セクシィ・ギャルの大研究 :上野千鶴子

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動物の世界では、オスは自分のナワバリを持ち、ナワバリの中にメスを囲い込んで守って
やる。自分のナワバリを持っているオスにとっての最大の敵は、自分と同種の他のオスに
ほかならない。オスはメスとナワバリを争ったりはしない。オスにとってメスは大切な資
源であるからだ。オス同士はライバルになるが、異性はライバルにならない。
このことは人間の世界にも当てはまる。男たちは、男同士ナワバリ争いをし、またグルー
プを組んで、派閥争いをする。これがさらに国同士の関係になると、戦争ということにな
る。つまり、男のこの論理が存在する以上、この世から争いや戦争はなくならない。
我が国の安倍首相の打ち出した「集団的自衛権の行使容認」問題も、まさにこの動物的な
ナワバリ意識が根源となっていると感じる。なんだかんだとりっぱなことを言っても、元
は動物のナワバリ争いと同じなのだ。我々国民は、そのナワバリ争いに巻き込まれる。
なんとも、あほらしいことではないか。

プロローグ
・ヒトは、ことばだけでコミュニケーションしているのではない。むしろ、ヒトはことば
 を発明する以前からしぐさや身ぶりでコミュニケーションしてきた。
・ある行動から、どんな意味を読みとるのか。そこには、社会的に通用する約束ごとがあ
 る。いわば、ことばに文法があるように、行動にも、「しぐさの文法」がある。人々は、
 この文法にしたがって、行動によるメッセ維持を交換しあい、コミュニケーションして
 いる。
・ウソは、人間が意図的にことばを使う典型的な例である。同じように、しぐさや身ぶり
 の行動によるメッセージでも、人間は意図してウソをつくことができる。
・人間はこうやって、何を伝えようとしているのか?それは究極のところは、自分がこの
 社会の中で、どのような役割を演じているのかを示すことにほかならない。内心は怒り
 バクハツでも、その場の役割としては、素知らぬ顔をしてみせなければならないことも
 ある。尊大な性格の人は、尊大な身ぶりをすることで尊大な性格をつくる。怒りを抑え
 る人はがまん強く人という役割を演技し、尊大な身ぶりをする人は、尊大な人間の役割
 を他人の前で演じてみせるのである。
・人間は、誰もが日々自分を演じている役者なのだ。私たちは、社会生活という舞台の上
 に登場し、おたがいに代わりばんこに、役者になったり観客になったりする。
・男と女は、オスとメスとして生まれてきさえすれば、一直線に男や女としてふるまうこ
 とができるのではない。オスにいかれながら女を、メスに生まれながら男を演じる例な
 んで、いくらでも見かけることができる。 
・たいがいの動物は、発情期が一生に一度しか訪れなかったり、一年に数週間しか続かな
 い。ところが、ヒトという特殊な動物は違う。発情期以外にも、オスとメスがおたがい
 に相手に対して「らしく」ふるまう。人間の世界には、男と女という性的コミュニケー
 ションの回線が充満している。いつでも発情している「スケベニンゲン」、ホモ・エロ
 ティクスが、人間の別名である。
・発情以外にも、男の演技と女の演技が充満している人間の社会とは、男と女の区別が社
 会のしくみの中に、がっちり組み込まれた社会である。ここでは、男と女は、あたかも
 別の種の動物であるかのように見える。男も女も、同種の、つまり同性の相手に送るメ
 ッセージと、異種の、つまり異性の相手に送るメッセージとを使いわけているからだ。
・男は、自分と同種の個体に対して「らしく」ふるまうことを要請されるのに対し、女は
 もっぱら男に対して「らしく」ふるまうよう、強制される。女のふるまいは、どんなも
 のでも、異性に対する性的メッセージ、誘いかけ、逃避、挑発など、として読みとられ
 る。  
・女の行動は、男の目から見たら、性的メッセージのカタログだ。女のどんなしぐさでも、
 男は性的に読み取る代わり、女はそれを利用して、どんなしぐさをすれば、男をハメる
