ひとひらの雪 :渡辺淳一

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この本は、今から39年前の1983年に刊行されたものだ。上下巻に分かれている。
作品が発表された当時は、"ひとひら族"や"ひとひら願望"などの流行語を生み、単行本は
100万部のベストセラーを記録したという。
内容は中年男性の不倫をテーマにしたものである。見合結婚した妻とはうまくいかず別居
中という、伊織(45歳)という建築家が主人公である。
伊織は、自分で経営する建築事務所で働く笙子(28歳)という若い独身の女性事務員を
愛人にしていたのだが、高名な画家の米寿を祝うパーティで、15年前に急死した大学
時代の同期の妹で、今は人妻となっている霞と再開した。そして、二人の関係は「焼け木
杭には火がついた」ように深まっていく。
伊織が霞との関係が深まるにつれて、もう4年も関係を続けていた笙子との間は、次第に
冷めていく。だが、笙子との関係を断ち切るまでの気持にはなれないでいた。
笙子のほうも、伊織の自分に対する気持ちの変化に気づき、なかば自暴自棄ぎみとなり、
職場の同僚と一度だけ関係を持ってしまう。
笙子からのその告白を受けて、伊織の気持は動揺する。自分も他の女性と関係を持ってお
きながら、自分の愛人の不貞は許せないという男の身勝手さがよく表れている。

伊織がいまの妻と離婚すると言ったとき、霞が「おやめなさい。離婚して、他の人と一緒
になっても、同じことですよ」と言うセリフがあった。私はこのセリフが作者自身の主張
であり、また世の中の真実でもあるように思えた。
どんなに好き合って結婚しても、かならずいずれは倦怠期が訪れる。そのたびに、愛情が
薄れたからと言って離婚し、また別の人と結婚しても、同じことのくり返しになるだけだ
というのだ。それよりも、離婚せず、結婚はそのまま継続しながら、お互いに別の人と情
事を楽しむほうが得策だとの考えなのだ。
しかし、そんな身勝手さはいつまでも続かない。やがては終焉が訪れる。妻が去り、祥子
が去り、そして霞も去っていくのである。ひとり残された伊織には、虚しさだけが残るの
である。

ところで、私がなんとも理解できなかったのが、最後のほうで、突然、出現する霞の娘で
ある。母の替わりのように伊織に逢いにきた霞の娘は、初対面の伊織に「抱いてください」
とつぶやく。作者はいったい、この娘を出現させて、何をいいたかったのか。私にはまっ
たくわからなかった。

この作品は、1985年に映画化されている。また1986年にはテレビドラマ化もされ
ている。


侘助
・侘助は椿に似ているが椿ではない。白い一輪の花を咲かせるが、開ききらず釣鐘型のま
 まとどまる。その控えめな風情が古来から茶人に好まれたらしく、多く茶室のにじり口
 か、寺社の庭などにひっそりと咲く。
・「あなたに似ている」
 「なんでしょう」
 「いや・・・」
 曖昧な返事のまま、伊織は夕暮れのなかで活けている霞のうえに侘助を重ねていた。
・昨夜、床へ誘うとき、霞は小さな声で「ヤクザにしないで下さい」といった。
 あれは、どういう意味だったのか。
 たしなみのいい人妻が、夫以外の男に肌を許すことは、ヤクザなことだという意味なの
 か。それとも、求めようとする伊織をヤクザだという意味なのか。
・昨夜の乱れた霞の姿が蘇ってくる。白くやわらかな躰であった。そのまま回想のなかに
 身をまかせて目を開けると、目前に侘助がかすかに揺れている。
・霞とは二度会っている。そして昨夜三度目に、伊織は霞のすべてを知った。
 その経過は、人妻という立場を考えると、大胆すぎるともいえるし、見方によっては自
 然ともいえる。  
 あまり気持のいい譬えではないが、霞との関係は、「焼け棒杭に火」とでもいうべきか
 もしれない。
 もっとも二人のあいだに、かつて愛し合ったという記憶はない。15年前に会ったとき、
 霞は彼女の兄のことについて、二言三言話した記憶しかない。
 
・若い女性は心の振幅が激しい。いっとき陽気に振る舞っていたかと思うと、次の瞬間、
 たちまちふさぎこむ。男からみたらつまらぬと思うことに、深刻に悩むこともある。と
 くに笙子のように生真面目な性格の女性は、些細なことを考えすぎることが多い。
・たかが、自分の下で働く事務員である。そう思いながら、そのまま突き放せない。その
 裏には4年間、愛し合い、仕事をまかせてきた者の愛着と弱みがある、
・年齢は、笙子が霞の七つ下の28歳である。女子だけの大学の美術科を出たが、途中か
 ら建築のほうに関心をもったということで、工務店にいる知人に紹介されたのが、知り
 合うきっかけだった。父親が教育者だったせいか、笙子は生真面目で少し融通がきかな
 いところがある。彼女自身もそれに気がついて、自分からその殻を破ろうとした時期が
 あったらしい。伊織の愛を比較的素直に受け入れたのも、そういう気持と無関係ではな
 かったようである。  
・だが、生来のきっかりした性格は、深い関係になったからといって、そう変わるわけで
 もないらしい。仕事を正確にするように、笙子は愛においても妥協を許さない。いった
 ん愛したら、その人一筋で、他に好奇心を示すことは、即不潔と思い込んでいるところ
 がある。笙子といると、28歳の女性と対しているという感じより、少女と対している
 ような息苦しさを覚える。
・霞はもっとふくよかで豊饒である。直線的ではなく、円く、すべてを包み込むところが
 ある。といって、霞がふしだらとか、いい加減というわけではない。性格はやはりきっ
 かりとして控え目である。ただすでに結婚している人妻であるという事実が、言葉や態
 度に微妙な落着きを与えているかもしれない。
   
日永
・すでに霞とは肌を許し合っていたが、逢ってすぐ部屋へ誘うことにためらいがあった。
 誘うことに罪の意識があるわけではないが、すぐにベッドに誘いにくいなにかが霞には
 ある。
 もっとも、それは伊織自身の心の問題ともつながっているかもしれない。正直いって、
 伊織はベッドにゆく前に小さな手続きを残しておきたい。それは酒を飲むことでも、話
 をすることでもいい。少し面倒でも情事の前にはその程度のクッションが欲しい。
 だが、それまでの時間が長過ぎても辛い。伊織が最終的に待ち望んでいるのは霞の躰で
 ある。躰を知り合って深まる愛を伊織は信じている。
・「こちらを向いて下さい」
 そろそろと振り向いた瞬間をとらえて、伊織は素早く唇を近づけた。
・「暗くしてください」
 顔をそむけながら霞が哀願したが、伊織はかまわず抱き寄せた。正面からかかえ込んだ
 つもりだが、帯の厚みが邪魔して頼りない。
 一瞬、霞はむせたような息をつめたが、じき静かになり、やがて躰全体がやわらかくな
 る。いまは軽く唇を触れ合わせながら舌を遊ばせても、もう霞の唇は逃げはしない。と
 きに意地悪に舌を引きかけると、むしろ慌てたように追ってくる。
・伊織のなかにふと残忍な気持ちがわく、改めて唇を重ねなおし、いきなり相手の舌を力
 一杯吸う。
 瞬間、霞は小さな声をあげ、細い横一筋の目が泣きそうになる。
 もう霞は、明りのことはほとんど気にしていないようである。抱きしめられ、唇を吸わ
 れて、霞の躰はやわらかく従順になっている。その優しさをたしかめながら、伊織は光
 りのなかの切なげな表情を楽しんでいる。
・長い接吻のあとのせいか、伊織が誘うと、霞は素直にベッドルームに従いてきた。
 「どうしても、ですか・・・」
 霞はなお戸惑っていたが、やがて意を決したように帯締めに手をかけた。それを見て、
 伊織は先にベッドに入る。
・「おいで」というように、伊織は掛布の端を持ち上げた。
 霞は両手を軽く頬に当てたまま近づき、途中で腰をかがめると、ベッドの端からそろそ
 ろと入ってきた。その姿が、伊織にふと忍びよる子猫を思わせた。
・床に入って、かえって心が定まったのか、霞は優しく従順であった。伊織が引き寄せる
 のに合わせるように素直に寄り添い、胸元に顔をうずめる。霞は白い長襦袢にきっかり
 と腰紐をしめている。いずれ脱がされることはわかっていながら、きつく紐を結んでい
 るところが、霞のおかしさであり律義なところであった。  
・伊織自身が耐え難くなって腰紐に手をかける。結び目を解き横に引くと、紐は簡単に抜
 け、胸元があらわになる。それに勢いをえたようにさらに裾よけを除くと、前をおおっ
 ているものはなにもない。着物のうえから見ると霞の躰は頼りなかったが、脱ぎ捨てる
 と思いがけぬ量感があった。
・「好きだよ」
 伊織は改めて抱きしめ、やわらかな肌のぬくもりを充分楽しんだところで、無言のまま
 霞のなかに入っていく。
 一瞬、霞の躰は逆らう素振りをみせるが、抱き締めた腕に力をこめると、もはや逆らい
 はしない。
・それまでゆっくりした調子と変って、男の動きは激しさを増すが、女の躰はまだきわだ
 った反応を示さない。見ようによっては感覚をおし殺しているようにも見える。だが額
 には、さらに深く皺がより、目が細まる。
・「素敵だった・・・」
 伊織が耳元で囁くが、霞はなにも答えない。まだ燃えた名残りに浸っているのか、それ
 ともはずかしさをおさえているのか、目を閉じたままである。
・「あたたかい・・・」
 霞のぬくもりを感じながら、伊織は軽く眠気を覚えた。このまま、やわらかい肌と触れ
 合ったまま眠りたい。霞の肌には眠りに誘う甘さがある。
   
・妻とは親しい人を介しての見合結婚であった。特別好きでもないが、といって欠点もな
 かった。そう美しくはないが、妻としては安心できると思った。それを愛といえばいえ
 るかもしれないが、いま霞に対しているような燃えたぎる愛はなかった。だがまわりの
 人々は、結婚したという事実だけで、愛と結びつけるようである。愛よりも、安定感だ
 けで結婚したという事実を他人に説明するのは難しい。
・自分が離れ難いほど愛している女性が、一人の男の支配の下にある。三日間といって出
 て、男が一日早く帰ってきたら、そのとき、この人はきちんと待っていなければならな
 い。相手の男の気紛れのまま、愛する女性が拘束されている。それが人妻の当然の努め
 と思いながら、彼の意のままに縛られている霞が哀れにも思う。
  
双葉
・このところ、笙子のことはあまり念頭になかった。霞に心を奪われた分だけ、笙子を忘
 れていたともいえる。
 祥子は一礼して背を向けた。きっかりとタイトのスカートにつつまれたお臀が、ドアの
 ほうへ去っていく。それを見ながら、伊織は祥子としばらく関係していないことを思い
 出す。

