海を感じる時 :中沢けい

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この作品は、今から45年前の1978年に刊行されたものだ。この作品の著者は当時は
まだ18歳の大学1年生で、18歳が書いた小説ということで世間に衝撃を与えた。
2014年には映画化されている。
内容は、当時の高校生の愛と性を描いたものだ。まだ恋に憧れる年頃の女子高生が突然、
先輩から「キスをしてみようか」と言われ口づけしたのがきっかけに、やがて性交渉を持
つようになるまでに発展する。女子高生は体の関係だけでなく精神面でもその先輩と本当
の恋人同士になりたいのだが、その先輩の方は、とくにその女子高生を好きだったわけで
はなく、ただ単に性に対する好奇心から性交渉を持っただけだった。
その先輩は、好きでもないのに性行為をしてしまったことに後になって罪悪感を持ち、そ
の女子高生を避けるようになるのだが、女子高生の方は恋人関係になりたいと必死に先輩
を追いかける。そんな二人なのだが、逢えば男のほうは自分の性欲に負けてまた性交渉を
持ってしまう。女子高生は、先輩の子供を産むことを夢見る。逃げる男と追いかける女。
そして、自分の娘が知らないうちに性経験を持っていたという事実を知って半狂乱になる
女子高生の母親。なんだか現実にもありそうな気がする内容だ。
この作品を読むと、自分の高校生時代を懐かしく思い出したのだが、当時の女子高生の性
意識は、すでにこんなふうだったのかと驚かされた。それに引き替え自分が高校生だった
頃は、まるで子供だったなあと思ってしまった。やはり女のほうが圧倒的に早熟であり現
実的であり大人なのだと、改めて思い知らさせた作品だった。


・「海を見に行こう」食事をすませ、しばらく煙草を吸ったままおし黙っていた洋が、突
 然提案した。
・二人分の食事代を洋が支払う。
 習慣化してしまった今では、私もそれがあたりまえのような顔をして、洋の後ろに立っ
 ている。が、以前は、コーヒー代や食事代の支払いを洋が持つことに抵抗を感じていた。
 それはまるで、食事や寝床のために身体を提供する女たちのように自分が感じられたか
 らだ。
 逆に洋は、支払うことに義務を感じていた。「男だから」と彼はいう。
 「妊娠にしろ、その他のことにしろ女は不利だから」と彼はいう。
・私はまだ高校生で、洋は社会人であり十分に給料ももらっていることや、いつのまにか
 できあがった雰囲気で、それは二人の習慣になってしまった。
・大房岬のつけねあたり、ひときわ緑の色濃い部分に白い火の見が見えた。あの下あたり
 が私の家のはずだ。  
・母がときどき和服を仕立てる手を休めて「なんのために生きているんだか・・・」とつ
 ぶやいている、あの声を聞いたような気がした。高野洋との関係が露見してから、母は
 そうつぶやく。
・私が、洋と、いや男と肉体的な関係を持つことは、母の生命の意味までも失わせてしま
 うものなのだろか。私には、母があれほど狂乱したほんとうの理由がわからなかった。
 母の気持ちがわからないのは、彼女が言うように私がみだらで、くだらない女だからな
 のだろうか。ほんとうのことを言うと、今はそれを考えるのも疲れ果ててしまっていた。
・「キスしたい」
 寝ている洋の上に顔をつきだす。そう言っただけで胸がどきどきしている。
 「だめ」
 洋の答えはわかっていた。
 「だれも見てないよ」
 「あんたを、そんな風に見たくないんだ。俺ね、あんたのことを少し前と変わった感じ
 でみてるんだよ」 
 「今は、あんたと俺と理解し合える。でもどうにもならないな。結婚もできないだろう
 し、してもうまくいかない。わかりきっているよ」
 

