わが性と生  :瀬戸内寂聴

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瀬戸内寂聴さんは、岩手県と関わりのある作家である。寂聴さんが得度して尼僧となった
のは岩手県平泉の中尊寺であり、また1987年には岩手県浄法寺町(現:二戸市)にある
天台寺の住職(現在は名誉住職)に就任している。
この本は今から27年前の1990年に書かれたものであるが、寂聴さんの性に関する体
験をもとに語られた内容から、当時の性に関する社会の雰囲気がどうてあったのかを垣間
見ることができる。当時は平成バブル景気の絶頂期にあり、性に対する社会の感覚も、相
当にバブルであったように思える。当時としては、最先端にあったと思われるこの本の内
容も、今ではすっかり日常茶飯事の内容となっており、目新しさは感じられないが、逆に
バブル景気に浮かれた当時の性の開放さというか、奔放さは相当なものだったのだと、そ
の時代を経験した一人として、改めて認識されられた。

・密教の秘密性、神秘性にこそ芸術の神秘性が重なるのだと思います。仏教を目指す究極
 の境地、至境は、いずれも密教なのだということは、私に不思議な勇気を与えてくれま
 した。
・1987年東北天台寺の荒寺の住職になった時点で戸籍名も寂聴となった。
・姦通というのは確かにとてもこわいことだったけど、とにかく姦通が提供するエロス調
 節だけはかけがえがない。
・裸になったときの女の体は、男の体よりきれいだし、欲求をそそると思う。でも女の与
 えてくれるオルガスムっていうのは、目もくらまないし、子どもじみている。
・男にいい寄られて断るのもしんどいものよ。相手を傷つけないよう断ろうと努力するの
 も神経使うし、精力が要るじゃない。だからつい、させてあげた方が楽だと思ってしま
 うのよ。あたしに拒否本能が欠如しているなんて怒る男がいたけど、間違っているわ。
・男はどんなに空威張りしていても、本質的には小さな迷子のようにいつでも心細がって
 いる弱い淋しい存在だというのが、彼女の数多い性経験の結論のようでした。
・私は芸術はすべてエロスの香りのないものは興味を惹かれないし、男が女よりずっと好
 きですし、セックスも嫌いじゃないけど、すべて人並、平均並で、残念ながら好色と呼
 ばれるほどの素質ではないと思います。もし私が天性好色で淫乱の気があれば、51歳
 で、ああすっぱり出家はできなかったでしょう。
・セックスをすると自分が限りなく優しくなれるし、そういう自分が好きで、私はその場
 に臨めば一心不乱に励んだとのですが、どうやら、相手のためというより自分のためだ
 ったのかもしれません。それもまた女の性のノーマルなタイプではないかと思います。
 男は女を歓ばせることで快楽を覚え、女は男に歓ばされることが快楽につながるでしょ
 う。 
・私の知人の中に、自分は名器だと自称する女性が2,3人いました。自分でそういうの
 が決まってインテリの女性なのはどういうことなのでしょう。一人は自分のそこは生ま
 れつき奇型で、中が二室になっているから小さくて締りがよくて名器なのだというんで
 す。その話を私は本人から三度聞かされました。たぶん、三度言ったことも忘れている
 のでしょう。彼女は夫は家を出て呑み屋の子持ちの未亡人と暮らしています。もうひと
 りの独身女性は自分は名器で、だから男たちが身の危険を感じて逃げていくというので
 す。さらにもうひとりの人妻は、性的に開放された人で、学者の夫以外の男たちと、実
 に自由に性を愉しみ、恋愛遊戯にふけっていました。
・男は女をものにしようとする時は、あらんかぎりのお世辞を言うし、望みが適うと、儀
 礼的にも、一応は相手の持ち物をボメるものではないでしょうか。それを真に受けて名
 器と自称するインテリ女くらい愚かに見えるのはないようです。
・女は長生きしてボケると、ほとんど色情狂になって昔の男の話をするそうです。
・天台寺のある人口六千たらずの浄法寺町というのは、ほんとに東北の田舎町で、はじめ
 て行ったときはびっくりしたものでした。でもあの一筋の町並みを通った時、思いがけ
