肉体の悪魔 :レイモン・ラディゲ

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この作品は、今から98年前の1923年に書かれたものである。作者の処女作であり代
表作である。しかも、驚いたことに、作者が16歳から18歳の時に執筆したものだとい
う。内容は、1917年の第一次世界大戦中における15歳の少年と出征中の夫がいる人
妻との恋愛・妊娠、そして死という、なかなかショッキングな内容である。
作者は、登場人物も事件もすべてフィクションであり自叙伝的な小説ではないと述べてい
たようであるが、自らの体験から生まれたものであることは否定はしなかったらしく、客
観的に見て自伝的要素が含まれていることは疑いの余地はないという見方が一般的のよう
だ。ただ、作者はこの作品が出版された年に20歳の若さで病死してしまったため、真実
はどうだったのかは不明のままのようだ。しかし、作者は幼い頃から学業優秀だったよう
だが、その体験内容といい、こんな作品の執筆といい、なんとも早熟で天才的な少年だっ
たようで、私には大きな驚きであった。
この作品は、100年近くも昔の話ではあるが、現代においてもまったく古さを感じない
内容である。15歳前後の少年と年上の大人の女性との恋愛は、現代においても時々見受
けられるようだ。大人の女性から見て、少年の純粋さに魅かれるのであろうか。しかし、
まだあどけなさの残る少年と言っても、体はもうすっかり大人である。しかも性欲に関し
ては絶頂期にある。幼さから来る純粋さにうっかり気を許してしまうと、その圧倒的な性
欲に押しまくられて、分別のある大人の女性であっても、少年にすっかり主導権をにぎら
れ、翻弄されてしまうではなかろうか。まだ少年だからと気を許してしまうことには危険
が伴うので注意が必要なようだ。
一方、15歳前後の少女と大人の男性との恋愛は数多くあると思うが、このケースの場合
は、一般的に女性側が受け身となることから、少女に大人の男性が主導権を握られるとい
うことは、少ないように私は思うのだが、どうだろうか。
ところで、現代における年上の女性との恋愛・結婚と言えば、フランスのマクロン大統領
が有名だろう。なにしろ、マクロン大統領の奥さんは、なんと大統領の中学時代の恩師で
25歳年上だ。この小説と同じように、当時15歳のマクロンは神童と言われるほど優秀
だったようであるが、マクロンのリクエストで教師だった奥さんが毎週金曜日に個人指導
をしていたようだ。そして次第にマクロンはその女教師に恋心を抱き、17歳の時、「あ
なたがどういう状態でも構わない、僕はあなたと結婚する!」と宣言したという。そして
ついに、マクロン29歳、奥さん54歳の時、結婚したのだ。いやはや、なんともすごい
話だ。この小説といいマクロン大統領の話と言い、さすがは「ジュテーム(Je t’aime)」
の国フランスだと思った。


・僕の両親は男の子と女の子が一緒に遊ぶことには、むしろ不賛成だった。だが、生まれ
 落ちたときから僕たちのうちにあって、まだ盲目の状態にある官能は、こうした遊びに
 よって失うところよりは、得るところの方がむしろ多かった。
・僕は12の年まで色事などしたことはなかった。ただ一度、年下の男の子を使って、カ
 ルメンという名の少女に、胸のうちを述べた手紙を渡したことがある。僕は自分の愛情
 にかこつけて、逢引きをせがんだ。
・僕は自分に似たこの少女だけに目をつけていた。似ているということは、まず彼女は清
 潔な感じだったし、それに、僕が弟と一緒だったように、彼女も妹と連れ立って学校へ
 通っていたのだ。この二人の証人に口止めするために、僕は二人を、夫婦みたいにして
 やろうと考えた。
・校長は手に一通の手紙を持っていた。僕の足から急に力が抜け、本がくずれ落ちた。
 ついに校長は僕を呼んだ。生徒たちのあいだに変な考えを起させないで、上手に僕を罰
 しようと、12行の手紙を一つの間違いもなしに書いたことをまずほめた。校長は僕を
 叱った。僕の道徳観念をひどく戸惑わせたのは、少女を危ない目にあわしけかけたのを、
 (彼女の両親が僕の恋文を校長に届けたのだった)便箋を一枚盗んだくらいにしか校長
 が重要視していないことだった。
・一時は、校長に、父には言いつけないでくれと哀願したくせに、一部始終を父に語りた
 くてたまらなくなった。告白したのは、僕の明けっぱなしな性質かもしれない。父が怒
 らないことを承知しているので、結局、自分の勇敢な行いを父に知ってもらうのがうれ
 しかったのだ。
・父は校長のやり方に気を悪くして、その学年はそのまま済ませて、そのうえで僕を退学
 させようと決心していたのだった。母は、こうしたことが僕の賞に影響しては困ると思
 ったので、賞品授与式の済むまでは、それを言い出すのをひかえていた。自分の嘘の結
 果をあれこれ恐れていた校長の不公平のおかげで、組で僕一人だけが金賞をもらった。
・母は、アンリ四世校に学ぶには僕はまだ若すぎると考えていた。つまり、汽車通学する
 には若すぎるという意見なのだった。そこで僕は二年間家にいて、一人で勉強した。僕
 はどこまでも楽しんでやろうと思っていた。それというのも、もとの級友たちが二日か
 かってもできない勉強を四時間で片づけることができたので、反日以上も暇なのだった。
・僕は一人でマルヌ川のほとりを散歩した。止められていたにもかかわらず、父の舟に
 乗りに行きもした。だが漕ぎはしなかった。父の命令にそむくのがこわかったのではな
 く、ただ恐ろしかったのだ。僕は舟の中で寝ころがったまま本を呼んだ。1913年か
 ら1914年にかけて、ここで二百冊の本を読んだ。それもいわゆる悪書は一冊もなか
 った。むしろ、精神の糧にならなくとも、少なくとも読んで得になる、最良の書物だっ
 た。
・僕は毎日ほんのわずかしか勉強しなかった。だが、他人よりも勉強時間が少なくても、
 彼らの休暇中にもさらに勉強したから、この毎日のわずかな勉強は、猫の尻尾に先に一
 生涯くっつけられているコルクの栓みたいなものだった。
・ほんとうの休暇が近づいてきた。だが、僕にとっては結局同じことなので、まるで気に
 も止めなかった。猫は相変わらず蓋の下のチーズを見ていた。ところが、戦争がやって
 きた。戦争は蓋をこわした。飼い主が他の猫を鞭でたたいているあいだに、この猫は御
 馳走にありついた。
・大異変が前兆なしで勃発することは稀である。オーストリア皇太子の暗殺事件や、カイ
 ヨー裁判の嵐は、途方もないことが起こるには好適な、息苦しいような雰囲気を漂わせ
 ていた。
・生まれて初めて友達ができた。僕は彼の妹と一緒に募金するのが好きだった。生まれて
 初めて、僕は、自分と同じように早熟な少年と仲よくなった。僕たちの年ごろの者に対
 する共通の軽蔑が一層僕たちを接近させた。僕たちは、自分たちだけが、物事を理解す
 ることができるのだと考えていた。結局、自分たちだけが女と遊ぶにふさわしい人間だ
 と思っていた。自分たちこそ大人であると信じていた。
・入学の日は、ルネは僕にとって大事な案内役だった。彼と一緒だと、すべてが楽しくな