・私の十六の秋は、不満に満ちていた。それが二年前の私だ。
 その季節になると決まって、ひとつの思い出にとらわれる。
・静かな気配が十二の年の私の背中へ近づく。ふりむくと母が立っていた。
 ただ、母を見上げ、放心したように立っている異常な、一種の妖気にたじろいだちょう
 どその時、母に縁先から蹴落とされ、驚きと事態の思いがけなさにふるえる私の上に、
 「父親によくいた顔をしているあんたを育てていくのよ。にくったらしいいったらあり
 ゃしないんだから」と半ば怒声に近い、きんきんした声と共に、父の位牌が投げつけら
 れた。 
・あれは、おそらく父の四十九日の出来事なのだろう。父と母が築き上げた財産が、なん
 のことわりもなく、祖母の甥が養子となったためトビに油揚がさらわれるように、母か
 ら取り上げられた。
 後妻であった祖母が、家族との血のつながりのない不安からか、ヒステリックに、母と
 その子である私をいじめたのは、よく覚えている。そのためか、私には年老いている者
 への好感はもてない。
・母の気持ちはわからないではなかった。むしろ、祖母の意地の悪さを思うと、痛いくら
 いわかったのだが、どこか冷やかな母の態度に触れる度に、あの時の風景が心に映写さ
 れた。
・母が私に十分愛情を持っているのはよくわかっていた。生活の様々な場面で、私を助け
 救ってくれた。
 いつだったか、近所の中年の婦人から、「女のくせに高校だの、大学だのに行くなどと
 いわずにお母さんを楽にさせてあげなさい。女が勉強してどうするの。あんたは頭がい
 いんだから、お母さんのことを考えておやり」と論され、
 「父親もいないのに、大学へ行こうなんて思わないのよ」と言われたくやしさに、半ば
 ベソをかいて帰ると、
 「お母さんだってやりたかったことがあるの。でもね、女だからっていわれた。だから、
 あんたには、その分思ったことをやってもらいたいの。他人なんか、なんの責任もない
 し、勝手なことを言うんだから」
 そういった母の顔をみて、こみ上げるものに声を出して泣き出してしまった。
・母は理智的な人間であった。いや、そうありすぎたのかもしれない。私は母の理智を信
 頼し、そして同時に嫌悪した。動物が体と体をすり合わせるような、体温と体温の結び
 つき、ケダモノ的な愛情に飢えていた。
・「無気力、無関心、無責任、無感動なんていうけれど、気力がないだけなんだ。感動す
 る気力も、責任を持つ気力もない。そんなに気を張ったって、だるいだけなんだ」
 「自分の意見なんて、どうだっていいんだよ。言ったところで、どうなるものじゃない
 し、人と争うだけつまらないよ。まあ黙っていれば、人と同じにやれば、平和じゃない
 か」  
 すべては沈滞し、退廃さえしない、羊より従順に授業を受け、惰性だけが毎日の原動力
 だった。
・自分はもうすぐ十六になる。それなのに、ますます自分の中で血の流れがおそくなる。
 教室へ出ることは少なくなっていく。図書室で本を読んだり、新聞部の部室で古い記事
 を読むことで時を過ごすことが多くなる。
 

・高野さんは二級上である。彼も大学を受けるのだろう。旧制中学から高校になり、卒業
 生の中から県知事がでて、そして九十パーセントの進学率がある。それがこのA高だ。
・「ねえ」と声をかけられて、高野さんが前に立っていることに気づいた。一瞬、ポカン
 とした私の両手をとらえて、ふるえた声で、「立って」と言う。
 ポカンとしたまま立ち上がると、
 「何もしないよ。口づけだけ」
 「冗談でしょ」
 「いや、本気だよ」
・掌から高野さんの体温が伝わってきた。少し視線を上げるとしわのない唇が、かたく結
 ばれている。  
 足もとから力が抜けていった。崩れ込むように高野さんの胸もとへ顔をうずけた。
 さがった前髪を、そっとかきあげてくれ、唇が合された。案外に唇はつめたかった。
 おそるおそる、舌が忍び込んできたかと思うと、歯の隙間をなめて出ていった。
 「初めて」
 「うん」
 「俺もだ」

・「高野さん、私ね、前から・・・」
 しかし、それはかすれた小さな声であった。
 「前から好きだったんです」
・口の中で苦味を感じた。後ろめたさの味かもしれない。口の中の苦味をかみしめながら、
 高野さんでなくとも、口づけをしたのであろう自分を認識した。
 口づけは、私を空虚な倦怠感から脱出させるために十分な出来事だ。
 だれかが私を抱きしめ、肌と肌を触れ合わせ暖め合うことを欲していた。
 つまり、高野さんに、わざわざ「好きだ」と告白しなければならないほど、「好き」な
 わけではない。
 その告白の必要性はただ私が、世間一般の常識からそうしたにすぎない。告白によって、
 ある程度、成人の非難から逃れられることを私はよく知っていた。
・「僕はね、君じゃなくともよかったんだ」
 私はうつむいたまま、言葉を選んで返事をしなければならないと考えたが、適当なもの
 は何も見つからなかった・
 「正直なのね」と、高野さんを見た。
 
・「とっても、不良になったみたいな気分よ」
 「そうかな」
 「君、一年生だものね。戸村なんかも、二年の時のことだけれど、あるんだって。あい
 つはモテるから仕方がないとしても、青木でさえ、キスをしたことがあるって言ってた。
 俺はなかったんだ」
 

