冷静と情熱のあいだ  :辻 仁成

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この小説は、男女二人協業で同じテーマのもとにそれぞれ書いた恋愛小説ということで、
この本は男性側の立場で書かれている。このような企画で書かれた小説というは稀なのだ
と思う。
この小説が書かれたのは、今から約20年前の1999年であるが、当時は話題にもなり、
映画化もされた。本が発売された当時、私もご多分に漏れず購入して読んだという記憶だ
けはあるのだが、その時どんな感想を持ったかは、まったく記憶に残っていない。
ただ、なんだかとてもかったるい小説だったなという記憶だけが、微かに残っていただけ
だった。
それから20年経った今、もう一度その本を読んでみた。感想はというと、一言で言えば、
やはり20年前と同じようにかったるい小説だったな、という感想は変わらなかった。
ただ、今回は少しじっくり読んだこともあって、この小説から得られることも多かった。
それは、この小説に出てくるフィレンツェの街とはどんな街なのか、そしてその街にある
名画についての知識が、少し豊かになったことだ。この小説を読んでいると、まるで自分
がフィレンツェを旅しているような気分にさせられた。さらに、古い絵画の修復士とはど
ういうものなのかということが、少しわかったような気がする。
それ以外はともかく、この小説は最初から最後まで「男の未練」を書きつづったような内
容だ。「女性に比べ男は未練たらしい」とよく言われるが、まさにそれを地で行くような
内容である。
小説のタイトルである「冷静と情熱」の冷静は女性を指し、情熱は男を指しているのでは
ないかとも思えた。女性はリアリストであり、男はロマンチストなのである。もっとも、
現実は、女性だからそうとか、男性だからこうだ、というものでもないと思う。人間には
男女の区別なく、リアリストもいるし、ロマンチストもいると思う。
ただ、自分の周囲を見渡しても、女性は「断捨離ブーム」が示すように、きっぱりと過去
から決別できる人が多いのに対し、いつまでも過去を引きずり過去と決別できない男が多
のも事実のようだ。
こういう男を見て「かわいい男」と思う女性もいるのではないかとは思うが、男から見た
らやはり女々しくしか見えない。それならお前はどうなんだと言われれば、この自分もな
かなか過去と決別できない女々しい男の一人であることを告白しなければならない。はっ
きりいって、この小説に出てくる主人公の男は、まるで自分の姿を見ているようで、恥か
しかったというのが正直な気持ちである。


この小説に出てくる主な名画・名所
・「ヴェールの女」
・「大公の聖母」
・「小椅子の聖母」
・「センピオーネ公園」
・「ヴィットリオ エマヌエーレ2世 ガレリア」
・「スフォルツェスコ城」
・「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」
・「最後の晩餐」
・「受胎告知」
・「キリストの変容」
・「茨の戴冠」
・「聖母戴冠」
・「我に触れるな」

人形の足
・ドゥオモはフィレンツェの街の真ん中に聳えており、大抵どこからでも見ることができ
 る。天才建築家ブルネッレスによって掛けられた半球状の円蓋クーポラは、スカートを
 膨らませた中世の貴婦人を見るようで微笑ましい。
・あおいのことが忘れられない。人はどうして出会ってしまうのだろう。そんな哲学もど
 きの問い掛けが、このルネッサンスの精神を残す街では、ぼくを捉えて離さない。世界
 中からここへ集まってくる観光客たちがぼくと同じように首を痛めながら頭上を仰ぐ姿
 を見るたび、みんな自分と同じように忘れられない人がどこかにいるのだ、と勘繰って
 しまう。 
・変わり者だったぼくを彼女だけが見放さなかったと言っても過言じゃない。世界でただ
 一人、彼女はぼくの理解者だった。 
・忘れようとすればするほど人は忘れられなくなる動物である。忘れるのに本来努力なん
 ていらないのだ。次ぎから次に降りかかる日々の出来事なんて、気がついたら忘れてし
 まっているものがほとんど。忘れてしまったことさえ思い出さないのが普通。ある時ふ
 いに、そういえばあんなことがあったなと思いだすことがあっても、引きずったりしな
 いから、記憶なんて大概儚いカゲロウの羽根のようなもので、 
 太陽の熱にそのうち溶かされ、永遠に消えてしまう。
・ところがあれから五年もの歳月が経っているというのに、忘れ去ろうとすればするだけ
 しっかりとあおいの思い出は記憶されてしまい、ふとした瞬間、たとえば横断歩道を渡
 っている一瞬や、仕事に遅れそうで走っている最中、酷きときには芽実と見つけあって
 いる時なんかに、亡霊のようにすっと思い出てきてぼくを戸惑わす。
・忘れられない異性がいるからと言って、今が不幸なわけではない。現実から逃げ出して
 いるわけでもない。この街の透き通る青空のように清々しい気分を日々それなりに満喫
 している。ましてやあおいとの恋の復活を願っているわけでもない。あおいとは永劫に
 会わない予感もするし、実際会ったってどうにもならないことは分かっている。でもこ
 れは記憶の悪戯のようなもので、ここが時間を止めてしまった街だからなのか、ぼくは
 過去にふりまわされることをどこかで喜んでいる節がある。  
・あおいはもう戻ってこない。彼女はそういう女だし、ぼくだってそれを期待するような
 男ではない。人間には必ず、別れなければならない時がある。
・世界の美術品の三分の一はイタリアにあるといわれている。ぼくがレスタウロ(修復)
 の勉強をするためにここの来たのは当然だと言える。ここには世界で最高水準のレスタ
 ウロラトーレ(修復士)が大勢いて、例えばぼくの先生だって、油彩画の修復にかけて
 は第一人者なのだ。ジョバンナはぼくの先生というだけではなく、母を早くに失ったぼ
 くにちっては母親のような人。
・先生はぼくの裸体を時々描く。仕事が早く終わった時などに、小声で他の弟子たちに聞
 かれないように、誘ってくる。ぼくは先生の部屋で、言われた通りにポーズを作る。ア
 トリエの天窓から差し込む仄かな光の中、動くことのない静まり返った空気を皮膚呼吸
 しながら、ぼくはぼくの肉体が彼女に見つけられていることを喜ぶ。 
・ぼくもかつては、つまり大学生の頃、あおいをモデルによくデッサンをした。あおいは
 唯一月光の中でだけ脱いだ。あおいの痩せぽっちだが西洋陶器の人形のような裸体は、
 セクシーというよりはホッソリと愛らしく、ぼくにはとても美しく映った。とくにその
 足首は、骨が細く、余分なに肉もなく、ぼくは僅かに緩んだふくらはぎを好んで描いた。
・もしも約束の日、ぼくの期待が破られたなら、あおいはその日はじめて、美術館の倉庫
 の奥に眠る修復不可能な彫刻のようになる。 
・芽実はあおいとは何もかもが正反対。痩せているのに、頬がふっくらとしているあおい
 とは好対照に、芽実の肉感的な身体つきは彼女の血の問題に由来して、こちらを恥ずか
 しくさせるくらい隙がなく情熱的。なのに頬はこけて、目鼻だちも凛々しく、黙ってい
 ると完成させた彫刻のような美しさがある。ところが性格は全く子供で、あおいとは正
 反対、学生時代やんちゃだったぼくが、芽実と出会ってからはおとなしくならざるを得
 なかったほど、おてんばで危険だらけ。  
・あおいは暗がりでしか求めなかった。明るいところではキスさえ躊躇った。恥かしがり
 屋、とからかうと必ず、わきまえているのよ、と冬の隙間風のような声で言い返してき
 た。ところが芽実ときたら、明るいところで抱き合うのが好きなのだ。昼間から、しか
 も窓を開けっ放しにして求めてくる。露出狂、と耳元で囁くと、恥ずかしそうにぼくの
 胸に頬を押しつけてくる芽実を、ぼくは子猫みたいだと思うことが多い。彼女の長い髪
 の毛に染みついた他の男たちの嫌な匂い。それでもぼくは不平を言ったことがない。
・あおいを日常から追い出さない限り、芽実を本気で愛することができないかもしれない。
 だから野良猫のような彼女を怒ることができないのだ。それをぼくは、相手を縛りたく
 ないから、と言って誤魔化している。結局、あおいが心に居座り続けている限り、ぼく
 が他者を好きになることはない。それとも、あおいを追い出すほどの恋愛をぼくはまだ
