アフガニスタンの診療所から :中村哲

この本は、いまから32年前の1992年に出版されたものだ。
この本の著者といえば、アフガニスタンで水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決で
きるとして、医師でありながら自ら重機を操って総延長25kmを超える用水路を建設し
て、約10万人の農民が暮らしていける基盤をつくったということで有名な人物である。
しかし2019年に、車で移動中に何者かによって銃撃され死亡した。
著者のアフガニスタンでの功績は、用水路建設だけではない。
著者がパキスタンやアフガニスタンと関わりをもったのは、パキスタンへの登山隊として
参加した1978年からのようである。そのときの体験が、後に1984年から当地での
医療活動にかかわるきっかけになったようだ。当時はまだ38歳前後だったはずだから、
それから死亡する73歳までの約35年間、パキスタン・アフガニスタンで医療活動を続
けたことになる。
この本は、その医療活動のうち1990年までについて記したものである。
その医療活動は、日本に住む我われの想像をはるかに超えた筆舌に尽くしがないほどの壮
絶なものだったようだ。それは、他の国際医療協力とは異なり、「人のやりたがらぬこと
をなせ。人のいやがる所へゆけ」を指針にして、地元に根をおろした医療協力を目指して
いたからであったようだ。
著者は当初はJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)からの派遣という形でパキスタ
ンのペシャワールへ赴任したようだったが、ミッション病院の「ほどこしをしてやる」と
いう姿勢や、西欧社会の価値観とイスラム社会の価値観の違いに対して、どこか違和感を
感じていたようだ。
しかし、1985年のクリスマスの時期に、ソ連軍がペシャワール近郊まで迫り激戦が展
開され、負傷者や難民患者が、病院が収容しきれないほど殺到していた時に、所属してい
た海外協力団体から、はるかはなれた海外で行われる「美しい自然と人びとに囲まれたア
ジアの山村で語らいの時を・・・」という催し物に出席するよう矢のような催促を受け、
それは最後には「出席命令」に変わったという。このとき著者は中身のない「海外医療協
力」と決別したという。
そして日本で協力を募り、現地に根をおろした医療活動を行う「ペシャワール会」を組織
したのだという。

この本を読むと、本当の国際支援とはどういうものなのか。ただカネをばらまくだけの国
際支援で終わっていなか。国際支援といいながら自国の価値観を現地に押し付けていない
か。あらためて考えさせられた。
また、発展の名の下に自然を破壊しながら、何の疑問も持たずに大量消費生活にすっかり
慣らされてしまっている今の自分たちの社会が、ほんとうに豊かな社会なのか、考えさせ
られた。


帰郷(カイバル峠にて)
カイバル峠の国境はうそのようにぬけた。
 自治区の民兵もパキスタンの警察も、手を振って見送るだけであった。
 つい二カ月前まで重苦しい不動の隔壁だと信じ切っていたものが、かくもあっけなく取
 り外されるとは、どうしても実感がわかなかった。
・あらためて目を凝らして「国境」を見たが、そこには粗末な木材で作られた柵のような
 ものが、路傍のレンガの柱にそっけなく張りついているだけだ。
 これが、我々がおそれ、戦争と平和、政情と国家を語り、アフガニスタン国内外の活動
 計画を立てる上で、不動の隔壁と感じたものの実体であった。
 国境の虚構そのものがそこにさらされていたのである。
・あとからあとから人と車のなみがつづく。
 たいていの家族はトラックに家財道具と、女子どもを満載し、あるいは徒歩で羊の群れ
 を連れ、あるいはラクダの背にのり、延々と列は絶えない。
・13年の歳月をひたすら望郷の思いだけに耐えた300万のアフガニスタン難民たちは、
 もはや指導者の言いなりに動くおとなしい羊の群れではなかった。
・かつて炎熱と厳寒の岩石砂漠の丘陵を、ときには仮借ない銃弾をくぐり、多くの犠牲を
 出しながら、トボトボと数週間、数カ月を歩いて彼らは逃げてきた。
・だが今、何物にもはばまれず、何ものの助けにもよらず、独力で彼らは同じ故郷への道
 をたどる。 
 難民帰還というよりも、誰も止めることができない巨大な民族移動である。
・1992年6月、私はJAMS(日本ーアフガン医療サービス=ペシャワール会)によ
 る「アフガニスタン復興のための農村医療計画」の進捗状況を見るためペシャワールか
 らカイバル峠を越えてアフガニスタン内部に入ろうとしていた。
・1979年12月のソ連軍侵攻につづくカイバル峠の閉鎖以来、いつしか人々の間には
 これがパキスタンとアフガニスタンを隔てる鉄壁だという先入観が定着していた。
 それが苦も無く打ち破られ、怒涛のような難民帰還が開始された。
 13年のアフガン戦争とその犠牲、難民生活、暗澹たる日々を知る者にとっては、この
 光景は感涙をもよおさずにはおれないものであった。
・この大移動が、国連や欧米難民援助団体をあざ笑うように、その「帰還救援活動」が停
 止した直後に小事だのだから、まったく皮肉と言わねばならない。
 外部の者が手を出せば出すほど、「難民帰還」が困難となり、泥沼の混乱を生じて引き
 上げざるをえなかったからだ。
・もはやだれも国連を信じなかった。
 つい最近まで「アフガニスタン難民のかつてない帰郷は危険である」と警告していたの
 である。
 軽蔑された国連の車両が各地で襲撃された。
・百数十万人の死者と六百万人の難民を出した十数年にわたる内乱の果てに、多くの難民
 に共通していたのは諦観にも似た政治不信と疲労の色であった。
 誰もが政治的スローガンでおどらされる愚かさを身に沁みて感じ、平和を切望していた
 のである。 
・日本国民の中には、もうアフガニスタンなぞ昔の話で、「難民がいまだにいたのか」と
 驚く向きもあった。
 だがアフガニスタンが世界をわかせたのは、1979年のソ連軍侵攻のときだけではな
 い。
 ソ連軍撤退以前から、われわれJAMSは諦めの気持ちで「伝えられざる民の現実」を
 つぶさに見てきた。
・1988年のジュネーブで調印されたアフガン和平協定の時も、今にも難民帰還が実現
 するような誤った報道で世界中がわきかえったではないか。
・しかしその後も米ソの武器援助は続き、混乱はさらに拡大した。
 アフガニスタンはソ連・米国・中国製と、まるで地上戦の中小火器の強大な国際市場の
 様相を呈した。 
 莫大な金を浪費した国連主導の「難民帰還計画」もまた、山師的なプロジェクトの横行
 と金による民心の荒廃のあげく、事実上終息した。
 軍靴で踏みにじられた人々が、今度な援助の名のもとに札束で頬を殴られたと感じたの
 は当然ともいえる。 
・世界の報道機関はうわべの政治的動きに惑わされ、カブール以外の全域で展開している
 大きな平和のうねりを伝えることができなかった。
・米国のてこ入れによって深度化した政治党派の乱立・抗争も多くの者には無縁で、党派
 をこえて働く地縁・血縁関係のほうがもっと身近であった。 
 大部分の声亡き人びとは、何かの主義や思想で動いていたのではない。
 自分のアイデンティティを打ちこわす外からの脅威から郷土を守る単純な動機で戦い、
 そして戦いを拒否したのである。
・平和のうねりは大国の干渉を打ちくだいた。
 アフガン戦争が冷戦構造化の米ソ激突の象徴であったとすれば、現在の動きは冷戦後の
 米ロの無能の象徴である。 
・7年前の1985年の暗いクリスマスの時期を思い浮かべずにはおられなかった。
 ソ連=アフガン政府軍はカイバル峠の国境の町取るハムを占領し、パキスタン側の国境
 線にしりぞいたゲリラ部隊との激戦がここでも展開されていた。
 あのころパキスタン側のパシュトゥン住民も義勇兵として参加し、両軍の死闘がつづい
 た。 
 ふもとのペシャワールでは砲声が間断なく聞こえ、市民は不安におびえていた。
・難民は月に五万人の規模で増えてつづけ、アフガニスタン国内では各地に鬼気迫る地獄
 絵が展開したのである。 
 逃れた難民数百名が一夜で凍死するという事件があいついだのもその頃であった。
・あのとき、だれが今この明るい帰郷の群れを想像したであろう。
 過去の悪夢を知る者には、夢に目で見た光景であった。
  
(アフガニスタンとのかかわり)
・1978年6月、私は福岡の山岳会のティリチ・ミール遠征隊に参加して、はじめてヒ
 ンズークッシュの山々を眺望した。
 ティリチ・ミールは、にしからこるむのヒンズークッシュ山脈の最高峰で、ちょうどア
 フガニスタンとパキスタン北西部を隔てる美しい山である。
・果てしなく連なる巨大な白峰がまず我々を圧倒する。
 見下ろせば、オアシスの村々もさながら緑の点となり、すべての人の営みが何か小さな、
 とるに足らぬもののように思われてくる。
 そこには、あらゆる人工の子細工を超越して君臨するひとつの力を感じ取ることが出来
 る。
・しかし、私を驚かせたのは自然ばかりではなかった。
 初めは興味本位で見ていた村人の生活も、ささやかであったが診療活動をとおして身近
 になるにつれ、気が重くなることが多くなった。
・我々は連邦政府の観光省から住民の診療拒否をしないように申し渡されていたので道々、
 病人たちを診ながらキャラバンを続けていた。
 進むほど患者たちの群れは増えたが、とてもまともな診療はできなかった。
 有効な薬品は隊員たちのために取っておかねばならない。
 処方箋を渡してもそれアバザールでまともに手に入ることは少ない。
 結局、子どもだましのような診療のまねごとをして住民の協力を得るほかなかった。
・慣れとはおそろしい。日本で我々が享受している医療が、いかに高価でぜいたくなもの
 であるか、私の理解を超えるものがあった。
 山岳地帯の住民は自給自足で、現金収入は極端に少ない。
 日本で常識とされる治療はまず不可能といってよい。
 こんなところに生まれなくてよかったと割り切ればそれまでだが、私はどうしてもそれ
 ができなかった。
 道すがら、ひと目で病人とわかる村人に「待ってください」と追いすがられながらも見
 捨てざるを得なかった。
 重い気持ちでキャラバンの楽しさも半減してしまった。
・村々で歓迎されると、釈然としない後ろめたさが、かえって増した。
 職業人として、これは深い傷になって残った。
・その後なぜだかわからない。
 私はつかれたように機会を見つけては現地をおとずれた。
 バザールの喧噪や荒っぽい人情、モスクから流れる祈りの声、荒涼たる岩石砂漠、イン
 ダスの濁流。すべてこれら異質な風土も、かえってなじみ深い土地に帰ってくるような
 不思議な郷愁にとらわれるのだった。
 そして、こざかしい日本人論を超えて、人はやはり人であるという、当然だが妙な確信
 を得てほっとするのである。
・1979年12月に家内とともにペシャワールからカイバル峠に来たことも、ありあり
 と思い出す。
 国境の町トルハムに立った時、帰還難民であふれる1992年7月まで、それが最後の
 機会となるとは予想だにしなかった。
 「ソ連軍、アフガニスタン侵攻」のニュースを聞いたのは私たちの訪問後間もなくのこ
 とだった。
 しかし、13年後に私がアフガニスタン農村医療のために同じ地点に立っていようとは、
 なおさら想像外のことだった。
・この訪問が酷暑の夏出なかったことは、幸か不幸か、よい印象を家内に与えたようであ
 る。しかし、私の心中にある何ものかを直感的にかぎとったのか、私にたずねた。
  「まさかこんなところで、生活することはないでしょうね。おもしろそうなところだ
  けど・・・」 
・私も「何を馬鹿な」と打ち消して笑った。うそではなかった。
 何か強い求心力をこの地に感じていたのは事実だが、かくしていたのではなく、ティリ
 チ・ミール以来の経緯をめんめんと述べるのが面倒なので、だまっていただけである。
 それに家内は、典型的な日本人主婦で、日本を離れては生活できないだろうと本人も私
 も信じ切っていたのである。 
・この三年後、ペシャワール・ミッション病院の院長が、ふとした思い付きで日本に立ち
 寄り、ある海外協力団体に日本人医師派遣の要請をすることなど知る由もなかった。
 気まぐれにとった連絡がこの要請に応ずるハメに陥った時、「あそこならまんざら知ら
 ないところでもないから。ほかの所なら別だけど」と平然とのべたのは家内である。
 してみればあの旅もまた、現地に導く縁のひとつであった。
・人の定めはおしはかりがたい。こうして不思議な出会いの連続は、この辺境の地に私を
 呼びもどし、さらにアフガニスタンへと私を誘い出していった。
・1983年9月に私は家内を引き連れて英国の熱帯医学校に留学し、1984年5月、
 パキスタン北西辺境州の「らい根絶計画」に民間側から側面援助をうちこむために、
 ペシャワールに着任した。
・1986年には必然的にアフガニスタン難民問題にまきこまれ、アフガン人チーム(現
 JAMS)を組織した。
・すべてのいきさつは、ただ縁のより合わさる摂理である。
 ひとのさからうことができぬものがある。
 多くの出会いがあり、多くの別れがあった。
 私を当地に結び付けた多くの知人、友人、先輩もこの10年という短い期間に世を去っ
 た。
 「人は生きているのではなく、実は生かされているのだ」と私はしみじみと思うのであ
 る。

