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筆者は、東京大学を卒業後、住友商事に就職したようだが、その会社の社風が肌に合わず、
「仕事周辺の我慢」によって、すごいストレスに悩まされたようだ。本の随所に、その時
の苦い体験が滲み出ているように感じる。この本の随所に出てくる筆者の苦しみを読んで
いると、あの電通の女性社員の自殺のことを思い出してしまった。筆者の体験は1960
年代の時のようだが、当時においても、会社のなかでのストレスから自殺する人が出てい
た。そしてそれが、60年近く経った現代においても、なくなることはなく続いている。
その後、筆者は住友商事を10年余りで退社し、住友商事の子会社に移籍し、そこではそ
の会社の社長まで登りつめたようだ。

この本は、筆者の経験から、日本のサラリーマンは、どうしたら幸せな人生を送ることが
できるかを、論理的に考察したものである。筆者のように、サラリーマンの幸福について、
論理的に考察した人は、少ないのではないかと思える。よく、旧日本軍は、「情緒」と
「空気」に支配された論理性をまったく欠いた組織であったと言われる。しかしこれは、
なにも旧日本軍という組織ばかりではなく、現代においても、日本の政府や官僚組織、そ
して企業組織においても、いまだにその傾向が根強く残っているのではと思う。日本社会
は、昔も今も村社会であり、論理的に思考するという風土が根付かない社会なのだろうと
思える。そういう視点から考えると、この本は、なかなか貴重な内容なのではないかと思
う。

現代の日本のサラリーマンは幸せなのか。現状を見る限り、とても日本のサラリーマンは
幸せだとは言えないだろう。「会社人間」「社畜」、「過労死」などの自嘲ともいえるこ
れらの言葉からもわかるように、日本の多くのサラリーマンは、我慢を強いられながらも、
生きていくために、仕方なくサラリーマンを続けている。
ひとりのサラリーマンの人生を大まかに分けると、人生八十年として、生まれてから就職
して社会の出るまでの二十数年間と、サラリーマンとして働く四十数年間、そしてリタイ
ア後の死ぬまでの二十数年間の三つに分けることができると思う。そう考えると、サラリ
ーマンである期間は、人生の半分を占めることになる。そして、この期間は、生物学的に
は一番活発に活動できる期間でもある。
そのような期間が、ただただ辛いだけの期間だとしたら、ほとんどのサラリーマンの一生
は、不幸せな人生ということになる。そんなサラリーマンの人生を、幸せな人生にするに
は、どうしたらいいのか。
筆者は、「時々幸せ」を求めるのではなく、「毎日幸せ・一生幸せ」を求めるべきである
と主張している。確かにそれは理想ではあるが、現実にそんなことが可能なのであろうか。
「幸せ」であるかどうかは、その人の心が決めることであると私は思う。そして、その心
は、とても移り気なものである。どんなに周囲の環境が、十分に満足のいく状態であって
も、その状態が長く続けば、その状態に飽きてしまい、不満を持つようになるのが人間で
ある。人間の心は一定ではない。常に揺れ動いている。幸せ感というのも常に揺れ動き、
続かないと思うのだ。「毎日幸せ・一生幸せ」を求めるのは、「青い鳥」を求めるのと、
同じようなことではないのかと私は思う。

この本のなかで問題とされている、東京一極集中については、ずっと以前から問題視はさ
れていた。一時は、首都移転構想なるものも語られた時期があったが、今はまったく鳴り
を潜めている。それは、一極集中は、いろいろな問題はあるが、それ以上に、効率的な面
や便利さの面などで、デメリットよりもメリットのほうが多いと思われているからなのだ
ろう。首都圏に住みなれた人は、たいへんだと言いながらも、地方に移り住みたいと思う
人は、少ないのが現実なのだ。しかし、そうはいっても、首都圏直下型大地震のことを考
えると、やはり、このまま東京一極集中のままでいることは、大きなリスクであることも
確かだ。ヘタをすれば、首都圏直下型大地震によって、いっきに日本の政治や経済が、崩
壊してしまう恐れもある。一極集中がここまで来ている現在では、地方への分散化をはか
るにしても、長い年月を要するだろうから、分散化する前に首都圏直下型大地震が来てし
まい、もう手遅れとなるかもしれないが、それでも、徐々に地方への分散化を進めていく
べきだろう。それにはやはり、企業の本社などが地方に移転した場合に、税制面で優遇す
るなど、制度的な優遇処置を設けるなど、政治的に主導する必要があるのだろう。

筆者は、「日本は今や一億総株屋の国と化した」と嘆いているが、当時の時代は、今から
見ると、まだ一般の人が株に手を出している人は少なかったのではと思われる。それが今
や、政府が先頭を切って「貯蓄から投資へ」と国民を煽っており、国民もそれが当たり前
と思っている。当時の時代と比べると、まさに隔絶の差だ。
また筆者は、「会社の目的は利益ばかりではないはずだ。会社を利益だけで評価してはな
らない」と主張するが、今も、ほとんどの人は会社を利益で評価している。会社の評価ば
かりではない。人間の評価も、”稼げるかどうか”で評価されている時代だ。世の中すべて
価値基準は”金”となってしまっている。
さらに筆者は、この本のなかで、日本には、二大政党による政権交代をしていくという体
制はできないと予言している。現在の政治状況を見ると、まったくそのとおりになってい
る。この本が出版されたのは、今から30年近く前の1992年頃である。その当時から、
現在のような政治情勢を予言していたことは、それだけ、日本の政治というのは、昔から
ずっと変わらずに、現在まで来ているということなのだろう。
日本の社会の問題点として、いろいろ挙げられるが、基本的な問題点は、日本社会は、
「以心伝心」「言わず語らず」「ツーカーの関係」「アウンの呼吸」などという非言語コ
ミュニケーション社会であることが起因していると言えるだろう。これは、良い面もある
が、社会がその場の「空気」に支配されるということである。言わなくても、その場の
「空気」を読んで、とか「忖度して」物ごとが決定されたり、実行されてりする。そして
そこに、思わぬ誤解や精神的束縛が生じてくる、ということではないだろうか。
このようなことを考えると、結局、日本という社会そのものが、サラリーマン、いや、人
間そのものを、幸福にしない社会システムになっているということなのだろう。一部を変
えたら良くなるという問題ではないようだ。筆者の結論としても、そういうようなところ
に帰着していると感じた。

まえがき
・バブル時代、サラリーマンは、本当に不幸だった。景気が過熱し、あれよあれよと言う
 間に地価が高騰。日本を売れば、アメリカが三つ買えるなどと言われたが、その結果、
 サラリーマンは、遠く狭い住宅さえ手に入れることができなくなった。
・株価も、ゴルフ場の会員権も、レストランの食事代も跳ね上がり、法人化して金を使う
 ことのできない庶民は、繁栄から取り残された。一夜にして巨万の富を築いた一部の投
 資家は笑い、サラリーマンは無力感に泣いた。
・それが、ある日を境にして反転した。待望の株価は下がり、すべては、サラリーマンに
 とって、いい方方向に変わった。ところが、それは不況という、「望ましくない状態」
 たと識者はいう。
・たしかに、リストラで職を失ったり、バブルの最終段階で無理して住宅を手当てしたサ
 ラリーマンは、バブルの崩壊を嘆くかもしれないが、全体としては、サラリーマンにと
 って、バブル崩壊後、そお幸せ度は大いに増したはずである。
・バブルの暗雲が途切れて、ようやく青空が覗いたのだ。先行きへの不安感から、そうい
 う投資に踏み切れなかった人たちも多いだろうが、それぞれの懐具合は、バブル時代よ
 りははるかによくなったはずだ。    
・にもかかわらず、メディアは「たいへんな時代」を繰り返し、それに影響されてか、そ
 れとも自分の会社の不良債権処理に追われていて錯覚したのか、サラリーマン自身も
 「たいへんだ」と思っている。なんだか変だ。
・どうやら日本のサラリーマンも、メディアも、善悪の判断の基準を、すべて会社の業績
 においているらしい。
・サラリーマンは、自らを幸せにする要素はいったい何かついての価値判断の基準を作ら
 ねばならない。
・どうも日本の国はおかしい。非常の多くの人が、そう感じている。どういうわけか、東
 京に、果てしなく人が集まってくる。日本列島に、巨大な「日の丸」模様を描いて、東
 京は半径百キロの円になろうとしている。その結果、地価は高騰し、遠いところに狭い
 我が家さえ持てなくなった。通勤は地獄と化し、その解決方法として、いつ大地震が起
 こるかわからない人口密集地帯を走る電車のスピードばかりが、どんどん速くなる。
 都心にはオフィスが増え続け、中心は空洞化する一方、東京圏全体としては、一層、人
 口が密集する。
・サラリーマンは働く。働き続ける。タチの悪い会社になると、残業をしても手当てもつ
 かず、私生活時間帯も仕事をするのが当然というシステムになっている。多少マシな会
 社でも、残業のならない夜ごとの接待で、遠い我が家に帰るのは、ほとんど午前様。そ
 んな生活が数十年続けば、かならず肝臓が傷む。加えて、単身赴任となれば、肝臓ばか
 りか、胃も精神も病む。でも、サラリーマンは我慢、我慢だ。
・会社での我慢のなかでも人間関係の我慢が一番つらい。上下左右に気を使う。何しろ、
 仕事のプロセスがはっきりしない。規程に書かれているとおりにやっていたのでは、仕
 事は何ひとつ進まない。会議で丁々発止の議論の末、物事が決まることなどまずない。
 すべては、事前の根回しによる。死後十90パーセントは社内との折衝だ。ひそひそ話
 の結果、いつの間にか意思決定が行われる。ひそひそ話の間の遊泳が上手な少数の人だ
 けが、活き活きとしている。    
・あれやこれやがいやになって、会社を辞めようと考えるが、辞められない。退職金で足
 止めされているうえ、他社が今の会社よりマシだという保証がまったくない。きっと他
 社だって似たようなもの。
・それなら、一度勤めたところのほうが既得権があるような気がする。だから、ますます
 我慢する。我慢が高じて、なかには、過労死さえする人さえいる。生きる(生活する)
 ために努めた会社で過労死するというのは、ビタミン剤だと思って青酸カリを飲むよう
 なものだ。 
・日本中誰もがこんな我慢をしているのかと思って見回してみると、そうはいかない。バ
 ブル最盛期には、1台1千万円を超える車を買うために半年も待っている人々がたくさ
 んいたという。普通のサラリーマンの生涯賃金に匹敵する資金で株式の投機を楽しんで
 いる人もいっぱいいた。
・どうやら、好況というのは、サラリーマンが不幸になるときに、不況というのは、幸せ
 の増すときに指す言葉のようだ。日本語では、何も変えないことを主張する政党が革新
 で、環境をどんどん破壊する政党が保守だというように逆説的に表現することが、時と
 してあるが、好況・不況も同じような表現なのだろう。
・とにかく不況については、抜け出さないとたいへんだとテレビでも雑誌でも、どこにで
 も出ているから、きっとたいへんなんだろうと信じるしかない。ボーナスが減った、残
 業手当が減ったなどとなると、結構、実感もある。
・けなげにもサラリーマンは、不況脱出が急務だと本気で考えている。不況になったお陰
 で、将来買うであろう土地やマンションの価格が下がったら、その下がり方のほうが残
 業手当の減少より大きいはずだなどという難しいことは考えないのである。
・日本の学校では、記憶術は教えてくれたが、論理や思考方法は教えてくれなかったのだ
 から、その学校で一所懸命勉強したサラリーマンの思考力のなさを責めることはできな
 い。
・そもそも、会社のなかでの栄達以外については、自分の損得のことを考えないのが、日
 本のサラリーマンの美風である。「武士は食わねど高楊枝」、つまり気分は侍である。
 客観的には昔の農民に近いように見えるが、本人は侍だと思っているから、どこか、新
 選組に集まった若者に似ている。
・最大多数のサラリーマンや消費者を無視して、政治家は、農民・商業者などの顔を見て
 いる。大規模小売店舗法のようなひどい法律でも外圧がなければ変わらない。そのうえ
 汚職や政治資金適正法違反のニュースが毎日の新聞を賑わすのを見ていると、この国に
 は自浄作用がないのではないかという絶望的な気持ちにもなる。
・だいたい、民主国家のはずなのに、戦後半世紀にわたって、首相を自ら選んだ気がしな
 い。その点、アメリカの大統領選挙が羨ましい。日本には選択肢がひとつしかない。自
 民党が万年政権党で、野党のチェックがほとんど効かないまま、政権はタライ回しにさ
 れている。      
・この国では、何事にもよらず、すべてチェックが入らないようになっている。だから、
 政治は密室化する。「経済は一流、政治は二流」などと言う人もいるが、株主総会、取
 締役会、監査役制度など、制度的チェックが有名無実化している状況は、経済でも同じ
 こと。会社も密室の集合体だ。
・密室の外にいる人間にとって、これはきわめて不愉快な現象だ。納得できない。情報が
 ないのだから、納得のしようがない。納得できないまま、我慢に次ぐ我慢を強いられて
 いたのでは、幸せ感が生まれるはずがない。