・伊織が霞と結ばれたのは、パーティで知ってから二度目に逢ったときである。そんな簡
 単な逢瀬のあとで、霞はなぜ許したのか。口説き方がうまかった、といわれるならそれ
 でもいい。あるいは、かつて霞の兄を知っていたという親しさや、少しアルコールが入
 っていた、ということも幸いしたのかもしれない。だがそうだとしても、霞があんなに
 容易に受け入れるとは思わなかった。それを思うと、霞の印象は少し変わってくる。な
 にごとにも控え目で慎ましやかにみえるが、その裏には、意外に大胆な性格が隠されて
 いるかもしれない。
・「一盗二婢三妾」という言葉がある。この理屈からいえば、他人の妻を盗んている伊織
 は、最も恵まれた男だということができる。とくに霞のように美しく、経済的にも恵ま
 れている人妻と近づくことは、男の最大の喜びかもしれない。
・だがその喜びは、考えて見ると意外に他愛ない面も含まれている。たとえば、他の男の
 妻と結ばれるのが最上とはいえ、その人妻は、相手の夫にとっては、さほどありがた味
 のない存在かもしれない。夫にとっては退屈きわまりない、陳腐で見飽きた妻が、他人
 にとっては、宝石のような存在に思える。いわゆる他所の芝生は青く見える、といった
 類の錯覚である。他人の妻という緊張感のうえに、愛が成立しているということは、裏
 を返せば、他人の妻という条件がなくなれば、ただの平凡な女性に戻るかもしれない。
・むろん、そんなことをいったからといって、霞の肌を知った伊織の喜びが減じるわけで
 はない。たとえ、人妻という条件を除いたとしても、霞は充分に魅力ある女性である。
 夫があり、しかもみなが注目する女性を、自分が密かに掌中にしているという喜びは大
 きい。だが喜びの裏には、必然的に不安が控えている。
・その第一は、愛してはいても、所詮、相手の女性は自分の自由にならないということで
 ある。盗むという緊張感で愛は高まるが、いつも逢いたいときに逢えるわけではない。
 万事、相手の夫の様子をうかがい、目を盗み、秘かにことを運ばなければならない。そ
 れも楽しいといえば楽しいが、その喜びはおのずから限界がある。
 
春愁
・「もう実家には帰りません。こりごりです。この前、帰ったとき、見合いをしろとうる
 さくいわれるのです」 
 笙子の実家は長野の旧家で、父親は高校の教師だときいていた。古い家だけに、28歳
 になって一人でいる娘へ、風あたりが強いのであろうことは、伊織にも想像がつく。
・祥子が結婚する気はない、といってくれるのは嬉しいが、それにどう答えるべきなのか、
 伊織は戸惑う。女性が男に、見合いや結婚の話をするときは、相手に、なんらかの結論
 を迫っているのかもしれない。そのあたりまでは察しがつくが、いまの伊織には、それ
 に明快な返事はできそうもない。 

・「休もうか」
 伊織が促してベッドルームへ行くと、笙子は黙って従いてきた。
 ベッドわきのナイト・テーブルの小さな明りだけをつけて、伊織が服を脱ぐと、少し遅
 れて笙子も脱ぎはじめた。
 先に伊織がベッドに入って待っていると、キャミソール姿の笙子が、身をかがめて入っ
 てくる。その小猫のような姿態をみながら、伊織は自然に、霞のことを思い出す。
 もしこれが霞なら、こういう具合にはいかない。この前逢ったときも、霞はうしろ向き
 で、片袖ずつ脱ぎ、最後の長襦袢にきっかりと伊達巻を巻いた姿で、布団の端から入っ
 てきた。
・いまの笙子の仕草が不躾というわけではないし、とびこんできた姿は、むしろ愛らしか
 った。だが霞とくらべると、笙子の動きはてきぱきと少しさっぱりしすぎているかもし
 れない。車に乗るときこそ戸惑っていたが、部屋に入ってからは迷うことはない。ベッ
 ドに入るのは当然のことのように自分から服を脱いだ。
 そこには、霞のように戸惑い、逡巡するところがない。それは見方によっては、さっぱ
 りしすぎて風情がない、ということにもなりかねない。
・だが、すらすら服を脱ぐ気楽さが、二人が慣れ親しんだ歳月の結果であることは、まぎ
 れもない事実のようである。笙子も、かつてはそんな簡単にベッドに入ってはこなかっ
 た。霞とは違うが、それなりのためらいと戸惑いがあった。いま、それが失せたところ
 に、4年という歳月の長さと重さがにじんでいるともおえる。
・笙子と二人のときは、ベッドまでの過程が気楽であるように、愛し合う行為にも、余計
 な緊張はない。そこには、未知のものに対するときのような興奮や好奇心はないが、反
 面、慣れ親しんだ者だけに通じる安らぎがある。
・行為が終わって、いま笙子は、いつものとおり小さく伊織の胸のなかにおさまっている。
 それは親鳥がつくった巣に、小鳥がすっぽり入り込んでいるのに似ている。笙子の細い
 躰はそのままぴくりとも動かず、呼吸のたびのわずかな胸の動きだけが、やわらかな肌
 を通して伝わってくる。
・女は行為を終えてから、末広がりの満ちてくる感覚を味わいのかもしれないが、男はそ
 の瞬間から醒めていく。そのあたりが男の少し面倒なところだが、伊織はいま、笙子の
 あたたかさを全身に感じながら、ある気怠さとかすかな悔いにとらわれている。もちろ
 ん気怠さは行為のあとの虚脱感だが、悔いの内容はいささか複雑である。
・この一ヵ月の笙子との冷たい関係は、どうやらこれで解消したようである。原因やいき
 さつはともかく、愛し合ったあとでは、それ以前の争いはすべて他愛なく、些細なこと
 としか思えない。そのかぎりでは、今日の逢瀬は二人にとって大きな意味があったとい
 える。 
・だがその安堵とは別に、これでまた笙子とのあいだが深まっていく。それは伊織が望ん
 だことであり、そのこと自体に不満はないが、その先にある不安と気重さは消えてはい
 ない。一体このまま続けて、笙子とのあいだはどうなるのか。もうずるずると4年も経
 っているのに結論は出ていない。その原因は、妻が離婚に応じないからではあるが、そ
 の裏には伊織の決断力のなさもある。いまの不安は、そうした状態への苛立ちであり、
 同時に、上司と下に働く女性という関係の難しさもからんでくる。そしてその先に、霞
 の姿が垣間見える。
 
・伊織はまた花を見ながら、霞をベッドへ誘うきっかけを考えていた。
 女の心を正確に読み取ることは難しい。日中のわずかな時間をさいて、部屋まで逢いに
 来た以上、霞が自分に好意を抱いているのは間違いない。あるいは、もう「愛」といい
 きっていいのかもしれない。だからといって、ベッドまで従いてきれくれるかとなると、
 伊織は自信がない。男がわからなくなるのは、そこから先である。
・すでに体を許し、いまは二人だけで向き合っている。これまでのいきさつからみれば、
 当然、許してくれるはずである。だがその状態でも、女はなお断ることもある。そんな
 つもりではない、というかもしれないし、ただ会いにきただけです、というかもしれな
 い。欲しいという気持をあらわにしすぎると、女はかえって退っていく。
・もっとも、だからといって、「いや」というわけでもない。駄目だと思ってあきらめて
 いると、あとになって、「あの人は意気地がない」といわれることもある。要するに、
 女性にとっては、その場の雰囲気が大切のようである。ベッドまでゆくには、理屈とい
 うよりタイミングかもしれない。ごく自然にゆきやすい状態の下で誘ってくれれば従い
 ていける。男はなぜそうしてくれないのかと、女は歯痒がっているのかもしれない。
・だが「ベッドへゆこう」と直接いうのもおかしなものだし、手を差し出すのも妙である。
 できることなら、霞の、そして伊織自身の自尊心を傷つけぬ形でベッドへ移りたい。
 それにしてもまずいのは、向い合って坐っている二人の位置である。これが横に並んで
 いるのなら、そっと肩に手をかけて、唇を求めることもできる。だが向い合っていては、
 手を差し伸べたところでさまにならない。
・仕方なく、伊織は立ち上がると、いったんキッチンへ行って水を飲み、それからなにか
 を探すような素振りで霞の後ろへ立つ。形のよく抜けた襟足がすぐ目の前にある。
・「いまだ・・・」小さな声が伊織のなかで囁く。愛は深さもさることながら、タイミン
 グもまた、重要である。「あのとき、こういってくれたら」「こうしてくれたら」とい
 う悔いは、男と女のあいだには無数にある。そのときなら受け入れられたものが、いま
 は受け入れならない。逆に、いまなら受け入れられるものが、そのときは受け入れられ
 ない。タイミングが悪くて、消えていった愛はかぎりなくある。それは、一生を左右す
 るほど大きなものではなく、現実に二人が結びつく場合でも同じかもしれない。
・女は逢うだけで楽しいかもしれないが、男は逢った以上は肌を触れたくなる。少なくと
 も、一度深い関係になってしまうと、それより淡い逢瀬はみな無意味に思えてくる。
・数秒のあいだだが、うしろに立っている伊織を、霞は不審に思ったらしい。どうしたの
 か、と振り向こうとした瞬間、伊織の手が霞の肩をとらえた。振り向きざまの上体をと
 らえられて、霞は小さく首を振った。
 「いけません・・・」といいかけるのに、伊織はかまわず、顔をうしろにひき寄せた。
 「そんな・・・」と、つぶやき、霞はもう一度いやいやをした。
・いったん逆らった躰は、じきに優しくなり、やがて唇が開き、舌を受け入れる。
 奇妙な、と気がついたのは、長い接吻のあと、伊織がそっと目を開いたときだった。
 痛みに耐えるように眉根を寄せた目の端が、小刻みに震えている。
・一つのきっかけさえできれば、あとは迷うことはない。そこから先は、以前きた道をた
 どるだけである。実際、接吻まですすんであきらめては、かえっておかしいかもしれな
 い。伊織はもはやとどまる気はない。引きずるように寝室まで誘ってくると、霞は哀願
 するようにいった。   
 「本当に、6時までに行かなければいけないのです」
 「わかっています。必ずそれまでに帰してあげますから」
・「入って、よろしいですか」
 伊織は答えず、毛布の端を開けた。それを見ながら、霞が小さくつぶやいた。
 「いやだわ・・・・」
 前と同じでも、今度の言葉には、白昼、着物を脱いで男に抱かれようとする自分への、
 困惑の気持がこめられているような気がする。
・今度は三度目という親しさから、伊織は前より大胆に求め、霞もそれにこたえてさらに奔
 放であった。
・霞は軽くうつ伏せに、伊織の胸元に、顔をおしつけるようにして横たわっている。ベッ
 ドに入るときは、しっかりとつけていた襦袢も裾除けも失せ、全裸の躰が、小さな呼吸
 だけをくり返している。しばらく、そのぬくもりを楽しんでから、伊織は改めて霞を抱
 き寄せると、軽く開いた股間に、自分の肢をおし込む。そのまま、軽く肢を遊ばせると、
 秘所を圧迫される刺戟を感じてか、霞の半身がゆっくりとうねる。
・やがて霞が、「あっ・・・」と、小さくつぶやく。再び感じはじめようとする自分の躰
 に狼狽したのか。伊織はその反応を楽しみながら、さらに揺らす。
 
・やはりいまと同じことを、霞は辻堂の家でもしているのであろうか。あの高村章太郎と
 いう男の前で、いま自分にみせたと同じ乱れ方をし、同じような従順さで胸元に突っ伏
 しているのであろうか。
・霞に愛着を覚えれば覚えるほど、霞が他男性と馴染み、睦み合う姿が気がかりになる。
 一体、このやわらかな女体は、自分ともう一人の男のあいだをどのようにさまよい、漂
 っているのであろうか。 
・「帰したくない」
 伊織がもう一度いったとき、霞が腕のなかでつぶやいた。
 「じゃあ、このままここにおいて下さいますか」
 「本当は、お困りになるでしょう」
 霞の声は意外なほど醒めていた。
・恋に関しては、男より女のほうが現実的かもしれない。表面だけみると、女のほうがロ
 マンチストにみえるが、それは愛し合うまでの過程で、そこから一歩すすむと、女はむ
 しろ現実的になる。
   
・「いいかげんな女だと、お思いになっているでしょう」
 「本当に、もうお逢いしないでおこうと思ったのです。今日も、お顔だけ見て、すぐに
 帰ろうと思ったのです」
 「わかっています。でも僕は欲しかったのです」
 「わたし、家にいるときだって、あなたのことしか考えていません」
 瞬間、霞の脚がぴくりと動いた。そのまま向きを変えると、霞は顔を伊織の胸に寄せて
 きた。
「もう、ヤクザにしないでください」

