江戸の性事情 :永井義男

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テレビで時代劇を見ていると、時々「吉原」とか「岡場所」とか「夜鷹」とかという言葉
が出てくることがある。なんとなく雰囲気でわかるような気がするのだが、実はほんとう
はどういうところだったのかは、ほとんどわかっていなかった。テレビでも、吉原とは実
はこういうところだったんですよとか、夜鷹とはこういう人たちのことを言うんですよと
か、公共の電波を使っては、なかなか解説もできまい。この本は、なかなか公に話せない、
そういうところをいろいろ解説してくれている。
江戸時代の庶民の暮らし、特に性風俗はどうであったのか。現代の日本は、世界に冠たる
性風俗ビジネスの盛んな国と言われるが、この本を読むと、江戸時代も現在に負けず劣ら
ず性風俗ビジネスが盛んだったようだ。島国の日本は、「箱庭」に代表されるように、細
かいことへこだわるのが、実に得意な民族だ。それは性風俗にも言えるようだ。江戸時代
の性風俗は、そのまま現代へと脈々と受け継がれてきているんだということがよくわかる。
この本の内容で、特に興味深かったのは「密通」、現代でいう「不倫」に関してである。
テレビの時代劇などを見ていると、当時は「密通」は命にもかかわるような重大犯罪であ
り、「密通」の罪を犯した女の処罰は非常に厳しいため、江戸時代は「密通」する者は少
なかったのではないかと思っていたが、なんのなんの実際はそうではなかったということ
である。処罰が厳しいのは建前だけで、「密通」を訴え出る者はほとんどいなかったので、
多くの男女は平気で「密通」してしていたとのことである。現代も「不倫」は日常茶飯事
と言えるぐらい多いようだが、この点でも江戸時代も現代も変わらないということである。
江戸時代の人間も現代の人間も、人間の本質はまったく変わっていない。人間の本質には
進歩がないのだと、つくづく思い知らされた。

はじめに
・江戸時代の密通と現代の不倫は同義ではない。しかし、ここは話を単純にするため、ほ
 ぼ同義語としておく。江戸時代も、密通は「いけないこと」には違いなかった。しかし、
 たとえ密通が発覚しても、当人たちが世間に顔向けができない状況にはならなかった。
 ましてや、世間の人々に謝罪などしない。もちろん、「裏切られた」立場の配偶者に怒
 りがなかったわけではないだろう。だが、もし密通がばれても、いわゆる、「間男代は
 七両二分」で、すんなり解決し、後腐れもなかった。つまり、間男(夫のある女と性的
 な関係を持った男)が、女の夫に七両二分の慰謝料を払いさえすれば、それで内済(示
 談)になったのである。七両二分は庶民には大金なので、実際にはもっと低い金額で内
 済が成立した。 
・いっぽう、武士の場合は体面を重んじる。そのため、武士はたとえ妻がほかの男と密通
 しても事を荒立てず、別な理由を付けて妻を離縁するのが一般的だった。つまり、密通
 自体をなかったことにし、世間体を繕ったのである。
・たしかに、江戸幕府の定めた法典では密通した男女に対する刑罰は厳酷だったが、実際
 にはほとんど実行されなかった。内済と隠蔽により、密通は表沙汰にはならなかったか
 らである。  
・現代、男が、とくに妻帯者が風俗店で遊ぶことは「悪」と規定されているようだ。違法
 ではないにしろ、男が風俗店に出入りしている事実が知れ渡ると、たいていの女が嫌悪
 感で眉をひそめ、さげすみの視線を向ける。いっぽう、次々と異性と性的な関係を結び、
 あるいは結婚と離婚を繰り返す人がいる。こうした人は男の場合、「プレイボーイ」と
 呼ばれ、女の場合は「恋多き女」と称される。模範的な行為ではないにしろ、けっして
 軽蔑や糾弾されることはない。むしろ、人々のあこがれの対象ですらある。ところが、
 江戸時代は正反対だった。江戸時代にはなんと、現代でいうところの「プレイボーイ」
