知性の磨きかた  :林望

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筆者の主張によると、知性というのは自分の心と体を以て、主体的に外との世界と関わっ
ていくことであるとのことである。主体性のない、他から借りてきたような価値観や考え
方で見たり書いたり話したりするのでは、その内容がどんなに高度であっても、それは知
性とは言えないのであろう。
また、学問をするということは、単に知識を吸収するということではなく、学問の方法を
身につけることであるという。いくら多くの知識を吸収しても、それだけでは応用が効か
ない。
方法を身につけることによってはじめて、自分独自の一つの筋道を見いだしていけるとい
うことだ。ただ、この方法を身につけるということは決して簡単ではない。長い時間をか
けてひとつのことに打ち込むことによって、はじめて身につけることができるということ
だ。
筆者はまた、読書の効用について「読書をしなければ立派な人間になれないなどというこ
とはない」との主張だ。さらには、「人間は読書なしでも生きられるが、セックスなしで
は生きられない。人間が生きていく上では、読書よりもセックスのほうが大事だ」とまで
言い切っている。慶応義塾大学出の国文学者である筆者が、ずっと学問を続けてきて、た
どり着いた先が、この結論だったようである。学者にしては、なかなかユニークな結論で
ある。しかし、だとすると、なんだか虚しいような気もする。
確かに、筆者の言うように、内的動機がなければ、いくらたくさん読書をしても、ほとん
ど無意味だというのは、真実なのかもしれない。本など読みたくない人に、無理やり本を
読ませても、何の役にも立たないというのは、当然なことなのだろう。しかし、何らかの
動機を以て本を読むならば、その人にとっては、いろいろ得るものが多いことも確かだと
私は思う。そしてこのことは、何も読書に限ったことではないだろう。
学問とは、高度な遊びであるという。会社の仕事などとは、本質的に違うのだ。遊びだか
らこそ一生懸命になれる。一生をつぎ込んでも悔いは残らない。志と努力さえあれば、晩
学だからといって諦める必要はないのだ。とにかくコツコツと続けることが大切のようだ。

知性ということ
・自分の足で歩き、自分の目で見、自分の脳味噌を運転して考え、自分の口を使って人と
 交わり、どこまでも「自分の」心と体を以て、主体的に外の世界と関わっていく、そう
 あってはじめて、「おや、これはなんだ?」ということとか、「エエエッ、そうだった
 のか!」とか、「ウーム、不思議だ・・・」とかの、さまざまな感慨が湧きおこってく
 るだろう。それでなければ、ただ絵はがきのような景勝地を「ふーん」と確認している
 だけのことに留まる。
・多くの人にとっては、見知らぬ外国を、自分の体と心を使役して、一個人として主体的
 に旅行しているなんてことは、だいいち不安でたまらないかもしれない。しかし、世の
 中に「肝心の所」なんてあるだろうか。自分の目と脳味噌とで見るのでない限り、どん
 な所を見たって、それはちっとも「肝心」ではない。
・多く、素人の書いた旅行記が、要するに主観的で通俗な「お喋り」に終始しているのは、
 自分の心のフィルターを通した、しかも客観的認識を基底とする「発見」がそこにはな
 いからだ。それを知性の欠如という。
・世の中は大知識人というふうな超絶的利口人ばかりではない。むしろ普通の人が、どう
 やったら、普遍的な知性の方法にたどり着くことができるか、ということのほうが、大
 切ではないか。  

学問の愉しみ
・まず絶対に一つのことに邁進しなさい。しかも十年間一つのことをじっくり修業して、
 ゆるぎない方法というものを身につけなさい。それによって将来、どういうふうにでも
 応用がきくからということだ。
・たとえば、カルチャーセンターで何かを学ぶってことがあります。でも、この場合は、
 肝心の「筋道」を教えないわけです。功なり名遂げたえらい〇〇教授を呼んできて、彼
 の考えた解釈を演説するのがカルチャーセンター式のやり方なのです。促成栽培とでも
 いうようなものです。いわばその講師の人が勉強した「結果」を教えてくれるにすぎな