アフガニスタン(闘争の歴史と風土)
・「ペシャワールで働いている」といっても、よくわかってもらえないことが多い。
 最近でこそイスラム世界の動乱などである程度は理解されるようになったが、いっぽう
 でますます我々日本の目は西欧に向いている。
 殆んど自分を西欧諸国の一員とさえ思い込んでいるように見える。
 この世界観は、ほんのここ一世紀、「文明開化」とともに我々の頭脳の中に移植され、
 戦後教育によって強化されたものである。
 中国は別として、我々のアジア観はたいていヨーロッパからの借用である。
・国家観もそうである。島国の、ほとんど単一民族と言える日本人は、アフガニスタンや
 パキスタンというとアフガン人・パキスタン人という民族と固有の言語があると錯覚し
 がちであるが、そうではない。
 アジア世界では日本や韓国など、単一の言語で比較的等質化された人々をまとめうる国
 家は例外の例外である。 
・中央アジアでいえば、カスピ海からペシャワールまで、地図上の国境線では見えぬひと
 つの文化圏が存在する。 
 イスラム自体が一種のインターナショナリズムを基調としており、部族的な割拠性は保
 ちながらも、人びとは「イスラム教徒」として同一性を自覚するのが普通であった。
 彼らにとって、国家とは付け足しの権威であり、自分の生活を律する秩序とは考えられ
 ていないのである。
 日本人にはこの事実がなかなか伝わりにくい。
・だが西欧型近代国家は、まさに明瞭な国境・領土と国民の均質化を要求するという点で、
 「非アジア的」であり、その国家観でアジア諸国を論ずるのがそもそも無理なのである。
 理解しにくい中近東の複雑なもめごとも、これを「国家」と見るからこそわけがわから
 ない。 
・第一、直線で引かれた自然国境などありうるはずもない。
 戦前の地図と比べてみればわかる。
 アジア諸国の現在の国境は、西欧列強のアジア分割支配の歴史の痕跡である、
・アフガニスタンは、ペルシア世界とインド世界が中央アジアでおりかさなる地域であり、
 独特の世界を現出している。
 現在の廃墟からは想像もつかないが、このアフガニスタン一帯こそ、昔は世界の主要交
 通路であり、海路が主力にかわる十八世紀まで、もっとも繁栄を誇る世界貿易の要衝だ
 ったのである。
・私をひきつけるアフガニスタンの魅力のひとつは、その壮大な多様性にある。
 歴史的な重層性は古代から現代にまでおよび、民族集団も全ユーラシアの種族を網羅す
 る。まるで数千年の歴史が圧縮されたように、過去の民族・宗教団体が存在する。
・しかも、それらが伝統的形態を守ってたがいに共存している。
 人びとは異質な生活集団と共存する知恵、「国際性」とでもいうべき広大な容量をそな
 えている。  
・アフガニスタンでもパキスタン北西部辺境州の自治区でも、近代的な国家権力は存在し
 ない。
 すべては伝統的に共通する慣習法の下で裁かれる。
 徹底した復讐法によって、互いの暴力行使を牽制しあっている部族社会という特質をそ
 なえている。
 インド亜大陸で「パシュトゥン(アフガン人)」の名は、好戦的な征服者のイメージと
 重なって、一種の畏怖・恐怖心を伴って語られることが普通である。
・学校教育はあまり普及しておらず、就学率は低い。
 ただ、何をもって「教育」と呼ぶかは別で、招来の糧を得るための技術教育ならば家業
 の手伝いをしておればよいし、道徳・宗教教育ならば村のモスクを中心にイスラム的な
 人間教育がなされる。
 有効識字率は10パーセント未満と思われ、読み書きができるだけで農村では尊敬を受
 ける。 
 もっとも「識字率」と都会化の指標であって、文化の高さを示すものではない。
 事実、読み書きのできぬすぐれた詩人も多い。
 「就学率」にしろ「識字率」にしろ、これらを豊かさと進歩の尺度とするかどうかは別
 問題である。
・植民地時代の不自然な国境線がわざわいのもとになっているのは、ここでも深刻である。
 現在のパキスタン北西辺境州とアフガニスタンとの国境線はデュランド・ラインとよば
 れ、1893年、英国とロシアとの対立のはざまで住民の都合を無視して引かれたいわ
 ば暫定的な軍事境界線である。 
・当時インド防衛を至上目的とする英国は、南下してくるロシアに対抗するため盛んにア
 フガニスタン征服を企てたが、パシュトゥン諸部族の抵抗で敗退した。
・いっぽうロシアもまた、積極的な南下政策で次々と中央アジアの諸民族を征服してアフ
 ガニスタンにせまったが、トルコ系諸部族のはげしい抵抗でアム川をこえることができ
 なかった。
・そこで英露の間でアフガニスタンを緩衝地帯とする気運が高まり、かってな国境画定作
 業が地元民を無視して次つぎと行なわれた。 
 はぎとられるように周辺地帯は英露の領土に組み込まれ、制服の空白地帯としてアフガ
 ニスタンは残された。
 日露戦争でのロシアの敗北(1905年)は、英露両帝国にアフガニスタン征服を決定
 的にあきらめさせ、緩衝「国」として放棄し、ペルシアでの勢力圏を分割し、いちおう
 の縄張りを決定して安定を見た。
・英国にあずけた外交権が正式に奪い返されたのは、第一次大戦後アフガン軍が英印軍
 を破って侵入した1919年のことであった。
 この時、アフガニスタン・英国の間で「勢力範囲」とされたのがデュランド・ラインで
 ある。
 こうして、デュランド・ラインは、スレイマン山脈を中心にひろがるパシュトゥン部族
 の居住地を真っ二つに分けてしまった。
 英国の残した斧迷惑な遺産は、パキスタン政府にひきつがれた。
 1979年のソ連軍介入以後、アフガニスタンの内乱が本格化、270万にものぼる難
 民が北西辺境州に流入して、ペシャワールは内戦指導の根拠地となる。
 大部分の住民にとっては、ロシアがソ連に、英国がアメリカにとって代わってもどうで
 もよいことだった。

人びととともに(らい病棟と患者たちとのふれあい)
・ペシャワールでの我々の活動のふりだしは、「らい根絶計画」への参加であった。
 1982年12月、私の初期の派遣団体であったJOCS(日本キリスト教海外医療協
 力会)の意をくんで、ペシャワール・ミッション病院を視察したことがある。
・じつはこの時、病院側が欲しがっていたのは外科医や内科医で、一般診療部を立て直す
 ことが強い要望だった。 
 だが私の目を引いたのは、病院の片隅に置かれている貧弱な20床のらい病棟だった。
 その翌年に北西辺境州政府の手による「らい根絶五カ年計画」がスタートし、ミッショ
 ン病院もその一翼を担うということを知った。
・ペシャワール市内にはほかに、ペシャワール大学のカイバル医学校と附属病院、研修病
 院があり、いずれも1000床近い大学病院で、医師も医療技術者もたくさんいた。
 しかも医師の急増で「失業者」が出るという予測さえあり、な内科や外科の一般診療な
 らなにも外国人の医師が来る意義があるのかという印象を受けた。
 私が考えたのは、無医地区の医療問題はあくまで地元の医療行政問題であって、外国人
 がその興味のおもむくまま「活躍する」と会っては、周囲のバランスをくずし、有効な
 協力とはならないということである。
・現地の行き届かぬところを補い、地元がやりたくてもできないことを支えるのが協力と
 いうものである。
 外国人が自国で喝采を浴び、地元ではひんしゅくを買うという事態も多い。
 そこで「人のやりたがらぬことをなせ。人のいやがる所へゆけ」というのが指針で、
 よりニーズが高いにもかかわらず力が注がれていない、らい病棟に努力を集中するよう
 私は決めた。
・内科や外科ならば、水準が高いとは言えなくても多くの医師が現地にはいる。
 しかし、らいとなれば、パキスタン全土で数万の患者を抱えながら全国で専従医師五名、
 うち外国人医師三名という状態で、当時北西辺境州には皆無であった。
 外国人医師として赴く意義を思えば、これは当然の決定だった。
 また、ほとんど何もないらい病棟で、わずか数名のスタップたちが悪戦苦闘しているさ
 まは、見捨てておけない状態でもあったからである。
 
・「らい」とは、結核菌に似た抗酸菌、らい菌による慢性の細菌感染病である。
 新しい患者がほとんどなくなりつつある日本では、若い人びとにはピンとこないかもし
 れないが、古来から特殊な差別・偏見の対象とされた病気である。
 最近ではその差別的なイメージをきらい、とくに報道関係者の間では発見者の名を冠す
 る「ハンセン病」の呼び名が用いられるが、「らい」という正式の医学者名を持ちいる
 ことにしよう。
 差別の根底にふれずに、大用語でうわべをつくろうのはよくない風潮である。
・らい菌はおもに皮膚と末梢神をおかす。それゆえ、さまざまな皮膚症状と感覚障害、と
 きに運動麻痺が主症状である。進行すると顔面に変化をきたし、運動神経麻痺をそのま
 まにすると手足の拘縮を起こして機能障害は元に戻らなくなる。
 眼がおかされると角膜炎や虹彩炎を起こして失明につながる。
 足の裏には足底穿孔症という、いわば足に穴があくやっかいな合併症も生じる。
・らい菌に対しては現在では治療薬が開発され、早期に治療を始めればほぼ完治する。
 しかしいったん生じた神経障害は回復しにくく、機能回復のためのリハビリテーション
 や手術が行われる。
 らいのケアとは、皮膚科、整形外科はもちろん、内科、眼科、神経科、形成外科、リハ
 ビリテーション、さらには社会的偏見下のソーシャル・ワークなどが動員される。
 文字どおり総合医学である。
  
・貧しい現地で病気との戦いはしばしば予算との戦いである。ことに長期の投薬を要する
 らいのような慢性病の治療は、他の急性で致命的なものに比べると贅沢とさえ思われる。
 対策が後手に回るのはやむを得ないのである。
 わずか数百円程度の薬が買えないために死んでゆくものは数知れない。
 死の直前に数百万をおしみなく投ずる日本の医療は、かなわぬ夢である。
・このため、日本の数千分の一という保険財政で多くの者を助けるとなれば、どうしても
 犠牲者数の多い他の急性疾患に重点を置かざるを得ない。 
 同時に保健衛生対策が重要なことはもちろんである。
・らいの仕事に携わる者は、その愛憎、醜悪さと気高さ、深さと軽薄さ、怒り、哀しみ、
 喜び、およそあらゆる人間的事象に、極端な形で直面させられる。
 人間を数字やプランだけでは扱えぬ何ものか、経済効率の優先で置き去りにされてはな
 らぬ何ものかが、らい治療に携わってきた人びとの心の奥に根を下ろしているからであ
 る。
 医療が人間を対象にするものであるかぎり、私自身は彼らの頑迷と偏屈に親近感を覚え
 ている。 

・根絶計画の基本方針は、「慈善事業からコントロール計画へ、病院中心から積極的な
 フィールドワークを」で一貫していた。
 1983年に打ち出された五カ年計画の骨子は、北西辺境州全土に計30ヵ所以上の小
 さな投薬所を設け、各投薬所にカラチで訓練された「らい診療員」を配備し、簡単な合
 併症の治療と定期投薬を行わせ、手に負えない合併症のケースのみペシャワールのらい
 センターに送る、というものだった。
 これは、らいの服薬治療が結核などと異なって、極めて長い年月が必要で、しかも治療
 中断による再発は、耐性菌の出現で事態をさらに悪化させるからである。
 また、きめの細かい社会的ケアのためには、どうしても地元に根を下ろした「駐在員」
 を必要としたのである。
・私自身はこの基本方針、地元の人びとの手になる組織的なプログラムと、外国人の見世
 物のような慈善事業の廃止には心から共鳴していた。
 これまでの外国ミッションのらい対策は、ほどこしてやるという気分がどこかにあって、
 調子に乗って地元の指導者と衝突することが稀ならずあったからだ。
 患者たちもまた親切で気前のよい外国人のほうが何かと頼りになるので、お世辞に取り
 囲まれた外国人グループは、地元権力者と対等にものが言えるような驕った錯覚に陥り
 がちであったと言える。
・30年以上この分野で指導的役割を果たしてきた西ドイツ勢は、私の赴任を予想してな
 かったらしく、しばらく対応に戸惑っていた。
 「慈善事業」に固執するペシャワール・ミッション病院とは対立しながらも、らい病棟
 の私とは友好的に対処して様子を見ようという態度であった。
 彼らにも日本人医師の突然の出現は未知数で、幾分かの過小評価があったのは事実のよ
 うだ。 
 まさか私が10年も居座ろうとは思いもしなかったのである。
・私としては、複雑な対立に対して超然主義をとり、名を捨て実をとる「人畜無害の働き
 虫」に徹することであった。
 そして、当時のひどいらい病棟を改善し、患者に益のあるように配慮すればそれでよか
 ったのである。 
・ペシャワール病院のらい病棟は辺境社会の縮図であった。
 アフガニスタン国籍者が約半数を占め、パキスタン国籍者でも、自治区や国境地帯から
 くるもので占められている。
・患者の職業もさまざまである。地主、小作農、役人、警察官、軍人、乞食、クーチー
(遊牧民)、鉄砲鍛冶、密輸商人、バザールの店主、出稼ぎ、ゲリラ指揮官、ムッラー
(イスラム僧)、モスクの寺男、ときには医療関係者までいる。
・このように雑多な構成にもかかわらず、彼らにはある共通する独特の色調がある。
 概して彼らは、物見高く、自由で気まま、衝動的で粗野である。
 割拠対立と滑稽なほど高い自尊心も彼らの共通性である。
・信義にあつく、勇気と徳と名誉を重んずる。大変立派なものだが、字面からは実態をつ
 かみにくい。言うこととすることがずいぶん違うからである。
・私のらい病棟でも同じような配慮がいった。
 赴任当時の病棟はまったくの安宿に近く、善くも悪しくも牧歌的ないい加減さがそのま
 ま持ち込まれていた。
・たとえば、夜中に急患を診にいくと周囲のだれかがお茶の用意をすでに始めている。
 これを無下に断ってはいけない。何せ真夜中に砂糖、ミルク、ときには燃料を探し出し、
 走り回っていれた苦労の作である。
 ここで私も患者を診終わって一息つくときはていねいに礼をのべておいしくいただき、
 紛失した砂糖やミルクについては後日にとがめだてを延期する。
・あとになって暇を見つけ、「だれのしわざだ!」と聞こえよがしに当番にはげしくつめ
 よる。  
 これは紛失を忠言する病院の担当者に対して敬意を表すためと、スタッフにとがめのほ
 こさきが向けられるようにするためで、もちろん八百長臭い説教であることはたいてい
 の者が承知の上である。
 ここでは怒って見せるという実績が大切なわけで、追及してしめあげてはいけない。
・大切なことは、動機の純粋性と、その場で許容される「不正の節度」をよみより、とき
 には白を黒と言いくるめ、相手の名誉を傷つけぬことである。
 わが国の法律でさえ、「情状酌量の余地あり」という副判決がつく。
 これが明文化されていない世界だと思えば、そう異常なことではない。
・このようなやり取りが身についてくる数年後には、不思議なもので、バザールを歩いて
 いても誰も私をよそ者の外国人だとは思わなくなった。  
 どこへ行っても「カーブーリー(カブールの人)といわれ、アフガニスタン国籍の者と
 思われるらしく、かえって不利なことも起きるので、現地に溶け込むほど逆に洋服をき
 てわざわざ外国人らしく見せねばならぬことが多くなった。
・バダル(復讐)の習慣は現地に根強く、仕事の上で最も手を焼くもののひとつであった。
 復讐は、辺境社会全般における伝統的な掟である。さしずめ「仇討ち」と考えてもよい。
 時には村ぐるみ部族ぐるみの構想となり、小さな戦争にさえ発展する。
・大きく治安を乱さないかぎりは、警察当局も介入しない。
 ペシャワールで発生する殺傷事件のほとんどは、政治抗争でなければ、この復讐による
 ものであった。  
・たいていの例は、理不尽に夫を殺された妻で身内に男手がないとか、相手が有力者で太
 刀打ちできない場合、わが子を「復讐要員」として育てる。
 長じて銃の操作ができるようになると、「めでたく本懐をとげる」ことになる。
 かよわい女手や老人だけの場合は、宴席に招いて毒殺という例もある。
・この手の事件がペシャワールにあっては皆のひんしゅくを買うどころか、称賛さえ受け
 るのである。 
 特に斃されたものがその土地でいやがられる悪徳有力者だったりすると、勧善懲悪の映
 画の観客のように喝采する向きもある。
・ペシャワールに関するかぎり、下心のないまごころが結局この復讐を回避する最強の武
 器である。
 とくに追い詰められた弱い立場にある者は、人の誠意を敏感にかぎとるものである。
 これは世界中変わらぬ人情である。
 
