夜の出帆 :渡辺淳一

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この作品は、今から46年前の1976年の発表された作品だ。
作品の内容は、聖子というどこにでもいそうな20代の聖子という若い女性が主人公にな
っていて、その若い女性が二人の中年男性の間で揺れる様を描いている。
しかし、作者がほんとうに描きたかったのは、その若い女性ではなく、その女性をめぐっ
ての、ふたりの中年男の、男であることの優しさと哀しさと、そして身勝手さを描きたか
ったのだという見方もあるようだ。
この作者の作品は、刺戟的な性愛描写の多い作品が多いのだが、この作品は、そういう刺
戟的な性愛描写は比較的少なく、おとなしめの描写となっていて、どちらかというとノー
マルな作品となっている。そのためか、作品の知名度はいまひとつのようだ。

それにしても、純真無垢ともいえた聖子に対して、この作品に出てくる二人の中年男性は、
身勝手でしたたかだった。
そのひとりである作家の能登高明は、色紙を書いてほしいとやってきた聖子に対して、初
対面でいきなり聖子の唇を奪っている。それまで男性を知らなかった聖子は、自分が尊敬
し憧れていた作家からいきなり唇を奪われたという衝撃からか、半年後には、自分から能
登高明へ処女の体を差し出してしまうのだ。そして高明によって、半年で、高明のモノを
愛撫し、あの瞬間に、羞かしい言葉を口走るまでに変貌を遂げていった。

もうひとりの聖子の勤める会社の社長の加倉井も、身勝手であり、したたかであった。聖
子を食事に誘い、帰り際に、いきなり強引に聖子の唇を奪ったのだ。それなのに、加倉井
に呼び出されると、聖子はノコノコと加倉井のもとへ出かけて行き、体を奪われてしまう。
そして、しだいに加倉井にとっていわゆる”都合のいい女”になっていく。

聖子はどうかと言えば、好きな人ができたら女は浮気はしないものだというが、二人の男
を同時に愛するということは、あり得ないことなのだろうか。それは女の性として、おか
しいことなのだろうか、と思い悩むのだ。
さらに聖子は、自分の田舎の古い考え方と、都会の先進的な考え方の違いについても思い
悩む。それは、田舎から大都会で出てきた多くの者たちにとって、共通する悩みだと思う。

聖子の複雑な心の動きと、それを取り巻く高明と加倉井のそれぞれの心の内を推測して、
次はどうなるんだろうと、なんだか推理小説を読んでいるように、ドキドキさせられなが
らしながら読み進んだ。

しかし、この加倉井の社長という自分の地位を利用して聖子に迫ったやり方は、昭和の時
代の感覚では許されたのかもしれないが、この令和の時代では完全にアウトではなかろう
か。


光芒
・駿河台下の交差点左に、「健康社」という出版社がある。社員は全員で十八名、大手出
 版社にははるかにおよばないが、保健関係の出版社としては、まずまずの大きさである。
・この社の社長の加倉井修造は今年四十三歳である。大手の文英社から十年前に独立して
 いまの会社をはじめた。 
・この加倉井は会社の出てくるのがめっぽう遅い。正式の出社時間は午前十時なのだが、
 大抵は二時間遅れの昼頃か、遅い時には二時、三時になる。
・家は荻窪である。
・望月は加倉井と一緒に文英社に入った仲間だが、いまはその社の出版部長である。
・「お前のところで社員を一人採用しないかな。女性だが二十九歳で、なかなかの美人だ」
 と望月が電話してきた。
・「実は能登高明のところに入ってきた」と望月は言った。
・能登高明はいまから二十年も前になるが、二十代の若さで新人作家の登竜門といわれる
 文学賞をえて、文壇にデビューした作家であった。
・加倉井は二十年前のころの能登高明の姿を思い出した。脚光を浴びていたとはいえ、原
 稿が売れ出したばかりで、さほど生活が楽とは思えなかったが、身につけているものだ
 けは、いつも上等なもののようだった。
・家は中野の新新井薬師の辺りで、庭こそ広かったが木造で、借家だときいた。当時すで
 に夫人と子供が二人いた。大柄で少し勝気な感じの奥さんだったが、後で別れたときい
 た。
・「交通事故の骨折のあと、骨髄炎を起こしたらしい」と望月は言った。
・「それでその女性というのはなんだ」
・「それが、能登高明の女だ」
・「奥さんか」
・「いや奥さんではない。愛人とでもいうかな、日詰聖子というのだから、籍には入って
 いないだろう」 
・「昨日突然、その女が現われて、つかってくれないかといってきた」
・「やはり生活が苦しいか」
・「しかし健気な女だな」
・「もの静かで賢そうな女だ」
・「履歴書を見たが、A大の国文科を出ている」

・加倉井修造が日詰聖子に逢ったのは、その翌日の夕方であった。
・聖子はグリーンのブラウスに白いスーツを着ていた。
・「いままで勤めたことはないのですか」
・「前に二年ほど、勤めたことがあります」
・「その時はなんの仕事をしていたんですか」
・「教師です」
・「都内ですか」
・「一応、東京都ですけれど、式根という島です」
・加倉井は、この女の横顔には少し淋しげなところがあると思いながら、また能登と聖子
 と一緒にいる姿を想像した。
・正直いって、加倉井は聖子と能登高明との関係を聞きたかった。現実に一緒に住んでい
 ることはわかっていても、どういうきっかけで一緒になったのか、そして実際の生活は
 どういうふうになっているのか、考えるだけで好奇心が湧いてくる。
・「独身ですな」
・「いいえ」と聖子はまっすぐ顔をあげると、「一人じゃありません。ある人と一緒に棲
 んでいます」 
・日詰聖子が健康社に勤めたのは、加倉井と逢って二週間経った五月の半ばであった。
・正直なところ、健康社ではいますぐ社員が必要だったわけではないが、加倉井は逢った
 時から聖子を採用することに決めていた。
・もちろん聖子が能登高明と同棲していることに、加倉井がこだわらなかったといったら
 嘘になる。長年、編集者としてきただけに、作家という存在に、加倉井は親しさと同時
 にある種のけむたさを感じていた。多少のニュアンスの違いはあれ、編集者にとって作
 家は原稿を書いてもらう先生であった。
・出版社は初めてだというので、聖子はさし当り「からだ」のほうの編集スタッフに入れ、
 執筆者から原稿をとってきたり、それを整理する仕事を与えることにした。
  
積乱雲
・部屋は木造モルタルの二階建てアパートの一番奥にあった。一戸ずつ玄関が独立したタ
 イプで入ってすぐ十畳のダイニング・ルームと、八畳の和室がある。他に流しと風呂が
 ついている。広くはないが、二人だけの生活ではまずまずの大きさである
・一番奥の窓の明かりがついていると、聖子はいつもほっとする。間違いなく高明がいて
 くれると思う、その存在感だけで聖子の気持ちは満たされる。
・聖子が高明を知ったのは、いまから五年前になる。その時、聖子は伊豆七島の式根島に
 いた。二十三歳でA大学の国文科を卒えると、すぐ式根島で一つしかない式根中学校の
 国語の教師になった。
・東京の大学を卒えた若い女性が、どうして船で十時間余りもかかる孤島に勤める気にな
 ったか、それは本人の聖子自身にもうまく説明できない。
・四年間の学生生活の間、都会に住んではいても、聖子はやはり故郷の山口のような、落
 ち着きのある町が好きだった。
・旧家で、いわゆる女らしい躾を受けただけに、聖子はゼミの仲間と学生運動や恋愛につ
 いて話し合っても、いま一つ大胆に踏み込めない。共感するところがあっても行動には
 移せなかった。
・友達はそんな聖子を「お嬢さま」とか「あなたには向かないわ」と軽い揶揄をこめて、
 別格扱いにした。
・聖子が誰も行かない島へ、一人で行こうと思い立った底には、そうした友だちへの反発
 心があった。 
・聖子の実家は山口でも旧家で、山林などを持っている地主であった。家族も周りの人々
 も、昔からの古い考えにどっぷりと浸っていた。
・大きい家だからといって、聖子は甘やかされたわけではない。父親は躾が厳しく、とく
 に女の立居振舞いにはうるさかった。 
・東京の大学に出してくれたのも、教育を受けるというより、嫁入りの条件をよくするた
 めといった目的のほうが強かった。
・聖子が大学を卒えて素直に郷里に帰らず、一旦、勤める気になったのは、そんな古い考
 えに抵抗したい気持ちもあった。
・聖子は中学校で国語と、家庭科を教えた。島に女教師は一人だったので、家庭科を受け
 持たざるをえなかったのである。お花や料理や、お嫁入りの準備に教わったものが、そ
 こで役立った。 
・淋しさは覚悟をしていたが、住んでみるとそんな心配は消え去った。淋しいどころか、
 部屋にはいつも生徒達がきて遊んでゆく。
・男生徒のなかには、聖子の教師という枠を越え、ある憧れをもって見詰める者もいた。
 聖子はその視線に戸惑いながら、一方ではその少年の一途さが好ましかった。
・静寂だった十月に、東京から島に一人の客があった。痩身で和服を着流し、少し顔色の
 悪い男だった。  
・島のただ一つの港がある野伏の旅館に男は泊まっていた。
・「うちに泊まっていなさる方、能登高明とおっしゃる小説家だそうですが、せんせいご
 存知ですか」男の泊っている旅館の内儀が聖子にきいた。
・「能登高明・・・」聖子には憶えがあった。大学三年生の時、友達の書棚から何気なく
 借りて読んだのが能登高明の本であった。表題は「薄明り」となっていたが、他に三つ
 の短編も含まれていた。
・いずれも男女の愛を、いくらか観念的に書いたものであったが、その底には、どこかか
 虚しげな、愛の不毛を示唆したものばかりであった。
・当時、聖子はまだ学生で、結婚とか愛といったものへ夢を抱いていたが、そのせいか、
 愛の不毛を描いたその一連の小説が、かえって新鮮にみえた。なにか知らない大人の世
 界を垣間見たような怖さと、不思議さがあった。
・友達の本棚から借りて読んだのは、偶然であった。だがその偶然の一冊に聖子は惹かれ
 てしまった。 
・聖子は自分の名前と、東京の大学を卒えて、島野中学校にきていることを告げてから
 「色紙を書いていただきたいのですけど」と、いってみた。
・話してみると、高明は意外に気さくな人だった。
・聖子が能登高明を愛しはじめたのは、いつからなのか、少なくとも島にいた間の聖子に
 対する気持ちは、愛とはいえない。当時はただ、自分と無縁の世界に住んでいる男への、
 畏敬と憧れといったほうが正しいようである。
・聖子が高明の不意の接吻を受けたのは、聖子が帰ろうと立ち上がった時だった。立って
 障子を開くと、いきなり後ろから抱きしめられ唇を奪われた。
  
