化身 :渡辺淳一

化身(上巻) (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

欲情の作法 (幻冬舎文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:544円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

ラヴレターの研究 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

女優 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

わたしの女神たち (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:523円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

麗しき白骨 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

麗しき白骨 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

無影燈(上) (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

無影燈(下) (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

男というもの (中公文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

冬の花火 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

鈍感力 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:616円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

仁術先生 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:528円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

愛の流刑地(下) (幻冬舎文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

野わけ (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:682円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

夜に忍びこむもの (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:523円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

新釈・からだ事典 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:785円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

孤舟 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

白き狩人 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:618円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

ひとひらの雪 (上) (角川文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

ひとひらの雪(下巻) (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:680円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

愛ふたたび (幻冬舎文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:638円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

流氷への旅 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:847円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

愛の流刑地(上) (幻冬舎文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:712円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

夫というもの (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:528円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

うたかた (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

源氏に愛された女たち (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:565円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

源氏に愛された女たち (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:565円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

くれなゐ (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:1026円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

マイセンチメンタルジャーニイ (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:528円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

懲りない男と反省しない女 (中公文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

新釈・びょうき事典 (集英社文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:523円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

阿寒に果つ改版 (中公文庫) [ 渡辺淳一 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

遠き落日(上) (角川文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

遠き落日(下) (講談社文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:957円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

失楽園(上) (講談社文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:628円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

失楽園(下) (角川文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

新装版 雲の階段(上) (講談社文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:764円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

新装版 雲の階段(下) (講談社文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:691円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

男と女、なぜ別れるのか (集英社文庫(日本)) [ 渡辺 淳一 ]
価格:594円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

死化粧 (角川文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:616円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

花埋み (新潮文庫 わー1-1 新潮文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:935円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

医師たちの独白 (集英社文庫(日本)) [ 渡辺 淳一 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

わたしのなかの女性たち (角川文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:607円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

エ・アロール それがどうしたの (角川文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:691円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

渡辺淳一の性愛の技法を研究する [ 渡辺淳一研究会 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

瓦礫の中の幸福論 わたしが体験した戦後 [ 渡辺淳一 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

冬の花火 (角川文庫) [ 渡辺 淳一 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

あきらめるのはまだ早い 1 [ 渡辺 淳一 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2023/2/2時点)

この作品は、いまから39年前の1984年に刊行された上下巻からなる長編恋愛小説で、
作者が51歳のときの作品のようだ。この『化身』は『失楽園』『愛の流刑地』と同様に
当時は爆発的なヒットとなり、映画化、テレビドラマ化もされているようだ。
この作品は、人生に余裕の生まれた中年過ぎの男が、未熟な若い女性を自分好みの女に育
てていくという、中年男のひとりよがりのロマンの物語である。当時の多くの中年男性は、
こういうロマンに憧れがあったようだ。しかし、現代ではもう通用しない古い価値観とい
えるだろう。
内容は、文芸評論家の秋葉大三郎という中年の男性が主人公だ。離婚した秋葉は、離婚し
てから一年後にはフリーの記者の田部史子という女性と深い仲になっていたのだが、ある
日、銀座でホステスに成り立ての八島霧子という自分よりも二十歳以上も若い女性と出会
う。そのときの霧子は、どこか田舎臭さの残る女性だったが、その純朴さに惹かれて強引
に自分のものにしてしまう。
秋葉はその後、霧子を自分の愛人にして、原石を磨くように全力で磨きをかけて、自分好
みの女性に育てていく。その甲斐あって、霧子は次第に華麗で魅力がる女性に変貌してい
った。
そんな霧子に秋葉は夢中になった。霧子にホステスを辞めさせ、住むマンションを買い与
え生活費を与えて、他の男が手出しできないように囲ったのである。
しかし、そういう状態は長続きしなかった。囲われた霧子のほうが、そんな状態が長続き
しないことを悟っていたのである。
霧子は、アンティークの店を開くことに動き出した。秋葉は、父親から譲り受けた証券類
を処分して物件の購入から開店資金・運転資金などすべてを出した。しかも、親友からも
しものことがあるから店の名義は自分にしておけとアドバイスされたにもかかわらず、店
の名義を霧子にしたのだった。

中高年になってからの恋愛は、独占欲が強くなり、ブレーキがきかなくなると言われるが、
まさにその典型例ともいえる。
そのような秋葉の保護の下、いつしか霧子は居心地のいい親鳥の羽根の下からヒナが這い
出るように、そとの世界に巣立っていく。
これはまるで、いつまでも子離れしない親と、さっさと親離れしていく子の関係にも似て
いる。親離れした子は、育ててくれた親に感謝しつつも、自分の力で立ち、自分の力で生
きてみたいのだ。これから考えると、秋葉と霧子の関係の破綻は、なるべくしてなったと
も言える。
それにしても、最後の霧子の手紙には、なかなか感動的で泣かされた。こういう手紙を書
ける女性は、やはり素晴らしい女性だと思えた。

この作品は、かなりの部分が作者自身の経験をもとに書かれているのではないのかと思え
る。つまり、主人公である秋葉大三郎は作者自身なのではないかと思えるのだ。
この作品のなかで、主人公の秋葉の考えとして、結婚に関する考え方が述べられているが、
これは当時の作者の考え方が反映されているのだと思う。その証拠に、作者も若くして離
婚した後、多く恋愛を経験したようだが、ずっと独身を貫いていた。


春夜
・秋葉大三郎の家は南平台にある。七十七になる母親とお手伝いの女性と三人で住んでい
 る。四年前までは、妻と娘達が一緒にいたが、離婚して妻子と離れ離れになった。
 だからといって、いま離婚を後悔しているわけではない。
 当然のことながら、妻と母とのあいだに嫁と姑の確執があったら、根本的には秋葉と妻
 とが合わなかったことが原因である。
・妻はそれなりの資産家の出であっただけに、贅沢な女性であったが、同時に、気の強い
 女でもあった。別れた直接の動機は、妻の浮気であったが、それはさまざまな食い違い
 の果ての一つの誤りにすぎない。秋葉はそう考えたが、すでにそんな寛容さでよりが戻
 る状態ではなかった。
・田部史子と深い関係になったのは、妻と別れて一年経ってからである。初め大手の出版
 社の編集者で、秋葉のところに原稿をとりにきたのが、知り合うきっかけであった。
 そのときは三十七歳であったが、いまは四十歳で、秋葉より九つ若い。史子もやはり離
 婚して、中学生の子供が一人いる。
・秋葉は自分の仕事と直接関わりある女性と親しくなったことに、ある後ろめたさを感じ
 ていたが、間もなく史子は会社をやめて、フリーの記者になった。
 そのほうが収入も多くて、働きやすいのだといったが、秋葉にはそうとも思えない。
 もしかすると、自分のことが表沙汰になっていづらくなったのかと思ったが、そんなこ
 とをきいても、史子は答える女ではない。
 
・里美の顔はこういう和風の明りの下のほうが映えるようである。店の背の高い行灯の明
 りに、里美の横顔が淡く浮き出てくる。いくらか酔ったのか、少しけ気怠げに息をつき
 ながら酒を飲む。コップの端に口をつけるとき、軽く左手で落ちてくる髪を掻き上げる。
 瞬間、見日から耳朶まで赤く染まっているのがわかる。
 そのまま瞼を閉じ、ゆっくりと飲む。少女のように長い睫が目をおおい、やがてコップ
 が顔から離れて目が開く。
 むろん里美はその動作を無意識にやっている。
 だが秋葉には、それが、浮世絵のなかの女の仕草のように映る。表面はまだ少女の面影
 のある頼りない顔なのに、ゆっくり飲む仕草がある艶めかしさをかきたてる。
・もう、話すべきことは話して、新しく喋ることはなにもない。実際、親娘ほど年齢が違
 う女が相手では、そうそう話すことがあるわけもない。
  
