冷静と情熱のあいだ :江國香織

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この小説は、男女二人が協業で同じテーマのもとにそれぞれ書いた恋愛小説で、この本は
女性側の立場で書かれている。
最初に男性側の立場で書かれた本を読んだときは、ただただ「男の未練さ」だけを書き綴
ったものとの印象だけが残った。しかし、この女性側の立場で書かれたこの本を読み終え
たとき、その印象は少し違ったものとなった。
この女性側の立場で書かれた小説は、大学生時代に恋愛して別れた後の女性のミラノでの
生活ぶりが延々と書き綴られており、正直、あまり面白みがなかった。しかし、一見、幸
せそうに見える彼女のその後の人生であるが、心の奥底には依然として別れた男性への思
いが残っていることが徐々にあらわれてくる。
女性は、一般的には、男よりもふんぎりがつけやすいと言われるが、当然なが中にはそう
でない女性もいるのも当然なことだろう。
二人は十年後に、大学生時代に約束したフィレンツェのドゥオモの上でまるで奇跡でも起
ったような再会を果たすのだが、十年という年月は、二人の心の間に思った以上の大きさ
の溝をつくっていた。いくらお互い相手を想う心が十年前と変わらなかったとしても、十
年間それぞれ違った人生を歩いて来た二人にとって、簡単にはその心の溝は埋まらなかっ
た。
この小説を読んで改めて、女性の心の内の微妙さと、一緒に暮らすということの大切さを
思い知らされたような気がした。いくらお互いが想い合っていても、ずっと離れた場所で
暮らしていると、それぞれ違う人生を生きていることになる。頻繁に会っているなら別だ
ろうが、ずっと会わない年月が続くと、二人の人生が絡み合うということが難しくなって
しまう。それは心の繋がりだけでは、どうしようもないことなのだろう。
しかし、ずっと仕事や生活に追われ、心にゆとりのない人生をずっと送ってくると、いつ
の間にか心が硬直し、このような心の機微がわからなくなってしまっている。硬直した心
をほぐすために、時々、こういう類の小説を読むことも大切なような気がする。
この二人のその後の結末は書かれていないが、男性側の小説では、男の未練さが、ミラノ
に去っていく女性を次の列車で追いかけるところで終わっている。たまには「男の未練」
にも、いいところがあるようだ。あの二人が、ミラノで一緒の人生を、新しくスタートで
きることを、ただただ祈るだけである。

人形の足
・マーヴと暮らし始めて一年ちょっとになる。彼は店で私を見初め、再三デートに誘って
 くれた。店というのは私が働いているジェエリー屋だ。いまは週三日のパートタイムだ
 けれど、あのころはフルタイムで働いていた。お金持ちのイタリア人。はじめはそう思
 っただけだった。三十八歳で独身。ペンシルヴァニア出身。ワインの輸入をしていると
 いうマーヴは、論理的で相手の目を見て話し、しかもウィットに富んでいた。イタリア
 人にはない種類のウィットだと思った。食事の誘いを断り続ける理由はなかったし、実
 際、デートはいつも楽しかった。マーヴのインタリジェンスは私を安心させる。じきに
 私はテゾーロと呼ばれるようになり、そこから一緒に住み始めるまでに、たいして時間
 はかからなかった。
・私は夕方お風呂に入るのが好きだ。まだ空気にあかるさの残っている時間。仕事のない
 水曜日と金曜日には、たいてい夕食の仕度までお風呂場にいる。
・みんなが、みんなと言ってもマーヴは別だ。マーヴは別だけれどそれ以外のみんなが私
 を扱いにくいと思っていることは知っている。いつだったか、ダニエラははっきり言っ
 た。「アオイは変ったわ」
・ダニエラは六歳のときからの親友だ。最初に通った小学校で同じクラスだった。「あな
 たが日本の大学にいくと言い出したとき、やっぱり反対すればよかった」毎週水曜日に
 は、放課後一緒にバレエのレッスンに通った。その後私は別の小学校に移ったけれど、
 ダニエラとはずっといちばん仲がいい。母親どうしが親しかったせいもあるのだろう。