・聖子が能登高明を受け入れたのは、その翌年の三月、島の中学をやめ、東京へ戻って二
 カ月ほど経ってからだった。 
・十一月に別れてからそれまでの半年の間、聖子はずっと高明のことを思い続けてきた。
 それまで男性を知らなかった聖子にとって、接吻だけとはいえ、高明の行為は衝撃であ
 った。
・聖子からみて高明はあまりにも大きく、年齢の上でも、かけ離れた存在であった。恋人
 というより、尊敬し、憧れ続けてきた対象が、自ら唇を求めてきた。そんなことがあり
 うべきこととは夢にも思っていなかった。
・それが現実に起きたのである。一瞬、聖子は高明を拒否したが、咄嗟の出来事で心と体
 が順応できなかっただけで、心から拒絶したわけではなかった。
・高明が島を去ってから四カ月の間に、聖子のなかでその驚きが喜びに変わり、思慕に高
 まっていった。 
・聖子が島の中学校を二年で辞めたのは、表立っては中学生の教育に自信を失ったからだ
 った。体は大人なみで精神は微妙に揺れ動く、思春期に入りかけている生徒を扱うには、
 聖子はあまりに幼く、真面目すぎたようだった。
・聖子が高明の部屋に行くことに反対し、急に反抗するようになった男の生徒がいた。彼
 等は純粋なだけに、聖子の心のわずかな動きまですべて見通しているのだった。そんな
 生徒達の心を、聖子は嬉しいと思いながら怖かった。
・二年で島を去るのは潮時であった。すべてがそういう方向に流れていたということにな
 る。 
・島から離れて一カ月、郷里へ帰り、それから、そろそろ年ごろだからお嫁に行くことを
 すすめる両親を強引に説得して、もう二年だけ母校の大学院へ通わせてもらうことにし
 て、再び東京へ戻ってきた。
・東京で聖子が高明に有ったのは、聖子のほうから手紙を出したのがきっかけであった。
 手紙を書くうちに単なる帰京の連絡から、近況の報告になり、気がついてみると愛の表
 現に変わっていた。
・もっとも聖子ははっきり愛を訴えたわけではない。 
 「いまなら先生のおっしゃることに素直に従うことができます」
 この言葉のなかに、聖子は高明が求めるなら与えてもいい、という意味まで含めていた。
・聖子は中野の家を訪れた。高明は木造の平屋の小さな家に、一人で住んでいた。奥の六
 畳には無造作に本が積み重ねられ、ろくに掃除もしていない様子だった・
・いろいろと話し、少し酒を飲み、そのうちに、聖子はごく自然に高明に奪われた。
・もっとも、奪われたという言い方は少し大袈裟すぎるかもしれない。それは気がついた
 ら抱かれていた、というべきかもしれない。それほど高明のやり方は自然で、無理がな
 かった。
・初めて体を与えて、聖子に悲しみとか悔いはなかった。高明の男くさい腕に抱かれて、
 これがそうであったのか、といった目ざめる思いであった。好きな人に与えたのだから
 これでいいのだといった、あきらめと満足もあった。
・高明はどういうつもりで聖子を抱いたのか、小鳥が飛び込んできたから、仕方なく抱い
 たというのか、それとも本心で、逢いたくて待っていたのか、そのあたりのことは高明
 の態度からはわからなかった。
・一度許すとあとは加速度がついたように接近していく。高明と別れて、またすぐ高明の
 ことを思う。だが、だからといって翌日またおしかけていくわけにはいかない。これ以
 上、近づいてはいけない。あの人は自分とは遠い別の世界の人だと思いながら、一夜あ
 けるとまた逢いに行きたいと思う。
・聖子の体に火がついたようである。もちろん点火したのは高明である。高明は表面は無
 愛想だったが根は優しかった。処女の体を奪うのに、親切とか丁寧というのはおかしい
 が、女の気持の動揺を最小限にするように気を遣ってくれたようである。奪われたあと
 虚脱感はあったが、悔いはなかった。
・聖子は高明の部屋に行くと、いつもグラスや茶わんを洗い、整頓して帰ってきた。高明
 のまわりをきれいにしてやることに、聖子は自分の仕事を見出していた。

・高明と結ばれて三カ月経った。ある日、聖子は何気なく高明のところへ行くと、部屋が
 珍しく片づいていた。女の勘で、聖子はそれが高明ではなく、誰か、他の女が来てやっ
 たのだとわかった。
・聖子は自分が体を許した部屋に、見知らぬ女が出入りしていることに、悲しみを覚えた。
 そのまま二週間、聖子は高明の部屋へ行かなかった。
・他に女がいるならそれでもいい、と思いながら、あきらめきれなかった。
・十五日目に高明から「話があるから来てほしい」という手紙きた。
・「僕と一緒に棲んでくれる気はないか」と高明は言った。
 「はっきりいって、私はまだ正式に妻とは離婚していない。別居したままになっている。
 離婚する気になれば、多分、いますぐにでもできると思うが、いままで面倒くさくて放
 ってきた」
 「君が離婚してほしいというのなら、むろんいますぐ手続きをとる」
 「しかし、私は結婚という形式には疑問を持っている。だから妻と離婚したところで、
 新しく、また結婚しようとは思わない」
 「君はまだ若くて美しい。これからもいい縁談がたくさんあるだろう。そんな君を僕の
 ような老いぼれが独占するのは間違っている」
・聖子はなんと答えていいのか、わからなかった。いま高明を愛していることは間違いな
 い事実であった。そして同棲ということが、結婚以上に純粋な、一組の男女の結びつき
 であるような気もしていた。高明のためなら、どうなっても悔いはないと思っていた。
・聖子が高明の申し出を受け、同棲をはじめたのは、それから一カ月経った九月の初めで
 あった。 
・田舎の母は、はじめのうちはただ住所を変えただけだと思っていたようだが、東京に出
 てきて、娘が二十歳近くも離れている男性と一緒なのを知って仰天した。
・一緒に棲んでみて、わかったのだが、高明の収入はまことに微々たるものだった。古い
 友人などが、仕事を持ってきてくれるが、自分に気に入ったもの以外は絶対に受けない。
・高明の生き方を見ると、なにか自分から自分を狭くしているようなところがあった。自
 分の生き方だけを信じ、それ以外には決して踏み出さない。そんな頑なさがあった。
・聖子が大学から受ける奨学金をくわえて、なんとか人並みの生活ができる、といった状
 態であった。しかし高明は、そんな収入の低さは、一向に気にかける様子はなかった。
 こんな高明に聖子はあきれながら、一方で、だからこそ、私がついていなければならな
 いのだと思っていた。
・着流しで痩せすぎの中年の男と、白いブラウスに紺のスカートをはいた若い女性の取り
 合わせは、遠くから見れば、父と娘のように見えるかもしれなかった。
・人々は、二人の間を中年の男と若い愛人と見るのか、あるいはなにやら意味ありげな不
 倫の関係と見るのか、実際、結婚していない男女関係がすべて不倫とすれば、二人の間
 はまさしく不倫であった。
・高明の落ち着いた姿と、なにかを見果てたような眼差しは、恋人という燃えるイメージ
 にはいささか遠かった。だが二人だけになった時の高明の愛撫は、若い恋人のそれにも
 負けぬ激しさと、一途さがあった。
・接吻さえ知らなかった聖子が、半年もせずに、高明のものを愛撫し、瞬間、羞かしい言
 葉を口走るまでの変貌をとげていた。
・聖子は自分の体お変化に、ただ驚き、慌てながら、なすがままになっていた。体が精神
 よりさきに走り出し、心が体の変化を追っていった。
・あれほどの、愛の小説を書いた男なら、過去にそうした経験があるのは当たり前である。
 聖子が高明に惹かれたのは、そうした愛を重ねてきた男のなかの傷を覗いてみたいとい
 う好奇心からでもあった。