・里美は一流ホテルの部屋に入ったのは初めてなのかもしれない。不安と好奇心のいりま
 じった表情で、なかを窺がっている。
・「見てごらん」
 「きれい・・・」
 「あのあたりが赤坂だ」
・秋葉はひたすら、里美が動くのを待っている。ちらとでも動きかけた瞬間がチャンスで
 ある。  
 じりじりと静止したまま時間が過ぎる。頭のなかではずいぶん経っているようで、実際
 はそれほど経っていない。この静止に耐えきれなくなったほうが先に動く。
・「あのう・・・」
 やはり先に動いたのは里美だった。声とともに軽く顔をこちらへ向ける。その瞬間をと
 らえて、秋葉の両手が、素早く里美を引き寄せる。
 不意をつかれて怯むのを、かまわず両腕で抱き締め、一気に唇を重ねる。
・「うっ・・・」  
 里美は初めてことの重大さを知ったらしい。慌てて口を閉じて激しく首を左右に振る。
・情事はすべてタイミングである。好意を抱いている相手でも、タイミングを失すると、
 結ばれるものも離れてしまう。
・秋葉はいま徐々に腕の力を抜いている。暴力的に里美を襲ったのは初めての一瞬で、そ
 の嵐のあとは、暴力というより軽い拘束といった感じに近い。接吻も、初めこそ強引に
 唇を重ねたが、そのあとは軽く耳のあたりをさ迷う。 
・「好きだよ・・・」
 密室に二人だけでいることに勇気をえて、秋葉は耳元で囁く。声に出すといくらかしら
 けるが、いうべきことはいっておかなければならない。
・そのままベッドの方へ動き出すと、里美も、秋葉の腕のなかで顔を伏せたまま、ずるず
 ると移動する。 
 あと一歩でベッドというところで、秋葉は強く抱き寄せると、自分からベッドに倒れ込
 んだ。
・「いやっ・・・」
 瞬間、里美が叫んだが、秋葉はかまわず、里美の上ににしかかる。
 初めと同じように、秋葉はここで再び獣になっていた。いつまでも男が大人しくしてい
 たのでは、結ばれるものも結ばれない。勝手な言い訳かもしれないが、一瞬の暴力は、
 男と女のあいだの必要悪でもある。
・秋葉がそろそろとスカートのわきに手を近づけたとき、里美が小さくつぶやいた。
 「やめて、下さい・・・」
 祈るような声である。奴隷が王様に哀願するような情けない声である。
 だがその情けなさが、さらに男の欲望と愛おしさをかきたてる。
・「いやなのか・・・」
 もう一度、たずねたが、里美は答えない。そのまま秋葉が腕を緩めて、里美の顔を窺が
 うと、閉じられた瞼のまわりに薄く涙が浮かんでいる。
 秋葉はなにか、貴重なものを見たような気がした。ただの涙だといってしまえばそれま
 でだが、若い女が、一生懸命おさえた結果の涙のようでもある。
・「わたしを、欲しいんですか」
 「もし、欲しいのなら、優しくしてください」
 「いいんだね」
 「いま、脱ぎますから、明りを消してください」
・「消したよ」
 秋葉は一言いうと、バスルームに入った。
 秋葉はバスルームのタオルで、汗ばんだ首のあたりを拭くと、鏡に映っている自分の顔
 を見た。   
・「いい、年齢をして・・・」
 秋葉がつぶやくと、同時に、鏡のなかの顔もつぶやく。もう何十年来、見慣れてきた顔
 が、若い女への期待と好奇心で火照っている。
 これでは、大学の教師とか評論家などといえた義理ではない。他人に教えたり、批評す
 るどころか、自らを教育し、批判するほうが先である。
・そろそろとドアを開け、闇のなかの部屋を窺がう。
 一瞬、里美の姿が見えず、秋葉は慌てたが、よく見ると、里美はすでにベッドのなかに
 休んでいる。   
・まさしく、里美がダブルベッドの上に、小さく縮こまっている。
 里美の躰についているのはキャミソールだけらしい。
・秋葉はその手際よさに少し戸惑いながら、縮こまっている里美を抱きしめた。
 思っていたとおり、里美の躰はやわらかい、一見、痩せて、骨ばっているかと思ったが、
 実際に触れてみると、ごつごつした感じはない。全体に円くやわらかく、そのくせ、若
 い女性特有の張りがある。
・キャミソールはブラジャーとつながっているらしく、容易に胸は開かない。秋葉がさら
 に留金を探していると、里美がつぶやいた。
 「うしろです・・・」
 秋葉は一瞬、手をとめ、それからゆっくりと顔をおこした。
 はたして、いまの一言は里美が言ったのか。誰かもう一人部屋にいて、盗み見ながら
 「うしろです」と言ったのではないか。だが、ホテルの客室に、他人が入り込むわけも
 ない。
・いままで秋葉の経験では、ブラジャーの上に、スリップかキャミソールをつけていて、
 キャミソールとブラジャーが一緒になっている下着は初めてである。
 こういうのが、若い子のあいだで流行っているのか。
 秋葉は感心しながら、里美に、留金のありかを教えられたことにこだわっていた。
 むろん、里美は親切心からいってくれたに違いない。なにも知らぬまま、秋葉が焦り、
 あちこち探すのを見かねて、教えてくれたのであろう。
 だが、初めての男に躰を求められ、全身を石のように硬くしているときに、そんなこと
 を言うとは思ってもいなかった。しかも、その声が不思議なほど落ち着いていた。
・秋葉は、留金の位置を知ったことよりも、声が醒めていたことが気になっていた。
 あの言葉のように里美は冷静に、興奮した男の行動のすべてを見詰めていたのだろうか。
・やはり胸は小ぶりで、せいぜい掌のなかにおさまる程度が好ましい。
 いま、秋葉が触れている里美の胸は、掌のなかにすっぽりと入り、若い女性特有の張り
 と、やわらかさに満ちている。   
・秋葉の舌が、その先端に触れ、また、まわりのふくらみに移動する。行きつ戻りつ、戸
 惑うように乳房と乳首のあいだをさ迷う。
 だが、里美の感覚はまだ充分に覚めきっていないらしい。
 乳首に触れたときに、軽く眉を顰め、くすぐったそうにするが、それ以外、目立った反
 応はない。
・だが秋葉は諦めていない。若くて経験の浅い女では、乳房に触れたからといって、そう
 敏感に反応するわけではない。それに、初めてという緊張感も手伝っているに違いない。
 反応の薄いところに、秋葉はむしろ、新鮮さを覚えた。
・「いい?」
 たまりかねて秋葉はきいてみた。
 だが里美は軽く顔をそらしたまま答えない。
 どうやら里美は、ベッドに倒れこんだときの抵抗で、すべてのエネルギーを費ってしま
 ったらしい。
 そう断じて、秋葉は最後のスキャンティに手をかける。だがここでも、里美は逆らわず
 なすがままに任せている。
・これは、なにか企まれているのではないか。簡単に躰を許して、あとで妙な男でも出て
 くるのではないか。だが、里美がそんな悪事を働く女とは思えない。
 秋葉は不安を振り払うように、全裸の里美を抱きしめた。
・里美は一瞬息をつめ、それから再びつぶやいた。
 「お願いですから、優しくしてください」
・「心配しなくて、いい」
 すべてを脱ぎ去った里美の躰はさらに小さく、頼りない。だが肌はすべすべとしてやわ
 らかい。その感触を充分楽しんだところで、右手をゆっくり下げていく。
・瞬間、里美はぴくりと両膝を縮め、それに合わせたように、秋葉も手を止める。だが、
 それはいっときのためいらいで、また思い出したように手が動き出す。
 小さな逆らいと、すべる手と、そのくり返しのうちに、里美は根負けしたように、かす
 かに股間を開く。
・思ったとおり、里美の茂みは薄く、秘めやかである。
 秋葉はいったんそこに触れたから、手を離し、また思い出したように触れ、その都度、
 少しずつ指を沈めていく。
・充分、愛撫を重ねたところで、秋葉はそろそろと上体を起した。
 「大丈夫だよ」
 半ば里美に、半ば自分にいうと、秋葉は聖少女を犯すような思いのなかで、里美のなか
 に入っていく。   
・瞬間、里美の口から、ちいさな呻きが洩れる。
 暗くてよくわからぬが、里美の眉はひきつり、口は軽くあいているようである。
 だが里美が、反応らしい反応を示したのは、その一瞬だけで、あとはまた、男のますま
 まに任せている。 
・「いいの?」
 きくまいと思いながら、秋葉は思わずきいてみた。
 そのまま、答えるはずはないと思っていると、里美はぽつりとつぶやいた。
 「少うし・・・」
・その返事とともに、秋葉は次第に、躰が萎えていくのを感じた。自分一人、一生懸命努
 めていたことが、無駄な、滑稽なことのようにさえ思えてくる。
 秋葉は動きをとめると、軽く接吻をし、それからそろそろと躰を離した。
・一度、結ばれたあとだけに、里美はもう安心したようである。小鳥が親鳥の羽根の下に
 もぐりこむように、秋葉の胸のなかにおさまったまま動かない。
・秋葉が知りたいのは、いま里美に、好きな人がいるか、ということである。
 だが、今日の態度を見るかぎり、特別、好きな男がいるとは思えない。たとえいたとし
 ても、ボーイフレンドぐらいのものなのか。
 秋葉がそう推測する一つの根拠は、里美の躰がさほど開発されていないことである。
 むろん肉体的には大人だが、女としては、なお未成熟なところである。
    
夕顔
・秋葉が、里美に京都行きを誘ったのは、一週間前の夜だった。
 平日なので、夜の仕事の里美には難しいかと思ったが、誘ってみると、簡単にうなずい
 た。
・里美は白と紺のセーラーカラーにキュロットスカートをはいていて、まるでこれから海
 にでも行くようである。
 抱き締めてやりたい気持ちだが、そのセーラールックはいささか参る。まずなによりも
 紺と白の配色が派手すぎるし、おまけにキュロットスカートは膝の上までしかない。
 京都に来るというので、精一杯のお洒落をしてきたのかもしれないが、これでは落着い
 たところには、連れていきづらい。

・「ところで、君の本名はなんというの?」
 「矢島霧子です」
・「君は、いま好きな人はいないの」
 「別にいません」
 「魔呑にくる前は、なにをしていたの?」
 「君津って、知っていますか。そこのスーパーに勤めていたんです」
 「それが、どうして銀座へ」 
 「お友達に、知っている人がいたので・・・」
 「わたし、父から逃げたかったんです」
 「男の人って、どうして、あんなことをするんですか」
 「あんなことって・・・」
 「いやらしいんです」
 霧子が吐き捨てるようにいう。その言葉の強さで、霧子と、義理の父のあいだに起きた
 ことの、おおよその察しはつく。
・秋葉は少しわかったような気がしてきた。
 いま母と一緒にいる義理の父が、美しくなってきた霧子に、次第に関心を向けてきた。
 それがいやで家を逃げ出し、とりあえず住む所を世話してくれる、いまの店に勤めた、
 ということらしい。
 
・「ようやく、二人だけになれた・・・」
 秋葉が抱き寄せると、霧子は素直に顔を寄せてきた。
 初めはただ唇を重ね、それから少し間をおいて、軽く舌を動かすと、霧子の唇が、蕾が
 開くように徐々に開いてくる。
 それに力をえて、さらに奥へ舌の先を忍ばせる。
 一瞬、霧子は戸惑ったようだが、すぐあきらめたように口を開き、舌の侵入を受け入れ
 る。こうした柔軟さは、一度目の接吻にはみられなかったことである。
・人生は、一寸先は闇だというが、男と女のあいだも、同じかもしれない。霧子を知るま
 では、もうこれから若い女性と親しくなることなど、ないと思っていた。
 田部史子とだけつき合っているときには、若い女に惚れこんでいる男が、年甲斐もなく
 馬鹿げて見えたが、いまは自分が、その馬鹿げた男になっている。
 もっとも、秋葉は、ただ女の若さだけを追っているわけではない。たとえ若くても、そ
 れなりの気品と、落着きがある女が望ましい。躰の美しさとともに清潔感も欲しい。
・東京での初めての夜のときには、抱いたまま、霧子をベッドへ引きずり込んだが、いま
 はそんな手荒なことをする必要もない。
 「さあ・・・」
 先に秋葉がベッドに横たわり、「入りなさい」というように、シーツの端を持ち上げる
 と、霧子がそろそろと入ってきた。
・秋葉は女の首の筋が張っているのを見るのが好きだった。
 若いとき、秋葉はジルバを踊りながら、女が右へ廻りかけて左へ廻る、いわゆる反回転
 して戻る瞬間、首の筋が美しく張るのに見惚れたことがあった。もちろん、その瞬間、
 ねじれた上体とともにフレヤーのスカートが舞い上がり、形のよい脚が膝まであらわに
 なる。いずれにせよ、この首筋の美しさは、頭が小さく、首の細い女が横を向いたとき
 に、いっそうきわ立つ。それを見たくて、ジルバに熱中したともいえる。
・はっきり言って、霧子はあまり鋭敏な女ではなさそうである。
 初めのとき、「いいの?」ときくと、「少うし・・・」と答えたが、それは正直な答え
 のようである。  
 感じるのに感じないふりを装っても、多少とも経験のある男ならすぐわかる。少なくと
 も、秋葉ほどの年齢になれば、そのあたりのことは察しがつく。
 霧子がさほど敏感でないことに、秋葉は不満を抱いているわけではない。それより、未
 熟なところに、むしろ好ましさを感じている。
 敏感でないことは、いいかえると、それだけ男の愛撫を受けていない証拠だし、過去の
 男の影が薄いことでもある。
・根気よく愛撫をくり返しながら、秋葉は、霧子を求めようとした義父のことを思い出し
 ていた。
 義父が霧子の母と一緒になったのは三円前だというが、そのとき、霧子はすでに二十歳
 のはずである。
 結婚した相手が母であったとしても、少女期をすぎて女になった霧子が、目の前を往き
 来しては、邪な心がおきるのも無理はない。もし秋葉が、義父と同じ立場にたたされた
 としても、同じような欲望にかられたかもしれない。
・それは義父が悪いとか、霧子が不要人ということでなく、健康な男と女がもつ、愚かさ
 としかいいようがない。
 だが、霧子の場合は、ただ愚かさだけ、ともいっていられなかったのだろう。
 おそらくその一事で、霧子は男というものに失望を覚え、以後、セックスというものへ
 の偏見を抱くようになったのかもしれない。
・さらに霧子の不幸は、幼くして実の父親を失ったことかもしれない。
 父がなく、母一人の手で育てられただけに、年上の男を求める気持は人一倍強い。その
 くせ、父に近い年齢の義父に犯されかけた。
 そのあたりのアンバランスが、初めに激しく逆らいながら、途中から「優しくして・・」
 と哀願してきた、秘密なのかもしれない。
・「わたしはなにも感じない」と自らを断じ、「男なんか、なんの関心もない」という女
 性がいる。なかには、セックスより、ただ好きな人に抱かれているだけで充分という女
 もいる。
 だがそれは、過去に男と接することがなかったか、接してもなんらかの行き違いで開発
 されぬまま終ったことを、宣言しているようなものである。もちろんその行き違いのな
 かには、初体験のまずさとか、荒んだ遊びとか、霧子のように義父に迫られる、という
 不孝も含まれている。
 もしそうした不幸に遭わず、しかるべき優しさと、余裕をもった男に丹念に愛されたら、
 女の不感は自ずから取り除かれる。
 生まれつき、不感としてうまれてきた女なぞいない。過去の経験から、秋葉はそう信じ
 ている。実際、そう信じなければ、霧子に対して意欲がわくわけもない。
・いま、秋葉は軽く乳首に接吻をくわえながら、右手を霧子の背に当てている。ときに、
 舌は乳首からまわりのふくらみへ遊び、指先は腋からくびれたウエストへ流れていく。
 瞬間、霧子はくすぐったそうに身をよじり、その度に口をかすかに開く。
 くすぐったさを感じるのが、快感の第一歩である。
 確信とともに、秋葉の指はさらに項から腰へ移っていく。それを数回くり返し、指先が
 お臀に近い窪みにさしかかったとき、ついに霧子の口から声が洩れる。
 「あっ・・・・」
 つぶやきとともに、霧子がしがみついてくる。
・秋葉はその小刻みに震える女体を抱きながら、なにくわぬ顔で、さらに背にそっと手を
 這わせる。  
 「いやっ・・・」
 再びお臀に近づいて、霧子が拗ねたような声を出すが、上体はむしろ秋葉におしつけて
 くる。
・「ねえ・・・」
 やがて耐えきれぬようい、霧子が訴える。
 それを見届けて、ころはよしというように、秋葉は上体を起し、ゆっくりと霧子のなか
 に入っていく。 
 