 いわけです。それに受講者はお金を払って、知識としてそれを身につけるということで
 す。これは私にいわせればほんとうの意味での学問とか勉強とかとはまったく違った事
 柄です。なぜならば、それは応用がきかない。こういう形の勉強であると、そこが行き
 止まりですから、先へ先へと進んではいかない。つまり、自分一人では進めない。
・誰かに押してもらったり、何かに引っぱってもらったりして猛然と速く走る車よりは、
 わずかでもいいんだけれども、自分の力でエッチラ、オッチラと漕いで少しずつでも進
 んでいく自転車のほうが、学問のあり方としては正しいと思うのです。
・大学、大学院教育が基本的には「方法」を身につけさせる教育であるのに対して、カル
 チャーセンターや成人学校は結果としての「知識」を伝授するのを原則とする。そこに
 非常に大きな違いがあるわけで、学問ということを考えるにおいては、それがいちばん
 大切なことです。  
・おびただしい不能率、おびただしい無駄のなかに、たまさかに鉱脈に行き当たる場合が
 ある。そういう程度のものなのです、学問というものは。今日のようなおびただしい割
 合で大学へ若い人たちが進む時代の中では、彼らがみな学者的に学問の方法を身につけ
 というようなことはそもそも初めから期待されていないわけです。そういう中で、ごく
 一握りのきわめて筋のいいというか、いわば学問に適性のある頭脳を持った人、なおか
 つ学問に向いた環境なり何なりをもっている人、そういう人たちだけが最終的に学問と
 か勉強とはいう世界に残っていくわけです。彼らが身につけることというのは、いうま
 でもなく、どういう方法によればよいか、という方法、言い換えれば筋道、を実践的に
 獲得するということにほかならない。 
・大学教育というものは、何も学生がわかろうとわかるまいと、かまわないんです。もと
 もと、大学の機能として、そんな十全な人間教育なんていうことはできっこない。それ
 によって人間が賢くなるなんていうのは、大きな思い上がりです。そんなことをして、
 非常に効率的な、アメリカ流の大学教育をして、いろいろな点検評価もさせたりなんか
 して、はたしてそれでどれだけの効果があがるかといったら、私はぜんぜん効果なんか
 あらがないと思う。むしろ角を矯めて牛を殺す結果になる。
・大切なことは、学生が勉強していることを聞いて、ほんとうにこの学生が、正しい方法
 で進んでいるかどうか、何か独善的な方法に陥ってはいないか、そういうことをチェッ
 クし修正することなんです。教師の最大の任務はそれです。
・人間は正しく勉強しなければいけないと思うんです。これを、また逆にいうと、かくの
 ごとく方法を身につける勉強をした人は強いということです。大学、大学院を通じてそ
 ういう方法を身につけた人は、これは何商売をしていようと、それとは関係なく自分一
 個の努力で勉強することができるでしょう。こういう人はカルチャーセンターに行く必
 要がない。  
・不幸にして、たとえば戦争で学校へ行くことができなかったとか、あるいは親に理解が
 なくて中学までしか行かせてもらえなかったとかということによって、その学問として
 の方法論を身につけることができなかった人にとっては、カルチャーセンターのような
 ものは、決して無意味だとは思わないし、それはそれでけっこうだろうと思う。でも、
 やはりそれは行き止まりです。この場合、勉強が好きだということはいえるかもしれな
 いけど、その勉強が学問の発展にはつながらないということになるわけです。
・知識なんていうものはさして重要じゃないのです。むしろ細々とした知識なんかないほ
 うが健全だ。それよりも、むしろ自分の経験の中で一つの筋道を見いだしていくことの
 ほうが大切なんです。  
・ただ、方法を身につけるということは決して簡単なことではない。思うに、知識なんて
 いうのは一夜漬けでも身につくけれども、方法を身につけるのは、どう転んでも、一夜
 漬けではできないんです。
・もし幸いに、若くて大学生であったり、大学院生であったりするという立場にあるのな
 らば、せいぜい額に汗して、雲水修行よろしく仕込みをしなさいということなんです。
 その仕込みが、その人の一生の有意義なものにしてくれる。けれども、怠けて仕込みを
