葡萄物語 :林真理子

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この小説は、山梨県にある葡萄園を舞台に30代主婦たちが繰り広げる不倫の物語である。
不倫と言っても、ひと括りにはできない。不倫の背景にはそれぞれの個性・事情がある。
おもな登場人物は、映子、30代の3人の主婦。
 ・映子:観光葡萄園の主婦。この小説の主人公。晩婚であったが初恋の今の夫と結婚。
     夫:洋一、姑:正美
 ・佐知:高校の先輩と在学中から恋愛して結婚。
 ・美和子:東京の大学に進学し、そのまま金持ちの息子と結婚するが離婚
3人は高校時代の同級生。一見、仲の良い友達に見えるが、内実はそうではない。そこに
は女性特有とも言える複雑な心理が働いている。
主婦がなぜ不倫に走るのか。揺れ動く30代の主婦の心理がわかるような気もする。同じ
不倫といっても、そこにはそれぞれの複雑心理が働いている。確かに不倫はいけないこと
だ。しかし、単純にそれだけでは片付けられない不倫もあることは確かだ。
それにしても、人はどうして、ささやかな幸せで満足できないのだろうか。平凡な日々を
送れるということが、いかに幸せなことなのか、再認識する必要がありそうだ。
不倫と言えば、昔は男の専売特許だったが、最近は事情がちがってきている。女性の不倫
が世間の話題に上ることが多くなった。もっとも、不倫は必ず相手の男がいることだから、
女性だけ不倫が増えたというのはおかしな話ではあるが、女性の不倫が注目をあびるのは
確かだ。
この小説が発表されたのは、今から20年前の1998年である。主婦の不倫というと最
近話題が多くなったように感じるが、当時からして不倫はすでに日常化していたようだ。
時代が変わっても、人間の営みはそれほど変わっていないということか。
それにしても、地方の農家の状況をじつにリアルに描いているなと関心したら、筆者自身
が山梨市の出身だったことを知り、なるほどと納得した。

・十人ほどの男女が、ワイン工場を兼ねたこの観光葡萄園にやってきた。早く中央高速に
 乗らなければ渋滞が始まるというので、彼らは工場を見学することもなく、あわただし
 く試飲のワインを飲み干した。
・美和子は映子と佐知の、高校の同級生である。もともとはバスケット部に所属していた
 五人のグループであったが、後の二人は夫の勤務に伴って、山口県と大阪で暮らしてい
 る。地元で結婚した映子と佐知に、東京から時たま帰る美和子が加わるという付き合い
 がずっと続いていた。付き合いといっても、やはり美和子がたまに来る「お客さま」と
 いう形になるのはいたしかたない。彼女の派手な暮らしぶりもそれに輪をかけた。
・美和子の夫の黒田は、不動産屋をしている。不動産屋といっても、家の財産を守るため
 に便宜上その種の会社を経営している、といった方が正しいそうだ。ビルまで持つとい
 う家の長男と美和子との結婚は、今やこのあたりの玉の輿伝説にもなりつつある。
・つい二年前まで美和子が幸福だったのは間違いないことなのだ。ひとり娘が私立に入り、
 その祝い物の残ったものだと、映子にしゃれたペン立てをくれたこともある。その美和
 子の表情が暗くなり、あまり夫のことを話さなくなったのは、いったいいつ頃だったろ
 うか。
・美和子の実家も観光葡萄園をしているから、八月の時期は一家総出て忙しいはずだが、
 嫁いでいる美和子が一週間も帰ってきているのはおかしな話だった。「何でもさ、旦那
 の方に女が出来たらしい」いつものように佐知が教えてくれた。田舎の不思議さで、仲
 のいい同級生にも告げない話が、いつのまにか広く近所に伝わっているのだ。
・美和子もぽつりぽつりといろいろなことを話してくれるようになった。相手の女はまだ
 若く、夫は夢中になっているという。「やはり、勤めたことのない男っていうのは、どこ