・「さっきの話ね、こんなことを続けると、俺はよくても、君はダメになっちまうよ」
 「でも、あなたが私に求めるものって、身体しかないんでしょ。それ以外は何んの興味
 もないし、好きな女の子の感じじゃないって・・・」
 「だけど、僕のことが、ほんとうに好きだったら、もうよした方がいい。ますます、気
 持ちが離れていっちゃうよ」
「でも、いつも求めるの、あなたの方なのよ。最初のときもね」
「だから、こんなことの相手はやめるんだ」
「あなたの気持ちの中には鈴谷さんしかいないんでしょう」
・「じゃあ、脱げよ」
 「いつもみたいに、遊ばせてもらうから、脱ぎなよ。あんた、それでいいんだろう」
 「着ているものを脱ぎな」
・空気がピリピリふるえていた。私はまばたきをするのも忘れて、高野を見ていた。
 性への欲求があるときは、いつも目を細める。そんな目をしないでほしい。舌も唇もこ
 わばってしまう。 
・ぎごちなく、上着をとる。
 「ワイシャツもだよ」
 投げやりでいて、どこか寂しげな声だった。
 シャツのボタンを、丁寧にはずす。胸もとによどんでいた、暖かい空気がポッと逃げ出
 して、つめたい空気にふれ、どきりとする。  
・「寒い」
 小さな声でつぶやき、シャツは脱ぎ捨てずに、両腕をそっと組む。
 「なんで、拒まないんだよ」
 荒っぽい声と怒ったような目で高野が肩をつかんで、ゆすった。
 「俺ね、どうしても、あんたを大切にしてやれないんだよ。あんたに手が出ちゃうんだ」
 スリップのひも、それに続いてブラジャーのひもが肩からおち、あらわになった乳房に、
 高野が唇をつける。鼻先で夏ミカンのような香りがした。
・理由もわからず涙があふれてきた。ただ、ボンヤリとみひらいた目から、流れていく。
 「なんで泣くの」
 気づいた高野のそれは、問いかけというよりつぶやきだった。
 スリップのひもを肩に戻し、ワイシャツのボダンをかけ、上着を肩にかけてくれる高野
 の胸の中へ、声をあげて泣きふした。
 高野は、とまどった表情で、私を泣くままに、胸の中へかかえていた。
・「抱いてください」
 私は高野に向かって、りんとした声でいいきった。
 「ここに退部の届があります。来週から部はやめます。だから、今日、抱いてください」
・いつも、無表情に沈黙してしまう高野が、今日はよりいっそうかたい沈黙を守った。彼
 の中で、釈然としないものの量が増えれば増えるほど、表情はなくなる。彼は迷ってい
 た。
・「あんた、いつだった」
 意外な問いかけに、少し意味がわからず、きょとんとした。
 「あれだよ」
 「十月十五日」
 「ふうん、あぶないのかなあ」
 「あぶなくないわ」
 「どうして」
 「あたし、底氏周期が長いから、もう二、三日したら、今月のになるわ」
 「あの前はあぶないんじゃないの」
 「次の予定の十九日から十二日前がいけないのよ」
 「俺、関係ないなんて思ってたから、保健の授業なんて忘れちゃってたよ」
 「確かだと思うわ。昨日、教科書を見直しておいたから」
・実を言えば、こんな事態は予想してあった。
 まず、自分の身体を守るため、そしてもうひとつには、好奇心があった。
 「あたし、あなたが欲しいと思うなら、それでいいんです。少しでもあたしを必要とし
 てくれるなら身体でも」 
・自分が、だんだん恋愛劇のヒロインになることに、前のめりに酔っていく。
 また、酔うことで、何かしら、今風の軽薄さを身につけずに済む気がした。
・「やっぱり、帰れよ。俺は四時の電車で帰るよ」
 「いや」
 「どうしてもか」
 「ええ」
・高野は深いため息をついて「俺、だめだからなあ」と口の中で言い、カバンを置いて、
 長イスのはしを、指さし、「そっちを持ちなよ」と言った。
 私と高野で二つの長イスを合わせた。
 

