一角獣 :小池真理子

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この作品は、いまから19年前の2003年に出版された「一角獣」という本に収録され
ている短編のひとつなのだが、なんだか不思議な感じがする作品だ。
この作品を読んで、「一角獣」という伝説の生き物の存在を初めて知った。
「本当の純潔とはなにか」につい、改めて考えさせられた気がした。
たくさんの男と寝ても純粋なままの女性もいるし、たった一人の男だけと寝ても、すでに
純粋さを失ってしまっている女性もいるという。なるほど、そうかもしれないと思った。
この作品の主人公の女性と版画家との静かなひととき。女性の人生のおいて、いちばん満
ち足りた幸せな時間だったのだろうと思った。


・女は三十二歳。すでに、娘、とは呼べない年齢であった。だが、女は自分がいつも男の
 目から、娘、のように見られていることを知っていた。からだつきが若いのか、あるい
 は、痩せているのに頬だけふっくらしている顔が幼く見えるのか、世をすねたような仕
 草が少女を連想させるのか、女がそこにいるだけで、不思議なほど男たちから誘いの手
 がかかった。
・誘われて、いやだと断るのも面倒くさく、ついていくと、いつも同じことをされた。本
 当に半で押したようにいつも同じだったので、いつしかそういうことも慣れてしまった。
・仰向けに寝た自分のからだの上を、ろくに知りもしない男の指や舌が這いずりまわって
 いくことにも慣れた。お愛想に喘ぎ声をあげてやることにも慣れた。求められるまま、
 おかしな恰好をしてやったりすることもできるようになった。
・しまいには、帰りがけに一万円札を数枚渡されることにも抵抗を感じなくなり、黙って
 受け取って自分のバッグのなかにねじこむ、その手つきも巧くなった。
・だが、男が部屋を出て行き、ひとり残されると、女はいつも同じことを思った。早く年
 をとりたい、と。年をとって、女でも娘でもない、ただ、のそりと立っている、古い蝋
 燭のようになってしまいたい、と。
・鎌倉の古家に版画家が住んでいる、家政婦を探しているのだが、あんた、やってみる気
 はないか?そう聞いてきたのは、女が勤めていた居酒屋の常連客だった。
・女はそこまで行き着くまでに、様々な職場を転々としていた。事務服を着て小さな企業
 の総務課に勤めたこともあるが、そういう仕事は性に合わず、たいていが飲食店関係だ
 った。
・鎌倉と言えば、女が住んでいる大船のアパートからも近かった。版画の仕事というのが、
 静かなアトリエで静かに仕事をしている、青白い顔をした中年男が想像できた。
・気難しい芸術家のために掃除をしたり、料理を作ってやったり、庭の草むしりをしたり
 することくらい、なんでもなかった。無口であれば、なおさらだった。  
・そろそろ、静かな暮らしがしたかった。たとえ、その版画家が、こちらに手を出してき
 たとしても、それはそれでかまわなかった。そういう物静かな男なら、給金の中に添い
 寝料を入れてもらってもいいような気さえした。女は、そういうことには慣れていた。
・女はまともな教育を受けていなかった。お金をもうけたい、金のある男と結婚したい。
 という上昇志向もなく、何かを目指して生きる、という生き方も無縁だった。
・家庭が悪かったせいだ、と女はいつも思っていた。両親を呪ったこともある。だが、最
 近はそんなことも考えなくなった。
・たとえ、人並みの教育を受けたのだとしても、自分はやはり社会の出来事などに関心を
 持たないだろう、と女は思っていた。新聞を読むことにも興味がない。テレビのニュー
 スを見るということも滅多になく、音楽を聴いたり、絵を観賞したり、足しげく映画館
 に通うという趣味もなかった。最後に本と呼べるものを手にしてから、もう何年もたっ
 てしまったような気がする。
・なのに、女は早い時期から、自分の中に静かに吹き荒れている嵐に気づいていた。嵐は
 物ごころついた時から始まっていた。あまりに長く吹き荒れるものだから、こんなふう
 に荒寥とした原野のような人間が出来上がったのかもしれない、と思うこともあった。
・だが、そういったことを言葉にして表現する方法を女は知らなかった。女は自分を語っ
 たり、何かに感動したこと、嬉しい気持ち、切ない気持ちを言葉に替えたりすることが
 できずにいた。だから女の気持ちの中には、いつも言葉にならない感情がうずたかく積
 まれていた。あまりに高く積まれてしまったので、もはや自分自身、身動きできなくな