・高明は相変わらず散歩や、時たま古本屋漁りに行く以外は、ほとんど家にいた。いつも
 家にごろごろして、少し本気で原稿を書いたらどうなのだろうと思うこともある。時に
 ふと、高明が自分に頼りきっている、いわゆるヒモのような存在に思えることもあった。
 想像のなかで大きく、美しく描かれすぎた高明が、平凡でありきたりなものに色褪せて
 くる。
・その墜落感は、高明より、憧れが強かった聖子のほうが大きかったようである。同棲二
 年で二人の間には、少しずつ惰性の風が吹き込んできたようである。
・その高明が交通事故に遭い、右肢の下腿を折ったのは、同棲して二年目の秋だった。
・聖子はついに大学院を途中で辞めて、高明の看護に専念することにした。
・骨を折っても、肢を切断しても、高明の酒量は変わらなかった。相変わらず、ご飯のか
 わりのように酒を飲む。むしろ事故があり、肢を失ってからのほうが飲むようになって
 いた。
・退院の時、トラック会社から受け取った見舞金と、補償費も、入院期間中、高明がまっ
 たく原稿を書かなかったので、たちまち減っていく。
・「あたしが働きに出ます」と退院して一カ月経った時、聖子は自分のほうから申し出た。
・文英社の望月が高明を訪れたのは、そんな時だった。したがって、聖子が望月に就職を
 頼んだのは、聖子の一存であった。 

・「君は今日は暇かね」
 「丁度腹も空いたから、もし暇だったら、一緒に飯でも食べないか」
 と加倉井は聖子に言った。
・聖子は庭の方を見ていた。か細いところは少女のようで、上の生え際のあたりは、成熟
 した女のようである。この女の美しさは、そのアンバランスのところにあると、加倉井
 は盗み見ながら考えた。
・加倉井はその形のよい首の線を見ながら、聖子と能登との結びつきを考えた。どういう
 きっかけで、二人は結ばれたのか、それは自分には関係ないことだと思いながら気にか
 かる。そんなに気になるなら、一層のこときけばよさそうなものだが、きくとたちまち
 二人の間がしらけるような不安がある。
・「君はまだ結婚はしていないんだったね」
 「初めの時、君は一緒に棲んでいる人がいるといったが、その人とはどうなの」
・聖子は答えず黙ってグラスを見ていた。なにか息をつけているような感じである。その
 動かぬ横顔に頑なな拒否の態度が現われていた。
 
・夜のなかで加倉井はふと聖子の匂いか感じた。匂いは淡いシャンプーのような香りであ
 った。加倉井は一つ息を呑み、それからそっと右手を聖子の肩にまわした。瞬間、聖子
 はたじろいだように体を退いた。それが加倉井に一つの決心を与えたようである。いき
 なり加倉井は聖子を抱き寄せると、接吻を求めた。一瞬のことであったが聖子の唇はふ
 さがれた。
・首を振り、体を退く聖子に、つられるように加倉井の上体が前に傾いたが、聖子は構わ
 ず腕の下をかいくぐると、さらに二、三歩退った。
・離れて、加倉井ははじめて自分のしたことに気がついた。妙なことになった、と思いな
 がら、仕方なかった、という気持ちもあった。
 
・三鷹のアパートでは部屋が二つだけなので、高明が仕事をしている同じ部屋に床を敷い
 て寝る。眠りかけて横をみると、机に向かっている高明のうしろ姿が見える。同じ部屋
 ではとても眠れないと思って、聖子はダイニング・ルームのソファのほうへいって休ん
 だこともある。だが馴れてくるうちに、同じ部屋で眠ることもさして気にならなくなっ
 た。高明は聖子にとって、次第に空気のような存在になってきているのかもしれなかっ
 た。
・聖子は、今日、加倉井から受けた接吻のことを考えていた。どうしてあんなことになっ
 たのか、自分でもわからなかった。気がついてみると、唇を吸われていた。
・高明以外の男に唇を与えたのは、今度が初めてであった。処女のまま高明に身を任せ、
 そのまま同棲生活にとびこんだ聖子には、他の男に目をむけるゆとりはなかった。
・高明を知って四年目に、はじめて経験した裏切りであった。いや、それは裏切りといえ
 るかどうか、突然、うしろから抱き寄せられたのだから聖子の意思ではない。向こうが
 力任せに強引に求めてきたのである。しかしだからといって、聖子にまったく責任がな
 かったわけでもない。加倉井に誘われるままに食事に行ったのはともかくとして、その
 あと会社へ戻るべきではなかった。
・誰もいない夜のビルの一室で、男と女が雨の窓を見ていたら、なにかが起こるかもしれ
 ないとは、聖子も漠然と感じてはいた。
・直接の行動をしたのは加倉井であったが、それをできる状況をつくりだしたのは、聖子
 のほうであったかもしれない。行為者は加倉井だが、聖子にも介助者くらいの責任はあ
 った。
・たしかに唇を奪われたあと、すぐ抵抗して振りきりはした。吸われたのは一瞬であった。
 だが一瞬にしても接吻を受けたのは事実であった。それはどう弁解したところで打ち消
 しようはない。
・島で高明と初めて逢ったのは彼が四十三歳の時であった。そこまで考えた時、突然、聖
 子は、加倉井がいま四十三歳であることを思い出した。
 
陽炎
・「僕の秘書になってもらえないか」と加倉井にいわれた時、聖子は戸惑った。
・「少し考えさせてください」
・聖子はいまはじめて、自分のなかに、もう一つの不安があることに気がついた。このま
 ま秘書になっては、ずるずると近づくことになるのではないか。
・間違いなく加倉井は好ましい男性であった。だがいま以上に聖子は加倉井に近づきたく
 ない。近づかないという決心があれば、秘書になったからといって、どうということは
 ない。秘書になってくれ、といったからといって、加倉井がそれ以上、望んでいるとは
 かぎらない。自分さえ、しっかりしていれば問題はないはずである。
・そう思いながら聖子はやはり気になる。自分のなかに得体の知れぬ、自分でおさえきれ
 ぬものが潜んでいるような気がする。問題は加倉井ではなく、聖子自身のほうにあるよ
 うだった。
・「あのう、それじゃ、やらせていただきます」
・翌日、編集長かの牧村から皆に伝えらえた。社員達は一瞬、ほう、というように聖子を
 みたが、それだけで格別、とりたてて噂にする様子もなかった。
・聖子はひとまず安心したが、そのことを高明に告げるのをためらった。そんなことまで
 高明に告げる必要はないと思いながら、一方で、一度ではあれ、唇を許した男の秘書に
 なることにこだわっていた。
・高明が加倉井を知っていることはたしかであった。自分の彼女が、かつて自分のところ
 に、原稿をもらいにきた編集者の秘書になっているということは、高明にとっては、あ
 まり気持のいいことではないに違いない。
・聖子はまた一つ、高明に隠しごとを持つことを負担に思いながら、そんな状態に少しず
 つ慣れている自分が怖いような気がする。
 
・数えてみると高明と一緒になって、すでに四年の歳月が経っていた。初めは間違いなく、
 狂おしいほど高明を愛していた。高明が望むなら一緒に死んでもいいとさえ思っていた。
 それがいつから高明の存在を忘れるようになったのか。毎日、棲んでいればしだいに緊
 張が薄らぐとはいえ、この色褪せ方はなんであろうか。
・散歩のあと読書をし、昼寝をし、夕方また目覚めて二、三時間執筆して、あとは酒を飲
 む。高明の一日は定って、揺るぎなかった。

・加倉井から聖子に電話があったのは、退屈をもてあましていた四日目の午後だった。
・聖子は次第に自分のやっていることがわからなくなってきた。なぜ、自分は加倉井のと
 ころへ行こうとするのか。誠実な高明に嘘をつき、強引な加倉井の方へなぜ、行こうと
 するのか。
・加倉井は聖子を、ホテルの最上階のスカイラウンジへ案内した。
・エレベーターが十二階に来たところで、加倉井がうしろから軽く聖子の肩を突いた。加
 倉井におしやられる形で聖子はエレベーターを降りた。加倉井はそのまま、エレベータ
 ーホールから左手の通路へすすんだ。長い廊下の、中央よりやや手前に加倉井の部屋が
 あった。
・「どうぞ」加倉井が鍵をあけ、ドアを開いた。一瞬、聖子は戸惑い、それから加倉井の
 あとから入っていった。
・聖子は加倉井と並んで窓を見ながら、ある予感を覚えていた。いまの状態はこの前と同
 じであった。加倉井がその気になれば、聖子は抗えないかもしれない。帰らなければ、
 という声が聖子のなかで叫んでいる。ホテルの男一人の部屋に、のこのこくるなど不謹
 慎である。
・「帰ります」
・一瞬、加倉井がうなずいたように見えた。だが次の瞬間、聖子は加倉井の腕のなかにい
 た。どうしてそんなにすっぽりと包みこまれたのか、自分でもわからない。厚く大きな
 胸が、聖子の前にあった。
・「いや・・・」
・聖子は唇を堅く閉じ、顔を左右に振った。今度はこの前のように簡単に許すわけにはゆ
 かない、という気持が脳裡を掠めた。
・だが、加倉井の態度は、格別焦っている様子はなかった。悠々と、聖子の抵抗が弱まる
 のを待っているような図太さがあった。 
・実際、男の強い腕のなかにいて、聖子は自分の抵抗が次第に弱まっていくのを感じた。
 それは体というより精神の問題のようだった。
・聖子はなおも抵抗し、首を振ったが、それは初めの時からみると、ずいぶん弱まってい
 た。 
・加倉井はそれを待っていたように、唇を吸い、それから聖子の耳元で囁いた。
・「好きだ・・・」
・それからあとを聖子はよく覚えていない。あるいは真剣に、一つ一つ思い出せば、かな
 り克明に思い出せる部分があったかもしれない。だが聖子はそれらを小さく分けて思い
 出す気にはならない。加倉井の愛を受けたという、大きく確かな実感としか思い出した
 くはない。
・気がついた時、聖子はベッドの上で加倉井に抱かれていた。あとで考えれば羞恥で身が
 震えるほど、見事に裸にされたまま、全身を加倉井の胸にゆだねていた。自分でもわか
 らぬ嵐が、横たわった体のなかを通りすぎていったようである。
 