 かタガがはずれたところがあるよ。会社っていう世間体を気にしないから、常識はずれ
 のことをしてしまう」と美和子は口にした。これには映子も佐知もかなり不愉快になっ
 たものだ。佐知の夫も専業農家で、勤めた経験はない。だからお前の夫は駄目なのだと、
 遠まわしに言われたようなものではないか。
・同じ34歳といっても、佐知の長男は中学二年生である。高校の先輩と、在学中から恋
 愛をしていた彼女は、二十歳になるかならないかですぐに結婚したのだ。これは映子た
 ちの年代ではかなり珍しいケースである。この小さな町でも、少女たちは都会へ進学す
 ることがごく当たり前になっているからだ。
・佐知はあの頃妙に大人じみた言葉を口にしてものであるが、これと似たようなことを言
 いながら全く正反対の行動をとったのが美和子である。「勉強する気はないけど、絶対
 に東京へ行く。あっちに行きさえすれば、きっと何かが見つかるもん」しかし、どうせ
 行くならばと、美和子は三年生になると猛勉強を始めた。そう偏差値は高くないが、そ
 こそこ知名度があてお嬢さま学校の雰囲気を持つ女子大に進んだ・
・美和子は目が大きく、鼻も口もちんまりとまとまった愛らしい顔立ちである。アイドル
 タレントの誰かに似ていると、当時のことながら男子生徒の人気も大層かった。大学
 へ入ってからの美和子は、さらに美しく垢抜けていった。東京の有名大学のクラブに入
 会し、そこでもちやほやされた。結局、そこのクラブで知り合った東京の金持ちの息子
 と結婚したのであるから、美和子はちゃっかり自分の夢をかなえたことになる。その彼
 女が三十歳を過ぎ、結婚生活の不幸をお産に実家へ帰ってきているという。
・映子は六年前に、市川ワインの長男、洋一と結婚した。二十八歳の花嫁というのは、今
 どき珍しくも何ともない。映子は母親の「女の子は短大でいい」という言葉に押し切ら
 れて、地元の短大の保育科へ進んだ。そこを卒業して、四年間保母を勤めていたのであ
 るが、仕事はあまり面白いとは思えなかった。同じ年頃の、園児の母親にあれこれ指図
 されのに、すっかり嫌気がさしたのだ。
・映子の夫の洋一は高校でバトミントンクラブの主将をしていた。バトミントンなど、暗
 く地味なクラブの代表のように言われていたのであるが、その中ににあって洋一は女の
 子たちの品定めの場で、いつも名が挙がったものだ。決してハンサムというのではない。
 軽い冗談を言って笑わせるようなこともなく、もの静かな少年というのが、おおかたの
 一致した意見だった。
・映子は、体育館の夕闇の中で、洋一の白いパンツ姿を探していた自分の密やかな記憶を、
 誰かが気づいていたのだろうかと思った。洋一は高校卒業してすぐ、家業の葡萄園のワ
 イン工場を手伝っていた。
・洋一の母親は、近所でも評判のやかまし屋だという。おそらく、高卒、親と同居、とい
 ったような条件が、洋一を縁遠い男にしてしまったのだろう。
・東京から特急で一時間半、都会にも近く、葡萄や桃で豊かなこの待ちであるが、それで
 も農家に嫁の来てがないという問題から逃れることはできない。長男だったら、高校時
 代の恋人と固い約束をしておくか、そうでなかったら東京に出て相手を見つけて帰って
 来なければチャンスがないとさえ言われている。そう成績がいいわけでも、勉強が好き
 なわけでもない息子たちまでわざわざ東京の大学へ進学させるのは、家を継ぐまでの執
 行猶予と、相手を探して来い、という意味があるのだ。
・見合いの席で、白いシャツに砂色のジャケットといういでたちの洋一は、男ぶりも前よ
 り確実に上がっている。町には四十過ぎの独身男が山のようにいるから、三十になるか
 ならないかの彼は、若い部類に入るはずだ。二人の視線がからまり、映子は自分が処女
 であることを、見ぬかれたような気がしたものだ。