・現地の病院で診療にいそしむ場面を写真におさめれば、「医療協力」であることがだれ
 にでもわかる。
 たしかに、9年の歳月をかけて「安宿」は「病院」らしくはなり、基本的な手術を含め、
 おおかたのらい合併症はペシャワールでもこなせるようになった。
 患者を他州にはるばる送るのは過去の出来事となった。
 しかし、現地での活動は一見「医療」とは思えぬことに大部分のエネルギーを費やした。
 その一つに足底穿孔症対策があった。
・これはきわけてありふれたらいの合併症で、日本では「うらきず」の呼称で関係者によ
 く知られている。 
 これがなかなかの難物で、病棟の仕事の半分以上はこの「うらきず」との戦いに明け暮
 れたと言ってよい。
・らい菌は皮膚とともに末梢神経、とくに感覚神経をおかす。
 進行した状態では手足に痛覚や例温覚がなくなり、火傷・外傷をおっても目で見ないか
 ぎり患者は気づかない。
 うらきずも、この感覚障害が原因である。
・健康者の場合も、はきなれない靴で長歩きすると、不自然な摩擦にさらされるところ
 に水疱を生ずる。これが俗にいう「まめ」で、ほとんどの人は経験がある。
 まめを生ずれば、痛みを感じて傷をかばうか、何らかの処置をして傷が治る。
 痛みは我われに障害を知らせる重要なサインなのである。
・ところがらいの場合、痛みがないから障害が無視されて、同一患部を傷め続け、結果は
 死の裏に穴があく。これが足底穿孔症である。
・事態はたんに足底に穴があくというにとどまらない。
 傷に化膿菌の感染がおこり、骨髄縁で骨が破壊され、足の変形の重大な原因となる。
 治療そのものは簡単で、幹部を清潔にして安静を保てでは、数週間で治る。不注意な患
 者にはギブスを巻いておけばよい。
・しかし問題は、せっかく治った患者が数カ月後には同様の状態でまた舞い戻ってくるこ
 とである。
 こうして入退院を繰り返すうちに、地主から村を追われたり、離婚に近い状態に追いや
 られるケースもまれではなかった。
 しかも入退院理由の約70パーセントがこのうらきずで占められ、これに使われる抗生
 物質とギブスの費用がもっとも大きな財政的負担になっていた。
・ペシャワールのような貧しい医療事情では、患者の社会生活に打撃を与えぬためにも、
 病院に財政負担をかけぬためにも、予防的な局面が大切である。
 患者の履物を見ると、たいていは堅い革に釘をふんだんに打ち込んで修理を重ねたサン
 ダルを履いており、ひどい代物であった。これでは足に傷ができぬほうがおかしい。 
 日本で考えればたかがサンダルと思われようが、貧困層には簡単に買い換えられるほど
 安いものはなく、荒い岩石の道の多い山岳部ではことのほか大切であった。
・公営センターとミッション病院あわせて40床の収容力ではうらきずのケアだけでも不
 可能であり、予防的な局面に力を入れる以外に打開策はなかった。
 だが実際には、はなばなしい手術やフィールド・ワークに比べると、地味で根気もいる
 この仕事は、なかなか手が着けられなかった。
・まずは、どのような製品をどの規模で作るかということである。
 赴任直後から、寝ても覚めても履物のことを考えるようになった。
 入手できるだけの文献も読みつくし、道を歩く時も診察をする時も人の足元を見ていた。
 らいのためのサンダルや靴は、少なくとも機能については、すでに先人たちが工夫を重
 ねて技術的に完璧なものがあった。
・しかし、私の素朴な疑問は、なぜこのような立派な技術と製品が現地で行き渡らないか
 ということだった。
 しかも、パキスタンの大都会では、欧米のミッション団体が巨費と投じて最先端の技術
 を入れたワークショップが建てられて久しかったのである。
・カラチのらいセンターでも、広く行き渡らせるために、単純なデザインのサンダルを量
 産しようとしていたが、見たところ成功しているとは言えなかった。
 そこで日本や外国の製品を与えて反応を見た。
 ところが、はじめ喜ぶのみで、次の外来にくる数カ月後にはまた例の釘だらけのひどい
 サンダルにもどっているのだった。 
・あとで気づいたが、理由は極めて明解であった。
 主な理由は、彼らペシャワールの住民とパシュトゥン部族は強い伝統志向があって、地
 元スタイルのサンダル以外の物を受けつかないことである。
 この傾向はらいの多い低所得者層や田舎になるほどそうである。
・あまり高価な見栄えのするものを与えると、たくさんの家族を抱えてその日の糧に追わ
 れるものは、しばしば現金に換えてしまう。
 結局、地元のスタイルに似せるということが北西辺境州では最も重要なポイントだった。
・そこで、和足は靴屋のバザールをうろついて地元のサンダルを次々と買い込み、自分で
 履いて回って分解し、快適さ、工夫の余地、耐久性、革の質、素材、コストその他を調
 べた。らい病棟では毎日、試作品を作るよりは壊して調べるほうが多かったので、「先
 生は靴を壊すワークショップを作ろうとしているのか」と皮肉もいわれた。
 患者たちは患者たちで、「親切な日本のお医者様が我々のために靴屋を開いてくれるら
 しい」という。
・物見高い連中が多いので、あれやこれやの意見が続出したが、たいていは私の意図をま
 るで分っていなかった。
 口達者な割に実質的な協力は少なかったので私は「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」
 とつぶやきながら、構わずこつこつとサンダルを壊しつづけた。多少、偏執狂のように
 見えたかもしれない。
・ともかく、こうして得た結論はすばらしいものだった。
 パシュトゥンの伝統的スタイルのサンダルは、丈夫で柔らかい革を選び、釘を使用せず、
 足底に接する面にラバー・スポンジをおけば、そのまま立派なうらきず予防用のサンダ
 ルとなるのである。
 ほとんどの素材はペシャワールのバザールで入手でき、生半可な専門技術者をやとわず
 ともそのへんの職人を連れてくればよい。
 どうしてもパキスタンで手に入らぬ材料はマジック・テープくらいのものだった。
・こうしてサンダル・ワークショップは1986年4月に正式にオープンして現在に至
 っている。 
 この間、七転び八起きで、何度もつぶれかけ、語り尽くせぬ思い出があるが、ほぼ軌道
 に乗った。量産による独立採算も試みたが、これは多額の投資を要して、ことがおおげ
 さになる。
 かつ、金とビジネスが行き交うことによって仕事そのものが初心を忘れて変質する。
・結論は、一足につき4〜500円定地の材料のみを我々が現物寄付し、患者には200
 円程度の値段で売り、この売上をワークショップで働く者に労賃として与えることにし
 た。 
 ただで与えればせっかくのサンダルが粗末に扱われるし、北西辺境州のニーズからす
 ると年間7〜800足の生産で、十分日本側からの小口の援助で補給は続けることがで
 きるからだ。
・建物も質素なれんが作りの小屋で、1985年当時の150万円の寄付でこれらワーク
 ショップの準備全部と、約500足分の材料を買ってもおつりが来るくらいであった。
・問題は金だけではない。ほかの大都市の本格的な設備に比べれば、我々のワークショッ
 プの規模は2桁も3桁も小さいが、機能は数倍勝る。
 これは国際援助が見栄えのするものに目がいったり、その土地に住む人間を忘れて事業
 そのものが先行するからである。  
 ワークショップはこの意味で、我われの働きのひとつの金字塔であったと思っている。
 「海外援助」のものものしいふれこみとその実態を苦々しく眺めてきた我われには、
 これは大変愉快なことであった。

・もうひとつ、北西辺境州で大きな頭痛の種に、女性患者のケアがあった。
 厳しい男女隔離の風習のなかで女性患者の発見治療は大幅におくれており、登録患者の
 うち女性はわずか20パーセント、地区によっては16パーセントというところもある。
・これについては男性ワーカーの立ち入る余地がなく、我われは手をこまねいているのみ
 だった。 
 家族以外の異性に肌を見せるのがタブーとあっては、皮膚症状が決め手となるらいの早
 期診断は困難である。
・ところが、現地で女性のワーカーを得るのがこれまた困難であり、こればかりはどうし
 ても外人部隊に頼らざるを得ない。 
 らい病棟にはかつてドイツ系のカトリックのシスターたちが赴任したこともあったが、
 いずれも一、二年以上つづく例はなかった。
・そこで我われは長期継続を目指し、日本からの参加を積極的に呼びかけた。
 1988年から、参加する日本人看護師がしだいに増え、病棟の改善に大きな力となっ
 た。
 現在では常時2名の女性ワーカーがいて、普通一年以上、中には二年、三円と留まる者
 も出てきた。
・こうして日本からの女性ワーカーたちは、現地できわめて大きな役割をはたしている。
 粗末に扱われがちであった女性患者たちの心の支えとして力になっている。
 
戦乱の中で(「アフガニスタン計画の発足)
・「ペシャワール」、それはインド亜大陸の人びとにとって何世代にもわたって独特のひ
 びきのある古都の名であった。ほんの2〜300年前まで、かつての陸路が世界貿易に
 中心であったころ、ペシャワールはサマルカンドとならぶ中央アジアの一大拠点であっ
 た。
・またそれは、「ムガール帝国」の故地の都のひとつであり、ペルシャ文化の窓口であり、
 偉大な文明と恐るべき征服者たちの出現する一方的な通路であった。
 紀元後、いかなるインド亜大陸の勢力もペシャワールをこえることができなかった。
・第一次英国ーアフガン戦争(1838−42年)は英国がアジアで全面敗北を喫した数
 少ない戦のひとつで、「1万6千名の英軍全滅」の報は当時深刻な衝撃をロンドンにも
 とらしたという。  
・だが時代は変わっていた。1979年にソ連10万の大軍がアフガニスタンに進行する
 や、内乱でたたきだされた難民によってペシャワールはうめつくされ、反乱側の内戦指
 導の根拠地となる。
・アフガニスタンの内乱は1973年、ダウード政権による王政廃止のころからしだいに
 くすぶりはじめ、1978年、急進的な共産政権の出現で決定的となった。
 イスラム住民の伝統を無視した強引な近代的改革は人びとの反発をまねき、各地でムッ
 ラー(イスラム僧)がジハード(聖戦)を宣言、反乱は全国に拡大した。
 親ソ共産政権を守るために、1979年12月、ソ連軍10万の大部隊がアフガニスタ
 ンに進攻した。
・当初は、アフガニスタン北部に隣接する同一民族の旧ソビエト共和国、トルコマン、
 ウズベク、タジクなどから主力部隊が投入された。
 しかし、「イスラム同胞の解放」を説かれてやってきた兵士たちの間には厭戦気分が広
 がり、次々とゲリラ側に寝返った。
 このため1982年ごろから、直接ヨーロッパ系の部隊がしだいにとってかわった。
・住民の抵抗は頑強で、中央政府の支配をたちまち点と線に帰した。
 米ソともこのゲリラ勢力の力を過小評価していたが、戦局は人びとの圧倒的支配を得る
 ゲリラ側に有利に展開していった。 
 というより、「ムジャヘディン・ゲリラ(聖戦士)」とは住民そのものであり、少なく
 とも内戦初期のころ、組織的な党派に属する者はむしろ少なかった。
 よく誤解されているように、決して彼らは米国の武器援助によって力を得ていたのでは
 ない。旧式のエンフィールド銃と、ソ連=アフガン政府軍から奪った武器によって、
 ほとんどにゲリラたちは自力で抗戦していた。
 米国によるテコ入れが本格化していったのは1984年8月、武器援助法案が米国議会
 で可決されて以降である。 
・この内乱でアフガン住民はまったく米ソの政治ゲームに翻弄された。
 ソ連側からの対応はいうまでもなく、「ジェノサイド(皆殺し)」のアフガニスタン版
 であった。
 かつてフランスや米国がベトナムで行ったことが繰り返された。
 農村社会という「本経世の温床」そのものを破壊し、人口を都市部に集中して管理する
 という、現地庶民にとって迷惑千万な戦略が実行されたらしい。
 この内戦中にアフガニスタンの全農村の約半分が廃墟と化し、200万人近くが死亡し
 たと見られている。
 全土で600万人、北西辺境州だけで270万人に上る難民はこうして発生した。
・いっぽう、米国の対応ーゲリラ党派への軍事援助を心から喜んでいる住民もいないだろ
 う。 
 ソ連の国力を消耗させるために、アフガン住民を「生かさず殺さず」戦争を継続させる
 戦略は誰に目にも明らかだった。
 ペシャワール郊外には「ゲリラの訓練所」が設けられ、中国から大量に買い付けられた
 武器が続々と搬入された。
 のちには地対空ミサイル「スティンガー」が供与され、犠牲をさらに拡大した。
・あまりに遠い日本には、ついにこの状況は伝えられることはなかった。
 ベトナム反戦でわいた日本の平和勢力も、「アフガニスタン」については一般に無関心
 だった。ソ連情報筋の機密性がその理由に上げられたが、実はペシャワールからは多く
 のジャーナリストたちが自由にゲリラとともに往来していた。 
 即席の従軍戦記の類が多く、ゲリラ勢力の勇壮な姿の実が大きく伝えられた。
 「シルクロード」の異国趣味と大差なかった。
 事実を伝えることさえ「売れる商品」に仕立てる風潮の中で、200万人近い死者を出
 した戦争が正確に伝えられなかった事実を、我われは知るべきである。
・ともあれ、8年間のソ連軍介入の影響は少なくなかった。
 ただでさえ貧しいアフタにスタンの国土は荒廃し、人口は半減して生産力は潰滅的な打
 撃を受けた。 
・難民を引き受けざるを得なかったパキスタンも「前線国家」として多くの被害をこうむ
 った。
・兵を進めたソ連自身もあらゆる意味で疲弊した。
 世界最強を誇った陸軍の威信は傷つき、大義を失った戦争はモラルの頽廃と厭世気分か
 ら麻薬禍をモスクワにまで持ち込んだといわれる。
 ソ連はこの8年の歳月の中でその社会構造の転換を迫られつつあった。
・いっぽう、米国も、莫大な軍事援助とともに、日本との貿易摩擦に象徴される経済的な
 陰りがあらわれ、国力が落ち目となった。
 米ソの、このような事情の中で緊張緩和ムードが生まれ、1988年4月平和協定調印、
 ソ連軍撤退が決定された。
 しかし、戦争にもてあそばれた弱者の犠牲はあまりに大きかった。
・1985年ごろといえば、このアフガン戦争のただ中で、ペシャワールは内戦指導の基
 地としてゲリラ本部が集中し、諸党派が激しく抗争していた。
 そればかりではない。
 現地にはソ連、米国、アフガニスタン政府の領事館まであり、百鬼夜行の状態であった。
 このような政府の反映か、このころから何者かによる爆弾テロが頻発するようになった。
・はじめ私は楽観的であった。もし本格的な暴動が起きる場合、暴徒になるうる住民は旧
 バザールに住んでいるから、そのど真ん中にいる我われは無事にちがいない、いくら何
 でも自分の居住地を破壊する者はなかろう、とたかをくくっていた。
・しかし、爆破は無差別に起きた。なんでもないバザールの中、駅の構内、チャイハナ
 (茶店)、カバーブ店、食堂など、人の混み合うところなら、ところかまわず仕掛けら
 れた。 
・この一連の爆発事件によって、「難民のせいでまきぞえを食わされる」という意識が、
 昔から住むペシャワールの住民に根をおろしはじめた。
・爆破事件の犯人の意図はこうした対立感情をあおり、ペシャワールを混乱に陥れること
 が目的であったと思えるが、1987年2月の事件は背後関係をある程度明らかにする
 ものであった。
・その日、ミッション病院から遠くないジャミアテ=イスラム党のゲリラ訓練施設で爆発
 事件が起きた。
 時限装置がこの施設の正面にある小学校の下校時間に合わせられ、爆風が校門に向くよ
 うに意図的に仕掛けられた。
 約20名の学童が即死、現場は修羅場と化して大混乱に陥った。
 このどさくさに、ある反政府党のグループがゲリラ訓練場を襲って武器庫から大量の銃
 を強奪しようとした。
 しかし、ゲリラの守備兵は正確に彼らを狙撃して寄せつけなかった。
・翌日、ペシャワールやマルダンの学生を中心に反アフガン人デモが組織された。
 一部は近くの難民キャンプを襲撃したが、簡単に撃退された。
 市内でも合流した市民を加えてデモ行進が荒れ、「難民帰れ!」をさけんで市街戦の様
 相を呈したが、警察力だけでこれも簡単に鎮圧された。
・幸い私の家内は出産のために子どもを連れて帰国しており、大きな不安はなかったが、
 非常時に備えてライフルは装填していた。
・事件の翌々日、ミッション病院の門の前を歩いていると、トラック数台に分乗した学生
 たちが何か大声を上げながら通っていた。まだ中学生程度の年齢のようだったが、眺め
 ている私を見て、石を投げつけはじめた。
 パシュトゥン人の門衛が「ガキども何をしやがる!」とライフルをかまえたので彼を制
 止し、足元にあった煉瓦を学生団の中に思い切り放り込んだ。
 私をアフガン人の出稼ぎ労働者と思ったのだろう。
 群集心理で無防備の弱いものにあたる卑怯さに腹が立った。
・私にとって重要なことは、このような事件の重なるたびに、らい病棟までがとばっちり
 をくらったことである。 
 キリスト教とスタッフたちはアフガン人患者に対してつらく当たった。
 圧倒的なイスラム教社会の中で、「パキスタン国民」ということでしか自分の社会的ア
 イデンティティを保持できぬ少数者の悲哀を見た。
 「イスラムの兄弟」という切り札を彼らは使えないのである。
・らいだけが患者たちをつなぐ悲しい絆である小さな世界でさえ、迫害されたものが迫害
 し、弱い者がより弱い者をしいたげる。
 しかし、だれが悪いというわけでもない。やり場のない悲憤で、私はすなおな人間では
 なくなってしまった。 