・全身が気怠く、そのくせ浮いているような感じである。疲れているのに華やいだ感じで
 ある。 
・「おかしい・・・」
・心ならずも別の男に許したはずなのだが、体はむしろそれに甘えているようである。加
 倉井のことは、なかったことと思いたい。いまこの場で思い返すのは不謹慎なことであ
 る。そう思いながら抱かれた記憶は、体にたしかに残っている。
・心の思いは失せても、体の記憶は消えそうもない。悪い女だ・・・。
・高明という男がいて、夫婦同然に生活している。表こそ出さないが、高明は自分を愛し
 てくれている。自分も高明を愛している。
・それを知っていて、なぜあんなことになったのか。
・この前、唇を奪われた時もそうだが、聖子はいつもあとになって考える。あとで後悔し、
 いけなかったと思う。だがもう子供ではない。自分で自分をコントロールできなければ
 困る。小さなことならともかく、これは尋常なことではない。聖子だけでなく、高明の
 生活にもかかわる重大なことなのである、自分の心と、相手の心に対する裏切りである。
 それを平気で犯して、平気で男の前に座っている。
 
・やがて高明が寝返りをうつのが、掛布の動きでわかった。
・いま求められるのはいやだ。
・聖子は目を閉じたまま、身を硬くした。
・このごろ高明は初めのころほど激しく求めてはこない。足を怪我したせいもあるが、一
 週間に一度くらいである。聖子はいくぶん、もの足らなく思うこともあるが、一緒に寝
 ているだけで満たされている部分もある。
・「おいで」
・淡い光のなかで、高明が低くつぶやいた。
・「今日はちょっと・・・」
・「あれか?」
・「ええ・・・」
・高明は生理のことかと思ったらしい。
・「なにか、少し疲れたのです」
・「気がのらないんだね」
・「ごめんなさい」
・高明は、決して無理強いする男ではなかった。
・だが考えてみると、聖子はいままで高明の要求を一度もことわったことはなかった。
・素知らぬふりをして、高明は女体の微妙なところまでよく気がつく男であった。明確な
 理由がなく、聖子が断ったのは今度が初めてである。断れば高明はそれ以上求めてこな
 い、と知りながら、現実に経験したことはなかった。
 
風の音
・奥谷怜子は聖子の三つ上の三十二歳であった。以前は婦人雑誌に勤めていて、同じ社の
 男性と結婚したが、二年で離婚し、いま一人の子供を引き取って、老母と三人で暮らし
 ていた。近代的な美人で、頭も切れ、「からだ」のデスクをやっているが、その鋭く、
 勝気なところが、妻としてはかえって失格であったかもしれない。
・男のように、さばさばして、気の張らないところが気に入ったが、子供を一人抱えて離
 婚している、という境遇にも、どこか惹かれるところがあった。
 
・「今日は、いいだろう」
・加倉井は強く聖子の手を握った。
・聖子はその強引さにあきれる。勝手な男さと思う。その図々しさを思いきり、叩きのめ
 してやりたい。だが手を握られているというだけで、声を失ったように言葉がでない。
・石垣が続く、繁みの先にホテルのネオンが見える。
・「わたし、帰ります」
・「頼む」「君が好きだ」「ついてきてほしい」
・聖子はこういうホテルに来たことがない。
・どんなに立派でも、性のためだけに使われるホテルなど不潔である。あれは浮気な男と、
 淫らな女が、性欲のはげ口のためだけに利用するところである。
・正面の奥にもう一部屋あるらしく、半ばほど襖が開けられ、淡い光のなかに、花模様の
 布団の端が覗いている。和室のゆったりとした感じのなかに、秘密めいた雰囲気がある。
・聖子がさらに身を縮め、唇を噛んだと時、加倉井がいきなり、近づいてきた。
・「いや・・・」
・叫んだが、それはすぐ加倉井の唇に呑み込まれ、聖子は膝を折ったまま、上体だけ、う
 しろにのけ反った。
・加倉井はそのまま、白いブラウスの下へ手を入れると、聖子の自信のない乳房をとらえ
 た。 
・「いや・・・」
・加倉井はもう一度乳房を握りしめると、一方の手で聖子の細腰を抱きしめ、軽々と持ち
 上げた。
・「やめて、やめてください」 
・腕に抱きかかえられながら聖子はばたついた。
・髪も胸元も乱れている。スカートも巻き上げられ、お尻のあたりまで出そうである。
 たとえ体を許し合った相手でも、こんな淫らな恰好で運ばれるのはいやだ。
・だが加倉井は、ばたつく聖子の反応を、むしろ楽しむように抱えたまま、足で襖をあけ
 ると、ダブルの布団の上に、どさりと聖子を抱きおろした。
・「いやよ」
・瞬間、聖子はつぶやいたが、言葉とはうらはらに、顔は加倉井の胸へおしつけていた。
・奪われることに、もはや抵抗はない。もしいくらかの反発があるとすれば、それは羞ず
 かしい思いをさせたり、じらされたりすることへの恨みである。
・加倉井が強引であったから自分は奪われた。そのいい訳さえあれば、いまの聖子は素直
 に加倉井を受け入れることができる。

・加倉井は社長という特権を充分に利用しているようである。勝手でずるいやり方だと思
 うが、退社時間が近づいてくると、聖子は電話のことが気になって、落ち着かなくなる。
 そのうち、時間がきて会社を出ると、約束したのだから、行くだけ行かなければ悪いと
 思って、自然に約束の場所へ足が向く。
・加倉井が特別いわないかぎり、逢う場所はNホテルのコーヒーラウンジと決まっていた。
 それ以外の時には加倉井のほうから別の場所を指定してくる。
・強引にいえば、聖子はくると、たかをくくっているのかもしれない。だが聖子は聖子な
 りに用事がある。会社の仕事だけでなく、家事もある。初めの時はともかく、二度目か
 ら、加倉井に誘われた時、聖子は必ず高明へ電話をいれるようにしている。
・高明は「早く帰ってこい」とも「何時ころになるのか」ともきかない。文句をいわない
 だけに聖子はかえって辛い。一層のこと、叱ってくれれば、加倉井を振り切って帰るこ
 とができる。 
・高明は聖子を信用しているのか、それとも放任しているのか、そこが聖子にもよくわか
 らない。遅く帰って、時に見詰める眼差しは鋭く、はっとするときがある。聖子の行動
 を知っていて、黙っているのだとしたら怖い。
 
・奥谷怜子が近づいてきて「食事に行きましょう」と誘われた。
・「大体において、大柄な男は、細い小柄な女を好むものよ」
・「男ってのは、先天的に保護本能みたいのがあるから、弱々しそうな女を見ると、守っ
 てやりたい気持ちになるんだと思うわ」と怜子は言った。
・「でも、女は恋をしていなきゃ、駄目ね」
・「このごろ、どうなっちゃたんか、妙に男が欲しいの」と怜子はかすかに笑った。
・「あのころ、あたしってずいぶん大人のつもりでいたけど、考えてみると子供だったの
 ね。男の浮気は不潔で許せない、と決めてかかっていたんだから、おかしいわ」
・「でも浮気はやはり、いけないんじゃありませんか」
・「まあ、人によるでしょうけど、あまり本気でない、軽い程度の浮気だったら、認めて
 やるべきかもしれないわね」 
・「なんといっても、男と女は違うのよ。体から、考え方から、浮気まで」
・「でも、本当に愛し合っていれば、浮気なんか、しないものじゃないでしょうか」
・「そこが女の考え方よ。たしかに、女の場合は、本当に愛している男がいれば、まず浮
 気なんかしないわ。女の体って、そういうようにできているものよ。でも男は違うらし
 いわ。好きな女がいても、つい他の女も欲しくなるものなの」
 
・「女は本当に愛している人がいれば、浮気なんかしないものよ」と昼休みに、怜子がつ
 ぶやいた。「女の体は、好きな人、一人だけを守るようにできているんだわ」ともいっ
 た。その時、聖子は表面はうなずいていた。だが心のなかは、狼狽していた。
・高明と加倉井と、二人の男に抱かれている自分がわからなくなった。なにか自分がひど
 く淫らな、いい加減な女のように思えた。
・世の中には、人妻や、恋人を持つ女の浮気は数えきれぬほどあるらしい。最近では、人
 妻の浮気は、むしろ女の地位の向上のように受け取られている気配さえある。
・聖子の場合も、それと同じ、ごくありきたりのことと思えばいいかもしれない。多くの
 人妻がそうであるように、自分の軽いアバンチュールを楽しんでいる、と思えば気が楽
 なのかもしれない。
・しかし、聖子は自分の加倉井への傾斜が、単なるアバンチュールとは思えない。高明と
 いうものがいて、加倉井のほうはそれの付け足しと、割り切るわけにはいなかい。正直
 いって、いまの聖子は高明も加倉井も、二人とも愛している。どちらが強いとも弱いと
 もいえない。二人とも同じように大切である。
・同時に二人も欲張っている、といわれれば、それまでである。聖子は、自分がいわゆ
 るプレイガールだとは思ていない。そういう人達のようにできたら、どんなに気が楽だ
 ろうと思いながら、やはりできない。自分で古くさい女と思いながら、その枠からはみ
 出せない。
・いや、あれは浮気ではない。浮気とか本気とか、いやな言葉だが、加倉井への気持ちは、
 むしろ本気に近い。
・怜子はああいうが、二人の男を同時に、愛するということは、あり得ないことだろうか。
 それは女の性として、おかしいことなのだろうか。
・聖子は自分で自分がわからなくなる。わからないなかで、高明へ抱く愛と、加倉井への
 抱く愛は違うことだけはわかる。お互い男女のなかで、ともに体の関係がありながら、
 二人の間には、まったく異質な愛が流れている。
 