 った。自分一人だったら、一歩も歩けなかったこの僕が、アンリ四世校とバスティーユ
 駅とのあいだの道を、日に二回、喜んで歩いて行った。僕たちはこの駅から汽車に乗る
 のだった。
・こうして三年は過ぎて行ったのだが、ほかに友達もできず、また、木曜日に少女たちと
 ふざけて遊ぶことのほかに別に楽しい期待もなかった。この日には、ルネの両親たちは
 息子の友達と娘の友達とを一緒にお茶に招待してくれて、別にそのつもりはないのだが、
 彼女らを僕たちにあてがってくれるようなことになった。
 1917年の4月のある日曜日、いつものように、僕たちはラ・ヴァレンヌ行の汽車に
 乗った。そこから徒歩でオルメソンに行くのだ。父は、ラ・ヴァレンヌでグランジェ家
 の愉快な人たちと落合うことになっていると僕に言った。ある絵画展覧会の目録で、マ
 ルトという彼らの娘の名前を見たことがあったので、僕はこの一家のことを知っていた。
・マルトは、次の汽車で来るはずだった。汽車が駅に入って来たとき、マルトは、客車の
 ステップに立っていた。「汽車が止まるまでお待ち!」と母親が叫んだ。このお転婆娘
 は僕を有頂天にした。しごくあっさりした服、帽子は、知らない人にはどう思われよう
 とかまわないといった彼女の気持ちを示していた。彼女は十一歳くらいの少年の手を引
 いていた。彼女の弟だった。
・僕は彼女が文学についてどんな趣味を持っているか探りにかかった。彼女がボードレー
 ル とヴェルレーヌを知っていることをうれしく思い、僕の愛し方とは違うけれども、
 彼女のボードレールを愛するその愛し方に魅惑された。
・彼女が婚約の身であることを知って一瞬不愉快な気持ちに打たれたが、ボードレールを
 こわがるほど馬鹿な兵隊の言うことなどきかない彼女を知ってうれしくなった。この男
 はきっとたびたび彼女を怒らせたに違いないような気がして、小気味とかった。
・彼女の婚約者は絵画研究所に行くことも禁じていた。僕はついぞ一度もそんな所には行
 ったこともないくせに、案内してあげようと言った。裸体の女を見ることを両親から禁
 じられているので、研究所通いを隠しているのだ、というふうに彼女に思われたくなか
 ったのだった。二人のあいだに秘密ができたことがうれしかった。そして小心な僕が、
 彼女に対しすでに暴君じみてきているのが感じられた。
・マルトに恋を抱いていた僕は、ルネや、両親や妹たちのことは愛さなくなっていた。
・彼女の家まで、十五分ばかり、僕はまるで気違いのように走った。それから、食事中の
 彼女に迷惑をかけることになりはすまいかと恐れて、汗をびっしょりかいたまま、十分
 ばかり、門の前で待った。ぼくは引き返しかけた。だが、しばらく前から、隣の窓から
 一人の女が、門の陰に隠れた僕が何をしているのかを知ろうとして、好奇の目を光らせ
 ていた。この女が僕を決心させた。僕は呼鈴を鳴らした。出てきた女中に、奥様はいら
 っしゃるかと訊いた。ほとんどすぐに、僕の通された小さな部屋にグランジェ夫人が姿
 を現した。僕は思わずはっと飛びあがった。礼儀上奥さまに案内を乞いはしたが、実は
 お嬢さんに会いに来たのであることを女中は覚ってくれるべきであったとでもいうよう
 に。僕は顔をあからめながら、こんな時間にお邪魔したことをお許しくださいと詫びた。
 それから、木曜日に来られなくなったので、お嬢さんに本と新聞を届けに来たのだと言
 った。「マルトはお目に書かれませんでしたのよ。あの娘の婚約者が、思ってたよりも
 半月早く休暇がとれましてね。昨日帰って参りましたの。それでマルトは、今夜は、未
 来のお舅さんのところに夕食をいただきに行っていますのよ」そこで僕は辞去した。そ
 して、もう二度と会える機会はありまいと思った。だが、僕は彼女のことばかり考えて
 いた。
・ところが、それから一カ月たったある朝のこと、バスティーユ駅で汽車から飛び降りる
 と、マルトが別の車から降りてくるのを見かけた。結婚支度で、いろんな買物をしに行
 こうとしているところだった。
・彼女がどうしてこんなに弱気なのか、僕にはよくわからなかった。「僕を愛していない
 のだとしたら、なぜ、僕に譲歩し、自分の好みやあの青年の好みを、僕のそれの犠牲に
 するのだろう?」と僕は考えた。僕には全然見当がつかなかった。どう謙遜して考えて
 みても、マルトが僕を愛しているとしか考えられなかったであろう。だが僕はその逆を
 信じ込んでいた。
・へとへとに疲れきったこの一日が終わるころになると、僕は着々と歩を進めることがで
 きた自分を祝福した。家具を一つ選ぶごとに、この恋愛結婚、というよりはむしろ出来
 心の結婚を、理性結婚に変えることができたのだった。ところでどんな理性結婚だとい
 うのだろう!だって、お互いに、相手のうちに恋愛結婚のもたらす美点しか見ていない
 ので、そこには、理性は全然関与していないではないか。
・僕にとっては、この恋愛の終局はどうなろうと、彼女のジャックから前もって仇をうた
 れているようなものだった。というのは、あの厳粛な部屋で行われる彼らの新婚の夜の
 ことを僕は考えているのだった。
・人が何か一つのことを熱望して、いつも同じことばかり思い詰めて日を暮らし、それし
 か眼中にないと、その要望が罪であることにもはや気づかなくなるものだ。
・彼女のそばにいると、僕の心は麻痺してきた。僕には彼女がこれまでとは違った人間に
 見えた。それは、もはや彼女を愛していないと確認している今、実は彼女を愛しはじめ
 ていたからだった。打算とか術策とか、このときまで、いやこのときもなお、恋愛には
 つきものと信じていたものが、自分には到底できそうもなく思われてきた。いきなり自
 分が立派な人間になったという気がした。
・数カ月前、彼女の会っていたころは、愛していると称しながらも、彼女を批判し、彼女
 が美しいとするものの大部分を醜いとし、彼女の言う大部分のことを子供っぽいとせず
 にはいられなかった。それが今では、もしも彼女と意見が違うと、自分が間違っている
 と思うようになっていた。はじめは野卑な欲望が僕を欺いていたのだが、今は、ずっと
 奥深い、優しい感情が欺いているのだった。やろうやろうと決心していたことが、もは
 や何一つできそうになく思われた。僕はマルトを尊敬しはじめていた。なぜならば、彼
 女を愛しはじめていたから。
・彼女は髪をほどいて、火のそばで眠るのが好きだった。というよりはむしろ、眠ってい
 ると僕が思い込んでいたのだった。僕はこの狸寝入りを利用して、彼女の髪や、首筋や、
 燃えるような頬の匂いを嗅いだ。彼女が目を覚まさないように、これらにそっと触れな
 がら。あらゆる愛撫は、ひとが思っているように、愛情の小銭ではない。それどころか、
 情熱だけが使用することのできる最も貴重な貨幣である。僕はマルトを欲していたが、
 自分ではそれがわかっていなかったのだ。
・僕の片腕に頭をもたせかけて、彼女がこうして眠っているとき、僕は、炎に包まれたそ
 の顔を見ようと、彼女の上にかがみこんでいた。こうして僕は、僕の唇が彼女の唇に押
 し付けられているのを感じたのだった。だが、明らかに、眠ってはいない人のようだっ