・ホテルからタクシーで、銀閣寺、知恩院、清水寺と廻り、平安神宮に着くと一時半だっ
 た。いずれも京都の代表的な名所で、秋葉は何度も来ているが、霧子は初めてだけに、
 一つ一つに溜息をつき、感心したように眺めている。
・たとえ北海道で育ったとしても、京都へは修学旅行で来ているのではないか。しかも、
 途中から千葉に移っているのだから、京都はさほど遠いわけでもない。
 それなのに初めてとは、どういうことなのか。
 十三歳のときに、実の父親が死んだというところからみると、経済的な事情も、あった
 のかもしれない。 
 
半夏
・古来、人間は無数の恋をくり返してきた。そのなかには華麗な愛、悲愴な愛、苛酷な愛
 と、そのときどき、その人々によってさまざまである。
 しかしこれらのなかで、後世に残る愛は意外と少ない。日本でも歴史に残る愛はかぎら
 れ、しかもそれらは、当初は単なるスキャンダルにすぎなかった。それが歴史というオ
 ブラートのなかで、悲愴な愛から純粋は愛へと昇華していった。
・その一つの例として、松井須磨子と島村抱月の恋をあげることができる。いうまでもな
 く、須磨子は近代演劇史の一ページをかざる大女優であり、抱月は早稲田大学の教授で、
 当代きっての演出家であり、脚本家でもあった。
・この二人の恋は、抱月に妻子があったことから、スキャンダルとして人々の指弾を浴び、
 その結果、二人は恩師坪内逍遥の門から追われた。
 だが、これが結果として芸術座を生み出し、「復活」のヒットにより一世を風靡し、近
 代演劇の礎を築くにいたった。
 むろん、それとともに二人の愛は結実したが、最後は抱月が急死し、その二カ月後、須
 磨子があと追い自殺するという悲劇的な幕切れで終わった。
 いま、歴史には、二人の華麗な愛の足跡だけが残っているが、その実態は必ずしもきれ
 いごとばかりではない。 
・歴史に残る華麗な陰には、それの余波を受けて苦しんだ、さまざまな人がいる。
 そして、それらの人々の苦しみをいちいと顧慮していては、華麗な愛は成り難い。
 いいかえると、他を犠牲にしても、自分の欲望を貫く、鈍重なしたたかさを備えた者に
 しか、この種の愛は成就しがたい。

・「彼女を、辞めさせようかと思ってね」
 能村は「なにっ」というように秋葉をみてからゆっくりたずねた。
 「それで、どうするんだ」
 「いよいよ、本気だな」
 能村が溜息をつくが、秋葉が霧子を辞めさせたいと思いはじめたのは、京都へ行ってき
 てからである。
・霧子が毎夜、酔った男達と同席していると思うと落着かない。当然、霧子ほどの女なら、
 店が終わったあと、食事や飲みに誘われることも多い。
 秋葉が目をつけたころは、まだ田舎から出てきたばかりの素人娘、といった感じだった
 が、いまでは、他のホステスと比べて遜色はない。それどころか、いまや魔呑で一、二
 を争う売れっ子である。
 秋葉が飲みにいっても、以前なら、ずっと横についていられたが、最近では、いろいろ
 な席から声がかかって、ゆっくり坐っている暇もない。
 
・秋葉はコーヒーカップに手を伸ばした機会に、ワイシャツの袖口から覗いた腕時計を見
 る。つまらぬことだが、これも秋葉の照れ隠しの一つである。
 それを三回くり返したとき、ドアが開いて、霧子が現われた。
 店に入った霧子はいったん立止まってあたりを見廻し、秋葉を見つけるとまっすぐ近づ
 いてきた。
 その様子を追って、他の男達の視線がこちらに動き、秋葉のところでぴたりと止まる。
 「どうだ、素敵な女だろう」
 そういいたい気持ちをおさえて、秋葉は霧子に向かって、ゆっくりとうなずく。
・「忙しかった?」
 「そうでもなかったのですが、他のお客さんに誘われていたので」
 「それを振りきってきたのか?」
 「ちょうどよかったんです。行きたくなかったので」
・「いっそ、辞めてしまったらどうだ」
 「なにをですか?」
 「店をさ・・・」
 「それで、わたしはどうするのですか」
 「料理を習ったり、君が覚えたいといっていた英会話の学校へ行ってもいいし、他にも、
 いろいろやりたいことがあるだろう」
 「でも、わたし・・・」
 「生活のことなら、心配しなくていい」
 「急なので・・・」
 「それはそうだ」
 「まあ、そのことはゆっくり考えよう」
・車は渋谷のガードを抜け、東急本店通りの先を左へ曲る。道は急に坂になり、その途中
 から、ラブホテル街のネオンが目立つ。
 「ミラージュ」はその坂をのぼりきった左手にある。
 秋葉がこのホテルを知ったのは、デパートに買い物に来たときである。
・秋葉は和風の部屋を選んで、エレベーターに乗った。
 「こういうところに、来たことがある?」
 冗談めかしてきくと、霧子は即座に首を横に振る。
 「僕も初めてだ」といいたいところだが、別のホテルなら、史子と何度か行っている。
・「風呂に入りか」
 霧子は困惑した表情でバスルームのほうを見ている。
 テーブルがある和室からは、透けたガラスをとおして、バスルームの一部が見え、それ
 が霧子を戸惑わせているらしい。   
・「早く入ったらいい、見ないから」
 秋葉が透けている窓にカーテンをかけると、霧子は納得したのか立ち上がる。
・風呂からあがった霧子が現われた。
 胸元から大きなタオルを巻き、前を隠しているが、その下は裸のようである。
 霧子のスリップ姿もいいが、全裸の上にタオルを巻いた姿も悪くない。しかも風呂で濡
 れるのを防ぐため、髪をうしろに巻き上げたせいか、細い首がきわ立って、新鮮な妖し
 さをかもしだす。 
・タオルを除けられ全裸になったところを見計らって、秋葉は枕元のボタンを押した。
 瞬間、蛍光灯がまたたき、襖に嵌め込まれた鏡が浮かびあがる。
 霧子は鏡に背を向けているので、咄嗟になにがおきたかわからなかったらしい。
 振り返って慌てて首を振る。
 「いやだ・・・」
 鏡に背を向けているが、細いウエストから腰のふくらみまで、白々と鏡に浮き出ている。
 「消して・・・」
・逃げ出そうとする霧子をおさえて、秋葉はさらに足元の鏡のボタンを押す。
 途端に足先からの光に射たれて、霧子は脚を縮めるが、秋葉はかまわず、天井のボタン
 を押す。 
 「きゃっ・・・」
 今度は大声を出し、すぐ天井から目をそらして両手を顔でおおう。
 だが、すでに全裸になっている霧子の躰は隠しようがない。
 仰向けのまま、胸のふくらみから白いお腹、縮めた足先までくっきりと鏡に映し出され
 ている。
 「やめて・・・」
・布団のまわりの鏡はもちろん、天井にまで、全裸の女体が横たわっている。しかも、い
 ずれも若さに溢れ、均整がとれている。
 霧子一人の躰が、四方から映し出されているのだから当然だが、いずれも蛍光灯の明り
 を受けて息を呑むほど白い。
 「やめて、かけてください」
 霧子はシーツを求めて、手を宙にさまよわす。
 だが、あらかじめ除けられたシーツに届くわけもなく、動けば動くだけ、さまざまなポ
 ーズを鏡に映し出す結果となる。 
・「ねえ・・・」
 もう一度、霧子が懇願するが、秋葉は耳を貸さない。そのまま足元の鏡に視線を移した
 とき、再び霧子がつぶやいた。
 「変んなひとお・・・」
 瞬間、秋葉はそれを霧子とは別人の声かと思った。いままで慌てふためき、哀願する声
 とは違う、醒めた声である。
・驚いて秋葉が顔を戻すと、いままで目を閉じていたはずの霧子が、大きく目を開いて鏡
 を見ている。 
 「馬鹿ねえ・・・」
 間違いなく、鏡を見ながら霧子がいっている。
 その冷ややかな横顔を見て秋葉はたいじろいだ。
・「君があまりに綺麗だから・・・」
 秋葉は言いわけのように言うと、そろそろと足元からシーツを引いた。
  
・霧子の躰は刻々と開発されていくようである。一と月といわず、逢うたびごとに、確実
 に開かれていく。
 とくに霧子が目ざめはじめたのは、京都から帰ってきてからである。それ以来、秋葉は
 週に二度のわり合いで、霧子とベッドをともにしている。
・ときに悪戯をして、愛撫だけで手を止めると、「ねえ・・・」と拗ねたような声を出す。
 さらに夜など、疲れて先に眠ろうとすると、「眠らないで、起きて・・・」と、そばで
 躰を揺すったりする。
 「欲しいの?」と露骨にきくと、「いや・・・」と首を振るが、求めていることは明白
 である。  
・いかにも男性経験豊かそうな、色気が表に滲み出ている女が燃えるより、慎ましやかで、
 セックスなぞ、まったく関心なさそうな女が燃えるほうが、男の気持ちはそそられる。
 