・社員達は聖子を優しくて、清純な娘だと思っているらしい。大人しくて従順な子だから
 清純で、いつまでも独身でいてほしい。そんな期待が、いつのまにか現実のイメージを
 つくりあげてしまったようである。
・聖子はふと、自分のいまの姿を思うと、怖ろしくなることがある。彼等が考えるほど、
 自分は清純でも美しくもない。
・聖子がいつも、白いブラウスとか、地味なツウピースを割合よく着ることが、清純のイ
 メージを植え付けるのに、役立っているようである。男達は若い女の落ち着いた衣服を
 意外に好むらしい。
・他人が思うほど、自分は大人しくない、と聖子は密かに思う。聖子の芯の強さの一番い
 い現われは、家の反対を押し切って、高明と一緒になったことである。
・その時、母は十九歳も年上の、妻子ある男のあとを追って行くなど、とんでもないこと
 である。一時的にうまくいったところで、必ず破局が訪れる。そういうことは、人間と
 してやるべきことではない、と泣いて反対した。
・高明とのことにかぎって、どうしてあんなに強くなれたのか、どこにあんな勇気があっ
 たのか、自分でも不思議である。やはり聖子自身のなかに、思いつめると止まらない、
 気性の激しさがあったといわねばならない。
・女の気性の激しさは、見た目の大人しさとは無関係である。むしろ日頃は大人しく、感
 情を内に秘めているから、一旦、燃えだすと、手がつけられないのかもしれない。
・表面、大人しそうな聖子の心のなかに、一度、そう決めると、もはやテコでも動かない
 強さがある。 

・「一度、島へ行ってこようか」と高明は、ふぉと思い出したように言った。
・島へ高明と二人で行くことは、聖子にとってはなにか気羞かしい。自分でいうのもおか
 しいが、なにも知らず、清純そのものであった女教師が、十九歳年上の男と一緒に訪れ
 たら、島の人達はなんというか。
・「僕達のために行くのだ」
・「わたし達?」
・聖子は高明のいう意味がわからなかった。僕達のため、とは、二人のため、ということ
 であろう。 

・一日、高明と一緒にいただけで、疲れた感じが残るのは、どういうわけか。特別、体を
 動かしたり、気を使ったわけでもない。掃除をして、簡単な食事をつくって、ぼんやり
 家にいただけである。
・以前は、何日、高明と一緒にいても、疲れるなどということはなかった。それがこのご
 ろはなにか気が重い。
・聖子が高明と一緒にいることに、ある気疲れを覚えるようになったのは、この一年くら
 い前からである。

・車はホテルの前を抜け、外堀通りを信濃町の方へ向かう。また、あそこへ行くのだろう
 か。聖子は半月前、加倉井と行った千駄ヶ谷のホテルを思い出した。
・この人は、妻が病気だというのに、別の女性を抱こうとしている。男性は欲しくなると
 我慢ができないものだと聞いたことがあるが、それにしても不謹慎ではないか。これで
 はあまりに自分勝手ではないか。加倉井は、そんな聖子の気持も知らぬ気に、平然と前
 を見ている。

白い秋
・田舎の母から長距離電話があった。田舎の実家には電話番号は教えてはあったが、向こ
 うから電話がかかってくることはほとんどなかった。
・「今朝、おばあちゃんが倒れたんよ」
・「脳軟化症ではないか、って・・・」
・祖母は母の実母で、今年たしか七十八になるはずだった。その祖父の代には、苗字帯刀
 を許された豪農の娘で、古い明治の女だったが、考え方が意外に進歩的で、話せるとこ
 ろがあった。聖子が末っ子のせいもあって、小さい時から、この祖母に可愛がられた。
 あからさまにはいわないが、祖母はずっと聖子の味方であった。
・「わたし、すぐに行くわ」
・聖子が実家のある山口に着いたのは、その夜、八時過ぎだった。祖母は眠ったまま、相
 変わらず意識はなかった。 
・農業をやっている古い家なので、まわりの親戚たちが、大勢つめかけてきている。みな、
 茶の間に集まって、容態を案じながら、もし死んだら、葬儀はどうする、といった話ま
 でしている。 
・いまとなっては、誰もはっきり口には出さないが、十九歳も違う、妻子ある男と、一緒
 に棲んでいる、というだけで、田舎の人達は聖子に好奇心を抱いているようである。正
 式の結婚もしないで、おかしな女だと思っているらしい。聖子が挨拶だけで、逃げるよ
 うに茶の間から出てきたのも、それらの好奇心の視線を感じたからだった。
・祖母は昔、山口小町、といわれたというが、たしかに日詰家は、この祖母の血を受けつ
 いでいるところがある。母や祖母よりはいくらか、眼が張って、きかん気だが、もとは
 細面の美人だった。五十を過ぎて大分皺が目立ってきたが、まだまだ若々しい。
・聖子が子供のころは、父が絶対の権力者で、母は万事、耐え忍んでいたように思ったが、
 いまになってみると、母のほうが実権を握っている。
・父は仕事を、聖子の兄に譲ってからは、急に老け込み、元気がなくなった。
・聖子はいま、ここで加倉井のことをいったら、母ななんというだろうと思った。古風な
 母は仰天し、それこそ卒倒してしまうかもしれない。まさか自分の娘が、二人の男を等
 分に愛し、体を許している、などとは思ってもいないだろう。
・人間のやることは、必ずしもうまくいかないことだってある。周囲のいうままに結婚し、
 田舎に住み続けてきた母には、そのあたりの微妙なところはわからないらしい。本当の
 男と女の仲は、むしろうまくいかないことのほうが多いのだと、聖子は思うのだが、そ
 こまで母に説明する気はない。
・田舎の人達は聖子が結婚すれば、満足するようである。相手や、内容はほとんど考えな
 いで、まず結婚をしているか、いないかで、人間を区分けしてしまう。二十九歳にもな
 って、結婚もしない女は半端者のようである。
・祖母の危篤と聞いて駆けつけた時には、一刻も早く、田舎へ戻りたいと思った。祖母に
 逢い、そして母にも叔母達の顔も、久しぶりに見られると思った。だが、それも逢った
 当座だけで、一日いただけで、もう飽きている。いや、それは飽きている、というより、
 いづらくなっている、といったほうが正しいかもしれなかった。
・わたしの住むところは、田舎にはもうない・・・。
・そう思うと、一途に東京が恋しくなった。
・聖子の突然の帰京に、母も親戚達も一様に驚き、あきれていた。
・高明を選んだのは自分の責任である。たとえ正式の妻でなくても、いまさらじたばたし
 たくない。聖子はそのことは、はっきり心に決めている。
・「東京で他に好きな人はおらんのかね」
・「いないわ・・・」
・いってから、聖子は加倉井のことを思った。結婚同様の生活をしているからといって、
 その実、他の男を愛している。それを思うと、あまり威張れたものではない。
・田舎の縁談に耳を傾けようとしないのは、高明のためというより、むしろ加倉井がいる
 からかもしれなかった。  
・わたしの生き方が間違っているのだろうか・・・。東京にいるころは、そんな疑問にと
 らわれることもなかったが、いましきりに思われるのは、やはり母から、激しく責めた
 てられたせいかもしれない。
・言葉では威勢よく反発しておきながら、心の奥では、それを認めている部分もある。母
 達のいうことは間違っていると思いながら、完全に捨てきれない。都会に住み、どんな
 に環境が変わっても、聖子の頭には、なお古い田舎の考え方が残っているかもしれない。
 
・祖母の危篤の日、帰る早々、男と逢うとは、どういうことなのか。少なくとも、今夜ぐ
 らいはまっすぐ家に帰り、祖母の恢復を願うべきではないか。
・それを、男に出迎えてもらって、ホテルへ行こうとしている。いったい、どうなってし
 かったのか。聖子は自分の心も体も、すべてこのごろ急に淫らになってきたような気が
 する。
・高明の愛の時は、もっと純粋であった。純粋というと、大袈裟だが、もう少し一途であ
 った。好きな人に愛されることだけを考え、それ以外の悦びといったことについて、考
 えることはなかった。
・それがどうして・・・。
・高明の時と、加倉井の時と、あきらかに違うことは、愛のなかに、悦びという、もう一
 つの感覚が息づいていることである。
・愛し、愛されるという、心の充足のほかに、体の悦びがもう一つ、独立して存在してい
 るようである。 
・もちろん高明の時にも、体の悦びはあった。初めは苦痛であったものが、ほどなく、優
 しさに変わり、やがて忘れ難い歓びに変わった。そのことに聖子は満足し、納得してい
 る。
・だが、いまは少し違うような気がする。それは聖子にもはっきりわからないが、今は心
 は心、体は体として、別々に、歩きはじめているようである。各々が独立し、自分を主
 張しているような不安にとらわれることがある。
・聖子の感じる淫らさは、おそらく、この体の悦びだけが一人で動きはじめたことへの戸
 惑いなのかもしれなかった。 