問題はどこにあるのか
・1980年代あたりからだろうか、日本は豊かになったのに、日本人には、幸せ感が乏
 しいという指摘が多くの人々からなされるようになった。これからは個人の幸せを求め
 る時代だとされ、そのための新しい価値の尺度を発見することが重要だなどとも言われ
 ている。  
・たしかに、今までの日本人は、独特の集団主義的発想で会社に滅私奉公してきた。その
 結果、今日の経済的繁栄が生み出されたのだが、同じ原因が別の道筋をたどって、同時
 に、幸せ欠乏感を生んだと考えられる。
・そのような複雑に絡み合った問題の答えとして、「これからは個人の幸せを求める時代」
 とか「会社中心の時代から個人中心の時代」などという、耳に快い、単純な価値観をひ
 とつの規範として打ち出すことで済むとは思えない。 
・何も解決していないのに解決したかのごときムードを作り出し、問題を先送りするか、
 場合によっては、問題をこじらせるばかりということになりかねない。   
・選挙がちゃんと実施され、それにより選ばれた代表が構成する国会が立法の府であるな
 ど、そういうことさえ実施できないでいる国が世界中にたくさん存在しることを考えれ
 ば、たしかに日本は民主主義の程度において、「かなりいい線を行っている」かもしれ
 ないが、多数のサラリーマンや消費者の利益より少数の農民や商業者の利益が優先する
 政策が一貫して取られ続けたり、外圧がなければそれを自ら変革できないというような
 事実を見ると、「まったく駄目」だとも言える。
・だいたい、多数決を強行採決と称し、国会の中で暴力を振るったり審議そのものを牛歩
 などによって妨げる、しかも暴力を振るったことや牛歩による審議妨害が重罪として問
 われないなどという民主主義国家があるだろうか。
・国会で決められた法律と違う運用が行われても、効果的な救済を得ることができない、
 そんな馬鹿げた法治国家があるだろうか。
・民主主義を支える基礎とも言うべき、対話、権利、法治主義、多数決、手続きの重視な
 どの諸概念が国民ひとりひとりのなかに根を下ろして理解されなかったのである。
・「会社を選ぶのではなく仕事を選ぶ」「転職の回数が実力を表す」「年功序列ではなく
 実力主義に」「女性の戦力化」など、まるで最近の雑誌の見出しのようだが、実は私が
 就職した昭和三十年代中頃に言われていたことだ。ひところ流行った「マイホーム主義」
 とは、今から思えば会社を家として働くことだったのかと皮肉のひとつも言いたくなる。
・「社会的価値観のファッション化」は、問題を見えなくする一種のゴマカシである。
 「会社主義から個人主義」とか「個人の生活を楽しむ時代」などという言葉に自ら騙さ
 れてしまわない冷静な態度が必要なのではないか。
・私は、私のうえに立つリーダーは、国のため、仕事のため、組織のためなら、私生活な
 ど犠牲にして欲しいし、本当にその必要があるなら一命を投げ出すくらいの覚悟を持っ
 た人であってほしいと思っている。そうではなくて、どうして国民や部下がついていく
 だろうか。どうして国が栄え、事業が成るだろうか。
・「仕事より家庭が好き」などという人は、首相のような重大な仕事のリーダーとしての
 第一条件を欠いている。小さな会社であっても、そのリーダーとしての私自身も「仕事
 は大好き」であり、「家庭より仕事」である。もちろん仕事が片付いた「余暇」には、
 家庭サービスに努めることは、当然である。リーダーなら、どんな時代でもこれは当た
 り前のことだ。      
・未成年者に対してならいざ知らず、立派な大人に対して、「個人の価値観を確立すべし」
 と誰かが叫んでいるというのも不思議な話だ。そんなことを教えてもらわねばならない
 大人は、もう遅すぎて手のほどこしようがない。まして、社員に趣味を持たせるための
 セミナーを開いている会社があるというのに至っては、驚きを通り越して呆れてしまう。 
・個人の価値観というのは、個人が、それもおそらく思春期の憂鬱な悩みのなかから、そ
 れぞれに見つけ出すものであって、成人に対して、それを他人に教えたり、とやかく言
 うものではない。
・第一、周りの人間が他人の内面まで入り込んで支配するという発想こそ、何のことはな
 い、今までの集団主義的発想の最たるものではないか。
・日本人が豊かさのなかにいるにもかかわらず、「幸せ欠乏感」を抱いているという問題
 は、かなり複雑な問題である。この問題の解決は、当然にシステムズ・アプローチによ
 らなければならないはずだが、現実には、かならずしもそうではない。
・人々は、それぞれの立場から、エレメント・アプローチによって何とかこの問題を解決
 しようとしている。「働きすぎが問題なんだ、だからあまり働かないようにしよう」と
 いう主張などは、その最たるものだ。他の要素を放っておいて、働くという要素だけを
 著しく抑制すると、例えば「競争力低下→貿易赤字→経済繁栄の終焉→貧しい社会」と
 いう高度成長の逆行現象が起こりかねない。  
・「他人はどうでもいい。そんなことは待ってられない。せめて自分だけでも個人の人生
 を充実させよう」と考えて、明日から「残業拒否、接待の付合いゼロ、休日完全消化、
 有給休暇完全取得」を掲げて実行したら、幸せになれるだろうか。「職場でも総スカン、
 飲み仲間も失い、収入激減、小遣い不足、暇持て余し、家庭で邪魔者扱い、歓迎されな
 い職場への長距離通勤で精神状態不安定。その結果、健康を害する」どとというコース
 が見えてくる。
・個人では駄目だ、「赤信号みんなで渡れば怖くない」という奴で、みんなでやったらい
 いじゃないかという考えもある。残業拒否、接待付合いゼロなどなども、全員が揃って
 やれば大丈夫というわけだ。結論ははっきりしている。その会社は遠からず潰れること
 になる。日本の激しい競争社会のなかでは、そんな会社は生き残ってはいけないからだ。
・システムズ・アプローチで問題を解決しようとする場合、最初に「問題が解決された状
 態」とはいかなる状態であるかということを明確にしなければならない。ところが、社
 会現象や集団による仕事ということになると、問題が解決した状態を明確にしようとす
 る人はきわめて少なくなる。日本人はとくにそういう傾向があるといわれている。 
・よく挙げられるのは、戦争の終結状態を明確にしないまま開戦に踏み切った第二次世界
 大戦の例である。当時のリーダーは、国家、民族、家庭、友人などすべてを賭けて戦う
 のに、醤油差しを取るようなやり方で立ち上がったのだ。驚きとしか言いようがないが、
 あれから半世紀以上経った今も、この思考の癖は変わっていない。
・企業によって差があると思うが、一般には、近代的と思われている大企業のなかでの仕
 事でも、それがいかに複雑でも、ほとんどエレメント・アプローチで行われている。最
 終的な到達状況を関係者に明示することは稀である。目標状態に到達できない場合には、
 どの程度のところだったら妥協できる結果であるかを、企業の全社レベルであらかじめ
 考えておくなどということを、実際にやっている企業は、非常に少ないだろう。
・形式的には目的や目標が明示されるが、それは厳密な意味では使いものにならないほど
 抽象的であるか、美辞麗句を連ねたいいかげんなものであることが多い。 
・いかにも不効率なこうしてエレメント・アプローチは、今日まで日本の経済発展に有利
 に作用してきた。 
・戦争直後のように危機的状態から速やかに立ち上がるときには、エレメント・アプロー
 チが最善である。トータルシステムの姿を描くことなど、とてもできる相談ではなかっ
 たし、それ以上に、飢えと混乱が迫っていた。まずできることからやるしかなかったの
 である。とにかく自分だけは生きようとするエネルギーが日本を廃墟から立ち上がらせ
 た。それで十年が経った。
・その後の三十年余りも、たまたまエレメント・アプローチに都合のよい状況が続いた。
 だが、すべてエレメント・アプローチで来たから、トータルシステムとしては矛盾が生
 まれ育つ。ある要素(エレメント)の問題を解決すればするほど、別の要素(エレメン
 ト)の問題が大きくなる。その例が東京一極集中の問題であり、働きすぎや過労死の問
 題であり、貿易摩擦の問題である。
・にもかかわらず、相変わらず、すべての問題をエレメント・アプローチで解決しようと
 しているのが、今日の日本人である。
・幸せ感がないと言われている日本のサラリーマンだが、けっしていつも不幸せであるわ
 けではない。いつもは職場で我慢して働いているが、休暇には家族揃って旅行を楽しん
 だりする。休暇をとって自分の会社のデラックスな保養所に行き、そこで家族が楽しん
 でいるのを見るとき、サラリーマンはしみじみとした幸せ感を味わうはずだ。いい会社
 に働いているという満足感も再認識されるかもしれない。
・成長した娘が嫁ぐとき、いやな上司の顔に退職届を叩きつけたい思いを何度も何度も抑
 えながら、結局勤め抜いた自分の選択が正しかったと、自己満足する人も多いだろう。
・定年後、退職金を使って、長年連れ添った妻とふたりで、海外旅行に出発するとき、一
 抹の寂しさとともに、とにかく勤めおおせたという満足感や幸福感があるはずだ。平凡
 ではあっても、何はともあれ、無事生きてきたのだ。長い人生の間、家族を支え抜いた
 ことは、誇らしい満足感を与えてくれるに違いない。
・こうした幸せ感は、ある共通の要素がある。それは、「幸せは常態ではなく、人生のあ
 る瞬間瞬間に例外的に訪れるものである」という認識である。逆に言えば、幸せだと思
 う瞬間以外の時間は、不幸せか、不幸せとまではいかなくとも「けっして幸せでない状
 態(非幸せ)」にあるという前提である。
・「時折幸せ」は、もちろん結構だが、問題は「常態不幸せ」のほうである。豊かという
 なら、常態が幸せでなければならない。
・常態が幸せであるということは、どういうことであろうか。単純に考えれば、時折訪れ
 る幸せを増やして終始持てる状態にしたらいいということになろうが、終始旅行をして
 いたら幸せであるかと考えてみればわかるとおり、実は、「時折幸せ」の拡大や延長線
 上に「常態幸せ」は位置していない。この両者は、量の差ではなく、質の差なのである。
・常態は、「毎日(日常、普段)」と一生(終生)」からなる。つまり、「常態幸せ」を
 言い換えれば、これは「毎日幸せ・一生幸せ」ということである。
・そんなことは贅沢だという感覚を持つ人がいたら、それこそ貧しい発想である。江戸時
 代そのままとまでは言わないにしても、戦前や戦争直後とあまり変わっていないと言わ
 れてもしようがない。    
・本当に豊かな社会に生きるとしたら、私たちは、「毎日幸せ・一生幸せ」を求めること
 ができるはずだし、求めるべきである。だが、「毎日幸せ・一生幸せ」に生きていると
 思われる人は、今の日本社会には、本当に少ない。サラリーマンのなかでは、ほとんど
 ゼロに近いのではなかろうか。    