 た。僕は彼女に接吻して、自分の大胆さにわれながら驚いたが、僕が彼女の顔に近づい
 たとき、僕の顔を自分の唇に引き寄せたのは、実は彼女だった。彼女の両の腕は、僕の
 首にしがみついていた。難破にあった場合でも、これほど激しくしがみつくことはある
 まい。
・僕は、彼女の方から接吻したことを忘れてしまって、彼女の唇に唇を押しつけるなんて
 実際馬鹿げたことをしたものだと考えならが、せっかくのいい気分を台なしにしてしま
 った自分を責めた。「あんた、帰らなくちゃいけないわ。もう二度といらしちゃ駄目よ」
 怒りの涙が苦しみの涙に混じってきた。
・こんなに火が燃えているのに、僕はぶるぶる震え、歯ががたがた鳴った。僕を少年時代
 から抜け出させた本当の苦しみに、子供っぽい感情も加わっていた。「誰が帰るもんか。
 あなたは僕を馬鹿にしているんだ。二度とあなたの顔なんか見たくないよ」
・だが彼女はすすり泣いていた。「あんたってまるで子供ね。だから、帰ってちょうだい
 って頼むのは、わたしがあんたを愛しているからだってことがわからないのね」
・彼女には妻としての義務があることも、夫が出征していることも、自分はよく承知して
 いると、僕は憎悪をこめて言ってやった。
・彼女は頭を横に振った。「あんたを知る前は、わたし、幸福だったわ。婚約者を愛して
 いると思い込んでたんですもの。わたしをよく理解してくれなくても、わたしは許して
 たわ。わたしがあの人を愛していないことをわたしに教えたのは、実はあんたなのよ。
 わたしの義務は、あんたが考えているようなものじゃないわ。それは、夫を裏切らない
 ことじゃなくて、あんたを裏切らないことよ。さあ、帰ってちょうだい。後生だから、
 わたしのことを悪い女と思わないでね。そうよ、わたし、あんたの一生を不幸にしたく
 ないわ。わたし、泣いているのよ。だってわたし、あんたにはお婆さんすぎるんですも
 の!」
・今後、僕がどんな情熱を感ずることがあるとしても、十九歳の少女がお婆さんすぎると
 言って泣くのを見て覚えたこうしたすばらしい感動は、おそらく二度と経験することは
 ないであろう。
・これまでは、ほしくてたまらないものも、子供なるがゆえにあきらねばならなかった。
 玩具がひとりでにやって来たものだから、子供はどんなに有頂天になることだろう!僕
 は情熱に酔っていた。マルトは僕のものだった。しかも、そう言ったのは、僕ではなく
 て、当の彼女なのだ。僕は自分の思うがままに、彼女の顔にさわり、目や腕に接吻し、
 着物を着せてやり、また彼女をもみくちゃにしてやることさえできた。
・僕は彼女の乳房に接吻できたらと思った。だが、唇と同じように、そのうち彼女の方か
 ら 提供してくれるだろうと思って、あえてそれを求めようとはしなかった。それに、
 数日後には、彼女の唇に接吻する習慣がついてしまったので、それ以外の快楽は考えな
 くなってしまった。
・婚約の当初はジャックに一緒の愛情を抱いていたが、戦争のたえに婚約の期間があまり
 にものびのびになり、彼女の愛情もだんだん冷めていったのだった。結婚したときには、
 彼女はもはやすでにジャックを愛していなかった。
・実際は、僕は彼女のことを、むしろ、新婚当初の十五日間を見知らぬ男に預けられて、
 その男のために数回手ごめにされた処女のように考えてはいなかっただろうか?
・夜、一人寝床の中でマルトの名前を口に出して叫んだ。自分では一人前の大人と信じて
 いるくせに、彼女をわがものにしてしまうほど大人ではなないことが、われながら恨め
 しく思われた。毎日、彼女の家に出かけるたびごとに、今日こそは彼女をものにしない
 では帰るまいと心に誓うのだった。
・恋愛関係ができた当初から、マルトは部屋の鍵を僕に渡していた。 
・僕は寝台に入っていた。マルトもあとから入ってきた。僕は灯を消すように頼んだ。
 「駄目。わたし、あんたの眠っているところが見たいんですもの」優しさに満ちあふれ
 たこの言葉を聞いて、なんだか気詰まりを覚えた。僕はこの言葉の中に、一切を賭して
 僕のものになろうとしているこの女性、僕の病的な臆病を見抜くことができないで、自
 分のそばに僕が寝ることを許したこの女性の痛ましい愛情を見た。四カ月このかた、僕
 は彼女を愛していると口では言っていたが、まだその証拠は与えていなかった。男たち
 があんなにも惜しげもなく与え、そしてしばしば彼らの愛情のかわりをしているあの証
 拠を。
・戸の前で待っているのと同じで、愛情の前でそう長くは待っていられるものではなかっ
 た。それに僕の想像力は、それがもはや考え及ばないほどの快楽を期待していた。彼女
 のすばらしい瞳は僕の不安を十分に償ってくれた。
・これまでの心配がなくなってほっとすると、さらに別な心配が頭をもたげてきた。それ
 というのは、臆病なためにこれまでやりかねてたあの行為の力がやっとわかってみると、
 マルトが、自分で言っている以上に夫のものではあるまいかと心配になってきたのだっ
 た。
・生まれてはじめて経験したこの味は僕にはまだよく理解できないので、こうした恋の遊
 びは日一日とだんだんに知って行くよりほか仕方がなかった。だが、それまでは、また
 本物となりきらない快楽は、男性のほんとうの苦しみを僕にもたらした。それは嫉妬で
 ある。
・僕はマルトを恨んだ。なぜなら、感謝に輝いた彼女の顔で、肉体の関係がどれほどの価
 値を持つものであるかが僕にもわかったからだった。僕は、自分より前に彼女の肉体を
 目ざめさせた男を呪った。僕はマルトの中に処女を見ていた己れの愚かさを知った。
・僕たちはほとんど何も自由に処理することのできない、まだほんの子供にすぎないこと
 を、一緒に泣き悲しんだ。マルトを奪おう!彼女は僕以外の誰のものでもないのだから、
 結局、僕の方が彼女を奪われのだ。なぜといって、人々は僕たちの仲をさくだろうから。
 すでに僕たちは戦争の終りを考えていた。戦争の終りは、また僕たちの恋の終りでもあ
 ろう。僕たちはそれを知っていた。マルトがいかに、すべてを捨てて僕のあとを追って
 くると誓っても無駄だった。僕はひとに反抗できる性質ではないし、また、マルトの身
 になって考えてみても、そんな無茶な離婚は想像できなかった。
・僕は若さにあまりにも敏感だったので、マルトの青春が色あせ、僕のそれが花開くあか
 つきには、おそらく彼女から離れるだろうと考えていた。
・裸のまま、僕たちはいつしか寝込んでいた。目が覚めてみると、彼女が布団をはいでい
 るので、風邪をひきはしないかと心配になった。体にさわってみた。燃えるように熱か
 った。その寝姿を見ていると、激しい欲情がむらむらとわいてきた。十分たつと、この
 欲情は耐えがたく思われてきた。僕はマルトの肩の上に接吻した。彼女は目を覚まさな
 かった。
・従容として死に直面するということは、一人の場合でなければ、問題になり得ない。二
 人で死ぬのは、神を信じない人々にとっても、それはもはや死ではない。悲しいのでは、
 生命と別れることではなくて、生命に意義を与えるものと別れることである。恋愛がわ
 れわれの生命であるときは、一緒に生きていることと、一緒に死ぬこととのあいだに、
 どんな相違があろう?