 ったような思いにかられることもあった。
・だから、版画家の家で働くことになった時、アトリエに入れてもらって、版画家の彫っ
 た幾つかの作品を目の前にしても、女には何の言葉も思い浮かばなかった。
・美しい版画であることは事実だった。制作途中の版画はもちろんのこと、完成して掘り
 出された版画も、何もかも美しかった。
・或る説明できない豊かな感動に包まれて、女は佇んでいた。きれい、とか、素敵、とで
 も口にしていればとかったのだろうが、一介の使用人なのだから、と自分の戒め、女は
 ただ、ひたすら沈黙を守った。
・ぶっきらぼう・・・女が最初に感じた版画家の印象はそれだった。 
・五十と聞いていたが、もう少し若く見えた。年齢がわからない、と言ってもよかった。
・青白い芸術家タイプの痩せた体型を想像していたが、彼は厚い胸板や筋肉の張った腕の
 持ち主だった。そのため、口数の少なさにはかえって威圧感があった。
・何故、妻子と別居して、こんな淋しい鎌倉の谷戸の一角に住んでいるのか、女にはわか
 らなかった。妻に知られてはまずい愛人がいる様子もなかった。
・友達が訪ねて来ることもなかった。送られてくる郵便物の中に、私信とわかる封書が混
 じっていたためしもなかった。 
・版画家が女に好色な視線を向けたり、手を出しそうな素振りを見せてきたことは、一度
 もなかった。それどころか、女など、そこにいないかのようでもあった。
・版画家は猫を一匹、飼っていた。シロ、という名の、おそろしく大きな、胴長の白い猫
 だった。愛らしいというよりも飼い主同様、ぶっきらぼうで、刺々しい印象を与える猫
 だったが、不思議と女にはなついていた。
・そのうち猫は、女の膝にのぼってくるようになった。白い生き物は、太った赤ん坊のよ
 うに重く、女はすぐにその重みが好きになった。
・版画家は珍しくくつろいだように猫を膝に抱きながら、小さなサンルームの籐椅子に腰
 をおろした。
・「一角獣、って知ってるかな」
・居間のテーブルの上の新聞を片づけていた女は、振り返り、目を瞬いた。
・「角が生えている動物だよ。もちろん現実の動物ではない。神話の中に出てくる架空の
 生き物だ。白い子馬くらいの大きさでね。頭も胴体も馬のように見える。顎には山羊み
 たいな白い髭が生えていて、頭にまっすぐに伸びた美しい、長い角がある」
・「その動物を手なずけるのは難しんだ。見かけによらず、性質が荒い。猛り狂ったよう
 になることもある。でも、ひとつだけ例外があってね。純粋な乙女にだけは気をゆるす
 んだよ。清らかな処女に甘えて、膝にすり寄る。そういう愛らしい一角獣を描いた絵は、
 たくさん残されていて、見ているとなかなか面白い」
・そこまで言うと、版画家は抱いていた猫を床におろし、わずかに笑みを湛えて女を見た。
 そんなふうに版画家が微笑むのを女は初めて見た。
・「シロはまるで、一角獣みたいなものだな。あなただけには気をゆるす。あなたにしか
 手なずけられない」 
・女は耳のあたりが赤くなるのを感じた。
・「そんな・・・私は、処女なんかじゃないです」
・「僕が話しているのは、猫の話だ」
・「私にも処女だった頃がありましたけど・・・でも、そんなのはずっとずっと昔のこと
 です。今はもう、忘れてしまいました」
・「誰だってそうだろう」
・「私、汚れていますから」「汚れてしまうと、安心ですよね。これ以上、どんなに汚れ
 ても、同じですし、男の人と私は・・・」
・「僕の言っている純潔というのは、そういう意味じゃない。千人の男と寝た女性でも、
 充分に純潔を保ち得る。その一方で、たったひとりの男しか知らない女性が、現実の垢
 にまみれて、汚れ放題、汚れていくこともある。まぼろしの動物の一角獣はね、そうい
 う女性を見分ける力を持っていたからこそ、神話の中に生き続けてきたんだよ」
・女は顔をあげ、まじまじと版画家を見つめた。使われている言葉は難しく感じられたが、
 何を言われているかは、漠然と理解できた。何か素晴らしいこと、これまで誰ひとりと
 して考えもしなかったことをこの人は私に向って教えようとしてくれている・・・そう
 思った。
・猫が音もなくやって来て、女の足もとにやわらかなからだをすり寄せた。ほうらね、と
 版画家は言い、微笑んだ。
・版画家は静かな口調で、女に絵の話、詩や小説の話をした。女のよくわからない外国で
 の出来事や、遠い宇宙の話、時に、映画や演劇、音楽の話もしてくれた。
・版画家の口にする言葉は、いつも女の気持ちの中にすうっと分け入ってきた。だが、ど