 互いの家に、随分頻繁に泊まりにいった。
・私は、ジェエリー店で週に三日売り子をしている。ミラノに戻って半年後に働き始めた
 ので、もうすぐ三年になる。私自身はジェエリーをつけないが、一度だけ店の品物を買
 ったことがある。シンプルな指輪で、一目で好きになった。
・マーヴは秩序を重んじる。私はマーヴのふくらはぎが好きだ。きれいに発達した筋肉。
 私たちはゆっくり愛し合う。マーヴは繰り返しやさしく和足の足指を噛む。はちみつを
 舐めるとくるまるように、私は目をとじて、自分が砂浜の砂になったような気持ちにな
 る。マーヴとのセックスは幸福だ。みたされない理由は一つもない。
・雨はきりもなく降っている。強くはないが、空気にからまり落ちて永遠に止みそうもな
 い雨、世界を檻に閉じ込めようとするかのような雨だ。雨は私を無口にさせる。思い出
 したくないことばかり思い出してしまう。   

五月
・雨は、もう四日も降り続いている。雨は好きじゃない。昼間こうして部屋の中で本を読
 んでいても、陽さの裏に触れるソファの質感が水を含んでいるし、頁をめくるたびに湿
 った紙の匂いがする。図書館の本はとくにそうだ。
・夕方のお風呂は、自分がきちんとした社会生活をしていないことを思い知らされるので
 好きだ。いまの自分に相応しい行為のような気がする。
・仕事は、春の日の動物園の動物のようだ。楽ちんですこし淋しい。店は気に入っている
 し、店員というのも性に合っていると思う。事務的な面で几帳面だし、情に流されない
 たちだから。愛された女性の人生の象徴、としてのジェエリーに惹かれて始めた仕事だ
 った。 

静かな生活
・本棚に、気に入った本を並べておくのが好きだったこともある。アパートの小さな子供
 部屋の本棚には、ファージョンやリンドグレーン、日本の昔話やグリムやカルヴィーノ
 を並べていたし、森茉莉や源氏物語も加わった。成城のアパートの本棚は、山家集や新
 古今和歌集、雨月物語や宇治拾遺物語、谷崎や漱石でいっぱいだった。
・梅ヶ丘のアパートは、小さいけれど居心地がよかった。絵の具と油の匂いがしていて、
 雨の日はそれが一層強くなる。窓からむえる目の前の公園の、長い階段と濡れそぼつ枯
 れ木。ほんとうに死にたくなるような雨であった。あの冬のあの雨。私はあの部屋に閉
 じ込められていた。それまでの幸福な記憶に、信じられないほどのあとからあとから湧
 き出て溢れた愛情と信頼と情熱に。一歩も外に出られなかった。おいで、と、順正は言
 ってくれたのに。おいで、と、採掘したばかりの天然石のような純粋さと強引さ、やさ
 しさと乱暴さで。あの雨。あの街。あの国での四年間。

東京
・「ひさしぶり」朝の日ざしのなかに崇が立っていた。日本の大学で周囲に奇妙な違和感
 を与えた人なつこすぎる笑顔も、板前風に刈り上げた頭もあいからずだ。何年振りだろ
 ろう。崇は日本人学校の同級生で、高校生のときに家族と日本に帰ってしまったのだが、
 その後日本の大学で再会した。
・大学卒業後、崇は大学院に残った。中世文学を専攻していたが、「どういうわけか仏教に
 興味が湧いちゃって」、東京のはずれの仏教大学に入学し直したのだという。
・東京の大学で四年間を過ごし、戻るつもりではなかったこの街に戻った日、三月だとい
 うのに大雪で、翌朝雪に閉ざされたこの庭を眺めたとき、私ははじめて少しだけ泣くこ
 とができたのだった。
・崇は東京の匂いがした。どこがとはいえないが、手も足も気配も、崇の動作のいちいち
 が、私に東京を思い出させる。私たち三人がみんな、「外国から来たかわり者学生」だ
 ったころ、あるいは、日本という国の不当に安心にのみこまれ、アイデンティティを失
 いかけていたころ。
・私は大学のそばのアパートに住んでいて、アパートといっても木造の一軒家、外階段が
 ついており階段も壁もなにもかも白いアパートで、一階と二階に間借人が一人ずつの学
 生向きレントハウスだったのだけれど、順正はあのアパートを、まるで自分の部屋のよ
 うにくつろいで使っていた。もっとも、それは私も同じことで、梅ヶ丘の順正のアパー