・皮のほとりに散歩に出かけた。僕たちは、自分たちの態度がひどく無作法なのにも気が
 つかず、ぴったり寄り添って歩いていた。指はからみあっていた。日和に恵まれた第一
 日曜日だったので、まるで雨のあとの茸のように、麦藁帽子の散歩者があちらこちらに
 見えた。マルコの知人たちは、彼女に挨拶するのを遠慮していた。だが彼女の方は、な
 んにも気づかずに、無邪気に挨拶の言葉をかけていた。
・僕は胸の中でこんなことを考えていた。今はこんなにもマルトの愛を信じているが、こ
 とによると、これが子供だましのように思われるときが来るのではあるまいかと。とい
 うのは、僕はしばしば彼女の愛を疑っていたのだった。時として、自分は彼女にとって
 は単なる暇つぶしのお相手ではあるまいか、平和が彼女を妻の義務に呼び戻せば即刻捨
 て去ることのできる気紛れの対象ではありまいか、と考えることがあった。だが、口や
 目が嘘をつけない瞬間がある、と僕は自分に言いきかせた。嘘をつけない瞬間こそ、ま
 さしく一番嘘をつく、とりわけ自分自身に嘘をつく瞬間なのだ。
・こうした僕の洞察は、僕の世間知らずの一層危険な一つの形でしかなかった。自分では
 そんなに世間知らずではないつもりでいたが、別の形で世間知らずだったのだ。なぜな
 らば、幾つになっても、世間知らずというものはあるからだ。大人の世間知らずだって、
 そんなに少なくはない。
・自分が子供っぽく見えることを恐れて、愛している相手にも決して口外しない大切なも
 のがあることを僕は知り抜いていたので、マルトの、あの痛ましい羞恥心が心配だった。
 そして彼女の心の中に入り込めないで苦しんでいた。
 ・ところで、父は無意識のうちに、僕のこの初恋に加担していた。僕の早熟がどうにか
 固まることを喜んで、むしろ僕の恋を励ましていた。父はまた、僕が悪い女にひっかか
 りはしないかといつも心配していた。だから僕がちゃんとした女性に愛されていること
 を知って、満足していた。マルトが離婚を望んでいる証拠をはっきり知った日に、父は
 はじめて怒った。
・母の方は、僕たちの関係を、父のようにいい目では見ていなかった。母や妬いているの
 だった。マルトのことを恋敵のような目で見ていた。僕が愛すればどんな女でもそうな
 ることと気がつかずに、母はマルトを虫の好かない女だと思っていた。そのうえ、世間
 の噂を父以上に気にしていた。マルトが僕のような腕白小僧相手に危ない遊びをしてい
 ることが、母には不思議でならなかった。母は、僕がこの気違い女に堕落させられたと
 思っていた。僕にその女を引き合わせておきながら、今は目をつぶっている父を、母は
 たしかに非難していたに違いなかった。
・僕は毎晩マルトの家で泊っていた。すでに、しばらく前から、家主の家族や老夫婦は、
 かなり悪意のある目で僕を見て、僕が挨拶してもほとんど答えなかった。
・それに、マルトの評判は悪くなっていた。それはすでに久しい以前からのことだった。
 噂では、実際よりずっと前から彼女は僕のものだとされていた。僕たちはそれに全然気
 づかなかった。 
・僕は、再び絵画研究所に通いはじめた。というのは、ずっと以前から、僕はマルトをモ
 デルにして裸体画を描いていたのだった。
・色事に愛情は邪魔物のように思っていたルネは、マルトに対する僕の情熱をひやかして
 いた。彼の皮肉に耐えかねて、卑怯にも僕は、本当の愛情なんか持っているものか、と
 放言した。
・僕はマルトの愛情に麻痺しはじめていた。一番僕を苦しめたのは、僕の官能に課せられ
 た断食だった。
・マルトに対しては、いかなる後悔も感じなかった。ぼくはどうかしてそれを感じようと
 努力した。もしも彼女がだましたら僕は断じて許さないだろう、と自分に言ってみたが
 やはり駄目だった。どうにも仕様がなかった。そこで僕は口実として、「男と女は違う
 んだ」と、エゴイズムが返答を用いるあの陳腐きわまる調子で、自分に言いきかせた。
・グランジェ夫人は気の毒なジャックとたびたび口論した。夫人は、娘に対する彼の不器
 用を責め、彼の娘をやったことを後悔していた。娘の性格が急に変わったのは、ジャッ
 クのこうした不器用のせいだとしていた。
・ジャックはついに折れた。そこで、帰って来てから数日後に、マルトを母のもとに送っ
 ていった。ジャックは元気なく戦線に帰って行った。みんなは、こうした危機を、マル
 トが送っているいらただしい孤独の生活のせいにした。というのは、彼女の両親とジャ
 ックだけが、僕たちの関係を知らなかったのだ。家主の家族は、軍服に対する尊敬から、
 ジャックには何事も知らせかねていた。
・初め、僕は、彼女が夫に対してあんなに意地悪く当たったことを軽く叱った。だが、ジ
 ャックからの最初の手紙を読んだとき、すっかりあわててしまった。もはや愛してもら
 えないのから、自殺するくらいはいとたやすいおとだ、と彼は言っていた。僕は「恐喝」
 を見分けることができなかった。死ねばいいと思っていたことを忘れて、その死に自分
 が責任あるように思った。
・僕はますます不可解な人間になり、ますます常軌を逸した人間になった。どちらを向い
 ても、傷口が開いていた。マルトは、もうこれ以上ジャックに希望を持たせない方がま
 だしも人情のある仕打ちだ、と僕にくり返したがききめはなかった。僕はむりやり、優
 しい返事を書かせた。
・僕たちの関係は、平和が訪れて、軍隊が帰還してくれば、それでおしまいだった。ジャ
 ックが妻を追い出せば、彼女は僕の手中に残るであろう。だが、妻を離さねば、僕には
 力ずくで彼女を奪い返すことは出来そうになかった。僕たちの幸福は砂上の楼閣だった。
 だがここでは潮の満ちてくる時間は決まっていなかったので、上げ潮ができるだけおそ
 く来ることを僕は望んでいた。
・僕の冒険には、いつも町会議員が一役演じていた。マルトの部屋の下に済んでいる。マ
 ラン氏は町会議員だった。戦前から引退していたが、手近な機会さえあれば、祖国に奉
 仕したいものだと思っていた。だが、お正月でも近づかない限りは、お客もしなければ、
 ひとを訪ねもせず、細君と二人で引きこもっていた。
・数日前から、下ではごった返していた。僕たちの部屋からは下のちょっとした物音も聞
 こえるだけに、何が始まったのかははっきりわかった。僕たちは牛乳屋の口から、マラ
 ン家では何か秘密な名目で、奇想天外な大宴会が準備されていることを知った。奇想天
 外の余興というのは、マルトと僕だった。僕の汽車友達で、名士の人の息子が、親切に
 もその秘密を僕に漏らしてくれたのだった。マラン夫婦の慰みは、夕方ごろ僕たちの部
 屋の下にいて、僕たちの愛撫を盗み聞くことであったのを知って、僕がどんなにびっく
 りしたか、想像していただきたい。
・彼らはこの盗み聞きに興味を覚えて、自分たちの楽しみを公開しようと思ったのだ。も
 ちろん、尊敬すべき名士たるマラン夫婦のことだから、この破廉恥な行為にも道徳的な
 意義を持たせたに違いない。彼らは、町の立派な紳士とされているすべての人々に、自
 分たちの憤慨な気持ちを分け持たせたいと思ったのだった。
・客人は席についていた。マラン夫人は僕がマルトの家に来ているのを知っていたので、
 彼女の部屋の下に食卓を設けていた。夫人はいらいらしていた。家族の者をあっけにと
 らせたいのと、同年輩の者の義理から、親を裏切って秘密を漏らしてくれたあの青年の
 おかげで、僕たちは沈黙を守った。僕はマルトに、この持ち寄りの宴会の動機を言い
 出しかねていた。柱時計の針をにらんでいるマラン夫人のゆがんだ顔や、お客のいらい
 らしている姿を、僕は思い浮べていた。とうとう七時ごろになると、夫婦づれのお客た
 ちは、マラン夫婦のことをペテン師だとか、また七十歳になる哀れなマラン氏のことを
 野心家だとか、小さな声でささやきあいながら、獲物なしで帰って行った。
・恋愛ほど人を夢中にさせるものはない。人は恋愛しているからこそ怠惰なので、そのた