・いってみれば、映子は初恋の男と結婚できたことになる。高校時代、ぼんやりと想像し
 ていたとおり、洋一は充分にやさしく思いやりのある男であった。結婚して六年になる
 が、二人には子供がまだできない。一度病院で診てもらったことがあるのだが、どちら
 にも問題がないということであった。
・今の映子の心を大きく占めているのは、洋一と美和子のことである。夫とかつて同級生、
 この意外な組み合わせを聞いたのは、婚約して間もない頃である。今は大阪に住んでい
 る高校時代のグループの一人が、うち明けてくれたのだ。「美和ちゃん、洋一さんと付
 き合っていたんだよ。ううん、高校の時じゃない。市川さん、二年ぐらい東京の予備校
 へ通っていたんだって。
・いくら世の中が変わってきているとはいえ、農家の長男の嫁に、子どもがいないという
 ことは、冷たい刃となって映子の胸をえぐることがあった。 
・正月というのは、地方に住んでいる者にとって、楽しさと迷惑が半々に入り混じった季
 節である。この時期、多くの人間が帰省してくるが、彼らは暇を持て余しては、旧い友
 人のとこへやってくる。まるで自分たちの退屈に付き合う義務があるかのようだ。冬だ
 からといって、農家にすることがないわけでもなく、畑を見守ったり、機械の手入れな
 ど心づもりをしていることも多いのだが、都会から帰ってくる連中はそんなことはお構
 いなしだ。毎夜のように、近くのスナックから呼び出しがあったり、あるいは酒瓶持参
 でこちらに来ることになる。
・夜十時を過ぎると、真っ暗になる道であるが、今夜は両脇の家々に暖かい灯がついてい
 る。この町も後継者問題が慢性化していて、多くの家は老人ばかりだ。しかし今夜は都
 会から、息子や娘たちが子どもを連れて帰ってきたのだろう。このあかりは、つかの間
 の幸福のあかしなのである。   
・高校時代から付き合いを実らせて結婚した佐知は、すぐに母親となり円満な家庭を営ん
 でいる。別居して家を建ててもらい、優しい夫と可愛い三人の子どもという、あまりに
 もスムーズに手に入れた幸福は、佐知をいささかつけ上がらせていたらしい。その相手
 とは半年ほどの付き合いだという。時々出かけていく石和のスナックで知り合ったとい
 う男は、東京からの出張族だ。日帰りで甲府に来る彼と、石和のモーテルへ出かけた。
 しかし今まで非常にうまくいっていた情事に、思わぬところから大変な危機が訪れた。
・少女の頃からよく知っている佐知は消え、全く別の女が目に前に出現したかのようだ。
 黄色をまとったその女はなぜか先ほどからじわじわと映子を圧迫している。体臭の入り
 混じった温かさを感じ、映子は息苦しさのあまり吐きそうになった。同級生で同じよう
 に母親となっても、都会で暮らしてきた美和子と佐知とは、老いていくスピードがかな
 り違う。美和子にある、ぴんと張りつめた直線が、地元の農家の妻となった佐知には少
 ない。よく動く黒目がちの目が愛らしいといえば愛らしいが、近頃めっきりと肉がつい
 てきたとこぼす小太りの体といい、中途半端なパーマの髪といい、平凡でゆるやかな母
 親だ。この佐知が密かに不倫を重ねていたとは、まだ映子には信じられない。これほど
 近しい友人が、ドラマに出てくるような秘密を持っているなどというのは、本当のこと
 だろうか。浮気が露見しそうになった時、佐知は夫婦いきつけの店に飛び込み、とりあ
 えずアリバイをつくろうとしたのだ。これはやはり知恵というものだろうか。
・佐知の夫はため息まで、人のよさそうな穏やかさだ。ふと”間男”という言葉が浮かん
 だ。知識としては知っていたが、接するのは初めてである。ハメをはずして、あなたの
 妻は浮気をしたんですよと映子は口にしてみたい誘惑にかられる。
・浮気をする人妻の話など、いやになるほど耳に入ってくる。先日も近くのドライブイン
 の若女房がさんざんもめた挙句、夫と離婚したというニュースが流れたばかりだ。彼女
