないであろう、与党が汚職をするなら、野党もするであろう。資本主
  義者共が人民を圧迫するなら、社会主義者たちも、人民を圧迫する可能性は充分にあるのである。
  人と名のつくものが、主義主張で、それほどがらりと変わるわけがない。
 ・異常性欲者が娘を殺すなら、カソリックの神父が人殺しをすることもあり得る。裸体写真やマゾ・
  サドに興味を示す人の中には、裁判官もいる。大学教授もいる。一流経済人もいる。いても少し
  もおかしくない。なぜなら、彼らは皆人間だからである。むしろ、先生だから、判事だから、宗
  教家だから、そんなことはないだろう、と思う方が、甘いのである。
 ・教育は、私たちに、反射的に疑う精神を植えつけていなければ嘘だと思う。疑うことは、私は高
  度な精神の抵抗の姿勢だと思う。私たちは自分の目に入るすべてのことを、総て疑うべきである。
  その勇敢な疑念に一度かけられたものだけが、初めて信じられる光栄を与えられるのである。

歌を歌う時間
 ・私は頑張るのが好きではない。なぜ好きでないかと言うと、そこに人間としての無理が来るし、
  無理をしている人間は、美しく見えないからである。
 ・楽に生きるということは、どういうことだろうか。人間が生きていくということは、外界の流れ
  の中にある自分を保つことである。外の流れを変えることは、一国の総理大臣にさえ不可能なこ
  とがほとんどだから、私たちは受けて立つ他はない。そこで、流れに抗したら、外圧は非常に大
  きくなる。さりとて、木の葉が流されるように、世間の言うなりになったのでは、人間の尊厳な
  などというものは何もなくなってしまう。
 ・私は、はっきり言って、流されっぱなしだけはごめんだと思う。自分を保ちたい。自分の一生な
  のだから、自分の判断によって、運命を試してみたい。そして死ぬ時に、おそらく「ああ、自分
  がまちがっていた」と思うことも多いだろうが、その時は、自分を憐れんで、「バカな奴だった
  なぁ」と言って死ぬつもりなのである。
 ・自分の生き方はしたいけれど、頑張って生きたくはないとき、どうしたらいいだろう。これが私
  の長い間の問題であった。そして、答えは出ないまでも、やや解決策に近いものを幾つか、私は
  探り当てたのである。その第一は、ひとによく思われようと思うことを、あっさりやめてしまう
  ことである。というと、投げやりに、どうでもなれ、と思うことのように見えるかもしれないが、
  そうではないのである。
 ・一般に、自分がよく思われたいと期待するときに、そこに奇妙な緊張を生じる。よく思われて、
  褒められなくても、私は私なのである。褒められたからと言って、私の実質に変化があるわけで
  はなく、けなされたからといって、私の本質まで急に悪くなるわけではない。
 ・時々、世間には、「悪者」だと言われる人が出てくるが、その人が、どの程度「悪者」であるの
  か、「善人」であるかは、世間の風評とはまったく関係ない。よく思ってもらうことを、世間に
  期待しなくなると、人間は地声でものを言っていればよく、とびはねて歩かなくても大地を踏み
  しめて立っていられ、まことに楽になる。世渡りからみると、これは下手なのだろうが、この自
  然さは、精神に風通しをよくするから、健康にいい。
 ・第二に有効なのは、嘘をつかないことである。嘘をつくのは、自分の評価ではなく、世間の評価
  で暮らしていこうと思うからである。
 ・子供の学校を決める場合、親も子も共に、自分に嘘をついていることがある。本当に好きな勉強
  をするのではなく、世間から「お宅の子供さんは秀才ですなぁ」「東大に入ったらたいしたもん
  だ」と言われたいばかりにむずかしい大学へ行きたがることである。
 ・義理は欠かないことにこしたことはないが、欠いてもたいしたことはないのである。至れる尽く
  せりにしようと思っている人は、多くの場合、ぎすぎすしている。それはその人が楽に、余裕も
  持って生きていないからである。不眠症、赤面恐怖症、異性に対する神経過敏症、みんな、自分
  を実際よりよくみせようとする、不自然な努力の結果である。素直に、二本の脚で、大地に立っ
  て、風に吹かれ、できるだけの一日の仕事をした後は、夕日を眺める時間や、歌を歌う時を残し
  ておかなければならないのである。 