「毎日幸せ」のためのインフラストラクチャー
・当然のことながら、まず先立つものが重要だ。経済的な安定がなければ、いかなる幸せ
 もあり得ない。だいたい、サラリーマンになるのは、それが安定収入を得やすい道で、
 しかも、普通の人々なら働く気があればだれでもなれるからである。最近では、定職を
 持たずアルバイトを連続して生きていこうという人(フリーター)もいるようだが、安
 定性の点でも豊かさの点でも、長期的にはサラリーマンに遠く及ばないはずである。
・人は生きていくのに必要な収入を、安定的に、できるだけ多く得んがために会社に就職
 してサラリーマンになる。サラリーマンになるために生きているわけではない。このこ
 とを忘れて、会社のために働きすぎて死んでしまう過労死などという本末転倒の現象も
 起こっている。仕事や就職の本来の意味をどこかにおいてきたようだ。
・日本では、バブル崩壊後、雇用環境は若干悪化したとはいえ、失業率は低く、贅沢を言
 わなければ、働く気のある人は、ある水準の収入を得ることができる。名目的に比較す
 れば、日本人の収入額は、国際的に非常に高い水準にある。しかし、そう手放しには喜
 べないところがある。国際的に見た収入の高さが、生活の質の高さに結びついていない
 からである。
・高収入の割に生活の質が高くならないのは、先進国と比較した場合、日本において、生
 活に密接にかかわりある財やサービスのうちの一部が、きわめて高価になってしまって
 いるからである。バブル崩壊後、値下がりしたとは言え、大都市圏、とくに首都圏では
 地価は相変わらず高い。外食費も、高速道路の通行料も、石油も、ゴルフのプレー代も
 高い。いろいろな原因が複合している結果であるが、その根っこに、地価の問題がある。
・高度成長期から年々上昇しつつあった地価は、バブル期、土地神話を確信した人々の行
 動の結果、まさに異常に高騰した。当然、それは、直接間接に日本のすべての物価には
 ねかえった。なかでも、一極集中した首都圏では、店舗の物件費、住居費、高速道路の
 通行料などが高騰した結果、そこで営まれるすべての活動のコストが上がり、生活その
 ものの費用が高くなった。その傾向は、全国へ波及した。
・バブル崩壊後、地価は大幅に下落したのだが、いったん上がった諸経費は、下方に硬直
 性があり、なかなか下がらない。地価は下がったが、現在はまだ、高地価時代のコスト
 をたっぷり引きずった計算のうえに、すべての経済活動が行われているのである。世界
 の中で、相対的に良い収入を得ることができるようになった日本人が、その名目どおり
 の「豊かさ」を実感できるためには、こういう現象をなくさなければならない。
・多くの人が、就職して少し世の中の現実を知ってくると、楽しい、幸せな職場というも
 のが学生時代の甘い夢にすぎなかったと思うようになる。「仕事とはつらいものだ、従
 ってその仕事が行われる職場が本質的な意味で楽しいものであるはずがない、いや、楽
 しくあってはいけないのだ」と思うようになるのである。
・仕事を楽しいものであると考える人や実際に楽しんでいる人がいると、それを許しがた
 いこととして排除しようとするほどである。教育的意味もないのに、後輩をいびる先輩
 が、どこの職場にでもいるのは、王杯にそういう歪んだ信念を伝達しようとしているの
 だし、人事を考えるにあたっての適格条件のなかに「その仕事が好きであること」を挙
 げようとしない経営者や管理者は、仕事はけっして楽しいものであってはならないとい
 う信念に立脚しているのである。
・働くことそのものは、苦痛どころか、そのことを通じて社会との接点が確認できる意味
 において、生き甲斐、誇りなどむしろ幸せ感につながるものだと言える。
・にもかかわらず、今日の日本で、非常に多くの人が、働くことを苦痛と思っているのは、
 実際に日本人が仕事をしている職場が、一般的には、幸せと言いがたい状況だからであ
 る。     
・考えられる理由は、ふたつある。第一は、日本では、仕事が、「ある限度を持った労働」
 だと認識されておらず、言わば、狂信的な宗教活動にでもありそうな「際限のない奉仕」
 と見なされているからである。第二は、職場で「仕事の目的と直接関係のない我慢」を
 強いられることが多いからである。
・「人生は金だけじゃない。食えなきゃ別だが、そうでなけりゃ金のことなんか、いいじ
 ゃないか。何と言っても、仕事の遣り甲斐が第一だ。それに、 良い上司、良き職場仲
 間だ」日本のサラリーマン、それも相当教養のあるインテリのサラリーマンの多くが、
 こうした理屈にもならない理屈を、自らも言い、また他に言われて納得しているのは、
 おかしなことだ。
・この理屈は、厳密に考えれば、ナンセンスだということがすぐにわかる。「遣り甲斐の
 ある仕事は金にならず、反対に金になる仕事は遣り甲斐がない」という、まったく根拠
 のない前提に立っているからである。
・「仕事の遣り甲斐」は、当然あって欲しい前提だ。それは「自己実現の場」であって欲
 しいし、「生き甲斐」にもなって欲しい。良い上司、良い職場仲間だって、いて欲しい。
 しかし、それがあるからと言って、収入が少なくていいなどとは、絶対に言えないので
 ある。これらは互いに関係ないのである。
・サラリーマンが働く根拠は、「交通費を貰っているから」ではなく「仕事に見合う給料
 を貰っているから」である。なぜ給料をくれるかというと、それは、サラリーマンが
 「労務に服することを約した」のに対し、会社が「その報酬を与えることを約した」こ
 との結果である。言うまでもなく、民法623条に定める雇用契約に基づく関係である。
・ところが、自らが働く根拠がこうした契約に基づくということを意識しているサラリー
 マンは、きわめて少ない。
・雇用契約は、それが契約である以上、当然にして、その通りに履行されるべきだ。それ
 はモノを買ったら金を払うことが当然であると同じ意味で当然である。「雇用契約によ
 って労務を提供すべき当事者」が提供すべき労務の内容は、労働協約や就業規則を見る
 と、かなり詳しく書いてある。そのとおり履行されていれば、会社の仕事が原因で、過
 労死することはあり得ないのである。雇用契約どおりに実査されれば、はじかからそう
 いう内容でないかぎり、仕事が原因で、毎晩遅く帰宅することなどあり得ない。
・よく言われるように日本人は「働きすぎ」なのではなく、単純に「契約どおり働いてい
 ない」のである。契約どおり働くことによって、現在「働きすぎ」の害と思われること
 の大部分が消えてしまう。しかも、それは、働かないことではない。むしろ積極的に働
 くことを意味している。    
・職場における我慢には、二種類ある。ひとつは、その仕事本来の目的を達するために必
 然的に伴う我慢で、それを乗り越えて売り込みを図る場合とか、営業上のクレーム処理
 に出向く場合とかに要求される我慢である。
・もうひとつは、目的達成とは直接関係ないが、組織のなかで仕事をするために派生して
 くる我慢で、いわゆる「人間関係の悩み」に代表されるものである。これはその職場や
 組織のやり方如何によって、きわめて大きい幅で、増減する。
・このふたつの我慢のうち、どちらが耐えやすいかというと、前者である。その我慢が必
 然であることが客観的に理解できるうえ、仕事の目的を理解し、その達成に納得すれば、
 むしろその我慢をすることが尊いことと認識され、それに耐えることによって、誇らし
 い気持ちさえ抱けるようになるからである。「目的達成に直接つながる我慢」は、それ
 をすることができるのが能力であり、その努力の集積は「ビジネスマンの勲章」なので
 ある。  
・これに対して、後者の我慢は耐え難い。その職場においては、その我慢をしなければ仕
 事が進まないから、やはり目的達成のためと割り切って我慢を続けることになるのだが、
 心のどこかに、「こんな苦労はする必要がないはずだ」「こんな不能率、不合理なこと
 があるか」「何というものわかりの悪い上司だろう」などという気持ちがあるからであ
 る。
・自分との相性が悪くて、どうしても我慢しきれないという場合もあるかもしれない。そ
 のときは、転職するのが最良の手段のはずであるが、日本の社会ではこれがなかなかた
 いへんである。
・昔よりはだいぶ良くなったようであるが、現実は相変わらず、転職は一般的に不利なこ
 とであり、いわんや転職をすればするほど能力が高く評価されるというようなことには
 なっていない。ある程度若ければ、とにかく仕事を探すのは、けっして困難ではないが、
 収入や仕事の内容となると、満足のいくものは少ない。
・考え深い人は、だから、転職に対してきわめて慎重である。いわんや、給料の水準が平
 均より高い会社に勤めているサラリーマンは、生活水準をわずかでも落とすことに恐怖
 心を持つので、税金や勤務時間のことなどを総合的に考えれば、実はほとんど損がない
 場合でも、転職に踏み切れないのである。
・転職がむずかしいという事実の持つ意味は重大である。日本の会社の職場に発生する諸
 悪の根源であると言っても過言ではない。
・信念を貫けないのも悲しいことだが、転職がむずかしいことから生ずる最大の問題は、
 企業のなかで発生する悪に対して、サラリーマンが抵抗できないことである。政治家に
 対して許されない献金をすることも、下請けをいじめることも、認められてない談合を
 することも、企業内権力から事実上強制されたら、従わなければならない。
・露見しなければ、権力や職場の常識に抵抗して辞める自分だけが損をするのである。露
 見しなければいいという心理や露見しないことをひたすら祈って不祥事にはしるという
 行動パターンは、預金証書を偽造して不正融資をするなどの個人的不正にもつながるだ
 ろう。    
・転職がむずかしいことは、ほかにもたくさんの不都合を生んでいる。企業による単身赴
 任の強要や、職場に厳然として存在する不当な労働慣行、たとえばサービス残業、自社
 製品の私的ルートでの販売強制、長時間労働、夜毎の接待、休日における自宅に持ち帰
 っての仕事などに、サラリーマンが泣く泣く従う理由にも転職の不自由がある。かくし
 て労働のダンピングは日常茶飯事となる。
・こうしたことに憤慨してばかりいたのでは、ますます不幸せになる。だから、多くのサ
 ラリーマンは、いっそのこと、この状況を積極的に生き抜こうと考え直す。
・日本のサラリーマンは決して働くことが好きなわけではなく、滅私奉公的に働くことは、
 不都合の受諾宣言なのである。それは切羽詰まった、けなげな自己防衛策である。  
・転職の不自由は、こうしてサラリーマンをひとつの会社の枠のなかに押し込める。自分
 の会社以外の世界を知らず、自分の会社のなかでの昇進のみに興味を持ち、話題は会社
 内の人々の噂話だけ。こうなると、もう会社から離れては生きていけない。まるで家畜
 のようなサラリーマン、すなわち社畜ができあがる。
・社畜化したサラリーマンは、他のサラリーマンをも社畜化したがる。彼にとっては、会
 社のなかだけに埋没しないで生きる同僚がいたのでは、自分の行動が正当化できない。
 それゆえに社畜化しない同僚は、許しがたい異端者であり、自らに対する批判者にも見
 える。 
・会社から離れ私生活に戻ったサラリーマンの幸せにとって、もっとも重要な資源は時間
 である。金銭的な条件は、人生観如何でどうにでもなるが、いかなる価値観を持ってい
 ても、時間がなければどうにもならない。人生は時間の関数であり、会社から離れた時
 間が少ないということは、人生が短いというのと同義である。サラリーマンが通勤に長
 時間を要するかぎり、「毎日幸せ」という条件はできない。
・三十分通勤には、毎日私生活があり、一時間半通勤には毎日の私生活は得がたくなる。
 長時間通勤には毎日の私生活がないということは、皮肉にも、サラリーマンが会社から
 急いで帰るという行動を生まない。反対に長時間通勤者ほど会社からすぐに帰りたくな
 い心理になる。帰っても夕食に間に合わないし、食事の後風呂に入れば寝るだけである。
 そんなことなら、せっかく長い時間かけてやってきた会社に少しでも長くいたい。「単
 位通勤時間あたりの滞留時間」の効率を上げたくなるのである。だから、会社が終わっ
 てもすぐには帰らず、景気づけにそこらで一杯やっていく、ということになる。あげく
 の果てに、家に帰ってからは「風呂、メシ、寝る」しか言わない。そういうサラリーマ
 ンの行動は、長時間通勤の必然的帰結なのである。
・長時間通勤の人と短時間通勤の人とは、休日のすごし方においても差が出る。音楽にせ
 よ、運動にせよ、日ごろから頻度多くやっている人は、手慣れたこととして簡単に取り
 組めるし、またエネルギーの消費も少ない。長時間労働、長時間通勤の人の休日は、た
 だ疲れを取るために、眠るだけということになる。日常的な時間不足の悪循環が起こっ
 てしまうのである。  
・私生活の時間がほとんどなければ、幸せも何もない。「毎日幸せ」のためには、三十分
 とはいかなくても、ドア・ツー。ドアで一時間以内の通勤時間であるべきである。
 