雲海
・正直言って、秋葉はいまは再婚する気はない。ときに仕事で疲れたり、酔って帰ったと
 きなぞ、妻がいてくれたら、と思うことがある。仕事で迷ったり、気落ちしているとき
 なぞ、妻のような身近な相談相手が欲しいと思う。だが、妻がいたらいたで、面倒なこ
 とも多い。
 まずなによりも、いまのように自由に遊ぶことはできないし、たとえ遊んだとしても、
 いつも鎖でつながれているようなものである。むろん、霧子のような若い子と、二人だ
 けで泊まり歩くことなぞ、できそうもない。
 どちらも一長一短で、すべていいというわけにはいかない。
 結局自由をとりか、侘しさをとるかという選択で、いまは前者を採っている、というに
 しぎない。
・それにしても、離婚して四年も経つのに、なおのんびり一人でいるのは、母やお手伝い
 と一緒に住んでいるからである。
 所詮、男は一人で暮らせず、誰か身のまわりを世話してくれる人が必要になるが、現状
 では、日常生活にさしたる不便はない。
・秋葉がこう考えるのは、中年とはいえ、まだ働きざかりで躰が丈夫だからで、あと十年
 も経つと、気弱になって、常に側にいてくれる人を求めるようになるかもしれない。
 生活の不便さより、孤独の侘しさに耐えがたくて、ともに棲む相手が欲しくなる。
・それが人間の自然の姿かもしれないが、もしそうだとすると、結婚は、老いたときのた
 めの安全保障みたいなものになる。一応、表向きは、愛しているから、ということであ
 っても、その実、弱ったときの保険の色彩が強い。 
 実際、老後が不安だから、といって結婚する人は多い。
 だがなかには、そんな保険はいらないと、潔く割り切る人もいる。そういう人にとって
 は、結婚は拘束ばかり多くて、得る者はあまりないかもしれない。
・一度失敗しているせいか、秋葉は結婚にいささか懐疑的である。
 もっとも、こう思う裏にはもう一つ、史子という恰好の相手が身近にいたこととも無縁
 ではない。
 男も四十半ばを過ぎると、そうセックスを求めるわけでもないが、史子の存在は大きか
 った。それも精神面だけでなく、肉体的にも満たされていた。
 日常の生活とセックスと、両方、自由な形で満たされているから、再婚も考えず、のん
 びり四年間を過ごしてしまったといえなくもない。
・いまもし、「誰を一番好きか」ときかれたら、即座に「霧子」と答える。それはまぎれ
 もない事実で、霧子を一番大切に思っていることに偽りはない。
 しかし、「じゃ史子はいなくてもいいのか」ときかれると、簡単にうなずくわけにはい
 かない。 
・これを少しわかりやすく言えば、いま霧子に対するような気持ちのたかぶりを、史子に
 は覚えないが、かわりに落ち着いた安らぎを感じる、とでもいうことになろうか。
 なによりも史子は大人で、常識を備えているところが安心できる。
 仕事にかぎらず、家のこと、友人のこと、別れた子供達のことなど、あらゆることを、
 史子なら大人の目で、一緒に考えてくれそうである。
 年齢が近いせいもあるが、史子にはこうした安心感がある。
・だが、霧子にはとてもこんなことは言えない。実際言ったところで、霧子は戸惑い、心
 配のタネが増すだけである。 
 霧子には愛おしさがあるが、安定感はない。逆に史子には、安定感はあるが、心をかき
 たてるような緊張感を覚えない。
・理想をいえば、この両面を備えたような女性がいれば問題はない。一人で両方を兼ねる
 女性がいれば、今夜のようにはち合わせをして、慌てることもない。
 しかし、この望みは少し理想に過ぎるかもしれない。
・なぜなら秋葉が霧子に求めているのは、美しく無垢な女性であることである。そのよう
 な女を、自分好みの淑女に変身させていくことが、秋葉の最大の楽しみだったのである。
 外見はもちろん、心も未成熟な女性に、落ち着いた安定感や大人の感覚を求めること自
 体、無理な相談というものである。
・もっとも、ここでも一つだけ可能性がないわけではない。
 それは、霧子が心身ともに成熟して、理想の淑女になることである。万一そうなったら
 愛おしさと安定感と、両方兼ね備えた理想の女性ができあがるかもしれない。
 しかし現実に、その可能性はきわめて低い。
 なぜなら、霧子が完全にレディとして成熟するまで、秋葉がフォローできるか否かわか
 らないし、そのときはそのときで、秋葉の気持ちが変わるかもしれない。
 
・「そろそろ、寝ようか」
 声をかけると、霧子は振り向き素直にうなずいた。
・パジャマといっても、霧子は下のズボンをはいていないので、立つと、大きめのワイシ
 ャツを着ているようにしか見えない。 
 秋葉は霧子のスリップ姿も好きだが、このパジャマの上だけつけた姿も好ましい。細い
 躰に、少しだぶだぶのシャツを着て、下はスキャンティだけである。
 山中湖に来る楽しみの一つは、そのパジャマ姿を堪能することだった。
・秋葉は床に入ると、枕元にある行灯の、大きなほうの明りを消した。
 いま秋葉は、とくに霧子の裸像を見たいとは思わない。それより山の別荘で、心ゆくま
 で霧子との性を楽しみたい。 
・秋葉は霧子の胸に触れる。瞬間、ぴくりと上体が震える。
 初めて秋葉が胸に触れたときも、霧子は震えたが、それは緊張のあまり、躰が無意識に
 反応したにすぎない。
 だがいまは、悦びを予感しての、余裕のある震えである。その証拠に、小さな乳首はす
 でに目覚めて顔を出している。秋葉はそこにそっと唇を重ねていく。
・いま、霧子は少しずつ燃えはじめている。
 この数ヵ月の、霧子の性の目覚めはいちじるしい。
 初めはひたすら堅く、臆病であったのが、いまは見違えるほどやわらかく大胆である。
 ときには激しく燃えさかり、あとで自分の乱れに気がついて、顔をあげられず、赤面し
 ていることもある。
 処女ではなかったが、瀬尾の愉悦はまだ知らなかった。それどころか、性を不潔視する
 偏見さえ抱いていた。
 その女性にしては、まさに「変身」としかいいようのない進歩である。
・いま秋葉が気がかりなのは、霧子がのぼりつめる、最もたしかな形が、男と女の正常な
 姿であることである。たしかに、このあり方が、最も自然であることは事実だが、霧子
 がこの形に慣れ親しみ、執着するようになっては困る。
 正直言って、いつまで霧子を肉体的にリードしていけるか、そのことに秋葉は多少の不
 安がある。 
 現在はともかく、いずれ体力の衰えとともに、いまのように積極的にリードはできなく
 なるかもしれない。
 そのとき、正常な結ばれ方だけを続けていたのでは苦しくなる。
・将来、躰が衰えても、なお、霧子を満たせる方法を、別に備えておくべきではないか。
 秋葉はその一つの方法として、ときどき横からの愛撫をこころみている。このやり方な
 ら、正常の姿より、疲れず長続きする。
 だがより容易な方法は、指と唇だけで、霧子の最も愛おしいところを愛撫し、満たして
 やることである。 
 これなら、秋葉はほとんど体力をつかわず、しかも限りなく、くり返すことができる。
 この方法に霧子の躰を慣らしておけば、多少、秋葉が疲れているとくでも心配はない。
・だが霧子を知って、すでに半年近くなるのに、秋葉はまだ、この魅惑に満ちた方法を試
 みていない。 
 その理由は、愛撫の詩型が姿だけに、いきなりこころみて、霧子を狼狽させたくない、
 という気持とともに、いま一つ、二十歳以上も違う若い女性に、それを強いる自分の姿
 を想像して、少し照れているからである。
 だが、これから長く霧子とつき合うとしたら、この愛撫だけは、ぜひ試みておかねばな
 らぬ。

・「ねえ・・・」
 淡い明りのなかで、霧子が軽く訴える。
 「欲しい?」
 意地悪な質問をして、秋葉の顔がするすると下へ移る。
 愛しいところの指はなお動き続けているので、霧子はまだ、その動きの真意がわからぬ
 らしい。
・「ねえ・・・」
 霧子がもう一度、哀願する。
 いまや、秋葉の目前に、霧子の愛しいところが燃えている。淡い明りのなかで、慎まし
 やかな茂みと、股間の肌が白々と浮き出ている。
 それを充分見届けたところで、秋葉は一気に、霧子の花芯に唇を押し当てた。
・「うっ・・・」
 短い悲鳴とともに、電流でも走ったように、霧子の細い下半身が反り返る。 
 それとともに、軽く開かれていた股間は、きっかり閉じられ、おかげで、花芯をおおっ
 ていた唇はたちまちおし返される。
・いま、この瞬間を、はたから見たらどんな姿に見えるのか。
 中年の男が、若い女性の股間に顔を押し当てている図なぞ、不恰好のきわみに違いない。
 誰が見ても、そのグロテスクさに目をおおう。いや、グロテスクというより、滑稽その
 ものかもしれない。
 だが考えてみると、性の行為は、どの瞬間をとっても、グロテスクで滑稽なものかもし
 れない。本人同士が真面目に、誠実にやればやるほど、はたからは滑稽に見える。
 おそらく人間がこの世でおこなう仕草のなかで、性の行為ほど奇怪で珍妙な姿はない。
 男も女も、自分のしたことをあとで思い出せば、すべて赤面し、声も出しえないほど恥
 ずかしい。
・性の鉄則は、すすむと決めた以上、二度と振り返らぬことである。途中でやめるくらい
 なら、初めから挑まぬほうがいい。
 女がなんと哀願しようと、どう逆らおうと、一気呵成にすすむだけである。
・霧子の下半身は、細っそりと頼りない。太腿も円みを帯びているが、どこかひ弱である。
 その太腿が重なり合うほど締めつけている。
 一瞬、秋葉は初めて、霧子と結ばれたときのことを思い出した。
 そのときも、このように激しく逆らっていた。
 相手がこんなに嫌がっているのに、何故求めるのかと、いっとき、秋葉は自分のしてい
 ることに嫌気がさした。 
 それを敢えてつきすすんで、最後に結ばれた。そしてその結果が、霧子の豊かな悦びを
 生み出している。
・いまの霧子の状態も、それに近い。
 逆らい抗してなお執拗に挑む。それをくり返しているうちに、霧子の下半身から次第に
 力が抜けていく。
 いままで、きっかりと閉じられていた股間が軽くゆるみ、それとともに新しい快感が、
 霧子の全身に漂いはじめたようである。
・「やめてえ・・・」
 なお哀願するが、その声の終わりに、かすかな甘えの兆しがある。
 女の悦びは、常に高いバリケードの先にある。いいかえると、障害物を乗り越えたさき
 にしか、女の快感は潜んでいない。
・これに較べると、男は越えるべき障害物はほとんどない。わずかにあるとすれば羞恥心
 だが、それさえも欲望の前には簡単にひれ伏してしまう。
 それだけ、男の性は単純といえば単純で、味気ないといえば味気ない。初めの快感への
 侵入が容易であるだけに、その先は浅く、奥行きに欠ける。
・これに反して、女は快楽へ入る道は狭いが、いったん入ると、果てしなく深く、末広が
 りに広がる。   
・初め、バリケードを打ち砕く衝撃の、あまりの激しさに驚き、鋼のように硬く閉ざして
 いた霧子の股間も、いまはかすかに緩み、秋葉のやわらかい愛撫はピッチを上げつつあ
 る。
 それでも、ときに羞恥心が蘇るのか、慌てて身を硬くし、いやいやをするように首を左
 右に振る。
 だが一度、味わった禁断の木の実の味は、もはや捨てきれない。
 「やめてえ・・・」と訴える次の瞬間、「ああ・・・」と、小さな溜息を洩らす。
 いま、霧子のなかでは、愉悦に浸ろうとする悪魔の囁きと、いけないと思う羞恥心が、
 激しく揉み合い、渦巻いているようである。
・善と悪と、神と悪魔と両者が闘えば、悪魔が勝に決まっている。羞恥心という鉄壁の城
 塞も、快楽という砲火の前に千々に乱れ、落城は時間の問題である。 
 「あっ・・・」
 いま一度、魂消るような声が洩れ、激しく股間が震えたところで、秋葉はそろそろと花
 芯から唇を引きあげる。

待宵
・霧子を働かせないとすると、しかるべき生活費も与えなければならない。
 いままで、霧子はどれくらいの給料をもらっていたのか、はっきりわからないが、一日
 二万円としても、休日や遅刻で引かれる分を考えると、月、三、四十万円くらいなもの
 であろうか。
 若い女性にしては多そうに見えるが、ボーナスはないし、そのなかから、住居費、衣裳
 代、さらに交通費から美容院の費用などと除くと、手許には十五、六万も残らなかった
 かもしれない。
・お金が欲しくと働きたい、といいださない程度の金額となると、月々二十万くらいは渡
 さなければならないかもしれない。これに家賃をくわえると、毎月四十万近い金が必要
 になる。まことに、女性一人を独占するためには、莫大なお金がかかる。
 