・男勝りを半ば誇りにしてきたはずの自分が、ふと気がそぞろになった時、高野にマフラ
 ーを編んでやりたいとか、できることなら、朝夕共にして身の周りの細々としたことを
 したいとか、そんな生活を夢想した。
 いったい、自分のどこに、そんな人間がひそんでいたのかわからなかった。
・以前観た、安物の映画で女は処女を失うと、そうなると誰か言っていた。
 しかし、そんな単純なことではないのだ。 
・私は自分の感覚に焦りを覚えた。自分の仕事を「子供を育てる賃仕事、バカのやること」
 という母を見ていると、どうしても、胸をはって私は仕事をしていますと言える職業に
 つきたい。その希望は少しも変色していないのに、同時に専業的主婦になりたかった。
 私は、協力的で理解がある男性を夫にするつもりだった。けれども、高野の姿の前では、
 その考えは無意味な建て前にすぎなかった。
・毎日、廊下で部室に出入りする高野をながめた。高野の子供を産みたい。そして育てた
 い。子供は愛情をそそげば、きっと自分を愛してくれると思った。
 高野にそそぐべき愛情が心によどみ、行き場を失っていた。
・子供を育ててみたい。私も母のように子供に暖かさを感じさせないのだろうか。
 人間くささは母親になると消えてしまうのか。高野はひどく人間くさい。人が生きる時
 には、他の生物を食べ、排泄する。生きることは、ほの暗い後ろめたさを、人々と共有
 することではないのか。
 高野は性欲をおさえられず、私は自分かわいさにウソをついた。だからうまくいくので
 はないか。  
・私には、母のことが、他の親子よりもよくわかっていた。が、それでいて母の弱味を見
 せない堅い防備が疎ましかった。
 高野のように、弱々しく、自分を律しきれない人間が私には似合っている。高野の心の
 中は、きわめてやわらかなのだろう。繊細な感受性は、母に無いもの、あるいは表には
 現れないものだ。それが高野にはある。
・子供を産んでみたい。母のような強さも、高野のようなやわらかな感受性も、持ち合わ
 せたような、ふくよかな肉のかたまりを所有したかった。
 それが私を生々とさせ、高野に対して流しこめない、母には形式的に拒まれた、自分の
 愛情を受け入れてくれる。 
・母が私がいるから生きているのだろうか。新しい疑問詞だった。
・私の生理は、もう十日以上おくれていた。


・初潮は中学二年生の夏だった。私はいとも簡単にそれを迎えた。
 小学校五年の四月に、保健教員からスライドを見せられて、その事実を知った。
 だからといって、それはあまり正確な教育ではなかったように思える。手当ての仕方は
 習ったが、たぶんその血は尿道からあるのだろうと考えていた。
 子宮があることが繰り返されたが、子宮と外界がどうつながっているのかは説明された
 なかった。
・中学の二年ともなると、体育を月に一度、休まないのは大きな不名誉だった。
 私は図書委員であったことから、性教育書をかなりの数読むことができた。
 それによると体毛の発生から三ヵ月くらいで初潮を迎えることになるらしい。小さな陰
 毛を発見してから、息を凝らすようにして待つ。体育は月に一度、忘れずに休み、一人
 前の陽なたぼっこの一員に加わっていた。
・朝からの腰の痛みを、泳ぎすぎたのだろうと考えて、一日、本を読んで過ごした。蒲団
 の上でえいっと足を天井へ向け自転車こぎの体操をする。腰が痛いときは、これで腰を
 伸ばすのが一番よかった。
 つるりと股間に流れた異変を「もしや」と思うまで、それほど時間はかからなかった。
 シーツの上に日の丸みたいに鮮やかなシミがついていた。来るものが来たな、そんな感
 じで、坦々としている自分がやや意外だった。 

・「あなた、おとうさんよ」
 「何」
 「ないの」
 「ほんとうか」
 「うん」
 「俺ね、それウソじゃないかと思う」
 「ほんとに何ンにも無いのよ」
・次の瞬間思いがけない言葉に、その真意をはかりかねた。
 「じゃあ、金を出すだけだよ」
 子供を産む費用ではない。それははっきりとわかった。私は、何かを考えることができ
 なかった。 
・雨が降り出した。
 「ふけよ」
 ハンカチをポケットから出して突き出す。そのハンカチも濡れていた。
 ハンカチで髪のしずくをとり、両手をほおに当てると、ぬくもりが掌いっぱいになる。
 もっと柔らかい、湯気がほかほかたつような赤ん坊だったら、この掌だけでなく腕の中
 も胸の中も暖かくなりだろうに。高野に面立ちの似た男の子が欲しい。
・クシャクシャになったスカートの中で、すっと小さな蛇が逃げ出した。岩の割れ目から
 今を待っていたように、鋭く体をくねらせ、出てきた。あっ、声が漏れたかもしれない。
 二匹目が逃げ出してきた。小さな赤い蛇が水晶のような目で、静かに見つめている。
 スカートの下にそっと指を忍びこませてみる。赤茶色の血が指先で、生臭いにおいを発
 していた。 