 ことができるかを知ることもできる。男と女は「らしさ」ごっこを演じ合っているわけ
 だが、この演じ合いは、じつは対等ではない。男と女のコミュニケーションの中では、
 女が演技者で、男は観客だ。この位置関係は逆転しない。そのことはもちろん、現在の
 社会の中で女が置かれた力関係を反映している。

「夫婦茶碗」のおそろしい秘密
・体格の違いは、霊長類の社会ではそのまま性行動の違いにまで関係する。性的二型性の
 大きいゴリラは、一夫多妻のハーレムを作る。がっしりしたオスのシルバーバックが複
 数のオスを従えて森の中に消えていく姿は、威風堂々として壮観である。これに対して
 性的二型性のほとんどないマントヒヒは、一夫一婦のつがいを形成する。この事実は、
 体格の大きさが、性的ポテンシャリティと比例しているという仮説を導きやすい。メス
 よりずっと大柄なゴリラのオスは、一匹のメスでは満足できないからハーレムを必要と
 する、というわけだ。
・ヒトは、動物の中では、性的二型生の比較的小さい部類に属する。しかし、それでも髪
 の長さや身に着けるもので、性的二型性を強調する社会や、そうでない社会があること
 もまた事実だ。
・ジーパンと性的主体性、この組み合わせは、決して突飛なものではない。なぜなら、ユ
 ニセックス・ファッションの流行は、女性の社会的地位が、男性に近づいてきたことを
 意味しているからだ。だから逆に、性的二型性の大きいファッションは、男と女の社会
 的格差を表しているとも言えるのだ。
・サイズの大小や位置の上下が表しているのは、社会的な権力関係である。儀礼な壁画や
 アニメでも、偉い人や主人公は、高いところにいて、大きく描かれる。問題は、この権
 力関係が性関係とぴったり一致しているということだ。
・男は強く大きく、女は弱く小さい。だから、男は女に手をさしのべ、手をひろげ、肩を
 抱き、腰に手をまわして、ナワバリの中に女を囲いこんで守ってやる。いっぽう、ナワ
 バリに囲まれた女は、うっとりと男を見つめる。これも男と女、あるいは男と男の地位
 関係を表している。
・ナワバリは何のためにあるのか。ナワバリを維持しているオスにとって、最大の敵は、
 自分と同種の他のオスにほかならない。男たちがナワバリの中で守っているのは、安全
 と利益と、そして女である。男たちは女とナワバリを争ったりはしない。異性の個体は、
 男にとっては大切な資源だから、これを争ってナワバリを出て行かれでもしたら、元も
 子もなくなってしまう。同性同士はライバルになるが、異性はライバルにはらない。
・外敵とは誰か?それは、もしかしたら、いまあなたを守っている当の男より、はるかに
 すばらしいかもしれない別の男のことだ。男は、女を、ただ自分以外の他の男から守っ
 ているだけにすぎないのである。ナワバリはその仕組みなのだ。女は、男たちが自分を
 めぐって争うのを見ても、少しも痛痒を感じないだろう。強いほうの遺伝子を残すのが、
 生物としての宿命だからである。
・ナワバリというきまりの中で、男たちは、いったんほかの男のものになった女には手を
 出さない、というルールを守りあっている。女は、そのルールの中で、男たちのあいだ
 をやりとりされているだけなのだ。男たちは、女との関係よりも、より多く、ほかの男
 たちとの関係の中で生きているのである。
・男たちは、ほかの男が手をつけた女には出だしをしないという男同士の仁義を、やせ我
 慢で守っているにすぎない。だから、ルールがある以上、当然ルール破りがついてまわ
 る。「一盗二婢」という言葉があるように、よその女房を寝とることが、性的にもっと
 もスリリングであることを、男たちはよく知っている。 
・男は、女と結婚するのではない。他の男に対して結婚するのだ。結婚とは、男が女を分
 配する方法なのである。 
・これからの時代は、女性の社会進出がさらに進むから、職場は男だけの聖域ではなくな
 るだろう。ビジネスの会議や共同作業の中で、女が一人紛れ込むたびに男たちが態度を