「一生幸せ」のためのインフラストラクチャー
・子供時代の本質は未熟さである。価値観が確立した大人と同じ意味での幸せを考えるこ
 とはできないし、すべきでない。親によって保護されているこの時代は、本人はどう感
 じようと、後に来る成熟期のための準備期間である。大いに遊ぶことも必要だが、楽し
 みを抑えて学ぶことも必要である。
・会社が存続するための条件として、子供時代に、成人してからの準備をしておくことは、
 雛鳥が親鳥から飛び方や餌の取り方を学ぶのと同じように、生物としての人間にとって
 当たり前のことで、文化や時代の違いによって変わるものではない。子供時代にただ楽
 をさせること、すなわち、幸せと称すて甘やかすことは、大人になってからの不幸を呼
 ぶ。
・子供時代を幸せに送るためのインフラストラクチャーは、「暖かい適切な保護の下に、
 将来立派な大人になれるような教育の仕組み」ができているかどうかにかかっている。
 ここで言う立派な大人とは、それぞれの価値観に従って「毎日幸せ・一生幸せ」に生き
 ていくことのできる大人で、そのためには、ある種の能力がある程度必要だし、人生に
 対する姿勢にも何らかの要件も必要だろう。
・現実を見ると、子供時代から青春時代にかけての日本人は、激しい受験戦争のなかにい
 る。教育を専門の業とする施設が、学校以外に、膨大な数で、一般的に存在すること自
 体、信じ難いことだが、それが今日の日本の現実である。そのおかしさを誰も感じなく
 なっているほど、現在の日本は、子供の教育について異常になっている。
・このような現実に対し、家庭は抵抗を示すどころか、やむを得ないものと受け入れて、
 一般的にはむしろそれに合わせていこうとしている。こうした仕組みのなかで行われる
 教育の内容はというと、教育関係者の努力にもかかわらず、知識の詰め込みの教育であ
 る。試験はその成果を試すものだ。 
・知識の詰め込み教育という言葉は、悪い文脈で使われるが、その持っている非常に多く
 の長所を忘れてはならない。知識詰込み教育がすべて悪いというような単純な考えに立
 つべきではない。詰込み教育が記憶力を鍛えることは当然だが、それ以外にも、随分た
 くさんの能力が鍛えられ、試されるのである。
・教育のほとんどすべてがこうした知識詰込みになってしまっている現状は、とても「人
 間を育てる教育環境」とは言えない。その結果、きわめて偏った大人ができ上って、そ
 れが大人の「幸せ感欠乏状態」を作り出す原因になっている。
・受験戦争を終えた後にやってくる大学時代は、幸せな時代であろうか。一生のなかで、
 ほとんど束縛もなくすごせるその数年間を、日本人の一生のなかでも、もっと幸せな年
 月だと思っている人が比較的大勢いる。しかし、私には、どうしてもそうは思われない。
 とくに全体の過半数を占める文科系の学生にとって、大学とは、無意味な長期休暇以上
 のどんな意味があるのかと言いたい。  
・社会での働き方があまりにも苛酷だから、あたかも死地に赴く兵士に与えられた最後の
 休暇がとりわけ価値があるように見えるのと同じで、永遠に返ってこない青春の思い出
 としての価値が過大評価されているのだろう。
・現実の日本の大学、少なくとも文化系のマスプロ大学は、多くの場合、対話不能の大教
 室における一方的講義が中心であり、大学によっては、ゼミナールも卒業論文も義務づ
 けられていないような状態である。どれほど弁護的に言っても、それは、せいぜい「広
 く知識を授け」のごく一部が、きわめて効率悪く行われているという程度であり、「深
 く専門の学芸を教授研究し」たり、「知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」もの
 ではない。 
・社会に出てからの数十年は、その間で、人間が人間として成熟し活動する、もっとも充
 実した期間である。ここで「毎日幸せ」が実際に手に入らなければ、人生の他のどんな
 局面で幸せであっても、その人の人生全体としては幸せだったとは言えない。この期間
 は、人生、まさに盛りであり、それ自体が目的とされる、人生の絶頂期である。
・ところが、今日、幸せかどうかが最も問われているのは、まさにこの時期である。会社
 人間、社畜、社閉症など、この時期のサラリーマンの自嘲をこめた仇名からもそれが知
 られる。まして、過労死に至っては、不幸の極致。生きて行くための業として行なう仕
 事で、それも死を覚悟してやるほどの仕事でもないのに、その仕事が原因で死んでしま
 うというのだから、これはナンセンスが、ブラックユーモアである。 
・会社のなかに埋没した毎日を送っていて、私生活の時間をほとんど持たないため、日本
 の大人が、豊かな趣味を持ったり、会社から離れた交友関係を深めたりすることは、た
 いへんにむずかしい。青春時代に音楽や美術に興味を持っていた人々も、会社への埋没
 と引き換えに、せっかくの興味をどんどん捨てていく。その結果、会社を退く時期にな
 って、多くの日本人は、老後に何をしたらいいのかという、常識的に考えれば信じがた
 い、しかし現実的な悩みに直面する。実際「仕事の書類を読むだけが趣味だったので」
 という定年退職者が結構いるものだ。これぞ、会社人間、社畜のナレの果て。濡れ落ち
 葉だとか、粗大ゴミだとか、残酷といいようのない仇名が待っている。
・人間は、折に触れて、長期の休みを欲するものだ。自分の人生がこれでいいのかどうか
 を振り返って見るためにも、また普段できない旅行や休養などのためにも、一年に一度
 か二度、かなり長い休暇もいるだろう。もっと長い期間、たとえば十年毎とかには、別
 の休暇も必要なのかもしれない。 
・この問題に関連して、考えておかなければならないのは、長期休暇を、どこで過ごすか
 ということである。日本には、長期休暇を過ごすためのインフラストラクチャーが欠け
 ているからである。
・バブル期には、日本にも滞在型リゾートと称するものが多数できた。ところが、その内
 容は、首を傾げたくなるものが多い。
・滞在型nリゾートというのは、いわば「ある期間に限って生活そのものの移転」である。
 そのキーワードは、自由、プライベート、質素などであろう。しかし、日本の現実は、
 その反対に、本質とは何ら関係のないサービスで、ゴテゴテと塗り上げている。
・「一生幸せ」のインフラストラクチャーとして、もうひとつには、ビジネスマンとして
 の長期的な人生設計が、しっかりと立てられてるようになっているかということだ。突
 然内示があって、地方へ、あるいは外国に転勤という話は、サラリーマンなら、けっし
 て珍しくない。地方に転勤して何年も経つうちに、その地が家族全員の気に入った。会
 社の状況を見ると、まだ当分転勤はなさそうだ。だから、このあたりで家を持とうと決
 意して、手付けを払ったところで、転勤の内示があったなどという笑えない笑い話も、
 よく聞く。  
・日本の会社においては、将来の自分がどうなるかを予測することは、ほとんどの場合、
 非常にむずかしい。よほど好きでないかぎり、はっきりとした目的のない。時間とエネ
 ルギーのかかる勉強を続けるのは、困難だ。そこで、たいていの人は、勉強する意欲を
 失い、毎日、流されて生きていくようになる。
・老後。かつて姥捨て山のあったこの国でも、高齢化社会の到来とともに、老後の幸せに
 ついての論議が盛んになってきた。老後の幸せについては、幸せそのものの姿はまちま
 ちであろう。ただ、人生のそれ以前の時代と違いことは、この時代になると、すべての
 人に肉体的な老いが訪れてくることである。もう少し行くと、不可避的な死がやってき
 て、それまでの人生における権力の有無、名声の有無、富の有無、家族の有無など現世
 のすべてのことが、いっさい無関係になる。老いは、その一歩手前の段階として、現世
 的な影響が減っていく反面、それらが最後の威力をふるう場面でもある。
・「学ぶことが当然」と期待されている学生時代や「働くことが当然」と期待されている
 成熟期なら、生き方そのものにある種の共通性を認識することは容易であるが、老後と
 なるとそうはいかない。百歳まで仕事を続ける人もいれば、現役を引退してから何かを
 学んで結構モノにしている人もいる。趣味に生きる人も、もう何もしたくないと散歩に
 明け暮れる人もいる。何かをしたくてもできない人も多い。老後を誰かと過ごすかとい
 うことも、人によってまちまちである。老後こそ、幸せの姿がもっとも多様化する時期
 ではいだろうか。  
・老人の最後の努力は、他人の世話になることを安じて受け入れることである。
 楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそう
 なときに希望し、柔順に、平静に、おのれの十字架をになう。
 若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、
 けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役立だたずとも、新設で柔和で
 あること。 
 古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。
 おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。
 手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
 すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
・孤独こそ老後に流れるバックグランド・ミュージックの基調ともいうべきものである。
 最終的には、じたばたせず、孤独を柔順に受け入れるしかないのだが、生身の人間とし
 ては、できればその時期が少しでも遅らせ、祈りだけを仕事として神の声を聞くのは、
 最後の最後にしたい。神の声の前に、親しい人々の声を聞いていたい。
・だから、老後の幸せの条件は、人生の盛りを共にすごした友人と共に老後も過ごすとい
 うことである。もっとも、この点について、あまりにも会社人間だったために、心の友
 がひとりもいないという人も、実際には多数存在しているのだろう。
・老後における家族との関係は重要だ。子や孫が、できるだけ高い頻度で訪ねてきて欲し
 い。いわんや過去の心掛けよく、友人に恵まれた人は、その友人と会うことが、何より
 の楽しみになる。   
・いつのころからか、老後は空気のいい海辺で過ごすのが幸せなどという誤った通念がで
 き上っている。高級な老人ホームの立地は、海を見晴らす高台というイメージが多い。
 しかし、私は、それは老人が望むものとは、違うのではないかと思う。
・欲しいのは「仲間と刺激と病院」である。「老後は海辺で」というのは、実は現代の姥
 捨て思想に他ならない。それは、「長い間、お勤め御苦労様。これからは、良い空気の
 なかで、悠々自適に、のんびりと、人生を楽しみながら過ごしてください」という、お
 ためごかしを言いながら老人を社会から隔離しようとする偽善にすぎない。老人が少し
 でも長い間避けたいと欲している老後の孤独を、社会的に作り出そうとしているのだ。
 若者は富士の裾野でも、北海道の原野でも幸せに暮らせるかもしれないが、老人は、そ
 れまでいた場所で過ごせなければ、不幸せだ。大都会で暮らしてきた人の老後の棲家は
 当人の別の希望がない限り、大都会であるべきだ。
  
問題の構造をさぐる
・「毎日幸せ」のためのインフラストラクチャー
 ・一部の財やサービスお異常な高価格をなくす
 ・会社では、契約どおり仕事をする
 ・仕事周辺の我慢を少なくする
 ・転職しやすい社会にする
 ・通勤時間一時間以内の個室のあるわが家が持てるようにする
・「一生幸せ」のためのインフラストラクチャー
 ・高校までの時代に、人間を育てる教育が行われる
 ・大学時代に、真の知性人を育てる教育が行われる
 ・長期のビジネス人生が設計できる
 ・老後もそれまでの場所で過ごせる
  