 めにその人が怠け者であるとは言えない。恋愛は、その唯一の実際的な誘導療法は仕事
 であることを漠然と感じている。だから恋愛は仕事を敵視している。そして、いかなる
 仕事をも許さないのだ。だが恋愛は恵み深い怠惰だ。ちょうど、豊かな実りをもたらす
 静かな雨のように。
・青春時代が愚かしいというのは、そうした怠惰を経験しなかったからだ。われわれの教
 育組織の弱点は、その数が多いからと言って、凡庸な人間を対象としているところにあ
 る。歩みつづけている精神にとっては、怠惰などはあり得ない。僕は、ある人の目には
 空虚に見えたかもしれないあの長い日々以上に、多くのものを学び得たことはない。そ
 のあいだに、成り上がり者が食卓で自分の動作に気を配るように、僕は自分のうぶな心
 をじっと観察していたのだった。
・マルトの家に泊まらない日には、つまりほとんど毎日、夕食がすむと、僕たちはマルヌ
 川の岸辺を散歩した。僕は父の小舟のともづなをといた。マルトが漕いだ。僕は寝そべ
 って、彼女の膝の上に頭をのせた。
・恋愛はその幸福をひとにも分からせたがるものである。だから、かなり冷たい性質の女
 性でも優しくなり、こちらで手紙を書いている最中に首に抱きついたり、いろいろな情
 をそそるようなことをしたりする。僕も、マルトが何か仕事をしていて僕から気をそら
 しているときほど、彼女に接吻したい欲望を感じたことはないし、彼女が髪を結ってい
 るときほど、彼女の髪に触って、それをこわしてやりたい欲求を感じたことはなかった。
・小舟の中で、僕が彼女にとびかかり、接吻の雨を降らせると、彼女は櫂を手ばなし、小
 舟は、藻や白や黄の睡蓮に絡まれたまま漂った。こうした僕の動作を、彼女は、制御し
 きれない情熱の現れだと取っていたが、実は、邪魔してやりたいという実に強い偏執が
 特に僕を駆り立てていたのだった。それから僕たちは小舟を高い茂みの陰につないだ。
 人に見られはしないだろうか、舟がひっくり返りはしないだろうかという心配で、僕に
 は、僕たちの戯れが幾層倍か肉感的なものになった。
・これまでには僕の唇以外の唇は決して触れたことはないということを誓わせたのちに、
 僕は彼女の肌の一隅に接吻して、ジャックもできかなったほどに彼女を所有しているの
 だと一人で決め込んでいいたが、実はこれは放縦な遊びにすぎなかったのだ。僕は自分
 でそれを認めたいたであろうか?どんな恋愛にも、青年期、壮年期、老年期がある。何
 か技巧の助けを借りなければ、もう恋愛が僕を満足させてくれないあの最後の段階に僕
 は来てしまったのだろうか?
・これは一時的なことだという気持ちが、まるで芳香のように僕の官能を刺戟した。行き
 ずりの女相手に愛情もなしに経験する快楽にも似た、一層獣的な快楽を味わったことは、
 他の快楽を味気ないものにした。
・僕はすでに、清浄で自由な眠りを、新しいシーツの寝床で一人寝る心地よさを、楽しみ
 はじめていた。用心深く振る舞わねばならないことを口実にして、僕はもはや、マルト
 の家に泊りに行かなかった。 
・僕の快楽と苦痛はもとよりずっと強くなっていた。マルトの横で寝ていると、刻々に、
 両親の家に帰って一人で寝たくなったが、これは同棲生活の煩わしさを僕に推測させる
 ものだった。そのくせ一方では、マルトなしの生活を想像することはできなかった。僕
 は姦通の罰を思い知らされ始めていた。
・もしも心が理性のしらない道理を持っているとすれば、理性が心よりも道理にしたがっ
 ていないからだと認めねばならない。たしかに、人間はだれでもナルシスで、自分の姿
 を愛したり憎んだりするが、他の一切の姿には無関心である。この類似の本能が、生活
 においてわれわれを導き、ある風景、ある女、ある詩の前でわれわれに「止れ!」と叫
 ぶ。こうした衝動を感じないで、他の風景、女、詩に感嘆を覚えることもありはするが、
 類似の本能だけが、不自然ならざる唯一の行動指針である。だが、社会では、粗野な人
 間だけが、いつも同じ型を追いかけているので、道徳に反していないように見えるのだ。
・数日前からマルトは、別に悲しげな様子はないのだが、なんだかぼんやりしているよう
 に見えた。彼女はこれまでよりも幸福そうだった。だが、それは、何か異様な幸福で、
 彼女はそれに気詰まりを感じているようだった。マルトは妊娠していることを僕に言い
 出しかねてるのだった。 
・僕はこの知らせを聞いて、自分が喜んでいるふうに見えてほしいと思った。だが、まず
 第一にこれはぼくをびっくりさせた。何事にせよ、自分に責任が持てようなどと考えた
 こともなかったのに、一番手に負えない責任を背負い込んだのだ。これを至極簡単なこ
 とに考えてしまえるほどに大人になっていないのが、腹立たしくもあった。
・マルトは言いにくそうに話しだした。僕たちを近づけるはずのこの瞬間がかえって僕た
 ちの仲を割きはしないかと、彼女は恐れていたのだった。僕がいかにもうれしそうなふ
 うに装ったので、彼女の心配は消えた。彼女にはブルジョワ道徳の痕が深く残っていた。
 だからこの子供は、彼女には、神さまがいかなる罪も罰したまわず、僕たちの愛情に報
 いてくださった証拠のように思えたのだった。
・マルトは、今は、妊娠した以上僕から決して捨てられるはずはないと思っていたが、僕
 の方は、この妊娠にはたと当惑してしまった。僕たちの年ごろでは、われわれの青春を
 束縛する子供を持つということは、できないことでもあり、不当なことでもあるように
 思われた。僕は物質上の心配をした。僕たちの家族から見放されるかもわからないと思
 ったのだった。
・すでにこの子供を愛していた僕は、愛すればこそ、拒む気持ちになっていた。子供の悲
 劇的な生について、責任を持ちたくなった。そうした生を送ることは、自分自身だって
 できなかったであろう。
・本能はわれわれの案内人だ。しかもわれわれを破滅に導く案内人だ。昨日は、マルトは
 自分の妊娠が僕たちの仲を疎遠にしはしないだろうかと恐れていた。ところが今日は、
 これまでにこれほど僕を愛したことのない今日は、僕の愛情も自分の愛情と同じように
 深くなったものと信じていた。ところが僕の方だが、昨日はこの子供を拒んでいたのに、
 今日は、マルトに対する愛情を割いてこの子供を愛しはじめていた。
・今は、マルトの腹に唇を押し当てていても、僕が接吻しているのは、もはや彼女ではな
 くて、僕の子供だった。ああ!マルトはもはや僕の女ではなくて、一人の母性だった。
・この異常な時期がすぎると、特殊な状況のために妻にだまされた多くの兵士同様に、不
 品行の名残りはいささかも残っていない。寂しげで従順な妻を、彼は再び見出すであろ
 う。だがこの子供は、彼女が休暇中に夫との交わりを許さない限りは、夫には説明つか
 ないものだった。卑怯にも、僕はそうすることを彼女に頼んだのだった。
・これまでの幾度か争いをしたが、今度の争いほど奇妙な、またつらいものはなかった。
 それにしても、大した反響を受けないのが僕には意外だった。あとになって、その訳が
 わかった。マルトはこの前の休暇にジャックに征服されたことを、僕に告白しかねてい
 たのだった。 
・ある日のこと、汽車で、いつか保証人にマルトと会うことを禁じられた例のスウェーデ
 ン娘に会った。孤独をかこっていた折だったので、僕はこの少女の子供っぽさに興味を
 ひかれた。翌日こっそりお茶を飲みに来ないかと誘ってみた。相手が怖気づかないよう
 に、マルトが留守なことは隠していた。そして、彼女もどんなにか喜ぶだろうとまで付
 け加えた。
・彼女は一種の異国趣味で得をしていて、何か一言しゃべるごとに僕を驚かせていたが、
 僕の方は、彼女を驚かすような話は何一つ見つけ出せないからだった。互いに言葉のよ
 く通じない者が、こうして急に親しくなることほど楽しいものはない。彼女は青い七宝