 トで、私はどれだけの時間、を過ごしたかわからない。
・私たちはどちらも十九歳で、まだまるで子供だった。そして野蛮な恋をした。野蛮な、
 自分の全部で互いにぶつかりあうような、過去も未来も平気で失くしてしまうような。
・私にとって順正は、はじめてセックスをした男の子ではないけれど、こういう言い方を
 していいなら、はじめてほんとうに身体を許した、すべてを許した、男の子だった。は
 じめての、そして唯一の。 
・どこにいても一緒だった。別々にいてさえも一緒だった。なにもかも話し合った。子供
 の頃のこと、両親のこと、うちにいたお手伝いさんのこと。ニューヨークとミラノとい
 うまるで遠い土地に生まれ育ちながら、私たちはぞっとお互いを捜し続けていたと確信
 してしまったし、孤独だったねと言い合いもした。
・私は順正の話を聞くのが好きだった。川沿いの道で、記念講堂の前の石段で、地下に降
 りるいつもの喫茶店で、私たちの部屋で、順正はやさしい声をしていた。誰に対しても、
 びっくりするほど情熱を傾けて話した。つねに相手を理解しようとし、それ以上に相手
 に理解されたがっていた。私は順正を、引き離された双子を愛するように愛した。
 
秋の風
・順正は無為を嫌った。何もしないこと、何にもならないこと。まるで、母親が目をはな
 したら何をするかわからない五歳児のように、順正は常に何かを探していた。順正の、
 その、情熱。ひたむきさ。そして、行動力。順正は少しもじっとしていない。笑う。喋
 る。歩く。考える。食べる。描く。探す。みつめる。走る。歌う。描く。学ぶ。順正は
 動詞の宝庫だった。
・午前中私は図書館により、サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会の中庭で少し本を読
 んだ。秋らしく気温の低い曇りの日で、そういう日はいつもそうであるように、漆喰と
 煉瓦のクーポラが、普段よりもやや大きく見えた。絵のある食堂に通じる扉の前は、今
 朝も行列ができていた。その行列のわきを抜け、私は教会側の扉から中に入った。一瞬
 なつかしい匂いをかいだように思った。ひどくなつかしい、信じられないほどなつかし
 い、匂いというより空気だった。順正の匂い。あるいはあのころの私たちの匂い。行列
 している人たちの中に、日本人が混ざっていたせいだろう。私は二秒間目を閉じた。錯
 覚でもかまわなかった。錯覚でも全然かまわないから、もうしばらくその匂いを感じて
 いたかった。  

灰色の影
・去年のクリスマスにアメリカに行った。アンジェラとは再会したけど、他の家族には会
 わなかった。他の家族というのはつまりお父さんだ。お母さんは、マーヴの子供の頃に
 亡くなったときいた。父に紹介したいというマーヴに、私は気がすすまないとこたえ、
 マーヴはそれ以上誘わなかった。急ぐこともないね、と言った。いつかまたそういう機
 会もあるだろうから、と。
・アメリカは生活しやすそうな国だった。マーヴの生まれ育った国。私はそれまでアメリ
 カに行ったことがなかったけれど、アメリカは私にとって、いつも特別な国だった。順
 正の生まれ育った国。
・シンプルだ。私はシンプルなことが好きだ。シンプルな男、シンプルな方法。複雑なも
 のはもう一切いやだ。
・許してもらえるのはたぶん幸福なことなのだろう。存在を許してもらえるのは。「僕は
 きみを許さない」かつてそう言われたことがあるのに、そのおなじ私を、マーヴは驚く
 べき寛大さで許してくれる。何度でも。「僕はきみを許さない」あのとき、あれは私に
 とって、全世界から拒絶されたのと同じだった。「なぜそんなことをした?」順正は泣
 いていた。ひどく怒っていたし、それ以上に傷ついていた。「これから先も、たぶんき
 みを許せないと思う」嫌なことを思い出すのは雨のせいだろうか。
 
日常
・春になるとダニエラが無事女の子を出産し、すぐに私は二十九になった。マーヴとすご
 す四度目の誕生日。子供の時分から生きてきた街での、穏やかな生活。それなのに私に