道楽のすすめ
 ・日本人は、他の多くの国に比べ、青年たちが自分の職業を自由に選択できる方途を持ちながら、
  多くの当事者たちは、そのことに納得もしていなければ、満足もしていない、という奇妙な国で
  ある。どうしてそのようなことになるのだろう。一つには、私は、日本人は、自分の人生に夢を
  描きすぎるのだと思う。「青年よ、大志を抱け」というのは悪くないが、大風呂敷を拡げすぎれ
  ば、満たされない不満ばかりが残る。どんな学者も、芸術家も、実業家も、一生にできる仕事の
  量は限られている。小さく守って、そこを充実されることのほうが私は好きである。
 ・神の存在のない人にとっては、パン屋より、大臣になるほうが、はるかに体裁がよく、虚栄心を
  満足させられる、ということになる。つまり、日本人の人生や職業に対する評価は、自分が満た
  されるかどうかより、他人がそれをどう思うかで決められる場合が多いから、一向に自足しない
  のである。
 ・職業は、好きでなければならない。これが唯一、最大、第一にして最後の、条件である。学問も、
  職業も、何が好きかわからない、という人は、それだけで、自分には才能がない、と思いあきら
  めるべきである。だから、秀才であっても、才能がないという人はあり得るのであり、頭は切れ
  なくても、才能はある、という人もいるはずなのある。
 ・道楽は、初めから楽をすることではない。総ての道楽は、苦労がないことはないのだが、その苦
  労を楽しみと感じさせられるように変質させえることが、道楽なのである。
 ・今は道楽の精神どころか、自分の専門分野さえ、知らなくて済むなら、覚えないで済ませたい、
  と思う時代である。しかしお気の毒なことに、道楽の精神がないと、仕事に関する苦労が、いつ
  までたっても楽しみにならない。かくてその人は、永遠に生活のために、自分の嫌なことを働き
  つづけ、精神の奴隷のような生涯を送ることになってしまう。
 ・私は、道楽で会社に行っている、という人に、事実何人か会った。決して金持ちばかりでなはい。
  しかし仕事を道楽と思えるような人になると、彼らはその道のエキスパートであることはまちが
  いないから、今の日本では、自然のポストもよくなっており、給与も悪くないことにはなる。労
  働基準法によって、労働時間が定められていることはいいことだろ思う。しかし、8時間働いて、
  後は何もしなくて済む仕事はすべて大して面白くないだろう。

どちらを選ぶかはあなた次第
 ・成功しない第一の方法は、言われたことしか、やらないことである。言われたことさえもやらな
  い人も、この頃は多いから、言われたことだけやっているのは、まだいい方だが、「気は心」と
  でも言うべき、サービス精神のない人は、まず成功しないのである。
 ・成功しない第二の方法は、楽をして仕事をしよう、そういうことが可能だと思うことである。
 ・成功しない第三の方法は、続かないという性格をなおさないことである。人生の成功のヒケツは、
  頭がいいことでもない、学歴でもない、器量でもない。むしろ運、鈍、根なのである。
 ・どんなに年が若くてとも、何かしようと思ったら、一人でできなくてはならない。女の子などは、
  映画に行くことにも、トイレに行くことにも、誰かと連れ立って行くが、その癖は一刻も早めて、
  一人で、あらゆる不安や危険をおしのけて、やれる癖をつけるべきである。
 ・考えてみると、世の中の重大なことは、総て一人でしなけれなならないのである。生まれること、
  死ぬこと、就職、結婚。親や先輩に相談することもいい。しかし、どの親も、どの先輩も、決定
  的なことは何一つ言えないはずである。すべてのことは自分で決定し、その結果は良かろうと悪
  かろうと、一人で胸を張って引き受ける他はない。本当に学ぶのは、一人である。良き師に会い、
  大きな感化を受けることはよくあるが、それも自らが学ぶ気持ちがない限り、どうにもならない。
 ・最後の「成功しない法」は、これくらい、許されるだろう、と折に触れて考えることである。こ
  れくらい大丈夫だろう、というのは、城の石垣の隅石の一つを抜き取るようなものである。その
  日は何もなくても、次第にくずれるか、長雨でも降れば倒壊する。自分に厳しくあれば、必ず或
  る程度の成功するのだから、不成功に終わりたかったら、自分に甘くすればいいのである。
 ・運が悪いから、うまくいかないのだ、という人がいる。しかし、私は、運は必ずしも大きなもの
  ではないと思う。運がないとは言わないが、積み重ねの方が、その人にとって明らかに大きく作
  用する。
 ・しかし、不成功の人生がいけない、というのは、私にとって必ずしも真理ではない。何となく何
  をやってもうまくいかない人の中には、夢みがちな人が多くて、その人は実際には志を遂げなく
  ても、その過程で、本当にうまく行ったのと同じくらい、大きな野望と楽しい夢を見てしまう。
  私などはその点、哀しい性分で、何かやろうとすると、反射的に、それがうまくできない有様が
  みえてしまう。だから手を出さないか、出したら用心する。うまく行かなくて当たり前などと思
  い、成功するとまだ夢のようで実感が湧かない、などと言う。成功した人生も、不成功な人生も、
  外からでは見分けがつかないし、たとえ、自覚があったとしてもそれほど大きな差はないのでは
  ないか、という気もする。しかし、それもまた、残酷な話で、たとえ、幻でも、人間は成功した、
  という自覚が欲しいのであろう。そして成功するためには、その道を、道楽にしない限り、辛い
  生活をしなければならない。それくらいなら、不成功でも気楽に生きたほうがいい、と思う人も
  いるだろう、と思われる。