 経験してないだけだろうか。
・芽実をあおいと呼び間違えたことが一度だけある。抱き合っている最中のことで、突発
 的に口走ってしまった。感情が理性を超えていた。二人とも夢中だった。闇の中で交わ
 ったのがいけなかった。暗がりをあれほど用心していたのに。
・東京ではこうして空を見上げることはなかった。いつだってうつむいて歩いていたせい
 で。子供時代を過ごしたニューヨークは、もっと空が遠く狭かった。古ぼけたコンドミ
 ニアムに大嫌いな父と二人暮らしだったせいで。抱きしめられたことのない母親の思い
 出を探すように、子供のぼくはいつも小さな窓から顔をのぞかせては、切り絵のような
 窓を見上げていた。
・成城大学に入学するために帰国したとき、十数年ぶりに東京の空を見た。機内アナウン
 スが、東京の空は快晴、と誇らしげに告げた。どこが快晴なのか、とぼくはびっくりし
 た。飛行機の小窓から見えた空は灰色に濁って霞んでいたからだ。   
・この街が気に入った最大の理由は、なんといっても空の寛大さと気前よさのせいだろう。
 ただの空なのに、見上げているだけで心が優しく包み込まれていく。きっとこのドゥオ
 モの展望台から見るフィレンツェの、三百六十度遮るものの何もない空は、ぼくを圧倒
 するに違いない。この地上にしがみつく二十七歳のぼくをその記憶の呪縛から解き放し
 て、羽ばたかせるに違いない。登ってみたい、と思う。できればいますぐに。
・ぼくとあおいはその日、それまで燻っていたお互いの感情の捌け口を求めるかのように、
 美術館で大喧嘩をした。普段穏やかな彼女の、あんなに豹変した顔を見たのは後にも先
 にもあのときが唯一で、そして最後だった。 
・修復の仕事に生き甲斐を見つけることができたのは、レスタウロは失われた時間を取り
 戻すことがきでる世界で唯一の職業だということに気づいたことによる。なくした命を
 再生できる仕事・・・。  
・世界中の歴史的芸術作品はたいてい三つの時期をくぐり抜けて、現在にまで生き延びて
 いる。第一の時期とは、その作品が作られた時代のことであり、それは画家がその時代
 に見たり感じたりしたものに感動して、純粋な気持ちと力でカンバスに絵具を殴りつけ
 たその荒々しい瞬間を指し、第二の時期とは、その作品が多くの人々の前で華麗な魅力
 をまき散らし、脚光を浴びた時期を指す。そして第三の時期。時を越えて生き存えてし
 まった、いまや栄光が去り、滅びつつある名画を、現代の修復士たちが精魂を込めて直
 す段階。ぼくの仕事は、この第三の時期に位置し、滅びつつある名画たちをどのように
 して第一の状態に近づけて生き返らせるか、にある。
・自分が修復した作品が、千年後にまた誰か別のレタウラトーレによって修復されるだろ
 うことを想像しては、胸がいつも熱くなるのを感じる。千年後の人々へ、ぼくはバトン
 を渡す役目を担っているのだ。ぼくの名前は後世には残らないが、ぼくの意思は確実に
 残ることになる。ぼくが生き返らせた名画の命が、また後の人々の力によってさらに遠
 くへと受け継がれていくのを夢みるのが、今のぼくの生き甲斐でもある。
   
五月
・芽実はイタリア人の血を引きながら、全くイタリア語が話せない。小さい頃に母親と離
 婚したイタリア人の父のことが心にずっと引っ掛かっていた。父親のことを聞こうとす
 ると急に不機嫌になる。大学を休学してイタリアに渡ってきたのも、半分の祖国を知る
 のに就職してからでは遅いと判断したからだ、と言っていたが、父親が気になっての行
 動ではないのか、とぼくは勘繰っている。 
・ニューヨークで生まれ育ったぼくは十八歳まで日本をほとんど知らなかった。それまで
 は祖父阿形清治を通じて入ってくる情報しかなかった。祖父はニューヨークで育つぼく
 を心配してくれる身内で唯一の人間だ。父清雅は仕事と若い女性に忙しく、母親のいな
 いぼくはずっとほったらかしにされてきた。祖父は、東京から何度も手紙を送りつけて
 は、日本語だけは忘れないようにしなさい、って、祖父の忠告は嬉しいものだった。ぼ
 くが日本文学を大学で専攻したのも祖父のその忠告に関係している。 
・ぼくと芽実も対照的だった。日本での芽実は、その派手な外見のせいで外国人としてず
 っと見られてきた。イタリア語も英語も話せないことが分かると友人たちはみんな口を
 揃えて不思議がった。彼女が語学に対して持つアレルギーはそんな生い立ちに由来する。
・東京の五月が好きだ。梅や桜が開花する三月や四月よりも、新しい葉が木々いっぱいに
 広がる五月の方がぼくには気持ちがいい。どこも同じようにしか見えない無機質な街中
 に広がる五月の街路樹の青々とした息吹は、東京での異邦人生活における何よりの救い
 の緑でもあった。  
・東京で借りていた古びたアパートからは羽根木公園の緑葉がよく見えた。そこはかつて
 祖父の仕事場があった場所で、造りは古いが、仕事場らしく天井が高くて居心地は良か
 った。祖父は最初、ぼくが東京へ出てきたばかりの頃、この街に慣れなくて危ないから、
 という理由で三鷹にある自分の家から通うようにとぼくを説得した。しかし束縛される
 のがいやだったぼくはそれを固辞した。ならば今使っていない仕事場があるからそこを
 使えばよい、ととかく面倒をみたい祖父は有無を言わせずぼくを梅ヶ丘のアパートに住
 まわせたのだった。 
・時々祖父に内緒で昔の作品なんかを引っ張りだしてはこっそり批評して遊んだ。彼の作
 品で最も好きなシリーズは祖父が中南米を放浪しながら描いた木版画だった。それを見
 つけ出したときのぼくの驚きようはなかった。 
・祖父から以前送られてきた手紙には、自分は古代マヤ文明に大きな刺激を受け、その地
 を放浪したのだ、と書かれてあった。原始の力から刺激を受けた生命感ある作品にふれ
 ながら、ぼくは梅ヶ丘のあのアパートで自分の未来を思い描いたものだった。自分もい
 つか人間の過去を旅してみたい、と夢を膨らませずにはおれなかった。
・アパートから歩いて五分ほどのヴェッキオ橋の傍に工房がある。初めてここを訪れた時
 は、そこら中に置かれた中世の彫刻や油彩画に驚いた。歴史的な作品がまるで失敗作の
 ように無造作にごろごろと放置され、堆く積まれているのだった。最初は練習用かと思
 ったが、そうではなかった。どれも本物だった。ここは街自体が中世だから、何も驚く
 ことではないわ、と先生はぼくの肩を叩いて微笑んだ。  
・最近この工房に国費留学でやってきた日本人、高梨明が洗浄の作業に入っていた。高梨
 はぼくよりも五歳年上の三十二歳だった。東京芸術大学の大学院で修復家養成のコース
 をマスターした後、日本の修復研究所に就職したが、より専門的な技術を修得するため
 に文化庁から派遣されてやってきていた。 
・先生の絵のモデルをしている時、ぼくはよく母親のことを考えた。自分を生んだ人間が
 どんな人だったかということを。ぼくが生まれてすぐの頃に自死を選んだ哀れな母親の
 ことを。ぼくを残して死ななければならなかった彼女の心の破壊について。 
・父は余り母のことを話したがらなかったが、祖父の清治は母が絵描きだったことをある
 時打ち明けた。もっともそれは手紙の中でほんの一、二行書かれていたに過ぎなかった。
 あまりうまい絵描きではなかったが、不思議な作風を持っていた。全体をうまく整えよ
 うとしないところが良かった、と祖父は書いていた。 
・学生の頃ぼくは時々あおいをモデルに絵を描いた。日曜の午後で、大学をずる休みした
 平日の夕刻、特にすることがないと、祖父のカンバスと絵の具をこっそり貸して描いた。
 あおいは最初は嫌がったが、描き上がった絵が気に入ったらしく、そのうち自分から、
 描いて、とねだってくることもあった。 
・芽実とは対照的な、あおいの彫刻のような無表情の顔が好きだった。どこを見ているの
 分からない物憂げな眼差しもお気に入りだった。現実から不意に逸れて、彼女にしか分
 からない空間を視線が泳いでいた。多少厭世的な、なげやりなところもあった。繊細で
 壊れそうな瞳だった。 
・人間は全てを記憶しておくことはできないが、肝心なことは絶対に忘れない、とぼくは
 信じている。あおいがあの夜のことをすっかり忘れてしまったとは思いたくない。もう
 二度と彼女と会うことはないかもしれない、としてもだ。 