 変えたり、女がいつも女っぽいメッセージを送りつづけたりしたのでは、仕事の能率な
 ど上がるはずがない。 

女が「発情のお知らせ」をするとき
・ふつう動物のあいだでは、性的な行動は、発情期にしか現れない。だから、発情期以外
 には、社会関係にはメスとオスの区別がないと言っていい。
・ヒトは「ホモ・エロティクス」(発情人間)と呼ばれることがある。「いつでも、どこ
 でも」発情できるようになったからである。確かに、ヒトの場合、動物のような年周期
 での発情期はなくなってしまった。人間の出産を見れば、一年中、一月から十二月まで
 赤ちゃんが生まれている。動物のように春にまとめて赤ちゃんが生まれるなんてことは
 ない。 
・ヒトは動物と違って、発情期に関係なく、男と女はいつでも違う行動をとる。男だけの
 集まりに突然、女が参加したりすると、その場の雰囲気はがらっと変わってしまう。男
 は、同性に対するときと、女に対するときとでは、基本的に態度が違うのである。
・実際に「やらない」愛とでも(男だってそう相手かまわずに「やりたい」わけではない)
 性的信号を交信し合うのが、ヒトという動物の特徴なのだ。
・男と女の関係は、成熟した生殖可能な年齢にある個体にかぎったことではない。オンナ
 以前とオンナ以降、つまり幼女と老婆もまた、「女らしさ」を要求される。だが、生殖
 機能に直接結びつかない性的メッセージは、しばしばグロテスクである。幼女のブラジ
 ャー付きのビキニ姿とバアさんの厚化粧の、ワイセツさと滑稽さを思い起こしてほしい。
・母としての行動は、子どもが発信するメッセージに応じて引き起こされるもので、子ど
 もがいないところでも「母らしく」ふるまう動物は、人間以外にない。だから、人間に
 とって「母性」とは、行動のことではなく役割なのだ。・発情に関係なく要求される
 「女らしさ」も、これと同じことが言える。「女らしさ」とは、行動ではなく役割を指
 している。だから、女h「女らしさ」を表すために、「いつでも、どこでも」性的メッ
 セージを送り続けなければならないのである。 
・サルの世界では、準備完了して、性交の時と相手を選ぶのは、いつでもメスのほうであ
 る。だからサルの社会では、その気になっていないメスをむりやり犯す、強姦のような
 野蛮な行動は、決して起こらない。  
・唇は、ふつうの状態では見えない。ヒトのメスの性器の代わりに、顔の前面現れた性器
 のコピーである。  
・唇が女性器のコピーなら、どうして男にも唇があるのか。答えは簡単、それは、あなた
 の大好きなキスを楽しむためなのである。  
・男性の性毛は、女性の性毛と違って、性器を隠す役には立っていない。腋毛のように、
 自分のからだの摩擦を緩和する役に立っているわけでもない。それなら、進化の過程で
 ヒトの全身の体毛が退化していったのに、妙なところに性毛が残ったのはなぜか。性毛
 は、対面位のときの、おたがいの摩擦を緩和するために残ったのである。  
・ずばり言ってしまうと、半開きの唇は、受け入れ準備完了の、発情した女性器をコピー
 しているのである。彼女たちは、「いつでもOKよ、お待ちしています」という性的メ
 ッセージを発信しているのだ。これが男心をそそらぬわけがない。
・要するに男にとって、「いい女」とは、「やらせてくれる女」のことだ。手間暇かける
 前に、「その気になっている」女ほど、都合のいいものはない。半開きの唇は、「その
 気」を、言わず語らず、伝えているというわけだ。
・なぜ、女は化粧をするのか。もちろん、セックス・アピールのためだ。女はなぜ口紅を
 つけるか。女が口紅をつけるのは、真っ赤に充血して腫れ上がった発情性器を模倣する
 ためなのである。
・そのものズバリの男性器のコピーはといえば、何と言っても、巷間伝えられるように鼻
 だろう。大きな、脂ぎった鼻は、それだけ性欲の強さを感じさせる。もし、女が強くな
 って、男たちも女に媚を売らなければならなくなる時代がやってきたら、男たちの鼻の
 整形手術が流行るかもしれない。