勇者の戦い
 ・結婚問題について、数多くのケースを扱っていらっしゃるベテランの方が、夫婦仲がうまく行か
  ない夫側の一つの典型について、几帳面ということをあげていらしたのには、胸のすくような思
  いがした。
 ・精神分析的に見れば、この手の人は、「テンカン性気質」と呼ばれる。テンカン性といっても、
  実際にテンカンであるということではない。ただ、このテンカン性気質は、物事をゆるがせにし
  たり、いい加減にしたり、放置したりしておけない、責任感強く、事務的ではあるが、創造性に
  はやや欠ける。
 ・一家の主導権を握る夫ではなく、妻がテンカン性気質なら、ことは大して悲劇的ではないどころ
  か、むしろ大変うまく行っているように見える場合すら出てくる。なぜなら、上役が少しいい加
  減でも、下役が事務的に几帳面であれば、ことはおさまるし、顔を洗うのや、シャツを換えるの
  をさぼりたがる夫に、きちんとした妻がついていれば、家庭はかえってうまくいくのである。
 ・しかし、上役がテンカン性気質の厳密なことしか許せない人間であった場合は目も当てられない。
  下役が、忘れること、遅れること、エラーすること、これらすべて「一種の人間的なこと」が、
  大きな悪徳と考えられる。
 ・夫がテンカン性気質の場合も、家庭は地獄のようになる。妻も同じ気質ならいいのだろうが、妻
  が回帰性性格だったりすると、感情の不安定は、テンカン性気質の夫には耐えられない。
 ・社会も家庭も、完璧な人はいないのである。どちらがよくて、どちらが悪いというのではなく、
  どちらも、少しずつよくて、少しずつおかしい。生活は比較級で考えるべきなのに、テンカン性
  気質の人は、もっとも厳しく、「いい」「わるい」のどちらかだ、と決めてかかる。
 ・几帳面などというものは、頭の良さと同じ程度に高く評価されているが、実は、周囲にいる人を、
  破壊的な不幸に陥れる場合もあるのだということを、世間ではどうしてか、はっきりと言わない
  のである。
 ・結婚生活という、実に未整備な制度がある。私の漠然とした印象では、成功率はせいぜい50パ
  ーセントしかない。2組に1組は(主に妻の方から見ての話だが)結婚したことを後悔している。
  ただし、子供ができるとか、さまざまな理由から別れたくても別れられなくなっている、という
  夫婦が多い。従って別れなければ成功ということもないのだが、結婚生活を続けて行く最大の要
  素は、人間の優しさなのではないか、と思う時がある。
 ・私は、夫たちの優しい性格が、どれだけ、結婚生活を続ける上で役に立って来たかを、何例も見
  てきた。几帳面型の夫は、他人に優しくないから、妻としては簡単に憎める。しかし、優しい夫
  に対しては、憎むという情熱がうまく続かない。
 ・几帳面な人との結婚は、長く続かない、という形で早く破れる。しかし、優しい男との結婚は、
  深い問題をはらみながらも、ずるずると続いているという状態そのものが、また問題なのであっ
  た。

沈黙は鉛
 ・教育というものは、知識偏重で行われても、決してうまく、その効果を発揮しない。実を言うと、
  私はむしろ心の中で、社交的人間というものを、今まであまり信じていないし、むしろうさん臭く
  思っているところもある。しかしあらゆる形において、社会と接触するということは、自らを、心
  理的にコントロールする必要に迫られ、それが、人間の精神を鍛え、柔軟にする。