・夜、ぼくは芽実の部屋で、ルームメイトの韓国人、インスーを紹介された。明るいイン
 スーは芽実と語学学校の同期生だというのに、イタリア語は流暢だった。インスーと芽
 実はインスーが片言の日本語で、芽実が片言の英語で喋っていた。 
 
静かな呼吸
・ラッファッロの描く聖母はどれも静謐で豊麗な美しさに溢れている。他のルネッサンス
 画家たちが描いた多くの聖母たちにはない柔らかい愛らしさがある。 
・何世紀もパラティーナ美術館が存続するとしても、ここを管理する人々や訪れる人々は、
 時間とともに変化していくはず。またこのぼくにしても、この絵の寿命の前では余りに
 も短すぎる人生しか持っていないのだ。 
・優れた第一級の修復士と進歩する科学とによって、この絵は何度も命を取り返し、永劫
 に限りなく近い人生を生きるに違いない。ぼくが直接この絵に命を注ぐ可能性はないだ
 ろうが、同業の修復士たちが丹精込めてそこに新しい命を注ぐことになる。それだけで
 もぼくは自分の仕事に誇りを持つことができる。そういう仕事の末端に携わることがで
 きた自分を誇らしく思うことができる。 
・「大公の聖母」と向き合う。あおいの視線にも似た、斜め下を静かに見下ろす物憂げな
 視線の先を想像しながら、ぼくは何百年も前に描かれた聖母のいまだ消えない美しさに
 見入る。まるでまだラッファエッロが生きているかのようだ。 
・「約束は未来だわ。思い出は過去。思い出と約束では随分と意味が違ってくるわね」先
 生の顔を見た。その穏やかな顔にも光が降り注いで、透き通るような皮膚をいっそう白
 く輝かせて見せる。「未来はいつだって先が見えないからいらいらするもの。でも焦っ
 てはだめ、未来は見えないけれど過去とは違って必ずやって来るものだから」「いい、
 この街を見てごらん。ここは過去へ逆行した街なのよ。誰もが過去の中で生きている。
 ここはご覧の通り、中世の時代からぴたっと時間を止めてしまった街なのよ。歴史を守
 る為に、未来を犠牲にしてきた街」「街だけではないわ。ここに生きる人たちは、少し
 大げさに言えば、ここを守るためにその人生の全てを捧げなければならないのよ。若者
 たちに、新しい仕事はない。私たちのような遺産を守る仕事か、観光業だけ。しかも馬
 鹿高い税金のほとんどが、この街の修復に充てられているのよ。街はどんどん老朽化し
 ていく。修復しても次ぎから次に壊れていく。冬は寒く、夏は暑い。それでも、ここの
 人々は過去を生きる。少しも未来なんてないんだから、ゼロではない未来があるだけ、
 あなたは幸福だわ」 
・あの頃ぼくは芽実ほど酷くはないにしても、男としてまだ何も出来上がってはおらず、
 青臭かった。あおいが、初めて真剣に付き合ったに等しい女性だったので、力加減が分
 からず、力を込めすぎた。いつでも彼女に自分を見ていてほしかった。 
・ぼくは後悔している。でも時間は後戻りはしない。どんどん前へ、前へと突き進んで行
 くだけなのだ。 
・カンテラの光の中で蠢く二つの身体があった。白い肌が見えた。先生かもしれないと、
 とよからぬ想像をかき立てられて目を凝らすと、ソファの上で抱き合い、唇を重ね合う
 高梨とアンジェロが確認できた。高梨は普段の冷静さを失って興奮し、ぼくに背後を見
 せたままアンジェロを羽交い締めにしていた。アンジェロの訴えるような目をぼくは記
 憶した。光を吸い込み、恥部を覗き込まれた者がする怯えの目だった。ぼくは静かに踵
 を返した。 
・ぼくは歩きながら、またあおいのことを思いだしていた。ぼくたちはよく夜の羽根木公
 園を並んで歩いた。夏にはお菓子やビールを持ち、よく散歩に出掛けたものだった。公
 園の小高い丘の上の長椅子に並んで座り、よく夜空に灯る月を見あげた。世界は二人を
 中心に回り続けていた。彼女がいるだけで、ぼくは何だってできるような気がしていた。
・「愛しているよ」はじめてその言葉を使ったのは、いつのことだっただろう。その幸福
 の時期からそう遠くはない日。それまではお互いに若者らしくなく、好きだよ、と言い
 合っていた。あれほど肉体関係を持ちながら、ぼくたちは、愛、という響きに用心して
 いた。いやぼくたちではない。あおいはぼくの前で、愛、という響きを使ったことなど
 なかった。いくら待っても、あおいの返事は戻ってこなかった。不安になり、「愛して
 いないの」と聞き返した。あおいは視線を逸らし、そんなことはない、と言った。
・後悔のない人生なんてあるのだろうか。ぼくはずっと後悔をし続けている。生涯、後悔
 から逃れることができないような気もする。そう思うと足がふいに重くなる。

秋の風
・秋の気配が夜風とともに、開けっ放しの窓から飛び込んでくる。呼吸をするたびに胸の
 奥が切なくなって、横で眠る芽実の寝顔がいとおしい。何度も激しく抱き合ったのに、
 それでもしたりない、と芽実は駄々をこねたが、結局疲れ果てて眠りこけてしまった。
 長く黒い髪が芽実の頬に流れて顔を微妙に隠している。寝顔に口づけしようとそっと手
 を伸ばした途端、芽実の目が開いた。芽実は目を大きく開いてぼくの首に力強く手を回
 してきた。
・しがみついて離れようとしない。芽実は寝ぼけながらぼくの顔をまるで犬のようにキス
 をしてくる。頬が濡れて、思わず顔を背けた。そのまま芽実がぼくの上に跨ると、両手
 でぼくの肩を押した。ペニスの上に腰を沈めてゆっくりと動かしはじめた。柔らかい彼
 女の臀部の肉がぼくを刺激する。「するなら避妊しなけりゃ」芽実はぼくの声を無視し
 て腰を振り続けた。彼女の部分を感じる。すでにぼくを受け入れる態勢が整っていた。
 ペニスが静かに持ち上がってくる。角度を付け、そこに吸い込まれていく。
・「駄目だ。避妊をしないならぼくはできない」はっきりとそう言った。芽実が夢の続き
 にいるのが分かった。「子供ができてしまう」自分の声に驚いた。その時、記憶の底か
 ら黒い叫び声が届いた。それはぼくの声ではなかった。あおいの声だ。何度も夢の中で
 聞いたあおいの声。慟哭するあおいだった。 
・ペニスの先端が窪みに消えかかったその瞬間、慌てて腰を引き、力任せに体を捩ると芽
 実から離れた。力の加減ができず、芽実はそのまま反動でベッドの後方へ倒れてしまう。
 「心配しなくても大丈夫よ」「だってあんなに出した後だもん。もうからっぽになって
 るよ」「馬鹿を言うな」芽実は驚き身を引く。ぼくがこれほど怒った姿を彼女は見たこ
 とがなかった。   
・ぼくとあおいはなんども繋がって離れた。その繰り返しの中に誤差が生まれ、一瞬の気
 の緩みが生じたのだ。あの出来事によってぼくたちは別れることになったが、でも実際
 には本当に繋がってしまったということもできる。二度と恋人としてやり直すことはで
 きないが、生涯背負い続ける運命をぼくたちは共有してしまった。  
・もう一度抱き合った後、芽実は裸のまま窓辺に立った。夜空を見上げる彼女の後ろ姿を
 ぼくは美しいと思った。彼女には恥じらいはなかった。どこも隠そうとしない。そうい
 えば最初から光のもとでぼくたちは抱き合った。あおいは暗がりでしか求めなかったの
 とは違う。イタリア人の血が混じっているその見事なプロポーションを自慢しているわ
 けでもない。彼女は肉体だけでなく心もいつもさらけ出していた。 
・翌朝、工房からの電話で起こされた。番頭のような存在の古株の修復士からで、ぼくが
 ここ一月ほど修復を手掛けていたフランチェスコ・コッツァの絵が何者かによって引き
 裂かれているとの連絡だった。絵は無惨に大きな×印を描くように刃物で切られていた。
 あと数日で完成というところまで来ていたのだ。いったい何が起こったのかすぐには理
 解することができなかった。歴史的な名作を損傷させてしまった工房への責任は免れな
 いだろう。同時に、それは先生の信用を落とすことにもなる。 
・秋が深まりはじめた頃、ぼくは先生に申し出て少し長い休暇を貰い、芽実といっしょに
 彼女の父親を探しにミラノへ行くことにした。 

灰色の影
・ぼくたちを乗せたユーロスター(国際特急)は予定通り夕方にミラノ中央駅に到着した。
 天候のせいもあったが一帯は、イタリアというよりはヨーロッパ的な陰鬱とした印象だ
 った。湿った空気が歴史的な建造物の硬質な表面に染み込んでは、いっそう辺りを重た