 は、なにもかもがなんだか物語のように思える。勇敢なダニエラが、学校帰りに一緒に
 メレンダをかじったあのダニエラが、結婚して家庭を持って、たちまち小さな愛娘まで
 産んでしまったということのすべてが、なんだか水槽のなかのことのようだ。すぐそこ
 にあるのに手を触れることのできない、音すれも聞こえない、はるかに隔てられた場所。
 もう随分ながいことそんなふうだったような気がする。それともあるいははじめから、
 そうだったのかもしれないと思う。私にとって世界は、親友さえ、いつもすこし遠い場
 所だ。自分と外界とを隔てる薄い膜のようなもの。
・フィレンツェのドゥオモは「愛し合う者たちのドゥオモ」なのだ。フィレンツェのドゥ
 オモには、一度も行ったことがない。いつか行きたいと思っていた。愛する人と登るの
 だと。「フィレンツェのドゥオモ?どうしてそんな場所で?ミラノのドゥオモではいけ
 ないの?」順正は不思議そうな顔をした。二十歳だった。私たちは大学の裏庭にいて、
 ミラノもフィレンツェも、架空の存在みたいに遠かった。「約束してくれる?」あのと
 き私は、普段に似ず勇気をかき集めて言った。私にしてみれば、生まれてはじめての愛
 の告白だったから。フィレンツェのドゥオモにのぼるなら、どうしてもこの人とのぼり
 たい。そう思ったのだった。
・私は帰りに「カエルの庭」によった。石畳の道に車を停め、教会の扉から中に入る。雨
 の日、ここの空気はひどくなつかしい。私はしばらく柱にもたれ、カエルの噴水が雨に
 濡れるのを眺めた。日常はよどみなく流れる。大学を卒業してミラノに帰り、はじめて
 ここに来た日、ここは雪に閉ざされていた。真っ白であかるく、一面に薄陽を反射させ
 ているこの庭をみて、私はやっと、泣くことができたのだった。 
・「なぜそんなことをした?」何年もの時間がすぎたのに、なおこんなにも鮮明にうかび
 あがってくる順正の泣き顔。「なぜそんなことをした?」私は返事をしなかった。かた
 くなに口をひきむすんだままだった。殴られるかと思った。でも順正は殴らなかった。
 湧きあがる怒りをこらえるかのように、小刻みにふるえていた。

手紙
・私はミラノで、順正はニューヨークで、それぞれ似たような経験をした。帰るべき場所
 が他にあるという気持ち。自分が余所者だという気持ち。自分の居るべき場所。それで
 いて東京も日本も、すくなくとも私には、まるでそれはなかった。
・手紙を読んだのは、夜中になってからだった。マーヴが寝室にひきあげるのを待って、
 台所で読んだ。青いボールペンで書かれた、なつかしい順正の文字。デリケートな、と
 てもきれいな几帳面な文字を書く。読み通すのには努力が要った。髪を持つ指に上手く
 力が入らなかったし、途中で記憶がおしよせたり息が苦しくなったりして、何度も中断
 した。
・それが長い手紙だった。「僕はいま梅ヶ丘に住んでいる。きみのよく知っている、あの
 アパートです。学生時代と同じこの部屋で、学生時代と同じようにぶらぶらしている。
 僕はきみにあやまらなければいけない。そのためにこの手紙を書いている。知らなかっ
 たんだ。ここに父が来たことも、父がきみに言ったらしい信じられないような言葉も。
 申し訳なかった。若さや青さのせいにするつもりはないけれど、自分のまぬけさが嫌に
 なるよ。稽留流産というんだってね。どっちみち子供は助からなかったこと、今日はじ
 めて知りました。きみに堕胎を告げられたとき、僕は感情にまかせてきみを責め、のの
 しったね。はずかしいよ」
・読み終わっても、私はしばらく動けなかった。頭の芯が麻痺したようで、ただぼんやり
 と坐っていた。「順正」小さな声でつい呟くと、その言葉は台所に途方もない違和感を
 もたらした。と坊もない違和感と、雪崩のようななつかしさを。便箋をたたんで封筒を
 戻す。指が震えていた。
・信じられなかった。順正から手紙がきたことも、あの青いインクの文字を、こんなにも
 いとおしく憶えていたことも。
・梅ヶ丘。順正。なつかしい言葉が東京の空気とともに私の中に流れ込んできて、手も足