 のちりばめられた小さな金の十字架を首にかけていた。それは、かなり不格好な着物に
 上に下がっているので、僕は僕の趣味なりに着物を作り直していた。本当に生きた人形
 だ。客車の中などでなく、もっとほかの所でもう一度こうして差し向かいになりたい欲
 望がむらむらとこみ上げてくるのを僕は感じた。
・彼女は、前日スウェーデンから送ってきたという、双生児の妹の写真をバンドバックか
 ら取り出した。 彼女のお祖父さんのシルクハットをかぶり、素っ裸で馬に乗っている
 姿だった。僕は真っ赤になった。この妹はあまりにも彼女によく似ているので、僕をか
 らかうつもりで自分自身の写真を見せているのではないかと疑ったほどだった。僕は唇
 をぐっと噛みしめて、この無邪気なお転婆娘に接吻したがっている唇の欲望を押さえて
 いた。僕はよっぽど獣のような表情をしていたものに違いない。なぜといって、彼女は
 びくびくしながら、危険信号をじっとうかがっていたから。
・翌日彼女は四時にマルトの家にやって来た。マルトはパリに行っているが、すぐに帰っ
 て来るだろう、と僕は言った。僕は無理強いにリキュールを一杯飲ませた。飲ませたあ
 とで、 まるで小鳥でも酔っぱらわせたように、彼女のことがかわいそうになった。彼
 女が酔えば、僕の計画どおりになると僕は期待していた。というのは、彼女が唇を与え
 てくれるのは、喜んで与えてくれるのであろうと、そうでなかろうと、僕にとってはほ
 とんど問題ではなかったから。マルトの部屋でこんなことをするのは不謹慎だとは思っ
 たが、結局僕たちの愛から何も取り去るわけではないと自分に繰り返した。僕はスヴェ
 アを果実のように欲しているのであった。恋人はなにも嫉くには当たらないことなのだ。
・僕は彼女の手を握っていた。そうした自分の手はひどく不格好に見えた。僕は彼女の着
 物を脱がせ、腕にかかえて軽く揺すぶってやりたかった。彼女は長椅子の上に横になっ
 ていた。僕は立ち上がって、髪のはえぎわの、まだうぶ毛のところに身をかがめた。彼
 女が黙っているからといって、僕の接吻で彼女が喜んだとは思わなかった。彼女は怒ろ
 うにも怒れず、失礼にならないようにフランス語で僕を拒むのにはどう言ったらいいも
 のかわからずにいたのだ。僕は彼女の頬を軽く噛んだ。桃のように、甘い汁でもほとば
 しり出さないかと期待しながら。
・ついに僕は彼女の唇に接吻した。彼女はその口も、目も閉じて、辛抱強く僕の愛撫を我
 慢していた。彼女の拒む身ぶりは、ただ、頭を左右にかすかに振ることだけだった。僕
 は考え違いをしたわけではないが、僕の口が錯覚を起こして、それが返事だと思い込ん
 でしまった。僕はマルトに対してしたこともなかったほどに、彼女のそばにじっと寄り
 添っていた。この抵抗とはいえない抵抗は、僕の大胆さと呑気さに希望を持たせた。ま
 だ世慣れない僕は、このあとも同じように運び、わけなく相手を犯せるものと思い込ん
 でいたのだった。
・僕は女の着物を脱がせたことはなかった。むしろ女に脱がされる方だった。だから、不
 器用な手つきで、靴と靴下から脱がせはじめた。僕は彼女の爪先や脚に接吻した。だが、
 胴着のホックをはずそうとすると、スヴェアは、寝に行きたくないのにむりやり着物を
 脱がされる腕白小僧のようにやにわにもがきだした。彼女は足でめちゃくちゃに僕を蹴
 った。僕は宙で彼女の足をつかまえ、押さえつけて、そこに唇を押しあてた。
・やがて飽きがきた。僕は自分の嘘を打明けて、マルトは旅行中であることを言わねばな
 らなかった。僕は彼女に、今度マルトに会っても僕たちの会ったことは決して口外しな
 いと約束させた。僕がマルトの恋人であることは打明けなかったが、それとなくほのめ
 かしておいた。彼女の飽いてしまった僕が、それでもお義理に、いつまた会えるかし
 らと聞くと、神秘的なものをのぞきたい気持ちから、彼女は、「では明日ね」と答えた。
・世間一般の道徳から見て、僕の行為がいかに非難すべきものであるかは、僕も感じてい
 た。 スヴェアがあんなにも高価なものに見えたのは、おそらく、環境のせいだったか
 らである。マルトの部屋以外の所だったら、果して僕は彼女を欲したであろうか?
・だが僕は公開してはいなかった。そして、僕がスウェーデン娘をあのまま見捨てたのは、
 マルトのことを思ったからではなくて、彼女の甘い汁を全部吸い尽くしたからだった。
・それから数日して、マルトから手紙が来た。それには家主の手紙が同封してあった。自
 分の家は連れ込み宿ではないのに、僕がいかにその部屋の鍵を悪用して女を引っ張り込
 んだか、ということを知らせた手紙だった。わたしにはあなたの裏切りのはっきりした
 証拠がある、とマルトは付け加えていた。彼女は二度と僕には会わないと言っていた。
・僕の恋愛修業に一つ新しい仕事ができた。マルトに対して身のあかしを立て、家主より
 も僕の方を信用していないことを責めるのだ。マラン一味の陰謀がいかに巧妙なもので
 あるかを彼女に説明した。
・すべての人間が、自分の自由を恋愛の手に引渡すところをみると、恋愛にはよほど大き
 な利益があるのに違いない。僕は早く、恋愛なしで済ますことができるほど、したがっ
 て自分の欲望を何一つ犠牲にしなくても済むほど強くなりたいと願っていた。同じ奴隷
 になるにしても、官能の奴隷になるよりは、愛情の奴隷になる方がまだましただという
 ことを、当時僕は知らなかったのだった。
・蜜蜂が蜜を漁ってその巣を豊かにするように、恋する男は、道を歩いて感ずるあらゆる
 欲望で自分の恋愛を豊かにするのだ。その恩恵を蒙る者は相手の女性である。
・ある男が一人の娘をほしかって、その熱情を現在自分の愛している女に移すと、満たさ
 れないがためにますます強烈になるその欲望は、その女に、今までこんなに愛されたこ
 とはなかったと信じさせるであろう。その女はだまされているわけだが、世間でいうと
 ころの道徳は別に傷つけられはしない。こうした計算から放蕩がはじまるのである。
・マルトは僕の身のあかしを立てるのを待っていたのだった。彼女は非難めいたことを言
 ったのを許してくれと言ってきた。僕はややもったいをつけて許してやった。彼女は、
 家主手紙を書いて、たとい留守でも、僕が彼女の友人の一人を部屋に容れることはかま
 わず許してほしいと、皮肉な調子で言ってやった。
・マルトは、八月下旬に帰ってくると、両親が別荘住まいをつづけているので実家でくら
 した。これまでマルトがずっと暮らしてきたここの新しい舞台装置は、僕には媚薬とし
 て役立った。官能の疲れや、一人寝を願うひそかな願いは消え失せた。若死にする人た
 ちが、性急にものごとをするように、僕は燃え立ち、先を急いだ。母親となって使いも
 のにならなくなる前にマルトを利用したかったのだった。
・彼女がジャックを入れようとしなかったあの少女時代の部屋が、僕たちの部屋だった。
 町会議員もいなければ家主もいないで、僕たち二人きりで生活していた。僕たちはほと
 んど裸体で全く無人島のような庭を散歩したが、土人と同じように気兼ねなどしなかっ
 た。芝生の上に寝そべり、馬の鈴草や忍冬や野ぶどうの青葉棚の下でおやつを食べた。
 熟してつぶれた梅の実を僕が拾うと、二人は口と口で奪い合った。このマルトの実家に
 接することによって挑発された放縦を、僕は放縦の仕納めだと思っていた。
・僕の目には、もはやなんの障害もなかった。僕は十六歳にして、分別盛りの人が望むよ
 うな生活の仕方をじっと見つめていた。僕たちは田舎で暮そう、そしてそこでいつまで
 も若くていよう、と思ったのだった。
・まだ数カ月の猶予はあるが、嘘の中に生きるか真実の中に生きるかを選ばねばならなく
 なるであろう。そのいずれにしても、気楽に済むことではなかった。僕たちの子供の生
 まれる前にマルトが両親に見捨てられては大変なので、とうとう思いきって、妊娠した
 ことをグランジェ夫人に知らせたかどうか聞いてみた。彼女は言ったと答えた。そして、