 くさせている。人々もポケットに手を入れたまま足早に駅構内へと逃げ込んでくる。ミ
 ラノの人々の表情には、どこか東京の人間に似た険しさがあった。 
・殺風景な部屋。人工的な近代建築の穴蔵。ぼくたちがいる部屋は、とても何週間も籠っ
 ていられる広さではない。ミラノに着いてからずっと感じているこの閉塞感は近代建築
 の粗雑さが歴史的な佇まいに混入しているせいで生まれたものだ。フェレンツェには近
 代建築のビルは一つもなかった。しかしここミラノでは中世の建築物と近代のそれとが
 混じり合っている。遺跡や歴史的な遺産を多く持ちながらも、一方でここは世界の最新
 ファッションの発信地でもある。しかしこの街にはフィレンツェのような統一感がなく、
 最先端の文化に汚染されているような印象を感じてならない。
・ぼくが夢の中で抱きしめて寝ていたのはあおいだった。昼間はしっかりと自分を持って
 いる人だったが、夜になると時々怖い夢を見るらしく、何度も夜中に起こされ子供のよ
 うに抱きつかれた。彼女は夢を思い出しては泣いていた。決意に貫かれた力強い昼間の
 表情とはまるで別の、弱々しい人間がそこにいた。今もあんな風に怖い夢を見ては誰か
 そばにいる人に抱きつきているのだろうか。抱きつかれるその人が羨ましかった。彼女
 に真夜中に頼られることが、男としての幸福であったことをその当時ぼくは全く気がつ
 いていなかった。
・かつては大食堂だったという建物の突き当りの壁面に、「最後の晩餐」は堂々と掛けら
 れていた。見事な透視図法による、中世の景色が横わたっていた。このルネッサンス期
 に発明された描法はまさのこの絵のためにできたものだ、と一人勝手に確信し、レオナ
 ルド・ダ。ヴィンチの才能に今更ながら大きなため息をつかずにはおれなかった。
・ダ・ヴィンチが当時この絵に使用した絵の具はテンペラ・フォルテと呼ばれる一種の油
 彩で、当時としては画期的な新手法だったが、これは絵の保存に関しては全く不向きな
 もので、すでにダ・ヴィンチが生きていた頃から画面の剥落が始まっていた。
 加えて十七世紀には、絵の中央部分を切除して台所へ通じる扉ができ、フランス占領下
 の一八〇〇年にはこの食堂がフランス軍の、なんと糧秣置き場に使われていたというの
 だ。しかも第二次世界大戦中には建物自体が爆撃にあっている。それらの時間的、人工
 的な浸食を受けながらもこの絵が現在こうして多くの人々の目に触れられるほどに復元
 されているのは、何十年も続くこの修復作業の力業でもあった。修復士たちの地味だが
 着実な仕事が世界の遺産を守ったのだとぼくは誇らしくてならなかった。
・突然芽実が父親のところを訪ねると言い出してぼくを驚かせた。「お父さんはね、靴の
 デザイナーだった。母さんとは京都で出会って恋に落ちた。交際をはじめてすぐに母は
 私を身ごもったんだけど、二人の愛は長くは続かなかった。二人はいつも片言の英語で
 話をしていたのだそうだ。うまく気持ちを伝え合うことができなかったのね。京都はど
 こかフィレンツェに似て余所者に対して排他的なところのある街だから、ホームシック
 も酷かったって母が言っていた。結局二人は入籍することもないまま別れたの」はじめ
 て聞かされる話だった。あんなにお喋りな芽実が今まで一度も話したことのない自分の
 境遇だった。
・芽実はそう言うとぼくの方を向いた。目の玉の縁が仄かに揺れている。ぼくは人目も気
 にせずに彼女を抱きしめた。誰にでも、どんなに幸福そうに見える人間にさえ、一つや
 二つは人生の中に暗い影が差しているものだ。ぼくは、普段は人の何倍も賑やかな芽実
 に差し込むその歪な影が、いとおしくてならなかった。   
・芽実の父親が動揺しているのは明らかだったが、しかし拒絶されたわけではなかった。
 顔を見て話し合えば、なんらかの光が見てくるはず。
・自殺した母のことを考えた。ぼくを残して新亜母をかつて子供だった頃のぼくは恨んだ
 ことがあった。少し成長した今は、可哀相だだと思う。死を急がず、ぼくの成長を待っ
 ていてくれたなら、ぼくが母のささくれだった心を癒してあげられたのに、と悔しかっ
 た。  
・扉が開く音がしてぼくは我に返った。男は辺りを見回してから、芽実は?と日本語で告
 げた。ぼくがバールを振り返ると芽実の父親はそこへ目掛けて小走りで駆け出したその
 表情は硬かったが、娘への愛情が薄れていないことを物語っていた。 
・バールの中に芽実の姿はなかった。ぼくは店の外に飛び出し、広場や周辺を探した。し
 かし芽実の姿はどこにもなかった。父親はバールの前で立ち尽くしていた。ぼくは息を
 切らせながら彼の前に戻り、見当たらない、と小さく首を振った。芽実の父親は落胆し
 た表情をしみて、それから同じように小さく首を振った。芽実に似ていた。目や鼻や輪
 郭はそっくりだった。
・芽実は勇気を振り絞ることができなかった。父親に会うのが怖いのは当たり前だった。
 まだ時間はある。滞在している間に二人が再会すればそれでいいのだった。芽実の父親
 の背後に新しい妻と思われる女性がいつの間にか寄り添うように立っていた。そっと手
 を伸ばして動転している夫を支えた。  
・ぼくたちはバールに入り、エスプレッソで体を温めながら少し立ち話をした。芽実が今
 どういう心境でフィレンツェで生活を送っているのか、これまでの人生をどんな思いで
 生きてきたのか、など今日まで彼女の経緯を知っている限り細かく彼らに説明した。芽
 実の父親はうっすらと目に涙を浮かべていた。妻は黙って話に耳を傾けている。優しい
 女ということがよく分かる。父親は低い声で、この十数年、芽実のことを考えなかった
 日は一度もなかった、と最後にぼくに告げた。ぼくは大きく頷いた。この時点で両者を
 隔てるものは何もなかった。 
・ホテルの戻ると芽実がベッドの上で丸くなっていた。ぼくは濡れた頭をタオルで拭いて
 から彼女の横に腰を下ろした。それから父親に会ったこと、彼の今の気持ちなどを説明
 した。芽実は起き上がり、ぼくに抱きつき、唇を押しつけてきた。温もりがあった。彼
 女を抱きしめ、それから二人はそのままベッドで交わった。 
・芽実の肌は白く透き通っていた。胸はこちらが恥ずかしくなるくらい健康的な膨らみを
 持っていた。括れた腰から広がる臀部はイタリア産の果実であった。柔らかい女性的な
 曲線はまさにビーナスのそれであった。抱きしめると瑞々しく肉体が撓った。すらりと
 伸びた足は、ぼくを受け入れやすく信じられないほどに柔らかく折れ曲がった。 
・芽実との交接はいちもどんな時も運動をしているような健康的なものであった。高まり
 方にも勢いがあった。苦しみの中にあっても、彼女は太陽のように眩しかった。最後ま
 で行った後、腕の中にいる芽実の頬に涙が溜まっているのをぼくは発見した。肉体と気
 持ちが目に見えないところで小さく分断されているのだった。 
・ぼくは過去を追いかけていいものか、それとも未来を信じてもいいものか迷っていた。
 ぼくだけが覚えている約束。その呪縛にいつまでも縛られている自分。それがどんなに
 つまらないことかも分かっていながら、過去に引きずられ今日を生きている。未来にも
 過去が待っている。三十歳の誕生日。二〇〇〇年の五月二十五日。 
・その次の瞬間、視界の先をふいに一人の女性が過った。過去の記憶を辿っていなければ
 見落としてしまいそうな懐かしい人影であった。涼しげな目。ほのかにふっくらとした
 頬。しなやかな髪の毛。意志の強そうな唇。細い身体。ぼくがずっと心に刻み続けてい
 たあおいその人の記憶のままであった。体が勝手に反応を起こし、握っていた芽実の手
 が自然に外れてしまった。芽実の声が後方から響いたが、その時ぼくは既に駆け出して
 いた。あおい。心の中でぼくは叫んだ。あおいに似た東洋人の女性がガレリアの中へと
 吸い込まれていく。 
・あおい・・・。あれは、あおいだったのだろうか。それとも人違いだったのか。昔の記
 憶が見せた悪戯だったのかもしれない。ぼくは力なく芽実を抱き寄せた。そこには幻で
 はなく一人の女の現実の肉体があった。 
・それからぼくは戻る日まで毎日、ドゥオモ広場に立ち寄ることになった。芽実はそんな
 ぼくに呆れながらも毎日付き合ってくれた。時間が経つうちにあのそっくりな女性があ