余花
・一体、自分はどちらを愛しているのか。改めて考えると、伊織自身もわからなくなる。
 いま、霞に焦がれ、霞との愛を大切にしたいと思っていることは、まぎれもない事実で
 ある。
・それに比べると、笙子のほうはそれほどの切実感はない。仕事を怠けてまで逢おうとは
 思わないし、無理に時間をやりくりすることもない。それどころか、ときには二人で逢
 うことさえ億劫になることがある。笙子のことを思い出すといっても、暇で余裕のある
 ときで、その度に息詰まるような気持ちにとらわれることもない。
・だが、それでは笙子を愛していないかというと、そうともいいきれない。笙子が少し不
 機嫌になったり、沈んだ様子をしているとやはり気になる。原因は何かと思い、すぐ手
 を差し伸べてやりたくなる。いま、泣きだした祥子を優しく抱いているのも、その一つ
 である。厄介で、面倒なことだと思いながら、帰るという笙子をそのまま突き放せない。
・たしかに、笙子に対しては、霞に対するときのようなときめきはないが、それは、結ば
 れてから4年という歳月と、毎日事務所で逢えるという確かさが、伊織を少し怠け者に
 させているだけである。どうやら、笙子との出逢いは、すべて日常の平凡さのなかにと
 りこめられているようである。それは、一見、愛の緊張感を薄めているが、その分だけ
 深く、二人のあいだに忍び込んでいるともいえる。
・それにしても、これほど霞に燃え、霞もこたえてくれているのに、なお笙子を捨てきれ
 ないのはなぜなのか・・・。
・見方によっては、伊織は二人の女性を天秤にかけているともいえる。笙子というものが
 いて、なお霞を追うとは調子がよすぎる。霞と逢った翌日、事務所で笙子に逢ったとき
 など、伊織はいまさらのように、自分の身勝手さに呆れた。
・いいわけじみるが、伊織は霞と笙子、二人のなかに、それぞれのいいところを見出して
 いるともいえる。霞は人妻の抑制と豊饒さを、笙子は若い女の一途さと厳しさを持って
 いる。その各々は一人一人に備わったものであり、一方から他方へは移せない。結局、
 伊織は霞と笙子と、二人の女性のなかに、一つの理想像を見ているのかもしれない。
  
若竹
・学生時代、二、三度会っただけだが、霞の母親は、古風で律義な人であった。もののい
 い方など少し丁寧しすぎて、応答するのが億劫な気さえしたが、そういう穏やかさのな
 かに厳しさも秘めていた。おそらく霞のたしなみのよさは、そうして家庭の躾と本人の
 感性の豊かさから、自然に身についたものに違いない。
・それにしても、その霞が、いま人妻の身で他の男性と一緒に旅に出ている。もしこのこ
 とを、すでに亡き霞の母が知ったらなんというか。改めて伊織は霞の顔を盗み見る。
・ベッドはダブルで、思いきり手足を伸ばしても、充分に余裕がある。その端から、いつ
 ものように霞がそろそろ入ってくる。
 一つの床に身を寄せ合って愛を重ねる。同じことの繰り返しだが、旅に出て、帰る必要
 がないという安心感が、霞の気持をかきためたのかもしれない。珍しく床に入ると霞は、
 自分のほうからしがみついてきた。
・全裸にしたところで、唇を吸い、さらに耳を探ると、解き放たれた霞の髪が二、三本、
 口元にからんでくる。それを指で除けながら、耳朶のうしろに唇を寄せる。
 「あっ・・・」と、霞は首をすくめ、上体を震わせる。
・首から耳の愛撫を受け、いままた、赤い実のように突き出た乳首を責められて、霞の躰
 は走りはじめたようである。下半身にそえられた伊織の手に、燃えている証しがしっと
 りと触れる。
・だが伊織は、そのゆるやかな動きをくり返しながら、最後の行為はなお控えている。耐
 え難い思いのままじらせて、むしろ霞のほうから哀願してくるのを待つ。
 やがて、霞の顔は歪んで泣き顔になり、小刻みに震える唇の端から、「ねえ・・・」と、
 せがむ声を発する。それを聞き届けて、伊織ははじめて躰を重ねる。
 瞬間、悲鳴に似た声が洩れ、その声の激しさを恥じ入るように、霞は慌てて自分の口に
 手を当てた。

・「さあ、お起きになって下さい」
 霞がシーツに手をかけようとする。その手を、伊織はいきなりとらえると手許へ引き寄
 せた。
 「なにをなさるのですか」
 「もう、朝ですよ」
 霞がいうのをかまわず抱き寄せると、ベッドの中へ引きずり込む。すでに髪を整え、着
 物を着ている躰がはずみを受けて、脚が宙に舞い、裾が乱れる。
・「いけません」
 いいかけた唇に、上から閉じるように重ねてから、伊織はつぶやいた。
 「夜中に、逃げていった罰です」
 身をすくめようとする霞の胸元を、伊織はかまわずおしあけ、やわらかい温もりを掌の
 中にとらえる。
・「待って、待って下さい」
 「じゃあ、すぐ脱ぎますからね」
 初めは逆らっていた霞は、すぐあきらめたらしい。自分から着物を脱ぎ、髪を解いてベ
 ッドの前にうずくまる。
・ホテルの朝は、まわりの客が起きているし、そのうちメイドが掃除をはじめる。そんな
 中で情事をおこなうのは落ち着かないが、それがまだ緊張を高めるともいえる。
 それに一泊旅行では、いまを逃しては、もう二人だけで肌を触れ合う機会はない。伊織
 は虜囚の女を相手に再び燃えた。
 だがその激しさも静まり、朝の情事を終えて二人はまた軽く仮眠したようである。
  
・奈良の秋篠寺には、本尊である薬師如来を中心に、愛染明王、帝釈天、日光菩薩、月光
 菩薩など、十体以上の仏像が保存されている。なかでも最も有名なのは、吉祥と芸能を
 主宰し、諸技諸芸の祈願を受けられるという伎芸天である。
・「素敵な仏様を見せていただいて、ありがとうございました。あんなに美しいとも思い
 ませんでした」 
 「僕は、あなたと伎芸天と、一緒に見ていました」
 「昨夜、あんなに乱れた人が、今日は仏様のように見えた」
 霞は目を伏せたが、それがまた伊織に伎芸天の伏目を思い出させた。
 「もう、そのことは仰言らないでください」
 「いや、実は喜んでいるんです。ただ一瞬、女というのが不思議に思っただけです」
 「わたくしも不思議なのです」
 「わたくし、いままで、あんなふうになったことはないのです」
 「恥ずかしいことですけど・・・わたくし、家ではああいうこと、していません」
 「あなたしか、受け入れられなくなったのです」
・夫にも躰を許していないという霞の告白に、伊織はなにも答えなかった。もっともそれ
 は、答えを求めて言ったのではないかもしれない。霞はただそのことを言っておきたか
 っただけかもしれない。しかしいずれにせよ、伊織は答える言葉がわからなかった。
・「男のかたには、女のこういう気持は、おわかりにならないでしょうね」
 玉砂利を踏みしめながら、霞がつぶやいた。
  
・「世の中には、うまくいっている結婚も、失敗だった結婚もあるでしょう。僕の場合は
 ただ、その失敗のほうだった、というだけのことです」
・「世の中には、愛し合っている夫婦は意外に少ない。大半の人は、本当に愛し合ってい
 ないかもしれませんね」 
・「結婚というのは、かえって、いけないのかもしれませんね」
 「いつも一緒にいて、緊張がなくなるんじゃありませんか。わたくし、好きな人とは一
 緒にならないほうがいいと思うのです」
・伊織はようやく、霞の言おうとしていることがわかってきた。結婚し、一つの家に棲ん
 でしまうと、男も女も互いに地を見せ合うことになる。女は美しく装っているだけでな
 く、素顔から、普段の姿を見せることになる。そういう日常性の中で、二人のあいだの
 緊張感が薄れていくことを、霞は恐れているようである。
・「男も女も、装う心を忘れては、終わってしまう」
 「何ごとも、近づき過ぎてはいけないのですね」
 「しかし、好きになってしまったらそんなことを言っているわけにはいかない。どうし
 ても、好きな人に自分の側にいてもらいたくなるのが、人情というものでしょう」
 「でも、そんなことをしたら、とめどがなくなります」
 「なくなったって、いいじゃありませんか」
 「そんなことを仰言って、よろしいのですか」
 「わたくし、走り出したら止まらなくなるといったはずです

・「あなたはいままで好きな人のことを思って、狂おしくなったことなどあるのですか」
 「狂おしいかどうかはわかりませんが、好きになったことはあります。若いときに、憧
 れた人もいました。伊織さんもその一人でした」
 「兄にこっそり伊織さんてどんな方かと、聞いたこともあるのです」
 「で、お兄さんは、なんといったのですか」
 「なかなか女性にももてる男だって、それで、なあんだ、と思ったのです」 
 「女にもてる人など、いやだから」
 
・「好きな人の子供なら、生むかもしれません」と言われて、伊織はたじろいだ。むろん、
 それは冗談半分で、霞の顔にはかすかな笑いさえ浮かんでいる。だが逆に、余裕ある落
 着いた言い方だから、もしかして、と思わせる確かさもある。
・そう言えば、これまで霞は、自分から生理のことについて、なにも言ったことはなかっ
 た。伊織の求めるままに許し、受け入れる。肌を触れ合うたびに、伊織は聞こうと思い
 ながら、聞きそびれていた。霞が何も言わぬことを、伊織は自分を信用してくれている
 からだと解釈していた。 
・「今日は危ない」とか「今日は大丈夫です」ということは、女性からはいいにくい。だ
 から、いわずともそのあたりは察して欲しい、ということなのだと思っていた。実際、
 伊織はそう考えて、ある程度、自分でコントロールをしてもいた。
 
青芒
・「無理を言ったので、駄目かと思ったんですが、逢えてよかった」
 「急いだので、こんな恰好で来てしまいました」
 珍しく、霞は洋服を着ている。水色に小花模様のローズのワンピースを着て、ゆっくり
 開いた胸元に細いプラチナのネックレスが見える。和服のときより4,5歳は若く見え
 る。
・いままで着物ばかりであったので、よく見る機会はなかったが、霞のプロポーションは
 なかなかいい。すらりとして足は細く、胸とお臀は小気味よくふくらんでいる。
「ちょっと、このホテルに部屋をとってあるのです」
・実をいうと、伊織は今日、霞と一緒にラブホテルに行くことを考えていた。その種のホ
 テルなら、時間が短いとき、二人だけで逢うには最適である。だが、陽の明るいうちか
 ら入るには相当な勇気がいるし、霞も尻込みするに違いない。これに伊織自身、最近は
 行ったことがないので、よくわからない。
・以・前、笙子と知り合ったことは、何度かいったことがあるが、この種のホテルは、い
 かにも情事のためといった感じが強くて、いささか抵抗がある。それに外見は瀟洒に見
 えても、なかに入ると意外に薄汚く、布団など前の客に使ったのと同じような気がして
 落ち着かない。