 は店に来る常連のひとりと恋仲となり、今はもう一緒に暮らし始めているという。
・噂になっている女たちは町で何人もいる。が、こうした女たちはいつも自分と遠いとこ
 ろにいると映子は考えていた。自分の家族、幼なじみ、そして近所の顔見知りの人々は、
 あくまでも噂をする側であり、決して当事者にはならないものと信じていた。ところが
 どうだろう。平凡な農家の妻で、幸福な母であったはずの佐知が、密かに情事を重ねて
 いたというのである。
・高校時代の恋を実らせた自分たちの律儀さや純粋さを、佐知はよく惚気たものではない
 か。それなのに今や、そのことを恨みがましく佐知は言いつのる。「ねえ、映子ちゃん、
 こわくない。このままさ、ただ年をとってくばかりの人生、すごく嫌だと思わない」
・このまま三十代後半になり、そして四十代になることは、嫌だといえば確かにそのとお
 りだが、しかし年をとることは人間ならば避けられないことだ。もっと別の人生もあっ
 たかもしれないが、生まれ育ったこの静かな町で、ともかく夫がいて、自分の親の近く
 にも住める幸福というのは、何もにも替えがたいような気がする。
・幸福かどうかなどというものは、毎日ぐらついている秤のようなものかもしれない。そ
 の時々の出来ごとで、片方が重くなったり、軽くなったりするのだ。
・いくら近代的になったといっても、農家の長男の嫁が子どもを産めないつらさはやはり
 ある。実家の母親もそれは同じらしく、「県立病院でも行ったらどうかね」と遠慮がち
 に何度も言ったものだ。しかし実の母親と姑に言われることの重みはまるで違う。
・映子は再び思う。幸福かどうかを計る秤は、いつもぐらつく。しかし幸福という方に安
 定した重しになるものがあり、それが子どもというものかもしれない。その重しがない
 からおそ、自分は人の言葉、人の行為で、こうしてぐらりぐらりと揺れてしまうのだ。
 しかし、三人の子どもという重しがあった佐知も、ぐらりと反対側にかしいでしまう。
 本当に人間というものは、どうしたら芯から幸福になれるのだろうかと、映子はちいさ
 なため息をついた。
・農家の娘に育ち、農家に嫁いだといっても、映子はほとんど土をいじったことがない。
 実家の両親、こと母親が映子が畑に出るのを嫌ったのだ。同級生の話を聞いてもみんな
 そうらしい。よほど忙しい時に、申しわけ程度に手伝ったくらいだ。短大時代や保母時
 代には、全くといっていいほど畑に行った記憶はなかった。
・姑は昔から、佐知の開けっぴろげな性格が気に入っているのだ。それよりも好ましいの
 は、佐知が三人の丈夫な子供を産んだことであろう。息子の嫁がこっちの方だったらよ
 かったのにという考えが時折通り過ぎるはずで、そんな姑に佐知が他の男とモーテルへ
 行っていることを告げたらどんな反応をするだろうかと、ふと映子は意地の悪い考えを
 持つ。   
・東京から出張してくる男と不倫をし、こっそりとモーテルに行くような女。それが露見
 しそうになった時、大あわてで電話をかけてきてアリバイを頼んだ女。その女が、娘の
 入学式に何喰わぬ顔を出席し、しゃあしゃあと赤飯を持ってこの場にいる。さっきから
 の居心地の悪さは、実はその嫌悪感なのだとやっと気づいた。
・四月の甲府盆地は、ところどころピンクの絨緞を敷き詰めたようになった。杏やスモモ
 の白は、さしずめ絨緞のへりになるだろうか。桃の美しさを清楚にひきたてている。
・男の言葉に、映子は心臓がとまりそうになる。結婚してからというもの、映子は男から
 名前を呼ばれたことがほとんどなかったからだ。この男は自分のことをからかっている
 のだと映子は思った。これで会うのは二度目の女、しかも自分は三十過ぎの人妻なのだ。
 何の魅力もないことは自分自身が一番よく知っている。現に夫さえ、他の女に心ひかれ
 ているではないか。