 おいなわけはない、と思うようになってきた。あおいは東京で暮らしているはずなのだ。
 ぼくは大きなため息をついて、幻惑を振り払おうとした。あれはあおいではなく記憶の
 悪戯なのだ、と言い聞かせて。
・ぼくと芽実はお互いさまざまな思いを胸に抱いてミラノを後にすることになった。ぼく
 はあおいのことを。芽実は父親のことを。 
・ロビー階にエレベーターが着き、扉がゆっくりと開くと、フロントの前に芽実の父親の
 姿がった。エレベーターを出たところでぼくらは気がつき足がぴたりと止った。父親は、
 こちらへとまっすぐに向かってきた。そして芽実を見つけた。ところが二人を引き離し
 ていたこの時間の隔たりが、これほど酷く二人にのしかかって来るとは、その瞬間まで
 誰も予想することはできなかった。 
・芽実と父親とは、血がつながった親子なにもかかわらず、会話が成り立たなかったのだ
 った。芽実も父親も片言の言葉で挨拶をしたが、それぞれの思いを言葉にしようとする
 と相手がそれを理解できなかった。芽実はイタリア語がまだ不十分で、父親はもうすっ
 かり日本語を忘れてしまっていた。父親は僅か数年の日本滞在なので仕方がない。十数
 年の歳月が流れているのだった。芽実もその瞬間はじめてイタリア語を真剣に勉強しな
 かったことを後悔しているようであった。二人はそれぞれの思いを胸に秘めたまま、別
 れることとなった。言語が通じないせいで芽実はの落胆はいっそう増してしまった。ぼ
 くが通訳するのにも限界があった。父親の呼ぶ芽実の名ばかりが、朝のせわしないホテ
 ルのロビーでいつまでも響きつづけては、虚しくぼくの耳に絡みついてきた。 

過去の声、未来の声
・東京中が未来へと傾斜している。どんどん新しく建て直されていくビルは、未来のシン
 ボルのような凛々しさでにょきにょきと生え、家々の頭上に君臨している。過去とは何
 かとぼくは考えた。過去は人間にとって不必要なものだろうか。過去を修復してきたぼ
 くは、この街にもう一つの居場所を見つけ出せずにいる。この街の速度の中で自分を保
 って生きていくことができるだろうか。
・私に三十歳の誕生日に、フェレンツェのドゥオモのね、クーポラの上で待ち合わせをす
 るの、どお?約束とも言えないような子供じみたやり取りの中で、彼女は確かにそう言
 った。彼女から言いだしたことだったが、あおいがこのやり取りを覚えているとは思え
 ない。
・空になったグラスの中に新しいワインを注いでいると、玄関の呼び鈴がなった。開け放
 たれた窓から秋の冷たい夜気が室内に注ぎ込んでいた。ぼくは窓を閉めてから厳寒の覗
 き窓を顔を近づけ、思わず声を張り上げそうになった。芽実が立っていた。声にせっつ
 かれて鍵を外し、ドアを開けた。  
・正面のソファの上にあおいの顔を描いた画用紙が広げられていた。気づかれる前に片付
 けなければ、足を踏み出した瞬間、芽実がぼくを追い越し先に居間へ行き、その絵をつ
 かんだ。芽実が考えていることが手に取るように理解できた。
・芽実はぼくの見ている前でその絵を破った。破れていくあおいの似顔絵を救うことがで
 きずにただ呆然と見ていた。芽実はそんなぼくの様子を窺っていた。ぼくは過去から離
 脱しなければならないかもしれない、と床にまき散らかされた画用紙の残骸を見つけて
 思った。芽実がもう一枚画用紙をつかみ、それをいっそう激しく引き裂いた。
・翌朝、目を覚ますと横に芽実が寝ていた。ぼくの腕に絡めた手には力が入ったままで、
 南京錠のようだった。引き抜くわけにもいかず、彼女が起きるのを待つしかなかった。
 朝の静かな時間の中、ぼくは芽実の隣でおとなしく、これからのことを少しだけ真剣に
 考えていた。自分がいったい何をしたいのか、それをまず知る必要があった。
・芽実との梅ヶ丘での生活はフェレンツェでの関係よりも精神的にお互いの心を干渉しあ
 う息苦しいものとなった。一つには、彼女にはぼく以外東京に頼れる人間がいなかった
 せい。母親が仙台の方で暮らしているということだったが、新しい父親と顔を合わせる
 のが嫌で、仕送りだけで繋がる関係になってもう何年も経っているとのことだった。フ
 ェレンツェでは気が向いたときに夜を共にしたが、ここではずっと一緒にいなければな
 らなかった。朝から晩まで芽実が横にいた。喧嘩をしても、彼女にもぼくにも逃げ場が
 なかった。

薄紅色の記憶
・時は流れる。そして思い出は走る汽車の窓から投げ捨てられた荷物さながら置き去りに
 される。時は流れる。つい昨日のような出来事が、ある時、ある瞬間に、手の届かない
 ほど昔の出来事として記憶の靄の彼方に葬り去れれることがある。時は流れる。人は不
 意に記憶の源に戻りたいと涙ぐむことがある。 
・心というものはやっかいなものだ。心という部分が肉体のどこにあるのか分からないせ
 いもある。だから心が痛い、と思っても他の部位、例えば肩や足首が痛いのとは全く違
 って、手の施しようがない。どこにあるのか分からないものを労わる方法をぼくはまだ
 知らない。だから、考えてみたら、ぼくはずっと心が痛んだままそれをそのままにして
 きた。時間がきっと解決してくれる、流れていく時が心の病を癒し過去を忘れさせてく
 れるとどこかで願いながら・・・。 
・心の古傷がますます痛くなっている理由は、あの日が少しずつ近づいているからに違い
 ない。約束の日までほぼ一年となった。期待する方がおかしい、まるで夢の中で交わし
 たようななんの根拠もない約束。でもぼくの癒されることのない心は明らかにその日に
 向かって傾斜しはじめている。 
・芽実に求められ抱き合っても、心はもうそこにはなかった。男という動物の虚しさはこ
 この心がないというのに女性を抱けるということだ。それは半ば同情のような行為でも
 あり、芽実を侮辱するものでもある。こんなことを続けてはいけない、と全てが終わる
 ごとに後悔するが、今日という日をなんとかやり過ごそうとする怠惰な性格のせいで、
 ぼくは一瞬の快楽につい身を委ねてしまうのだった。
・心の入らない事務的な行為に芽実も気がつかないわけはなかった。いやむしろだからこ
 そ、あんなに回数を求めてきたのだろう。彼女にしてみれば、抱き合うことでしかぼく
 の気持ちを確かめる術を知らなかったのだ。抱き合うことが二人が繋がっていることを
 確かめる一番の方法でもあったのだから。 
・未来が不安になれば、彼女はぼくに抱きついてきた。しがみついてきたという方が正し
 い。しがみついて離れない彼女を離す方法はセックスだけだった。どんな言葉よりも、
 機械的な、或いは作業工程のような丹念な行為にだけ、彼女は納得し、ぼくから離れた。
 ところがぼくはと言えば、彼女を抱きながら、時々錯覚に陥った。自分の下にいるのが
 芽実ではなくあおいのような気がして。 
・瞼を閉じるとそこに大学生のあおいの姿があった。暗がりの中に潜むあおい。怯えて青
 ざめたあおい。二人の記憶の中で抱き合っている場所は十年前のここか或いは同じく学
 生時代の祖師ヶ丘大蔵の彼女のアパートである。そして彼女は決して明るいところでの
 交接を許可してはくれなかった。 
・芽実は父親と会話が成り立たなかったことの衝撃からまだ立ち直ってはいなかった。そ
 のことも彼女がぼくから離れようとしない理由の一つであった。彼女は明らかにぼくの
 中に家族を見ていた。それはほとんど勝手な妄想とでもいうべきもので、彼女は時々遠
 くを見つめながら、順正のお嫁さんになるのが夢、順正の子供を生むのが私の未来、と
 呟いてはぼくの神経を逆撫でしてきた。 
・突然現れた旧友。そしてその懐かしい友に不意に告げられたあおいの消息。ぼくは過去
 から未来へと激しく逆流していく記憶の川面の上を泳いでいた。「お前に内緒で彼女が
 勝手にあんなことをしてしまったと思うのは大きな誤解だ」旧友はぼくの知らないあお
 いのことを語りはじめた。風の中で昔日の出来事が風鈴のように揺れては乾いた音を響
 かせた。その夜、ぼくはいつまでも眠れず、結局一人ベッドから起きだすと、芽実に隠
 れてあおいに宛てた手紙を書いた。 


・「あおいの前に現れた君の父親が堕ろすように迫った」旧友はまっすぐにぼくを見つめ
 た。たまたまぼくがいない時に、アパートを父が訪ねた。そこには産婦人科から帰って
 きたばかりのあおいがいた。当時の父の愛人、つまりぼくの新しい母親が、テーブルの