・「逢いたかった・・・」
 いままで着物の霞にばかり見馴れてきたせいか、洋服の霞は新鮮である。和服では襟元
 を開いても、軽く指先を差し込めるくらいで崩れにくいし、抱き締めても帯が邪魔して
 密着感は薄い。
 だが洋服なら、着たままでも胸元は開くし、抱くとウエストからお臀のふくらみまで、
 手に直接感じることができる。そのまま唇を吸っていると、霞は耐えきれぬようにずる
 ずるとしゃがみ込み、ベッドへ倒れた。
 カーテンから洩れる淡い午後の明りの中で、伊織は舌で霞の乳首をなぶりながら、空い
 た右手をスカートの下から忍びこませる。
 瞬間、霞は「あっ・・・」つぶやき、「そんな・・・」と首を振る。
 だが伊織はかまわず手を進め、霞の秘所の上にそっと指をおく。なわあたたかいやわら
 かさの中に、少し汗ばんだ感触がある。
 そのままの姿勢でゆっくりと舌を遊ばせるうちに、乳首は堅くなり、下のほうの濡れた
 感触がじかに指先に伝わってくる。
・「やめて・・・」
 その声が愛しくて、伊織がさらに指先を左右へ震わせると、霞はいきなりとびはねるよ
 うに躰をひいた。
 「駄目です。やけて下さい」
 襟元を合わせると、霞は慌ててまくれたスカートの裾を寄せた。
・もともと、男と女の逢う目的の大半は情事そのものである。途中、食事をしたり会話を
 交わしたり、映画や芝居を見ても、それらはすべて情事へ至る一つの過程に過ぎない。
 女性をいたわり優しくするのも、究極のところ、その女性と関係したいという願望を抱
 いているからである。  
・伊織には、今日は逢えないという霞を、無理に呼び出したというひけ目がある。悪いと
 思う気持が、さらに欲求をかりたてる。一方の霞には、無理をして東京まで出て来たと
 いう気恥ずかしさがあるに違いない。日中、人妻が男と逢うために、一時間以上も電車
 に乗って出てくるのは余ほどのことである。しかも逢ってすることといえば、ホテルで
 の情事だけである。それではいかにも躰だけを求めているようで、動物的である。
・しかし、愛が昂まれば、男も女も最後は動物と変らない。動物的というからきこえは悪
 いが、それこそ生きているものの自然の姿、と思えば抵抗感は薄れる。
  
・部屋に入るとすぐ、伊織は笙子を抱きしめた。不意を受けて、笙子はたじろいだが、す
 ぐに静かに唇を合わせてきた。
 笙子と接吻をするのは何日ぶりなのか。この前逢ったときは一緒に寝ても接吻はしなか
 ったような気がする。男と女は慣れ親しむと次第に接吻をしなくなるものなのか。ある
 いはそれだけ男が怠慢になるのか。笙子との久しぶりの接吻を、伊織は新鮮な気持ちで
 たしかめると、そのまま寝室へ誘った。
 だがベッドに向かう祥子には、いまだにある堅さがある。
・ブラウスのボタンが三つ開いたところで、伊織は手を止めてから胸の中に手を差し込み、
 ブラジャーの留め金をはずす。笙子の乳房はあまり大きくない。
 ブラジャーをはずし、ボタンもすべてはずしたところで、今度はスカートのベルトに手
 をかける。笙子はタイトスカートをはいていることが多く、いろいろなベルトを締めて
 いるが、金具の様子は大体見当がついている。指先でまさぐるうちに自然にはずれ、横
 のジッパーを開くと、少しとびでた腰の骨に触れる。そのとき、笙子はかすかに躰をよ
 じったが、伊織はかまわず、スカートとパンティストッキングを一緒に下げていった。
・伊織は笙子のスリップ姿が好きだった。28歳になっているが、まだどこかに少女の名
 残りをとどめている。すでに何度も、男の愛撫を受けていながら、笙子の躰には成熟し
 きっていない稚さが潜んでいる。
・どう淫らなことを強制しても、その清楚な爽やかさは揺るがない。白いスリップの一枚
 が、すべての卑猥をおおって立っている。伊織は再び唇を重ね、右手をそっと股間へと
 近づけた。  
・先ほど、スカートを脱がされたとき、パンティも一緒に下ろされて、スリップの下につ
 けているものはなにもない。手を上に動かすにつれて、スリップの裾がまくれていく。
・伊織の手が内股に近づいたとき、笙子ははじめてぴくりと腿をよじった。その抵抗に慌
 てたように伊織は手を止め、やがてころ合いを見て、またそろそろと手を這わす。それ
 を数回繰り返すうちに、笙子の躰はその淫らさに慣れ、自然に受け入れる気持になった
 らしい。  
・やがてあきらめたように、かすかに股が開き、そのわずかな隙を逃さず伊織の指先がつ
 いと忍び込む。瞬間、笙子の下半身がぴくりと後ろに退ったが、一度とらえた指は離れ
 ない。やわらかくあたたかい、その一点に、息を潜めるように指はしばらくとどまり、
 それからまた思い出したようにゆっくりと上下運動をくり返す。スリップの下の下半身
 は、いつのまにか指の動きに合わせてゆっくりと揺れる。
・これまでも伊織は笙子にあまり変わったことを求めたことはなかった。ごく自然の、あ
 りきたりといっていい態位を続けてきた。関係ができて4年にもなれば、それなりに奔
 放な遊びもくわわりそうなものだが、笙子にそれを試みたことはほとんどない。なぜと
 もなく、笙子には、その種のものは似つかわしくないといった感じがある。といって、
 笙子の躰が稚く、もの足りないというわけではない。伊織が積極的に動けば、笙子はそ
 れなりに応え、最後には小さく震えながら悦びを訴える。
・だが、今日の笙子の反応は少し違うようである。燃えていることはたしかだが、今夜は
 いつものペースではない。これまでは常に伊織がかきたて、笙子が不承不承従いてくる
 のが、いまは笙子のほうが先に走っている。早く燃えあがろうと、自分から焦っている
 ようでもある。 
・いつにない笙子の積極さに伊織はいささか戸惑った。何故こんな動き方をするのか、今
 日はいつもと違うと思いながら、伊織はむしろ醒めていた。
・さらに不思議な思いにとらわれたのは、ともに満ち足り、静かな時間が訪れてからだっ
 た。笙子はしっかりと伊織に抱きつき、自分からぐいぐい躰を押しつけてきた。小さい
 胸から平たい腰まで、一分の隙もないほど寄ってきて身動きしない。行為のあと、笙子
 がこんなに近寄ってくることは珍しい。
・「どうしたの・・・」
 伊織がきいたが、笙子は答えず、やがて小刻みに片が震え嗚咽が洩れてきた。伊織には
 まったく見当がつかぬ涙である。
・「わたし、正直にいいます。わたし、一度だけ、宮津さんと・・・」
 「宮津さんに、抱かれました」
 「ごめんなさい」
 「わたし・・・そんな気じゃなかったんです。ただ、宮津さんが強引にホテルまで送っ
 てくれて・・・」  
 「お願いです、わかってください」
・伊織の胸の中に、笙子の躰がすっぽりと抱きかかえられている。だが伊織には、それ自
 分とは無縁の一つの物体のように思えた。ひたりと胸から肢まで触れ合っていながら、
 血の通っていない人形を抱いているようである。
  
秋思
・「宮津さんのこと、まだ起こっているんでしょう、まだ、まだ・・・・」
 いいながら思いきり首に巻きつけてきた腕を振る。されるままに伊織はじっとしていた
 が、やがてころ合いを見て顔を抜くと笙子を抱きあげた。
 伊織は寝室まで運び、ベッドに横たえると、笙子は軽く背を向けた。
 横になるときにまくれたスカートの裾から、形のいい脚がベッドカバーの上に投げ出さ
 れている。 
・いま、笙子はすべての防衛本能を失って、ベッドに仰向けに倒れている。伊織がどのよ
 うな方法で笙子に挑み、犯したところでなんの抵抗もしない。目の前にあるのは、酔っ
 て抑制を失った一個の女体にすぎない。その女体を、伊織はある残忍な思いと軽い義務
 感で脱がせていく。
・笙子は最後のスキャンティを脱がせられたとき、脚を縮め、無意識のように残っていた
 ブラウスで下をおおった。おかげで秘所は隠されているが、その端からかすかに茂みが
 見える。笙子のそこはさほど濃くない。
・伊織は茂みの深いのをあまり好まない。幸い、笙子も霞もそこは淡い。だがどちらかと
 いうと、若い笙子のほうが濃く、霞のほうがいくらか薄いかもしれない。
・どういうわけか、伊織は薄いほうに淫らさを覚えるが、たしかに薄い分だけ、霞は淫ら
 かもしれない。 
・もう4年以上、伊織はそこを愛し、馴染んできた。その茂みの誠実さに安堵し、信じて
 もきた。だが、いま伊織はそこに別のものを見ている。同じ茂みでありながら、その印
 象はむしろ濃密である。いままで誠実を思わせた茂みが、今日は淫らさだけが顔を出し
 ている。まさか笙子の躰が変わったわけではないのに、この違和感はなになのか。違う
 と思うのは、伊織の一方的な思い込みなのか。
・だがその濃密さを感じたときから、伊織の気持は萎えていく。突然、目の前の祥子の躰
 が、不潔で薄汚れたように見え、その心の乱れを振り切るように、伊織はいつもより荒
 く笙子のなかに入っていく。それからの先の伊織は、ひたすら動いたという記憶しかな
 い。なにもそんなに、一途になる必要もなさそうなのに、一瞬も休まず動いて終える。
  
花野
・今夜はこれから霞と国立劇場に踊りを見に行く約束になっている。
・踊りを見る度に伊織は日本の踊りほど艶めかしいものはないと思う。もともと踊りは三
 味線の発達とともに、室町から江戸時代に至って、いまの型に完成されたのであろうが、
 伊織にはその所作のすべてが、性の姿態と関連しているように思われる。さまざまな所
 作の原型には、男女のいとなみの姿が潜んでいるようである。