 ジャックにも知らせたと言った。ここで僕は、彼女がときどき僕に嘘をついていたのを
 確かめることができた。
・だんだん日の暮れるのが早くなり、夕方の冷気は僕たちの散歩を妨げた。僕たちはまる
 で泥棒のように用心し、マラン家の人たちや家主が留守になるのを道で待ち伏せていな
 ければならなかった。
・冷えはするけれども火をたくほどには寒くない、この十月の宵の寂しさは、僕たちに五
 時から床に入ることを勧めた。この五時から床に入ることは、僕を喜ばせた。僕たちよ
 りほかに床に入っている人々がいるとは考えれられなかった。活動的な世界の真ん中で、
 僕は活動を停止して、マルトと二人きりで寝ていた。マルトの裸体姿は見るに忍びなか
 った。では僕は非道きわまる人間なのだろうか?僕は、男性としての最も高尚なつとめ
 を果たしたことを後悔していた。マルトの美しさがめちゃくちゃになり、その腹が出っ
 張っているのを見て、僕は自分を野蛮人だと思った。
・父は心配しはじめていた。だがこれまでずっと、叔母や母に対して僕をかばってきたの
 で、 いまさら考えを変えたように取られたくなかったのだった。僕に向かって、父は、
 どんなことをしてもマルトと手を切らせると断言した。だが、翌日になると、父は僕を
 自由にしてくれた。僕は父の弱点を見抜いていた。そこでそれを利用していた。僕は父
 に向かって、いまさら父の権利を振り回しても遅すぎると非難して、困らせた。僕がマ
 ルトと知り合いになることを望んだのはお父さんではなかったか、と僕は言った。
・このころまでは、父は火遊びぐらいに考えていたのだった。ところがまたしても、母に
 手紙を押収されてしまった。母は意気揚々としてこの証拠書類を父のところに持って行
 った。マルトはその中に、僕たちの将来や僕たちの子供のことを書いていた!
・母は僕をまだほんの赤ん坊のように思っていたので、この僕から自分の孫ができような
 どとは到底考えられないのだった。自分の年でお祖母さんになるなどとは、あり得べか
 らざることに思えた。結局のところ、これが、彼女にとっては、この子供が僕の子供で
 はないという何よりの証拠なのだった。
・誠実な気持ちも、最も卑劣な感情と結びつくことがある。母は、妻が夫を裏切るといっ
 たことは認めることはできなかった。そうした行為は、母には、愛情とは関係のない不
 行跡に思われた。僕がマルトの恋人であるということは、母にとっては、マルトはまだ
 ほかに幾人かの恋人を持っているということを意味していた。父はこうした推論はどん
 なに間違いを犯すものであるかを知っていたが、これを利用して、僕の心を混乱させ、
 マルトの立場をなくそうとした。
・グランジェ夫人も、田舎から帰ると、近所の人々が罠をかけたずるい質問をするので、
 警戒しだした。近所の連中は、いかにも僕をジャックの弟と信じているようなふりをし
 て、僕たちが寝起きをともにしていたことを夫人に告げた。子供はジャックの子だと信
 じていた夫人は、この子が生まれれば、万事けりがつくと確信していたので、まだ許し
 ていた。
・心の底では、グランジェ夫人は、マルトが夫を裏切ったことに感心していた。これは夫
 人が、小心なためか、あるいは機会がなかったためか、とにかく、自分ではあえて成し
 得なかったことである。自分が理解されなかったことの仇を娘がうってくれたのだ。そ
 こで、理想家である夫人には、娘が、誰よりも”微妙な女心”を理解することのできな
 い、僕のような青臭い少年を愛したことだけが恨めしいのだった。
・ラコンブ家の人々は、マルトの足がだんだん遠のいてはいったが、パリに住んでいたの
 で、なんの疑いも起こさなかった。ただ、彼らにはマルトがだんだん変な女に思われて
 き、ますます気に入れなくなってきた。彼らは将来のことを不安に思っていた。数年し
 たらこの夫婦は一体どうなることだろうと心配していた。原則として、どんな母親でも、
 息子の結婚を何にもまして望んではいるが、息子の選んだ後には不賛成なものだ。だか
 らジャックの母は、こんな妻を持った息子を気の毒に思っていた。
・両家の人たちがいかに疑ったとしても、マルトの子供に、ジャック以外の父があろうと
 は、さすがに誰も考えなかった。僕はこれがかなり癪だった。まだ本当を言わないのは
 卑怯だと、マルトを責める日もあった。
・嵐が近づいていた。父はマルトからの幾通かの手紙をグランジェ夫人のもとへ送るとお
 どかした。僕はむしろ父がそのおどかしを実行するのを望んでいた。それから考えた。
 グランジェ夫人はそれらの手紙を夫に隠すにちがいないと。それに、夫婦とも嵐など起
 こらないでほしいと思っているのだ。僕は息苦しかった。僕はこの嵐を呼んでいた。
・ある日、父が怒って、その通りにしたと言ったとき、僕は父の首ったまに抱きつきたく
 なった。やっとこれでいいんだ!父は僕のために、ジャックが知らねばならぬことを彼
 に知らせてくれたのだ。僕の恋をそんなに弱いものと信じている父が気の毒だった。翌
 日、父が冷静を取戻して、実は嘘を言ったのだと白状し、僕を安心させた。
・僕の年齢で大人の色事と取組み合った数々の矛盾に打ちのめされて、あるときは卑怯に
 なり、あるときは大胆になり、僕は神経の力をすっかり涸らし尽くしていた。
・恋愛は僕の心の中で、マルト以外のすべてを麻痺させてしまった。僕は父が死んでいる
 だろうなどということは考えもしなかった。僕は何事についても、誤った、卑怯な考え
 方をしていたので、しまいには、父と僕とのあいだに宣戦が布告されたものと思い込ん
 でしまった。
・ホテルからホテルへと、あてどもなくさまよい歩いたこの夜こそ、運命を決したものだっ
 た。だが、これまで他にいろいろ突飛なことをしてきた僕には、それがよくわからなか
 ったのだった。僕は、一生のうちにこんなつまずきもあるのだと考えていだが、帰りの
 汽車の片すみに、疲れてがっかりした体をもたせかけ、歯をがたがたいわせていたマル
 トの方は”すべてを覚った”のだ。おそれらく彼女は、一年間もこうした気違い車に乗
 せられて引きずり回された今は、死よりほかに解決はあり得ないことを見もしたに違い
 ない。
・翌日行ってみると、マルトはいつものように寝床にいた。僕も入ろうとすると、彼女は
 優しく僕を押しのけた。「気分が悪いのよ。帰ってね。わたしのそばにいちゃ駄目よ。
 風邪がうつってよ」と言った。彼女は咳をしていた。熱があった。
・その翌日マルトの家に行くと、階段のところでこの医者とすれちがった。僕は容態を訊き
 かねて、彼の方を心配そうに見た。彼の落ち着いた様子は僕を安心させた。だがそれは
 職業的な態度にすぎなかったのだった。僕はマルトの部屋に入った。みるとマルトは、
 布団の下に頭を隠して泣いていた。医者に、お産の日まで部屋にこもっていなければな
 らないと申し渡されたのだった。それに、世話のいる容態だったので、両親のもとで暮
 らさねばならなかった。僕たちは互いに引き離されたのだ。
・マルトの両親はもう大体見抜いていた。彼らは僕の手紙を掏り取るだけでは満足せずに、
 彼女の見ている前で、彼女の部屋の煖炉にそれをくべた。彼女の手紙は鉛筆で書かれて
 あって、読みにくかった。彼女の弟がそれを投函してくれるのだった。
・何ごとかを知らせる物音を待ち伏せていたおかげで、ある日、僕の耳に鐘の音が聞こえ
 てきた。それは休戦を知らせる鐘だった。
・僕にとっては、休戦はジャックの帰還を意味していた。すでに僕は、マルトの枕べにい
 る彼の姿を想い描いていた。だが僕にはどうしようもなかった。僕は途方に暮れた。
・数日前から、一通の手紙も来なかった。珍しくも雪になったある午後のこと、弟たちが
 グランジェ少年からの預かりものを持ってきた。それはグランジェ夫人の冷やかな調子
 の手紙だった。できるだけ早く来てほしいと書いてあった。一体、なんの用事だろう?