・保守的なイスラムの世界で女たちのことを語るのは容易ではない。
 外国人が町で接するのは普通上流の西欧化した女たちで、山岳地帯を行く登山家はかた
 くベールに顔を閉ざして逃げ去る女たちに面食らう。
 「女の写真を撮って殺された」などと聞くとなおさらである。
 西欧の女性解放論者は「男による女性虐待」に金切り声を上がるかと思えば、主人の仇
 討に息子を駆り立てる母親に、「野蛮だ」と罵声を浴びせる。
 要するに外国人には理解できなのである。
・10年もペシャワールにいて、実は私もよくわからない。
 男たちはめったに女の話をしないし、たずねもしない。
 外国人の解釈や異文化論はさらにわからない。
 「イスラムの後進性」をまくしたてる西欧の論客の饒舌も、反感を通りこしてあくびが
 出る。
 私がわからない理由は、おそらく自分が男に生まれてきたからで、永遠にわからないだ
 ろう。それは「異文化」を理解するよりも困難だ。
・だが確実なのは、彼女らはその社会の中でふさわしい、女としての地位と役割を十分演
 じているということだ。 
 日本人にそれがわからなくなったのは、西欧化した「教養」とともに、共同体への所属
 感を喪失した個人意識が無用な邪魔をするからである。
 パシュトゥンの女たちにはそれぞれの個性的な顔がある。
 近代化された自我にはそれがない。
 日本の女たちには少ないかがやき、あくの強さ、しぶとさと弱さ、高貴と邪悪が素直に
 隣り合っている。
・「アフガニスタンーそれは光と影です」というのが、私の好む一見まじめなはぐらかし
 文句である。
 現地にいて人情の機敏を解する者は苦笑いしてうなずくことだろう。
 だが、光が強ければ影も強い。
 強烈な陽光と陰影のコントラストは、現地の気風である。
 暗さが明るさに転ずるという奇跡を私は信ずるものである。
 このことを一人のパシュトゥンの女から学んだ。
・1985年のある日、二人の姉妹が老母をともなってらい病棟を訪れた。
 三人ともチャダル(かぶりもの)で忍者のように顔をおおい、はじめは誰も寄せつけな
 かった。 
・スタッフが説得してなだめると、おそるおそるぼろぼろの紙片を差し出した。
 見れば、以前にペシャワール・ミッション病院のらいセンターが使用していた登録カー
 ドであった。
・かすれたインクの字を判読すると、8年前の1978年に新患者として登録されたアフ
 ガン人たちで、治療を中断していたものである。
・別室でチャダルをとらせると思わずスタッフたちも息をのんだ。
 妹は30歳にもならないのに鼻筋が落ちくぼんで顔面が変形し、手指も鷲の爪のように
 曲がっていた。 
 らい反応で前身に潰瘍化した膿疱があり、まるでぼろぼろの皮膚をまとっている骨格に
 見えた。
 無残な姿だった。登録当時、非常に美人だったというが、その面影もなかった。
 2歳上の姉は顔の変形はまぬがれていたが、頭髪は完全に抜け落ちていた。
 母親は右足に大きな火傷があり、壊死を起こした皮膚は悪臭をはなっていた。
・彼女らの出身はクナールという。国境に近いアフガニスタン領内にある。
 彼女らもまた戦争の犠牲者であった。
 ソ連軍の信仰で内乱が本格化したのが1980年ころからで、当時クナールは激戦地の
 ひとつであり、数十万人が難民としてパキスタン領内の国境地帯に難を逃れた。
・兄弟の多くはムジャヘディン・ゲリラとして戦死した。
 従妹の数名に守られてバジョウルの難民キャンプに身をひそめ、ペシャワール行きのバ
 ス賃さえなく、かろうじて配給の食物を得て生きていた。
 もちろん、1年分のらいの薬も飲みつくしていた。
・病勢は少しずつ進行していった。
 妹のハリマの体全体に吹き出物ができ、高熱と全身の痛みでもはや耐えられなくなった
 時、同情したキャンプのゲリラ指導者がペシャワールに送りつけてきたのである。
・彼女らは何かにおびえていた。過酷な体験は容易に想像できたが、あえて私は詮索しな
 いことにしていた。    
 このような病人に必要なのは、ともかく病をいやし、少しでも「人間」としてのほこり
 をとりもどさせることである。
 第一段階は、ともかく餓死の危険がなく、できり限りの治療が保障されている事実をわ
 からせることである。
 人間が極限に近い苦労の痛手から立ち直るには時間がかかる。
 べたべたと優しくするよりも、泣き叫びを放置して思い切り心のうみを出させるほうが
 よい。事実と結果がもっとも雄弁である。
・こうして彼女らは少しずつ快方に向かって行った。
 と述べればいとも簡単だが、狭い病棟にひしめき合う中で、彼女たちの凄まじい半狂乱
 のさけびは、スタッフにも私にも他の患者たちにも大変な忍耐を強いたのである。
 (のちにある外国人が来て「病棟の無秩序と悲惨な女性患者の境遇」をなげいたが、私
 には即座にその意味がわからなかった。私は彼女たちが「人間」として立ち直るのを大
 きな希望で診てきたからである。一般にゆとりのある現代社会で育った者は、緻密にカ
 ミソリで木の皮を傷つけ得ても、大ナタで幹を切り倒すダイナミックな感覚にとぼしい)
・半年後には母親と姉のほうは小康を得て退院した。すっかり笑顔が戻っていた。
・妹のハリマは病棟に取り残されていた。らい反応が繰り返し体を傷めつけていた。
 喉頭浮腫で声がかすれ、しばしば呼吸困難と肺炎に陥った(その当時、来阪の特効薬は
 手に入らなかった)。
 「殺してくれ」という痛々しい叫びも無視して病状の収まるのを待つ以外になかった。
 私が密かにいだいていた暗い自問は、このまま重症肺炎に陥らせて死を待つべきか、何
 とか生き長らえさせるかということであった。
 これを冗談で紛らわせて患者に気休めをのべるのは容易ではなかったのである。
・数カ月ののち、たまりかねた私は、ついに気管切開に踏み切った。
 当然、患者は呼吸困難からは解放されたが、声を失った。
 同時に、それはまともな社会復帰が困難になったことをも意味していた。
・ハリマという患者、ハリマという一個人の人間はこれで幸せだったのだろうかという疑
 問は、しばしば自分を暗い表情にした。
 また、その当時のアフガニスタンとペシャワールの状況はあまりにも絶望的であり、
 「人間」に関する一切の楽天的な確信と断定を、ほとんど信じがたいものにしていたか
 らである。 
 まるで闇のなあっから激しく突き上げてくるような、怒りとも悲しみともつかぬ得体の
 しれない感情を私はもてあましていた。
 人間の条件ーとぼしい私の頭脳で答える得ることは到底不可能であった。
 だがおそらく当のハリマという患者自身もこの疑問を持っていたに違いない。
 「イスラム」以外に語ることばを持たぬ者には、その率直な泣き叫びそのものが雄弁で
 あった。
・自分もまた、患者たちとともにうろたえ、汚泥にまみれて生きてゆく、ただのいやしい
 人間の一人にすぎなかった。
 ただ一つ確信できたのは、小器用な理屈や技術を身につけてとクター・サーブと尊敬さ
 れていても、泣き叫ぶハリマとまったく同じ平面になるという事実だけであった。
・この1985年の暗いクリスマスを私は一生涯忘れることができない。
 ソ連軍はペシャワール近郊のカイバル峠まで迫っていた。
 峠のてっぺんで激戦が展開され、負傷者を乗せた車が連日連夜、市内の各病院と峠を往
 復していた。 
 市民たちは絶えざる爆破工作におびえていた。
 冬の雨季に入ったペシャワールの空はどんよりと鉛色にくもり、砲声が間断なく市内ま
 で聞こえていた。
 ふるさとに帰れる者、ふるさとを失った者たちが病棟とベランダにあふれていた。
 収容しきれぬために一部はテントにベッドを入れて寝かせていた。
・当時所属していたある海外医療協力団体からは、はるかはなれた国外で行われる「重要」
 会議に出席するよう矢の催促が来ていた。
 「発展途上国の現実に立脚して海外ワーカーとしての体験をわかちあい、アジアの草の
 根の人びととともに生きる者として・・・。美しい自然と人びとに囲まれたアジアの山
 村で語らいの時を・・・」 
・白々しい文句だと思った。美しくかざられた言葉より、天をあおいで叫ぶハリマの自暴
 自棄のほうが真実だった。
 この非常時に患者たちを二週間以上も置き去りにするわけにはいかなかった。
 が、このペシャワールの状況を日本側に伝えるのは至難の業でもあった。
 無駄口と議論はもうたくさんだ。
 最後通牒のような「出席命令」を力を込めて引き裂いた。
 私は、催しものと議論ずくめのわりに中身のない「海外医療協力」と、このとき決別し
 たのである。
・クリスマスの日、ペシャワールでいちばん上等のケーキをヤケになって大量に買い込み、
 入院患者全員に配った。
 山の中から出てきた患者にはおそらく最初で最後の豪華な食べ物であったろう。
・あるスタッフがいった。
 「ドクター、奴らにはこの味はわかりませんぜ。この小さなケーキ1個20ルピーで
 1週間分のめしが食えると聞きゃあ、口が腫れますよ。もったいねえ」
 「かまわん。ミルクをたっぷり入れた上等のお茶といっしょに50名全員に配れ。これ
 くらいのぜいたくは、たまにはさせろ。おれの道楽だ」
・底冷えのする病棟にはストーブもなかったので、ガス・ストーブを全室に備えさせた。
 冷たい病室にはあたたかい火が燃え、患者たちは見たこともない高級の洋菓子と熱い茶
 をすすりながら談笑した。
 ひさしぶりに笑顔が病棟にあふれていた。
 連日の過剰な労働で疲れていたスタッフたちも、それにつりこまれて幸せそうだった。
・例のハリマも同室の女性患者とともに笑顔で向かい合っていた。
 変形した手で器用に気管切開の部位をおさえ、かすれ声をふりしぼって談笑し、ケーキ
 をぱくついていたのを見て私はほっとした。
・鉛色の空と冷たい雨にこだまする砲声の下、迫害と戦乱に疲れた者にとっては、たとい
 一瞬でも暗さを忘れるあたたかさが必要だったのである。
 それが私の感傷から出たものであろうと、口の中でとろけるケーキの一片とともに命あ
 ることの楽しさを思い起こせば、それでよかった。
 彼ら患者たちとハリマの笑顔こそが何ものにもかえがたい贈物であった。
・1986年の夏、帰国した私は、この「アフガニスタン計画」の具体化のために飛び回
 っていた。具体的には、このための財政技術援助のとりつけである。
・親身に関心を示してくれるものは少なかった。
 その時自分のありさまは、わが子を救おうとして他人に必死に懇願する親の姿に似てい
 たであろう。   
・たしかに「他人」にしてみれば、あつかましい話ではあった。
 だが、日本社会の持つ特有のゆとりのなさは、ソ連軍以上に圧倒的な壁であった。
 好意を持つ者さえ身動きがつかなかった。
 共感を示すものは一般的に国内の活動に忙殺されており、善意が力となりにくい構造的
 な壁を感じた。
 マスコミを含め、多くの人びとにとって、ペシャワールでの医療活動は美談以上のもの
 ではなかった。
・美談ととられるのはまたよいほうだった。
 刺すような皮肉にも遭遇した。
 「好きなことをして結構な身分だな。日本じゃみなけっこう苦しいんだ」
 「日本だって困っている人はいくらもあるんだ。何もこと変わった所で」
 「そりゃあ、立派なことをしているとは思うよ。しかし世間てものは・・・」
 「おれたちゃ、税金を払っているんだ。外務省にでも相談したら」
・おりから国をあげて国際化の呼号されるなか、少しは義侠心に燃える変わり者もいてよ
 さそうだが、案外「世間一般」の風当たりは冷たかったようだ。
 そのとおり、私は好きなことをしてめしが食える結構な身分であり、こと変わった所で
 オロオロしている物好きな人間にすぎなかった。
 売名行為と評するゲスのかんぐりや、訳知り顔に人生訓をたれる空疎な自信に対して憤
 懣を覚えても、だまっていた。
 啖呵を切ってうっぷんをはらすのは簡単だった。しかし、現地の患者の不利になっては
 ならなかった。
・「おれたちもけっこう苦しいんだ」という言い訳が不当なものだと私は決して思わなか
 った。実際にその中にいる個々人はそのとおりだった。
 だが、まるで異物を排除して等質であることを強制するような合意が日本社会にはある。
 ある種の底意地の悪い冷厳な不文律が、いかようにも説得力のある拒絶の理由を提供す
 るように思えた。
 ペシャワールから急に帰国した私にとって、これは得体の知れぬものであった。
 光と影の明瞭なペシャワールとは明らかに異なっていた。
 私はただ、拙い表現の中に真実を、正当な論理の中におごりを、耳障りのよい修辞にい
 つわりを、発見しようとしていた。
・しかし、日本人とて薄情者ばかりではない。
 いつの時代でも、わが身をけずって人にあたえることを喜びとし、殺伐な世相に明るさ
 をふりまく「変わり者」がいるものである。
・名古屋のあるグループは1985年にアフガニスタン難民救援アクトとして現地訪問し
 ていたが、実情に自らふれてふるい立ち、1986年秋、その記念行事としてアフガン
 人チームのためのセンター建設と車両の寄贈を申し出た。
・九州の病院グループにはもともと利用などの医療過疎に情熱を燃やす者が集まっていた
 が、医療過疎の極致とも言うべきペシャワールの事情に素朴な同情を寄せ、らい病棟の
 改築と継続的支援を買って出た。  
・さらに、岡山の国立の療養所グループが、らいに熟達した皮膚科、整形外科、眼科専門
 医、検査技師をともなってペシャワールに一時滞在、本格的な技術改善を行った。
 これらの人びとは当然のごとくこれを自分の喜びとし、何の理屈も、何の国際協力論も
 のべなかった。
・これをうしろだてに、アフガン人チームの編成がなり、彼らも総力をあげて「らいのア
 フガニスタン難民問題」に取り組むことが可能となった。
 じつに一人の女の率直な叫びが、次つぎと両親の連鎖反応を呼び起こし、アフガニスタ
 ンへの抜本的ならい対策発足を実現させる強い推進力となったのである。
・変貌したのは、ハリマというらい患者のみではなかった。
 我われもまた彼女によって新しい目を養い、力を得たからである。
  