・どこのホテルという目途がはっきりあるわけではない。ただ代々木あたりにそれらしい
 ホテルがあることだけは、前を通るたびに見て知っていた。きちんとしたホテルのほう
 が清潔で心地よい。だが、ときに、ラブホテルの猥雑さを求めたくなるときもある。
・小路に入り五十メートルも行くと、「ホテル入口」と書いた蛍光灯が浮き出ている。
・「おいおい、どうしてそんな隅にいるんだ」
 二人だけになったというのに、霞はまだ座敷の片隅で、両手をきちんと膝にのせたまま
 うつむいている。これではまるで客を出迎える女中のようである。
・「わたし、こういうところ初めてです」
 「ホテルって、こういうふうになっているんですね」
・「いい湯だ、早く入ってきたらいい」
 一人になって伊織はビールを一口飲み、それから思い出して振り向くと、思った通り、
 うしろの壁に穴のような小窓があり、グレイのカーテンがかかっている。伊織がこっそ
 り開くと、目の前に浴槽を見下ろす形で視界が開ける。そのまま息をひそめて見ている
 と、霞がタオルを胸に当てて入ってくる。
・鏡は最近ときどき見かけるマジックミラーらしく、こちらからは見通せるが、向こうか
 らは見えぬ仕掛けになっているらしい。その正面で霞が軽く前屈みで浴槽の縁をまたぎ、
 ゆっくりと躰を沈めていく。それにつれて、初め秘所に当てていたタオルは胸に移行し、
 小さく飛び出た乳首が垣間見える。
・ふと、伊織は額をつけるばかりに覗き込んでいる自分に気がついて愕然とする。こんな
 ことは紳士のやることではない。
・「さあ、早く・・・」
 伊織はいきなり霞を抱き寄せた。そのままベッドの中に引きずりこむと、足までからめ
 て抱きしめる。  
・「風呂に入れてくれなかった罰だ・・・」
 愛する女への罰はどうしたらいいものなのか・・・
 たとえば、いったんは結ばれながら、その状態のまま、ときに強くすすみ、ときに離れ
 る寸前まで引き、素知らぬふりを装う。それを繰り返せば、女は夢と現実を行ききし、
 走りかけては止まり、止まりかけては走り、やがてそのもどかしさに耐えがたく、最後
 には哀願するに至る。 
・もっともこの罰は、すべての女性に通用できるというわけではない。いまだ性に開眼し
 ていない女性には、単に冗長なだけの行為になり、男はただのくたびれもうけに終わっ
 てしまう。
・だがいまの霞なら、この方法は十分の刑罰になりうるはずである。華奢と見えて豊かな
 霞の肢体は、その罰に喘ぎ、悶え、やがて最後の哀願を口走るに至る。
 いま伊織が霞に加えているのは、まさしくこの罰である。愛おしいというより憎々しい
 奴と、自分にいいきかせ、憎悪をかりたてて責めたてる。一瞬でも可愛いなどと思って
 は、その瞬間、男は暴発し、女を愉悦の花園に導き、安堵させることになる。
・伊藤はそれを自分にいいきかせ、極力己をおさえて罰を長引かす、だが、ここらあたり
 が、限界のようである。霞が小刻みに首を振り、泣くとも甘えるとも知れぬ声をささや
 く度に、伊織は目が眩みそうになる。いつからか、拷問を加えているのは、男か女かわ
 からなくなり、もはや耐えがたく、これまでと思ったところで、霞が最後の哀願をする。
 「お願い・・・・許して」
・瞼の端が小刻みに痙攣している。それを見て、伊織はこれでよりとばかりに、いままで
 おさえてきた緊張を一気に解き放つ。
 はっきりと言葉にはならぬ言葉の渦から、突然、雲を突き抜けたような空白が訪れ、一
 対の男と女が、一つのベッドに寄り添っている。
・「よかった?」
 「あなたは麻薬よ」
 「僕が麻薬なのか」
 「そう、すごうく悪い薬。断ち切らなければ駄目だわ」
・どうやら、霞のいう麻薬とはセックスのことらしい。その意味はわからぬでもないが、
 正直にいって男にはそういう実感はあまりない。男の性は一瞬で燃え尽き、回を重ねる
 ごとに深まるということもない。快感は童貞のときに得たときとあまり変わず、初めに
 得た快感のまま横這いで、強まるより、むしろ弱まることのほうが多い。   
・「もっともっと、いい麻薬の注射をしてやろう」
 「そんなにして、中毒になってもいいですか」
 下から見上げるように霞がたずねる。
・伊織・は肩に当てていた手を、背にそってゆっくりと下へ移動させる。瞬間、霞の上体
 がぴくりと動く。
 「悪戯はやめて・・・」
 「そんなことをして、またおかしくなったらどうするのですか」
 伊織はかまわず指を這わせ、それに応じて霞の上体がまたぴくりと動く。
・「わたし、このごろ、自分の躰が、ひどくいやらしくなったような気がするのです」
 「いやらしくなったのではなく、素晴らしくなったのだ」
 鋭く反応する女体を愛撫しながら、伊織はそのなかに、自分の影がしっかりと座を占め
 ていることを実感する。  

良夜
・出国手続きを終えてなかへ入ると、伊藤は免税品売場の方に行った。一昨日の約束では、
 その売場の前あたりで待ち合わせることになっていたが、霞の姿はない。どこへ行った
 のか、不安になってあたりを見廻していると、うしろからぽんと肩をたたかれた。
・「いま、見えたのでしょう」
 「女の方が、見えていたでしょう」
 霞が悪戯っぽく笑う。
 「あれは事務所の女性だ。もう一人の所員と一緒に送りに来てくれたのだ」
 「まあいいわ、うまく逢えたのだから」
・成田から6時間後に着いたアンカレッジはすでに冬であった。1時間の給油時間ののち、
 再び飛行機に乗り、食事が出てきて映画がはじまり、それが終わるとまた眠った。
・機が高度を下げ雲を抜けると、突然、無数の明かりの粒が近づいてきた。アムステルダ
 ムの街は、まだ夜のままの明りが残っている。
・まず事務所へ、無事に着いたことだけでも知らせようかと傍らにあった鞄を開くと、わ
 きのほうに小さな包みがあった。出発間際に、笙子がくれたのだが、なかはおかきとお
 茶のセットだといっていた。お茶でも飲みながら食べてみようかと、包みを開くと、上
 に花柄模様の封筒がおかれている。一瞬、伊織は霞のほうをうかがい、それからそろそ
 ろとなかを開いた。 
 <お気をつけて行ってらっしゃませ。お二人の楽しい旅でありますように、笙子>
 もしやと思っていたが、笙子はやはり、霞と二人で行くことを知っていたらしい。
 改めて、伊織はマンションを出るとき、「わたしも、お見送りにいっていいですか」と
 いったときの表情を思い出した。
 あのとき、笙子はすべてを知って、そういったのか。  

・「まっすぐホテルに戻られますか、それとも飾り窓でも見てみましょうか」
 「なんですか、それ」
 霞がきき返すのに、東野が説明する。
 「男が女を買うところですけど、日本のようにじめじめした感じはありません。僕もワ
 イフと一緒に行ったことがあります。こちらの女性はさばけていて、よく恋人と散歩が
 てら歩きます。赤や青の明りのついた窓に、スタイルのいい女性が脚を出して、なかな
 かきれいです」
・「そんなところに行くのですか」
 困った顔をしながら、霞も好奇心がわいてきたようである。
・アムステルダムの飾り窓は、ダム広場から、五、六百メートル東へ入った運河沿いの一
 角にある。がっしりとした石造りの家の一、二階の窓際に、女達が椅子に坐ったり、立
 って髪をかきあげたり、すらりとした肢をこれ見よがしになげだしたり、思い思いのポ
 ーズで客の目を引いている。いずれも薄いドレスかランジェリーをつけただけで、なか
 にはブラジャーとパンティだけの女性もいる。売春という暗いイメージにはほど遠く、
 それぞれ自分の肉体を誇示し、男たちに挑戦しているといった感じである。群がる男達
 も悪事をしているといった感じではなく、それぞれ楽しげに眺めたり、冗談をいい合っ
 たり、戸口で値段の交渉をしている者もいる。女たちの坐っている奥にはベッドがあり、
 鏡や小さな洋箪笥まで窓から覗き見える。ところどころカーテンの閉まっている窓は、
 客と交渉が成立して、ただいま仕事中ということになる。
・はじめは尻込みして、うつ向き加減に歩いていた霞も、慣れるに従って顔をあげ、やが
 て感心したようにつぶやく。
 「きれいね、素晴らしい躰だわ」
    
・男と女のあいだは、新しい発見があるかぎり、愛は深まるものらしい。
 いま、霞が初めて伊織と一緒に風呂に入っている。一緒に風呂に入ることなぞ、他人か
 らみるとつまらない、他愛ないこととしか思えないかもしれない。だが伊織にとっては
 重大な、少し大袈裟に言えば、記念すべき日、と言えなくもない。考えようによっては、
 今日は初めて霞が体を許したときと、初めて一緒に奈良に旅行したとき、そして今度の
 ヨーロッパ旅行を決意したときに匹敵する、二人にとって重大な日と言えるかもしれな
 い。
・ヨーロッパで初めての夜のせいか、あるいは湯のなかで戯れた余韻のせいか、その夜の
 霞はいつになく乱れた。
 伊織が求める態位に素直に従い、その都度、確実にのぼりつめる。相変らず声は忍びや
 かで、動きも控え目だが、小刻みに震える躰の反応は、たしかに愉悦に浸っていること
 を伝えている。それをくり返すうちに霞の躰は一つの火柱になったようである。何度か、
 伊織のほうが耐え難くなり、少し休もうとすると、もう話さじとばかり、霞のほうから
 しがみついてくる。
・その燃えさかる女体を抱きながら、伊織は一瞬、不思議な思いにかられる。
 一体、この激しさは、霞の躰のどこに秘められていたのか。この愉悦を追い求め、むさ
 ぼりつくそうとする貪欲さは、どこから出てくるのか。いつもはもの静かで控え目な霞
 が、別人と思うほど乱れる。
・一体、二人で肌を合わせ、喜びに浸っていながら、その実、本当に快楽を味わっている
 のは女だけで、男はただむさぼられ、奉仕しているだけではないのか。女が絶えず悦び、
 満ち足りていくのに、男が得るものは、その先の疲労と倦怠だけではないのか。
・しかしそう思うのも一瞬で、すでに現実の愉悦に呼び戻され、やがて我慢の限界に達し、
 ついにすべての精力を吐き出すように果てていく。
 だが終えてからも、男はひたすら小さく、ひっそりと萎えていくのに、女はさらに大き
 な波がおしよせ、末広がりに豊かに、満ちていくものらしい。伊織が離れようとしても、
 霞は「いや」というようにさらにしがみつく。
   
・霞は軽く横向きに眠っていたが、伊織が入っていくと、そっと抱きついてきた。初めの
 ころ霞はぎこちなく、伊織が手足を動かしただけでぴくりと反応し、一緒にいても滅多
 に眠らなかった。むろん、伊織が起きているのに、眠るようなことはなかった。それか
 らみると、最近の霞はずいぶん自然になって、いまも伊織が起きたのも気づかず眠り続
 けている。それなのに自分から抱きついてきたのは無意識なのか、それとも慣れ親しん
 だ躰のほうが自然になついてきたのか。霞のあたたかい肌の触れるうちに、伊織は再び
 欲望を覚えた。
・肩に廻した片手はそのままに、もう一方の手を徐々に胸から下腹に近づける。瞬間、霞
 は腰をよじり、軽くいやいやをする。いまさら、いやだといっても駄目だよ。伊織はそ
 んな気持ちで、もう一度指を近づけるとまたよじる。バネ仕掛けの玩具のように、秘所
 に近づくとぴくりと動くのがおかしくて、くり返していると、たまりかねたように霞が
 すぶやく。
 「いけません・・・」
・すでに躰のほうは目覚めているのに、頭のほうはまだ怠けているらしい。それをこらし
 めるように今度は、胸元を開き乳首の先に唇を当てる。乳首の先に触れるか触れぬくら
 いの浅さで舌を遊ばせると、いままでひそんでいた乳首がゆっくりと頭を擡げる。
・「あっ・・・」
 自分で慌てたようにつぶやき、それとともにじれったさが増してきたらしい。触れる舌
 の動きに合わせて、下半身がゆっくりと揺れはじめ、やがて「ねえ・・・」とせがむよ
 うにささやく。  
 そのくせ、乳首や秘所はわたしの理性とは別です、といわんばかりに、目はなお頑固に
 閉じている。伊織はそれではそれで結構と、ときに熱い息をかけ、ときに休みながら、
 乳首をもてあそぶ。
 間合いをおく責めについて霞はたまりかねたのか、最後に「いやあ・・・」と、長く尾
 を引く声とともに一気に伊織の胸のなかに飛び込んでくる。
 
・伊織は霞と車でシェーンブルン宮殿は向かった。この宮殿はかつてはハプスブルク王家
 の夏の離宮として使われ、狩猟の館でもあった。五十年かかって完成しただけに、建築
 家とってはぜひ一度見ておきたい建物である。完成されたときはマリア・テレジアの時
 代だ。
 「贅沢もエネルギーがなければできないのね。それにしても、マリア・テレジアという
 人、普通じゃないわね」
 「子供を十六人も生んだけど、その末っ子が、かのマリー・アントワネットで、政略結
 婚でフランスに嫁がされて、フランス革命で殺された」
 「貧乏人がパンがないといったら、”どうしてお菓子を食べないの”といった人でしょう」
 「こんな華やかなものを見ると、かえって淋しさを感じてしまう」
 「幸せすぎると、怖くなるのと同じでしょうか・・・」
 