 も隅々まで満たしていた。ふたをした記憶。ふたをして紙に包み、紐までかけて遠くに
 おしやったつもりでいた記憶。なにもかも憶えていた。あの街も、大学生活のありふれ
 た楽しみのひとつひとつも、友人たちも、順正との出来事のすべても。
・妊娠がわかったとき、私はとても怖かった。若くて青かったのは、無論順正だけではな
 いのだ。あの日、雨が降っていた。つめたい、冬の東京の雨。アパートに順正の父親だ
 と名乗る人がきて、そばには誰だか知れない女の人もいて、彼女は名乗らなかったし、
 私も訊きはしなかった。「誰だ?」父親だという人は私をみて不愉快そうに言った。お
 茶を入れようとすると、きみがそんなことをする必要はない、と苦々しげに言った。病
 院でもらった一式、超音波写真や注意事項を印刷した紙、をみつけたのは女の人だった。
・「ちょっと」驚いたように順正の父親に声をかけ、その声は確かに驚いたようではあっ
 たけれど、一方でどこかおもしろがっているようでもあった。あの声を、いまでもとき
 どき夢に見る。 
・中絶について、でも順正は自分を責める必要なんかない。堕胎は私が自分で決めたこと
 だ。怖かった。自分では妊娠をよろこべなかったくせに、順正がよろこんでくれないと
 思うことが怖かった。堕ろしてほしい。順正の口からその言葉を聞くことには耐えられ
 なかった。どうしてそんなことをした。そう言われるほうが百倍もましだった。もう、
 ずっと前のことだ。
・あのとき順正は泣いていた。僕はきみを許せない。これからも許せないと思う。私は彼
 を、あんなふうに傷つけるつもりはなかった。信じられないくらい愛し合っていたのに。
 なにもかもぴったりだったのに。ずっと一緒に生きるのだと思っていたのに。
・気がつくと受話器をとっていた。自分の指があの部屋の電話番号を、もう何年も思い出
 したことのないその特定の数字の組み合わせを、正確にたたくのを、なにか不思議な気
 持ちで眺めた。とても現実に起きていることとは思えなかった。生々しい発信音が聞こ
 え、途端に指先がぞわついた。日本の電話の発信音。はい、阿形です。留守にしており
 ます。お名前とメッセージをとうぞ。息をのんだ。順正の声だった。くぐもってやわら
 かい、順正の声だ。ピーッ、と、耳ざわりな音がした。私はすっかり動転し、数秒間そ
 のまま空白になっていた。それからあわてて受話器を置いた。鳥肌が立っていた。
  
バスタブ
・子供のころ、母によくお風呂の中で歌を教わった。白秋の「この道」や雨情の「雨」、
 「青い目の人形」といった歌たちだ。母は、たぶん日本が恋しかったのだろう。父以外
 頼る人もなく、言葉もできず、淋しかったのだろうと思う。いつも、ミラノの天気を陰
 鬱だと言っていた。
・私はあの手紙をもう諳んじてしまった。あおい。突然手紙を書くことを、許してほしい。
 随分ひさしぶりだね。この手紙を一体どんな風に書き始め、どんな風に書き終えればい
 いのか、僕はさっきから頭を抱えている。
・あおい。その一言で、順正の声がよみがえる。順正は、順正にしかできないやり方で、
 いつもその名前を発音した。あらゆる言葉を。誠実に、愛情をこめて。私は彼に名前を
 呼ばれるのが好きだった。あおい。ごくわずかに躊躇して、やさしい声で呼んだ。その
 声の温度が好きだった。順正の声が聞きたかった。いますぐに聴きたかった。年月など、
 何の役にも立っていない。
・いまならもっと上手に言えるだろうか。あれはあなたが悪かったわけではないと。怖か
 ったのだと。私は子供すぎたのだと。あなたを失いたくなかったのだと。淋しかったの
 だと。東京は、ミラノの日本人学校の中の日本と全然ちがっていたと。一人ぼっちだっ
 たと。子供のころからそうだったのだと。順正だけがそれをわかってくれたと。片時も
 離れたくなかったと。事実始終くっ付いていて、兄妹みたいにどこへでも一緒にでかけ、
 なにもかも楽しかったと。幸福だったと。そして、あんなふうに別かれたくはなかった
 と。