 ない懐かしさがこみあげてきて、あやうく涙ぐみそうになったものです。せまい道幅は、
 舗装はできているものの、一軒一軒が互いにもたれ合い支え合うような家構えで、軒は
 低いのです。せまい道路をはさんで同じような家並みが連なり、ことら側から道の向こ
 うの家へ声が届くのです。どうかすると、店の奥の茶の間まで、こちら側から覗けます。
 所々に、もう朽ちかけ、無住になった家が半分崩れた屋根にペンペン草を生やしていた
 りして。私はタイムマシンで半世紀昔の徳島の町につれ去られ、歩いているような気分
 になったものです。
・小学三年頃から両親のとる雑誌を片っぱしから読んでいました。菊池寛の「第二の接吻」
 など読んでいたのです。接吻とか、貞操とか、抱擁という文字だけみても漠然としたエ
 ロティシズムを感じていました。私は小学六年の夏休みから女学校の一、二年頃にかけ
 て耽読だったと思います。その間に世界の性愛秘典籍や好色文学にもふれたように思い
 ます。私が希代の早熟なおませ少女のように誤解されそうですが、決して異常でも不自
 然でもないと思うのです。子供はどんな乱読をさせても、その為、品性を害されたり、
 正確が歪んだりすることは決してありません。漫画追放などといって、眉を逆立てる
 PTAのオバタリアンなどは、このことを知らないのだと思います。証拠に、私が十歳
 あまりから世界の淫書に読みふけったといっても、その名と作者だけを覚えていて、教
 育上悪害を残すような影響は何ひとつ受けていません。どうせ子供の性的智識ではいく
 ら繰り返し読んでも、経験不足から何のことやらさっぱり解らない部分が多いですから、
 その本によって淫猥な刺激を受けるというようなことはないのです。むしろ、不可思議
 な神秘的な性愛の世界があるとううことがぼんやりわかったことは、人間として生まれ
 たことへの好奇心と生きて大人になる未来への期待をはぐくんでくれたようにさえ思い
 ます。大人になって、そういう本を改めて読み直した時、わかっていなかったことはそ
 のままに、本能的に汲みとっていた性の世界や性愛の情緒的な面はほとんど正確に把握
 していたことに気づかされたものです。
・昭和4年から6年あたりの時代は一口に「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれる時だっ
 たそうです。昭和5年末には時の内閣の浜口首相が狙撃されたり、昭和6年には3月に
 なると軍部のクーデター未遂があり、6月には満州で中村大尉が殺され、柳条溝事件が
 続き、満州事変になだれこんでいくわけです。それから先は戦争一途の暗い時代に突っ
 走ってしまうわけで、庶民の生活も不安の暗雲がおおっていました。エロ・グロ・ナン
 センスというのも、当時のインテリゲンチャが、生活苦の逃避の場を求めたにすぎなか
 った。 
・ひとつだけ私の肥後ずいきの知識を教えてあげましょう。これが性具として用いられる
 だけじゃなくて、他にも利用価値のあったことです。熊本城には、昔タタミの下に一杯、
 肥後ずいきが敷きつめられていたのですって。防寒に役立ち、また防音にもなり、縁の
 下などにひそんだ隠密の耳に、座敷の声が伝わらず、スパイ防止の役目も果たしたんだ
 そうです。またずいきはれっきとした食用にもなるんです。
・肥後ずいきの原料はハスイモの茎の皮をむいて、乾燥させたものです。イモから浸出す
 る成分に、ヴァギナを刺激する何かの成分があるのだと思います。 
・現在まだ見るからに色欲旺盛の男女が話す猥談はナマナマしくていやらしい。特にこの
 頃の厚かましいオバタリアンの猥談は耳を覆いたくなります。若いムスメがアイスクリ
 ームをなめながら頭をつきあわせ目下つきあっている男の子のものの品定めをしている
 なんか、そのムスメが美人でチャーミングに見えるほど、がっくりさせられます。今の
 ムスメたちからオバタリアン族に至るまで欠如しているのが含羞の情だと思いませんか。
 含羞は今やむしろ男性のみに属性のような観さえします。すべては情報過多の悪影響だ