・「いつでもどこでもやれる」ようになったことが、人類進化のきわだった特徴だ。一年
 中、ときを選ばず発情しつづける。こんなワイセツな動物はほかにない。

女は「曲芸」に生きる
・中世から近世にかけての日本の伝統社会では、既婚女性にかぎらず、初潮を迎えた娘は、
 おとなになったしるしに鉄漿をつけて歯を黒く染めた。だから、当時の日本の社会では、
 白い歯を持ったおとなの女性はいなかたわけだ。なぜこのような風習がひろまったのか。
 ひと口に言えば、女性たちの攻撃性を骨抜きにするためである。男たちは、「見えない
 歯」「口の中の闇」であるところのお歯黒によって、顔の中の女性器である口から、歯
 をすっかり去勢しようとしたのだ。
・なにしろ、男の女性器恐怖妄想のひとつにデンタル・バギナ(歯のある女性器)のイメ
 ージがある。女性器におのがものを食いちぎられるのでは、という恐怖感から来ている。
 されば、当時の男たちは、お歯黒を見てさぞ安心だったにちがいない。現に、中国人の
 ように、なにごとにつけ徹底してやらなければ気の済まない民族は、歯を一本残らず
 抜いた。オーラル・セックス専門の娼婦さえ発明したほどだ。


ハズレ者とハズサレ者
・女は、身を隠す。このとき遮蔽物が無力であればあるほど女はセクシーに見える。これ
 に対して、まったく無防備で、自分を隠す必要を感じない女は、かえってセクシーとは
 言えない。男の目からすれば、オールヌードのすっぽんぽんよりチラリズム、大股開き
 の娼婦よりもはにかむしろうと娘のほうがセクシーに見えるのだ。けれど、眠り姫がい
 る森のお城に至る茨の道のように、障害物が手ごわすぎてもやっかいだ。障害はあった
 ほうがよい。ただしそれはあくまでも儀礼的なものでなければならない。
・男たちは、食卓で新聞をひろげる習慣がある。妻たちは、「ながらはやめてよ。お料理
 の味がわからないんじゃないの」と、がみがみ大声をあげる。言うまでもなく、新聞は、
 こんな妻へのついたてなのだ。男たちは新聞に視線を落とし、たのむからほっといてく
 れ、というメッセージを女房に送る。女房はますます声を張りあげる、というぐあいだ。
 だから、ふだん食卓で新聞をひろげたことのないご亭主が、突然そんなことをしたとき
 は、まえの晩の浮気か、はたまた何がやましいことがあるのでは、と疑ったほうがよさ
 そうだ。
・かくして女は、ありとあらゆる物を利用しては、「安全な参加」を試みる。彼女たちは、
 それほどまでに警戒心が強くなければ、この世で生きていくのがむずかしいと訴えてい
 るようだ。けれども、実態に一歩迫ってみれば、じつは大胆な誘惑であり、ときには挑
 発であり、あるときには、男から見ればけしからぬ浮気の手管であったりするのである。
・帽子を目深くかぶって、こちらをうかがうというのも「安全な参加」のひとつである。
 夜目、遠目、笠の内、帽子の陰では、女はひかえめに見るのだ。そのひかえめが、男の
 心をかき立てる。
・「しぐさの文法」を知っていると、相手が自覚しないで発信する「言葉によらないメッ
 セージ」を読み取ることができる。なかなか口を開こうとしない患者や、自己表現がう
 まくできない相談者を相手にするのが専門のカウンセラーは、「言葉にならないメッセ
 ージ」をよく知っていて、実際に利用している。
・女が女を見る目は、男の目になっている。あるいはならされている。女とはまさに、そ
 ういう仕掛けの中で生き、生かされている。 
・文化のユニセックス化には、女性の男性化と、男性の女性化という二つの道がある。い
 まは、男性の女性化が進行しているに違いない。

女は、ここまで「できあがって」いる
・男たちが女をちやほやしてくれるのは、女がまだ十分にライバルとして成長していない
 間だけだ。女たちが男に敵対しうるほど力をつけてきたら、男どもはあっという間に鉄
 壁の同盟を結んで、女たちをはじきとばす。このことは、職場である程度能力を発揮し
 ている女性なら、たいがい味わっている。男たちは、ほんとうは、女性に対して以上に、
 同性の仲間に対して仁義が厚いのだ。