・私は台所の椅子に座ったままじっとしていた。何年も前に順正を失ったときのことを思
 い出していた。なぜ別れなくちゃいけないの?私にとっては縋ったも同然の、やっと言
 ったひとことだった。なぜって?順正はおどろいたようだった。きみっていう人は。信
 じられないな。順正はどんどん傷ついているようだった。いままでと同じようにやって
 いけると思っているのか?傷つくと攻撃的にあるのは男の人の性質なのだろうか。あき
 れるな。吐き捨てるように言った。出ていってくれ。そう言ったとき、順正はもう私の
 顔をみてくれなかった。冬で、羽根木公園には霜がおりていた。出て行かせないで。あ
 のときもいまも、その言葉は、でも頑として、唇の外側には出ていかない。
   
居場所
・私には、帰るというのがどういう意味なのかわからない。帰る場所。それをずっと探し
 ていたような気がするけれど、一度も手に入れたことがなかったようにも思う。順正に
 会いたい。奇妙な情熱で、ただそう思う。会ったところでどうしようもないことはわか
 っている。昔のような恋ができるとは思わない。東京が私の帰る場所だとは思えない。
 ただ、順正と話がしたかった。私の言葉は順正にしか通じない。
・あいかわらず、私の行動範囲はおどろくほど狭い。アパートと、店と、図書館と、あと
 ダニエラの家とスーパーマーケット、店のそばのセンピオーネ公園と、ときどき散歩に
 いく「カエルの庭」くらいだ。
・本の虫。子供の頃に言われた言葉そのままに、店でも客のいないあいだは本を読んでい
 る。結局のところ、人はあまり成長しなうものなのかもしれない。
・仕事以外の時間をすべて自分だけのために仕えるというのは随分と自由なことだ。自由
 で手持ち無沙汰な。あいかわらず私は一日に何度もお風呂に入り、お風呂の中で本を読
 んでいる。  
・人は一体いつ、どんなふうにして、それをみつけるのだろう。眠れない夜、私は、人恋
 しさと愛情とを混同してしまわないように、細心の注意を払って物事を考えなければな
 らない。
・「なぜ日本に行ってみないの?」フェデリカが訊いた。「アメリカ男と別れたのは、そ
 れなりの理由があるんでしょう?理由なり、決心が」私は首をかしげた。何を言われて
 いるのかわからない、というふうに。「私がマーヴのアパートを出たのは、あそこは私
 の居場所ではないと思ったら。日本が私の居場所でなかったのと同じようにね」フェデ
 リカは「人の居場所なんてね、誰かの胸の中にしかないのよ」と、私の顔をみずにそう
 言った。
・誰かの胸の中。私はそれについて考える。私は、誰の胸の中にいるのだろう。そうして
 誰が、私の胸の中にいるのだろう。誰かが、いるのだろうか。順正に会いたい、と思っ
 た。順正に会って話をしたい。ただそれだけだった。

物語
・マーヴが突然店を訪ねてきた。「来月、帰国することに決まった」「会社の決めたこと
 だから」「アオイに一緒に来てほしい」「本気で言っているんだ。ぼくの人生に、アオ
 イにいてほしい。過去はどうでもいい。二度と詮索はしないし、話したくないことは話
 さなくてもいい。ただ、一緒に来てくれればいいんだ」
・ぼくの人生に、アオイにいてほしい。最後だ、と、知っている。マーヴがそんなふうに
 言ってくれるのは最後だ。何年ものあいだ、いつもそばにいてくれたマーヴ。私は目を
 とじて、小さく息を吐いた。
・ずっと、順正といるのだと思っていた。私たちの人生は別々の場所で始まったけれど、
 きっと同じ場所で終わるのだと。出会ってしまった、と、思った。郊外の小さな大学で、
 東京という不思議な街で。ずっと順正といるのだと思っていた。離れられない、と。も
 う過ぎたことだと知っている。約束は、私たちが幸福だったころの思い出にすぎない。
・ゆうべマーヴに電話をかけた。一緒にはいかれない。そう言うのだから早い方がいい。
 そう思いながら、あれから一週間がたってしまっていた。 
・夕方、お風呂の中で本を読みながら、突然自分を孤独だと思った。自業自得の孤独だ。
 マーヴを失ってしまった。かつて順正を失ったように。二人とも、たしかに目の前にい