 しなかった人は、はたと気がついて、おれは何のために生きていたんだろう、老後に何
 をしたらいいんだろうということで、焼きつくようなつらい思いをしなければならない
 でしょうね。そしてそうなってから後悔したのでは実の遅いんであって、人間の頭とい
 うものは、若いときに身につけたものでなければ、年をとってからそれを自由自在に運
 転することは、なかなかないわけです。
・若い時代というのは、何よりも自由な時間に富んでいるってことです。それが若いとい
 うことの最大の意味です。大学というのは、知識を教わるところじゃなくて、やや皮肉
 にいえば、自由な時間を売る場所です。だから、「大学生は勉強が本文だから、遊んで
 ないで勉強しろ」なんていうのは私は嘘だと思う。大学で遊ぶか遊ばないかは、本人の
 自由なんだ。大学というところはモラトリアム=人生の執行猶予期間であって、絶対こ
 れをしなきゃいかんというものがない。自由裁量でどう使ってもいい時間というものを
 四年間、何百万円という金で売ってあげましょうという、そういう機関なんです。そう
 いうふうにもう、はっきり割り切っていい。
・就職したら最後、こんどはもうものを発想する方法だの、学問的な基盤などということ
 は無関係であって、要するに企業というのは合目的な社会なんだから、利益をあげなけ
 れば、結果を出さなければ、その会社の一員として存在する理由がない。ということは、
 根源的にこれは正しい方法だろうかどうだろうか、という問いを発するチャンスは、も
 う既にそこには存在しない。企業人であるからには、そういうことは考えないほうがむ
 しろ、組織としての良く一員だというふうに想定される。「こうやれ」といわれたら、
 もうそれをせっせとやるよりしようがないわけです。ほとんどの人は、こういう中で大
 学を卒業してから先の何十年間をうかうかと暮らしてしまうわけです。男の場合だと、
 それはほとんど定年まで行くでしょう。さて、それからが問題だ。
・女であれ、男であれ、六十歳近くになって、はたと、自分の一生は何だったろうかと思
 いついたときに、カルチャーセンターに通うぐらいしかすることがないってことなんだ、
 問題は。若いときに仕込みをしなかった人は、そこで圧倒的に若い頃の「ツケ」を支払
 わされる。それは、はなはだ悲しむべきことではなかろうか。
・最近は「仕事ばっかりしないで何か趣味をもおもちなさい」とか、「豊かな老後のため
 に趣味をもったほうがいいですよ」なんていうことをいうけど、私はそうは思っていな
 いんです。何か一つのことをものにしようとするんなら、そういうことでは間に合わな
 いというのが、ほんとうのところでしょうか。
・趣味として一生続けて飽きない、実り多いということのためには、もうプロはだしでな
 いといけない。そのためには、やはり若いときの努力がものをいいます。大切なことは、
 一年でも一日でも早く、「コレッ!」ということに一念発起してほしいってことなんで
 す。必ずしも絶対的年齢ではなくて。
・日本の職人の世界なんかでは弟子には一切教えないというのが原則です。それは非常に
 正しいやり方なんだと思います。物事は、教えられるというと、その教えられたところ
 が一つの範囲を形成してしまって、そこから出ることが難しくなってしまう。反対に教
 えられないことについてだったら、どこまででも先に行くことができる。ただし、それ
 を自己流にやっつけているのでは、糸の切れた凧みたいに、どこへ行っちまうかわから
 ない。まるっきりでたらめのものをつくっちまうおそれがあるから、あくまでもマエス
 トロがやることをよくよく見ていて、つまり見習って、そしてそれと寸分違わないもの
 をまずつくることが肝心なんです。
・政府の法規制や、補助金に依存して、それでなければ夜も日も明けない国が日本です。
 それはイギリスなど、個人を重んじ、「わたくし」の志を貴び、何事も個人間のトラス
 トにおいてこれを実行し、しかも、政府がそれに一切容喙しないという国とは、天地雲
 泥の違いでがある。
・自分は一生をかけて学ぶべきことは何だろうということを全然考えないで、もう就職で
 きればそれでいいんだということであると、就職したときから直ちに「私」というもの