・この厚い仁義に結ばれ、強固な連帯を誇る男性社会に、強くなった女たちが、さらに積
 極的に食い込んでいくには、男たちの攻撃性をなだめすかすために、適度な性的メッセ
 ージを利用するという手段がある。もちろんそれには、そこはかとない異性の匂いを漂
 わせる方法から、体当たりのセックス・サービスに至るまでの段階がある。
・キャリアウーマンたちは、もはや男に対して、しりごみやはにかみのような服従のメッ
 セージを送らない。そんなことをすれば、仕事が「できる女」のイメージを傷つけるか
 らだ。そのかわり、かえって外見上の女っぽさにこだわる。彼女らは豊かなブロンドを
 カールし、マニュキアをし、性的な魅力を強調したドレスを着る。ニューヨークのエグ
 ゼプティブ・ウーマンのユニフォームは、上質なスカートスーツだ。パンツスーツは、
 二流のキャリアを表す、と彼女たちはきっぱり言う。
・ひと昔前、日本の企業における「できる女」は、判で押したように、地味なスーツで身
 を固め、彼女たちの「性」をひた隠しにした。いわば、女でありながら男っぽく演技す
 ることで、男性社会の中に辛うじて足場を維持してきた。この程度のことなら、男の側
 から見ればまあ許せる現象だったのだ。ところがここにきて、女たちはその「牝性(品
 性ではありません)を武器に、男と勝負に出ようというのである。これは男にとって、
 きわめて由々しき事態であるはずだ。なぜなら、それは男の優位性を根本から危うくす
 るものだからである。
・男に対して、性的な挑発をしかけてくる女は、男にとっては都合がいい。自分のほうか
 ら手間ひまかけずとも、「飛んで手に入るいい女」が、棚からボタ餅のように降ってく
 るというのだから。
・フリーセックスといえば、男も女も、これぞと思う相手と誰かれかまわず関係を持てる
 ユートピア、と誤解されている。とんでもない話だ。これぞ、男が、結婚だとか慰謝料
 などの代価を払わずに、しろうと女とやるための陰謀と思ってよい。性の自由化とは、
 男が結婚から開放されて性を楽しむことを意味している。
・性が自由化された社会では、男と女は、お互いの性的なパートナーを求めて性的自由競
 争にはいる。競争社会は、ここまできた。これまでは結婚という制度が夫と妻を、お互
 いの競争相手から守ってくれていたが、これからはそういうわけにはいかなくなる。
・エンゲルスは、一夫一婦制を「女の世界史的勝利」を呼んだが、じつは逆で、一夫一婦
 制は、どのオスにもメスが一匹ずつゆきわたるという、男にとってたいへん都合のいい
 制度なのである。
・性的に自由化した社会では、男も女も自分の性的魅力で勝負しなければならなくなる。
 こんな社会で、相手に断られたときに、自分を傷つけずに守れるのは、じつは女だけで
 なく、男にもきびしい課題だ。というのは、断られた男や女は、自分の性的プライド
 を、根こそぎ否定されたことになるからだ。 
・性がほかのさまざまな社会的条件に制約されていた時代なら、もてない男は、自分がも
 てない理由を、カネや学歴や地位のせいにすることができた、事業や芸術に打ち込んで
 いるフリをして、女なんか眼中にないというポーズをとることも許された、けれど女が
 性的に自立すると、女がだめと言うときは、赤裸のむき出しの自分の「男」が、情け容
 赦なく、だめと宣言されたことになる。ここから立ち直るのはむずかしい。
・女が男より、断られたことに手ひどく傷つくのは、男が女を、一般にはカネや地位や身
 分では獲ればないからだ。顔かたちとか性的な魅力を選択の第一基準とする。だから、
 選ばれなかった女は深く傷つく。しかし、今度は、男も同じラインに立たされる。男も
 女と同様に、性的自由競争に裸一貫でのり出さなくてはならなくなる。
・競争に勝ったやつはいい。落ちこぼれはどうすればいいのか。民主主義社会は、どこで
 も、競争社会の落ちこぼれのルサンチマンの処理に、頭を痛めている。競争というフェ
 アのルールは、必然的に敗者を生むが、負けたヤツが自分の負けを率直に引き受けるほ