・この半年で、霧子の躰は見事に開花したようである。
 初めは怯え震え、強ばらせていたときからは想像もつかぬ淫らさを受け入れ、なお、そ
 こで悦びを感じるようになっている。
 秋葉はその進歩に驚きながら、ときにふと恐ろしくなる。
 この調子で、花開いていったら、やがてどうなるのか。
 一瞬、秋葉は性の淵を垣間見たような不安にとらわれるが、すぐ現実の花園の淫らさに
 呼び戻される。

陽炎
・いまの霧子の、秋葉に対する立場はなんというべきか。結婚はしていないが、愛し合っ
 ているのだから、「愛人」というのが最も妥当かもしれない。
 もっとも、一般的に愛人関係というのは、男のほうに妻子がいて結婚できず、やむなく
 別々にいる、といった場合が多いようである。
 男女が愛し合っていながら結婚しない状態は、愛人関係というより恋人同士、とでもい
 うべきかもしれない。
 その理屈でいうと、秋葉と霧子は恋人同士だし、二人さえその気になれば、いつでも結
 婚できる。
 事実、これまでも、秋葉は霧子との結婚を考えないわけではなかった。
・二十歳以上も違う女性と一緒になって、はたしてうまくやっていけるのか。
 数ある夫婦のなかには、二十歳どころか、三十歳から、なかには、それ以上違う組合せ
 もないわけではない。
 だが特殊な例をいってはきりがないし、現実のこととなると、その年齢差はやはり気に
 なる。 
・その第一は肉体的なつながりのことである。
 いまでこそ、秋葉は霧子をリードし、教える立場にいるが、はたしてそれがいつまで続
 くのか。
 あと何年と、はっきりはわからぬが、いずれ二人の立場が逆転してくることは目に見え
 ている。
 もちろん、そのときはそのときなりに、カバーする方法を考えてはいるが、それでどこ
 まで霧子を満足させていけるかと、いささか心もとない。
・はっきりいって、この一年、秋葉はさまざまなことを教えすぎたかもしれない。
 霧子を掌中に捕え、他人へ目を向ける暇をなくするため、年甲斐もなく頑張った。
 だがもし霧子を妻にする気なら、そちらの快楽は、ほとほどで、おさえておくべきだっ
 たかもしれない。
・一人に女性を妻にするということは、当然のことながらいつもその女性が側にいるとい
 うことである。そんな相手に、初めから強い刺戟を覚えさせては、あとが続かなくなる。
・秋葉は以前、七十をこえて、三十歳近く離れた女性と結婚した男が、夜の生活について
 述懐したのをきいたことがあった。 
 「俺はもう年齢だから、いわゆる男として妻を満たしてやるわけにはいかない。だから
 かわりに、夜、妻が寝つくまで、しっかりと手を握っていてやるんだよ」
 その話を聞いたとき、秋葉は美しいが、辛い話だと思った。
・そうまでして、若い女を自分の手許にとどめるくらいなら、いっそ一人のほうがいい、
 とも思った。 
 だが、そのあと老人がつぶやいた言葉も印象に残っている。
 「でも、男と女は、セックスだけでもないからね」
・いま、秋葉はその言葉を思い返す。
 たしかに、男と女はセックスだけで結ばれているわけではない。愛し合って結婚したと
 しても、現実の生活は、仕事や家庭が優先し、性はそのあとで思い出す程度にすぎなく
 なる。 
 男と女のあいだで、性は重要なものではあるが、絶対的なものではない。
 
・「わたし、今度、勤めようかしら」
 突然、霧子がいうのにうなずきかけて、秋葉は慌ててきき返した。
 「なんだって?」
・銀座の店をやめて以来、霧子は自分から、勤めるなどといいだしたことはない。
 高校を出てから、ずっと働きづめだったので、久しぶりにのんびり、勤めのない自由を
 楽しんでいるのだと思っていただけに、いまの一言は意外である。
・「いまのままじゃ、退屈なのか?」
 「それもあるけど、どこにも勤めないでぶらぶらしていると、大さんも困るでしょう」
 「困る・・・」
 「わたしが退屈で、いつもつきまとっていると、目ざわりだと思うわ」
・いまのまま勤めもせず、習いごとをやっているだけでは退屈だ、という霧子の気持ちは
 よくわかる。
 それは銀座の店を辞めさせるときに、能村にもいわれたことであった。
 だがそれが一年もたたず、早々と出てくるとは予想外である。

白夜
・たしかにこのまま、霧子を家に縛りつけておくのは、難しいかもしれない。
 いかに、さまざまな習いごとをしているとはいえ、定まった仕事を持たないのでは、退
 屈なのだろう。 
 それに、小遣いに不自由しないとはいえ、自分で働き、収入を得るのでなければ落着か
 ないのかもしれない。
・家庭の主婦のように炊事、洗濯から育児、さらに近所づき合いまで、さまざまな雑事が
 あるのならともかく、ただお姫さまのように家にいろ、というのでは、不満がたまるの
 は無理もない。
・今度、霧子が外に出ることを要求してきたら、秋葉は許すつもりでいた。
 もちろん、外に出したら、誰かに奪われるのではないか、という心配はある。
 だが、霧子と親しくなってそろそろ一年半である。この間、霧子が浮気をした形跡はま
 ったくなかった。
 それどころか、最近は「もし、大さんが浮気をしたら、私は阿部定さんと、同じことを
 しますからね」と、冗談とも本気ともとれぬことまでいう。
・実際、このごろの霧子は、セックスに対してかなり積極的である。
 秋葉が仕事にかまけて、四、五日求めないでいると、不機嫌になり、なにか頼んでも、
 返事もせずにぷいと横を向く。その仕草が出てきたら、欲しがっている証拠である。
・正直な分だけ、霧子は万事に吸収力が旺盛なのか、初めはとても無理だと思っていたこ
 とにも、いまでは逆らわず、正直に反応する。
 まさに秋葉の教えたとおり、着実に進歩し、淫らになっていく。
 もはや、この淫らさは、秋葉なしには満足しきれない。
・性と現実の生活と、二つの点で、秋葉は霧子を満足させ、そして縛りつけてきた。
 この縄は容易に解けないという自信があるから、霧子が外へ出ることを許すともいえる。
 だが、実際に、それでは何の仕事をやるか、という段になると、途端に難しくなる。
 一度は、自分の秘書に、とも思ったが、霧子はそちらのほうには、あまり気のりがしな
 いようである。

・ヨーロッパへは、秋葉はもう何度も行っているが、なぜか、スペインにだけは行ってい
 ない。スペインが、ヨーロッパのメイン・ルートからやや外れた位置にあることも原因
 がある。
 かつて、ナポレオンは、スペインに遠征したとき、「ピレネーを越えるとアフリカだっ
 た」と嘆息したというが、スペインだけは、ヨーロッパとまったく別の風土を持ってい
 るようである。
・「スペインを見ないと、ヨーロッパを見たということにはならないような気がする」
 秋葉がいうと、霧子は両手を叩き、素直に喜びを表す。
 「わたしも行きたいわ。あそこには、本場のフラメンコが見られるでしょう」
・スペインは「光と影の国」である、とガイドブックに書いてあるが、たしかにスペイン
 には光と影しかないかもしれない。
  
秋果
・大きな仕事がほぼ半年近く遅れたために、その他の仕事も軒並みずれてしまった。
 もともと秋葉は、あまり仕事の早いほうではない。
 なにか書き出そうとして、資料を調べているうち、一つが気にかかかると、そちらに深
 入りして、ずるずる横道にそれてしまう。書くことより、読むことが面白くなり、気が
 つくと前へすすむより、むしろ退がっている。
・念入りな仕事をするから、と慰めてくれる編集者もいるが、実際は気が多くて、なにか
 面白いものがあると、脇見をする悪い癖があるからである。
・だが最近仕事がとどこおってきた本当の理由は、霧子にある。
 正直いって、この一年間、秋葉の最大関心事は霧子であった。むろん、それなりのペー
 スで仕事をやってはきたが、頭のなかには常に霧子のことがあった。
 これでは満足な仕事ができるわけがない。少なくともどっしりと腰を落ち着けた、大き
 な仕事は難しい。
・好きな女性がいるほうが仕事が充実する、という人もいるし、秋葉も霧子を知ったこと
 はそう思い込んでいた。だがそれも程度の問題のようである。

・もしこのまま生理がこないとすると、霧子は妊娠したことになる。いくら狂うことが多
 いといっても、二週間も遅れたら心配である。
 だがはたして、霧子が妊娠することがあるのだろうか・
 正直いって、秋葉はこれまで霧子の妊娠について、考えたことはなかった。
 いままで何度も関係しておきながら、無責任といえば無責任だが、なぜか、霧子は妊娠
 しないような気がしていた。
 その理由は、といわれると答えに窮するが、霧子には妊娠は似合わない。
 変な理屈だが、いまはそうとしかいいようがない。
・不思議なことに、霧子に生理が訪れないと、秋葉は少し邪慳にしたくなる。
 毎月生理に苦しみ、辛いのだと思うと、いたわってもやりたくなるが、それが途絶えて
 妊娠するとなると、急に相手が頑丈で逞しい女に見えてくる。
 秋葉のこの感覚は少し異常なのかもしれない。普通の男なら、愛する女が妊娠したらし
 いと知ると、優しくいたわるに違いない。
 だがそれも、ときと場合によりけりで、若い夫婦ならともかく、少し年月を経たり、正
 式に結ばれていない男女のあいだでは、妊娠という事実はいささか鬱陶しい。
・とにかくこれまで霧子は妊娠しないのだと、秋葉は漠然と思い込んでいた。そんな人並
 みな変化が表れないところが不思議で神秘的でもあった。
 それが平凡に子を孕み、スリムな躰が大きな乳房と巨大な腰に変貌するのでは、いささ
 か興醒めである。
・霧子は絶対に子供を孕むような女ではない。あの淫らな行為から乳房も腰も肥大して母
 というアニマルに変わっていく、そんな動物的な姿は見たくない。
 
冬萌
・ヨーロッパから帰国して、霧子は一段と美しくなった。
 もっとも、美しくなったといっても、とくに目鼻立ちや容姿が変わったわけではない。
 天性のものはそのままだが、そこに一段と磨きがかかって生来の素質が花開いた、とで
 もいうべきかもしれない。
 この花開いた原因の一つは、なによりもまず自分に自信をもったことかもしれない。
・それといま一つ、ヨーロッパから帰ってきて、霧子に新しい目標ができたようである。
 素敵なアンティークの店をつくる。いままでの、ただ学校へ通って教わるだけの日々で
 はなく、これからは新しいものを創り出していく。
 その目標に向かって生き生きと動き廻る。そのことが、また霧子を美しくさせていくら
 しい。
・「きいて、きいて、代官山にいい店があいたの」
 霧子からはずんだ声で電話がきた。
・「このあたりで、こんないい物件が出ることは、もうありませんよ」
 「この辺りにしては、値段もそんな高くはないと思いますよ」
 不動産屋はあっさりいうが、渡されたチラシには権利金千八百万、家賃二十万と書いて
 る。 
・ふり向くと、霧子がすがるような目で秋葉を見詰めている。
 ここで断れば、霧子が失望するのは目に見えている。
 「なんだ、店を出してくれるといったのは、口先だけだったのか」
 といわんばかりに不満そうな顔をするに違いない。
・どうせ買うなら、いまこの場で約束をしてしまったほうが、どれだけ喜ぶかわからない。
 秋葉はもう一度なかを見廻し、それから一つ空咳をした。
 「じゃあ、これにしようか」
 秋葉にとっては、まさに清水の舞台から飛び降りるに等しい、一大決心である。
 だが霧子は熱をおびたような眼差しで、まだ秋葉を見ている。
  