・最後の夜、二人は十時にベッドに入った。二人だけの最後のヨーロッパの夜という名残
 り惜しさもある。
 その気持ちは、霞も同じらしい。ワインの軽い酔いが残るまま、一緒に風呂に入ろう、
 と誘うと、霞は素直に従った。
 伊織は勢いにまかせ、途中で明りをつけると、「やめて・・・」と小さく叫んだが、や
 がてあきらめ、明るい湯のなかで接吻を交わした。それからさらに、恥ずかしいことを
 要求すると、霞はさすがに逆らったが、最後は後ろから抱く形で、しっかりと肌を触れ
 合った。
・「もう、許してください・・・」
 湯のあたたかさと恥ずかしさで、霞は途中でへなへなと坐り込み、伊織はそこで仕方な
 く手を離した。あの控え目であった霞が、明るい湯のなかで短い時間とはいえ、恥ずか
 しい行為を受け入れた。
・バスルームに続いて、ベッドに入ってからの情事は、さらに激しく執拗であった。煽ら
 れるうちに、霞はヨーロッパの最後の思い出を吸い込むように、伊織をしっかりととら
 え、満ちていく。
 
寒露
・「逢いたかったわ」
 霞はしっかりと伊織にしがみつき、胸元から足先までぐいぐいとおしつけてくる。
 「女から、逢いたいって言わせるなんて、悪い人だわ」
 「帰ってきたばかりで、忙しかったんだよ」
 「忙しくても、電話ぐらいはできたでしょう」
・「向こうへ行こう」
 「今日は、お顔を見にきただけよ」
 睨みながら、霞の腰はすでに浮いている。そのまま手を引いてベッドルームへ入ってし
 まえば、あとは二人とも躊躇するところはない。接吻をし、霞の弱い耳朶を舌の先でな
 ぞると、「助けて・・・」と身を縮める。
・「じゃあ、早く脱ぎなさい」
 伊織に命令に、霞は従順に横を向いてスカートのベルトに手をかけた。
 伊織は先に服を脱ぎ、ベッドに入っていると、例によって霞はしゃがみながら近づいて
 くる。  
 寝間着がなく、黒いマントを躰に巻いてくるが、その下は全裸である。近づいたところ
 でいきなりマントを剥ぎとると、霞は白い弾丸になって、伊織の胸に飛び込んでくる。
 しっかりとそれを抱きしめ、さらに耳元に唇を這わす。
 「あっ・・・」
 霞はくすぐったそうに悲鳴をあげながら、躰ごとぐいぐいおしつけてくる。
・「逢いたかったわ、あなたも会いたかった?」
 たずねるのに伊織は答えず、手を下半身に遊ばせる。
 ヨーロッパから帰ってから短い空白であったが、体は待っていたらしく、愛おしい秘所
 はすでにうるおっている。 
 いつもなら、伊織はしばらくじらすのに、その潤沢さに急かされるように、軽く触れた
 だけで、いきなり入っていく。
 瞬間、霞は小さな悲鳴をあげたが、首にまわされた腕にはさらに力がくわわる。そのま
 ま二人は、どちらが攻め、どちらが守るとも知れぬ、愉悦の渦の中に落ちていく。
・伊織が入口のチャイムが鳴っているのに気がついたのは、それから数分経ってからだっ
 た。 
 いまごろ誰なのか・・・。
 伊織は結ばれたまま動きをとめた。だが燃えている霞には、チャイムも聞こえないらし
 い。動きの止まった伊織をなじるように下半身をよじる。
・「ちょっと・・・人が来ているらしんだ」
 突然霞は、怯えた表情になったが、鍵を持っているのは家政婦の富子だけだし、彼女が
 いまごろ戻ってくるとも思えない。
・忍び足でまずドアの前に立ち、覗き穴から外をうかがうが人影はない。もうあきらめて
 帰ったのか、確かめてみようとそろそろとドアを開けると、老化の先に女性が去ってい
 く。  
・「あっ・・・」
 伊織がつぶやいたのと、女性が振り返ったのと、ほとんど同時であった。
 振り向いたのは笙子であった。夜のマンションの廊下は暗いが、トレンチコートにうず
 めたほっそりした顔がまっすぐこちらを見ている。
・「どうした・・・」
 「いらっしゃらないかと思って、帰ろうかと思ったのです・・・」
 「それで・・・」
 「多分、いらっしゃるだろうと思って、突然うかがってご免なさい。お休みちゅうでし
 たか?」  
 「お忙しようでしたら、またにします」
 「向かいに”ボン”という喫茶店があるから、そこで待っていてくれないか。すぐ行く
 から」
・笙子が背を見せ、去って行くのを見届けてから、伊織はもう一度「あっ・・・」と声を
 出す。
 入口の沓脱ぎに、霞のロングブーツが立てかけられたままになっている。慌ててドアを
 開けたので隠す暇もなかったが、反対側に立っていた笙子には、それがはっきり見えた
 に違いない。
・「参ったな・・・・」
 「服を着ます」
 「せっかく、いいところだったのに・・・」
 「お出かけになるんでしょう」
 「突然くるなんて、非常識ななつだ・・・」
・探し続けていた笙子に、久しぶりに逢ったという思いと、霞とベッドにいたといううし
 ろめたさが、戸口で会っただけで別れるのを戸惑わせた。おそらく、あのまま笙子を追
 い返したら、笙子は二度と現れないに違いない。是が非でも、いま二人だけで逢って、
 話さなければすべては終わる。
・「向うへ行っていてください」
 霞はそういうと、自分からベッドルームのドアを閉めた。
 情事の最中に、女が訪ねてくるような男には用事はない。行為を途中でやめて、別の女
 を追いかけていくような男は勝手にするがいい。「向うへ行け」といった霞の目には、
 そんな怒りがあふれていた。
・「まずかった・・・・」
 自棄気味に頭を叩いていると、霞が服を着て、ベッドルームから出てきた。
 「それじゃ、わたし、帰ります」
 「おいおい、ちょっと待ってくれよ」
 「女の方が、お待ちなんでしょう」
 「本当に、まったくの偶然でね。仕事のことで、急用ができて来ただけなんだ」
 「女性が夜、仕事のことで男性のマンションに来るのですか」
 「だって、彼女は秘書だから・・・」
 「「秘書で、彼女なんじゃありませんか」
 それだけいうと、霞はコートをわし掴みにして、さっさと戸口へ向かう。
 「悪かった」
 伊織は謝るが、霞むは何もいわずぴしゃりとドアを閉めていく。

・エレベーターでおり、正面玄関を通り抜けようとすると、右手のロビーに女性が一人坐
 っている。おやと思って見直すと、笙子だった。
 「どうしたんだ」
 驚いて、伊織は思わず大声をだした。
 「向かいの喫茶店と、言ったろう」
 「言ってみたんですけど、混んでいて坐らないのです」
  
・「しかし、どうして急に事務所を辞める気になったの?」
 「わたし、突然なんかじゃありません。前々から辞めようと思っていました」
・ただ辞める手続きをするだけなら、日中、事務所に現れて事務的に話せばすむことであ
 る。それを笙子は夜、一人でマンションまで訪ねてきた。
・もしかすると、辞めるといいながら、笙子の気持はまだ揺れていたのかもしれない。
 少なくとも、今夜マンションに来るまでは、はっきりと辞めると決心はついていなかっ
 たかもしれない。 
 もしそうだとすると、霞との一件はいかにもまずかった。せっかく逢って話し合おうと
 していた気持ちが、先ほどのことでたちまちすぼみ、冷えきったのかもしれない。
・「君はなにか誤解しているようだが、それは違うよ」
 「ただ、仕事の関係でつき合っているだけで、それだけのことだから・・・」
 話ながら、伊織はそれと同じことをつい少し前、霞にも言ったことを思い出した。
 一方に都合のいいことを言い、その舌の乾かぬうちに、他方に同じことを言っている。
 これではまったく二枚舌である。男の風上にもおけぬペテン師である。
・だが、霞に言ったときには、本心から霞を失いたくないと思い、いま笙子と対している
 ときは、また笙子を失いたくないと思っている。
   
冬野
・夕闇の底が白々と明るい。その淡い明りを残す机の上に、紙が一枚おかれている。二日
 前、義兄から送られてきた離婚届である。すでに妻は署名し、印鑑もおしてある。義兄
 には証人になってもらったので、証人蘭に同様に署名、捺印してある。いま一人、証人
 が必要だが、伊織は村岡に頼むことにしていた。彼が名前を書き、伊織が署名、捺印し
 て区役所に提出すれば、それで手続きはすべて終わる。
・伊織はその呆気なさに、いささか戸惑い、呆れていた。十七年間、続いてきた夫婦が別
 れる以上、もう少し煩瑣で面倒なことがあっていいのではないか。こんな紙一枚にサイ
 ンするだけでは簡単で殺風景すぎる。
 だが、離婚というのは、両者が納得してしまうと、それからあとは意外に簡単なものら
 しい。あとは区役所に届ければそれですむ。
・それより面倒なのは、ここに至るまでの過程で、この一ヵ月のあいだにも煩瑣なことが
 いくつもあった。子供の籍はどうするか、慰謝料はどうするか、子供の養育費は、など
 など。  
・離婚は自分から望み、家を出たのも自分からであった。あの当時と気持ちが変わったわ
 けでもないし、いまさら妻の許に戻っても、ここまで壊れた感情が元に戻るとは思えな
 い。離婚は既定の事実で、もはや変えようはない。そうとは知りながら、いま一つ気が
 のらない。
・「どうしたのか・・・・」
 伊織はつぶやきながら、笙子のことを考える。
 家を出たころは、はっきり笙子という存在が頭のなかにあった。妻と別れて、笙子と一
 緒になりたいという目標が見えていた。だが、いまはすでに笙子はいない。
・笙子さえいてくれたら、いまの気持は大分変っていたかもしれない。だがこの半年くら
 いは、その祥子への情熱が大分薄らいでいた。いまもし、笙子がいたからといって、彼
 女と結婚する気になったかどうか自信はない。この半年は、まさしく笙子から霞へ気持
 が動いていた。しかし、そのくせ、霞との結婚は、どういうわけか伊織の頭の中に具体
 的な形となって現れてこない。
  
・「この前のこと、まだ怒っているの?」
 「なんのことでしょう」
 当然わかっているのに、知らぬふりをするところに、まだ怒りが続いているのがわかっ
 た。それでも面と向かって顔を合わせていない気楽さから、伊織は必死に弁解した。
・霞がその説明をどの程度、納得したかはわからない。だが、大の男が一生懸命、弁解す
 るのをきいて、少し可哀想になったのかもしれない。それから一週間あとに、ようやく
 東京まで出てきてくれた。   

・澄ました霞の顔を見るうちに、伊織は次第に欲望を覚える。
 「おいで・・・」
 「どうなさるのですか」
 「寝よう」
 「おかしいわ、急に」
 伊織はかまわず、手を引いて寝室に連れていく。
・「脱ぎなさい」
 急に横暴になった男に戸惑ったようだが、すぐ素直に背を向けると帯を解き始めた。
・女が肌を許しながら、その相手と適当につき合う、などということができるものだろう
 か。いったん結ばれたら、女の躰はひたすら燃えあがるか、燃えないのかの、いずれか
 ではないのか。相手によって調整するなどという、器用なことができるとは思えない。
 少なくとも、そういうことができないのが、女体の素晴らしさであり、男の真似のでき
 ないところでもある。  
・伊織はベッドのなかで、手ぐすね引いて待っていた。ほどほどにと言った霞の思いあが
 りを打ちのめしてやりたい。その気持を知ってか知らずか、霞は長襦袢一枚になると、
 例によって端からそろそろと入ってくる。まず掛布の端を持ちあげ、腰からすり寄って
 きた途端、ぐいと引き寄せ、一気に胸のなかに抱え込んだ。
・霞は瞬間、小さな悲鳴を上げたが、すぐにおさえこまれるままに、仰向けになった。伊
 織はなにも言わず霞の右手を自分の肩の下におさえこみ、左手はあいたほうの手でおさ
 えたまま、胸をまさぐった。いきなりわしずかみにされて、霞は慌てふためき、苦しそ
 うに上体をよじるが、伊織は腕の力をゆるめない。そのまま大きく開かれた胸を唇でな
 ぶり、さらに手を下のほうへ這わせていく。
・「あっ、あっ・・・」と、悲鳴とも愉悦とも知れぬ声をあげながら、霞の上体が、魚の
 ようにはねあがり、その度にやわらかい肌が小気味よくぶつかってくる。
・伊織は一つ一つ霞の反応をたしかめ、声と躰と両方で問い詰め、両方で答えさせていく。
 初めははずかしさから、容易に答えなかったものが、途中から徐々に従順になり、つい
 にはかなり恥ずかしい言葉まで、言われたとおり口走る。もちろん、愉悦の渦にのみこ
 まれ、頭が朦朧としているからこそ声に出せることで、素面ではとてもいえる言葉では
 ない。だが伊織は、くり返しくり返しそれを強制し、それをいうことを馴れさせていく。
   