オフィスを都心につくるな
・いつも好景気が続くのが、すべての日本人にとって本当のいいことであるとは思えない。
 日本人にとってどころか、企業にとってさえ、それが常にいいとは言えないのである。
 起業にとっての冬は、不景気である。不景気によって、年輪が刻まれ、本当に強い企業
 ができ上がる。企業にとってさえ、景気は絶対の価値ではないのである。いわんや生身
 の人間においてをやである。
・東京にオフィスが集中した理由は、実は驚くほど単純なことである。すなわち、東京の
 中心地には、都市計画上、ほとんどどこでもオフィスが作れたからである。オフィスは、
 土地一般に対する規制以上の規制をいっさい受けていなかったし、今も受けていない。
・高度成長を境にして、オフィスで行われる仕事の性質は一変した。まず、第一は、生産
 と営業の重要性の逆転である。高度成長以前、つまり工業化社会における製造業では、
 その最大の課題は、物を作ることであった。物が不足していた時代であったから、作っ
 た物が売れないはずはなく、それゆえに、営業は、工場で作られた物を「売らせていた
 だく」付随的な仕事であった。高度成長によって生産力が飛躍的に向上し、過剰生産が
 当たり前の時代になってくると、事情は一変した。作っても売れなければどうしようも
 ない。製造業の成否の鍵は、営業が握るようになり、それまでの「作った物を売る」と
 いう発想から、「売れる物を作る」という発想に百八十度変わらざるを得なくなった。
 いわゆるマーケティングの時代の到来である。
・第二は、コンピュータ時代の到来である。コンピュータ抜きには、生産計画も、製品計
 画も、マーケティング・リサーチも、投資計画も、人員計画も、財務戦略も、要するに
 企業のほとんどすべての活動が行えない。しかも、通信技術の発達は、遠隔地からのコ
 ンピュータ利用を可能にした。生産現場から離れてコンピュータを使うのに何の支障も
 なくなったのである。その結果、コンピュータは本社のオフィスの必需品となり、その
 まわりに膨大な数の労働者が集まるようになった。
・もし、都市計画法の施行された昭和四十三年に、都市計画上の用途地域に「百平方メー
 トル以上のオフィスは、工業地域もしくは準工業地域においてのみ許される」という制
 限が加えられていたら、どうなっていただろうか。工業地域も準工業地域もない東京の
 都心には、オフィスは集中しなかったはずである。
・日本全体にいくらオフィスが増えても都心には住宅が残り、むしろ東京を取り囲むよう
 に設けられた工業・準工業地域にオフィスが林立することになったであろう。それで足
 りない分は、さらに遠方に拡散したはずだ。
・それで何か不都合があったであろうか。都心にオフィスが作られなかったからと言って、
 日本の経済の発展が遅れることなど決してなかったはずだ。しかも、東京を取り囲む形
 で形成されたオフィス街への人々の通勤は、現在よりはるかに楽であったはずである。
・しかし、現実には、オフィスは、都市のなかではごく限られた住居専用地域や農地を除
 くすべての用途地域に許されていた。どこにでも作れるという条件があったから、ただ
 便利さだけを基準にしてオフィスは作られるようになった。
・困ったことに、政府も行政も、いまだこのことに気づいていない。一極集中は、数十年
 前に都市計画上の用途地域に少し工夫を加えておけば避けられた問題なのである。そん
 な簡単なことだったのかと感じるほど不思議な、嘘のような本当の話である。だが、気
 づかないまま、すでにここまで悪化してしまった都市の病を、簡単に治すことはできな
 い。
・今日まで、不思議なことに、ニューメディアや新交通システムの話になると、決まって
 その受益者、と言えば聞こえはいいが、実はそのことによって遠くに放り出される候補
 は、常にサラリーマンと相場が決まっていた。サラリーマンたちは、「通勤距離などい
 くら遠くなっても大丈夫。なぜなら、リニアモーターカーができるし、在宅勤務も可能
 だ。郊外にセカンドハウスを持って、サラリーマンは週末にそこに帰ればいい」などと
 いう「おためごかし」を、偉い先生方から帰化されたものだ。こういう理屈を言ってき
 た先生たちは、「会社中心かつサラリーマン蔑視」の自らのスタンスを恥じるべきだ。
・考え方をまったく反対にすべきである。ニューメディアや新交通システムを利用するこ
 とによって、都心を離れるのは、オフィスのほうであるべきだ。サラリーマンは、オフ
 ィスの後ろを、ひとりで追いかけていく。働かなければメシが食えないのだから、そう
 せざるを得ない。ただ、今度は、「通勤一時間以内に個室のある家」に住めるようにな
 る。はじめは不便なところだろうが、やがて、「きわめて短時間に」その新しい住みよ
 い数十万人の都市ができるだろう。  
・オフィス専用地域を設け、日本全国にうまく配置するとともに、東京都心などすでにオ
 フィスに食い荒らされている場所でのオフィス新設を禁じれば、十年で、効果が見え始
 めるだろう。二十年で、新しい魅力的なオフィス街が日本の各地に形成され、その周辺
 に「通勤一時間以内に個室のある家」を持ったサラリーマンが住み着くようになるだろ
 う。三十年で、日本の様子はガラリと変化するはずである。東京は、昔の静けさを取り
 戻し、人口減に対応して、余剰になったホテルやホールなどの施設を活用するために、
 世界に冠たる文化都市に変貌しているであろう。
 
契約どおりの仕事をせよ
・日本のサラリーマンが契約どおりの働き方をしないというのは、信じがたいが、現実で
 ある。労働に対して報酬を払うということは、契約の履行という意味では、物を買って
 代金を支払うのとまったく同じ種類のことだ。
・「契約どおり仕事」をしないのは、日本人には権利意識や契約意識が乏しいという面も
 あるが、それは、少々疑わしい。というのは、同じ日本人が、いざ会社の仕事となると、
 他社との関係で、堂々と権利を主張し、契約を盾にとって頑張るからである。また、個
 人としても、隣地との境界線とか、近くにできた建物に対する苦情とかになると、徹底
 的に権利を主張する、いや、それどころか、権利の濫用も辞せず自己主張するのである。
・日本人の権利意識や契約意識が、とくに会社との関係で歪んでいることは間違いないよ
 うだが、それが、契約どおりに働かないことについての第一次的な要因だとは言えない
 だろう。日本のサラリーマンが、「社会的規範(会社外規範)より社内的規範のほうが
 優先する」と信じているからである。  
・「契約どおりに働いて、会社で上司や仲間に嫌われたら仕事にならない。一生勤める会
 社でそんなことになりたくない」「”喜んでサービス残業に応じるべきである”という
 のが、うちの会社の職場の雰囲気だ。社会的規範に従って”残業には手当てがつくべき
 だ”と主張すれば、社内で孤立してしまう。昇進の時には不利に扱われ、昇格もストッ
プするだろう。こうした大きな不利益を蒙った時、社会や国家を代表して、いったい、
 誰が私を救済してくれるのか」
・サラリーマンには、ちゃんと規範意識がある。規範意識こそ契約意識・権利意識の土台
 だ。ただし、その意識の向かうところが、社会的規範ではなく、社内的規範なのである。
 それも、明示された規範ではなく、それより強力な力を持っている。黙示的な、隠れた
 規範、いわば「職場の掟」である。
・社会の構成員のひとつであるはずの会社が、逆に社会より上位の存在であるかのごとく
 サラリーマンに認識されているということは、近代国家のあるべき姿を物差しにして判
 断すれば、明らかに、一種の倒錯である。 
・この原因の第一は、日本人の大多数が、自らの行動を律する究極的な存在としての神を
 持っていない(宗教を持たない)ことである。 
・我々日本人の多くは自分自身が宗教を持たない結果として、宗教が人間社会に与える影
 響について非常に鈍感であるようだ。ひどい人になると宗教と迷信の区別がついていな
 いことさえある。それほどでなくても、宗教を信じている状態というものがどういうも
 のか、ピンとこない人は多い。しかし、世界の他の国々では、宗教が人々の価値観・生
 活感覚の基盤をなしているのが当然なのである。 
・社内的規範が社会的規範に優先するという倒錯は、日本人が宗教を持たないことと非常
 に深い関係がありそうだ。絶対者としての神を持てば、会社の力は相対的なものとなる。
 信仰の厚い人は、神の教えと他の規範とが矛盾するときに、当然のこととして神の教え
 を優先させる。だから、ひとつの文化圏においては、社会的規範は、概ね、その社会の
 人々の多くが信ずる神の教えと矛盾しないようになっている。そうでなければ、社会的
 規範が有効に機能しないのである。
・神を持つことのない日本人にとっては、諸規範を評価づけする絶対的価値基準がない。
 だから、複数の規範が互いに矛盾するとき、日本人は、自分にとって最も都合のいい規
 範を現実的に選択することを当然と思っている。そうなると、きわめて現実的な理由に
 より、社会的規範の優先度が高くなる。神の支持を持たない社会的規範は強い現実的力
 を持つ社内的規範に敗れるのである。
・個人と会社の力を比較した場合、「会社が社会的に圧倒的に強い立場にある」という厳
 然たる事実が存在している。それは次のような事情による。
 ・日本では、個人が社会や国家から、直接、法的保護を受けやすいような仕組みになっ
  ていない。近代国家においては、個人が自分の権利を守るために、必要に応じて、裁
  判に訴えて決着をつけることができるようになっている。もちろん、日本でも、制度
  上はそうなっている。しかし、日本では、個人が訴訟を起こすことは、経済的・時間
  的・社会的にたいへんむずかしい。訴訟の当事者になること自体、人に後ろ指を指さ
  れるような社会的雰囲気がある。敢えて訴訟に踏み切っても、面倒な手続きやうんざ
  りするほど長い時間と高額な費用がかかる。だから、日本では、よほどのことがない
  かぎり、個人は、問題解決の手段として訴訟に訴えることはない。これは、個人の権
  利が、社会や国家の手によって直接的に守られているということがきわめて少ないと
  いうことを示している。日本における個人の守られ方は、相変わらず、長屋のご隠居
  さんの裁定によるのである。サラリーマンにとって、現代の長屋は会社であり、ご隠
  居さんは、上司や人事部である。
 ・会社の経済的社会的力が、実際に、個人よりもはるかに強い。法人が個人より極端に
  優遇されている。優遇されている法人が、徐々に個人より強い立場に立つようになる
  のは当然である。弁護士費用が、会社では経費で処理され、サラリーマンでは税金支
  払い後の収入から支払われるのも、法人優遇の一例にすぎない。
・そもそも、日本のサラリーマンは、税金・年金・保険・住宅ローンの返済などの手続き
 の大部分を会社にやってもらっているし、休暇で遊びに行く保養所も会社持ちだ。大き
 な会社になると、立派な診療所がビルのなかにあるし、仮に診療所がなくとも、病気の
 心配がある場合どこに行ったらいいかは、会社の仲間や関係者から教えてもらうことが
 多い。
・個人が会社を利用して国家・社会の法的・実務的・情報的保護を得る状態が長く続くと、
 個人は、会社に見捨てられたら、国家・社会に由来するすべての利益をも失うのではな
 いかと錯覚し、恐怖心を抱くようになる。その結果が、会社と自分との間にある契約は、
 「雇用契約でも労働契約でもない別の何か」「もっと包括的で崇高な、契約というよう
 な言葉では表現できないような何か」、たとえば「国籍を持つ」のと同じような種類の
 「存在そのもの」あるいは「生存の前提」だと感じるようになる。だから、宗教を持た
 ない以上、国家・社会の規範と会社の規範が矛盾したら、個人は、ごく当然のこととし
 て、自分を直接守ってくれる会社内の規範に従うのである。
・雇用された立場が弱いので、個人では組織に立ち向かえないという、まさにこのような
 場合を想定して、いわゆる労働三権、(団結権、団体交渉権、争議権)が憲法第二八条
 で保障されている。労働者は団結し、団体で交渉したり、争議をする権利を持っている
 のである。しかし、少なくとも大都市のサラリーマンに関するかぎり、過去の実績とし
 ては、労働組合がこの点で十分な役割を果たしたとは思われない。それに、この種の問
 題の解決のためには、個々の労働者の積極的な協力がなければ、労働組合も動けない。
 すすんで契約外労働をやるホワイトカラーの数が多いという状況下では、労働組合も問
 題として取り上げるわけにはいかなかったはずだ。
・建前と本音を使い分けるのは、定義上、嘘つきということであるが、日本では、そんな
 嘘つきの態度が、むしろ大人の行動として高く評価されるようなところがある。そうし
 た日本人の心理が幸いしてか、経営者に二重基準を適用されても、サラリーマンたちは、
 さして怒ることなく「世の中はこんなもの」と諦めてきたのであった。契約意識という
 視点に立てば、多くの場合、経営者の側からは、契約を守ろうと思えば守れたのだから、
 契約観念がないのは、サラリーマンではなくむしろ経営者のほうであったと言える。
・もっとも経営者の側からだったら、「契約どおりの仕事」をさせるのは簡単かというと、
 けっしてそうではない。ひとつは、経営者に対して課せられた「無限の利益増大に対す
 る社会的要求」であり、もうひとつは、個々のサラリーマンの心のなかにある「契約外
 の労働をしても仕事の結果に満足したい」という姿勢である。
・問題の本質は、仕事の質・量と従業員の質・量のミスマッチにある。
・企業にとって利益が重要だと言われるが、その表現は正確ではない。少なくとも経営者
 の評価にとって重要なのは、利益の多寡ではなく、利益の増減である。つまり、経営者
 に与えられた任務から見て、企業のあるべき姿として想定されているものは、「無限の
 増益を続けること」であり、「その程度が同業者より勝っていること」である。そうい
 う基準を明示したものがあるわけではないのだが、人々が企業を評価する尺度を見てい
 ると、そういうことだとわかる。
・無限に増益を続けることが企業の理想の姿であるというのは、実は、企業の目的が利益
 だけしかないということを意味している。なぜなら、もし利益以外に企業の目的があり、
 それが社会的に認められているなら、時として増益でない時期があっても、「何か他の
 企業も目的がより良く達せられているのだから」と解釈されることがあり得、経営者は
 それをもってそれなりの高い評価を受けることができるはずである。
・何か他の企業目的とは、たとえば、環境への配慮、従業員の処遇改善、取引先の幸せ増
 大、顧客の満足の増大、将来の拡大への基礎固めや投資、基礎研究分野における画期的
 な発明などなどである。  
・しかし、残念ながら、これらの価値は、一般的には、企業活動の前提条件と考えられて
 はいても、企業目的とは見なされない。
・会社には定款があり、そこにその会社の目的が書かれているのだが、どんな会社の定款
 を見ても、目的として「利益の増大」とか「限りない規模拡大と利益の増殖」などとは
 書かれていない。それなのに、なぜ、人々は企業の目的を利益だと信じているのか。
・「利益、利益」と言う人に、「どの利益ですか?」と問うと、大概キョトンとした顔に
 なる。それなのに、人々は、いとも簡単に、「会社は利益を上げなければならないから」
 などと言い、またそう言われると「ハハア」とひざまずく。「それは一体どの段階の利
 益でしょうか。またどんな期間を想定し、額はどの程度でしょうか?」などと尋ねる人
 はいない。とくに社員の立場で、経営者にそんなことを尋ねたりしない。そんな人がい
 たら、変人奇人の類いとされて、間違いなく職場中から嫌われ、仕事がしづらくなる。
 下手をすると、会社の敵と誤解されて、職場から追放される。しかし、本当はそう尋ね
 るのが、当然のことなのだ。 
・会社の定款に戻って考えてみれば、会社の目的は、そこに定められた事業を行うことで
 ある。利益が出なければ、その事業を行い続けることができないから、定款の目的達成
 のために、利益は絶対に必要なものであるが、「多ければ多いほどいい」というもので
 はない。つまり、定款も商法も、目的を事業や商行為としているのだから、もし企業の
 目的をたったひとつ挙げよと言われたら、事業または商行為と答えるのが正しい。
・それなのに、なぜ、利益が会社の唯一の目的であるかのごとく錯覚されているのか。利
 益の多寡にもっとも関心を持っているのは投資家である。自分の投資した金が、どのよ
 うに運用され、利益を生み、回収されるのか。利回りや会社の価値の増大などに、投資
 家の関心は集中する。投資先の会社が、どんな立派なことをやっても、その結果、経費
 がかさみすぎて、利益が減れば、投資家は不安になり、そのような会社への投資は控え
 ようとするだろう。
・しかし、投資家が、いつも短期の利益に忠実とは限らない。長い目で企業を育てようと
 する投資家もいる。これに比して、ほとんどの場合に、はるかに短期的な利益のみを追
 求する人々がいる。  
・会社の目的は利益だと信じて疑わない現在の日本は、実は一億株屋の国と化した言われ
 てもしかたがない。そこには従業員の目、取引先の目、社会の目がない。消費者の目も
 なければ、生活者の目もない。つまり国民の目がない。
・このような社会意識が形成されたことについては、ジャーナリズムの責任はきわめて大
 きいと言わざるを得ない。テレビ・新聞・雑誌などが、株式新聞でもないのに、投資家
 や株屋の目で企業を評価し、そのように書くから、それが常識になってしまっている。 
・恐ろしいことに、一生の職場を決める就職先の選択の場合だって、ほとんどが株屋の目
 で会社を判断しているのである。就職人気ランキングの上位に顔を連ねる会社は、過去
 の利益と会社の規模によってブランド化した企業である。高収益会社、財務体質抜群の
 会社で、一生を奴隷のように働かされ、「この会社に一生勤めたら、後は、もう抜け殻
 しか残りませんよ」などとぼやいているサラリーマンの実例を学生時代の友人や仕事上
 の交流を通じて、私はたくさん知っている。
・新聞は、利益追求のあまりの不祥事が起こったりすると、社説では、国民や消費者の立
 場に立って「企業が利益追求に走るあまり云々」などと会社の利益至上主義を非難する
 が、その同じ新聞の経済面では、単純に利益の順で会社のランキングを定めている。し
 かも、取り上げるのは上場会社中心であり、大手とか、一流とか称されるのは、すべて
 売上高または利益が基準になっている。新聞は、結局利益が最重要と考えているのだと
 わかる。
・会社は、投資家や株屋の目だけでなく、国民や消費者の目によって見るようにすべきで
 ある。つまり、会社を評価するなら、その会社が、定款に掲げた目的をどこまで達成し
 たかで測るべきだ。  
・利益が会社の唯一の目的だと錯覚されるにはりゆうがある。
 ・第一に、単純明快であるからだ
 ・第二に、量的表現が容易だからだ
 ・第三に、利益は、数字的に表現された会社の状態の最後の数字であるから
・今日、会社は、そこに働く人々に対して、きわめて強力な力を持っている。実質的に生
 殺与奪の権を握っていると言ってもいい。困ったことは、この力が、実際は生殺与奪の
 権であるのに、それほど強力に見えないところにある。
・しかし、物理的に命を奪われることがないというだけで、実際は、会社の意思決定ひと
 つで、命にかかわるほどのストレスを受けるのが、サラリーマンである。過労死とまで
 もいかなくても、心労のために命を擦り減らしているサラリーマンはたくさんいる。
・円形脱毛症・不眠・異常な疲労など、ありとあらゆる肉体的症状が出てくるものである。
 体液でも変化するのか、不思議なことに歯石が溜まりやすくなり、終始歯が浮く。皮膚
 が化膿しやすくなる。不眠を逃れるための過度の飲酒が身体をむしばんでいく。ストレ
 スから犯罪や異常な行動に走ったりする人だっているのではないかと思う。
・会社が持つ、こうしたきわめて強力な権力にもかかわらず、会社の実態は、外部にはほ
 とんど知られていない。会社や会社を取り巻く環境がこれだけ変化しているのに、会社
 を測る物差しは、ちょっとも進歩していないのだ。会社が本当に公器であるならば、秘
 密にするのは営業上のごく狭い範囲の情報だけに絞るべきだ。
  