 上の胎児が写った超音波写真を見つけてしまったのだ。父は散々彼女を罵った挙げ句、
 順正には相応しい人を嫁にと考えていた、と言った。こそこそ同棲なんかをするような
 女に息子をくれてやる気がない。親に内緒で子供を作るような子ではなかった。どうや
 て息子を誑かした。何が目当てだ。遺産か。遺産なら君にも、そのお腹の子にもびた一
 文渡す気はないからな。そんなことを父が言った。あの人なら言いかねない。ぼくにさ
 え一銭も渡す気はなかった。ましてやぼくの子供が登場することはもっと望んではいな
 かった。新しい母は父以上にそれを望まなかったはずだ。
・「聞いていいかな」しばらくして芽実が呟いた。質問するというのではなく、自分にい
 いきかせるような淡々とした口調である。「あおいって誰?」ぼくは答えに困った。
 「二人の間に子供がいたの?」ぼくは返答に困った。黙っている芽実の声は次第に感情
 的になった。「二人の間に何があったのかは分からないし、むごいような言い方だけど、
 でもはっきり言う。わたしには関係ないこと。忘れられない人がいるのに、わたしをそ
 ばにおいて、まるで代替品のように扱うのね」必死で堪えていた感情の堰が切れて、芽
 実が泣きだした。「言っておくけど、わたしはわたし、誰の代わりもできないし、そん
 なこと絶対にしたくない」「わたしはあおいさんがいなくなった後の空洞を埋めるため
 に順正を愛してきたんじゃない。順正が過去を引きずってる限り、わたしはもうやり直
 すことはできない。侮辱されることがどんなに私にとって苦しいことか」 
・深夜、家に戻ると、留守番電話の灯が点滅していた。ゆっくりと電話機の前に進み、ボ
 タンを押す。用件が再生されたが、無言だった。芽実からだろうか、とぼんやり考えた。
 もう一度立ち上がると、電話機のところまで歩き、留守機能のボタンを押してみた。用
 件は一件です。と機械が答え、テープが巻き戻されると、一秒、二秒、三秒、相手は黙
 っている。ぼくは耳を近づけてみた。シュー、という微細な音が背後から届いた。相手
 は随分と遠くから掛けてきているような感じがする、と思った次の瞬間、それが不意に
 あおいからの電話ではないかと直感し、身震いを覚えた。電話が唐突に切れたので、も
 う一度ぼくは再生のボタンを押した。テープは巻き戻された。さらに耳を電話機に押し
 当ててみる。シューという音は単なる回線のノイズではなく、その向こう側にどうやら
 雨の音が隠されているようだ。東京は快晴だった。
 
青い影
・アメリカで生まれ、十八歳まで祖国を知らずに育ったぼくにとって、同じ顔をした同輩
 たちはみんな違った心の回路を持った異邦人たちでしかなかった。考え方がまるで違い、
 神経をすり減らすことばかり。ここはアメリカじゃないんだぞ、とそれまでの生き方ま
 で批判されてことがあった。大学生活の中でやっと心を休めることができる広場を発見
 した時、ぼくはこれが初めての愛だと知った。だから全力で彼女を愛し、そのせいで力
 加減が分からなくなって、つい愛し過ぎてしまった。  
・百パーセントの自信があるわけではなかった。急ぐ気持ちをどこかで冷静な自分が押し
 止める。アメリカ人の恋人と仲良くやっているところへ、のこのこ出掛けて行って、彼
 女を困らせる権利はもうぼくにはない、と考えてしまう。かつてあおいを追い出した人
 間だ。恨まれこそすれ、未だに愛されているなどと思うのは、どうしようもなく愚かな
 人間が描く妄想に過ぎない。もしもあの電話の主があおいではなかった場合、ぼくは今
 という時代を生きるあおいの人生に泥を塗ることになる。 
・勇気がなかった。会いたい。一目だけでいいから今の彼女を見てみたい。毎晩、ぼくは
 彼女を思っている。思いながらも、この思いが過去を覆すことができないような気がし
 て、気弱になる。あおいの絵を描いた。一人きりの夜、真っ白な画用紙の上、彼女の記
 憶の線を無数になぞった。 
・アパートに着くと、玄関先に人影があった。芽実は自分の膝小僧を抱えて丸くなってい
 た。彼女は立ち会がった。ぼくは鍵を開け、ドアを引いた。芽実は何も言わずに中に入
 った。ソファに上に、あおいの似顔絵が数枚置きっぱなしになっていて、二人の目が同
 時にその上で止まった。芽実はしばらく立ち尽くし、それらの絵を見下ろしていた。ぼ
 くは慌てることもなく、一枚一枚つかんでは回収していった。「別れなければいけない
 んだよね」不意に弱々しい言葉が届けられたかと思うと、洟を啜る音が室内に薄く響い
 た。 
・イタリア人と日本人の血が混じりあって、彼女の骨格はぼくのそれとは微妙に異なって
 いた。上品な鼻は小さくて形のよい唇の上にあった。大きく輪郭のはっきりとした瞳は
 電球の明かりを受けて底の方からいっそう輝いて見えた。東洋人と西洋人の持つ美しい
 部分を見事に受け継いだ、一つの芸術品のような華やかさを持っていた。彼女はなのに、
 自分がハーフであることに対して一度もその容姿を喜んだことがなかった。むしろ憎ん
 でいたと言ったほうが適切だろう。 
・芽実は泣きだした。それから不意に泣くのを止め、今度は無理して笑ってみせた。洟を
 幾度と啜りながら、必死に自分を保とうとしている。 
・子供だな、といつも思っていた。何をやっても失敗ばかりする芽実に、よく手を焼いた。
 でも面倒くさいと思いながらも、同時にそこが彼女の魅力だと思う。正直、芽実と別れ
 たあと、十年後、彼女のことをあおいのように思いださないとは限らない。彼女の言う
 とおり、ぼくは芽実に救われたことが何回もあった。この子の子供っぽいところに安ら
 ぎを感じたことがあった。 
・芽実は立ち上がると、Tシャツに手を掛け、いきなりはぎ取るように脱いだ。そのまま
 ジーパンにも手を掛けた。泣きながらも服を脱ぎつづけた。下着を外すと、胸が露わに
 なった。短くなった髪のせいで、頭がいっそう小さく見える。一糸まとわぬ姿になると
 ぼくの前にたちはだかり、真っ直ぐにこちらを見下ろした。心が震える。この子の心が
 どれほど本気なのか伝わってくるからだ。こんなに誰かに愛されたことがかつてあった
 だろうか。芽実の真剣な思いは何よりもいとおしく、また大きな厄介でもあった。
・彼女をそっと抱きしめると、温もりと心臓の鼓動が伝わっていた。彼女を身をよじって
 激しく求めてきたが、ぼくはそれを押さえ込んだ。羽交い締めにして、抱きつこうとす
 る芽実を阻止した。彼女は動物のような唸り声を上げた。ぼくが動じなければ動じない
 ほど、芽実は興奮して暴れた。まるで発作を起こしたかのように胸の中で暴れまわった。
 これでいいのか、自分にはわからなかった。何もかも失ってしまった気がした。仕方が
 ない、こうするよりほかに自分が正直に生きる道はないのだから。
・祖父が唯一の家族だった。その寝顔を見ながら、思わず涙腺が刺激され、涙がこぼれ出
 そうになった。母は最初から不在で、父はずっと他人だった。祖父が死んだら、ぼくは
 また一人ぼっちに戻ってしまう。芽実もいなくなり、だからといって、あおいとの再会
 に希望を持つのも難しい。何もかも失った時、ぼくはいったい何をどう修復しればいい
 のだろう。  
 
三月
・三月。日曜日の羽根木公園は開花した梅を一目見ようと東京中から集まった家族連れで
 賑わっている。梅を見るのは嫌いじゃなかったが、家族連れを見るのが堪らなく辛く、
 我慢できなかった。西暦が二〇〇〇年という数字を突破したのに、ぼくは八年前を相変
 わらず引きずって生きていた。人類は希望をいつも未来と重ね合わせる動物だ。しかし
 ぼくはそうじゃない。修復士という職業柄、過去を大切に持って生きる小動物なのだ。
・結局、ぼくは二〇〇〇年を迎えても、過去から抜けきれない人生を送っている。芽実と
 の別れ、過去のあおいとの約束だけを果たすために生きている。そのほかの約束は、西
 暦二〇〇〇年の五月、あおいの誕生日にフィレンツェのドゥオモで会おうというものだ。  
 学生時代の戯れ事から生まれた約束だった。でもぼくが覚えている以上、彼女が忘れて
 しまっているとは言い切れない。忘れてしまっている可能性の方がうんと高いのは知っ
 ている。でも可能性が零でなければ、そこに賭けてみたいと思うのが人間の心理という
 もの。