 たのに。昔からそうだ。私は手を伸ばすことができない。誰かに手を差し伸べられても、
 その手をつかむことができない。遠い日、ミラノに馴染もうとしない母に腹を立て、背
 中を向けた子供のままだ。なにも私に届かない。
・約束してくれる?そう言ったのは私だった。フィレンツェのドゥオモに、あなたとのぼ
 りたいの。一緒にいくのだと思っていた。そのときどこに住んでいるにせよ。私たちは
 一緒にいて、そこから一緒にでかけるのだと。ピクニックみたいに。
・誰かに失礼だとか、悪いことをするとか、そんなことは考えなられかった。どうでもよ
 かった。自分の中の何か、途方もなく強く、がむしゃらな何か、につき動かされるよう
 に、できぱきと用事を片付けた。てきばきと、一つずつ、順正にむかって。
・自分の中に、これだけの意志があったことに驚いてしまう。何の迷いもなかった。あの
 ときにすでに決まっていた。アルベルトの工場で、朝の光の中で、私はただ認めればよ
 かった。フレンツェに行くことを。ドゥオモにのぼることを。順正との約束を、片時も
 忘れたことがなかったことを。 
・三時間後、列車はフィレンツェに到着した。フィレンツェ。街自体が博物館であるとさ
 えいえる、小さく美しい、けれどそれ故に観光業に頼らざるを得ない運命を背負ってし
 まった街。ミラノからたった三時間とは思えない、まるで空気の違う街だ。
・いつのまにか覚悟ができていた。そんなふうに思った。今日ここに来ることを、いつ決
 めたのかと訊かれれば、十年前にとこたえるほかにない。 
・ほんとうに、来てしまった。階段の先に、小さな青空が見える。頂上に近づくにつれ、
 新鮮な空気の匂いがした。一段ずつ、空気に近づく。空に、そして過去に。未来は、こ
 の過去の先にしか見つけられない。 
・のぼってきた階段の丁度裏側、街の反対側が見渡せる場所に来たとき、私の目は、ある
 一点にすいよせられた。その人は、片膝立てて坐っていた。すこしだけ角度のついた、
 でもほぼ真後ろといっていい位置から、私にはそれが順正だとわかった。びくとして、
 とっさに、まさか、と思ったが、そのときはもう確信していた。あれは順正の背中だ。
 間違えるはずがない。順正の背中だ。
・動けなかった。しばらくそこに立ったまま、私は順正を見ていた。小柄な、姿勢のいい、
 十年の歳月を経てもまるで変わっていないようにみえる。なつかしい順正を。
・迷ったのは声をかけるべきかどうはではなく、信じてもいいかどうかだった。いま目の
 前にいる順正があの順正だと、約束通り私の誕生日にここに来てくれたのだと、信じて
 もいいかどうかだった。  
・信じてもいいかどうか、でも決心するより前に、私は歩きだしていた。「順正」会いた
 くて会いたくてたまらなかった、と、告白しているような苦しい声で、その人の名前を
 口にした。
・ふりむいた順正の、記憶よりも削げた頬。息がとまるかと思った。

日ざし
・思考は完全に止まっていた。ぼんやりして、人形のようにうつろだった。あおい。立ち
 上がった順正は、夕日に横顔を照らされていた。学生時代より精悍な顔をしていた。
・来ちゃった。私は言い、でも言葉には何の意味もなかった。私は順正から目を離せなか
 った。私たちはみつめあっていた。Tシャツではやや肌寒い、初夏のドゥオモの夕暮れ
 の中で。
・十年。それはちっぽけなひとかたまりに思えた。つまみ上げてどければ、なかったもの
 になりそうに思えた。十年。でもそれは同時に、めまいを起こしそうに長い年月にも思
 えた。
・すいよせられるように数歩近づき、順正の首に両腕をまわした。そっと。壊してしまう
 のではないかと恐れながら。あるいは、自分がいまこの瞬間に、壊れてしまうのではな
 いかと恐れながら。
・順正の両手が和足を抱きとめたのを感じた。首のうしろで、順正の肌の温度を感じた。
 順正の両腕に力が込められたのが先か、私が強くしがみついたのが先か、思い出すこと
 ができない。ずっと、こうしてかった。いまこうしているよりも、こんなに長いあいだ