仕事は一種のゲームと割り切れ
・「仕事の周辺の我慢」とは、仕事の目的達成に直接必要ではないはずなのに、現実には
 しなければならない我慢である。代表的なのは、いわゆる「人間関係の悩み」だ。「仕
 事の周辺の我慢」は、たいへんなストレスとなってサラリーマンを締めつけ、しばしば
 健康を奪い、時としては生命さえ危険にさらしている。耐えきらず自殺までしてしまう
 人もいる。統計の取りようがないから、実態はわからないが、「仕事の周辺の我慢」に
 由来するストレスから健康を害した人は、かなりの数に上るだろう。
・「仕事の周辺の我慢」が増えるのは、目的達成とは直接関係のないことを、職場の人々、
 とくに社内の世論や権力者が問題視するからである。ということは、個々の仕事が会社
 全体の目的や目標とどうつながるかをはっきりさせることのよって、会社中が「仕事は
 目的達成」と割り切る雰囲気ができれば、職場の雰囲気が明るくなり、「仕事の周辺の
 我慢」は著しく減るだろう。人々が、会社の経営を、何か特別にむずかしいもののよう
 に考えることをやめて、「会社の経営なんて、要するに一種のゲーム」と考えるように
 なることが重要なのである。
・日本人は、会社を大事なものと思いすぎているようだ。大事なものだから、慎重に扱い
 すぎて間違いを犯し、余分なことを考えすぎる。本来、会社は、もっと単純なものだ。
 仮に現実の会社が複雑でも、単純にすたければそうできる。本来、会社は、そう考える
 べきだ。そうした単純な原理に従えば、会社は当然能力主義になる。なぜなら、そうい
 う考え方の会社は、その目的を達成するために、機能だけに注目して人間を判断するか
 らである。 
・いかなる軍事上の作戦においても、そこには明確な戦略ないし作戦目的が存在しなけれ
 ばならない。目的のあいまいな作戦は、必ず失敗する。それは軍隊という大規模組織を
 明確な方向性を欠いたまま指導し、行動させることになるからである。本来、明確な統
 一目的なくして作戦はないはずである。ところが、日本軍では、こうしたありうべから
 ざることがしばしば起こった。日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができ
 たものがほとんどいなかった。個々の戦闘における「戦機まさに熟せり」、「決死任務
 を遂行し、聖旨に添うべし」「天祐神助」などの抽象的かつ空文虚字の作文は、それら
 の言葉を具体的方法にまで詰めるという方法論がまったく見られない。日本軍の戦略策
 定が状況変化に適応できなかったのは、組織の中に論理的な議論ができる制度と風土が
 なかったことに大きな原因がある。日本軍の戦略策定は一定の原理や理論に基づくとい
 うよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。
・日本軍は世界最強と思われたほど強かったが、その中身は、「仕事の周辺の我慢」に満
 ちあふれた、「一部の権力者とその同調者以外にとっては」たいへん居づらい組織であ
 ったに相違ない。もちろん、戦時下の軍隊など、どこの国の軍隊でも居心地のよかろう
 はずもないが、合目的でない点が多かったということから判断すると、とくに日本軍に
 は、つらい我慢が多かったのではないかと推測される。実際、そういう歴史的証言は多
 い。上官による新兵いじめの理不尽なビンタに象徴されるものである。構成員個々人の
 居づらさと組織としての強さの併存こそ、日本社会の特色なのだろうか。
・困ったことに、日本社会は、非言語的コミュニケーションに立脚する社会で「仕事は目
 的達成」と割り切ってシステムズ・アプローチをやろうとしても、知的エリートたちで
 さえ、「概念の創造や操作化」ができない「目的の明確化もその具体的実行もできない」
 ため、「仕事は目的達成」と割り切った会社は、作りたくてもできない。
・日本の会社(社会)における建前と本音の乖離の原因も、こうした言語的コミュニケー
 ションの不得意に関係があるだろう。本音を表現したくても、適切に概念化できないか
 ら、表向きは、一般受けする看板を掲げておくとか、逆に、本音をズバリ表現したら、
 それはあまり露骨だからと(言語による説明を受ける側が、言語的コミュニケーション
 に慣れていない結果生ずる感覚的反発である)、 わざとボンヤリした表現に変えられ
 たとかということである。建前と本音のズレ(使い分け)は日本文化の特色としてよく
 言われるが、それは、あまり適切な表現ではない。建前と本音のズレというのは、日本
 人一般の「言語的コミュニケーション能力の不足」という病気の一病状であると言った
 ほうがよさそうだ。  
・非言語的コミュニケーションに立脚した日本の社会では、経営理論がどのように推奨し
 ようが、目的合理性を論理的・組織的に追求していくシステムズ・アプローチは取り得
 ない。一方、「仕事の周辺の我慢」を減らすためには、「仕事は目的達成」と割り切っ
 たシステムズ・アプローチが必要である。
・日本は世界の最後の秘境だなどと言われる。これは「コロンブスがアメリカを発見した」
 というのと同じような西欧中心のものの見方で、西洋人の思い上がりを知らされて腹立
 たしいが、日本が世界にとって分かりにくいことはたしかだろう。
・外国人はもちろん、日本人でさえ、日本のことを知らない理由は、政治、行政、経営な
 ど、日本社会のあらゆる場面において、重要な情報処理が密室でのなかで行なわれ、そ
 の中身はほとんど公表されないからである。情報処理の内容が、何か悪いことなら隠し
 ておきたい気持ちもわからないではないが、現実を見るとかならずしもそうではない。
・今日、政治情勢が流動化し、日本も、将来は二大政党が政権交代をし続ける体制になる
 かもしいれないと希望している人々もいるが、私は今までの日本人の発想と言語能力で
 はそうならないのではないかと思う。今までのやり方から判断すると、野党が育ってき
 て、そのチェックが入りそうになったら、第一党は、絶対多数を確保することができる
 だけの勢力(チェックを受けなくすることが目的だから、思想はいくらはなれていても
 いいのだ)を自分の党派に組み込んで、野党のちぇっくを避けようとするだろう。だか
 ら、国民の期待にもかかわらず、日本には、二大政党が政権交代していくというパター
 ンはまずできなと考えるべきである。    
・日本社会全体に存在するこのような密室化現象は、明らかに言語的コミュニケーション
 能力の不足と関係がある。もし、チェックする側もチェックされる側も、ともに言語的
 コミュニケーションの能力が十分にあれば、チェックされた事項について、双方交通の
 対話ができる。チェックされた側は、チェックを新しいアイデアや活力を生む源泉にす
 ることができる。こうした対話を前提にするならば、情報公開についても何の心配も要
 らないことになる。
・密室化は、日本の国際化を阻む最大の構造障壁である。しかも、それは社会(や会社)
 の自浄能力・自己改革能力をなくし、幸せ感の乏しい経済大国を作り出す元凶となって
 いる。密室化を避け、日本を風通しのいい社会に変えていくために、どうしても日本人
 の言語的コミュニケーション能力を高めなければならないのである。
 