 を放棄してしまうことになる。そうなると、そこから後には何もない。「私」というこ
 とをちゃんと考えて、学ぶべきことをきちっと身につけた上である職業につく、身につ
 かなくても、少なくともそういうものを身につけようとして努力をしながらある職業に
 つく。そうすれば、学校を出てからも、自分自身を継続して高めていける。
・強調したいのは、何事ももっと本人自身の問題としてとらえて、きちっとした人格をも
 たなきゃいかん、ということで、何も勉強して出世したら偉いぞといっているわけじゃ
 ない。
・人間には頭の良し悪しというものがあるから、頭の良い人と悪い人と一緒にはならない。
 しかし、じゃ、頭があまり良くないからといって、おまえはもう学問しても無駄だと、
 こういうことになるかというと、そうではない。頭のさして良くない人であっても、何
 か営々孜々として怠らずに努めれば、必ずそれなりの功績はある。
・強い動機があれば、晩学であろうと、あるいは暇なき人であろうと、学問的な功績をな
 すことは不可能ではない。決してたやすくはないけれども、確かに可能である。
・学問というものは、やはり、若い頃に志を立てて、それをきちっきちっと生涯持ち続け
 ていく。ちょっと広げて解釈してみれば、会社の価値にすべて同化されてしまうという
 ことがないように、「私」というものをいつも捨てちゃいけない。
       
読書の幸福
・読書ということについて一つの迷信のようなことが広く信じられている。それは何かと
 いうと、人は読書をしなければ立派な人間になれないとか、読書をしなければものを考
 えることができないとかいうふうに、読書というものを人間の発達にとっての必須の条
 件であるというふうに無条件に信じてしまうことです。それはすなわち、読書という営
 為を良い読書、悪い読書というふうに分類する考え方でもあるわけです。
・しかし、ほんとうのはたして読書によって人格は陶冶されるのか、読書がほぼ絶対的な
 形で人格形成に資し得るのかということ、そこの基本のところまできちっと考えて、そ
 ういうことをいっている人はほぼ皆無であると思います。
・実のところは、読書と人悪とはほぼ無関係であります。人間が生きて行く上では、読書
 というのは必修科目じゃないんだということ、まずそこから発想しなければいけない。
 本を読んだからといって優れた人間になるなどというのは、しょせん根拠のない幻想だ
 と私は思います。      
・読書の意義を否定するつもりはなくて、ただ、読書というものについて、あまりにもや
 みくもな過信をするということはいけないと思うし、またそこから当然に導き出される
 論理として、読書を良い読書、悪い読書などというふうに分けることも根拠がないと思
 うんです。 
・何が名著で、何が良い読書なのか。そういうのは、人はなぜ本を読みたいのかというそ
 のモティベーションのところをすっぽりと欠落させた議論なんです。   
・万人にとって良い本などというものは幻想でしかない。万人にとって良く読書なんても
 のはあり得ない。意味があるのかないのか、価値があるのかないのかというのは、ひと
 えにその人一人ひとりの内的動機によるものなんです。ということは、動機なきところ
 に、強いてこれを読ましめても、少しも実は心に響かないということなんです。
・本というのは、それぞれの人が読みたいように読みたいものを読めばよい。
・人間が生きて行く上では、読書よりもセックスのほうが大事だと思います。ほとんどの
 人は、読書なしでも生きていられるけど、セックスなしには生きていられないわけだか
 ら。ですから、そういう意味では、セクシュアルな本を読むことが悪い読書だなどと決
 めつけるのはまったく傲慢の沙汰というべきでしょう。
・私は悪書などというものはないというふうに思ってるんです。どんなものであれ、その
 人にとってモティベーションがあるのであれば、その本の存在価値はある。哲学の本を
 読む人が偉いとも思わなければ、通俗小説を読む人がくだらんとも全然思わない。
・ほんとうの内的な動機のないところで形式的に「古今の名著」なんかを読破してりする
 と、人間は悲しいことに「読破する」というそのことが自己目的になるんです。そして、