 こうせずにいられたことの方が信じられなかった。溢れてとまらない気持ちは、その言
 葉にしかならなかった。
・順正はフィレンツェの町に詳しかった。住んでいたんだ。そんなことを言って、私を驚
 かせた。順正がフィレンツェに住んでいた。ミラノの目と鼻の先の、歴史におぎざりに
 されたようなこの小さな町に。それは後悔に似たせつなさで私の胸をしめつけた。十年。
 なにもかも、信じられない思いだった。
・みつめてばかりでごめん。順正がそう言ったとき、私は自分が叱られたのかと思った。
 不躾だと思っても、どうしても順正から目を離せないのは私の方だったから。実際、私
 たちはたがの外れてしまった恋人たちのようにみつめあった。愛情というより、ある種
 の非現実感の中で。
・非現実感。あれはまさにそれだった。光に満ち、信じられないほどの幸福で、でもそれ
 が幻の放つ光の神々しさだということを、私たちはどちらもどこかで知っていて、知っ
 ていながら頑として受け容れまいとしていた。幻の放つ光。それは日没に似た神々しさ
 で、私たちの身体のすみずみまで満たす。
・私は目の前にいる男性を、完璧な信頼を持って眺めた。その豊かでやわらかな黒い髪や、
 驚きや喜びのひとつひとつに敏感に反応する瞳。ときどき照れくさそうな微笑みを浮か
 べる色うすい唇、育ちのよさをうかがわせる首すじ。知っている。そのひとつひとつを
 かつて私は愛したし、いまもまた依然として、こんなに愛している。
・昔、私たちがどちらも学生で、兄妹のように仲のいい恋人同士だったころ、私は順正の
 部屋に泊れる日が嬉しかった。セックスではなく、ただぴったりくっついて眠れること
 が嬉しかった。そうやって眠っているとき、私たちはたぶん同じ速度で、同じリズムで
 寝息を立てている、と、思えた。未知の母国日本で、同じ細胞に出会った、と。別れる
 ことなどできないと思っていた。別れることも、こんなふうに思い出話をすることも、
 できるはずがないと思っていた。 
・きれぎれに耳元でささやかれる私の名前。私がそうしようと思う前に、私の腕が順正を
 抱き寄せ、私がそうしようと思う前に、私の指が順正の背中を這っていた。ずっと、こ
 うしたかった。これに、焦がれていた。これが欲しかった。もうどうしようもなかった。
・順正が悪いわけではない。それはわかっていた。でも、理屈に合わないが、まるで捨て
 られたような気分になるのを、どうすることもできない。順正はひきとめなかったし、
 私もまた、ひきとめてほしいとは言えなかった。順正に捨てられるのは、これで二度目
 だ。そんなことを思って、弱く苦笑する。
・明日から私は私の生活を、一からつくり直すことになる。仕事をし、最後までやさしか
 ったマーヴを見送って、一から。人は、その人の人生のある場所に帰るのではない。そ
 の人のいる場所に、人生があるのだ。  
・マーヴと別れたことは言えなかった。なぜだか。幸せなんだね。私は前を向いたまま小
 さくうなずいた。ほとんどまばたきほど小さく。
・順正は話始めた。絵画の修復士をめざしてフィレンツェに来たこと、先生に出会ったこ
 と、そして芽実という女性のこと。「子猫みたい」に奔放でわがままで、一途で正直な
 女性のこと。
・わかっていた。私には何もできないのだと。私には手出しできない場所に、このひとは
 もう人生を築き始めている。
・もう一回しよう。愛しているわ。すごくよ。どんなに会いたかったか。もしかしてあな
 たにもわかってもらえないかもしれないくらい。私たちはベッドに倒れ込んだ。部屋じ
 ゅうに溢れかえる白い光のなかで。かなしみに満ちた唇を重ね、ようやく物語を一つ終
 えようとしている身体を重ねた。愛をこめて。絶望の中で。過去と未来のつながった場
 所で。
・おいしいお昼を食べよう。午後の列車で帰るから。順正は表情を変えなかった。私の顔
 をじっとみている。ひきとめてくれない順正の正しさと誠実さを、考えてみれば私は愛
 したのだった。大丈夫だよ、とめたりしないから。私の顔が歪んだことに、順正が気づ
 かなければいいと思った。