法人優遇社会を変える
・法人優遇社会の問題点を整理してみると、まず第一に、税法などにより個人とは比較に
 ならないほど優遇された法人を作り出す需要が、個人需要に比べてあまりにも旺盛であ
 るために、法人需要が向かうところの財の価格が、すべて異常な水準に上昇することで
 ある。土地も、住宅も、観光地の施設も、接待に使われる飲食店も、法人が会合や宿泊
 に用いるホテルも、それが何であろうと、法人が利用するようになった途端に、個人消
 費の対象としては考えられないほど高い水準になる。個人から見れば、利用することな
 ど考えられないような高級ホテル・ゴルフ場・飲食店が、日本中の一等地を占領してし
 まっている。故人は法人の陰にかくれてひっそりと生きていくしかないのである。
・第二に、個人に対して、経済的に圧倒的な強さを誇る法人が、権力的に個人の上に君臨
 することである。会社という単なる営利団体が、なぜ、これほどまで傲慢に人間の上に
 君臨するのかという疑問を感じざるを得ない。そして、その会社の傲慢さは法人優遇社
 会によって作られたのだ。 
・法人優遇社会は、日本社会全体から、基本的な倫理感を失わせた。儲かるものはすべて
 正しいという、驚くべき価値観が当然のこととなっているのである。後世の人は、二十
 世紀後半の日本人が、「儲かるものはすべて正しい」という信じられないほど歪んだ価
 値観を持っていたと評するに違いない。
・第三に、現在なお、法人と個人との格差が縮まるどころか、逆に開きつつあることであ
 る。法人には相続がなく、相続税がかからない。一度法人に取得された財、とくに不動
 産や美術骨とう品などは、その法人が極端な業績悪化でも直面しないかぎり、まず絶対
 に市場に出てこない。しかもそれらは、長い間には、徐々に含み利益を生んでいく。
・第四に、法人優遇社会は、すべての個人を不幸にしているわけではない。平等という価
 値観に照らしたとき、ここに、もうひとつの問題がある。ひと握りの個人は、法人を所
 有することによって、法人の優位性を自分のものにすることに成功している。法人の経
 費で賄われる自動車を私用に用い、社宅や保養所と称して実質的に自分の家や別荘を建
 て、終生、法人所有のゴルフ場でプレイする。やり方次第では、生活費まで法人の賄わ
 せることができる。  
・もし個人が「本当に良い会社」にだけ就職するようになったら、日本中の会社は、たち
 まち「良い会社」になるはずだ。しかし、就職人気ランキングを見ると、その上位にズ
 ラリと名前を連ねているのは、大企業、それも「ブランド企業」ばかりである。実は、
 これらの企業の中には、「この銀行に定年まで勤めたら、後は、抜け殻。それほど働か
 される」と行員が自嘲するような銀行とか、「サービス残業は当たり前」の会社とかが
 含まれている。一流大学を出た女性が殺到する会社が、実は男女差別のメッカのような
 ところがあるという、まったく滑稽な事実もある。もちろん、これらのどの会社の規程
 にも、「社員が死ぬ直前まで働かせる」「当社は残業をしても手当ては支給しない」
 「女性は結婚したら辞めさせる」などと書かれてはいない。
・ブランド化したこれら「一流企業」は、一般に給料がいいこともあって、一旦入社した
 人は、これらの事実に気づいても、転職しない。「これほどの一流企業でもそうなんだ
 から、世間の普通の会社はもっとひどいだろう」と思うのである。
・会社がいかに人間に対して強い影響力を持っているとしても、そこを辞めてしまえば、
 その影響力は、それまでである。これは、本当に素晴らしいことだ。資本主義が、条件
 付きながら、人間の理想の社会であると私が言うのは、それゆえである。社会主義国に
 住む国民が不幸だったのは、永遠にひとつの権力の下から逃れられないからである。そ
 のことを除くと社会主義にはいいことがたくさんあるが、ただこの一事によって、それ
 はきわめて悪い社会にしかなりえないのである。
・会社の権力が有限で、人が望めばそこから逃れ得るということは、自由に生きようとす
 る人間の幸せにとって基本的条件である。人間は、自分に合わない会社を自由に辞める
 ことによって、新しい未来に生きることができる。それは、まさに基本的人権の実現で
 ある。   
・ところが、日本社会では、転職することがなかなかむずかしい。というより、伝統的価
 値観は、転職を裏切りに似た悪とでも見なしていると言ってもいい。
・会社などというものは、所詮、生活のための収入を得にいく場にすぎない。会社よりも
 もっと大切なものが、この世にはいくらでもある。家庭、恋人、打ち込める趣味、会社
 とは別のライフワーク、信仰、誰にも患わされないですごす自分ひとりの時間などなど。
・「退職が一大事である」と思われているのは、「この世には会社以上の価値はない」と
 いう。会社至上主義の価値観の別の表現形式にすぎない。脱会がこれほど重視されるの
 は、おそらく宗教の世界か秘密結社だけではないか。日本の会社は、まさに宗教団体や
 秘密結社並みの拘束力を誇っている。
   
言語的コミュニケーション能力を養う
・日本社会は、基本的に、非言語的コミュニケーションのうえに成り立っている。「以心
 伝心」「言わず語らず」「ツーカーの関係」「アウンの呼吸」などということがプラス
 の評価を伴って語られる一方、「言い立てる」「言挙げする」「言いすぎる」「言い募る」
などという表現に否定的なニュアンスのある文化である。言語的コミュニケーション
に対しての評価は低い。
・日本は、世界のなかできわめて例外的な言葉観を持った国のようだ。しかし、言葉を論
 理的に使っての情報処理が上手にならないと、日本は永遠に国際化できない。
・海外で言語的能力を身につけ、それゆえに自己主張することを当然と考える子供が帰国
 して日本の格好に転入すると、ひどいいじめに遭うというような現象を見ても明らかで
 ある。高い言語的能力を前提にした自己主張そのものが、日本では、社会的に高い評価
 を得ないどころか、むしろ避けるべきものと考えられているからである。だから、ある
 家庭で、子供の言語的表現力を高めたとしても、それは、学校でいじめの対象になった
 り、就職してからも「変わった奴」として疎外されたりして、本人が苦しむことになる。
 よほど強い人でないと、その孤独には耐えられないから、結局、せっかく身についた言
 語的能力を捨て、自己主張をやめて、「非言語的に可愛い奴」として、仲間に入れても
 らう道を選ぶのが普通である。社会が、言語的能力を封じているのである。
・自己主張することと高い言語的能力とは、きわめて大きな相関関係にある。自己主張す
 ることが必要だからこそ、高い言語的能力を要求されるのであり、逆に高い言語的能力
 があればこそ、強い自己主張もできるのである。
・これからの社会にとって、どうしてもある種の能力や思想が必要であるが、社会一般が
 それをわかっていない。せっかくそういうものが芽生えそうになっても、それを社会が
 潰しにかかる。これはまことに容易ならぬ状況だが、実は、これに似たことが日本の歴
 史においてなかったわけではない。明治維新前後である。文明開化ということで、せっ
 かく外国から取り入れようとしたものが、無理解な社会によって拒絶される状況であっ
 た。   
・言語的能力を高めるということは、
 ・第一は、正確な日本語が使えるようになることである
 ・第二は、言葉の正しい使い方の訓練である
 ・第三は、論理的な力である。
 ・第四は、コンセプト想像力である。(何かの実態を見て、的確な言葉を作って表現)
 ・第五は、言語的発表能力である。(自分の意見を堂々と述べ、相手を説得する能力)
 ・第六は、文章能力である。(正確な意味を伝達する能力)
・日本では一流大学と称されるところを出た人々でも、言語的能力が非常に劣る場合が、
 しばしば見受けられる。本人は、人前で喋るのが苦手だなどと言うが、大勢の前で乾杯
 の音頭をとったり、何か儀礼的な挨拶をすると、なかなか上手である。それなのに、意
 味のある話になると、途端にまったくだめなのである。本当のところは、人前で喋るの
 が苦手なのではなくて、内容のあることを喋るのが苦手なのである。
・喋るのが苦手なだけかというと、書かせても駄目である。これも不思議なことに、儀礼
 的な手紙などは実に上手なのに、中身のあることについて書かせると、とたんに読みに
 くくなる。しかも、下手に喋り、たどたどしく書いたなかで展開されている論理が、
 「日本人の腸は長いから、牛肉の自由化はできない」という類いの非論理ないしは超論
 理である。世界時通じるはずがない。また、この表現力では対話ができず、いかなる批
 判にも反論できないだろうから、日本の会社が株主総会が実質化することを嫌い、監査
 役を形骸化しようとするのは、まったく無理のないことである。批判者は、すべて敵だ
 と考えるのもうなずける。要するに、自らの防衛力のなさを棚に上げて過剰防衛をして
 いるのである。もっとも、日本で、批判に対して滔々と反論したら「生意気な奴」と、
 かえって反発されるだろうが。
・日本人が、生来、倫理的な思考に向いていることは、数学が得意であることや、碁、将
 棋、麻雀・ゴルフなど論理的要素が重要な遊びが大好きであることから推定できる。不
 思議なことは、その論理的な日本人が、言語的にはきわめて非論理的になることである。
・記憶力中心の従来の教育では、複雑な社会現象についての「言語化された論理的体系」
 を頭に入れることはむずかしい。従来の教育では、たとえば第二次世界大戦が起こった
 のは1941年だとか、そこに至る経緯はこうこうだとかを教えることができる。生徒
 はそれを記憶して試験で再現すれば、よい成績がとれる。しかし、「言語化された論理
 的体系」として第二次世界大戦を理解するとしたら、そうはいかない。日本、アメリカ、
 中国など直接関係した国々はもちろん、直接関係のなかったアフリカや中東の国々から
 見た第二次世界大戦もそれぞれの国の立場から理解されねばならないし、長い期間でも
 短い期間でも理解されねばならない。日本国にないにおいては、政府、軍部、官僚など
 からばかりでなく、農民、商人、大都市生活者、地方生活者、大人、子供、金持、貧乏
 人、老若男女、健康者、病人、職業別など、いろいろな立場から見た開戦への経緯が、
 明確な因果関係で結びつけられて理解されなければならない。  
・文章で表現する能力も、日本の学校教育では、鍛えられていない。受験に役立たないの
 で、高等学校まで作文能力はほとんど訓練されていない。
・我々が今生きている社会、またこれから生きて行きたい社会は、個人の自由に立脚した
 社会である。宗教はもちろん、いかなる価値観についても、それを持つことを自由に認
 める社会である。もちろん、自由と自由のぶつかり合いがあるから、実際の社会的行動
 となると、たくさんの妥協が図られることになるが、内面の問題としては、完全自由が
 得られるはずである。   
・価値観は自分で感じ、自分で考えるものである。自由社会の究極的な価値観を敢えて突
 き詰めれば、ここに至るだろう。そうなると、自由社会における人間教育は、いかなる
 価値観を持つ人にも共通に必要なもの、あるいは、自分で価値観を作り出すのに有用で
 あるものの教育ということになる。つまりそのインフラストラクチャーこそ言語的能力
 にほかならない。  
・新国語教育は、教師と生徒との対話や討議によって進められることになるだろう。はじ
 めは教師に言語的能力が乏しく、とまどいもあるかもしれない。しかし、新国語を履修
 した生徒が教師となり、またその生徒が教師となるほどの期間、つまり半世紀程度の時
 間が経てば、その間に、優れた新国語の教師が生まれてくるだろう。二十一世紀の後半
 になると、言語的能力に秀でた多数の日本人が、国の内外で活躍することになるだろう。
 そのとき、日本は、従来の日本の良さをほとんど失うことなく、世界へと開かれた民主
 主義国家になるだろう。
   