 と思います。あの劇画の春画以上のセックス場面の氾濫を見てごらんなさい。あれを電
 車の中でも新幹線の中でも、喫茶店でも平然と表情も変えず開いて堂々と見ているムス
 メ族を見ると、知性の程度を疑いたくなります。そんなムスメに限って頭のてっぺんか
 ら足の先までブランド品で身を固め、ブランドの御輿が歩いているようなのも漫画チッ
 クです。
・私は巨根というのにまったく魅力を感じません。口いっぱい物をほお張りすぎると味わ
 うことも無理なように、巨きすぎるものは嵩張るだけで味気ないだろうなと想像します。
 女の快感は伸縮自在な自身の絞めつけ運動を味わうことによって生じるのですから、そ
 れが不可能な口いっぱい状態から快感の生まれよう筈もなかろうと想像します。女の機
 能が優秀ならば、対象に添うため収縮運動は自ずから活発になるのではないかと、これ
 も想像します。なぜなら私は巨大にも矮小にも幸い不幸不幸かゆき当たったことがない
 からです。  
・人間には、自分の行為の原因など、本当は何ひとつ正確にはわかっていないのではない
 かしら。どこから来たのか、どこへ行くのかわからないまま、60年だか90年だかの
 生をこの世で過ごし、その間に四苦八苦に悩み、苦しみの万分の一にも当たらないささ
 やかな幸福や喜びを恵まれ、老いて病んで死んでゆく。その間に性に関わる時間がどの
 程度あるのか、人それぞれの体力、気質にもよるだろうけれど、豊潤な性的快楽を味わ
 える時間は、人の生涯のごく短い時間ではないでしょうか。夫婦の性生活など、情熱の
 伴うのはせいぜい2,3年というところでしょう。私のところへ相談ともつかず訪れて
 最後に切り出す人妻の問題は、夫から性の対象として扱われない妻の悩みです。愕くほ
 ど今の日本の家庭内での性生活は衰退しているようです。それもまあ、それぞれの資質
 によるのは当然で、こればかりは一概にはいえないけれど、私の得た感触では、夫も、
 そしてこの頃の妻も、本当の性の快楽は配偶者以外の相手から得ているのが70パーセ
 ント(85パーセントといいたいところだけれど一応ひかえめに)くらいではないかと
 思われます。夫の貞操とか妻の貞操とか、娘の貞操などという言葉はもはや死語になっ
 ています。
・高校二年の夏休みに初体験をする女の子が多いといいます。これは世の親族だけが知ら
 ないとか認めたがらないことですし、夫以外の男と性体験をしている人妻は、夫族が想
 像している以上に多いということを私は信じています。不倫という流行語は手垢がつき
 すぎ、そこからは何の緊張感も覚えなくなりましたが、私の娘時代には貞操とか操とか
 いう文字から、ある種の緊張感を覚え、それが性的刺戟にまで感覚的につながっていた
 ように思います。
・今はセックス情報が過剰すぎて、人はたいていのことでは愕かなくなっているし、無感
 動です。戦後最も変革を遂げたものは性に対する認識でしょう。性が解放されたという
 言葉が無造作に使われていますが、今の性の自由さは開放などという高尚なことではな
 く要するに乱雑に投げ出されたということではないですか。
・この頃クラブ(遊客の枕席にはべる女性を派遣する組織)に一時だけやって来る素人の
 令嬢が多いといいます。彼女たちは一流大学の学生で、美貌で智的な容貌をしていて、
 身につけているものはすべてブランド品だそうです。普通のクラブの常連の女より二倍
 も三倍もの金額を要求するのを客は大喜びで支払うといいます。買われること、決して
 おざなりではなく、濃やかな情のこもったサービスをし、自分も愉しみ金を受け取ると
 さっさと消えてゆき、二度とあらわれないというのです。外国旅行にゆくお金だけを手
 っ取り早く稼ぎにくる手合いだそうです。クラブのママが話してくれたホントの話です
 から、今やこういう末世の相になっているのでしょう。
・青少年への性教育をすべきだなどPTAで目を吊り上げる母親たちは、子供たちの性生
 活の片鱗すら想像できていないと思われます。
・社会主義の国も自由主義の国も、どう取り締まっても決してなくならない売春は、買う