希望を求めて(アフガニスタン国内活動へ)
・1988年4月、デクエヤル国連事務総長は、多く難問を残したまま、ソ連軍撤退条項
 を含むアフガニスタン和平協定を締結させた。
 当時ソ連の書記長だったゴルバチョフは「全兵力9万人を9カ月以内に引き上げる」と
 宣言、おりからの訪欧中の竹下総理は「日本がアフガニスタン難民帰還に積極的支援を
 する」と表明、アフガニスタン問題は日本をもある程度巻き込んだ。
・ペシャワールはにわかにわき立った。世界中からジャーナリストたちが押し寄せた。
 あるものは怒涛のような難民帰還を予想し、ある者はサイゴン陥落のような劇的な場面
 を期待し、固唾をのんで見守った。
・しかし、これは完全な錯覚だった。うわすべりな世界の目をよそに、肝心の北西辺境州
 270万人のアフガニスタン難民は、冷ややかな沈黙を続けていた。
 彼らに何らかの読みがあったわけではない。
 難民の実情を置き去りに進行する机上のプランが実現不可能なこと、別の干渉の到来を
 本能的に感じ取っていたのである。 
・国連の難民帰還の青写真によれば、パキスタン350万人の難民を出身地方別に分け、
 数十万人単位に管理施設を設置、一年分の食糧と工作に必要な農具と種籾をあたえ、
 一、二年以内に予防注射を施行して帰す、というものであった。
 これは事情を知らぬものには説得力があったが、現地の国連職員自身がやるせない気持
 ちをかこっていた。その声はジュネーブまで届かなかった。
・難民がのこのこと種籾をかついで帰れる状態ではなかった。
 アフガニスタン内部で全農村の半分が壊滅、無数の地雷の埋設、戦死した労働力、不安
 定な政治的受け入れ態勢は、人びとをのっけから国連不振に陥れた。
 米国の圧力によってゲリラ側は離合集散を繰り返し、米ソの武器援助は継続、帰還のた
 めの政治的整備は一向に進まなかった。
・難民を受け入れ、ジュネーブよりは事情を知るパキスタンの意見も無視された。
 それどころか、頭ごしの米ソ交渉に抵抗した「ジアウル・ハク」大統領は1988年8
 月、白昼大統領機もろとも爆殺された。
 小さからぬパキスタンのような一国家の元首が、かくも粗雑なやり方で消されるとはだ
 れも予想しなかった。
 政治テロと治安の悪化はペシャワール名物ではなくなり、さらに大規模な形でパキスタ
 ン全土におよんだ。
 多くの人びとはハク政権の8年間の戒厳令をかえって懐かしんだものである。
・難民帰還計画はあまりに性急であった。実行よりは予算消化が急がれた。
・ソ連軍撤退以前に40をこえなかった難民援助団体は、1989年には200団体に上
 り、復興支援ラッシュがはじまった。
 例によって、大金と人材と巧みな机上論を手にしてのりこんできた口達者な連中が、は
 ばをきかせはじめた。 
 人びとは羽振りのよい機関にむらがり、山師的なプランが横行し、民心の荒廃に貢献し
 た。
・このような粗雑なプラン、援助する者の無神経さ、自身に満ちた優越感は、誇り高い現
 地の人びとには耐え難かったのだろう。
 パキスタン政府の一高官は、「今やアフガニスタン難民援助は無責任な外国NGの予算
 分捕り合戦でビジネスに変質し、三流外国人の失業対策となった」とこきおろしたが、
 わからぬではなかった。
・こうして復興支援ラッシュのはじまるなか、元来らい対策を念頭に発足したわがアフガ
 ン人チームも、「ソ連軍撤退」の報を聞いていろめきたった。
 また、それまでの難民キャンプ診療の経験から、わずか7名のスタッフでは到底まとも
 な一般診療はおろか、小さならい対策でさえ困難なことが痛感されていた。
・チームの指導者のシャワリ医師は、
 @ほとんどが無医村の地域で「らいだけ診る」診察は不可能なこと
 A当時のチームの力量で、北西辺境州に倍するアフガニスタン北東山岳地帯への展開は
  到底無理であること。  
 B本格的にやるなら外国人ではなく現地の混在育成を自ら実施すべきこと
 を説いた。
・「地元の人びとの手による活動の長期継続がなければ外国人のショーで終わる」と常々
 思っていた私にとって、これはしごと当然のことであった。
 これまでの日本側の補給力の限界から大きな拡大はさけてきたが、ここにいたって来る
 べきものが来たと悟った。 
・異論はなかった。長い間に私も「パシュトゥン化」していたのだろう。
 現地風のジハード(聖戦)の感覚で、「報いてこの世にひとつ明るいものを残せるなら、
 これだ。この人びとと事業のためなら自分の命も軽い」と本気で思っていた。
 だが同時に、そのためにこそ私は現実的であらねばならなかった。
 アフガン人チームは日本の民間の力を過大評価しているか、やみくもな精神主義に支配
 されているとしか思えぬ節があった。
 それに私の家族までも無理心中のまねはさせたくなかった。
・日本の民間がこの手の事業を数十年単独でやりぬいた例はほとんどない。
 しかも当時、支援会のペシャワール会も十分な補給力はなく、あるのはただ「日本の良
 心にかけよう」という気概だけだったといっても過言ではない。
・アフガニスタンの医療事情はおして知るべきである。
 疾病の構造、その問題点は、他の南西アジア諸国と大同小異である。
 戦争・貧困=不衛生=病気はここでもひとつの強固な環をなしている。
 さらに事態を決定的に困難にしているのは富の偏在である。
 医療技術にしても、平均水準はともかく、現在では金を持ってカラチやラホールなどの
 大都会に行きさえすれば、欧米並みに近い高水準の医療は受けられる。
 問題は決して「技術力の低水準」ではないことである。
 優秀な人材は現地にいくらでもいる。
 ただこれらの人材は、一般的に技術力を発揮できる欧米諸国逃げていく。
・我われの意図は、世界中で流行しながら実行を見ない「コミュニティ・ヘルスケア」に
 かかわる自らの診療モデルを創設し、アフガニスタンの共同体と共存できる衣装体制を
 しくことであった。
 らいについていえば、
 第一、らいを特別扱いするような診療や印象をさけること
 第二、共同体に受け入れられる最小限の手間でケアできるよう配慮すること
 第三、らいを外国人のチャリティー・ショーや「商いの家」にしないこと
 である。
・はなやかな会議やもよおしもの、外国人の援助の論理を満足させる保険教育用の雑誌や
 パンフレットは、貧弱な我われの現場からはあまりに遠く、虚しさを覚えさせるもので
 ある。 
 それに現地では、巨額の「難民帰還・復興援助予算」が混乱と依存を助長していた。
 欧米・アラブ各国による「難民ビジネス」にひきつづく「復興支援ラッシュ」の、しば
 しば破壊的な作用を、心あるアフガニスタン人たちはするどくかぎとっていた。
・しかし、小さな我われにできることは、自ら一粒の種となって地上に落ち、時を待つこ
 とであった。
 まるで桁の異なるアラブや欧米のNGOの大規模なプロジェクトと競合する必要も能力
 もない。 
 このような中で求められるのは、生まれつつある良心の希望の芽を確実に守り育てるこ
 とである。
 ささやかだが貴重な挑戦であった。
・ソ連軍撤退は、1989年2月、予定通り完了した。
 しかし、ペシャワールでは何が起きていたのだろうか。
 難民の数は減少しなかった。
 アフガニスタン内部は戦国自体の様相を呈し、国境沿いでの「復興援助活動」の騒々し
 い自己宣伝だけがあった。
 札束の舞う援助と政治的干渉は、復興を遅らせていた。
 ソ連軍撤退の隙間を埋めたのは、果てしのない内部抗争と飢餓であり、犠牲を大きくし
 たのは米ソの武器援助継続である。
 現地にとっては、対決も緊張緩和も同等であった。
・欧米NGOの「アフガニスタン復興援助」は、ソ連と同様、まるで未開人を文明化する
 ような伝統虫の近代化プラントしか映らなかった。
 地元民や難民としては食ってゆくためには仕方なくとも、おもしろくなかった。
・遅々として進まぬ平和は難民たちの間に苛立ちを広げ、苛立ちは怒りと敵意に変わって
 いった。  
 もともとあった根強い反米感情がしだいに強まっていった。
 このような事情の中で発生するのは、当然イスラム伝統社会の過剰は反動である。
 湾岸危機のひな型は、すでにペシャワールであらわに展開していた。
・1989年、預言者マホメットを冒涜するとされた出版物「悪魔の詩」に抗議するデモ
 がイスラム世界全体で荒れた。 
 イランの指導者ホメイニ師は著者に死刑を宣告した。
 同年2月にペシャワールの英国領事館が爆破された。
 「言論の自由」をかざす西欧近代と、それにはかえがたいものを守ろうとするイスラム
 社会との対立であった。
・だが、たとえイスラム側の過剰反応であっても、そこに欧米側の思慮と内省が働いてい
 たとは思えない。
 サッチャー元英国首相などは、「共産主義が倒れた後はイスラム社会が敵になる」と語
 るありさまであった。
・当時イスラム教徒の心情は、一昔前の日本で、神社の御神体や寺の仏像に、突然外国人
 が押し入って、小便をかけられた感じに近いであろう。
 それが出版物というマスメディアで大規模にやられたと思えば、ある程度想像がつくに
 ちがいない。
 偶像を否定するイスラムにおいて、コーランの句はこの御神体以上のものである。
 「ことばの命」が、現代社会において、氾濫する情報で麻痺したことをかえりみるもの
 は少なかった。
・重要な点は、抗議の暴動は政治的に煽られたものではなく、ごく自然発生的なものだっ
 たことである。 
 我われは時局がら、意外な激しさと拡がりに不吉なものを感じていた。
 ペシャワールでほとんど見聞きしなかった外国人への襲撃・誘拐が頻発するようになっ
 たのは、その直後であった。
・1990年4月、ペシャワール市内のナセルバーク・キャンプで、暴動が発生した。
 ムッラー(イスラム僧)に扇動されたアフガン難民約1万人が英国系NGOを襲撃・略
 奪のかぎりをつくした。
・狙い打ちされたのはたいていが「女性の解放」に関するプロジェクトであった。
 そもそも伝統的イスラム社会では「女性」について外来者がとやかくいうのはタブーで
 ある。
 「胸をはだけて歩く女性の権利」や、自然の母性を無視してまで男と肩を並べること追
 求される「男女平等主義」こそ、アフガニスタンから見れば異様だと映る。
 問題は、この手のプロジェクトが自国受けするテーマとして選ばれたことと、「女性を
 虐待する許しがたい社会の是正」が錦の御旗として掲げられた点である。
 「文化侵略」と受け取られても不思議とは思われない。
 女性がより自然に社会進出する傾向は、これによって逆につみ取られてしまった。
・同様の事件は、周辺のキャンプに次々と飛び火した。
 5月になって、さらにいくつかの主要な欧米NGOが襲われた。
 アフガニスタン国内でもフランスのMSF(国境なき医師団)が追放され、一部は殺害
 された。 
・欧米側の対応は、「犬以下の恩知らず」「イスラム過激主義者の陰謀」という高飛車な
 決めつけ方で、イスラム民衆のさらに大きな反感をかった。
・難民を犬以下呼ばわりし、現地事情や人々の習慣・心情を理解できぬ、独り歩きするプ
 ロジェクトのグロテスクな肥大、騒々しい自己宣伝、自分の価値判断の絶対化がみられ
 るだけだと思えたのである。 
・いかに不合理に見えても、そこにはそこの文化的アイデンティティがある。
 性急に自分たちの価値尺度を押しつける点では、西側も同じ対応をしたわけである。
 そのあげくが、各国政府を通じた国際的な恫喝とあっては、パキスタン政府としても不
 愉快だったろう。事実上黙殺したのは当然と思える。
・こうして、イスラム民衆の苦悩と怒りは、ペシャワールにおいて鮮明に浮き彫りにされ
 ていた。
 同年8月に発生した湾岸危機の背景は、イラクのフセイン大統領の意図はともかく、
 一連のペシャワールの動きと通ずるものであった。
・アラブの湾岸危機は決して偶発的事件ではない。
 それは、冷戦でもてあそばれたイスラム民衆の反応の総和の一部といえるものであった。
・湾岸危機に際して、「イスラム」を国是として1億人の複合民族を糾合せざるを得ない
 パキスタン政府は、苦しい対応に追い込まれていた。
 欧米の軍事・経済援助や、新具産油国への出稼ぎによるオイルダラーの還流なくしては、
 国家経済が成立しない事実の前に苦悩していた。
 ようきゅうされるままに7500名の軍隊を「多国籍軍」として前線に送ったが、その
 心中はどうだったのだろう。 
・人びとは隣国インドにおける大規模イスラム教徒迫害事件に怒り、インド占領下のカシ
 ミールのイスラム住民の反乱に声援を送って鬱憤をはらし、仇敵・米英と対決するイラ
 クに同情して一喜一憂した。 
・誤解されているように、民衆は決して「フセイン支持」だったのではない。
 同じイスラム教徒を虫けらのように翻弄することに対する、素朴な憤りだったのが事実
 である。
・1991年1月、はたして無謀な湾岸戦争が勃発した。
 事情に疎い日本もまた、90億ドルをもって米英にならって参戦した。
 いや、日本国民は「参戦」という意識すらなく、米英に卑屈な迎合をしたとしか思えな
 かった。
 それどころか、まるで野球中継かテレビゲームのように映像を観戦し、評論家たちはノ
 リとハサミでつないだような議論でイスラムを語り、迎合的な危機感を煽った。
・太平洋戦争と原爆の犠牲、アジアの民2000万の血の代価で築かれた平和国家のイメ
 ージは失墜し、イスラム民衆の対日感情は一挙に悪化した。
 対岸のやじ馬であるには、事態はあまりに深刻だった。
 世界に冠たる平和憲法も、「不戦の誓い」も色あせた。
・国連機関のプロジェクトは次々に閉鎖されつつあった。
 追いつめられた時にこそ、普段は見えない実態が明らかになる。
 国際組織たるものが誇り高いUN(国連)のマークをあわてて消すなど、笑えぬことも
 あった。 
 「アジア系の人を残留部隊にして」自分たちが我先に逃げる計画も普通であった。
 その狼狽ぶりは皆を落胆させた。
 「イスラム教徒のメンタリティを疑う」人びとが、あっさりと現地を見捨てて去ってい
 く。格調高いヒューマニズムも、援助哲学も、美しい業績報告とともに、ついにガラス
 の陳列棚から躍り出ることはなかった。心ある人びとは沈黙していた。
・我われはもはや批判する気にさえならなかった。
 それどころではなかった。
 JAMSは戦争中も、何事もなかったように診療活動を続けていたからである。
 ほとんどの難民診療機関が閉鎖したので、JAMSの診療所に病人がおしかけ、多忙を
 きわめていたのである。 