 おれはあれも読んだ、これも読んだということが勲章のようになって鼻先にぶら下がっ
 ちゃうんですね。世にいわゆる、「学問の置きどころ悪し鼻の先」というのがあるけれ
 ども、学問がそのような形で鼻先にぶら下がってら、これは文字通り鼻持ちならないと
 いうもんです。内的動機なき読書を押しつけるということは、こういう鼻持ちならない
 人間を育てる可能性すら内包していると言わざるを得ません。    
・読書会なんかに一生懸命になって、こまちゃっくれた、何か変なガキが、あんなんだっ
 たら、本なんか全然読まないけど、カエル捕まえたり、鉄棒をぶん回したりなんかして
 遊び回っている子のほうがどれほど人間的に素晴らしいかわからないと思うんだ。
・内的動機のないところに、課題図書だの読書感想文だのというような制度的な形で、や
 みくもに本を与えるということは、そういう危険をはらんでいるということを警告した
 いんです。無理に与えなければ、そういうつまらなかったなとかいうような先入主をも
 たせる機会もあり得ないわけだから、何が内的な動機が沸き上がってきたときに、自分
 が求める本を自分で本棚から掴み出す。そのときを待つべきなんです。
・いろんな人生の可能性があって、本を読むなんていうのはいくつかの可能性のうちの一
 つにすぎない。  
・名著なんていうものも、要するに時代の流行なんですよ。
・本を読む楽しさを知っている人は黙っていても読むけれど、本を読む楽しさを知らない
 人は、楽しさがわからないんだから読もうという気が起こらない。読もうという気が起
 こらないから読まない。読まないから楽しさがわからない、という悪循環になっている。
・人にはそれぞれ適性があって、一生、本を読まない人だっているんだから、それは別に
 かまわないんです。本を読まないからといって、だめな人間だとか、くだらない人間だ
 とか、そういう考え方のほうがくだらないんであって、本を読まなくなって別にどうっ
 てことはないんだというところからまず発想しなきゃいけない。
・私はかねがね本というものは、自分で買って読むべきだということを力説しています。
 本というものは読んでも忘れてしまいます。人間はだいたいのことを忘れてしまう動物
 です。図書館で借りてきて読んだとすると、その本は返してしまいますから、一週間後
 にはすでに身辺にないということになります。もし手近な書棚にでもそれが置いてあれ
 ば、何かのときにすぐ見ることができる。いちいち読み返さないまでも、置いてある書
 物の姿を毎日のように見かける。それだけで、その本を読んだ記憶を常にリマインドし
 てくれるわけです。だから、もし図書館で借りてきて、この本はよかたなあと思ったら、
 それを必ず買いなさいというんです。
・読書をしたからといって人間的に偉くなるわけじゃない。その人に対して何か力を与え
 るのが読書なんだろうと思います。生きていく力だとか、慰めだとか。自分がどうやっ
 て生きるべきかって考えるときに、何か人生論みたいなものを読んで大いに啓発される
 ということだって当然あるだろうし、どこまで行っても「私」との関連においてしか語
 ることができないんです。 
・その人にとって面白いと思うような本があったならば、それはやっぱり買って身辺に置
 くべきなんです。図書館で読んだからもういいわ、と思うのは、これは結局、通り抜け
 て忘れられていく読書です。もしつらい恋愛で苦しんだ人が、ある恋愛ものを読んで慰
 められたとすると、そのときのことというのは、あとあとまで、ずうっと覚えているも
 のです。人生でそういう経験をもっている人はやっぱり幸いだと、私は思います。
・恋の苦しみを癒してくれた恋愛小説が書棚にあるということは、自分の人生の一部が書
 棚に残っていることと同じなわけです。それを図書館に返してしまったら、自分の人生
 を図書館に返してしまうことになる。    
・私の場合、なぜ学者を志したのかというと、家庭環境というものが非常に大きいファク
 ターになっているんだけど、そのファクターの一つは、家のどこにでも本があったとい
 うことなんです。何か調べようかなと思うと、百科事典がちゃんとある。学校で「吾輩