・不動産屋に手付金を渡した翌日、秋葉は能村と会って食事をした。
 すでに手付金は渡したが、秋葉は少し迷っていた。
 はたして千八百万という権利金は妥当なのか。もしかすると、足元を見られて高く吹き
 かけられたのではないか。代官山あたりで、それだけの金を出して、店をやる価値があ
 るのか。その点について、誰かと相談したいが、適当な相手がいない。
 能村となら、なにも隠さずに堂々と相談できる。それに仕事柄、顔が広いから、いろい
 ろ情報を持っているかもしれない。
・「いや、魂消たよ」
 「高い安いかは、もちろん物件を見なければわからない。それより俺が驚いたのは、お
 前がその金を全部出すということだ」
 「実際に店をやるとなると、その他に家賃や礼金、それに仕入れや運転資金も必要にな
 る。その様子では、なんだかんだで二千万は軽くこすだろう」
 「そんな大金を、どうするのだ」
・この数日、秋葉は自分名義の証券類を処分することを考えていた。主に株券や投資信託
 などだが、それらを処分すれば、二千万くらいはなんとかなるかもしれない。
・「お前のところは、資産があるから、平気かもしれないが・・・」
 「いや、平気ではない」
・「いまい、こうもんだな」
 能村はもう一度、溜息をつくとつぶやいた」
・「しかし、羨ましい」
 「お前のように、熱中できるのがね」
 「そういって、内心は笑っているのだろう」
 「いや、俺にはとてもできないし、やる勇気もない」
・能村はサラリーマンで、お金も自由にならないから、そんなことはできない、といいた
 いようである。
 だが一人の女性を愛するということは、サラリーマンでも、金がなくても、できないわ
 けではない。一人の女性にほれ込むのは、金や立場の問題ではなく、熱意の問題である。
・「お前は、そういって、いつも逃げる」
 「意気地なしなのだ」
 「表面的はいろいろやっているようで、結局、まわりだけを気にして生きている」
・高校生のころから、能村とつき合ってきて、気まずい思いをしたことはほとんどなかっ
 た。だが、今夜の気まずさは、少し違うようである。
・女のために二千万もの金を出すことに、能村は呆れて溜息をつき、秋葉は逆に開きなお
 る。この食い違いは、政治や社会の話より、プライベートなことだけにいっそう根が深
 い。
 このあたりになると、議論したり酒を飲むことで理解しあえることではなく、一人一人
 の生き方の違い、といわざるえない。
 最後は、「お前はお前、俺は俺」といった形で、別れ別れになる。
・飲みながら秋葉はふと、このまま能村と少しずつ離れていくような不安にとらわれた。
 人生の価値観が変われば、生きていく態度もおのずから変わっていく。
 いまの能村は、まさしく会社人間で、ここ数年をのりきって、いずれは重役のポストを
 狙っている。表面は穏やかに振る舞っているが、その裏にはあきらかに上昇志向が潜ん
 でいる。それに較べて、秋葉の関心事は霧子にある。二人の生き方に、あきらかに食い
 違いがある。 

・店の契約を終えて、一段落したかと思ったが、忙しさはむしろそれからであった。
 このところ二人でいても、霧子の話題は店のことばかりである。
 新しい店に熱中する分だけ、秋葉へはおろそかになったが、考えてみると、今度の店は
 霧子にとって、子供のようなものかもしれない。
・能村から秋葉へ電話があったのは、内装工事がはじまる前日であった。 
 「店の契約者は誰になっているんだ」
 「もちろん、彼女だけど・・・」
 「しかし、店をやるとなると、一応、会社かなにかの形にするのだろう」
・正直いって、秋葉はそこまで考えていなかった。霧子が自分のアイデアではじめる店だ
 から、霧子がオーナーでいいのだと、簡単に思い込んでいた。
・「まだ、はじめているわけじゃないんだろう」
 「開店は来月からだ」
 「それなら間に合うが、店はやはり会社組織にしたほうがいい。いまは小さな雑貨店や
 魚屋さんでも、みんな法人組織だ」
 「それにお前が最大の出資者だから、お前が社長になればいいんだ」
 「俺がアンティークの店の社長じゃおかしいよ」
 「じゃあ、社長は彼女でもかまわないが、お前も代表ということで、役員になったほう
 がいい」  
 「会社にしたら、店は彼女のものではなく、お前のもの、ということになる」
 「表面は彼女が社長でも、お前が資本金さえ出しておけば、お前がオーナーということ
 になる」
 「それさえ出しておけば、彼女がどうしようと思っても、なにもできない」
 「どうしようって」
 「たとえば、彼女が店をやめたくなったから売りたいとか、お前と別れたいと思っても、
 お前の同意なしに、店を勝手に処分することはできない」
 「万一ということがある。このままでは彼女だけのものになる」
 「でも、実際には、どうしたらいいのかな」
 「簡単さ、知っている税理士にでも頼めば、会社設立の手続きはみんなやってくれる」
・たしかに、いまのままでは店は霧子の名義になって、霧子の自由になってしまう。万一、
 将来秋葉がお金に困っても、店を解約して埋め合わせすることなぞできないし、店を担
 保に金を借りることも不可能に近い。いかに金を出したところで、すべて霧子のものに
 なるだけで、秋葉のものとして残るものは一つもない。
・だがよく考えてみると、なにか少し意地汚い感じがしないでもない。
 なによりも気になるのは、「このままでは、彼女だけのものになってしまう」といった
 能村の言葉である。会社組織にするのは、それを防ぐための対策である。
・能村はさらに「もし、お前と別れたら、彼女は勝手に店を処分することもできる」とい
 った。
 将来のことだから断言できないが、そんなときがくることなぞ、秋葉は考えたことがな
 い。他人がなんといおうと、秋葉にとって、霧子への恋は最後の恋だし、霧子は最後の
 女である。 
 その女性と別れるときのことを考えて、いまから対策を練るなぞ、世知辛すぎる。
・店を借りると決めたときも、契約したときも、霧子は子供のように喜び、何度も礼をい
 った。そんな霧子を疑って会社組織にして、秋葉の母や娘まで、名前をつらねるわけに
 はいかない。 
・もし能村のいうように、霧子が裏切ることがあったとしても、そのときは秋葉の恋の終
 わりでもある。
 霧子が去ったあと、店の権利ぐらい残ったとこりで、どうなるわけでもない。
 「好きだから全力で尽くしてやった。それだけでいいじゃないか」
 秋葉は自分にいいきかせて、一人でうなずいた。
 
・秋葉は改めて、これまで霧子に出したお金を数えてみた。
 まず店の権利金として千八百万、それに不動産屋への手数料、先渡しの家賃などを含め
 ると二千万近くになる。他に内装費が四百万、仕入費として二百万ほど渡してある。
 これらにちいさな出費をくわえて二千六百万ちかいお金が出たことになる。
 株や債券類を売って工面したお金が、二千五百万だったから、その分はもう残っていな
 い。初めの瑩山では、それで充分間に合うはずで、多少オーバーしたところで、百万く
 らいだろうと思っていた。ところが、あまるどころか、かなり足りない。
・霧子は、今度の仕入れで最後だというが、はたしてこれで終わるものなのか。店をやっ
 てすぐ収益があがるわけでもないから、当座の運転資金や女の子の給料などを考えると、
 まだまだかかるかもしれない。
・「大変なことに、のめり込んでしまったものだ・・・」
 秋葉はいまさらのように溜息をつくが、といって、ここで逃げ出すわけにもいかない。
 
・店のオープンとともに、霧子の生活も一変してしまった。
 店が開くのは十二時からだが、遅くとも十時には起きて、出かける準備をしなければな
 らない。
 いったん店に出てしまえば、閉店の八時までは店に釘付けだし、終わったあと片付けし
 て帰ってくると、九時は確実である。
・初めはどうなるかと思ったが、開店して一ヵ月も経つと、霧子もアルバイトの女の子も
 大分慣れて、客がぽつぽつ増えてきたようである。
・五月の半ば、家賃やアルバイトの子の人件費、それに運転資金などを含めて、秋葉は結
 局、さらに五十万、渡すことになった。
 他に霧子のマンションの家賃は自動的に、秋葉のほうで降り込んでいるから、七十万近
 い金が出たことになる。 
 むろん、いまの秋葉にそんな余裕はないので、母に内緒で南平台の家を抵当にして、銀
 行から借りることにした。
・六月の初めに百万円を渡すとき、秋葉はきっぱりと霧子にいった。
 「もう、これだけだよ」
 霧子は一瞬、秋葉を見上げ、それから不安そうにうなずいた。
 
春愁
・これまで秋葉は商売というものに関わり合ったことがない。
 父は最後は民間の会社に勤めたが、もともと外交官だったし、親戚達も事業をしている
 者はいても、実際に小売のような店をやっている者はいない。
・それだけに、現実に客にものを売る商売に興味を抱き、一時は憧れたこともあった。素
 人の浅はかさで、小売は毎日現金が入るから恵まれている、と思ったこともある。
 だが現実に霧子の店に関わり合ってみると、容易ではない。
 初めの秋葉の思惑では、店さえできれば、あとは自然に儲かるものだと思っていたが、
 そんな簡単にいくわけにもない。 
・店が開店して半年経ったころから、秋葉はもう店のことは一切考えないことにした。
 もし、黒字になればそれにこしたことはないし、赤字ならそれでもかまわない。
 いくら損をしたからといって、命までとられるわけではない。
・そんな開き直った気持ちが功を奏したのか、秋口から赤字はほとんどなくなり、十二月
 にはわずかながら黒字がでた。
 新しい年とともに黒字になって、霧子は一段と店の経営に熱を入れ出したが、おかげで
 二人でのんびりする機会はますますなくなってきた。
・秋葉がさしあたり欲しいのは、霧子のやわらかい肌である。以前は、欲しいときには欲
 しいと素直に言えたが、最近の霧子には、そんな言葉を受け入れる甘さはない。
・男と女の闘いは、いってみれば我慢くらべかもしれない。どちらかが耐えきれず、先に
 手を出したほうが負けになる。だが総じて、こらえ性のないのは、男のほうである。
 欲しいとなると、無性に欲しくなる。あと少し我慢すればいいものを、つい手を出して
 火傷をする。
・もっとも、火傷にも重傷から軽傷までさまざまである。
 つい目前の魅力につられて深入りし、それが悪女だった場合には大火傷になるが、とき
 には意外に軽い火傷ですむこともある。   
 秋葉の場合は、どの程度の火傷というべきか。
 全部で三千万近い金を吸いとられたところをみると、大火傷というべきかもしれないが、
 それは好んで受けたところもあるから、大火傷というのは、少しいいすぎかもしれない。
・このこらえ性のなさは秋葉にかぎらず、男という性につきものの弱さのようである。
 過去、人類の歴史において、男はこのこらえ性のなさに、どれだけ女に高価な代償を払
 ってきたことか。そして、女は、生来の我慢強さによって、どれだけ男を振りまわして
 きたことか。 
・だが考えてみると、男の欲望が単純で、欲しいとなると駄々っ子のように我慢できぬか
 ら、男と女はうまく続いてきたともいえる。
 これがもし、女と同様、男も我慢強かったら、人類は今日のように栄えることはなかっ
 たかもしれない。
・たとえばここに一組の処女と童貞がいたとして、まず欲望を覚え、性的なことを求めて
 いくのは男のほうである。男の欲望が外に向かい、能動的に働くから、男と女の関係が
 できあがる。
・相当、経験を積んだ男女にしても、まず求めていくのは男のほうで、女から求めていく
 ことは滅多にない。
 多くの女性は、強引に求められたという形で男を受け入れ、その代償として、なんらか
 のものを得ていく。
・むろん、すべての女性が口に出し、はっきり要求するわけではないが、求め、求められ
 るうちに、男と女のあいだで、暗黙の了解が成り立っていく。
・創造主は、男という性に、積極的で活動的な能力を与え給うたが、こと男女の関係では、
 それが裏目に出て、ときどき大きな負担をこうむることになる。一方、女は消極的だが
 忍耐強い能力を与えられ、おかげで一見、損をしているようで、その実、苛立つ男を翻
 弄し、実を得る結果となる。
・もちろん個々人によって、損得の差はあるが、総じて男はこらえ性のなさというアキレ
 ス腱をもち、女は我慢強さという武器で、体力の弱さをカバーする。
・男なら誰でも、愛する女と肌を触れ合い、結ばれることに悦びを覚える。むろん秋葉も
 それを認めるにやぶさかではないが、ときにそれだけでは、もの足りなさを覚えること
 もある。
・正直いって、男は性において、視覚的な楽しみを求めている。 
 たとえば、興奮とともに女体の肌が赤らむさまや、悦びで足先が小刻みに震えるところ
 を垣間見たい。むろんその瞬間、美しい女が切なげに眉根を寄せる表情を盗み見るのも
 悪くはない。
 ひたすら女を抱きしめ、性の関係さえ全うできればいいと思ったのは若いときで、年齢
 とともに、視覚の楽しみを求める欲求のほうが強くなってくる。
・むろん、これは体力の衰えも一因かもしれないが、同時にさまざまな性の楽しみ方があ
 るのに気がついた証拠である。
 ただ単に結ばれるだけなら、動物と変らない。それより目や耳や、五感のすべてを駆使
 して楽しんでこそ、人間らしい性のいとなみというべきかもしれない。
・昔、清の西太后は、情事の度に、さまざまなことを要求したという。夫の咸豊帝は閨房
 に入ると甘くなり、その要求をことごとく受け入れたらしい。
 これをもし、意図的にやったとしたら悪女であり、いわゆる「色仕掛け」ということに
 なるが、もともと、男と女のあいだには、この種の危険は常につきまとう。
 とくに意図したわけでなくとも、二人で睦み合えば、女に甘えが出て、男も愛おしさの
 あまりイエスといってしまうのは、自然の成り行きというものである。
・女は性に耽溺するという思いが、秋葉には根強くある。その溺れ方は、男とは較べもの
 にならなぬほど激しく深い。   
 いったん感じだすと、すべてを投げ捨てて没入し、そのあとは別人のごとく従順になる。
 それを信じ、その愛しい姿を見たい一心で、懸命に努める。
 それなのに、溺れたのは一瞬で、すぐ正気に戻り、以前の冷静さをとり戻すのは、努め
 た甲斐がない。
 むろん、今夜の霧子は、いままでと同様、充分燃えていた。そのことに疑う余地はない
 が、そのあとアメリカ行きのような、現実的な話をもちだしてきたのは初めてである。
 