平和を力へ(ダラエ・ヌール診療所)
・アフガニスタン国内診療所の開設は、「1988年8月より慎重に計画され、1989
 年1月に診療員養成コースを開設、開設予定地から直接人材を抜擢して訓練をほどこし、
 混乱する情勢の沈静するのを待ってきた。
・1991年になって内乱が下火となり、相対的な政治的安定のきざしを見るや、本格的
 な準備段階に入った。 
 国内診療所第一号の開設予定地をクナール河の支脈、ダラエ・ヌール渓谷の下流に定め、
 開設時期は12月としていた。
・我われがこの辺りを標的に選んだ理由のひとつは、ペシャワールで登録されているアフ
 ガン人らい患者の約半数以上がクナール河沿いの住民であることであった。
 しかもその約70−80パーセントは「ダラエ・ピーチ」という北西部の盆地に集中し
 ている。 
 だが、ダラエ・ピーチはアラブ系の一勢力が根をはっており、大金と軍事組織で独立状
 態を保ち、堅固な要塞さえ築いている。当面の接近は不可能であった。
・そこで、南部の三役をへだてて隣接するダラエ・ヌール渓谷に拠点を定め、年余をかけ
 て同渓谷のモデル診療態勢を築き、情勢の鎮静するのを待とうというわけである。
 その間にダラエ・ピーチの住民は三々五々峠を越えてくることが当然予想されるから、
 情報はおのずと集まる。
 政治情勢が自壊すれば、いっきにダラエ・ピーチに進出することができるし、混乱が続
 いた場合でも、ダラエ・ヌール側でケアすることは可能である。
・もうひとつの理由は、ダラエ・ヌール渓谷上流は、いわゆるパンシャイー族というヌー
 リスタンの一部族が占め、ほぼ完全な自治体制を戦争中も守り続け、複雑な政争に巻き
 込まれる可能性は少ない。  
・しかし、開設のための下調査では、渓谷の人口や内戦による被害状況の把握が正確でな
 く、漠然とした印象で語られることが多かった。
 実際に計画立案となれば、活動規模を決定するためにも、財政支援をたのむ日本側を納
 得させるためにも、より確かな目で現地調査をせねばならない。
 そこで私自らが開設地域の踏査を行い、最終決定を下すことになったのである。
・国連や援助団体の撤退に次ぐ撤退で、地元住民の間に外国不信のムードが拡大していた。
 さほどきけんがなければ、まずは地元住民の信頼を得ることが大切であると判断した。
・峠は下りとなった。アフガニスタン側から幾隊もの武装ゲリラが登ってくる。
 舞い降る小雪の中、自らも山賊のようないでたちの我われは、ライフル銃や弾薬を背負
 う一行とすれ違いながら、「スタレイ・マシェ(おつかれさま)」とあいさつを交わし
 ながら下りに向かう。  
・JAMSの一行もまた、かつては郷土を防衛するゲリラであった。
 1988年にソ連軍が撤退するまで、彼らも武器弾薬をかついでの道を往来していたも
 のである。
 だが、今や立場が変わった。郷土を守るために銃をとった彼らは、今また同じ目的で銃
 を捨てた。
 しかし、武器を医療に、弾薬を薬品に代え、戦乱で荒れた村を再生するムジャヘディン
 (戦士)であることにいささかの変りもなかった。
・峠をこえた我われは、クナール河畔に到着、日没寸前に渡河した。
 クナール河は、幅広いところで500メートルもある大きな河である。
 滔々と流れるクナール河の諸渓谷はあわせて四国以上の面積があり、川沿いに沃野を提
 供する。 
・両岸のせまる場所がいくつかあり、渡しが往来する。
 水牛の中身をくりぬいた皮を浮袋にし、これをいくつか並べて板ぎれを乗せた筏で、四
 メートル司法くらいはある。
 船頭は川底の岩を要領よくおして急流を斜めに進む、向こう岸にたどり着く。
 まん中に女子どもを乗せ、我われ男どもは端におかれる。
・下流を見ると、広大な谷間に燃えるような夕日が沈みかけ、川面は一面に黄金色にさざ
 めき輝く。夕暮の寒風でチャダルに身をくるむ人びとの姿が、影絵のように無言にうご
 めく。美しい自然の情景に皆しばし疲れを忘れる。
・アバタのような砲弾の痕で荒れた道路を、クナール河沿いに走る。
 大きな弾痕をさけるためのダインカーブを描いてジープが行く。
 「アフガニスタン復興支援」の国債救済活動は、道路舗装ひとつ満足に実施していなか
 った。   
 実際にはドイツとスウェーデン系の難民救援団体が巨額を費やしたにもかかわらず、
 その金はいずこかに消え、現地は放置されたに等しかった。
 しょせん、ゆきずりの外国人にとっては紙上の業績が重要だったにすぎない。
・すでに渓谷では戦争中からJAMSの下工作が行われており、各村に協力的な者が多数
 いて、我われの調査に快く協力してくれた。
 1週間の平和な山歩きは快適で、おおよその実情は調べることができた。 
・ダラエ・ヌール渓谷は、日本の「郡」ほどの広さがある。
 その北部山岳地帯はヌーリスタン族の居住地であり、渓谷上流にその一部の部族が住み、
 南部方言のパシャイーを母語とする。
 同渓谷のパシャイー族の推定人口は約3万人から4万人、けわしい山の斜面に集落をな
 して住み、ほとんどは半農半牧で、狭い耕地に小麦を作って自給自足している。
 渓谷上流になるほど耕地も狭く、一見してその生活はきびしい。
・ヌーリスタンはかつてカフィリスタン(異教徒の国)とよばれ、ここ100年ほどでイ
 スラム化した所である。
 数百年は変わらぬ伝統社会を守っており、下流のパシュトゥン部族以上にパシュトゥン
 らしい習慣を残している。
・すなわち、男性優位の社会、家族間の敵対と復讐法、男女隔離、客人のもてなし、ジル
 ガによる自治制などである。
 男性はほとんどがパシュトゥン語も解し、服装もパシュトゥンと大差ないが、女性は古
 来の伝統衣装を身にまとっている。
・農耕は女性の労働、牧畜は男性の労働で、一応の分業がある。
 かぞくにもよるが、女性の労働は一般的に過酷であり、少女期より農耕のやり方を教え
 られ、適齢期になると買い取られる。しかし、パシュトゥンと異なって比較的開放的で、
 顔をおおうことはない。
・1979年12月のソ連軍侵攻直後から、クナールは「封建制の温床」とされて徹底的
 な攻撃を受けた。 
 ソ連軍の撤退する1989年まで、クナールとその周辺の渓谷はソ連=カブール政権の
 支配下におかれていた。
 その結果、農民たちは戦火を逃れてパキスタン側の国境地帯の難民となった。
 その数はクナール盆地全体で50万人以上といわれる。
・ダラエ・ヌール渓谷でも、当然激しい内戦が展開されたが、軍の攻撃は警告下流域のパ
 シュトゥン部族民に集中し、少数民族のヌーリスタン部族はおおむね戦火をまぬがれた。
 これは政治的な重要性がうすかったためと、険峻な山岳地帯は占領維持が困難であるた
 めで、事実、地区のゲリラ部隊はこの山岳地帯を根城にして頑強な抵抗を続けていた。
 JAMSの渓谷出身者もその仲間であった。
・このため下流域では破壊がはなはだしく、ほとんど廃村に近い村もある。
 難民としてパキスタン側に逃れたものはやく2万人以上と推定される。
 ソ連=政府軍の去った現在、農民たちは三々五々帰郷し始めてはいたが、今度はイスラ
 ム諸党の内部抗争や医療への不安などから、難民キャンプ生活をすぐには捨てきれない
 のが実情だった。 
 また、ペシャワールなど大都会への出稼ぎの困難なこと、長い難民生活の間に若い世代
 が現金生活に慣れて農業に復帰できないこともあろう。
・電気もない夜の楽しみは、ときには旅する客をまじえて食事し、歓談することである。
 時局がら、どうしても昔の仲間のことや戦争中のことが話題になる。
 JAMSスタッフのムーサーが言った。
 「戦争とはいえ、おれもずいぶん人を殺しました。たしかに彼らは我われ『イスラム』
 をけがす敵だした。だが今思い返せば、妙な気がするのです。私はアフガン人です。そ
 して私が殺したのもアフガン人でした」
 「何が言いたいんだ。おまえの『イスラムの大義』はどうなったんだ」
 「それですよ。私はイスラム教徒だ。それは死んでも変えようとは思わない。せっかく
 仲良く暮らしていたのに・・・。そりゃ、他人の信心や生活をとやかく干渉してこわす
 やつらはいつでも殺りますぜ。しかしこのごろいつも思うのは、殺されたやつらも、家
 に帰りゃ、ガキも女房もいるただのお父つぁんだってことですよ・・・」
 「おれたちはもうつかれました。仲間同士で殺し合うのはまっぴらだ。ドクター、だれ
 がこうさせたんですか。おれたちは悪い夢を見ていたんだ。おれたちは皆、平和にあこ
 がれているんですよ、日本のように・・・」
・ちょうどその時、だれかがBBCのパシュトゥ語ニュースを聞こうとラジオのスイッチ
 をひねった。まったくの迷惑な偶然だった。いきなり「JAPAN」ということばが飛
 び出してきた。みんな耳をそばだてた。
 「日本の国会は国連軍に軍隊を参加せることを決定し、兵士に発砲できる許可を与えま
 した。これに対して韓国が強硬な反対声明を出し・・・」
・そこに集まっていたJAMSのスタッフも皆、私を気にしてだまっていた。
 だれもコメントはしなかった。私は気まずい場をとりつくろうために大声で言った。
 「ばかな!こいつはアングレーズの陰謀だ。にほんの国是は平和だ。国民が納得するも
 のか。納得したとすれば、やつらはここアフガニスタンで、ペシャワールで、何が起き
 ているかご存じないんだ。平和はメシのタネではないぞ。平和で食えなきゃ、アングレ
 ーズの仲間に落ちぶれて食ってゆくか。それほど日本人はばかでもないし、腐っとら
 んぞ」 
・いくぶん興奮して独断的な誇張と希望が入り混じっていた。
 日本国民は本当は無知で、腐っているのかもしれなかった。
 だが、この場で私がJAMSの「J」を代表して背負っている以上、衝動的にそんな言
 葉が口をついて出てきたのである。
・逆にムーサ―が静かに言った。
 「あさってはパールハーバー50周年だとBBCが言っていました。50年前に日本軍
 が、ついでにワシントンまでぶっこわしてりゃよかったんだ。やつらは戦争の悲劇を骨
 身にしみて知らないんだ」
・さらに誰かが薄暗いランプの向こうでつづけた。
 「戦争は戦争だ。両方に責任があるんだ。BBCがにほんばかりを責めるニュースを流
 すのは筋違いでさ。ベトナムは、ヒロシマ・ナガサキは、どうだったんだ?そして、我
 われの故郷アフガニスタンは?さわぐだけさわぎやがって、ことがおさまりゃこのザマ
 だ。いったい誰がこの責任をとるんだ」
 「アフガニスタン復興計画だと?平和維持活動だと?ふん、笑わせりゃあ。あの地雷を
 見ましたか。どこに『地雷撤去計画』が進んでるんだ。今やっているのは宣伝だけじゃ
 ないか。国連はだまっておれたちがモスクワに行く許可だけくれりゃいい。簡単なこっ
 た。地癩を作って埋めたルースのやつを連れて来てのけさせりゃいんだ。やらなきゃ、
 自分でその上を歩いてもらうんだ。100万人のルースが死んでも、まだ借りは返せね
 え。罪のない日本の兵隊さんが来るこたあねえんだ」
・やりきれない議論だと思った。彼らが日本をかばうのは心情的な反英米感情からきてい
 るのは百も承知していた。
 「よい戦争などひとつもない。強盗は強盗だ。だが150年前、日本を脅迫してこの強
 盗の手口を教えたのはアングレーズとアメリカだ。危険を感じた日本はそれしかなかっ
 たんだ」  
・とんだところでPKO(国連平和維持活動)が飛び出したものである。
 2月の湾岸戦争の時と同様、その晩は割り切れぬ思いを抱きながら床についた。
 戦で傷ついたスタッフたちの、「美しい平和な国」へのあこがれをこわしたくない私の
 配慮が、知りつつも誇張された独断に変わったことが悲しかった。
 私はまるでピエロのような演技で、なぜ日本をかばおうとしているのか、チャチな虚勢
 が虚しかった。