 は猫である」なんか教わると、ちゃんと家にもある、というような環境です。私は決し
 て読書好きの子どもではなかったけれど、自分の家のいつでも手が届くところに本があ
 ったから、本に対して強迫観念はありませんでした。
・本を 読もうと思ったら、わざわざ図書館まで出かけていかなきゃならないってのは、
 まず億劫な話です。そして、図書館というところは、人がいっぱいいる。それから、声
 を出しちゃいけない。閲覧室でちょっと何かおしゃべりなんかすると、「シーッ」なん
 て言われたりなんかする。あんな状態の中で、私は落ち着いて本なんか読めないと思う。
・古典なんか読もうと思ったら、少しずつ暇を見つけながら何カ月もかかって一冊を読む。
 そういう読み方をしなければ身にならないでしょう。一週間でどうしても読むなんてい
 ったって、頭に入らない。そういう意味でも、図書館で本を借りて読むということは副
 次的に考えるべきことであって、まして、館内で読書するなんて論外だと思う。
・世の中で、金をかけないで何か実りを得ようという考え方は間違っていると、私は思う
 んです。確かにそれは本を買うのは安くないかもしれない。ほんとうに本が好きならば、
 酒を飲んだり、たばこを吸ったりというような余計なことをしないで、本に金を使えば
 いい。これは一つの投資、自分のみならず、自分の子々孫々に及ぶ投資だと思わなきゃ
 なりません。 
・その結果、むだ買いというものがどうしても生じてきます。面白そうだなと思って買っ
 てみたらば、ひとっつも面白くなかった。これは仕方ないんです。そういうことを積み
 重ねないと、つまり試行錯誤をしないと人間は賢くないから、そういうことをくり返し
 ていくうちに、ああ、だめだ、この作者の本はどれを買っても面白くない、どれを買っ
 てもくだらない、ということがわかったり、この作者の本だったらだいたい面白いぞ、
 ということが経験的にわかってくるものです。
・誰か他人に、「この本面白いから読んでごらん」と薦められて読んだ本で面白いと思っ
 たことは、ほとんどありません。やはり自分で探すんでないと、本当に面白い本には行
 き当たりません。一人ひとりモティベーションが違う、生活のヒストリーが違う、興味
 の範囲が違いますから。    
・私はいま職業柄、とにかくべらぼうに本を買うけれども、それでもやっぱり、七、八割
 は無駄買いになっていると思います。面白そうだと思って買って帰ってきて、ちょっと
 読み始めてみたけど、ぜんぜん面白くないやこれは、と思って途中でやめてしまって、
 そのままほっぽりだしてある本は数知れず。結局、本当に面白いのは、読み始めたら最
 後まで一気に読ませてくれます。そのうちに面白くなるだろう、面白くなるだろうと我
 慢して読む本は、たいてい最後まで読んでも面白くなりません。それは、一見無駄なこ
 とのようですが、そういう無駄読みをしたことで貸しなった分だけ無駄じゃなかったん
 です。だから私はそういう無駄は大いにします。お金も無駄にする。時間も無駄にする。
 人生は有限だから、無駄はできるだけないほうがいいという考えもあるけど、こと学問
 とか読書というものは、そう効率よくはいかないと私は思います。
・本を読むことを、勉強だと思うからいけないんです。読書は娯楽なんです。だから私自
 身は、本は決して高いとは思わない。  
・図書館というものは、基本的には、辞典とか参考文献とか、調べものをする場所だと思
 います。だから本来は、ああいうところで娯楽のための読書なんていうものをサポート
 する必要はないと思うんです。まあ、そうはいっても、なかにはそういうことを希望す
 る人もいるから、一般の市立図書館や何かは仕方ながない。
・図書館で借りて本を読むんではだめだという理由の一つは、本を汚せないからです。図
 書館で借りた本は、当然のことながら、書き入れたり、傍線を引いたり、そういうこと
 をしちゃいけないということになっています。でも、本というのは基本的にそういうこ
 とをしながら読むと、よく読めるんです。汚しちゃいけないなんていう余計なことに気
 を配っているというと、人間は読書に集中することができない。
・図書館で本なんか借りて読んでいるうちは読書もいまだしだと言わざるを得ない。どし