・過去しかない人生もある。忘れられない時間だけを大切に持って生きることが情けない
 ことだとは思わない。もう戻ることのできない過去を追いかける人生をくだらないとは
 思わない。みんな未来ばかりを語りたがるが、ぼくは過去をおろそかにすることができ
 ない。 
・先生が亡くなった、という高梨の言葉からぼくは海岸線に打ち上げられた貝殻を思い描
 いた。それは真っ白な一枚の美しい貝殻で、時折虹色の光を反射していた。高梨はジョ
 バンなの死について詳しくは知らなかった。アンジェロからの連絡だということだった
 が、高梨が直接アンジェロと話をして聞いたのではなく、間に事務所の人間の存在があ
 った。その人物は確かにアンジェロが英語で、ジョバンナという人物が自殺した、と言
 ったようだ。 
・ぼくは確かめるためにイタリアに電話をかけた。修業時代に世話になった画材屋の主人
 の口から、ジョバンナの死が確定された。だれもいなくなった工房の最上階にある先生
 の仕事場で、38口径の拳銃で頭を撃ち抜いて死んだということだった。 
・小さな鞄を一つ抱え、ぼくは二年ぶりの懐かしい街を歩いた。取るものも取りあえず飛
 行機に飛び乗ったために、こうしてフィレンツェを歩いているということがどうしても
 実感できなかった。しかも眼前に広がる景色は二年前と少しも変わっていないのである。
 どんどん変化していく東京とは違って、ここでは外観を弄ってはならないという決まり
 があるせいか、新しい建物が建つということもない。このままたぶん百年後も同じ外観
 を保っているに違いないのだから、フィレンツェという街とここに住む人々の辛抱強さ
 は想像を絶するものと言える。その辛抱強さが災いして、先生は自殺してしまったのか
 もしれない。この変わることのない街並みの中で、人が何か変化を望んだとき、その一
 つの選択こそ死ぬということに他ならなかった。
・待ち合わせの約束。もっとも、その約束はあおいがぼくたちの子供を中絶する前にした
 ものだった。二人がまだ恋の光に包み込まれていた時に交わし合った誓いだった。感情
 的になって彼女を責め、彼女が置かれた苦しい立場も理解せず、一方的にその縁を切っ
 てしまったのだから、彼女があの時の気持ちを今も持ちつづけ、このささやかな約束を
 覚えているわけはなかった。でもぼくは自分のした仕打ちを償う意味でも、たとえ一人
 で登ることになろうと、この聳える大聖堂の細く長い階段を一段一段踏みしめて歩きた
 かった。それは一方、若さの犠牲になった自分たちの分身への謝罪も込められていた。
・人生とは後悔の連続だ。しかし今は五月を待つより他にぼくには方法がなかった。そし
 てぼくの未来は唯一この五月だけ・・・。あとは全て過去なのだ。いったいぼくは何を
 したいのか。何をしようとしているのか。五月よりも先の未来は想像もできなかった。
    
夕陽
・ぼくはもう一度旅に出る。明日が何も起こらず過ぎたら、その日ぼくはぼくをリセット
 して。そしてあおいとの日々の記憶をもう一度鞄に詰め直して出掛けるのだ。かつて、
 一度も足を踏み入れたことのない異国で、まったく違った人生を送り直したい。あらゆ
 るしがらみから抜け出してぼくの残りの時間を旅するだろう。
・次から次ぎに人は出会っていく。そして次から次に人は別れていく。裏切り、卒業、転
 校、旅立ち、死別。その理由は幾らでも挙げられるが、人間は別れるために生まれてき
 たようなもの。その苦しみから逃げ出すためにみんな新しい出会いを必要とする。でも
 ぼくにはあおいを忘れて次に進むことができない。男らしくないと思われても、それが
 ぼくという存在の生き方だからしかたがない。 
・会えなくてもぼくは最後の瞬間までこのクーポラの上で待つ。街ながら、この八年を修
 復して。そしてあおいが来なくとも、ぼくは自力で壊れかけた自分を再生させて堂々と
 ここを降りてこよう、と自分に言聞かせた。 
・上まで、四百段以上もの階段を登らないとならなかった。ようやくクーポラの上に出た
 時、待ち受けていたのはフィレンツェを横切る春の風であった。三百六十度、見渡すか
 ぎりの開かれた景色がそこに広がっている。迷いのトンネルを抜け出すことができた後
 に、この景色が自分を待っていてくれたことに随分と救われ、安堵のため息が溢れた。
・待っている時間の長さは、つまり悟るための長さだ。待っている先に待ち受けている現
 実があることを悟るため、人は待つという時間に身を浸す。そしてぼくの場合、それは
 この八年という長さだった。  
・空はつねに一定ではない。雲は形を留めることはなく、いつも自由に動き回っている。
 空を見あげるということは、心を見つけることに似ていた。だからぼくは空を描くたび、
 心が落ちついた。いろんな空があるように、人間にもいろんな人間がいるのだ、と思う
 となんでもかんでも許せるような気分になれた。 
・空がある限り、ぼくは一人ではなかった。学校で苛められても、家で父親に殴られても、
 都会の真ん中で孤独だと感じても、平気だった。そういう時は真っ先に空を見上げ、も
 しもその時スケッチブックを持っていたら、その空が変化する前にぼくはすばやく永遠
 の一瞬を描き写した。 
・空が赤くなりはじめた。建物の屋根に光が反射している。やっぱり、来ないんだな、と
 ため息が出た。四葉のクローバーを握りしめた。その時だった。「順正」声が耳元を掠
 める。風の悪戯かと思った。しかし、耳はしっかりと懐かしい感触を覚えていた。振り
 返ると、そこに待ち焦がれた人がいた。 
・昔のままのあおいを想像していたせいで、この八年の隔たりが築き上げた、慎ましく、
 美しいあおいに視線が凝固してしまった。「あおい」名を口にするのが精一杯だった。
 ゆっくりと立ち上がると、吸い寄せられるように一歩踏み出した。昔よりずっと女らし
 く洗練されたあおい。自分の昔のままのみすぼらしさを忘れて、ぼくは数歩前に出た。
・夕陽に彼女の顔を赤く染まっている。こんな時でさえフィレンツェという街は、相変わ
 らず静かな時間の流れの中にあった。自分の人生においてこれほど重大な出来事が起こ
 っていても、ドゥオモの頂上は世界で一番呑気な風が吹いていた。  
・彼女は何も言わなかった。何かを恐れているような、躊躇っているような、用心してい
 るような気がして、不意に喉元が締めつけられた。急いで何かを語ってはならないよう
 な・・・。 
・あおいはぼくの方へもう数歩近寄った。目の前に夢に見つづけたあおいの黒く優しい目
 があった。感情の堰が開き、ため息が溢れた。苦しくて、どうしていいのか分からない。
 過去ばっかり見つけてきた自分がはじめて今という現実を見ようとしているのだ。目の
 前にいるあおいは過去ではない。目の前のあおいは未来だ。そのことを思うと、体の中
 でどうすることもできない大きな不安と幸福がぶつかり合った。 
・次の瞬間、あおいが胸に飛び込んできた。抱き留めてしまったが、それはあまりに柔ら
 かい現実だった。抑えていたこの八年の思いが、その時決壊した。両腕で抱き留める。
 学生時代よりもずっと細くしなやかな体躯・・・。骨や肉の輪郭がなまなましく伝わっ
 てくる。それは夢の中のあおいではなく、今を生きる今日のあおいであった。
  
新しい百年
・あおいと他人になってから八年が過ぎた。他人になって、彼女はますますぼくの心の中
 に居座ってしまっていた。過去よりも大きな存在だといっても過言ではない。だから八
 年ぶりに不意に目の前に現れた彼女をぼくは困惑なしに見つけることができなかった。 
・彼女と一つになろうとした時、肉体は不意に萎縮した。嬉しさと驚きと不安のせで。し
 かしそれだけではない。彼女の肉体の中で切断されてしまった小さな命のことを思い出
 してしまったせいもある。複雑な事情の絡み合いの中、あおいは一人で産婦人科の門を
 潜り、ぼくに内緒で二人の愛の結露を塞いだ。 
・「どうしての」あおいの掌がぼくの頬に触れる。ぐずぐずしているぼくの顔を彼女お漆
 黒の瞳が見つめた。いっぺんに降りかかってきた出来事にどうしていいのかわからず、
 ぼくはどんどん萎縮していった。するとまもなく暗闇の中に温もりを感じた。あおいの
 手がぼくの肉体を支えたのだ。柔らかく、仄かに温かい掌がぼくに光を注いだ。