・高野は、今日も私を故意にさけたらしい。三年登校日だというのに彼の姿はどこにもな
 かった。一月下旬から、三年自宅学習期間に入ってしまい、高野の姿を半月も見ていな
 い。
・「俺ね、中沢に言いたかったんだ」
 「何を」
 「中学ン時から、お前のこといいなあって思ってたよ。十万馬力なんてニックネームで
 さ。こう子供でも産んだら、すげえカアチャンになるんじゃないかってね」
 「ひどいこと、言うのね。だれですか、嫁のもらいてないジャジャ馬だって言ったのは」
 「あのな、お前のこと好きなんだよ。でもな、お前の方が馬力があって」
 「それで」
 「もう会わない、苦しくなるから声もかけてほしくない。済まん、俺から誘っておいて
 悪いと思っている」
・なんで、キスしようなんて言ったのだろう。なんだか急にしてみたくなった。今日も高
 野に会えなかったからかもしれない。
 「本気かよ」
 「キスだけよ」
 「いいのかよ」
 「あんた初めて」
 「うん」
 「ウソツキね」
・両手をポケットに入れて、鼻水をすすりあげてから唇をちょっと突き出して目をつむる。
 川名くんの鼻先も冷たかった。少し有れた唇がふれたかと思うとすぐ離れていった。 

・「自分が俺にどんな扱いされているのか、わかっていないんだ。あんた」
 「俺は、あんたをもて遊んでいるんだよ」
・ええ、あたし、もてあそばれてもいいんです。あなたのそばにいたいんです。
 自分で自分を抱きしめてみる。涙がつたう。甘美な涙だ
・腕の間に顔をうずめて、自分の息の暖かさを胸もとで感じる。乳房にそっと触れる。
 やわらかい。
 「きれいだね。服の上よりきれいだ」
 耳の中で高野の声がする。少しずつ力を、加えるように握ってみる。掌の中で、乳首が
 小さくかたまっていく。  
 自分のやわらかな部分に触れてみる。ぬるっとしたが、血ではなく、魚と夏ミカンの香
 りが混ざりあった乳白色の液状のものだ。唇をうでにはわせる。
 足の指がきゅっと開き、ピンとはる。
 そこから熱い熱いものが、頭の先まで一気に上がってくる。
 首がきゅっとそれる。硬直する。
 高野が、この闇のこの四畳半のどこかにいる。自身の身体があやつられているように、
 細かく動き、うねる。小さな目が私を見ている。
・私は、いつの間にか寝入ってしまったらしい。
  

・高野洋への手紙
 あなたにとって、肉代だけであれ私は必要だったから、私たちの係わりができたのでは
 ないでしょうか。東京で生活なさってる今も、私の必要性はあるのではないのですか。
 どんな扱いを受けてもいいから、あなたのそばにいたい。
 一年に一度でも、顔を見たい。それを約束して下さるのなら、それで満足です。
 あなたは、私に会えば身体を求めてしまうことを恐れているようですが、私はそれでも
 いいんです。あなたが、私の何らかの形で必要として下さるなら、それで。
 念のために申し上げますが、結婚や、その他諸々の迷惑はかけません。
 どうか、会うことだけは許してください。
                                   中沢恵美子
・高野からの返信
 僕について言えば、L大の学生であると同時に社会人、事務員の仕事をみつけた、でも
 ある環境で、自分の手に生活がかかり、労働によって、日々の糧を得る時、最早浮つい
 た気持ちではいられないのです。 
 僕は今、精神的にも大人になろうとしている。フリーなセックスなど考えることもでき
 ない。 
 それより何より、あなたと会いことで、自己への嫌悪をより深めてしまうだろう自分が
 恐ろしい。これ以上、ダメな弱いだらしない、自分を目の前にさらしたくない。僕が僕
 に対して持っている信頼を失いたくない。
 僕も、鈴谷さんと月に一度でも会いたいと思った。それは君の今の気持ちと似ていると
 思う。お茶でも付き合ってくれたら、と思っていた。でも彼女には、彼女の生活がある
 から、それを犯してはいけない
 正直に付け加えれば、僕は鈴谷さんの心が欲しかっただけでなく、身体も欲しかった。
 僕は自分がいやだった。彼女に会えば苦しくなる。笑顔を見れば苦しくなる。それで、
 もう何も関わるまいとおもった。
 君との場合、これとは少し違うとは、思う。それは僕たちは肉体的な接合まで発展して
 しまったから。が、僕自身について言えばあの時、自分にした嫌悪がさらにひどいもの
 になったみたいだし、君にしたところで、少しでも会いたいというのは、あの時に僕と
 同じなのではないだろうか。
 僕は責任を感じている。まだ青い、幼い少女を、こんなにもドス黒く傷つけてしまった
 のかと、君の手紙であらためて思った。
 君が恋とか愛なんて言葉を意識した、肉欲などと書いた手紙をよこす度に、僕はつらく
 なる。
                                       洋