余花
・霧子がニューヨークに発ったのは、ゴールデンウイークが終わった翌日の夕方であった。
 霧子がいないあいだ、秋葉が日に一度、店に見に行く約束になっていた。
・今回、霧子に渡したのは、合計五十万円である。
 もっともそれだけでは、仕入れの代金や、ホテル代が足りないので、アメリカでもつか
 えるクレジットカードを渡してある。
・予定どおり、木曜日の午後、霧子は成田に戻ってきた。
 もっとも予定どおりといっても、初めのスケジュールから三日遅れである。
   
・十日ぶりに逢ったにしては、霧子の態度は淡々としている。
 愛撫をくり返しながら、秋葉は少し苛立ちを感じた。
 いまの霧子は反応がないというわけではないが、どこか冷ややかである。大人しく躰は
 あずけているのに、神経がまだ集中していないようである。
・秋葉は少し躰を離し、愛撫の手をとめた。その位置から横目でうかがうと、霧子が目を
 開けたまま宙を見詰めている。
・「どうした・・・」
 いきなりきかれて、霧子は慌てて顔をそむける。
 「なにか、心配ごとでもあるのか」
 霧子は否定するように、首を横に振ると、自分のほうからしがみついてきた。
 「ねえ、しっかり抱いて・・・」
 霧子の真意がわからず戸惑っていると、さらにつぶやく。
 「お願い、早く・・・」
 霧子がこんなことをいうのは珍しい。
 「もっと、強く」
 あまり積極的にいわれると、秋葉のほうが逆に醒めてくる。
  
短夜
・霧子がアメリカに行ってきて、一つだけ変わったとはっきり言えることは、いかにもキ
 ャリアウーマン風になったことである。
 むろん行く前も、霧子は毎日店に通い、経営に真剣に取り組んでいた。夜遅くまで計算
 機を使い、帳簿をつけていたこともある。
 だがそのころの霧子は、一生懸命ながら、どこか素人っぽいところがあった。
 気持ちは経営者気取りでも、根は素人のお嬢さま商法と変らない。
 それが、アメリカから帰ってきてから、急に厳しさがでてきた。いままでは秋葉の前で
 平気で弱味を見せていたが、もはや泣きごとはいわない。
・少し困ったことだが、女らしさと仕事ができることとは、必ずしも一致しないところが
 ある。  
 女が仕事に熱中すればするほど、男が求める女らしさは消えていく。仕事に集中する分
 だけ、女から甘えや頼りなさが消え、かわりに厳しさや逞しさが表に出てくる。
 これは当然で、厳しさと甘えと、両方持て、というのは男の身勝手な要求というもので
 ある。
 仕事をもっている女性は、いつも、この女らしさと仕事ができるという、二つの狭間で
 迷うことになる。
・仕事もできて、女らしさも保っているキャリアウーマンはいないものか・・・。
 そう考えてみると、史子はたしかに素敵な女である。
 フリーの記者という仕事をきちんとこなしながら、女らしさも充分残している。
 表面こそ聡明で、一分の隙もなさそうに見えるが、その実、史子はかなりヒステリック
 で嫉妬深い。表に出さないように気をつけてはいるが、心の底には女らしい情感が渦巻
 いているようである。 
 その証拠に、いまだに秋葉に、他の女性のことについて、一言もたずねない。若い女性
 とつき合っていることを知っているはずなのに、未練がましいことは一切いわない。
・その後、秋葉は二度ほど誘ったが、いずれも断られてしまった。三度目にようやく会え
 たが、昼間に三十分コーヒーを飲んだだけだった。
 霧子のいない留守に一度だけ、「明後日の夜ならいい」と言ったのを真に受けて、与し
 易いと思ったが、それは大変な間違いだったようである。
・どうやら史子の態度を見ていると、「あなたが若い女性を追いかけているあいだは、コ
 ーヒーを飲むお友達の関係から一歩も近づきません」と宣言しているようである。
 その態度の頑なさは呆れるほどである。
 彼女はそれで、自分を律しているつもりなのかもしれないが、頑なにすればするほど、
 女らしさが匂ってくる。
・この史子と較べると、いまの霧子は少しキャリアウーマンにこだわり過ぎているようで
 ある。アメリカで見てきたことに感動して、真似ることを急ぎすぎる。
 実態より形にこだわりすぎるところが、霧子の幼く愛らしいところだが、それが高じる
 と、いささか味気なくなってくる。
・アメリカから帰ってきてからの、霧子の微妙な変化はなにによるのか・・・。
 ニューヨークで、真剣に仕事に取り組んでいるキャリアウーマンを見て、刺戟を受けた
 ことはたしからしい。女も仕事をやる以上、彼女等のように甘えを捨てなければいけな
 い、と思ったようである。
 だが、それだけのことなのだろうか・・・。
・たしかにアメリカに行ってきて、霧子の仕事に対する態度は変わったようだが、同時に、
 秋葉に対する態度も、底氏変わったようである。
 これも具体的に、どこがどうといいにくい。しかしいままでのように、万事、秋葉に頼
 る生き方を捨てて、自分の力でやってみたいと思い始めたようである。
 
・「一つ、きいてもいいかな」
 口に出してから、秋葉はその声が硬すぎることに気がついた。もう少し自然に言うつも
 りが、つい心の緊張が表れたようである。
 秋葉は少し間をおき、できるだけ感情をおさえた声でいった。
 「君は、他に、誰か好きな人がいるんじゃないのか・・・」
 「別に、怒っているわけではないんだ」
 「ただ、本当のことを知りたいと思ってね」
 「やっぱり、好きな人がいるんだろう」
 瞬間、霧子は激しく首を左右に振った。
 「そんな人、いません」
 秋葉は声の激しさに一瞬たじろぎ、それからゆっくりうなずいた。
 「しかし、このごろの君の様子は以前とはだいぶ違う」
 
峰雲
・正直いって秋葉は、自分をもう少し淡白な男だと思っていた。もし霧子が別れたいとい
 ってきたら、いつでも「そうか・・・」とうなずき、手放してやれるものだとたかをく
 くっていた。 
 霧子と結婚しない以上、いずれ他の男に移っていくのは、仕方がないことだと思い込ん
 でいた。
 だがそれは、余裕のあるときの、独りよがりの思い込みだったようである。
 現実は、そんな恰好のいいものではなさそうである。
 
・「わたし、結婚なんかしません」
 「ずっと、一人で生きていきます」
 答える霧子の目に涙が光っている。
 瞬間、秋葉はなにか懐かしいものを見たような気がした。
・「わたし、いまは結婚を考えていません。それより仕事をしていきたいんです」
 「わたし、結婚がそんなにいいものとは思えないんです」
 「私はまだ一人で自由に生きていきたいんです」
・「君のやりたいことは認める。もちろん、多少遅く帰ってきてもかまわない」
 「あまり焦らず、もう一度、考え直したらどうだ」
 「でも、もう決めたんです」
   
病葉 
・「君を前にして、こんなことを言うのはおかしいが、彼女は僕をいまでも好きだと言っ
 ている。好きだし、感謝しているともいう。それなのに、ニューヨークに行って、甥の
 竜彦と深い関係になってしまった」と秋葉は史子に語った。
 「それは別に、深い関係ということではないんじゃありませんか」
 「外国にいると解放された気持ちになるけど、心細さもある。そんなときに、優しくし
 てくださる男性がいたので、つい気を許してしまった・・・」
 「しかし、男ならともかく、女の身で・・・」
 「女性だって、殿方とそんなに変わらないわ」
・「霧子さん、そろそろ、変えたいと思っていたかもしれませんね」
 「なにを?」
 「いままでの生活を・・・」
 「お店も、生活を変える一つの手段だったんじゃないかしら」
・「あなたが、優しすぎるのよ」
 「僕が優しすぎた?」
 「そう、あなたは優しすぎるわ」
 「女は、あまり甘やかしてはいけないのよ」
 「優しくては、いけないのかね」
 「いけないことなんか、ないわ」
 「でも、ほどほどということがあるでしょう。あまり優しくされると、どこまでも甘え
 てしまうわ」
 「あまり優しくされると、怖くなるのよ」
 「これで、いいのかしらって、不安になって・・・」
・「もっと、しっかり掴まえておくべきだったかもしれない」
 「違うわ、あなたは縛りすぎたのよ」
・「それでも彼女は、店だけはやっていきたいと言っている」
 「僕とは別れても、店はやらせて欲しいということらしい」
 「反対なのですか」
 「そんなこともないが、少し勝手なような気もしてね」
 「でも、あのお店は霧子さんに差し上げたのでしょう」
 「霧子さんとしても、あのお店だけが頼りでしょう」
・「しかし、こんなことになるとは思わなかった」
 「それは、霧子さんも同じだと思うわ」
・「ニューヨークに行かなければ、こんなことにならなかった」
 「それは違うわ。行っても行かなくても、霧子さんは変わったと思うわ。もちろん、遅
 い早いの違いはあるけど」     

・車が霧子のマンションに着いたのは九時五分前だった。
 部屋の前に立ち、チャイムを押した。もう一度押したが返事がない。
 「かえっていないのか・・・」
 つぶやきながら鍵を入れると、いつもの軽くきしむ音がしてドアが開く。
 やはり、戻っていないらしく、部屋は真暗である。
 秋葉は手さぐりで、入口の近くのスイッチを押して、思わず声をあげた。
 「しまった・・・」
 家具がなくなって、急に広くなった部屋で棒立ちのまま、秋葉はつぶやいた。
  