・急激な再会が持ち込んだ精神的な疲労をあおいがほぐした。彼女を大人に変化させた八
 年という歳月を見た気がした。二人はまもなく一つになって、溶けた。記憶も官能も苦
 痛も喜びも一緒くたになってぼくを震わせた。 
・男の方がいつまでも過去を引きずる動物なのだ、とは言わないが、心の切り替えは下手
 くそかもしれない。あおいのリードでことが進むなか、ぼくは八年前の梅、梅ヶ丘のア
 パートでぎこちなく抱き合っていた二人のことを思い出さずにはおられなかった。 
・あおいの肉体が官能に撓る度に、ぼくは力を込めた。ぼくとて、芽実と愛し合うことで
 学んだ男女の駆け引きの知識はあった。力を込めたり抜いたりしながら、そんなことを
 八年前のあおいとぼくは持っていなかったことを懐かしんだ。 
・あおいは、アメリカ人の恋人に愛され、これほど美しくなったのだった。あおいの肉体
 の変化や体臭の変化にぼくは気がついてしまった。そこにはまったくぼくというものが
 介在できない域が存在していた。あおいの声に興奮しながらも、どうしていいのかわか
 らず途方にくれ続けた。八年ぶりの交接が済んだ後、何千メートルも泳いだ気になった
 のは何故だろう。あおいはあおいではなかった。
・あおいの頭の中がどこへ向かおうとしているのか分からなかった。あおいがささやかな
 約束を忘れずにいてくれたことも驚異なら、八年も待っていた人が不意に現れたことも
 驚異だった。こんな奇跡が起こったのだから、二人はかつてないほど強い絆で再会を果
 たしたと思うのが本当だった。なのに、とてもそんなふうには思えない。ぼくを見上げ
 るあおいの目が美しければ美しいほどに、ぼくは幾度となく途方にくれるのだった。 
・二人はいったい何を抱きしめていたのだろう。ぼくが抱いていたのは八年前のあおいだ
った。あおいもきっと八年前のぼくを抱いていたはず。二人は過去と寝た。一秒でも早
く、現在を過去になじませたかった。二人の間にある大きな谷を埋めたかった。
 そこに即席でもかまわないから橋を架けたかった。なのに谷は思いのほか深く大きくし
 険しかった。
・過去は苦痛や憎悪さえも美しく見せた。だからぼくのあおいを抱きしめながら流れ出る。
 涙を止めることができなかった。ぼくの涙はあおいの肩を濡らしたが、彼女が泣いてい
 たがどうかは分からない。  
・三日目の朝、目が覚めると腕の中にあおいはいなかった。窓際の椅子の上で一人淡々と
 荷物を纏めていた。それをぼくは薄目を開けて見つけていたのだ。わずか三日で、当然
 のことなのだが、ぼくたちはこの八年を修復することができなかった。二人は同じ絵を
 見つけながらそれぞれの思いを語ったにすぎない。どちらも絵を修復するだけの情熱は
 残っておらず、まるであきれるほど懐かしいだけの冷静な同窓会のようだった。 
・言葉が詰まるとまた抱き合った。八年は長すぎた。だから全力で泳ぎきろうとしたのだ
 が、決して数日で泳ぎきれる大河ではなかった。目の前にいるあおいは八年前のあおい
 とは違う人なのだ、と悟るのに、わずか三日ですんだことがぼくにはもうひとつ大きな
 衝撃となって迫ってきていた。顔も声も体も昔を彷彿させるのに、でも何かが失われて
 いる。 
・「行くね」あおいはそう言い残すと、そのままぼくの肩に腕を回し、頬と頬をくっつけ
 あって、まるで外国人がするような、或いは映画のワンシーンのような、全く奇麗すぎ
 る挨拶の後、静にそこを離れた。追いかけることも、縋ることも、泣くこともぼくには
 できなかった。わずか三日。たった三日でこの八年が、修復ではなく、清算されてしま
 ったのだった。 
・フィレンツェの街並みなどまったく目に入らなかった。隣にあおいがいるという事実だ
 けを噛みしめて歩いた。あおいがいるという事実がいつまでも信じられず、何度も何度
 も彼女を顔を覗き込み、覗き込まれ、広場のど真ん中で立ち止まっては、お互いの顔を
 見つめ合った。 
・そして夜は再び抱き合って眠った。激しく求め合ってから眠りに落ちた。寝る直前に、
 なんだか不思議だわ、と彼女が言い、ぼくも、不思議だね、と伝えた。毛布の中で握り
 しめた手だけが、過去のままの温もりを伝えていた。 
・八年前と何が変わって、何が変わらないのかしら、とあおいが少し声を強めて言ったの
 で、ぼくは、何もかもが変わってしまったようだけど、でも実は何も変わっていないん
 じゃないかな、と暗号めいた言葉で応じた。ところが暗号はすぐに解読されてしまった。
 不意に彼女が横を向き、ぼくはその気配の中で網膜が乾いていくのを覚える。情熱が冷
 静に駆逐されようとしていた。それは世界中で毎夜明け、夜が朝に駆逐されるのに似て
 いた。 
・「幸せなんだね」と言うと、あおいは唇を一瞬真横にきゅっと伸ばし、それはぼくには
 微笑みに思えたのだが、そうしてからこくりと小さく頷いたのだった。決定的な瞬間だ
 った。老役者は草ぼうぼうの舞台の上で立ち尽くし、出てこない台詞を必死で思い出そ
 うとしては、手も足も出ないまま佇み続けるのだった。
・アメリカ人の恋人がいて、彼女を持っている街があって、働く場所があって、肉親のよ
 うなフェデリカがいて、優しい友人たちがいるのだ。そこからあおいを奪う自信などな
 かった。そんな情熱は正しくない。
・「もう一回しよう。愛しているわ。すごくよ。どんなに会いたかったか。もしかしてあ
 なたにもわかってもらえないかもしれないくらい」いいよ、しよう。二人は部屋中に溢
 れかえる光の中で抱き合った。光に浮かび上がるあおいの体をぼくは生まてはじめてみ
 た。この八年の変化はここにも打ち寄せていた。
・あおいは何もかも終わると、待ちきれないような勢いで立ち上り、着替えはじめた。ぼ
 くはシーツにくるまったまま、何かをぶっきったようなあおいをじっと、じっと、動け
 ずじっといつまでも見つけていた。   
・冷静が最後に勝った。思い出を反芻する間もないほど、あっけない幕切れである。こん
 な結末のために自分は八年も待っていたのかと思うと、脱力し、そこから動くことがで
 きなかった。これじゃあ、死んだも同然。
・この街の役目は終わったのだ。そう思うと、何もかもが違って見えた。見慣れた街並み
 も人々も。すべて、そこら辺りで売られているポストカードの中のフィレンツェみたい。
 ただひたすらこの八年、あおいのことだけを考えて生きてきた。約束だけを生き甲斐に
 歩いてきた。過去だけを背負って生きてきた自分に、いまさら神は何をはじめろとおっ
 しゃるのだろう。  
・過去も未来も現在には敵わない、と思う。世界を動かしているのはまさのこの現在とい
 う一瞬であり、それは時の情熱がぶつかり合って起こすスパークそのもの。
・過去に囚われ過ぎず、未来に夢を見すぎない。現在は点ではなく、永遠に続いているも
 のだ、と悟った。ぼくは、過去を蘇らせるのではなく、未来に期待するのだけでなく、
 現在を響かせなければならないのだ。 
・彼女はここへ来た。十年前のささやかな、約束ともとれないようなあの約束を覚えてい
 たのではないか。彼女の幸福そうな人生の中にあっても、しっかりと過去を覚えていて、
 そして何よりあおいはこの街へとやって来、二人は現実に再会したのだ。
・怯えて、恐れて、不安になって、このまま全てに背を見せてしまったら、機会の芽はそ
 こで枯れ果て、二度と地上に現れることはないだろう。後悔だけではすまされないこと
 になる。 
・「あおい」もう一度、心の中で彼女の名を呼んでみる。大切なのは現在。ぼくはまだ何
 も試していない。試さないで、彼女を一人現在へと送り返しては駄目だ。この八年を再
 び凍りつかせては駄目だ。 
・駅たどり着くころにはぼくは走り出している。過去にはさせない、と念じながら。駅構
 内にぶら下がる超特大の時刻表掲示板を見上げる。一番速い列車はユーロスター(国際
 特急)だ・それに飛び乗れば、ミラノに到着するのは、あおいの乗ったインターシティ
 よりも十五分早く着くことになる。十五分、たった十五分だが、ぼくは未来を手に入れ
 ることになる。まだ間に合うのだ。
・どうしたいのか。会ってなんというのか。その時どうするつもりなのか。一緒くたにな
 って様々なことが頭を過る。はっきりとは分からない。分からないから走る。ただ、も
 う一度会いたい。ともかくもう一度彼女の瞳の中に自分を探してみたい。