 は「意地の汚い」や「性悪」、「男らしくない」として糾弾されているのである。
・江戸時代、男の女郎買いは仕方がないというのは社会的通念だったのだ。しかも、大多
 数の女もそんな考え方をしていた。「恋多き女」にしても、当時は「身持ちの悪い、淫
 乱女」として軽蔑された。ことほどさように、「江戸の性」は現代とは異なっていた。
 江戸の男女はセックスの対しておおらかだったという説があるが、江戸の美化になって
 いる傾向がなきにしもあらずである。

江戸の下半身
・江戸には岡場所と呼ばれる遊里があちこちにあった。公許の遊廓である吉原に対し、岡
 場所は非合法だったが、実際は公然と営業していた。岡場所の女郎屋は手軽な四六見世
 が主流で、揚代(料金)は昼間は六百文、夜は四百文だった。昼間のほうが夜よりたか
 いわけで、現代人の感覚からすると奇異である。現在、ラブホテルは平日の昼間は「フ
 リータイム」と称して料金を割引している。風俗店も夕方までは料金を割安に設定して
 いるところが多い。客の少ない時間帯は低料金にすることで来客を増やそうというわけ
 で、市場原理の結果といってよかろう。ところが、江戸の「風俗店」は現代とは逆だっ
 た。一見すると市場原理に反しているかのようだが、当時の事情を知ると納得できる。
・参勤交代で江戸に出てきて、およそ一年間は藩邸の長屋で暮らす勤番武士はほとんどが
 単身赴任だった。基本的に女に飢えており、女郎買いに生きたくてたまらないが、大名
 屋敷の門限は厳しく表門は暮六ツ(日没)に閉じられる。そのため、勤番武士が女郎買
 いをするのは非番の日の昼間にかぎられた。大店は奉公人として多くの独身の男をかか
 えていたが、彼らは住み込みが原則だった。女郎買いをしたくたたまらないが、主人や
 番頭の目が光っていて夜遊びはむずかしい。そのため商家の奉公人も昼間、商用で外出
 した機会などを利用して岡場所で手軽な女郎買いをした。この結果、岡場所の四六見世
 は昼間でも客が多かった。勤番武士や商家の奉公人という大きな需要に柔軟に対応して
 いたのだとすれば、江戸の風俗店も市場原理にのっとった価格設定をしていたことにな
 ろう。ただし、吉原の場合は昼間は閑散としており、日が暮れてからにぎわった。余裕
 のある男が泊りがけの遊興をしたからである。その意味でも、吉原は格別だった。
・品物やサービスの値段はピン(最上)からキリ(最下)まである。それは現代でも江戸
 時代でも同じである。キリは夜鷹であろう。夜鷹は、日が暮れてから道端に立って男を
 さそう街娼で、暗がりに敷いたゴザの上で情交した。その揚代(料金)は蕎麦一杯の値
 段と同じとも、二十四文ともいわれた。夜鷹は高齢で不健康な女が多かった。いっぽう
 ピンはなんといっても吉原の遊女であろうが、その吉原の遊女のあいだにも階級があり、
 まさにピンからキリまであった。最高位の呼び出し昼三の値段は一両一分だったこれは、
 キリの夜鷹の約三百倍である。
・現代ではどうだろうか。キリはピンサロ(ピンクサロン)であろう。料金は五千円とし
 ておこう。ピンを高級ソープランドの遊興費総額十万円としよう。そうすると、ピンは
 キリの二十倍である。ピンとキリを比較したとき、江戸は三百倍、現代は二十倍、江戸
 の女の値段にはいかに大きな格差があったかがわかる。
・江戸時代の一両は現在の何円か?しばしば受ける質問だが、答えるのは非常にむずかし
 い。不可能といってもよい。というのは、なにを換算の基準にするかで大きく変わるか
 らである。おおさっぱに言って、江戸時代は人の値段(人件費)は安く、物の値段は高
 かった。現代とは正反対である。  
・江戸では紙くず二百文に対して、女は二十四文。紙くずは、女の約八倍の価値があった。
 現代、紙くず百円に対して、女は1万円。女は、紙くずの百倍の価値がある。
・女が妓楼(女郎屋)に売られる(身売り)ときの金額はどのくらいであったのか。寛政