・小さな客間を通ったとき、初めて訪問したときのことがよみがえってくるように思われ
 た。グランジェ夫人が入ってきた。夫人は、なんでもないことで、僕に迷惑かけたこと
 を詫びた。手紙で尋ねるにはあまりに込み入った事情が知りたくて、あんな手紙をさし
 あげたのだが、その事情がわかった、というのだった。なんのことやら訳のわからぬ話
 は、どんな悲しい破局よりも僕を苦しめた。
・マルヌ川の近くにさしかかったとき、よその門にもたれているグランジェ少年の姿をみ
 かけた。僕は彼をなだめすかして、マルトのことを訊き出した。姉さんはあなたの会い
 たがっている、と彼は言った。母親はなかなか承知しなかったが、父親が「マルトは重
 態なんだから言うことをきいてやれ」と言ったというのだ。
 ・これで、たちまち、グランジェ夫人の、あのブルジョワ臭い、妙な態度がわかった。
 夫に対する義理と瀕死の娘の意志で、僕を呼んだのだが、危険がすぎて、枩とが無事に
 助かったので、また面会謝絶にしたのだ。
・僕たちはお産は三月に予定していた。ところが一月のある金曜日のこと、弟たちが息を
 切らしながら帰ってきて、グランジェ少年に甥ができたと言った。このニュースが僕に
 特別な意味を持っているなんてことは、もちろん、彼らに気づかれるはずはなかった。
・公共の場所で電気がショーとしたときのあの混乱が、僕自身のうちに起きた。突然、僕
 のうちが暗くなった。この暗闇の中で、いろんな感情がひしめき合っていた。手探りで
 日付を、正確なことを捜し求めた。指折り数えた。まさか彼女が裏切っていようなどと
 は考えもしなかったあのころ、時として彼女がやっていたように。
・僕にはもう勘定のしようがなかった。三月に出産を予定していた子供が一月に生まれた
 とは、一体どういうことだろう?僕にはすぐに確信が得られた。この子はジャックの子
 だったのだ。九カ月前にジャックは休暇で帰って来たではないか。してみると、あのと
 きからマルトは僕をだましていたのだ。あの呪わしい半月のあいだジャックを拒みつづ
 けたと、初めは誓っておきながら、ずっとあとになってから、実は何度も彼の自由にな
 ったことを打明けたではないか。
・この子がジャックの子かもわからないということは、これまでそう深く考えたことはな
 かった。数カ月間父親であるという確信を持たされつづけてきたので、この子供を、僕
 のではなかったこの子供を愛するようになっていたことを告白しなければならなかった。
 父親でないことがわかった瞬間にやっと、父親らしい愛情を感じなければならないとは、
 一体どうしたことだろう!
・僕にはもはや何もかもわからなくなった。中でも特にわからなかったことは、マルトが
 大胆にもこの嫡出子に僕の名前をつけたことだった。
・喜びにあふれたマルトの手紙を受け取った。この子は紛れもない僕たちの子で、二カ月
 早く生まれたのだ。だから人工保育器の厄介にならねばならなかった。「わたしもう少
 しで死ぬところでしたわ」と彼女は言っていた。
・その手紙の中で、マルトはこうも言っていた。「坊やはあんたに似てますわ」と。僕は
 赤ん坊のころの弟や妹を見ていたので、ただ女の愛だけが、自分の望んでいる類似をそ
 こに見いだすことができるのだということを知っていた。「目はわたしにそっくりです」
 と彼女は付け加えていた。
・グランジェ家の人々にとっては、もはや疑問の余地はなかった。彼らはマルトを呪いな
 がらも、 醜聞が家族全体の上に”とばしり”をかけないようにと、マルトの共謀者に
 なっていた。もう一人の共謀者である医者は、月足らずで生まれたことは隠しておいて、
 何かいいかげんな話を考え出して、夫に人工保育器を使わねばならぬ必要を説く役を引
 き受けることになった。
・ほんとうの予感というものは、われわれの精神が入って行けないような、奥深いところ
 でつくられる。だから、時として、予感がわれわれにさせる行為を、われわれは誤って
 解釈することがある。
・僕は幸福なので、前より優しくなったような気がした。そして僕たちの幸福な思い出に
 よって神聖化された家にマルトがいるのかと思うとうれしかった。
・死期が近づいた自堕落な人間が、自分ではそうとは気がつかず、急に身の回りを片づけ
 はじめる。 彼の生活は一変する。書類を整理する。朝は早く起き、夜も早くから寝る。
 悪いことをしなくなる。まわりの人々はそれを喜ぶ。
・それと同じように、僕の生活の新たな静けさは、罪人の粧いだった。自分の子供ができ
 たので、自分が前よりいい子供になったような気がした。
・ある日の正午、弟たちが、マルトが死んだと叫びながら学校から帰ってきた。
・雷は一瞬にして落ちてくるので、打たれた人は苦しまない。だが、一緒にいる人にとっ
 ては、それは痛ましい光景である。僕はなんの感動も示していなかったが、父の顔はひ
 きつっていた。僕は体がこわばり、冷たくなり、石になって行くような気がした。それ
 から、瀕死の者の目に、一生のあらゆる思い出が一瞬のうちにくりひろげられるように、
 マルトが死んだという確実な事実は、僕の恋愛を、それが持っているあらゆる恐ろしさ
 と一緒に、僕の目にはっきりと見せた。父が泣いているので、僕もむせび泣いた。する
 と母が僕を抱き取った。母は涙一つこぼさず、落ちついて、だが優しく、まるで猩紅熱
 患者でも扱うように僕をいたわってくれた。
・マルト!僕の嫉妬は墓のかなたにまで彼女を追いかけ、死後は無であることを僕は願っ
 ていた。実際、愛する人が、われわれの加わっていない饗宴の席に、大勢の人に取り囲
 まれてつらなっているのは、耐えがたいことである。僕の心は、まだ未来のことなどは
 考えない年ごろであった。そうだ、僕がマルトのために願っているものは、いつの日か
 彼女にめぐりあえる新しい世界ではなくて、むしろ無であった。
・僕はたった一度だけジャックを見かけたが、それは数カ月ののちのことであった。僕の
 父がマルトの水彩画を幾枚か持っていることを知っていたので、彼はそれを見たいと思
 ったのだった。僕は、マルトが結婚を承知した男はどんな男か見たかった。
 「妻はあの子の名前を呼びながら死んで行きました。かわいそうな子供です!ですが、
 あの子がいればこそ、わたしも生きてけるというものではないでしょうか」
 絶望的な気持ちをじっと押さえているこんなにも立派な鰥夫を見て、僕は、世の中の物
 事は、長いうちににはおのずとまるく納まって行くものだと覚った。