頑張れサラリーマン
・自分の会社の悪さ具合が、世間でどの程度の水準なのかをさぐるべきだ。方法はいろい
 ろある。世の中には、そういうことに詳しい専門家や評論家だっている。そういう人の
 書いた本を読んだり、話を聞いたりすれば、きっとよいヒントが得られるはずだ。つま
 り、自分の会社以外の会社に目を向けたらいい。
・その結果、悪さの程度が世間より少ないことが判明したら仕方がない。会社も生存競争
 のなかにあるのだから、業界の水準を単独で離れて急に良くなれないだろう。その場合
 にはじめて首をすくめるといい。すくめた後も、他社研究は続けよう。
・調べてみて、自分の会社が世間より悪い水準にあり、それが変えがたいと知ったら、一
 日も早く転職すべきだ。転職を、頭から避けるべきことと考えるべきではない。こうい
 う転職には、社会全体を浄化する機能がある。社会的に悪をなす会社に優秀な人材が勤
 め続けていることは、その本人には酷な言い方だが、その人自身が悪いことをしていな
 くても、結局、悪に加担しているのである。  
・社員を奴隷扱いしていれば、儲かるに決まっている。儲かれば、一応高い給料が出せる。
 そんな会社も日本には多いのだ。だが、そんな会社に一生勤めていてもどうせろくなこ
 とにはならない。我慢我慢の毎日をすごしたあげく、何も得るものがなく、ただ人生を
 棒に振ったようなことになる。休みも取れずに毎日残業し続け、家庭も私生活も破壊さ
 れて、少し高い給料をもらっても何にもならないではないか。
・サラリーマンが過度に憶病になるのは、転職をしたら損だと思っているからだ。転職で
 きない以上、権力者の言うことには最終的に従わなければならない。そして万が一のリ
 スクを避けようとすると、相当小者だと思っても、直属の上長の機嫌は損ねてはならな
 いのだ。 
・日本社会における転職のしにくさは事実で、社会全体が、もっと転職しやすく変わるべ
 きである。しかし、恐れる必要のない転職を恐れているケースもしばしば見受けれる。
 とくに高学歴のエリートに多いようだ。
・就職先がブランド化していることは、本当に驚くほどだ。大きく有名な会社が人気企業
 のランキングの上位に位置し、その順位は年々ごくわずかに動くばかりである。しかし、
 就職先としてブランド化した会社は、当然のことながら、長年にわたって、有名大学の
 卒業生を大勢とり続けているところだ。一般論としては、当然、社内の出世競争も激し
 く、ストレスも多い。同じ能力の人なら、もっとも出世しにくい会社であると言ってい
 い。皿r-万は各社の給料水準の差を言うが、出世したかしないかの差はもっと大きいの
 だ。 
・おしなべて、日本では、いろいろなもののランキングが固定的に決まりすぎているよう
 だ。大学の序列も、会社の序列も、職業の貴賤についての感覚も、あまりにもはっきり
 していて、いやになるほどだ。しかも、日本は、それをあからさまに論じない非言語的
 社会だから、一度できた感覚は、何かのスキャンダルでも起こらないかぎり変えること
 ができない。そのうえ、日本人は、記憶力だけを鍛える教育を受けてきたせいか、人々
 も、一度覚えたら、そのレッテルをなかなか忘れない。
・業界・職業・企業・学歴・人間などについての、錆ついた序列意識から離れた自由な発
 想をそれに基づく行動が、日本社会や会社を変える。憶病に生きて目先の保身だけを図
 っているサラリーマンの比率如何が、日本の「幸せのインフラストラクチャー」が整備
 されるか否かの鍵を握っているとも言える。
・日本のサラリーマンが極端に憶病で、保身のためにしばしば過剰防衛をすることと、学
 校時代の知識詰込み教育とは、深い部分で関係しているように思われる。知識詰込み教
 育とは、柔軟な若い脳細胞の思考力・想像力・創造力・言語的能力などを鍛えていない。
 日本の学校教育を受けた我々は、だから、優等生であればあるほど、その後遺症を持っ
 ていると考えなければならない。紙に書かれたことなどを覚えるのは得意だが、あらか
 じめ言語化されていないことについては言語化して表現することが苦手だし、言語化さ
 れていないものの存在を認識することさえ苦手だという人も多い。
・社会のなかに存在する様々な危険を避けるためには、まだ言葉になっていない事態のな
 かに潜む危険を認識する能力が必要である。学校秀才が、社会に出て無能力であったり
 するのは、このためである。
・日本のサラリーマンは、自覚して、知識詰め込み教育の欠点を補うべきである。それは
 相当程度まで可能であると信じている。学校によらなくても人は育つのだ。だが自然に
 はそうならない。意識的な努力が必要だ。
・とくに、エリート大学を出た人ほど、自分の能力を意識的にチェックするべきだ。世間
 も自分も有能だと思っているが、事実なまったく違っているかもしれないのだ。想像力・
 思考力・創造力を鍛えれば、リスクを回避する手段を考えつくことが容易にできるよう
 になる。そして、それらの土台のうえに、ひとつの会社にすがりつかなくても生きてい
 ける能力が花開くはずだ。  
・日本のサラリーマンの多数が、ひとつの会社のなかに埋没して生きることの愚かさを知
 り、自分の勤める会社以外の世界を存在しないかのように振る舞う恥ずかしさを本当に
 感じたとき、人々の心のなかに、「日本社会が個人の幸せを追求しやすい方向に変化す
 るためのインフラストラクチャー」ができるだろう。
・「幸せのインフラストラクチャー」を整えることは、そのどれをとってみても、解決の
 むずかしいことばかりだが、その解決をさらにむずかしくしているのは、今日の社会が
 あまりにも専門化されているということだ。専門分野からでは、トータルにものを考え
 られなくなっているのである。
・今日の複雑に絡み合った社会のなかで、問題は「土地」とか「情報」とか「物価」とか
 「税制」のような、過去、学問が研究対象としたような枠組みのなかに収まって出てい
 るわけではない。官庁の組織分けとも一致しない。だから、専門家の目から見ると、か
 えって問題が隠れてしまったり、仮に気づいたとしても、専門家の領域から問題を分析
 すればするほど、答えがでてこないというようなことになるのである。
 
あとがき
・情報社会の到来によって、オフィスのなかで行われる仕事の内容が、農工商業に付随す
 る「事務」から、もっと積極的な「情報製造」に変化したのだったが、それに気づかな
 いまま、オフィスを東京の中心部にほとんど無制限に作らせてしまった。それが一極集
 中の原因であり、その結果が地価高騰であった。つまり、情報社会の急激な出現に、都
 市計画上の用途地域の規制が追いついていけなかったのである。そのほんのちょっとし
 た齟齬に、何千万人のサラリーマンが泣いているのである。
・人が会社に雇われる場合の契約として、民法が予定している典型的なものは、雇用契約
 である。これは、糸を紡がせたり、鉱石を掘らせたりするために人を雇う場合にはピッ
 タリの契約の仕方かもしれないが、世界を相手に商品や為替を売買したり、新製品を生
 み出すための開発研究をしたり、コンピュータのシステムを考えたりする人と会社との
 間で結ばれる契約としては適切でない点が多い。典型契約と仕事の実際とのそのような
 ズレが、仕事が契約どおりにならない原因のひとつになっている。サービス残業や過労
 死が生まれる原因のひとつにもなっているのではないか。
・社会と社会を律する仕組みの間に生じたズレは、当然のこととして、社会の弱者に皺を
 寄せる。その弱者とは、サラリーマンである。幸せ感がないのも当然である。しかも、
 矛盾がここまで大きくなっているのに、それを解決するための手立てがほとんど打たれ
 ていないのは、不思議と言えば不思議である。
・矛盾の本質に気づかないまま、東京圏一極集中の問題解決に、官公庁の移転、さらには
 遷都などということも考えられているが、そういうことをいくらやっても、情報社会と
 都市計画との矛盾を正しておかなければ、ただ問題を先送りしただけで、たとえば遷都
 先で数十年後には、まったく同じ問題が起こることになる。
・すべての問題の底にある、最も重要な事実は、日本が「非言語的コミュニケーションに
 立脚した社会である」ということである。コミュニケーションが非言語的になるのは、
 日本語が「論理を伝達する道具」としてより「情緒を伝達する道具」として発達してき
 ているせいであろう。その結果、社会現象のすべてが密室化し、チェックが入りにくく
 なっている。非言語的コミュニケーションに慣れた人々は、コンセプトの創造やシステ
 ムズ・アプローチが苦手である。こうして、「外圧によらなければ改革できない政治」
 とか、「仕事の目的に直接関係のない我慢が強いられる会社生活」などが生まれている。
 日本が国際化できないことも、日本社会の非言語的性格が関係している。
・日本人の「言葉とは情緒を伝達する道具である」という言語観、すなわち「言の葉」観
 に、「論理を伝達する道具」という言語観を付け加える必要があるということだ。それ
 は「知識の詰め込み」中心の教育を変えるチャンスでもある。「日本語を論理的に使う
 能力」こそ、国際化時代の日本」という新しい酒を入れる革袋なのである。
・こうして考えてみると、サラリーマンの「幸せのインフラストラクチャー」を作るとい
 う仕事は、大規模で、大変時間のかかる仕事であるということがわかってくる。その完
 成は、とても、現在生きている我々には間に合わない。
・一極集中を放置してきたのも、法人が優遇されてきたのも、知識詰め込みが教育のほと
 んどすべてであったのも、昨日や今日始まったことではない。もう数十年間にわたって
 続いてくたこと。サラリーマンの幸せ感欠如はその結果なのだから、それを変えるのに
 も、最低数十年はかかると覚悟すべきだ。
・バブル崩壊後、まずなすべきは、バブルに浮かれて躍った不良企業に対する厳しい懲戒
 であった。そして、それと同時に、政府は、地価や消費財の下落によって、ようやくサ
 ラリーマンたちにとっての幸せのインフラストラクチャーが整備されつつあるという認
 識に立って、消費喚起の一大キャンペーンをすべきであった。サラリーマンが豊かにな
ったのに応じて消費が喚起されていたら、景気は消費主導型でゆっくりと、しかし根強
く上昇し、二十一世紀に向かった新しい時代の経済成長のパターンが出来上がってい
たはずであろう。   
・にもかかわらず、政官民を問わず社会のリーダーたちは、企業、それもバブルに浮かれ
 て躍った悪徳企業の立場に立って、声高に不況を唱え、それらの企業とどうやらバブル
 の再燃を期待しているような「不況脱出政策」を主張した。その結果、問題はまったく
 解決されず、悪循環が起こった。
・本当の問題は、混乱する事態の陰に隠れてしまっている。実は、それが最大の問題だと
 私は思う。すなわち、バブルを生んだ基本的構造が、今もなお、まったくそのままの形
 で残っているのである。