 どし本は汚すべし。 
・江戸時代には藩校っていうものがありましたが、これはもうほんとうに一部の人しか受
 け入れていなかった。藩校というところは、原則として武士の教育機関ですから。そこ
 では「史書」「論語」「孝経」のような史書五経をはじめとして、いわゆる儒教的なも
 の及び武術をきちっと教育するシステムは整っていた。その藩校のいろいろな記録って
 いうものを調べてみると、いかに多くの学生がサボってばかりいて、出席常ならざるこ
 とに学校当局が手を焼いていたかということが、厳然たる事実として出てきます。その
 ためにいろいろな懲罰を設けたり、ご褒美を与えたり、いろいろなことをするんだけど、
 結局、半分以上のやつは出てこないというわけ。いまでいう超エリートの学校ですらそ
 んなものだったんです。
・農民や町人のほうでは寺子屋教育というものがあったけれども、そこで教えられていた
 のは主に読み書き算術です。実語教、童子教というような非常に実用的な教育をしてい
 たにすぎません。つまり、商人が、帳簿を書いたり読んだり、請求書の手紙を書いたり
 とか、そういうことができればそれでよかったんです。
・一方でまた、江戸中期以後には心学塾という、寺子屋とはちょっと違う教育施設ができ
 ました。これは今日のカルチャーセンターみたいなものです。一般の庶民の男女を対象
 にして、これは基本的に共学なんだけど、何十人、何百人という人を集めて講釈をする
 んです。   
・明治になると、帝国大学というものができます。東京、京都、大阪、九州、東北、名古
 屋、北海道、京城、台北の九帝大。その帝国大学を頂点として、早稲田、慶應その他の
 私立大学などもできてきます。それでもしかし、大学に進学する人の数なんていうもの
 は、全国民のなかでいえば、せいぜい1パーセントか2パーセント以下でしたでしょう。
・その点では明治時代になっても江戸時代とさして変わりません。また一般の教育におい
 ても、尋常小学校というのは、かつての寺子屋が名前だけ変わったみたいなものです。
 だから、非識字率なんていうものは、江戸も明治もたいして変わらないんです。もとも
 と日本には、江戸時代からあんまり非識字者がいなかったんです。少なくとも都市部に
 は。 
・明治時代に、国民の何パーセントが活字メディアというものに接して、読書ということ
 を己の楽しみとして享受していたかということは、まったく無視し得るぐらいに低い率
 じゃないかと思います。そういうのが尾を引いて、だいたい戦前の庶民はあまり本を読
 まなかったでしょう。特に女性は「女が本なんか読んでどうする?」なんていわれて。
・明治時代の帝国大学の学生と、いまの大学生を、同じ「大学生」というタームズで見た
 ときには、そりゃ、「大学生ともあろうものが、こんな本も読んでない」とかいうこと
 になるかもしれない。 
・だいたい、そういうことを嘆いている人たちの大部分が、戦前だったら大学の先生には
 なれなかった人たちです。どだい大学の数がごく少なかったんだから。戦前の大学教授
 なんていったら、それはいまから比べたら大変なステータス、エリート中のエリートで
 す。いまはもう東京だけでも百以上の四年制大学があるくらいで、「石を投げれば大学
 教授に当たる」という時代なんだから。そういうことを考えると、昔のごく一握りの知
 的エリートたちが享受していた読書経験というものを、今日の大衆社会である学生集団
 に向けて期待したって、それは初めから無理な「ないものねだり」で、あり得ないこと
 だ。
・多くの人は大学という枠だけ見て、「いまの大学生は本を読まなくなった」というよう
 なことをいうけれど、そうじゃないんです。事実は。私がいいたいのは「本を読まない
 ような人たちでも大学へ行くようになったということを喜ばなきゃいかん」ということ
 なんです。

遊びは創造
・ビジネスのオンの状態とプライベートのオフの状態というのをはっきり分けるわけで、
 それはそれで、正しい態度だと思うんです。日本人の場合、オフには、たとえば、なん
 か是が非でもアウトドアライフをしなければいけない。カヌーだとかキャンプ、魚釣り
 に行ったりとか。レクリエーショナル・ビークルに乗っかって、山野を駆けめぐり、ロ