 男がいるからとだけの単純なものではないですよね。国が貧しければ生活苦のため手っ
 取り早い収入の方法だし、富めば富んだで快楽追求から益々栄えるというものなのでし
 ょう。
・何の医学的根拠もないけれど、私は自分が剃髪して以来、どうも髪の毛と性欲は密接な
 因果関係があるのではないかと思われてなりません。禿げの人が男性ホルモンが強くて
 助平だなどという通説がありますがあれは根拠もない俗説ではないでしょうか。私の周
 囲を見廻してもほんとに好色な男は禿げより白髪になるようです。好色というのはただ
 もう精力が強いというだけではなく、性愛の情緒も愉しめる、性愛のまわりのことすべ
 てが好きな人間で、性交だけを目的のすべてとはしない人種のことです。毛髪を断つこ
 とはこの性交だけにかぎった精力をそぎ落とす、までもなく少なくとも退化させる力が
 あるように思います。
・私の超元気は、性交を断ったという点にあるかもしれません。接して洩らさずというの
 は、男子ばかりに当てはまるのではないかもしれないと思います。女は接して洩らさな
 いわけにはいかないので、性を断てば、自然、エネルギーは蓄積される一方になり、普
 通より元気になるのでしょう。
・祇園の女将の統計によれば、お客が不能になるのは平均68歳だといいます。女の閉経
 と男の不能とでは男の方がはるかに深刻でしょう。男が女より哲学的なのはそこに原点
 があるのではないでしょうか。しかも男はその排泄器官だけになった分身を、まざまざ、
 日に何度も目撃しなければならないですから。やっぱり来世も女に生まれ変わりたいも
 のです。光源氏は51,2歳で出家しています。あの頃の年齢感覚では今の私たちの年
 齢に20歳加算したくらいですから、今なら70歳過ぎでしょう。もしかしたら、不能
 になってやってと、出家の決心がついたのかも。
・天台寺の方はさすがに紅葉がきれいでした。八戸までハイウェイが開通して、天台寺の
 入口にインターチェンジができたので、またまた参詣人が多くなりました。ハイウェイ
 から見る東北の山々は落葉松の林が多く、その形のいい樹々が金色に紅葉してどこまで
 もうねりつづいているのが壮観でした。はぜや、漆が、落葉松の金色と常緑樹の緑の間
 に真赤にところどころ火をたいているように燃えているのも鮮やかです。
・盛岡から、さんさ踊りの一行が踊りを奉納に来てくれ、小学一年の女の子から八十近い
 お婆ちゃんまで、太鼓を叩きながら賑やかに踊ってくれ大受けに受けました。先月は二
 戸大作太鼓が来てくれるし、このところ、天台寺は、東北の郷土芸能発表の舞台になり
 はじめています。  
・性の問題は個人差が大きくわかりにくい点が多いのですが、ただ一カ所だけ男性老人を
 代表して反論申し上げたいところがあります。男の性は精液の放出を以って一応完了す
 るのは原則ですが、老人になると、適当に相手を愛撫して放出前に中止しても十分なる
 満足が得られるのです。小生は現在満八十一歳半ですが、ほとんど二、三日に一度位は
 挿入して快楽を得ています。放出はしませんが十分なる快楽が得られるのです。女房
 (七十四歳)は、一週間に一度は必ず頂点に達しています。小生の性器は若い時より
 少々短くなったようです。若い時は根元まで挿入すれば、亀頭が子宮の入口の硬い部分
 に触れて快感があったのですが、今は届かないようです。太さはむしろ年と共に大きく
 なったように思います。トイレのロールペーパーの芯の太さをやや上廻るくらいです。
 硬度は変わりません(女房証言)。粘液は摩擦に必要な程は十分に出ます。女房の性器
 は昔とまったく変わりません。二人出産していますが、今なお瑞々しく挿入と口唇と指
 頭の愛撫により大体四十分くらいで頂点に達します。小生もその時間で放出したと同程
 度の快い疲労を覚え、十二分の満足感が得られます。二、三日まじわらぬ時はトイレな
 どでひとり愛撫してやりますが放出はしません。それだけでも実の愉しいのです。老人
 のセックスの姿は醜悪の極みには異論がありませんが、人に見せるものではないし。