・アフガニスタン問題が忘れ去られ、世界の関心が東欧の動乱とソ連解体に集中している
 ころ、JAMSのチームははるかにまばゆいヒンズークシュの大山塊をあおぎながら、
 アフガニスタン再建のための農村医療計画に血をたぎらせていた。
・ジュネーブのデスクで、東京やロンドンの新聞社で、ペシャワールのサロンで、多くの
 者がアフガニスタンとその情勢を語り、天下国家を論評しては立ち消えていった。
 彼らの多くの者にとってはこの事件もまた、数ある国際的事件のひとつとしてニュース
 商品と論評の対象であったにすぎない。
 地元民は巧みに「アフガニスタン」を語るインテリや外国人たちの言葉をもはや信じな
 かった。 
 目の前でいかに明日の糧を求めるかのほうが重要だったからである。
・ラジオや新聞は連日「アフガニスタンの安定」を掲げる政治的動きを伝えながら、この
 13年間何ひとつ起きなかった。
 おし寄せた国際救援活動も、どれだけ有効に機能したのか。
 興味本位とまではいわないが、己の方針で荒らしまわり、困難に出会えばさっさと引き
 上げる。 
 戦争も平和もじつは等質なのだろうか。
 外国人や政治党派がイスラムについてとやかくいうのは気にくわぬが、背に腹はかえら
 れない。大部分の人びとの声を代弁すればこうなる。
・実際我われは、真心のない野次馬的評論にあき、いらだちを覚えていた。
 いや正確に言えば、理由もなく暴行を受けた無力な者が、暗い怒りをどこに向けたらよ
 いかわからずに叫び出す気持ちに似ていた。
 世界は巨大な虚構に包まれているように思えた。
 しかし、その実態が漠としてわからず、ただ「ウソだ」と大声で叫びたかったのである。
・このような中でこそ、現地医療活動は彼らにとっても、すがり得るひとつのなぐさめと
 希望である。そしてあふれ出すエネルギーの源であった。
・1991年12月中旬から、ただちに先発代の医師1名・看護師2名・現地助手4名が
 渓谷に配置されて診療活動が開始された。
 ただ民家の軒先を借りる「移動診療」に近いもので、中央部の診療所設置に至らず、
 予想を上回る患者の殺到で手持ちの医薬品も2週間で底をついた。
・検査部の到着も遅れていたどころか、石鹸や食器などの必要な日用品さえ欠乏しており、
 内部に留まったスタッフに、疲労の色が見えはじめていた。
 これは、輸送道路の通過が政治党派同士の再三の戦闘で不可能となったためで、派遣チ
 ームは孤立してしまった。
・1992年2月、戦闘が下火になって輸送が可能になると、約2カ月を持ちこたえられ
 る分の多量の医薬品と検査道具、それに日用品を3台のジープに満載し、新たに4人の
 スタッフを投入した。
・私が二度目の応援におとずれたあとの2月中旬、あれほど祖国をあこがれたスタッフた
 ちは、数名の現地出身者をのぞいて、不満にあふれていた。
 現地ではペルシア語やパシュトゥ語がしばしば通じず、人びとが排他的に見えた。
 また、都市生活に馴らされた者には、このパシャイー部族という、数世紀おくれたコー
 ヒスターニー(山の人)の生活が受け入れがたく野蛮に思えることである。
 旅人には心地よい光景も、そこに定着する人びとの生活の中に立ち入ると、たちまち豹
 変する。「よそ者」のスタッフたちにとっては、「国内診療所第一号」はまるで牢獄入
 りのような感覚で受け取られたに至った。
・指導者のシャワリ医師も「思わぬ野蛮さ」に困惑していた。
 この状況下でこれほどエネルギーを投じて診療所を開設するのは「異例」なことであっ
 た。ほとんどすべての外国NGOはこの渓谷どころか、いたるところで規模縮小が活動
 を停止していた。 
 気力と指導力に満ちた彼でも弱音をはかざるを得ない状況ではあった。
・「ドクター、ここはアフガニスタンのほんの一部にすぎません。もっと良い場所はたく
 さんあります。スタッフたちが渓谷住民のパシャイー部族を恐れています」
・私はその言下にその意見を否定した。
 「かまわん、続けよう。だれもがおしよせる所なら我われがゆく必要はない。誰も行か
 ないから、我われがゆくのだ。それに、スタッフ自身がアフガニスタンの住民に偏見を
 持つなら、子の荒廃をもたらしたソ連や英米を非難する資格もない」
・異例の活動であることは私自身、百も承知していた。
 しかし、この活動にこそ我々は過去4年間全精力を傾けてきたのではなかったか。
 ここで士気を喪失させては全局面に影響が出る。
 それに、チーム自身も十分な能力を身につけてきたのである。
 私は不可能を説いているのではなかった。
 多少の混乱はあっても予定通りことを進め、部族・民族を超えた活動を展開してチーム
 に自信を持たせると同時に、現地住民に我われの不退転の意思を示すことである。
・しかし、確かに弱音をはかざるを得ない理由があまりにも重なり過ぎてはいた。 
 スタッフの多数がカブール出身者で、パシャイーという山の民へのなじみのなさは、恐
 怖に近いものがあったらしい。
・1カ月の交代勤務が伝えられると、辞表を出す者が続出した。
 これに対して当然、ダラエ・ヌール渓谷出身のスタッフは冷たい視線で応えた。
 これは医療活動の基本精神に触れる問題であるので、わたしとJAMSは強硬路線をと
 り、医師13名中7名、検査技師9名中2名の辞表をあっさりと受理し、私に慰留を期
 待していた全スタッフに以外の感を与えた。
 「寛容な日本の団体」がそこまでやるとはだれも思っていなかったのである。
 以後この種の不平は沈黙した。
・これらの難問を、我われはひとつひとつがまんづよく解決しなければならなかった。
 さらに加えて、まるごしで渓谷の中央地点に駐留すること自体が決意を必要とした。
 「まるごしの安全保障」がありうるか、興味ある問題だが、結論からいうと、現地では
 非武装がもっとも安価で強力な武器だということである。  
 別に日本にあてつけて言っているのではない。
 我われは診療所内での武器携行をいっさい禁止した。
 自分自身がまるごしであることを示したうえ、敵をおそれて武器をたずさえる者を説得、
 門衛にあずけさせてから中に入る許可をあたえる。
・これは時には発砲する以上の幽鬼を必要とする。
 だが実際は、人びとの信頼を背景にすれば案外可能なのである。
 無用な過剰防衛はさらに敵の過剰防衛を生み、はてしなく敵意・対立がエスカレートし
 てゆくさまは、この渓谷でもあらわに観察される。
・このさ中で、アフガン人チームが「決死の各簿」とのべても決して誇張ではなかった。
 これらの事情を外国人に伝えるのは難しいが、以上ののべた多くの困難を覚悟のうえで、
 私は「かまわずつづける」と言ったのである。
 2月の段階で、ある種の悲壮感がJAMSにただよっていたことは否めない。
・ところが三月末になると、この不安定な決意はいっきょに楽天的な確信に転ずることに
 なった。
 「よそ者」の我われは地元民から笑顔を引き出すことに成功した。
 私心のない医療活動は地元民の警戒心を解き、彼らが我々を防衛してくれるようになっ
 た。
 渓谷のあらゆる住民が我々を必要とし、その方針に協力するようになったのである。
 JAMSのスタッフたちも、偏見と警戒を脱して、与えることの喜びを知り、大いに意
 気があがった。
・アフガニスタンはうわさの世界である。
 「本格的な診療所開設」の報はたちまちひろがり、なんとペシャワールやカブールから
 も患者がおとずれるという、「逆流現象」さえ見られるにいたった。
 予想以上に早い成果であった。
・1992年4月中旬、アフガニスタンの首都カブールでの政変が伝わるや、パキスタン
 連邦政府の対応は迅速かつ正鵠を得たものであった。  
 実際にはほとんど独力であったが、難民はいっせいに帰還を開始した。
・アフガニスタンないぶのせんとうも、この動きを予期していたかのように、カブール市
 内を除く全地域で停止していた。 
 カブールとペシャワールの特派員がコマネズミのように伝える政治党派の動きのせいで
 はない。
 戦と難民生活に疲れた人々の平和への切望が、各地で政治勢力の蠢動を許さなかったの
 である。
・我われとアフガン人の大部分にとっては、もう党派や指導者の動きなど、とっくの昔に
 関心がなかった。
 また、危険を避ける以外は大して重要でもなかった。
 人びとの動きは、外電が伝えるカブールとは全く無関係であった。
・これによって5月に予想された転機が早めにおとずれた。
 これは幸運だった。秋に収穫できる米の田植え時期に到着が間に合えば、冬ごしが可能
 になる。 
 とくにダラエ・ヌール渓谷の住民たちは診療所の存在で安心して帰ることができた。
・彼らは今度こそまぎれもなく帰ってきたのである。
 10年以上放置された荒れ地は次々と水田に変わり、診療所の周囲は緑の耕作地がまた
 たくまにひろがった。 
 暗い日々をともにしてきた我われには感動的な光景であった。
・秋までに冬越しの食糧をたくわえ、住まいを整えておかねばならない。
 争いどころではなかった。
 ほとんどの人びとは首都カブールの政権争いなぞおよそ無関係で、目の前の生活のほう
 が重要であった。 
 つい数年前までけわしい目つきで戦場をかけめぐった戦士たちは、悪夢から覚めたよう
 に平和な農村生活に復帰しようとしていた。
・耕作にいそしむ農民たちの姿から、かつての獰猛で勇敢なゲリラの相貌をうかがうこと
 はむずかしい。
 そして、これがアフガニスタンの全土で起こり、現在進みつつあるできごとである。
 
支援の輪の静かな拡大(協力者たちの苦悩)
・ペシャワールを中心に展開した我われの医療活動は、日本と現地の無数の良心的協力な
 しには語れない。
 ここで少し日本側の協力の実情を伝えねばならるまい。
 中でも日本において着実な支援態勢をしいて現地活動を物心両面で支え続けたのは、
 「ペシャワール会」という団体である。
・一般に日本のNGOは、欧米のそれと比べて歴史が浅いせいか、日本での体内宣伝が派
 手なわりに肝心の現地活動の中身が少なく、サロン的な色彩が強いことが多いものであ
 る。
・ペシャワール会が堅持したのは、あくまで現地を中心に活動を展開することであって、
 「国内活動は現地活動に従属する」とわざわざ述べたのはこのためである。
 こうすれば、日本側の意見の相違や理念などというものは、現地の圧倒的なニーズの前
 には相対化される。
 逆に言えば、現地の現実こそが日本側を実際に変えてゆく力になる。
・ペシャワール会の場合、一般的な「国際協力論」など大言壮語はせず、まるでわが子の
 面倒を見るように、もくもくとペシャワールの事業に深く関わり続けたところに特色が
 ある。 
・外国人のおちいりやすい過ちは、理念にしろ事業にしろ、自国で説得力のあるものを作
 成して現地と関わろうとすることである。
 はじめはある程度さけられないことではあるが、それは現地で本当に役立つよう修正さ
 れねばならない。
 そうでなければ、現地活動が外国人を満足させるために存在するという本末転倒になっ
 てしまう。
・会の理念などをたずねられることがあるが、冗談の通じるものに対しては、わたしは
 「無思想・無節操・無駄」の三無主義である、とこたえて人をケムにまく。
・第一の「無思想」とは、特別な考えや立場、思想信条、理論にとらわれないことであり、
 どだい人間の思想などたかが知れているという、我われの現地体験から生まれた諦観に
 もとづいている。
・自分だけがもりあがる慈悲心や、万事を自分のものさしで裁断する論理は、我われの苦
 手とするところである。 
 たとえば、難民キャンプで、食うや食わずの子供の明るい笑顔を、「あわれな人を助け
 なければ」と頑張っている外国人ボランティアの暗い表情を比べてみると、私は秘かに
 忍び笑いをもよおすのである。
 何も失うものがない人びとの天真爛漫な楽天性というのはたしかにある。
・名誉、財産はもちろん、いこじな主義主張を人が持ち始めると、それを守るためにどこ
 か不自然ないつわりが生まれ、ろくなことはないものである。
 良心や徳と呼ばれるものでさえ、「その人の輝くではなく、もっと大きな、人間が共通
 に属する神聖な輝きである」というある神学者の説はうなずけるものがある。
 これを自分の業績野所有とするところに倒錯があり、気づかぬおごりやいつわりを生ず
 るというのが私のささやかな確信のひとつである。
・第二の「無節操」とは、だれからでも募金を取ることである。乞食からとったこともあ
 る。
 年金暮らしの人の千円も、大口寄付の数百万円も、等価のものとして一様に感謝をして
 お金をいただくことにしている。 
・第三の「無駄」とは、後で「無駄なことをした」と失敗を率直に言えないところに成功
 も生まれないということである。
 いつも大本営発表のように、わけ知り顔に日本側に成功のニュースを届けて喜ばせるの
 が目的となっては本末転倒で、うれしいこともつらいことも、成功も失敗も、ともに泣
 き笑いを分かち合おうというのである。
 そもそも、このような仕事自体が、経済性から見れば見返りのないムダである。
・時に募金のために活動をアピールすることがあっても、我われは自分を売りわたす、
 そうぞうしい自己宣伝とは無縁であったと思う。
 この不器用なぼくとつさは、事実さえ商品に仕立てるジャーナリストからもしばしばけ
 むたがられた。 
 だが、こうしてこそ、我われは現地活動の初志を見失うことなく活動を継続できたので
 ある。
・現地で事業を進めるためにあたって日本側の経済援助とともに、直接現地で行われた技
 術協力も大きな力を発揮した。
・最大のストレスは、ボランティアが日本ではあまりに未熟であると同時に、ペシャワー
 ルという土地柄が、外国人にはあまりに異質な世界だったことである。
 にもかかわらず、滞在2年、3年という長期にわたって、現地にとけこみ始めるワーカ
 ーも生まれてきた。
 日本では見出すことのできなかった生きがいを得て、自然にとどまっている者もある。
・特筆べきことはご年輩の専門技術者の活躍である。短期でも大きな力を発揮できる。
 若い者はその知恵にはるかにおよばない。
 現在の日本の技術や道具があまりに機械化・既製品化しているためで、例えば若い医師
 の場合、聴診や触診など五感を使う職人技は退化している。
 ご年輩の方の場合、治療・検査技術でも既製品にとらわれず、「そこにある者で何とか
 する」工夫が自在にできる。 
 現地に根をおろす技術とはこうしたもので、私自身もずいぶん学ぶところが多かった。
 日本の「使い捨て時代」にあって貴重な存在である。
・長期ワークの場合、我われの仕事との性質上、通常現地に適応するために一年、助っ人
 ができるのは二年目から、自分で工夫ができるのは三年目から、というのがだいたいの
 相場である。 
・だが、日本の社会は性急でゆとりがなく、あきっぽいものである。
 「ボランティア」という言葉も安くなった。
 これはもともと英語で「志願兵」という意味さえあるが、それほどの真剣さがなくなっ
 た。
 はなはだしい場合は、「一週間の夏休みを利用してボランティアでお手伝いに行きます」
 という電話が若い女性から入ることもある。
 とんでもないかんちがいで、日本語はおろか英語も通じない世界で、若い女性がひょう
 ひょうと出て来れるところではない。
 しかも一週間では往復だけで時間が過ぎてしまう。
・一週間の女性ボランティアは極端な例だが、多かれ少なかれ、この「非国際性」は日本
 人に共通している。 
 「女子どもがうろうろできるところじゃない」などと言えばフェミニストたちから非難
 される。だが実際にそうなのである。
 金さえ出せな望みのものが手に入り、電話一本でカタログどおりのものが届けられる、
 この気軽な生活を背景にする風俗を、私は「自動販売機文化」と呼ぶことにしている。
・安易なボランティアは論外にしても、問題なのは、これらの迷惑が普通で行われる点に
 ある。 
 自国で通用することが普遍的と思っている節がある。
 また援助する者の無邪気な思い上がりとしか思えないこともある。
・本当は彼らが自分でやりたいが、今はやむを得ず他人の力を借りなければならない状態
 であるからこそ、我われ外国人の存在を許していることを忘れてはいけない。
 そのうえ、こともあろうに、その土地の文化や慣習をとやかく言われるのでは、やりき
 れない。 
 そのあげくが、魚を求めているのに蛇を与え、パンを求めているのに石を与えるという、
 笑えぬ援助の現実が生じていないだろうか。
・このような中で、ペシャワール会およびその関連する病院からおもむいて長期のワーカ
 ーたちは、賞賛にあたいする。
・この文字どおりの異国で、現地の人びとと泣き、笑いをともにした。
 決して悲壮な気分でおもむく者はなかったが、何度もつまずきを経験したにちがいない。
・短期訪問と異なって、うわべの観察にはとどまらず、肌身で異文化を感じ取ったろう。
 しかも「底辺」と呼べる庶民たちとの付き合いで、決してはなやかな体験記にはならな
 くとも、人びとの本当の姿をしっかり心に焼きつけて帰っていくだろう。
 真に謙虚な者は、おおげさにさけばずとも、見かけの異質さをこえて厳然と存在する
 「人間」を見出だすにちがいない。
 そして心を込めて送り出す人びとをも、働きをとおして静かに変えてゆく力になるだろ
 う。ここに我われの会の独自性がある。
・現地で3年目に入るある看護婦は、ウルドゥ語はもちろん、パシュトゥ語、ペルシア語
 学習にも打ち込み、現地の女性らい患者の心をつかんで支えとなった。
 カトリックの西欧人シスターでさえもこの地でできなかったことである。
 またある者は、JAMSの中で、事務やレントゲンなどの技術協力だけでなく、皆とと
 けこんで好かれ、どんな国際協力の「経歴」のある者よりも、どんな外交官よりも、
 本当の意味での相互理解と国際友好の働きをしたと私は思う。 
 そして、彼ら自身はこれをごく自然な喜びとし、大きな業績であることさえ自覚しなか
 ったのである。