・高野の下宿がうまく見つかるだろうかと不安な気持ちが、ふっと浮かぶ。
 L大の近くらしいことは住所でわかった。昨日、学校の帰りに詳細な東京都の地図を本
 屋で立ち読みして、おおよその見当はついていた。 
 しかし、下宿が見つかっても高野が居るとはかぎらない。それに、高野は会ってくれる
 だろうか。この連中に行くと手紙を出しておいたので、出かけてしまったかもしれない。
 手紙など、出さずに不意に訪ねたほうがよかったのかもしれない。
・高野に会ったら、なにを言おう。いいたいことは数えきれない。
 自分の身体なんでどうでもいいんです。あなたが心配してくれなくても、あたしはあな
 たと居られたら、話ができたら、会えたら、それだけでいい。
 何かの形であなたの必要な人間の一人になれたら、たとえ欲求を満たすだけの役割でも
 いいんです。 
 自分のことは、自分でやります。嫁に行けなくても、一人で食べていける工夫ぐらいは
 するつもりです。あなたに迷惑はかけません。
 
・木造のモルタル造りの雑貨屋の裏に、高野の下宿はあった。
 学生下宿は休みのためか、ひっそりとして、どこかでラジオを鳴らしている音だけが聞
 こえる。
 ノックすると、すぐ、返事もせずに高野が顔を出して「入れよ、来ると思ってたよ」と
 言って招き入れた。
・「話たいことがあるんだろう。何もかも、全部、言っちゃいなよ。俺に対しての恨みで
 もいいんだ。その方が俺の方も気が楽だよ。それで終わりにしてくれよ」
 「あたし、あなたに恨みなんて、絶対に言わないわ。あなたが好きなんですもの」
・「俺ね」
 「お前に子供ができたかもしれないって聞いた時、つらかったよ。お前の方がもっとか
 もしれないけれどね。子供が好きだし」
 「うん」
 「あんな思い、二度としたくないよ」
 「あの時ね、お金を出すだけだって言われたの、背筋がぞっとしたわ」
 「あれ以外に言い方がなかった」
 「産めないの、わかってるものね」
・けれども、私は子供を育てたい、産みたいと思い続けている。
 やさしさとか、暖かさといったイメージと裏腹に、野蛮で残酷な欲求とでもいった方が
 いいような感覚だ。子供が産まれてから、どう生きていくかなど考えもしない。
・「早く帰ったほうがいい」
 「まだ、居たい」
 「帰ったほうがいい」
 「泣きたい」
 「泣くなよ」
 「いやだ」
・涙で塩っぽくなった唇を高野の唇がぬぐう。胸もとへ流れ込んできた涙の筋を、舌がな
 めてだどっていく。    

・高野は何をしているのだろう。ベッドの上でブラウスのボタンをかけている私に背を向
 けて、スケッチブックの仕上げをしていた。
・子宮に位置はどのあたりだろう。もう、二つの細胞は融合を開始しているかもしれない。
 子宮は下腹にあるらしいのは知っている。生理の時、腹が痛くなるから、背骨と腸の間
 かもしれない。理科室の人体模型はどの学校でも男子像で、子宮の入る空きなどなかっ
 た。 
・自分が自分の子宮のあり場所を知らないのが、理不尽に思える。学校は教えてくれなか
 った。もう細胞融合は始まっているかもしれない。