・もう許さぬと、叫びながら外出の準備をした。
 だが、いざ来てみると、夏の陽が明るすぎる。
 明るい陽光のなかでは、男と女の争いなぞ他愛なく、虚しいものに思えてくる。
・秋葉は落ち着かぬまま、バックミラーを店の方向に向けた。
 中年の女性が二人、なにか買ったのか店の袋を持っている。二人はいったん外に出て振
 り返ると、そのあとから霧子が送りにでてきた。
 ワンピースなのか、淡い水色の上のほうだけが見え、髪はまた変えたのか、中央から分
 けた流れの一方だけがふくらんでいる。
 秋葉がバックミラーで見ているとも知らず、霧子は笑顔とともに、客にもう一度頭を下
 げる。 
・バックミラーに映る霧子の姿を見ながら、秋葉は次第に、いままでの高ぶりが萎えてい
 くのを感じていた。
 なぜ急に気持ちが萎えてしまったのか。先ほどのあの怒りはどこへいってしまったのか。
 正直いっていままでは、霧子憎しの思いでかたまっていた。冷淡で自分勝手で、恩知ら
 ずの女だと思い込んでいた。
 だが一瞬でも、真剣に働いている霧子の姿を見て、いくらか気持ちが落ち着いたようで
 ある。
 たしかに一方的に別れると宣言し、部屋を出ていくのは身勝手だが、霧子には霧子なり
 の生き方があるのかもしれない。
 大の男が、逃げられた女のところへ乗り込んで騒ぐなぞみっともない。そんなことをし
 たところで、女が後悔し、元も戻るわけでもない。
・だいぶ前、秋葉はある若い男に「女は追えば追うほど逃げるものだ」と、忠告したこと
 があった。その男は婚約までした女に逃げられて、怒りと口惜しさに蒼ざめていた。
 「去っていくものは、放っておきなさい。そのときは苦しくとも、やがていい思い出く
 らいにはなる。それをとことん追い詰めては、追うほうも追われるほうも、惨めで暗く
 なるだけだ」 
 秋葉はいまようやく、自分のいった言葉の恰好よさと、実行することの難しさに気がつ
 いた。
・明方、霧子にいわれた言葉を思い出した。
 「これ以上、あなたを嫌いにさせないで・・・」
 なにやら、去っていく女の身勝手さが滲み出ているような気がしないでもないが、これ
 以上嫌われ、憎み合うのは辛い。
 怒り、猛り狂った、ぎりぎりのところで、秋葉の理性が戻ったようである。
 これでは、いままで霧子のために尽くしたのはなんであったのか。嫌われるために尽く
 した、といわれても一言もない。 
・だがそれにしても、霧子はなんと逞しいことか。
 男を振り切り、部屋まで替えていながら、平然と店に出て仕事をしている。客を送り出
 している霧子の明るい笑顔には、男とのトラブルのかけらもない。
・いま霧子の頭のなかには店のことしかないのかもしれない。自分一人でやっていこう、
 と決めたときから、男に庇護される生活は、完全に絶ちきったのかもしれない。
 このあたりのわり切り方は、まさに非情としかいいようがない。少なくとも、尽くした
 秋葉の側から見ると、身勝手以外のなにものでもない。
 だがこれほど徹底してくると、非常さを通り越して、むしろ爽やかでさえある。
 怒るのを忘れて、お見事と声をかけたくなる。
・いままで何人かの女性とつき合ってもきたが、霧子ほど鮮やかに変わった女は珍しい。
 田舎出の垢抜けしない娘が、たちまち都会的センスあふれる女に変貌した。おどおどと
 頼りなかった女が、数年のあいだに、大地にしっかりと足をつけ、生きていく逞しい女
 に変わっている。
 
・毎日昌代が持ってくる郵便物の束のなかに、速達の赤いマークの入った、女文字の封書
 がまじっていた。裏を返すと「八島霧子」と、名前だけが記してある。
 半信半疑で封をあけると、まさしく霧子の文字である。
  前略 この度は勝手なことのし続けで、さぞお怒りになっていることと思います。
  早速ですが、今月からお約束のお金、お返しさせていただきます。三十万という少額
  ですが、そちらの口座に振り込ませていただきました。おかげで店のほうは、いくら
  か利益が出るようになったのですが、まだ苦しいので、こんなことになりました。
  勝手ですが、いましばらく、この額でお許し願えないでしょうか。
・たしかに霧子は、別れ話を持ち出したとき、店にかかった費用を少しずつ返させてもら
 う、といっていた。
 霧子が現実にお金を返してよこすとは、思ってもいなかった。
・店を開くに当たっての費用はすべて、秋葉が出したが、名義は霧子のものになっている
 だけに、店を続けたからといって、秋葉が文句をつける権利はない。
 心情的にはともかう、法律上では、問題ないはずである。
 その霧子から、わざわざお金が送られてきた。
・三十万というお金は、霧子にとって、そんな楽な額ではないはずである。それどころか、
 まだ黒字の少ない店にとって、かなり大きな出費に違いない。
 それでも返してくる霧子とは、どういう女なのか。
  
・夕方、秋葉は久しぶりにコロを連れて散歩にでかけた。
 この半月ほど、霧子とのトラブルで、犬と遊ぶほどの余裕もなかった。
・散歩のコースは南平台のお邸街の一角を廻るだけだが、途中犬に引かれて代官山へ向か
 う通りにまで出る。あと十分も行けば、霧子の店に着くが、秋葉はその手前で向きを変
 えた。 
 霧子からの手紙が届いたからといって、店まで行くのは調子にのりすぎである。
 それに犬を連れた男に入ってこられては、霧子も迷惑に違いない。
・家の近くへ戻ってくると、門の前に昌代が立って手を振っている。
 「いま、病院から電話がありまして、奥さまが・・・」
 「母がどうしたのだ」
 「お亡くなりになったと・・・」
・入院した当座こそ、毎日のように見舞ったが、長引くにつれて二日に一度になり、霧子
 とトラブルが生じてからは、週に二度くらいしか顔を出していなかった。
 とくにこの四日間は、仕事が忙しかったせいもあって、病院には行っていない。
 「しまった・・・」
 父の急死以来、思いがけないときに死がやってくると、肝に銘じていたはずだが、また
 怠けたときを狙って、死が襲ってきたようである。
・「馬鹿な奴・・・」
 涙をおさえてつぶやきながら、秋葉はふと、母を殺したのは、自分のような気がしてき
 た。   
 若い女のうつつを抜かしているうちに、母はあきれ果てて、あの世へ行ってしまった。
 
秋色
・母を失って、急に老け込んだ感じの昌代が、「お電話です」というので出てみると、
 霧子の声だった。
 「お母さま、お亡くなりになったのですね」
 いきなり、霧子は問い詰めるような口調で言った。
 「どうして、知らせてくれなかったのですか」
 「昨日、偶然、能村さんにお会いして、知ったのです」
 「これから、お参りにうかがってよろしいですか」
 「いけませんか」
 「いや、そんなことはないけれど・・・」
 「ご迷惑でなければ、おうかがいしたいのですが」
 「もちろん、ありがたいけれど・・・」
・落ち着かぬまま待つうちに、一時間ほどして霧子が現われた。
 「矢島さまという方がお見えです」
 書斎にいると、昌代がしらせにきた。
 秋葉が書斎からおりていくと、霧子はすでに奥の間で、仏前に坐って掌を合わせていた。
 「忙しいのに、わざわざありがとう」
 「何も知らずに、お参りが遅れまして、申しわけございません」
・「静かなところですね」
 「いまでは広すぎて、困ったことです」
 「もう、まったく一人になってしまった」
 「こんな大きな家を、もったいないわ」
 「君に、きてくれるように頼むべきだった・・・」
 「冗談をいうと、お母さまに叱られますよ」
 「冗談ではない」

・秋葉は安堵と淋しさの入り混じった気持ちのまま、霧子のおいていった封筒を手にした。
 「本当の気持ちを、言葉ではいいにくいので、手紙に書いてきました」と霧子は言って
 いた。母のお参りとともに、この手紙を渡すのが霧子の今日きた目的だったようである。
  前略 この数ヵ月のわたしの行動については、お詫びのしようもありません。
  このごろになってようやく、自分の気持を正直にお伝えできそうな気がしてきたので
  す。いまさら、とお思いになるかもしれませんが、わたしはあなたのこと、とても好
  きです。
  もしあのまま二人の関係が永遠に続くものなら、わたしはあなたのそなにしがみつい
  て、離れないでしょう。でもきっとそうではありません。やがてあなたも、わたしと
  の関係に飽きてくるかもしれません。
  初め、あなたと史子さんのことを知ったときはショックでした。といっても、それは
  あなたが別の女性とつき合っていたということではなくて、史子さんほど美しく魅力
  的な女性でさえも、あなたを永遠につなぎとめておけなかったという事実に対してで
  す。人生、とくに男と女の関係では、出会う順番が大きな意味をもっているような気
  がします。
  わたしと史子さんを較べて、わたしのほうが素敵だったということではなくて、わた
  しのほうが史子さんより遅く、あなたに出会ったということが、あなたの心を惹きつ
  ける、大きな原因になったのではないでしょうか。
  以前、あなたは結婚は惰性だと仰言ったことがあります。弱い者が傷ついたときに利
  用する保険のようなものだと。でも、結婚していない女性にとっては、その保険もあ
  りません。
  あなたを知ってから、わたしは結婚生活というものに憧れなくなりました。わたしに
  躰の歓びを教えてくれたあなたは、そのことによって、わたしを世間一般の幸せから
  遠ざけてしまったのです。
  あなたの優しい愛に包まれながら、わたしはこの数年、いいようもない不安と淋しさ
  にとらわれることがありました。
  男性は神様ではないのですから、救いを男性に求めてはいけないのだと思います。そ
  れでは、男性にとっても負担が多きすぎるでしょう。
  そうわかっていながら、浅はかな女は、どこまでも、底なし沼のように男性に甘えて
  いくのです。
  でもいつからか、あなたに頼り過ぎている自分が、許せなくなってきたのです。愛と
  いう移ろうものにすべてをゆだねようとする自分が、不安になってきたのです。
  しばらくは、わたしを一人にして、この不安と闘わせてください。そしてもしこの不
  安を越えるときがきたら、わたしは初めて本当の意味で、あなたを愛する女性となる
  ことができるかもしれません。
・いったい、これは別れの手紙なのか、それとも愛惜の手紙なのか。
 霧子は、史子から自分に、男の愛が移ってきたことを知って、やがていまの愛も消えて
 いくと、思い込んだようである。そこから、霧子は男の愛にすがることに、虚しさを覚
 え、男に去られる前に、生甲斐を見つけて、去っていくことを考えたようである。
 そのかぎりでは、聡明とも用心深いともいえるが、見方によっては、少し考えすぎ、と
 いえなくもない。
・たしかにいま霧子は、一人で生きていくことを決めたようであるが、いずれときがきた
 ら、また戻ってくるとでもいうのだろうか。
 手紙を読めば、完全に否定しているわけでもなさそうである。
 「いつかまた、戻ってくるときがあるのか・・・」
 そこまで考えて、秋葉は急に淋しさを覚えた。
・すでに秋葉自身、五十二歳に達している。
 このあと、霧子の気持ちが変わって戻ってきたからといって、そのとき、いままでのよ
 うに、霧子を満たしてやることができるだろうか。
・秋葉は自分が完全に一人になったのを知った。妻と子が去り、母が死に、史子が遠ざか
 り、いま霧子と別れて、まわりにはもう誰もいない。見事としかいいようのない孤独で
 ある。