 元年(1789)、十二歳の女のがが十八両で吉原の妓楼に売られたという記述が残っ
 ている。また、「世事見聞録」には、越中・越後・出羽の貧農が生活に困り、三〜五両
 で娘を売っているという意味の記述がある。安政四年(1757)、下級武士の娘が貧
 窮に陥った親きょうだいを助けるため吉原に身売りした。武士の娘は吉原ではいわゆる
 「上玉」だが、それでも金額は十八両だった。近代では、大正十三年(1924)に、
 高崎市の貧しい家の娘が十九歳のときに吉原に千三百五十円で売られた。当時の物価は、
 巡査の初任給(大正九年)が四十五円くらいである。
・江戸にイメクラはあったか?答えは、あったといってよいだろう。時代によって表面的
 な風俗こそ変化するが、人間の本質は変わらない。こと性に関するかぎり、現代人がし
 ていることは得ぢの男女もしていたし、江戸の男女がしていたことは現代人もそている。
 違いは表面的なものにすぎない。江戸では、さしずめ女の「役者買い」がイメクラにあ
 たるであろう。当時、大店お後家や、江戸城・大名屋敷の奥女中など、裕福な女が歌舞
 伎の若手の役者を買うことがあった。役者は事実上の売春夫だった。女が男を買い、
 「金を出すから、たっぷりと堪能させておくれ」というわけである。役者買いの場合は、
 芝居小屋の近くにある芝居茶屋の二階座敷が多かった。近いため、役者は芝居の幕間に
 抜け出てきた。当時の幕間は長かったこともある。充分に情交の余裕があった。また、
 女が男に奉仕させるわけだから、役者買いはいまのホストクラブにもあたるかもしれな
 い。
・いまだに吉原に関する本には、「吉原の花魁は気位が高く、客と初めて体面したとき
(初会)はツンとしていて、ろくに口もきかない。二回目(裏)には笑顔を見せ、話もす
 るが、ただそれだけ。三回目で、ようやく客といっしょに寝ることに同意し、肌を許す」
 という内容のことが書かれている。まったくの俗説である。吉原伝説といってもよかろ
 う。常識で考えれば、あるいはわが身に照らして考えてみたら、すぐにわかることでは
 なかろうか。吉原では遊女は一回目(初会)から、ちゃんと客と寝ていた。
・風俗店の宣伝文句に「素人」とか「人妻」というのがある。本来、風俗嬢は、その仕事
 で金を得ているのだからプロ(玄人)であろう。それが「プロではない」ことを売り物
 にするわけである。素人の女と付き合いたいなら、そもそも風俗店に行く必要はないで
 あろう。また、風俗店で働く女が素人であるはずがなかろう。根本的な論理矛盾だと思
 うのだが。しかし、この錯覚に迷う男は少なくないようだ。というより、錯覚であるこ
 とは承知の上で、「素人っぽさ」を楽しんでいるのだろうか。
・「吾妻みやげ」に「女色魚に順ず」というランキングがある。読みやすくするために現
 代仮名遣いに直すと、
 ・吉原の太夫や格子などの上級遊女はタイである。庶民にはとても手が出ない。  
 ・品川宿の遊女はカツオのようなもの。高級も安価もあり。手軽に味わえる。
 ・街娼の夜鷹はクジラのようなもの。あそこが臭い。
 ・下女はイワシのようなものだ。味はいいが、品がない。
 ・妾は赤貝のようなもの。妊娠して子供を産むと、途端に味わいが落ちる。
 ・未婚の素人の女は金魚で、まさに色事の相手としては最上
 ・女房はかつおぶしのようなもので、たいして味はないが、飽きがこない。
 ・他人の女房はフグのようなものだ。味はよいが、へたをすると命が危ない。
・遊女より芸者のほうが格が上だと理解している人も少なくない。ところが、これも誤解
 である。遊里では、とくに吉原では、遊女のほうが芸者よりも格上であり、芸者は遊女
 にさからうことなどいっさい許されなかった。遊里の主役はあくまで遊女であり、芸者
 は宴席の引き立て役にすぎなかった。「芸者は客と寝てはならない」とされていたのは、
 遊女の領分を侵すことにつながるからだった。しかし、芸者が客と寝ないのは表向きで