・母の仕事場の裁ち板の上に白い封筒がおかれている。母と私の間の空気には六月の闇が
 漂っている。
・「これは、ほんとうなのね」
 静かな母の言葉。
 私は高野の手紙を母から突き付けられては何も否定できない。
 また机の引き出しを、親が不信を持って調べるのは、いい事とは言えないが、文句も言
 えまい。結局、謝るしかないのだと、思っていた。
 なぜ、身体を高野に許したことを親に謝らなければならないのかと理屈をこねるより先
 に、直感的に母が怒ることを予想し、それは世間一般の親として当たり前のことであり、
 それに対して当たり前に謝るつもりだった。 
・母は、たぶん最初の一時間は、この事が、自分にどんな意味を持ったことかわからなか
 ったのだろう。私に一通り事情を聞いたあと性病や妊娠以外にも、女性の身体は変化す
 ることを話した。それから、自分がどれほど女の子がそういうことをしないように注意
 をしてきたか、なぜそれがわからない、と言う。
・彼女は夜半過ぎまで繰り返し、自分がいかに女の子として大切に私を育てたかを語った。
・なぜ、母が送り迎えをしたか。それは力による強姦から守るためのものだったのではな
 いか。本意ではない。不本意な性関係を持たないためのものではないか。だとしたら、
 決して不本意だとは言えない。本意でもないが。そう答えてしまってから、悔やまれた。
 母はしゃべることで、外へ自分のやりきれなさを発散させているだけだった。
・母は自分の娘が男と肉体関係があるなどとは汚らわしい、考えただけでぞっとする、い
 やらしい、淫らだ、といった。 
 きなたらしい。顔を見ているのもいやだ。お母さんはちゃんと生活してきた。それもこ
 れもあんたがだめにしてくれた。生きてきた意味がない。死にたい。くだらないことを
 しやがって。遊びだなんて。男の相手をするのは売春婦じゃないか、あんたは春売りと
 同じだ。
・言葉の中に、ちりばめられた、肉体関係だとか春売り、売春婦、淫ら、それらは私の識
 らない言葉であった。
・あの大風の夜から数回、試みたオナニーや、共有したい間隔への憧憬、ぬくもりの欲し
 かった自分の求め、それら私がひた隠しに、暗黒の中へ放り込んであったものが一度に、
 目の前に引き出され、さらされた。
  
10
・夏は苦しく厚い。時間は遅くゆっくりと流れ、私と高野の間でよどんでいる。
 だれが、私のことを「わかって」くれるのだろう。だれかが「わかって」くれなければ、
 私は淫らな女として、深い沼地へもぐり込んでいってしまう。私は純粋だった。
・私はもがいていた。母が片足をつかんでいる。その侮蔑から逃れようとした。
 母であり、そして女くさいあの人から救われようと。
 母はいつも、手を引いてくれた。その母が今度は敵だ。
・高野が、ひとこと「わかっている」と言ってくれれば、それで助かる。私は胸を張って
 母に対抗できる。  

11
・もう高野洋のことは直接は話題にならない。が、母の罵声を聞くだけで、数ヵ月つづい
 た。
・私と母は、おぼれているのだ。海上はるかに何も見えない。母は私に、私は母にすがり
 つくしかない。母はこんなことになったのは私のためだと思っている。私は私で、母が
 もう少し人間臭い愛情を持っていてくれたらと考えている。
 それでも母と私はたより合うしかない。母は自部運の娘がかわいいと同時に、いやしむ
 べき女であると感じ、その両方の感情を整理しきれない。私は母の内に私をおとしめる
 女と、歯をむき出しに子を守る母を見ている。
 