そして日本は・・・
・1990年5月、子どもの教育問題に行き詰まった私は、7年間のペシャワールでの家
 族生活に別れを告げた
 仕事は軌道に乗り始めたばかりであったが、まずは家族を日本で安定させ、長期の継続
 態勢をしかねばならなくなった。
 私は単身現地にとどまって、日本を行き来する生活を余儀なくされた。
 家族とともにいったん帰国し、しばらくは「日本適応」に忙しい毎日が続いた。
 帰国直後は、まるで外国に移住したような、妙に落ち着かぬ気分でいた。
 ペシャワールと日本とはあまりに遠いとつくづく思ったものである。
・ペシャワールでも忙しかったけれど、日本の忙しさはまた格別で、質が異なると感じた。
 故郷も変わり果てて見えた。
 年の空間がガン細胞のように緑の自然を蝕んでひろがり、なんだか、小ざっぱりした美
 しさがインチキなものにうつり、故国に帰ったという実感を覚えるのに時間がかかった。
・外観の色とりどりのファションと対照に、人びとはひたすら秩序正しく整然と何ものか
 に静かに流されていく。
 これがペシャワールであれば、たちまちプラットホームは混乱し、列車の運行はマヒ状
 態に陥ることだろう。
 我われはじつは何かのベルトコンベヤーに乗っているのだ。
 そしてその行き着く先をだれも本当には知らないのだ。
 これは「フレミングの死の行進」の悪夢であってほしいと思った。
・ペシャワールとアフガニスタンがなつかしく、しかしはるかに遠くに感ぜられた。
 「英国の秩序よりもインドの混沌を選ぶ」といったのはあるインドの大指導者だが、
 乞食から地主までひとりひとりが誇り高く生きていたペシャワール、殺す者も殺される
 者も生き生きと戦っていたアフガン・ゲリラたち、良いことも悪いことも、そこにはも
 っと身近でわかりやすい「人間たち」がいた。 
・我われは貧しい国へ「協力」に出かけたはずであった。
 しかし我々は本当に豊かだろうか。本当に進んでいるのだろうか。本当に平和だろうか。
 胸を張って「こうすれば幸せになります」といえるものを持っているのだろうか。
・農業従事者よりも医者になる者の数がいいとか、米の自由化で日本の農業が壊滅の危機
 に瀕している都かを聞いて、愕然とした。
 生半可な国際化や近代化よりも、そしてカネを転がして食ってゆくよりも、鎖国でもし
 て自らの労働で得た米と魚で食ってゆくほうがまだマシである。
 自然を収奪し、第三世代を収奪し、汗水たらしてまじめに働く者がバカを見るような世
 の中が、長続きするはずはない・・・とのべたとて、必ずしも妄言ではなかろう。
・イスラム世界といえば、日本では遠いと感ぜられているが、昭和天皇の大葬の礼のおり
 には、各国が日本の隆盛と経済発展をほめそやすお世辞の中、イランの新聞などは、
 「日本は経済発展のいっぽう、モラルは低下し、拝金主義が国民を毒している。精神の
 弛緩した民族にビジョンはない」と、案外言いにくいことを堂々と述べる健全な論調だ
 った。 
・「イスラム社会は日本人にとって馴染みにくい」とペシャワールでは思っていたものだ
 が、日本に慣れるとなると、どっこい彼らのほうに親近感を覚えるのだ。
 イスラム革命の是非は別として、ひとつの点では私は彼らに強く共感する。
 それは、彼らが金には代えられぬ大切で神聖なものに対する、畏敬の念を失っていない
 ことである。 
・おりから進む「国際新秩序」、「社会主義」という相手を失ったのっぺりしたカネ社会
 の国際的膨張。全世界で進行している「自由化と民主化の波」を、私は手放しで「正義」
 だとは呼べなかった。
・旧秩序も新秩序もどうでもよいことだった。
 さかしい国際貢献や国際化の論議はあまりに索漠たるものに見えた。
 少なくとも、我われに活動の精神とは無関係であった。
 私はたんに日本人としての矜持の残滓を引きずりながら、ただ家族を思うように、アフ
 ガニスタンとペシャワールの仲間のことを考えていたにすぎない。
 自分は日本人であると同時に、もはやペシャワールの人間であった。
 そして、それ以上にもそれ以外にもなれなかった。
・アフガン戦争はベトナム戦争とよく比較される。
 たしかに、冷戦構造の中で、超大国に抵抗した小国が相手を圧倒したという点では同じ
 である。 
 しかし、「アフガニスタン」が小気味よく思えるのは、たとえ国際政治力学のはざまと
 いう時の利があったにせよ、「民主主義」があざ笑う前近代社会が、近代社会の暴虐を
 はね返し、翻弄したという事実である。
・人びとは自分をおびやかす外圧に対て果敢に武器をとり、そして今同一の単純な動機で
 戦を否定して武器を農具にもちかえ、何事もなく元の世界に帰りつつある。
・日本やベトナムが自分を近代化することで外圧に抵抗し、やがては自らも「近代」の重
 圧に悩むという構図はここには見られない。  
 今、平和な山村生活の中で、あの獰猛で果敢なゲリラたちが笑顔で農作業にいそしむ姿
 は、感銘さえ与える。
・18世紀以来、多くの近代的思想はまぎれもなくひとつの大義・希望としてわれわれに
 夢を与え続けてきた。 
 それがロシアの共産主義であろうと、アメリカの自由主義であろうと、日本の戦争中の
 八紘一宇であろうと、そのために人びとは命さえおしげもなくささげた。
・しかし、ひとつの主義の「普遍性」が信仰にまで高められ、その普遍性の拡大が民族や
 国家集団の使命と信ぜられるにおよんで、他者との共存を許容する謙譲の美徳は放漫さ
 に置き換えられた。 
 力にものを言わせてまでその世界の正統性を主張し、「おくれて貧しい」弱者を圧服す
 ることを正義とするようになった。
 帝国主義はその表裏である。
・その隙間で国家の権威をカサにハイエナのように利をむさぶり、国の尊厳を侮辱した卑
 劣漢は問わない。
 問題は、我われが当然として疑わない近代社会の進歩性の幻惑そのものにある。
・このヨーロッパ近代文明の傲慢さ、自分の「普遍性」への信仰が、少なくともアフガニ
 スタンで遺憾なくその猛威を振るったのである。
 自己の文明の価値観の内省はされなかった。
 それが自明の理であるがごとく、開放や啓蒙という代物をふりかざして、中央アジア世
 界の最後の砦を無惨に打ち砕こうとした。
 そのさまは、非情な戦車のキャタピラが可憐な野草を蹂躙していくにも似ていた。
・老若男女を問わず、罪のない人びとが、街路で、畑で、家で、空陸から浴びせられた銃
 爆弾にたおれた。 
 原爆以外のあらゆる種類の武器が投入され、先端技術の粋をこらした殺傷兵器が百数十
 万人の命をうばった。
 さらいくわえて、600万人の難民が自給自足の平和な山村からたたきだされ、氷河の
 水より冷たい現金生活の中で、「近代文明」の実体を骨の髄まで味わわされたのである。
 その甘さだけを吸い得たものは同胞を裏切って欧米諸国に逃亡し、不器用なものは乞食
 に身をおとして生きのびた。
・これが我々の信じて疑わぬ進歩と民主主義、その断罪する「八紘一宇」と何ら変わらぬ
 ヨーロッパ近代文明の別の素顔である。
 アフガン人の打ち首処刑や復讐の残虐性・後進性に憤怒する者が、「人権」をかざして
 その幾万倍もの殺戮を行わせ、文化さえ根こそぎ破壊しようとした。
 かつてのユーラシア大陸を震撼させたモンゴリアさえ、こんなことまではしなかった。
・そして「謝罪」どころか、誇らしげに「人道的援助」が破壊者と同一の口から語られる
 とすれば、これをひとつの文明の虚偽と呼ばずして何であろう。
 私は今、異本とアジアを思う一日本人として、「アフガニスタン事件」の一人の証言者
 として、「新世界秩序」にひそかに戦慄を覚える。
・だが、我われはすでにその報いにおびえ始めている。
 今全世界で、皆がおそれながらも口に出しにくい事実は、我われが何かの終局に向かっ
 て確実に驀進しているということである。
 我われの未来を考えるのはいくぶん恐ろしい。
 我われが一方で地球環境や人口問題を問い、他方で経済の活性化を語る。
 だが明白なことは、自然破壊なしに経済成長はなく、奴隷なしに貴族はなく、貧困なし
 に繁栄もないということである。  
 さかんに使われる生活水準という言葉にしても、いったい何をもって「生活」と称する
 のか、「欧米並み」という言葉に私は何かやりきれぬものを覚えるようになった。
・今まで「発展途上国」という言葉が、「後進国」の差別的イメージを避けるために使わ
 れてきた。 
 だが、はたして何に向かっての発展なのか。
 もっと公平に言うならば、「先進国」も、「発展過剰国」と言い換えるべきである。
 無邪気に技術文明を謳歌する時代はすでに過去に過ぎ去った。
・過去10年間にわたって我々の眼前で繰り広げられた出来事から言えることは、中世は
 おろか、古代から人間の精神構造は、複雑になっただけでそれほど進歩はしておらず、
 技術の水準だけ野蛮であり続けたということである。
 私はアジア的な封建性や野蛮を決して肯定しているのではない。
 たとえ文明の殻をかぶっていても、人類が有史以来保持してきた野蛮さそのもの、戦争
 そのものが断罪されねばならないと思うのである。 
・我われの敵は自分の中にある。我われが当然とする近代的生活そのものの中にある。
 ソ連が消滅し、米国の繁栄にかげりの見え始めた今、我われをおびやかすものが何であ
 るか、何を守り、何を守らなくてよいのか、静かに見透かす努力をする時かもしれない。
・その昔栄光を誇ったガンダーラ文明の廃墟に立って、このアフガニスタンで起きた悪夢
 のような血の狂宴を思うとき、ひとつの感慨に支配される。
 我われの文明もまた、自壊作用が始まっていることを感ぜずにはおられない。
 目をこらせば、人間は自ら作り上げた虚構の崩壊におびえ、虚構に虚構を重ね、事実と
 自然とを粉飾する。
 その虚構のはげ落ちた無残な姿がこの廃墟に厳として存在する。
 爆撃で壊滅した村落の光景が、この繁栄を誇った文明の遺跡と酷似しているのも、意味
 ありげに思える。
 この廃墟こそ、混乱の時代を生きる我々への無言のメッセージである。
 人のあらゆる営みが、漠々たる砂塵と化して熱風の中に消えてゆく確かな実感がここに
 はある。
 もともと人間が失うものは何もないのだ。
 この当然の事実が我々を楽天的にする。
 「あふがにすたん」をとおして、剥き出しの人間と文明の実体にふれたことを私たちは
 感謝している。

あとがき
・私は一介の臨床医で、物書きでも学者でもありません。
 ただ、生身の人間との触れ合いを日常とする医師という立場上、新聞などでは伝わらぬ
 底辺の人びとの実情の一端を紹介することができるだけです。
 時に「極論」ととられたりすることもありますが、これは私自身が現地に長くいすぎて、
 西欧化した日本の人びとと距離を生じているせいかもしれません。
 私の極論というよりも、現地庶民の一般的な見方・感じ方だと思ってもらったほうがよ
 いかもしれません。
・とくに国連の評価などは、日本と現地都では180度異なっています。
 ただ私が意図したのは、国連やODA(政府開発援助)をこきおろしたり、ジャーナリ
 ズムや流行の尻馬に乗って国際貢献を議論することではありません。
 この激動する時代のまっただ中で、日本列島のミニ世界だけで通用する安易な常識を転
 覆し自分たちだけの納得する議論や考えに水を差し、広くアジア世界を視野に入れたも
 のの見方を提供することです。
・真剣に考えればぞっとするような問題でさえ、「21世紀に向けて」だの、「グローバ
 ル」だの、「地球にやさしい」だのという流行語で、うわべをよそおって安心している
 のが日本の現状だと思えてならないからです。
・「アフガニスタン」は、このような日本の現状とまったく対照的な世界です。
 貧困、内乱、難民、近代化による伝統社会の破壊、人口・環境問題など、発展途上国の
 悩みすべてが見られるだけでなく、数千年を凝縮した様々な世界がそのまま息づいてい
 ます。
 近代化された日本でとうの昔に忘れ去られた人情、自然な相互扶助、古代から変わらぬ
 風土、歴史の荒波にもまれてきた人びとは、てこでも動かぬ保守性、人間相応の分とで
 もいうべきものをみにつけています。
・ここには、私たちが「進歩」の名のもとに、無用な知識で自分を退化させてきた生を根
 底から問う何ものかがあり、むきだしの人間の生き死にがあります。
 こうした現地から見える日本はあまりに仮構に満ちています。
 人の生死の意味を置き去りに、その定義の議論に熱中する社会は奇怪とすらうつります。
・こうして、私たちにとっての「国際協力」とは、決して一方的に何かをしてあげること
 ではなく、人びととともに生きることであり、それをとおして人間と自らをも問うもの
 であります。