或る解放
 ・人間、いかなる人物も、心の奥底に溜まった感情の捌け口が必要であることを忘れてはいけない。
  人間の感情もまた、下水と同じで、必ず出口を作ってやらないと、溜まって、所ならぬ所から漏
  れ出す。この感情の捌け口をうまく作るか作らないかが、私たちの精神が解放されているかどう
  かに結びつくのである。
 ・政治家には清廉潔白、先生には、行いの正しさ、などを、本気になって期待し、当然そうあるべ
  きだ、などと思っている人は、それだけで、世界が閉ざされてしまう、と私は思っている。どん
  な職業であろうが、人間は皆似通っている。どんな政党に属していようが、皆、人間なのだから
  同じ程度の立派なことと、ろくでもないことをする。もっとも私は、政治家には少し先入観を持
  っていて、政治家とは友だちになれない。政治は何党であろうとも、権力を目指すものであり
  (いや権力そのものと言ったほうがよい)、権力というものは、私の美的感覚と合わないのであ
  る。権力は解放とは相容れない力の志向性を持つ。権力を保つには、他人を多少とも圧迫しなけ
  ればならないからである。
 ・私は、この頃、改めて、大都会のすばらしさを思うようになった。都会には、新鮮な魚や野菜も
  ない。家賃は高く、空気は汚い。町はごみごみしていて落ち着きがなく騒音もひどい。しかし、
  ここには、人間の心が誰かの気をかねて縛られている、ということが比較的少ないように思われ
  る。
 ・都会生活の中では、他人の生活など、ほとんど気にしないで済む。いたる所に、おかしな恰好を
  した人がいるし、人間のどのような情熱も、それが法に触れない限り、それを叶えようとする受
  け入れ体制がある。それは一面で乱雑な感じもするが、実は人間の本質的な成長に大きな関係を
  持っている。都会には、煙や汚水の公害はあるかもしれないが、人間が、他人の生活に口出しを
  しておせっかいをすることによってその人の生き方まで規制する、精神公害は非常に少ない。実
  は私は、この精神公害ほど怖いものはないと思っている。いかに豊かな生活や、その土地と社会
  における地位を与えられようとも、精神の自由がなくては、生きていることにならない。
 ・人間は捨て身になった時にしか道は開けない。保身の術しか考えていない間は、面白い生活は与
  えられない。精神を解放して、真の自由を手に入れるためには、他人に陰口をたたかれ、誤解さ
  れることも覚悟の上でやらねばならない。

一本の白髪の旅
 ・親は、他人があまり気づかない子供の美点をこそ、ほめてやらなければならないのではないか。
  或いは、子供がむしろ自信を失いかけている点に、新たな価値観を見つけてやらなければならな
  い。親だけでない。私たちが友人を支える時には、皆がいいという点だけではなく、その人の弱
  点をカバーして、その人の他人から誤解されやすい点に、正確にいとを汲み取ってこそ、親友の
  支持というものができるものである。もっと平たい言葉で言えば、試験の成績のよさをほめたり
  していたら、平凡で功利的な親子関係しかできないであろう。

想像もできない未来の手前
 ・今の時代、一を聞いて一だけを覚えてくれるような誠実な人は少なくなったし、一を聞いて一だ
  け受けとるという態度はいじらしく実にかわいい。正直なところ、それこそ今でも男の理想だろ
  う。私の趣味としても、宗教的な人間的価値から言っても、これは、実にまっとうで、すがすが
  しく、輝くような美徳である。
 ・あまり頭が良くない、と思われている学校出身者には、どういう強みがあったろうか。第一に、
  私たちは謙虚になれた。自分は頭脳明晰でもなく、物も知らないから、勉強しなきゃ、人並みに
  ついて行けないんだ、と思う。この姿勢が大切なのである。第二に、頭が悪いと、いつも人がバ
  カに見えることもなく、常に、他人を尊敬していられる。私のひそかな偏見によれば、他人が常
  に自分より劣った者だと思っている人には、その実感による満足よりも、不幸な意地悪な心理が
  表情に出てきているような気さえする。
 ・私たちはどんな人からも学び得る。学問も何もない人の一言が、哲学者の言葉よりも胸にこたえ
  ることがある。宝石はどこにおちているかわからない。だから、私たちは、常に教えられるため
  に心を開いていなければならないのである。

人間であり続けるための原点
 ・人間の条件とはなにか。それは多数に属することである。もっと簡単に言えば、平凡になるとで
  ある。平凡は偉大である。人間の条件の第一は、まず人間が、動物として生息できる、というこ
  とである。
 ・人間が一人生活したら、必ずあたりを汚す。それを元に戻しておくという作業ができない人がい
  たら、やがて社会は不潔な状態になるか、少なくとも、その個人は、非常に非衛生的な環境で暮
  すことになろう。
 ・料理ができない男女は、それだけで、餌のとれないライオンに近く、人間の条件からはずれそう
  になっている、と考えるべきである。
 ・この人間社会の原型は、闘争にある。これは致し方ないことである。生きていくこと、の中には、
  お互いがお互いを手助けする部分が、この文明社会では非常に多くなってきているが、しかしそ
  れでもなお、まだ闘争の要素が残っていないことはない。私たちは、戦うということの辛さと、
  その後味の悪さにも耐えなければならない。多くの戦いは、負け戦、に決まっている。他人から
  憎しみを受ければ、誰もいい気持ちはしない。それらにことに、しかし私たちは、それぞれ耐え
  るのである。上手に耐える人もいる。下手に耐える人もいる。しかし、要するに耐えればいいの
  である。