・私はどうも女にとって性器というのは自分でも確かめられない構造で、体内にかくされ
 ているところにその理由があると思います。オナニーといったって、男性の方がずっと
 直接的で物理的に結果があらわれれるのい対し、女の方はいとも曖昧な点があります。
 中の構造がいいも悪いも、相手の賞賛の言葉を俟つしかないのですから不便この上あり
 ません。相手がやさしく思いやりのある男だったら、決して真実はいわないでしょう。
 深いか浅いか、小さいか大きいか、しまっているかかゆいかさえも、本人ははっきりわ
 からないという点で、もしかしたら、フェミニストの神様の恩寵かもしれません。女の
 哲学者が少ないのは、性器の構造にあると思うし、レズビアンの小説が甘ったるくなる
 のもそのせいのように思います。
・仏教では邪淫をとがめていますが、えらい坊さんが稚児僧を可愛がった話は昔からいっ
 ぱいあります。お釈迦さまは、出家者にセックスをするなと教えられていますが、まっ
 たく、性を知らない人は、どこか偏っていて、偏屈なところがあります。お釈迦さま自
 身はさんざん、女と戯れたあげくの出家ですから、あんなものつまらんといえますが、
 全然知らない人間に味わせないでつまらんというのはどうでしょうか。やはり、一応は
 知らしめてから、その虚しさを説いた方が解りやすいし、その上で、虚しいと感じた人
 間だけが出家したら、もっと仏教界は清浄になるのではないかと思います。
・妻に死なれた夫の前途は哀れで、夫と死別した妻の前途は明るいという傾向が一般論と
 していえるようだ。事実、夫と死別した65歳以上の女性のうち、98%が元気で、そ
 の48%が30年以上も前に夫を失っていたという統計が最近出た。これは私のまわり
 に集まる女性たちを見ても証明されます。毎月寂庵や天台寺に法話や写経に来る人々の
 99パーセントが女性で、その中の未亡人たちは信じられないくらいみんな元気です。
 一緒に巡礼に出ても、夫をなくした人はみんなほがらかで元気です。妻に先立たれた夫
 はほんとにしょぼくれてしおれきっています。陽気な未亡人たちに、もっとしっかりせ
 いと背中をどやされています。
・どのおばあちゃんも精力があり余っているから、巡礼に出たり、グルメの旅に出たり。
 七十すぎたおばあちゃんでも、色恋で悩んでいる人いっぱいいます。
・どうやって男をものにするかと訊いたら「そんなの造作ないわ。うちに誘って、お風呂
 に入れて、後から私がが入っていくの。それで失敗した例はないわ」というものです。
 よくよくお堅いか臆病で風呂場でうまくいかなくても、風呂から上って小さな茶室でひ
 とつ寝床に入って鰻を食べれば必ず落ちるというのです。 
・天台寺のあるこの地方では産婆のことをコナサセバサマといいます。子成せ婆さまとい
 う意味でしょう。当時は産婆はみんな堕ろしやも兼ねていたものです。別に子安さまを
 祭ったちいさな神殿も見せてくれました。家の神棚にあげておくもので、中には子安さ
 まと呼んでいる子供の人形のような神さまがおさまっています。その神殿が産婆の家に
 あって、赤ん坊を無事生んだ母親が小さな帽子を毛糸で編んだり、着物を縫ったりして
 奉納してあるです。医者が少なかった時、コナセバサマの力にしか頼れなかった妊婦の
 心細さが、その奉納品ににじみ出ています。
・貧困だった東北の僻村では、子供は産みたくても育てる力がなかったことでしょう。間
 引きは労働量の過重な貧しい主婦にとってはどうしても必要な処置だったのでしょう。
 ほおずきの枝を自分の子宮にさしこみ、子を堕ろすということが当たり前のように行わ
 れていました。産んでしまった子供の顔に濡れ紙を押しあて窒息死させるのも産婆の役
 だったこともあるでしょう。自分で処置出来ず、妊婦はコナセバサマにまませて堕ろし
 てもらうことが安心だったと思います。コナセバサマの小さな柳行李の中には必ず数珠
 が入っていました。それは安産を祈る時に使われるというより、殺した子の冥福を祈る
 ための数珠だったのかもしれません。