 あり、実際は金さえ出せばすぐに転んだ。要するに、遊女はおおっぴらに客の男と寝る。
 芸者は隠れて客の男と寝る。それだけの違いである。金を受け取るのは遊女も芸者も同
 じだった。
・江戸の性語は豊穣だった。江戸の性語では女性器のことを「つび」「ぼぼ」と呼ぶが、
 後者は性交の意味もあった。つまり、「つび」はあくまで女性器、「ぼぼ」は女性器と
 性交の両様の意味があり、現代の「お○んこ」に近い。また、性交の意味にはもったら
 「交合す」が用いられた。さらに、江戸では「おまんこ」も立派に用いられていた。こ
 の性語はけっして近代になってから使用され始めたのではない。 
・江戸の「おまんこ」は幼児語だった。女の子の陰部をさす言葉でもあった。要するに、
 かわいらしい表現だった。成熟した女の陰部は「ぼぼ」、「つび」である。
・江戸中期以降の春本では、性交のことを「交合」と表記し、「とぼす」とよませること  
 が多い。当時の江戸の庶民が使っていた性語である。また、性交を隠語で「お祭り」と
 いうこともあった。とくに夫婦が子供の前で話すときなど、この隠語が用いられた。
・江戸の春画は多彩かつ豊潤である。現代の性技はすべて登場している。江戸の男女は現
 代人がやる性行為はすべて実行していた。だが、パイずりだけはない。もちろん、男が
 女の乳首を口にふくんだり、舌でためたりする「乳吸い」の春画はすくなくない。しか
 し、江戸の女は男にパイずりはしなかった。というより、しょうと思っても、できなか
 った。かなりの巨乳でないとパイずりは無理である。当時の日本の女はみなペチャパイ
 だったからである。江戸時代、わが国の食生活は質素で、栄養水準は低かった。とくに
 動物性たんぱく質の摂取が極端に少なかった。そのため、みな背が低かったのはもちろ
 んのこと、女の乳房も小さかった。 
・「釜」あるいは「お釜」は尻のこと。「お釜を掘る」とは肛門性交(肛姦ともいう)の
 ことである。現代語ではアナルセックスというのが一般であろう。このアナルセックス
 は男色だけとはかぎらない。男と女のあいだでもおこなわれる。現代では、みんなが実
 行しているわけではないが、知識としてはほとんどの男女が持っているであろう。同様
 に、江戸時代においても、庶民の男女のあいだではほぼ常識だったようだ。
・江戸時代は、僧侶は女んと交わることを禁じられており、もし女と情交すれば女犯の罪
 として処罰された。そのため、禁じられていない男色の相手として、美少年を寺にかか
 えていた。これが寺小姓である。
・江戸の男は、女の陰部は見慣れていた。湯屋(銭湯)は男女混浴が普通だったからだ。
 風紀が乱れるもととして、幕府は寛政三年(1791)に混浴を禁止した。しかし、な
 かなか完全には実行されず、天保十二年(1841)に始まった天保の改革でようやく
 江戸の湯屋は男湯と女湯が厳密に区別された。
・当時、男が平気で外で立小便をしていたのと同様に、庶民の女も道端にかがみ、とくに
 男の視線を気にすることこなく、尻をまくって平気で放尿していた。 
・芋田楽という性の隠語がある。母と娘が同じ男に通じることである。 
・現代に比べると、江戸時代の女の行動は制約されていた。たとえ中高年の女が淫心をた
 かぶらせ、「男漁りをしよう」と思っても、相手はせまい範囲のなかで選ぶしかない。
 現代のように気軽に外出はできなかったし、メールで募集するなどもできなかったから
 である。そのため、ひとつ屋根の下の密通が多かった
・江戸時代、僧侶は妻帯を禁じられていた。遊里で遊ぶことも厳禁である。ところが、実
 際には女犯僧は多かった。女犯とは女と情を通じることである。
・江戸の湯屋は男女混浴が一般的だった。当時は電気がないため、浴槽の部分は昼間でも
 薄暗い。そのため、痴漢行為はもちろんのこと卑猥な行為におよぶ男女も少なくなかっ
 た。   

性の事件簿