口実と同情
 ・人間も、国家にも完璧ということはない。日本にも失敗はあるが、それは大きなものではない。
  もし日本がそれほど悪い国だと言うなら、私は、そういう人々は日本にいて日本の悪口を言わず
  に日本から出て行くべきだと思う。そしてその人がいいと思う外国に住むほうが自然である。そ
  れが、自由と責任を持つ人間のすることだし、またできることなのである。

精神のニキビ
 ・男にせよ、女にせよ、好奇心などというものは、なくでも生きるには困らない。むしろ、世間の
  常識を受け入れて、余計な興味など抱かずに、自分の生活に明確にプラスになる要素だけを取り
  入れて、安全に生きるほうが、はるかにロスは少ないのである。しかし、それとは別に、私はや
  はり人間にとって好奇心はかなりの重さで必要なものだと思わないわけにはいかない。
 ・好奇心と呼ばれる情熱は、非常に素朴な原始的なものである。好奇心は「なんだろう」というこ
  とである。「知らないから見てみたい」と言ってもいい。いずれにせよ、そこで明らかなのは、
  その人がそのことが何であるかしらないこと、できうれば知りたいと考えていること、この二点
  である。知りたい、と思う気持ちは、動物と人間の生命の源である。知りたい、という欲求がな
  いと、外敵を防ぐこともできず、餌を見つけることもできない。実は好奇心ほど、何かを知るた
  めに願わしいエネルギーはない。
 ・私たち日本人は少なくとも、万巻の書を、読もうと思えば読むことができる。金がなくても、本
  は図書館ででも読める。世界情勢は日々刻々変わり、科学もその原理を応用した機械も日進月歩
  の進歩を遂げている。われわれは走っても追いつかない。勉強しつづけても間に合わない。好奇
  心がなくてどうして人間であり得よう。銀行強盗をするにも、金融サギをするにも、すべて勉強
  あるのみ!そして勉強の原動力は、好奇心と名づけられた、自然な人間の姿勢から発している。

終わりにもう一度考えたいこと
 ・動物と人間の間の一線は意外とはっきりしている。動物が少しづつ進化して人間になったのだと
  は思えない。人間と動物は、精神作用の上では、明らかに本質的な境界線があり、動物にはなし
  得ないことを、人間はできるのである。それは、「魂の生を生きること」である。「他人のため
  に死ねること」だと言ってもいい。もっと穏やかな言葉で言えば、「他人のために、愛をもって
  損な立場に廻れること」だと言ってもさしつかえない。
 ・どんな秀才でも、立身出世のために、いい学校に入ることを目標にし、世間のいい職業について、
  利益を得ることだけを考える限り、それはまっとうな意味で、まだ、人間にはなっていないので
  ある。
 ・人間の皮をかぶった、人間風の動物として私たちは大きな顔で生きている。もちろん、私たちは
  まず動物として出発するのである。それを忘れてはいけない。他人との利害が相対する時、私た
  ちは相手を打ち負かして、自分を立てるものだ、という原型を読めないのもまた、虚偽的である。
  日本人はともすれば、この競争の原理を忘れている。日本人は外交というものを考える時でさえ
  も、外交の本質は道徳だと思ったり倫理だと考えたかったりする。外交は力の関係である。もち
  ろん外交を行う個人としては、道徳的であった方がよかろうし、他国民にも、人間的な関心を抱
  くことは必要だろう。しかし、外国は所詮日本とは、「お家の事情」が違うのである。
 ・人間関係は、永遠の苦しみであり、最初にして最後の喜びである。どんなに、うまく関係を作ろ
  うとしても、私たちは必ず、間違いを犯す。それは個体として私たちは別個であり、考え方も違
  うからである。だから失敗を恐れることもない。
 ・もし人間関係に必要な配慮があるとすれば、それは、相手に対する謙虚さと、徐々に物事を変え
  ていこうとする気の長さかもしれない。それと、私が好きなのは優しさである。私は自分自身が
  優しくないので、優しさに会うと、自分がはずかしくなる。