・加倉井はそのまま、聖子を抱きあげると、窓際にベッドに埋めた。横になると、聖子の
 抵抗は急速に弱まる。横になったことで、もう抵抗しなくてもいいのだと、体のほうで
 勝手にあきらめているようなところがある。
・加倉井はそのあたりまで承知しているのか、ベッドに横たわり、聖子を一度、強く抱き
 しめると、あとは一気におしすすんでくる。大胆でありながら、そこはすべてを知り尽
 くした男の冷静さがある。
・ブラウスの前を開かれ、ブラジャーの留金を外され、乳首を吸われ、聖子の抵抗は完全
 に失われた。
・いけない、という聖子の初めの思いは、すでに消え、いまはむしろ聖子のほうが待って
 いる。思いきり力強く、そして淫らに犯されることを願っている。
 
・アパートは静まり返っていた。
・「ただいま」
・あけ放した奥の机の前に、高明が座っていて、こちらをふりかえった。
・「遅くなって、ごめんなさい」
・高明がこんなに早く起きて、机に向かっていることは珍しい。しかも机の上には原稿も
 本もない。ただぼんやり、机に向かって、考えこんでいたようである。
・「実家から電話がきた」
・「えっ・・・」
・「お祖母さんは、やはり亡くなったらしいな」
・聖子は声を呑んだ。
・なんという不孝をしたのか。祖母になんといって謝ればいいのか。やはり昨夜は帰るべ
 きであった。返って三鷹にいれば、まだ申し訳がたった。
 
月白 
・健康社では社員の慰安旅行を兼ねて、伊豆の伊東へ行くことになった。
・部屋は怜子と、池辺久代、野田啓子の四人が同室だった。
・「あたし、結婚しようかと思うの」
・突然、怜子がいう。
・「まだ相手はいないけれど・・・これから本格的に探そうと思うの」
・「もっとも、子連れの三十女だから、もらってくれる人はいないでしょうけど、女はや
 っぱり一人では駄目ね」
・「初めは、わたしも強いこといってたけど、一人じゃやはり淋しいわ。別に体がどうっ
 てことじゃなくて、自分には、あの男がいると思う、その精神的なものが大きいのよ」
・「女はいつまでも、きれい、というわけにはいかないでしょう。若い間は、そりゃ恋人
 でも、愛人でもいいけど、年齢をとってくると、安定が欲しくなるものよ」
・「口では偉そうなことをいっても、女はやはりいつでも、男を求めているのね」
・「あなたは、結婚する気はないの」
・「あなたほどの美人を、世の中の男性が放っとくはずないでしょう。ねえ、誰かと同棲
 しているんじゃないの」 
・「わたしを信じて、秘密は守るから、教えなさいよ」
・「怜子さんの勘のとおり、あたし、一緒に棲んでいる人がいるのです」
・「やはり・・・」
・怜子は目を見張った。

・聖子は階段を昇った。一番奥のドアの先に高明がいる。そのことに、聖子はなんの疑い
 ももっていない。
・「ただいま」
・聖子は奥へ向かって声をかけた。
・「先生・・・」
・呼んでみたが返事はない。
・もしかして、高明は今夜は帰ってこないのではないか。聖子のその疑いが湧いたのは、
 九時になり、テレビのニュースを見ている時だった。
・この数年、高明が無断でこんなに遅くなることはなかった。
・一日ぐらい帰らなかったからといって騒ぐことはない。そこまで考えて、聖子はようや
 く身支度をはじめた。 

・聖子が机の上を整理して、立ち上がったとき、電話のベルが鳴った。上西が受話器をと
 った。
・「日詰さん、電話です。式根とかいう、島だそうです」
・短い間があって、出てきたのは高明であった。
・「いま、どこですか」
・「島にいる」
・「佐合旅館にいる」
・その旅館は五年前、聖子と高明と初めて逢って、接吻を受けたところである。
・たとえ放浪癖があり、気のおもむくままに旅に出ることが多いとはいえ、半日もかかる
 船旅をするには、それなりの理由があるに違いない。
・さらに譲って、たとえ衝動的に行ったとしても、島をえらんだのは、どうしてなのか。
 まったく無意識に島まで行くはずはない。
・島は二人の思い出の場所である。二人が初めて逢い、唇を触れ合ったところである。そ
 こから二人の愛はスタートした。そこへ高明の足が自然に向いていったのは、どういう
 ことなのか。ただ昔を懐かしむだけの理由で島へ、行く気になったのだろうか。
・高明はいま二人の状態から逃れたくて、島に行ったのではないか。
・「あの人はやはり、疑っていたのではないか」
・疑っていたから、その苦痛から逃れたくて島に行ったのではないか。言葉にこそ現わさ
 ないが、高明は鋭敏な男である。初めて逢った時から聖子には優しく、なにごとも許す
 部分があったが、その実、心のなかでは冷静に聖子を見つめていたのかもしれない。
・高明はすべてを知って黙っていたのかもしれない。田舎から帰ってきた時だけでなく、
 初めて加倉井に体を許した時も、その後、幾度か逢った時も、その都度、高明は知って
 いたのではないか。 
・すべてを見抜いて黙っている。叱りもせず、問い詰めるでもなく、ただ冷ややかに見つ
 けている。なにごとが起きても、表面は決して乱れを見せない。そんなことに関わり合
 いになるのは汚らわしい、というように無関心を装う。
・孤高で誇り高い姿勢を、高明は決して崩そうとはしない。その気位がこの数年、高明を
 支えてきた生き甲斐のようでもある。
・だが、横浜での一夜を知ったうえで、高明が島へ出かけたとしたら、聖子の行為は、そ
 れなりに、彼の心に大きな影を落としていることになる。
・島へ行くことで高明は聖子を戒めている。二人の愛の原点へ戻ることで、高明は自分の
 誇りを傷つけずに、聖子への抗議をしているのかもしれない。
  
冬の雨
・蓼科に避暑に出たまま、茅野の病院にいた加倉井の夫人は十月の末に東京へ戻ってきた
 ときいた。怜子たちの話では、そのまま自宅で療養しているということだが、電話に夫
 人がでたことはない。
・やはり体が悪くて、奥の間にでも寝たきりなのかと思うが、それにしても、夫が週に二
 度も外泊していたのでは、問題になりそうである。
・だが加倉井について、聖子が不思議に思うのは、それだけではない。聖子が外泊すれば、
 高明との間のことがどうなるか、ということを、加倉井は考えないのであろうか。
・加倉井が高明のことに触れたくない気持ちはわかるが、それにしても堂々としすぎてい
 る。高明の存在など、まるで無視しきっている。
・聖子は時々、加倉井がひどく利己的な男のようにも思われる。ただ逢ったその時だけ、
 激しく燃えればいい、と加倉井は思っているのではないか。それだけの聖子を求め、そ
 れ以上の聖子は求めていないのではないか。
・加倉井の高明への無関心さは、始めからのものではなく、意識的につくられたものでは
 ないだろうか。無関心を装いながら、その実、高明のことを気にしているのではないか。
・加倉井と高明は知らぬ仲ではない。それどころか、加倉井は高明にある種の好意を持っ
 ているらしい。かつて高明は特異な才能の作家として嘱望され、加倉井はそのよき理解
 者であった。 
・一方、高明は加倉井についてはなにもいっていない。加倉井のことは知っているはずな
 のに、健康社へ勤めることになった時も「そうか」とうなずいただけだった。
・男には男だけにしか通じない友情があるという。高明と加倉井との仲が、はたして友情
 がときかれると疑問が残る。 
・しかし考えてみると、その静かな態度こそ男達の一つの表現なのかもしれない。互いに
 無関心を装い、領域を侵さない、その慎みと沈黙のなかに、男達はさまざまな思いをこ
 めているのかもしれない。女のように嫉妬や憎しみを、直接表現に現わさないが、心の
 うちにはそれなりに、思い悩む部分があるのかもしれない。
・高明が聖子に近づいた時、妻や子供の影を見せなかったように、加倉井も決して家庭の
 影を見せない。愛のためとはいえ、それは見事な振り切りようである。
・女はいくら夫以外の男を愛していても、ああはできない。ついもう一つの妻という顔が
 でる。立場の違いがあるとはいえ、その意味では男のほうが演技者なのかもしれない。
・女性のなかには、それを男の狡さだとみる人もいるが、聖子は必ずしもそうとは思わな
 い。狡さというより、むしろ男の好意と優しさなのだと思う。狡いから嘘をつくのでは
 なく、優しいから嘘をつくのだと思う。
 
・「実は、ワイフが死んだ」と加倉井から電話があった。
・加倉井の妻がかなり重い心臓病だということは怜子からきいていた。
・洋服箪笥のいくつかあるハンガーの一番奥に、黒いワンピースがかかっている。四年前、
 なにかの時に、と思って、一着つくっておいたのである。
・通夜にはまだ少し時間がある。聖子は黒い服につつまれた自分の顔を見ながら、加倉井
 の妻のことを考えた。これから通夜に行けば、その写真が正面に飾られている。かつて
 加倉井が愛した人なら、美しい人に違いない。
・考えているうちに、聖子は次第に、通夜に行く自信がなくなってきた。
・もし高明が死んだら・・・。その時、聖子は加倉井からお悔やみをいわれたくない。時
 間が経って落ち着いてから、「気を落とさないように」と、いってくれるだけで充分で
 ある。
・「やはり行くべきではないのだ。あの人は本当は来ないことを願っている」
 