・夜這いは一般的に農山漁村の習俗と考えられているが、江戸時代は都会でも珍しいこと
 ではなかった。というのは、当時は武家屋敷であれ大きな商家であれ、男女の奉公人は
 住み込みが原則だった。しかも、当時の木造建築は部屋と部屋の仕切りは襖であり、部
 屋と廊下の仕切りは障子だった。鍵もかからない。図々しい男には、夜這いをしようと
 思えば簡単に実行できる住環境だった。
・当時、庶民の娘が男と忍び逢うことも、婚前交渉をすることも珍しくなかった。ただし、
 婚姻となると、たいてい仲人が取り持ち、親が決めた。娘のほうは、「あたしには好き
 な人がいます。その人といっしょになりたいです」などとは、とても言えない。親の決
 めた相手と結婚するのが普通だった。恋愛と結婚は別だったのだ。
・現代では産婦人科の病院に入院し、出産するのが普通だが、江戸時代は自宅に産婆を呼
 んで出産した。産婆はいまでいう助産婦だが、江戸時代の産婆は、出産の手助けをする
 だけでなく、生まれた赤ん坊を殺すこともその重要な役目だった。当時、有効な避妊法
 はなかったから、望まぬ妊娠は多かった。では、望まぬ妊娠をしたときにはどうするか。
 間引きするしかなかった。産婆に頼んで、生まれたばかりの嬰児を殺したのである。
 農村では口減らしのために、間引きは盛んにおこなわれており、一種の人口調節だった。
・現代、「密通」を不倫と解釈している人が多いが、江戸時代においてはその定義は広範
 囲で、正式な婚姻関係にない男女の性行為はすべて密通だった。しかも、密通に対する
 処罰はきびしかった。ただし、これはあくまで建前である。密通を町奉行所に訴え出る
 人はほとんどいなかった。そのため、多くの男女は平気で密通を享楽していた。
・江戸時代の武士の妻はみな貞淑だったと信じている人は多い。「武士の妻はつねに懐剣
 をふところに忍ばせており、操が守れないような状況になれば喉を突いて自害した」な
 どと解説する本すらある。しかし、実態はかなり異なり、武士の妻にも密通は少なくな
 かった。武士の妻の密通は体面をはばかり、たいていは隠蔽された。
・武士は妻が密通した場合、相手の男と妻を斬り殺したとされる、しかし、実際にはそん
 な処罰はほとんどなかた。たいていは、妻と離縁することで穏便な処置をした。
・俗に「間男代は七両二分」といわれたように、夫のある女と密通したのが発覚しても、
 男が夫に対して慰謝料七両二分を支払いさえすれば、それで内済(示談)が成立した。
 庶民には七両二分は大金だから、実際にはもっと安い金で内済になった。この結果、い
 くら密通をしても金さえ払えば後腐れないという風潮を生んだ。
・現代でも、妻が不倫した場合、夫は不倫相手の男よりも妻に怒りをぶつける。夫が不倫
 した場合、妻は夫よりも不倫相手の女に怒りをぶつける。江戸時代と現代、時代は変わ
 っても男と女の心理は本質的に変わらない。
・日本の夏は蒸し暑い。とくに庶民の多くが住んでいた江戸の裏長屋は、建物が密集して
 いるため風通しも悪く、夏の蒸し暑さは耐え難いものがあった。男はふんどしひとつ、
 女は腰巻だけの裸というかっこうが珍しくなかった。まわりがみんなそんなかっこうで
 あれば、べつに恥ずかしくはない。裏長屋の住民のあいだでは、ふんどしがゆるんで陰
 茎が見える、あるいは腰巻がめくれて股の奥がのぞくなどは日常的な光景だった。
・江戸時代の木造建築はすきまだらけだった。武家屋敷でも商家でも、夜中にネズミが廊
 下を走りまわる、台所で食べ物を食い荒らすなどは日常茶飯事だった。寝ていてネズミ
 に鼻をかじられたなどという話は少なくない。
・初代が裸一貫から営々として築きあげた身代を、二代目、あるいは三代目があっけなく
 蕩尽してしまう例は少なくない。いっぽうで、何代にもわたって堅実な商売を続けてい
 る例もあるが、そんな商家では婿が多い。息子に継がせても必ずしも商売に向いている
 とはかぎらない。ところが、奉公人のなかから信用できる男を選び、娘の婿に迎えて商