 んな話をしていても、そこにはひたひたと流れる冷たい水のような悲しさばかりが感じ
 られた。
・それは本当にどうしようもない悲しみだった。どうしてこの人はこんなに悲しいのだろ
 う、と女は思った。そう思えば思うほど、版画家がぽつりぽつりと語り続ける言葉の一
 つ一つが、女にはいとおしくてならなかった。
・帰りたくない、と思うような晩もあった。酌をしてやろうとした手が、つと版画家の指
 先に触れた時など、しびれるような悦びを覚えてしまうこともあった。ひとりになって
 アパートのベッドにもぐりこむ時、女は、版画家に抱かれている自分を夢想した。
・この人のことが好きになったのか、と女は思った。恋など、したことがなかった。いつ
 も男から性急に求められ、応じてきただけだった。好きとか嫌いとか、惚れたとか惚れ
 ないとか、そういう感情は女にとって未知なものだった。男と女は肉と肉のつながりで
 しかなかった。
・話をしている途中で版画家はふいに黙りこみ、翳りを帯びた表情でじっと宙の一点を見
 つめることもあった。そのたびに女は、その視線の先にあるものを探ろうとした。
・版画家はふと顔をあげ、悲しみを湛えた目で女を見つけた。その目には自分が映ってい
 ない、と女にはわかっていた。わかっていたからこそ、女は版画家をじっと見つめ返し
 た。
・版画家が短銃でこめかみを撃ち、自殺したのはその年の五月だった。
・いつもの通り、昼近くなって版画家の家に行き、アトリエを覗いた女は、顔を吹き飛ば
 されて倒れている版画家を見つけた。
・遺書はなかった。警察が来て事情を聞かれた。何もわかりません、と女は震えながら答
 えた。 
・版画家の妻と息子が東京から駆けつけた。妻はめんどりのように顔が小さく、胸と腹だ
 けがせり出した奇妙な体型をしていた。
・どなた、と女は妻に聞かれた。通いの家政婦です、と女は答えた。妻はいやな顔をして
 女を見た。軽蔑したような顔だった。
・妻の目には涙の跡があったが、悲しみや怒りや驚きの涙ではない。それは何か、とんで
 もない災難にまきこまれた時の涙のようにしか見えなかった。
・女は、版画家が猫を飼っていたことを妻に教えた。警察の人間が出入りしている間にど
 こかに行ってしまったが、いずれ帰って来る、どうすればいいのでしょう、と訊ねた。
・猫など引き取ることはできない、と妻は言った。
・でも、このままにしておくと、野良猫になってしまいます、と女は言った。
・妻は息子と促して、しばらく廊下で何かひそひそやっていたが、まもなく戻って来るな
 り、ティッシュでくるんだ小さな包みを女に差し出した。餌代にしてほしい、というこ
 とだった。
・女は目をそらし、受け取らなかった。
・白い猫は帰らなかった。待っても待っても、戻らなかった。
・女は毎日、合鍵を使って版画家の家に通い続けた。猫がふらりと戻って来て、家に人の
 気配がないのはあまりにかわいそうだと思ったからだった。
・家の後始末は夏にならないとできない、と版画家の妻は言っていた。
・初めのうちは、昼間、空いている時間をみつくろって立ち寄り、猫が帰っているかどう
 か、確かめる程度だった。
・猫は台所の勝手口のドアについている、猫用の小さなハッチから自由に出入りしていた。
 女は台所の片隅に猫が愛用していた餌のボウルを置き、毎日、新しいものと取り替えて
 やった。 
・やがて女は、家の中で猫を待つようになった。二時間も三時間も・・・時よっては午後
 の間中、家にいることもあった。
・家にいても何もすることがなかった。女はただ黙って、じっと坐って、庭を見ていた。
 版画家が自分に向って語ってくれた言葉の数々を思い出した。思い出す、という作業が
 女に残された悦びになった。女が幾度も幾度も、それこそ飽きずに思い返すのは、一角
 獣の話だった。
・その話をしてくれた時の版画家の、静まりかえった表情や横顔に満ちていた影、わずか
 に笑みのようなものを湛えた唇の動き、自分を見つめてきた目の奥に、ちいさなわなな
 いたような光があったことを女ははっきり覚えていた。
・自分が何を待っているのか、女には次第にわからなくなってくる。白猫なのか。一角獣
 なのか。それとも版画家なのか。
・雨の降りしきる庭の奥、刺のあるサンザシの茂みの間から、今にも、白く美しい、一本
 の角を生やしたまぼろしの動物が現われそうな気がする。版画家もきっと、そうやって
 帰って来てくれるのだ、と女は思う。
・気持ちは悲しいほど清々しい。女はただ、待ち続けている。