・暗い寒い東北の長い冬、何の快楽もない生活の中では、子供を産むなといっても、生ま
 れてしまう状態がつづいたのでしょう。この地方は夜這いの習慣が戦前までは残ってい
 たといいます。どこにいっても、人間がうちとけるのは性の話をすればいいようです。
 夜這いの話を訊くと、顔がほころび、すっと口が軽くなって、うちとけてくれます。
 「夜這いはよう、習慣だもんな、何も悪いことするわけじゃなかべ、娘っこもはあ、
 ちゃんと雨戸をあけて待っとるなっす。親も見て見ぬふりしてくれるわけだんべ」
 戦争に征く前、爺さまは今も連れそっている婆さまお村小町のところへ夜這いに行って、
 婆さまと一緒になる夢を抱きしめて命を大切にして無事帰ったというのでした。もちろ
 ん、今はすっかり近代化してそんな習慣はないし、着るものも食べるものも東京とほと
 んど変わりません。いつまでここののどかな田園が守られていくのかわからないけれど、
 変革を好まない町民の性格は、現状が変わるより、今のままで結構幸せと思って満足し
 ている様子です。
・30年ほど前に、婦人雑誌に頼まれて、向島のバースコントロールのモデル地区という
 ところへ行ったことがありました。寺島町のあたりだったと思います。その頃、そのあ
 たりが、そういうモデル地区に東京都から指定されていたのです。そのあたりは肉体労
 働者がほとんどの町で、小さな長屋がつづいているような地区でした。案内役のその地
 区の30代の若い助産婦さんは「何しろ、ここの人たちは他に愉しみがありませんので
 ね、夜になると本や新聞読むわけじゃないし、もうすることといえばあれだけなんです。
 貧乏人の子沢山とはよくいったものでぶつぶつ子供ばっかり増えるでしょ、ここをモデ
 ル地区に選んだお役人は上出来ですよ。避妊具と避妊薬は、政府で無料でいくらでもく
 れます。私はその使い方の指導に雇われた公務員です。スキンとペッサリーの使い方の
 講習会をほとんど毎晩のように集まりをつくって開いているんです。」その助産婦さん
 は、ちょうどウイッグの箱のような手さげ型の箱をとりだし、私の目の前でぱっと開き
 ました。桃が真っ二つに割れるように左右に開いた箱の中には、ゴムでできた女の下半
 身、つまりあの部分の精巧な模型がおさまっています。後ろはもちろん、むっちりした
 お尻の山、前はヘアまで植えつけたそのままリアリズムの模型です。大陰唇、小陰唇、
 膣までついていて、奥には子宮まであるというものです。色は若い娘のそれのように、
 ピンクがかった肌色でした。助産婦はそこでペッサリーを取り出し、それを二つに折っ
 て膣に挿入し、中におさめてにっこりしました。「ペッサリーがスキンよりずっと確率
 がいいんです。この裏側に、ゼリーをたっぷり塗りつけますからね。二重防御ですよ。
 これは女が自分でするより、男に入れさせる方が間違いなく効果的です。子宮口にかぶ
 せるのにコツがいりますから」
・その後た大変だったんです。その地区の公立の病院に行き、私たちは白い手術着を着て、
 掻爬の手術に立ちあいました。タイルの手術台にのせられていた患者は見るから生活に
 疲れ果てたという感じのやせた色艶の悪い女で、膿盆に掻き出される血みどろの肉塊や
 肉片を見て、私は気分が悪くなり嘔吐がつきあげてきました。その時のショックはなか
 なか消えませんでした。すりきれた薄い陰毛、肉からむき出されたどす黒いやせた性器、
 その黒い暗い割れ目、そこから掻き出される肉片の数々、タイルにしたたり流れる血汐
 の赤さ。女の悲鳴。たぶん、そのあたりで暮らしている娼婦のひとりなのでしょう。も
 う若くもない女の辛い生活が思いやられ、仕事のためとはいえ、そんなものを見てしま
 った後悔に胸をふさがれ、私は当分、肉食ができませんでした。私と行った編集者は、
 半年間ほど完全なインポテンツになったと言っていました。
・役所ではその後、更に、手術の映画を見せられたのです。これは性教育のため、政府で
 つくった記録映画だということでした。モデルはあのタイルの手術台のやせこけた女と