12
・「俺ね。いつかあんたが下宿に来たとき、ああ胸の色が変わっちゃったな、俺ってたい
 へんなことをしたんだと思った」
 淡々とした声だった。
 「あたしね。ほんとうは母さんがあんたのこと殴ってくれればいいと思っている。あた
 しのことばかり口汚くののしらないで」
 「俺もそう思うよ」
・私は「胸の色が・・・」という言葉を頭の中で反芻してみた。それで、あの日から私を
 求めないのだろうか。私はちょうど洋のあごの下から顔を、ながめていた。半分目をつ
 むり天井を向いている。そんな時、彼が何を考えているのかわからない。不安なまま私
 は、目をつむって、胸もとにほおをよせた。セーターの中に洋のにおいがこもって暖か
 った。
・「俺、もうこんな中途半端いやだよ」
 「どうするつもり」
 「どうせ俺たちうまくいかないんだ。あんただって、俺が好きだの愛してるの言っても、
 信じられないだろうよ。だから、あんたにダメだってことわからせたいよ」
 「一緒に生活するの」
 「ああ、前からあんたが東京に出てきたら、同棲でもしようかと思っていたんだ。それ
 でダメだってことわからせるんだ」  
 「子供は、できるのよ、一緒に暮らしたら」
 「育てればいいよ。あんたと俺とでどんな人間ができるか育ててみればいいよ」
 「どうして、急に」
 「俺ね、もう生ぬるいのに耐えられない。大学にいけば、ふらふら親がかりばかりだし、
 職場は中年のおじさんばかりなんだ」
 「あたし同棲なんてしないわ。社会から葬られたくない。落ちついて考えてよ」
・洋と晩秋の京都で生活してみたいと空想した。私は本を読み、洋は絵を描く。私は彼の
 前で、ヌードでポーズをとってスケッチされる。
・母は、すでに私に対して甘えを求める年になっているのかもしれない。記憶力が落ちた
 としばしば訴え続ける。  
・母は自分の苦しみを言葉で私に投げつける。洋との間の不安定なものに苛立っている状
 態では、私の方が母に甘えたかった。
 「いいかげんにして」
 床の中から天井へむけて怒鳴った。そのとたん、「もう、いいよ」と母が言い捨てて、
 自分の部屋の雨戸をがらがら開けて、外へ飛び出していくのが、わかった。
・あわてた私が、コートをひっかけて、外へ行くと、海岸通りをフランネルの寝間着のた
 もとを風にひらつかせながら、母が歩いていく。  
 裸足の姿は”狂女”を思わせ、ぞっと身ぶるいがした。母は、狂ってしまうかもしれな
 い。暗黒の予兆が走りぬける。
・「どこへ行くつもりよ」
 母はただ無心にアスファルトを歩いている。ペタペタとした足音が単調である。
 様々な問題や感情が混じり合い、ひとつにまとまった時、頭に絵の具がめちゃめちゃに
 混ぜ合わせた時の灰色がつまる。ただ歩く母の足先から髪先まで、灰色がつまっている。
・「海へ行く、海へ行って、お父さんに会うんだ。お父さんに」
 四十を過ぎた女が、赤く染まった鼻先からにごった涙を洟水といっしょに垂らしながら、
 はき出すように言う。
 「帰ろうよ」とつかんだ腕は、やわらかく冷たい。振りほどきもせずに、ずんずん歩い
 ていく母の力に気力負けして、私も歩く。
・人間は、様々のことがひとつひとつ別々にとらえられている間は、おそらく死ねないだ
 ろう。灰色にすべて混じってしまった時に、何もかも同じに思えるものだ。
・母が後ろを振り返った。立ちつくしている私を見て、歩き出す。拡がりかけていた海が
 引いていく。母は死なないのだ。混乱と激情を静めたいのだ。母は私の目の前で飛び込
 んだりはしない。母の後まで歩みよる。
・「おとうさんはいいねえ。早く死んじゃって。娘が大きくなって、やれやれと思うと、
 今度はわからないことばかり言って、もう、わたしには、どうしたらいいのか。このま
 ま、ここでつめたくなっていきたいよ。つめたくなって。楽に死にたい。おとうさん、
 おとうさあん・・・・」
 桟橋の先に坐り込むと母は、そうつぶやきだした。母の背はつめたかった。冷え切った
 背を、私は覆い隠すように、私の身体をぴったりと母につけた。寝間着の身八ツ口から
 女のにおいが、鼻をさす。
 「おとうさん・・・あたしもおとうさんのところに行きたいよ・・娘にどなられて。
 いつもいつもあの娘はどうなるの。あたしは大切に育ててきたのに」
・私は、母が父について、愛情をいつもあたえてくれるものだと信じているのを知ってい
 た。死んでしまっても彼女は、父の愛情の中で生きている。
 母が、くだらないことをしたことがないから、わからないという度に、私は自分がどれ
 ほど一人ぼっちであるかを知った。
・「おとうさん・・・お・・・と・・・う・・・さん」
 私はだれを呼べばいいのだろう。海の向こうから父が来るのだろうか。
・これから洋とは、どうしたらいいのだろうか。洋は何を考えているのか。
・母は私の中の海を見つけてしまったのだ。汚い・・・けがらわしい・・・海。
 世界中の女たちの生理の血を集めたらこんな暗い海ができるだろう。呪いに満ちた波音
 を上げるのだろう。下降を強いられる意識。生理の生ぐさいにおいの中へ。
 母は驚いているのだ。私が女だったことに。私も、母が女だったことに驚いていた。
   
あとがき
・思い返してみると、私はひどく高慢な少女であったかもしれない。
 十五、六歳のことから、自分はすでに大人としての資質を十分に備えていると確信して
 いた。もちろんまだ未知なものはたくさんあったが、それに出合うことで取り乱したり
 慌てたりはしないだろうと信じて疑わなかった。
・しかし、私はまだ自分が女として生まれていることさえ満足には理解できてはいなかっ
 た。たしかに自分の性について考えなければならない時が来るだろうとは予想はしてい
 た。自分の性との正面からの出会いは、異性によってだろうか。あるいは身近な人の恋
 愛や結婚によって間接的に考えざるを得ない状況におかれるのだろうか。または他人の
 行為を見ることによってか。さまざまな場合が想像された。私はどの場合に出合っても
 少なくとも自分の生きて来た姿勢を崩さずにすむだろうと密かな自負をいだいていた。  
・その自負にもかかわらず、自分が女性であることのほんとうの意味を知るためには大き
 く苛立ち混乱しなければならなかった。
 さまざまな予測を裏切って、私の垣間見た性の世界は、日常の生活の下に生々しく重苦
 しく隠されていた。