 ど、人間の頭はフェアにできていない。必ず恨みつらみがたまる。
・性的自由競争に落ちこぼれたちを、救済する手段はどこにもない。昔ならあぶれた男た
 ちに親戚のおばさん連中が、よってたかって嫁さんをくっつけるという救済措置が働い
 たものだが、いまではそれも期待できない。となれば鬱屈したルサンチマンは、攻撃衝
 動となって暴発する。性が自由化しても、いや、性が自由化したらなおさら、性犯罪は
 なくならないのだ。
・男は弱くなったのではなく、ますます横着になってきたのだと解釈することもできる。
 なにしろ、苦労して口説きもしないうちに、女が自分から脱いでくれたら、こんなに楽
 なことはない。同じように、妻たちが、亭主の給料が少ないとこぼすまえに、さっさと
 稼ぎに出ていってくれて、生活を支える重荷を軽くしてくれたら、こんなにあんばいよ
 いことはない。 
・「おれや子どもに迷惑がかからない範囲で」妻の仕事を許可する。家事サービスとナイ
 トサービスも、確保したうえで、かくて妻の稼ぎによる生活水準の向上を、しっかりエ
 ンジョイする今日の亭主族は、横着モノの典型だ。
・男性たちが、母親にオムツを替えてもらうように、女に射精をさせてもらいたがってい
 るだけだとしたら、これは女たちの逆ユートピアだ。現に男たちは、受け身のセックス
 の味を覚えて、せっせとソープランドに通ったりしている。
・若い女性は、こんな夫にはすぐに幻滅するだろうから、つぎに彼女の関心と期待は息子
 に振り向けられる。自分のママゴンぶりが、息子を夫と同じような軟弱で横着な男に再
 生産するとも知らずに。

エピローグ
・女社会とは、別名、母性社会のことである。父性社会の権力や効率の原理に代わって、
 母性社会では愛と慈しみが支配する。そこは戦争と災厄のないエロスの千年王国である、
 と彼女たちは未来図を描く。
・確かに、父性型支配と母性型支配は違う。父は力で支配するが、母は愛で支配する。
 「愛による支配」は、人類が何千年ものあいだに描いてきた至福のユートピアには違い
 ない。そこには、争いがないかもしれない。争いのない社会とは、争いを抑圧する社会
 でもある。
・これに対して、「力による支配」は、葛藤をいつまでも潜在化させている。息子は父に
 抑え込まれ、服従しながらも、憎しみのこもったまなざしを父に向ける。だから父性型
 社会では、「面従腹背」がありうるし、許される。父の権力とは、反抗的な他者を抑圧
 する権力なのだ。
・反抗と葛藤の存在を認めず、それを抑圧する母性型支配は、父性による外面支配よりも
 っと怖い、内面支配の抑圧的権力だと言える。だから、少なくとも私自身は、母性社会
 なんて、まっぴらごめんである。そもそも、不完全な人間同士が作り上げる社会に葛藤
 がなくなることはないから、葛藤の存在を否認するより、葛藤を処理するルールを備え
 た社会のほうが、現実的だ。
・女が母になるなら、男だって父になる。人間は男も女も、親という存在になるわけで、
 女ばかりが母性を独占することはない。だから、男社会の行きづまりの打開は、女にゲ
 タを預けてすむようなものではなく、男自身が責任をとるほかはない。というより、男
 と女が協力しあって、自分たちの社会を変えていくほかないことなのだ。
・いままさに、母性社会の「抑圧的寛容」の中で、息子たちは窒息しかけている。いまの
 若い世代を見て、だれもが例外なく指摘するのは、娘たちは生きがいいのに対し、息子
 たちがそろいもそろって影が薄いことだ。
・ともあれ、女が強くなることはいいことだ。しかし、女が母として強くなることは、も
 うたくさんだ。いまさら強くならなくても、この国では昔からおかあさんは十分すぎる
 ほど強いのである。だから、このへんで男たちが、「母としての女」への依存性を断ち
 切って、自立しなければ、対等な男と女の関係なんて、とても望めそうもない。強い女
 が怖くて、おかあさんの懐ろに逃げ込まずにすむほど、女たちの強さに耐えられるのか、
 それが、いまの男たちに試されている。