 はちがい、豊満で瑞々しい二十代はじめと思われる若い肉体の持ち主でした。画面いっ
 ぱいにひろがる女の股はピンク色ではりきり、陰毛は猛々しく密生し、つややかに濡れ
 ています。さけ目の奥は思わず目を見はるほどの鮮やかな肉色で、それは同性でも、た
 め息が出るほど美しいものでした。自分の性器をはっきり見たことのない私は、タイル
 台の女のそれを見て、自分もそうなのかと暗澹としていたのに、その若い瑞々しい美し
 い性器の大写しを目に中いっぱいにして、っても自分はこんなきれいなものは持ってい
 ないだろうなと思ったものです。手術の場面が克明に映しだされました。病院で、部屋
 の隅から恐る恐る医者の肩ごしに覗いたのとはちがい、映写では、まるで自分が執刀者
 のような位置で見るのですから、迫真力は衝撃的です。三ヵ月の胎児が、そのままの形
 で掻き出された時の怖ろしさは何十年たった今でも忘れられません。女の苦悶の表情は、
 性の極りの歓喜の表情と重なり合うものでした。苦痛と甘美は快楽が同じ表情だという
 ことは劫罰か恩寵か私にはわかりません。
・性愛とは何なのでしょう。釈尊が、渇愛を捨てろといいつづけた意味の深さがぼんやり
 わかるような気がします。私は今も性愛を賛美し、それに溺れる人々にも同情できます。
 もしまた今の私でも好きでたまらないといってくれる男があらわれるなら、やっぱり嬉
 しくて、動悸がするでしょう。かといって、性愛に励む自分の姿を想像すると、心が萎
 えるのです。
・性愛もまた、私はどうしても美意識をぬきにしては考えられません。美しい男の肉体、
 若い力のみなぎった男の性器、それはこの世で女の目にとっては最も美しいものでしょ
 う。    
・老人同士の性愛も賛美したいのですが、活力を失った男と女の肉体がからみあう形を思
 い描くだけで悲しくなってしまうのです。
・最後に、私は老人同士の性愛を美しいと思えるようになりました。人生の幾山河を共に
 渡った老夫婦が、高いの肉体で相手をあたためようといたわりつつ抱き合って眠る姿は、
 私の想像の中では、洗いぬかれ、流され、さらされた角のとれた美しい石が河原で並び、
 陽を浴びているような美しさとすがすがしさを感じます。
・つい先日、五十七歳の美しい未亡人が来て、十五年空閨だけれど、亡夫以上に惹かれる
 男が現れない、一カ月に一度、手を洗って風呂場でオナニーをしていると話した時も、
 それもまたよしと思いました。人間は一人一人ちがいます。どんな形の性愛があっても
 いいのではないかと私は思うのです。
・女の四十代こそは人生の花盛りだと私は思っています。十代や二十代の女を男はいくつ
 になっても欲しがるようですが、十代や二十代の女の性なんて、場末の洋食屋のデザー
 トか、肉の少ないカレーライスくらいのもので、味もそっ気もないが、ただ飢餓感が一
 時なだめられるという程度じゃないですか。女の性の味は、自分の舌が肥えるのもまさ
 に四十代、食べられて美味しくなるのも四十代と断言していいと思います。ところが今
 の日本では四十代の主婦がほとんど亭主に寝てもらえないという奇なる社会現象が起こ
 っているようです。ほんとに夫族は家の中に宝の持ち腐れということになります。ほっ
 ておかれた妻が外へ出て不倫をしたって亭主に文句はいえないと思います。
・あんまり浮気な女は性的不感症やないかと思うって。どうせこの世に生まれたからには、
 人並みな性の快楽は味わわなければ損だと思うものの、現在の私の心境としては、人生
 に於いて、性の占める位置は、あんまり人が重要視しているほどではないと思うのです。
 生涯独身だって、一度も性の敬虔がなくったって、人間としての値打ちにそうひびかな
 いと思いますよ。
・男も、女も、性だけで、家を捨てるようなことはまあないと思います。恋愛などという
 のは、わけのわからない病気で、かかれば早めの治療をすればわけもなく治るものだと
 思います。堰かれるから燃えるのが恋というもので、不倫の魅力は、いささかそれが正
 当でないからなのです。罪の意識の薬味というのが不倫の関係には欠くべからざるもの
 なのでしょう。