・「実は、離婚するんだ」
 「おやめなさい」
 「そんなこと、なさっても同じよ」
 「いまのままでいいじゃありませんか。離婚して、他の人と一緒になっても、同じこと
  ですよ」
 「他の人と一緒になるわけではないよ」
 「それじゃますます必要ないわ、おやめなさい」
 「離婚などなさらず、いまのままでいたほうが得じゃありませんか?」
 「四十過ぎて、一人でいる男性なんて、なんとなく寒々として、侘しすぎるわ」
 「いまのまま、奥さまは奥さまとして、わたしと適当に遊んでいるほうがよろしいんじ
  ゃありませんか」
・いままで、霞は不自由ない人妻で、世間の男女の愛の機微などには、ほとんど無関心な
 のだと思い込んできた。いわば箱入り妻、とでもいうべき存在だと思っていた。それが
 意外に厳しいことをいう。しかもその一つ一つが、意表をついて胸にこたえる。
・「本当に、離婚なぞ、おやめになったほうがいいわ」
 「ところで、君は僕と結婚する気はないんだろう」
 「あの方の、替りですか」
 「あのころは、あの方に少し飽きてただけじゃありませんか」
 「とにかく、いまは誰よりも君が好きだよ」
 「わたしもよ」
 「でも、あなたはきっとわたしに飽きるわ。そんなに長くは続かないわ」
 「あなたはそういう人よ。一人の女性でじっとしていられなくて、また新しい女を求め
  て移っていくわ」  
 
・「娘が、一度、あなたにお逢いしたいらしいのです」
 「お嬢さんは、僕達のこと知ってるの?」
 母が別の男性と逢っているのを知っても、娘は黙っているのか。そのあたりの若い女性
 の心理はよくわからないが、霞は慌てる様子はない。 
・「彼女は一度、あなたを見ているのです。空港で、素敵な方だって、いってたわ」
 「僕に逢って、どうするのかな」
 「きっと興味があるのよ。年頃だから」
・娘といっても、霞の実子ではなく、夫だけ血がつながっているのだときいた憶えがある。
 「十九になったばかりです。そういう若い子に興味がおありですか」
・伊織は二十歳前後の女性にはあまり関心がない。若さがあるといっても、年齢が離れす
 ぎていては話題が合わないだろうし、稚すぎてこちらが疲れてしまう。女性ならやはり
 二十五歳から上がほうが好ましい。

・「祥子はもういなくなったのだ・・・」
 この一ヵ月は、ひたすら、そのことを自分にいいきかえるための月日であった。初めは
 口惜しく残念で、ときに腹立たしくもあったが、最近ようやく「しようがなかったのだ。
 あれはあれでよかったのだ」とあきらめのようになってきた。
・だが、なおときとして、笙子が鮮やかに甦ることがある。突然、笙子のその瞬間の切な
 げな表情や、タイトのスカートの下の小気味よいお臀の張りなどが、生々しく思い出さ
 れる。霞と情事を楽しんだ挙句に、そんなことなどを思い出すなど、霞への冒とくであ
 る。いままで美しい女性が横にいたのに、帰った早々、別の女性のことを考えるなど勝
 手すぎる。 

・「ご免なさい。今日、行けそうもなくなったのです」
 「実は今朝、阿佐谷にいる親戚が亡くなったのです。
 親戚が死んだとあれば、夫でも一緒に行くのか。伊織は喪服を着た霞を想像した。
 「今日まで、ずっと一人でいたんだ。少しでもいいから逢えないかな」
・「時間がなくて、すぐまた阿佐谷に戻らなければいけないのです」
 「ちょっと、ここは駄目かな」
 ぽんと霞の帯の下あたりを指でつつくと、霞は困った人、というように溜息をついて、
 「今日は本当に逢うだけと言ったでしょう。これから親戚だけで仮通夜があるのです」
 「じゃあ、接吻だけ」
・こちらを向いた瞬間をとらえて、伊織は素早く唇を突き出す。霞はいったん顔を引くが、
 すぐにあきらめたように接吻を受ける。だが次の瞬間、慌てて顔を話すと、
 「いけないわ、こんなことをして、わかってしまうわ」
 「絶対にわからない方法があるんだ」
 伊織はそっと霞の耳元に口を近づけた。そのままささやくと、霞の耳から首の線が淡く
 朱を帯びた。  
・「そんな・・・」
 「平気だよ、昔はみなやったのだから」
 伊織が霞に告げたのは、女がベッドに手をついて、うしろから男を受け入れる形である。
 これなら帯は解かなくてもすむし、髪も乱れない。着物の裾をまくりあげ、腰にかきあ
 げた姿が昆布巻に似ているところから、俗に「こぶ巻き」ともいわれている。
・「そんなこと、できません」
 「頼むよ・・・」
 「そんなこと、絶対できません」
 「困ります」
・伊織は素早く裾から手を入れ、着物をまくりあげる。「ああ・・・」としゃがみ込む霞
 の弱腰を引き上げて、男がうしろから入っていく。淡い闇のなかで、二つのシルエット
 が重なり合っている。
・眼前に霞がベッドに手をついて男を受け入れている。通夜のために着てきた着物の裾は
 腰までまくりあげられ、その下から二本の肢が見える。夕暮れが近づいた部屋はカーテ
 ンで閉ざされ、仄暗いなかで、白く浮き出たお臀が前後に揺れる。
・「ああ・・・」と、息絶えるようなつぶやきとともに、霞は一瞬首をもたげ、それから
 のめりこむようにシーツに顔をうずめ、それとともに力の抜けた下半身がへなへなとベ
 ッドの端にしゃがみこむ。
・その位置で着物の裾を拡げたまま、霞はぺたんと床に坐り込み、上半身はベッドにひれ
 伏したまま身動き一つしない。動くのはただ一点、突っ伏して鮮やかさをました襟足の
 白い筋だけである。
・どう見てもきっかりと、整った姿ではない。裾をまくられた女が無残におし拡げられ、
 うちひしがれている。だが無残は無残であるが故に艶めかしさが増す。どう辱かしめ、
 淫らなことを強いられても、霞はいつも花となって咲き誇っている。
・「素晴らしかったよ」
 きいているのかいないのか、霞はなにも答えない。まだ情事の余韻が醒めきらぬのか、
 耳から首全体は汗ばみ、上気しているようである。
・やがて数分経ち、自分の淫らな姿に初めて気がついたように霞は慌てて立ち上がると、
 顔をおおってバスルームへ入った。

薄氷
・宮津と笙子が結婚するとはまだ信じられない。まさかと思っていたことが現実となって
 しまったようである。だが考えて見ると、二人の結びつきを予感しなかったわけではな
 い。そんなわけはないと思っていた心の裏には、もしかしてという危惧があったからで
 もある。
・それにしても女の気持ちはわからない。宮津と一緒に旅行をして、躰を奪われたとき、
 笙子は自分の軽率さを悔い、泣いて謝った。あの人とはもう二度と逢いたくないともい
 った。その相手と、半年も経たぬうちに結婚するとは・・・。
・とやかくいっても、女は確実に身近にいて、つねに愛してくれる男に傾いていくものら
 しい。難しい理屈や、高邁な理念を説くより、今日、横にいて、欲しいものを与えてく
 れる男の方へ心を移してしまう。理想より現実のたしかさのほうに馴染むのは、なにも
 女だけでなく、男も同じかもしれない。いつになったら自分に戻ってくるのか、当ての
 ない人を、いつまでも待っているわけにはいかないという不満には説得力がある。
・とやかくいっても、笙子は自分が女にした女性である。処女の祥子に女の喜びを教えた
 のも自分である。丹精に、というと可笑しいかもしれないが、まさにその言葉がぴった
 りするように、笙子を育ててきた。誰よりも、伊織は笙子のすべてを知っている。小さ
 な形の胸も、くびれたウエストも、まだ少年のような堅さを残しているお臀も、お腹の
 右下に小さな黒子があるのも、みな覚えている。その知り尽くした躰が、どのように別
 の男を受け入れ、どのような表情で果てるのか。
・笙子の最も鋭敏な箇所も、そこへ指を触れるときの強さ加減も、最ものぼりつめやすい
 態位も、みな知っている。それらは四年という歳月をかけて、伊織が根気よく発見し、
 開発し、覚えさせたものである。それは伊織と笙子と、二人のあいだだけに生まれた秘
 密であり、二人だけが知っている感覚である。
  
・霞が洋服のときの一つの楽しみは、服を脱いでからベッドに入るまで、躰をおおうもの
 がないことである。和服のときから長襦袢でかくせるが、洋服の場合は適切なものがな
 い。いまもどうするかと、伊織が先にベッドに入って見ていると、霞はいったん服を脱
 ぎ終えたところで「バスローブを借ります」という。伊織は黙っているが、もうあり場
 所を知っていて、洋服箪笥のなかから、男ものを取り出して裸の上に着る。
・そのまま入ってくるかと思ったが、ベッドの足先につっ立っている。伊織としては、も
 う娘でないのだから、勝ってに入っておいで、というつもりだが、霞としてはきっかけ
 が欲しいらしい。
 「早くおいで」とか、手でも強引に引かれたら、それでも恰好もつこうというものだが、
 伊織は知らぬ顔を決め込む。やがてたまりかねたように、霞がつぶやく。
 「ねえ・・・」
 早く呼んで、という言葉は口にふくんで、中腰のままこちらを見ている。その哀願した
 ことを「よし」として、伊織は掛布の端をおもむろに開く。
 「さあ、ここへ・・・」
 それで、霞はバスローブを着たままベッドの端からそろそろと入ってくる。
・霞の躰にはいくつか、感じやすく弱いところがある。頤から背中の中央にそって、おり
 ていく線もその一つである。
 指先で触れるか触れぬか、わからぬほどの優しさで背から腰のくぼみまで下ろしていく
 と、「あっ・・・」とつぶやき、それと同時に上体がぴくりと反る。まことにその反応
 は正確で、精巧な電気仕掛けの玩具のようでもある。
 それが面白くて、上から下へ、そして下から上へ交互になぞる度に悲鳴は次第に高くな
 り、最後は「やめてぇ・・・」と哀願する。
 そのことになると霞の全身は燃えさかり、どこに触れても鋭敏に反応し、全身が性感帯
 といった感じになる。
・いまや霞の躰は城門をすべて開き、うち手の寄せるままに落城寸前である。だが伊織は
 一気に踏み込まない。入城は時間の問題だからあせらず、充分苛んでからでいい。
・「ねえ・・・」
 やがてたまらず、霞のほうから訴えてくる。黙っていても敵は求めてくる。そのとき、
 おもむろに仕方なくといった風情で入っていく。
・いったん入城し、勝利の美酒に酔った瞬間から、男は骨抜きになり、最後は逆に打ちと
 られる運命にあるのだから、入城はできるだけ遅いにこしたことはない。
・敵を攻め、激しい動きとともに雄叫びがあがったのは一瞬で、やがて二人のあいだには、
 なにごともなかったように静寂が訪れる。
 