・「今日はどうして会社へ行かなかったんだ」と高明は言った。
・「昨日、社長の奥さんが亡くなったんです」
・「昨夜はお通夜で、今日は告別式なのです」
・「行くつもりだったのですけど、ちょっと体の具合が悪くて」
・「じゃあお通夜にも行かなかったのか」
・「君が行けないのなら、僕が行ってこようか」
・高明がどうしてお悔やみに行くなどといい出したのか、考えてみると不思議だった。
・「少し休みたい」と高明が言った。
・夜の船で帰ってきて、疲れて休みたいという気持はわかる。だが高明は布団の上に休む
 ことだけを求めているのではないようである。ささやいた感じから、体を求めているこ
 とが聖子にはわかる。
・「いいだろう」
・聖子は少し戸惑い、それから髪を結んだ紐をはずした。
・島にいる間、高明は他の女性に手を触れなかったのであろうか。聖子の知るかぎり、島
 には男性の相手をするような女性はいなかった。帰ってきてすぐ求めるところをみると、
 やはりそんなことはなかったと考えるべきかもしれない。
・聖子はセーターを脱ぎ、スリップ姿になると、一度、鏡で顔を見定め、それからそろそ
 ろと蒲団の横から入った。 
・昼に抱かれるという思いが、聖子の体を熱くした。
・珍しく高明の求め方は、激しく性急であった。二十日近い禁欲が高明に嗜虐的な欲望ま
 で起こさせたかもしれない。午前の陽の洩れるアパートの一室で、聖子は何度か助けを
 求めたように思う。許しを乞い、哀願しながら、その悦びの波に浸っていたように思う。
・高明はすべての精力を使い果たしたように仰向けのまま目を閉じている。
・聖子はそろそろと起き上がり、タオルで体をおおうと、そのままバス・ルームに入った。
 朝起きてから加倉井のことを思い続けていた頭が、いまは気が抜けたように虚ろである。
・一人の男のことを考えていながら、体はまるで別の男を受け入れてしまった。そしてい
 ま、心も体も特別戸惑ってはいない。それはそれなりに落ちつき、幸せな気持になって
 いる。二人の男の間を揺れて、体は一向に羞じるところがない。聖子はまた、自分で自
 分がわからなくなっている。  

氷花
・加倉井は、また例のホテルへ行こうとしている。聖子は両手をコートのポケットに突っ
 込んだまま身を堅くしていた。
・初七日を終わったばかりだというのにホテルに行こうというのは、どういうことなのか。
 いままで病床にあったとはいえ、長年連れ添ってきた妻が死んだあとである。もう少し
 お互いの気持が落ち着いた時に、ゆっくりと求めるべきではないか。
・待っていてくれたのは嬉しいが、それではあまりに欲望の処理のため、といった感じが
 強い。男はそれでいいかもしれないが、女はそうはいかない。体よりもこころが納得し、
 安心しなければ受け入れる気持にはなれない。
・性の行為を求めないのであれば、聖子は一緒にいてもいい。正直いって、聖子は今日、
 加倉井に逢いたかったし、話もしたかった。それなのに聖子が抵抗したのは、初七日の
 翌日に逢ってすぐホテルにいく、その露骨なやり方がいやだったのである。
 
・「正直いって、今日は欲しかった」
・聖子が振り返ると、加倉井は少し淋しそうに聖子を見た。
・電車に乗ってから、聖子はなにか大きな忘れものをしたような気持になっていた。どう
 してあんなに強く拒否したのか、自分でもわからない。
・おかしなことだが、加倉井がホテルに行くことをあきらめ、駅に戻りはじめてから、聖
 子は加倉井がもう一度、ホテルの誘ってくれることを待っていた。相手が行かないと、
 心に決めた途端に、聖子のほうが逆に後悔しはじめていた。
・たとえ初七日の翌日であろうと、加倉井があれだけ求めていたのなら、与えてやるべき
 だったかもしれない。男の生理は女とは違うと、聖子はなにかの本で読んだことがある。
 男は一度欲望が起こると、待つことができない。
・あのままどこかへ飲みにいったのか、それとも女性のいるところへでもいったのか。ま
 さか、と思うが、もし他の女性のところにでもいって、体を求めている、とでもしたら
 耐えられない。それだけはしないでほしい。
・あのまままっすぐ帰ってほしい。すでに別れてしまったから仕方がないが、明日、求め
 てくれたら素直に許そう。もうあんな生意気な態度はとらない。
 
・このところ加倉井は元気がない。会社に来ても、なにやら考え込んでいる時間が多い。
 やはりいまだに妥協しないボーナス闘争のことが影響しているらしい。社員達は、たか
 が0.5カ月分ぐらい、ケチらないで出すべきだ、というが、出すほうにとっては容易
 なことではないかもしれない。こんなになっても加倉井が3カ月分にこだわるところを
 みると、会社はよほど辛いのかもしれない。これかで成長一本やりであった会社が、よ
 うやくぶつかった最初の壁である。
・正直にいえば、聖子はストに反対である。だが、ここで手をあげなければ、みなから白
 い眼で見られる。加倉井とのことを、はっきり知っている者はないはずだが、裏ではそ
 の噂が少しずつ拡がっているようである。聖子はそろそろと手を挙げた。
・このままストに入れば、狭い業界のことだから、たちまち噂になる。健康社がストをや
 った、ときいて、銀行や書店などが警戒するかもしれない。一日のストぐらいでは実質
 的な被害は少ないと思うが、ストをやる会社だというイメージダウンのほうが怖いよう
 な気がする。
 
・「明日、会社でストをやるんです」
・「休むのはいかん、一人だけでも仕事をしたほうがいい」
・高明の声は思いがけなく強かった。
・高明は実際の生活の苦労をしらない。自分で本当に苦しんで金を得たことがない。だか
 らそんな勝手なことをいう。
・「とにかく君はストに加わるべきではない」
・高明が会社での聖子のことについて、指示するのは初めてである。
・「でもみんなストをするのに、あたし一人参加しないのはおかしいわ」
・「おかしくてもいい」
・だがそれにしても、高明はなぜ、出るようにすすめるのか。ストに参加しないというこ
 とは加倉井の側につくことである。いかにサラリーマンの世界を知らない高明とはいえ、
 そのくらいのことはわかるはずである。
・もし、高明が自分と加倉井の仲を疑っているのなら、こんなことはいわないはずである。
 どんどんストをして加倉井を困らせたほうがいいと思うはずである。
・やはり高明はなにも気づいていないのか。少なくとも、聖子が外泊する相手が、加倉井
 であることは知らないのかもしれない。
・やはり高明は加倉井のことを好きなのではないか。言葉には出さないが、好ましく思っ
 ているのではないだろうか。
・以前、聖子は、もしかして加倉井は、高明に好意を抱いているのではないかと思ったこ
 とがある。それも言葉ではっきりいったわけではないが、なんとなく気遣っている様子
 が感じられた。
・二人とも直接はいわない。いつも聖子という窓を通してだが、互いに好意を持ち合って
 いるのではないかと思ったことがある。

・仕切り戸の先の社長デスクで、加倉井と牧村が、なにごとか打ち合わせをしている。こ
 れから組合と交渉に入る前のした準備かもしれない。聖子がお茶を淹れて持っていくと、
 加倉井が振り返った。
・「君は今日は働いてくれるのか」
・「ええ・・・」
・「そうか、ありがとう」
・加倉井はそういうと、美味しそうにお茶を飲んだ。
 
・やがて車は神宮の森を抜けて、ホテルの前に着いた。一週間前、加倉井と争って、別れ
 たところである。
・女中が出て行くと、加倉井はあらためて聖子をみた。
・「欲しかった」
・「風呂はあとにしよう」
・加倉井はそのまま、聖子を寝室へ運んでゆく。
・聖子にとって辛いのは、抱きしめられるまでである。唇を奪われ、腕に抱かれさえすれ
 ば、聖子の体は自然に優しく、素直になってゆく。
・高明や加倉井の亡き妻や、さまざまの心のブレーキが、抱きしめられているうちに消え、
 なにも考えない聖子自身が蘇ってくる。
・おかしいわ・・・
・以前と今との間には、加倉井の愛を受け入れただけにすぎない。たかが一度の愛撫を受
 けただけで、どうしてこうも見事に考え方から態度まで変われるものか。
・抱かれている時もいいが、そのあと、こうして二人で寄り添っている時も聖子は好きで
 ある。もう何度か繰り返したことだが、抱かれて満ち足りたあと、聖子の心には、いい
 ようもない安らぎがよせてくる。
・このまま、どうなってもいいような気がする。加倉井が死のうといえば死ねるし、生き
 ていこうと言えば生きていける。

流れ雲
・望月のことなら気にしなくてもいい。あいつは俺達のことを知っている」
・お話したんですか?」
・「きかれたのでね」
・「いやだわ」
・どうしてそんなことを話したのか。大丈夫だといっても、なにかの拍子で望月が高明に
 喋らないともかぎらない。
 
・「俺に頼みたいことはないか」と高明は言った。
・「来年はこうしてみたいとか、ああして欲しいとか」
・どういう意味だろうか。聖子は高明の老いの目立ってきた顔をのぞき込んだ。
・「あたし、いまのままで充分です」
・正直いって、聖子はこれ以上、高明に望むことはなかった。いまのように加倉井と気ま
 まな愛を続けていて、聖子はこれ以上望んでは罰があたる。
・「いままで、君にはなにもしてやれなかった」
・「俺はもう、そろそろ五十だが、君はまだこれからだ」
・これまで高明は聖子との年齢差を特別、気にしている様子はなかった。十九歳の開きと
 いえば親娘ほどではないが、それに近い。それに高明はどちらかというと、年齢より老
 けて見えるし、聖子は小柄で若く見えるから、その差は一層大きくみえる。
・しかし世の中には十九歳どころか、二十歳以上の年齢差がある夫婦がいくらもいる。ま
 して高明は一度離婚した男である。娘ほど違う女性と一緒にいたところで羞じる必要は
 ない。
・仙台の瑞巌寺の初春の風景が出たところで、二人はどちらからともなく床についた。