 売を継がせれば、うまくいくのである。大きな商家で婿が多かったのは、商売を継続し
 ていくにはそのほうがよいという知恵が働いていたからである。
・江戸時代、武家屋敷や商家を問わず、主人が女の奉公人に手を出すことは多かった。主
 人と奉公人という身分を背景にしてせまっているわけで、現代でいえばパワハラやセク
 ハラに当たるだろうが、当時は主人にとって「手をつける」という感覚だった。いっぽ
 う奉公人からすれば、当時は住み込みが原則だったから、ひとつ屋根の下で生活してい
 るわけであり、いったん主人に狙われると、ほとんど逃げ場がなかった。
・江戸時代、遊廓としては吉原があり、そのほか江戸の各地には岡場所があった。品川や
 内藤新宿などの宿場も事実上の遊里だった。男たちの遊び場には事欠かなかった。
・近年、いったんは離婚した夫が、別れた妻に復縁を迫ってストーカー行為を繰り返し、
 あげくは殺害するという悲惨な事件がしばしば起きている。恋人同士でも別れたあと男
 のほうがしつこくつきまとい、最後は悲惨な結末になることが少なくない。現代の男は
 めめしくなっているだろうか。いや、江戸時代でも似たような事件が起きていた。
・殺人事件で若い女性が被害者の場合、数日後にあっさり犯人が逮捕されることが少なく
 ない。犯人はたいてい夫、元の夫、恋人、別れた恋人、不倫の相手などなど、被害者と
 密接な関係にあった男である。警察も被害者の親しい男に的を絞って捜査を進めるため、
 迅速な解決につながる。こういった場合、動悸はたいてい愛憎のもつれである。江戸時
 代も事情は同じだった。「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉があるが、なまじ愛情や
 性的関係があった男女の仲がこじれると、その憎しみは倍加する。この心理はいまも、
 江戸時代も変わらない。
・江戸時代、社会保障も年金制度もなかったから、庶民は年をとって働けなくなったとき、
 息子夫婦に養ってもらうのが普通だった。子供がいない夫婦はどうするか。養子をもら
 い、その後、養子に嫁をもらい、跡継ぎとした。あるいは、養女をもらい、その後、婿
 養子を迎えて跡継ぎとした。江戸時代、養子や養女が多かったのはこのためである。
・宿場の旅篭屋は飯盛女と称する遊女を置くことが許されていた。そのため、宿場の旅篭
 屋は宿泊で利用する旅人もいたが、女郎屋として利用する男もいた。江戸時代も後期に
 なると、品川宿の女郎屋は吉原と拮抗するほどの繁栄ぶりだった。品川は東海道の宿場
 であり、厳密には江戸ではないが、市中から近いことから、江戸の男たちの手軽な遊里
 だった。    
・武士の家に生まれても、次男三男の人生は暗かった。武家は長子相続が原則である。長
 男が病死でもしないかぎり、次男三男は家督を相続することはできない。次男三男は仕
 事もない、金もない、結婚もできないという、夢も希望もない人生を送らなければなら
 なかった。なかには武芸や学問、絵画などで身を立てた者もいたがごく少数である。多
 くの者はぶらぶらと遊び暮らしていた。
・男と女の性生活については、江戸時代も現代も基本的には同じといえよう。体の構造や
 仕組みは変わらないからである。しかし、決定的な違いがあった。それは、避妊である。
 江戸時代、コンドームなどの避妊具や、ピルなどの避妊薬がなかった。また、望まぬ妊
 娠をした場合も、現代のような母体に安全な中絶法はなかった。望まぬ妊娠をした場合
 の悲劇は多かったし、たいていは女が犠牲になった。  
・江戸時代の脱退薬は「月水早流」が有名である。当時、江戸では脱胎薬が珍しくなかっ
 た。それだけ、夫婦ではない男女の性交渉と妊娠が多かったということであろう。月水
 早流のくわしい成分などは不明だが、危険な薬である。たとえ脱胎が成功したとしても、
 体調を崩し、あるいは死亡した女は少なくなかったに違いない。