・今年になって、湘南に来るのは初めてだった。やがて左右の家並みが途切れ、正面に暗
 い空だけが広がる。道は軽い登りになり、その先は海になっているらしい。
・伊織は軽い接吻をした。明りを消した車のなかで、二人の男女が肩をよせ合って接吻を
 している。だが、それを見る人は誰もいない。ときたま車が近づいてくるが、そのまま
 無関心に通り過ぎ、あとは再び静寂が訪れる。
・伊織はシートを軽く倒すと、霞の膝の上にあった手をそろそろと移動する。いまさら車
 のなかで、肌を触れ合う気などないが、接吻を交わすうちに次第に悪戯心がおきてくる。
 若者のようにカーセックスというわけではないが、ここで霞を少し困らせてやりたい。
 このまま別れたら、霞はもはや伊織の手の届かぬところに去ってしまう。その思いが悪
 戯心をさらに刺戟する。
・唇から霞の弱い耳へ、唇を移動しながら、右手をそろそろと膝のあいだへ忍びこませる。
 瞬間、霞は「駄目よ」というように膝を合わせる。それに逆らわず手をとめ、またころ
 合いをみて、そっと指をすすめる。
・女性に淫らなことをするときには、焦っては失敗する。ゆっくりと念入りに一寸刻みに
 すすんでいく。効率が悪そうでもそのほうが最後には勝利を得る。
 いつのまにか伊織の指は股の近くまですすんでいる。霞も最初めは逆らい、かたくなに
 膝を閉じていたが、いまは心持ち開き、上体もややのけ反り気味に崩れている。まだ最
 終地点まで達してはいないが、ここまでくればもう一息である。  
 全身の神経を右の指先一つにかけ、さらに一歩、忍ぶようにすすむ。それを数回くり返
 したとき、指先にやわらかく、しっとりとした感触が伝わる。
・すでに霞の愛おしいところは、時間をかけた侵入に耐えきれず、潤っているらしい。伊
 織はそれをたしかめながら、そっとささやく。
 「全部、知っている・・・」
・伊織はいま霞のすべてを知っていると断言できる。外見は細そうにみてその実、豊かな
 肉づきも、ひたすら円やかな肩から腰の線も、そして秘められたところの好ましさも、
 霞の秘密はすべてわかっている。そう自信をもって言えることに伊織は無上の喜びと満
 足を感じている。  
・それにしても車の中は不自由である。二人だけとはいえ、ベッドの上のようなわけには
 いかない。伊織は運転席から左手で霞の肩をかかえ、あいたほうの手を秘めやかな個所
 に触れている。
・すでに出かける前に満ち足りて、もはや霞を求める気はない。ただ別れる間際に、名残
 り惜しくなって指をのばしただけである。ちょっと触れてみたい、そんな軽い気持ちか
 らの愛撫である。
 しかし、愛撫を受ける女にとってはかえって迷惑かもしれない。いっそ愛するならはっ
 きりと、最後までゆきつかせて欲しいし、そうでないなら触れないで欲しい。中途半端
 は困る。
・だが狭い車のなかでは初めから無理というものである。強引に求めれば、あるいは可能
 かもしれないが、路上の車のなかでは落ち着かないし、大胆すぎる。霞もそのことはあ
 きらめているし、求めてもいないはずである。だが一度、燃えはじめた躰は容易におさ
 まりそうもないらしい。
・「だめ・・・」とつぶやきながら、下半身はやわらかく指を受け入れたまま、息づいて
 いる。初めは自分でも軽くと思っていた火が、徐々に火勢を増し、いまや簡単なことで
 はおさまりがきかなくなったようである。
・「ねえ・・・」
 小さな溜息は、こんなことをして、どうしてくれるのかという怨嗟の溜息のようでもあ
 る。それをききながら、伊織は少し責任を感じている。ここまで火をおこして、いまさ
 ら知らないというのは非道すぎるかもしれない。
・「どこかへ行こうか・・・」
 指は秘所においたまま、伊織はそっとささやく。
 「この近くにも、二人だけになれるところはあるでしょう」
 「そんな・・・・」
 「いけません」
 「やめてください」
  
・伊織は自分がジキル博士とハイド氏のように、二重の人格を持っているような気がして
 くる。子供の怪我のことを心配し、電話でたずねたいと思うのはジキル博士であり、霞
 との愛欲に溺れているのはハイド氏のほうらしい。
 だが外見はともかく、伊織のなかにその両者は矛盾していない。両者ともそれぞれに伊
 織自身であり、両方相まってバランスはとれているつもりである。
 実際、いつも子供や妻のことばかり考えていたのでは仕事にならない。そのかぎりでは
 家庭的で、優しい父ということになるかもしれないが、それでは男としての意志に欠け
 ることになる。
 中年とはいえ、男なら牡としての欲望が芽生えるのも仕方がない。もっとも伊織の場合
 は、その欲望が妻ではなく、他の女性に向かうところが問題ではある。
 
花冷
・約束の四時になっても霞は現れない。さらに、四時半になっても現れない。いままでの
 んびり新聞を読んでいる風を装っていたが、こうなっては落ち着いていられない。
・またなにか起きたのか・・・
 再び、伊織の脳裏に不吉な予感が拡がる。急に用事ができたのか、それとも店がわから
 なくなったのか。 
 もしかして、急に気が変わったのか・・・
 約束するまで、霞は少し渋っていた。外で逢いましょうと、二人だけになるのに警戒的
 だった。だが、初めこそ躊躇したが、あとでは完全にくる気になっていた。
・ドアが開いて女性が一人現われた。その女性の顔を見た瞬間、伊織は立ちどまった。
 どこかで見たような顔である。女性も同じらしい。おや、といった顔で伊織を見ている。
 そのまま向かいあっていると、女性は少し強張った表情のまま、頭を下げた。
・「あのう、伊織さんでしょうか・・・・」
 その声を聞いて、伊織はすぎに思い出した。電話で何度もきき慣れている。
 「わたし高村かおりですけど・・・」
 思ったとおり霞の娘であった。いままで電話で話したことはあるが、面と向かって会う
 のは初めてである。 
・「あのう、今日は母はこれなくなりまして・・・」
 「母は休んでいます・・・」
 「わたし、お願いがあるのです。母ともう逢わないでください」
 「母を、もう誘わないでください」
 「今日、あなたがここにきたのは、お母さんに頼まれてですか」
 「いいえ、母に黙って、きました」
 「わたし、初めは、ママとおじさまと、仲良くなることに賛成だったのです。だから、
  ずっとママの味方でした」
 「ママはわたしに全部教えてくれたのです。私が味方だから信用して・・・」
 「でも、裏切ってしまったのです」
 「わたしがパパにいったのです」
 「わたし、それまでは本当にママの味方だったのです。ママが大好きで、ママのためな
  らなんでもしてあげたいと・・・でも、突然、許せなくなって・・・」
 「パパは凄く怒って、ママを打って・・・」
 「ママは顔がはれて、そのあと薬をのんだんです」
 下を向いたまま、伊織は目を閉じた。そうとも知らず、あの日、のこのこ電話をかけた
 自分は、なんと愚かなことであったのか。
・「悪いことをした・・・」
 「「いいえ、悪いのはわたしです。黙っていればよかったのに・・・」
 「でも、ママはおじさまが好きなのです。好きだから、またお約束をしたのです。でも
  やっぱり怖くなって、薬をのんだんです」
・「今日、あなたがここにきたこと、お母さんは知っているのですか」
 「多分、知っていると思います。ここでおじさまと逢うことも、ママが教えてくれたの
  です」

・「おじさま、今年の初めに離婚なさったでしょう。そのときから急に怖くなったのです」
 「怖い?」
 「このままでは、本当にママがおじさまのところにいってしまうような気がして・・・」
・初め、母が軽く他の男性と逢うくらいまでは、かおりは許すつもりであったのかもしれ
 ない。父以外の人と親しくなったとしても、単なる情事で終わるかぎりは問題ない。
 だが、現実に情事をこえて二人が結ばれそうになって急に不安になったようである。
・「わたし、今度のことがなくても、いずれパパにいったかもしれません」
 「ママがおじさまのことを、真剣に考えすぎるので」
 「ごめんなさい。でも、許せなかったのです」
・「おじさま、どこかへ連れていってください」
 「食事でもしますか」
 「いえ、どこか、お酒の飲めるところへ連れていってください」
 「もうママと逢わないと約束してくれますね」
 「おじさま、ママ以外に好きな人、いらっしゃらないのですか」
 「おじさまのお部屋に、いってはいけませんか」
 「ご迷惑ですか」
・「素敵なお部屋ですね」
 「坐ったら・・・」
 「いえ、わたし帰ります」
 突然の心変わりに驚いていると、かおりはどんどん戸口のほうへ行く。慌てて伊織があ
 とを追っていくと、沓脱ぎの手前で、かおりはくるりと振り返った。
・「おじさま・・・・」
 いまにも泣きだしそうな顔で見上げると、いきなりかおりの全身が伊織の胸に倒れてき
 た。どういうことなのか、さっぱりわからず、伊織がそのまま小さな肩を抱いていると、
 かおりがつぶやいた・
 「抱いてください・・・・」
・なぜ突然、「抱いてください」などと口走ったのか。男の部屋にきて、そんなことをい
 うのは危険ではないか。いまのいい方だけをきいていると、母が来られなくなったので、
 替わりに抱いてください、といったようなものである。だが、母を裏切ったからといっ
 て、娘が替わりになる理由はない。
・そういえば以前、霞が、娘があなたに関心を抱いています、といったことがあった。
 そのときは悪い気はしなかったが、それは若い娘のいっときの気紛れだと思っていた。
 だがいまの状態はあきらかに、対等の男と女の姿である。
・いずれにしても、男に向かって、「抱いてください」とは大胆すぎる。
 だがかおりが遊び歩いている女とは思えない。その証拠に、自分からそんなことを訴え
 ていながら、体は小刻みに震えている。おそらく、母を裏切った悔いと、自ら告げにき
 た緊張と、酒の酔いがまじって、興奮のあまり口走っただけなのである。
・「送ってあげよう」
 静かに伊織が体を離すと、かおりもそろそろと顔を戻す。だが額に垂れた髪はそのまま
 に、軽く横を向いている。思いがけず口走った一言に、自ら恥じらい、悔いているのか
 もしれない。
・「いろいろ、勝手なことをいってご免なさい」

・それにしても、女達はなんと強いことか・・・
 かつて、頑として離婚に応じなかった妻も、いまは子供達をしっかりと自分の羽根のな
 かにとりこんで生きている。
 笙子もあのまま一通の手紙もよこさず、宮津との新しい生活に没頭しているようである。
 そして霞も、ヨーロッパに行ったことや短い逢瀬に命を燃やしたことなどは単なる過去
 の思い出として、辻堂の家でまた新しく生きていくに違いない。
・女達の去り方はみな鮮やかである。いっとき思い悩み、それこそ生死をかけて思い悩む
 が、その苦境を抜け出たら、もはや振り返りはしない。着実に平然と、また新しい生活
 へ踏み出していく。そうでなかれば生きていけぬとはいえ、その切り換えの見事さには
 男は到底及ばない。
・妻から笙子、そして霞へと追い求めてきて、結局得たものはなんであったのか・・・
 あるときは逢瀬に心をときめかせ、情事を耽溺し、女が自分の掌中にあることに満足し
 た。だがそのときどきの充足も振り返ってみると他愛ない。過ぎてしまえば、華やかさ
 より虚しさのほうが色濃く浮きあがる。