 グハウスを建てたりとか。そういうぐあいに、「何か」をしないと休暇にならないって
 いう「思い込み」が出てくるんです。でも、これは考えてみると、ジャーナリズムに踊
 らされているだけなんです。
・ほんとうにもし、自然に親しみたい、自然を尊重したいという思いがあるから、やはり
 歩いて、または自転車漕いで行くとか、できるだけ自然を壊さないよう、戦々恐々と暮
 らすということがほんとうだろうと思うんです。
・真実の余暇ってのは、何もしないべきなんです。最も知的な生活というものは、余暇が
 できたら、真夏だったら頭に氷嚢でも当てながら寝ころがって本を読んでいる。どこへ
 も出て行かない。どこへも出て行かないから世の中は混まないし、ごみは出ないし、自
 然破壊もない。くたびれないし、心身の英気を養うので、ほんとうの、リ・クリエーシ
 ョンになる。 
・時間をオフにしたら、こんどはオフのときにまた何かをやらなきゃいけないという強迫
 観念があって、家族連れて田舎へ帰って、盆踊りをして、帰りにディズニーランドへ寄
 って・・・と、これでは、仕事をしているのと同じになってしまう。
・いわゆる余暇とは仕事をしないことなんだけれども、その余暇にまた何かをしなければ
 ならないとなれば、それは余暇にあらずして仕事であるということ、このことにお気づ
 き願いたいわけです。
・ただ寝ころがっているのでもいい。何もしないでいると、そのうち何かしたいなあと思
 うかもしれないから、そうしたらそのしたいことをすればいい。
・どういう状態が、自分にとっては面白くないのかということを考えてみると、結局、ほ
 んとうにこう意に染まない人に無理やり何かをさせられているとか、自分がやりたくも
 ない仕事を押しつけられて延々とそこから逃げられないでいるとか、そういうことがほ
 んとうに苦痛です。 
・会社の中の仕事でも、ちゃんと結果を出すところまで努力をして、そしてその成果が正
 当に評価されれば、どんなことでも決してつらくはないと思うんです。人がいかにワー
 カホリックだとか何とかいおうとも、そういう問題じゃない。ただ、面白おかしく麻雀
 やカラオケをして遊んでいるように見える人よりも、何か真摯に仕事をしてそれが認め
 られた人のほうが、結局、精神の遊び的なゆとりも生まれるし、楽しかったと思えるん
 じゃないかと思います。
・遊びの世界では、みんなで仲良く何かをする団体のアクティビティを、どうだ楽しいだ
 ろうと押しつけられることがあります。日本の社会というのは、個人主義ということを
 基本的に認めないわけです。個人主義イコール利己主義であるというふうに見ていくか
 ら、教育の体制や何かも、一人ひとりが好きなことをやればいいじゃないかというふう
 には、なっていない。
・すべて団体として一致してやることが美徳であって、それをしない人は集団としての何
 か和を乱すというふうに疎外される。個人主義的行動というのは、協調性に欠けるって
 いうふうに見られるわけです。
・問題意識なり何なりは一人ひとり違うんだから、それをすべて、たとえば階級とかいう
 ようなものに帰納せしめて、どっちが正義でどっちが正義でないとかいうような割り切
 り方をするイデオロギーというものの限界はそこにあると思わずにはいられません。人
 間の欲望とか個性とかいうものを圧殺しなければ成り立たないような思想というものが、
 最終的に歴史のなかで敗れていったのは、やはり歴史の必然だと思わざるを得ないんで
 す。
・個人主義というのは、人と自分とは考え方も価値観も違うんだ、ということを互いに認
 め合った上で、人づき合いをするんです。
・学問というのは、本質的に高等な遊びなんです。遊びだからこそ、そこに一生をつぎ込
 んでも悔いがないということになるんです。それが、たとえば会社勤めをするようなつ
 もりで、ルーティンの仕事として取り組むんだったら、定年とともに、はサヨナラとい
 いたくなるかもしれない。 
・諦めず、倦まず弛まず、いつも前を向いて、最善をつくして努力さえしていれば、やが
 て天がそれを認めてくれるだろう。志と努力さえあれば、晩学だからといって諦めるに
 は及ばない。そして、その忙しい生活に疲れたら、そっと休もうじゃないか。