・加倉井の眼がまっすぐ、聖子を見ていた。
・「気を悪くしないで欲しいんだが、君は一人になる気はないのか」
・聖子は一瞬、びくりと体を縮め、それから加倉井を見た。
・「去年の暮からずっと考えてきた。もし、君がその気なら・・・」
・「やめてください」
・これから加倉井の言おうとしていることは推測がついた。それを待っていながら現実に
 口に出されるのが怖い。言葉になった途端、たちまち崩れそうな不安があった。
・もし聖子さえその気になるなら、加倉井は聖子を妻として迎えようというのであろうか。
・これは本気なのだ」
・加倉井はもう一度言った。
・もし高明がいなければ、どれだけ自由か知れない。時間など気にせず加倉井と思いきり、
 愛を重ねられる。何日も何日も、二人で一緒にいることができる。
・思うままに、愛を重ねられないのも辛いが、いつも帰り際に、罪の意識にさいなまれ
 るのはさらに辛い。初めのことからみると、ずいぶん慣れてきたとはいえ、偽っている、
 という気持の負担は大きい。
・一層のこと、高明も浮気をしてくれると、気が楽になるのだが、いまの高明にはそんな
 影はない。むしろ、浮ついている聖子を責めているように、清潔すぎる。
・「君はまだ、あの人を愛しているのか」
・「君はやはりあの人と離れられないのだな」
 
枯野
・「ちょっと旅行してくる」と高明が突然言い出した。
・「東伊豆は人が多いだろうから、西伊豆にでも行ってみる。あのあたりは小説を書きは
 じめたころ、一度行ったことがある」
・そんな古い思い出のところへ、なぜ急に行こうと思ったのか、聖子は高明の気持をはか
 りかねた。
・それにしても、聖子は高明を羨ましい身分だと思う。気が向けば、どこにでもぶらりと
 出かけていける。高明は別格、お金を持っているわけではないが、しかし一般のサラリ
 ーマンからみると、はるかに気が楽である。自分の思うまま、自由に何処へでも行ける。
・その時はそれだけで、高明の様子になんの変わりもなかた。
・しいて変わったことといえば、その夜、いつもより、高明が激しく聖子を求めたことで
 ある。一瞬、聖子は相手が加倉井とも、高明ともつかない不明の境地に堕ちたが、すぐ
 高明といるのだという、寂寞とした感じにとらわれた。
・その瞬間は同じでも、高明と加倉井とではその前後の感じが違う。少し白けた、もの憂
 い思いのまま、そのあと聖子はとろとろと眠った。

・一週間、聖子は一人身の自由を楽しんだ。
・いつもは二つ並んでいる蒲団が今日は一つである。高明はいないのだ、聖子はそう自分
 にいいきかせて、また眠りについた。 
・ハンドバックを揃え、出かけようとした時、電話が鳴った。こんなに朝早く、電話がく
 るのは珍しい。
・「もしもし、能登さんのお宅ですか」
・「西伊豆の雲見の警察のものですが、実は今朝方、自殺がありました」
・「五十歳くらいの男の方ですが、旅館でガス自殺です」
・どうしたらいいのか・・・。
・迷いながら、聖子は自然に加倉井の家のダイヤルを廻していた。
・落ち着かなければいけない、と思いながら、受話器を持っている手が小刻みに震えてい
 る。
・「死んだんです」
・「能登が・・・」

・あの時から加倉井は海へ行くことを決めていたかもしれない。あのまま一緒に行けば、
 高明は死ななかったのではないか・・・。
・あの時、断ったのは加倉井との逢瀬を考えたからだった。折角の機会が、高明と旅に出
 ることで失うのが惜しかった。
・聖子の消極的な態度で高明は旅をあきらめ、結果として、聖子は加倉井と逢う目的を達
 したことになる。自分の気持をおさえているようで、その実、自分の思いとおり、こと
 を運んでいた。
・あの時、高明は死を決意したのか・・・。
・もしかすると、高明は今度の旅を、最後の旅にするつもりであったのかもしれない。聖
 子と一緒の旅をして、それですべてを清算するつもりだったのかもしれない。
・いま考えてみると、高明はやはり、聖子と加倉井との関係を知っていたかもしれない。
 言葉では何も言わなかったが、聖子のうしろに男がいたことは察していた。もしかする
 と、それが加倉井であることも気づいていたかもしれない。
・知っていて、高明は耐えていたかもしれない。
 
・やがて望月が思い出したように言った。
・「どうして死んだのかな」
・聖子はその言葉を自分の声のようにきいた。黙りながら、いま聖子もそれと同じことを
 考えていた。それは加倉井も同じに違いない。
・「ついこの前、短編を一本発表した。なかなかいいものだった」と望月が言った。
・「やっぱりあの系列か?」
・加倉井の、あの系列というのは、男と女の愛を取り扱ったものという意味のようだった。
・「そうだが、少し違う。いつもよりかなり生々しかった」
・「ある幻想を扱ったものだが、女が帰るのを、一人で待っている小説だ」
・「女のうしろに、もう一人の男の影を見ている」
・「老いの焦りのようなものが、よく出ていて、身につまされた」
・「あの時、あまり急がせすぎたのが、悪かったかもしれない」
・「原稿をもらったところで、もっとどんどん書くように言ったのだ。いまのように、マ
 スコミの回転が早くなっている時に、あまり暢気に構えていてはいけない。これをきっ
 かけに、また書かなければ、忘れられるとね」
・「責任は俺のほうにある・・・」
・加倉井がもう一度言った。
・望月も加倉井も、それぞれに高明の自殺に責任を感じているらしい。
・しかし、この中で一番罰せられなければならないのは、聖子自身である。
・「わたしがいけなかったのです」
・聖子ははっきりと言った。
・いまになって、聖子は自分が高明を求めていたのを知った。それは心をこえて、聖子の
 体全身に沁み込んだオリのようなものである。生きている時は、空気のように思われた
 存在が、死んでから初めて大きさを現わしていた。
 
薄明
・人々はやさしく声をかけてくれたが、その眼差しは、いままでと違っていた。高明の死
 で、社員達は、聖子が独身とは形ばかりで、その実、ある作家と一緒だったことを知っ
 た。それともう一つ、加倉井とかなりの関係があるらしいことも知らされた。それはい
 い悪いは別として、彼等が聖子に抱いていたイメージを、大きく狂わせたようである。
・この一、二年、高明はあまり激しく聖子を求めなかった。淡々としていたのが、去年の
 暮れからまた思い出したように、聖子を求めた。死を意識して、高明はむしろ燃え出し
 たのかもしれない。いまとなっては、その激しさが、かえって高明の記憶を呼びさます。
・だが聖子としては、加倉井がいただけに、高明に求められるのが、かえってわずらわし
 かった。抱かれることに、かすかな嫌悪を抱いたことさえある。あとでは加倉井一人に
 愛されることを望んだこともある。
・高明がいなくなったから、すぐ加倉井のもとに走る、といった気持は湧かない。高明は
 高明で、加倉井ではカバーしきれない、高明独自のものとして体に焼きついているのか
 もしれない。
・あの時は急をきいて取り乱し、加倉井がいてくれなければ、なにもできなかった。理由
 はなんであれ、あの時は加倉井が必要であった。
・だが、どういう事情があったにせよ、高明の遺体を引き取るのに、体を許したことのあ
 る男と一緒に行ったのは、いかにも不謹慎であった。あれでは高明を悲しませるばかり
 である。

・「実は前から話そうと思っていたのだが、君も四十九日が済んだので、もういいかと思
 って・・・」
 「はっきり言うが、結婚してもらいたい」
・「好きだ」
・加倉井の上体が聖子をおおい、顔が近づいた・
・「いやっ・・・」
・どういうわけか、一瞬、聖子は激しい嫌悪を感じた。いまは許したくない。許すべきで
 ない、という思いが頭をかけ抜けた。
・「どうしたんだ」
・思いがけない聖子の抵抗に、加倉井は驚いたらしい。
・別に加倉井にどうこうされるというわけではない。すでに何度となく、体を許してきた
 相手である。その人に、愛を告白されて怯えるとは、どういうわけか。
・どういうわけか、聖子は、加倉井の求めを受ける気にはなれない。受けたい気持ちが強
 ければ強いほど受けられない。頑なに、自分を締め付けたい。それは高明への義理とか、
 自分の身勝手さへの罰としてではない。もっと内側の、聖子の性格自身がそれを受け入
 れようとしない。
・あたしは別に、あの人と結ばれることを望んだのではない。高明という人がいたから、
 加倉井が欲しかっただけである。高明がいなかったら、加倉井に惹かれることもなかっ
 た。
・いま聖子の心は、少しずつ高明の許に戻っていた。死んでから戻るなど、無意味といえ
 ば無意味だが、それが人間の愚かさなのかもしれなかった。
・好きなからこそ、聖子は一度けじめをつけたかった。愛しているからこそ、いい加減な
 形で結ばれたくはない。 
・それは男にはない理屈かもしれない。女だけの、いや聖子だけの勝手な考えかもしれな
 い。
・いま一緒にならなくても離れはしない。その自信ができたから、加倉井と別れるのだと
 もいえる。
・いますぐ加倉井を受け入れたのでは、どこまでも男の好意に甘えていくだけの女になっ
 てしまう。
・これからどんな未来が訪れるのか、それは加倉井にも聖子にも、他の誰にもわからない。
 ただ、新しい日が訪れることだけはたしかである。
・動き出す都会の夜のなかで、聖子は新しい出帆が、いま自分に訪れているのを知った。