・この男の人は、私を慰めようとしているのだ。おそらく寂しげで、不幸そうに見える葡
 萄酒屋のおばさんのことが気になったのであろう。おそらくやさしい男なのだ。この東
 京から来た男が、自分に興味を持っているなどと、一瞬でも考えたりして何と馬鹿なの
 だろうか。好意や興味というものには戸惑ってしまうが、同情というものだったら、今
 の自分にはふさわしいものかもしれない。若い娘だったらみじめに考えただろうが、映
 子はそれをありがたく受け取ることにした。
・彼が独身がどうかということは、映子の密かな疑問であったのだが、これではっきりし
 た。しかも離婚経験者というのは、映子に甘やかな安堵をもたらす。ただの独身という
 よりもはるかによかった。
・映子は深いため息をつく。自分が男から、こんな風に言葉をかけてもらうとは思っても
 みなかった。思い出してみても、少女時代、美和子のように男の子から騒がれたことも
 なかった。短大時代、しつこくつきまとった男がいることはいるが、何の好意も持てず、
 きつくはねのけてしまった。これといった恋愛もしないまま高校の同窓生と平凡な結婚
 をした映子にとって、渡辺の言葉はあまりにも強烈であったのだ。
・映子は自分たち夫婦が先週出かけた先が、どんなところだったか、ふと美和子に打ち明
 けたい衝動にかられた。不妊治療専門病院のベッドの上で、どんなことが行われたかを
 だ。それは洋一の方も同じだったようで、すっかり不機嫌になった彼は、帰りの車中、
 ひと言も口をきかなかったものだ。男性側を調べるためには、精子を採取しなくてはな
 らないのだ。まさか病院で夫婦が性行為を出来るわけもなく、夫の方はトイレに入り、
 自分の手で刺激し、それをビーカーに採ることになる。洋一の性格上、そのようなこと
 は、耐え難いことに違いなかった。
・姑の親戚から紹介された病院は市ヶ谷というところにあったが、地図をみるまでもなく、
 そこは渡辺の会社がある飯田橋と近いことはすぐにわかった。
・映子はタクシーに乗って駿河台のホテルへ行くことになった。大学の裏に、こぢんまり
 とした古風なホテルがあった。このホテルの名前を映子は何度か聞いたことがある。作
 家たちが原稿を書くためによく泊まるホテルだという。
・医者は言った。妊娠する可能性はほとんどないのだ。それも洋一が原因だった。なんと
 いう皮肉だろう。嫁としてずっと責められてきた映子であるが、何の非もなかった。夫
 が、洋一が、映子の不幸の種をつくっていたのだ。
・こうしていると、さっき病院で知らされた夫の不妊という事実を、いくらか離れた場所
 に置くことができる。決して忘れたわけではないが、今はアルコールの力とここと連れ
 てこられた緊張感が、そのことを考えてはいけないと拒否している。
・「この頃、子どもの泣いているところをあんまり見ないと思いませんか。僕たちの子ど
 もの頃は、身も世もないぐらい泣いていたし、そういう子どもをいくらでも見ることが
 できた。ところが今、そんな子ども、一人もいやしない。きっと泣き出す前に、親が何
 でも与えてしまうんでしょう。だからなくこともない、大人だってそうだ。泣いている
 人をあまり見たことがない。」と渡辺は言った。
・泣く人が住まなくなっているという社会現象から、彼は自分に同情したのだろうか、そ
 れとも単に映子が泣いている事実が、彼の心を揺さぶっているのだろうか。
・「すぐそこに神社があるんですよ」有無を言わせずという感じで、渡辺は映子の腕をひ
 く。そのまま小さな路地を歩いて行くと、思いの他に大きな鳥居があった。赤い幟が夜
 目にもくっきりと見える。神社の敷地はかっきりと四角く、その四角いままに闇が横た
 わっていて、そこに足を踏み入れることに映子は一瞬ためらった。
・その時、闇は一層深くなった。映子は突然肩をつかまれる。唇に熱いものを感じた。な
 んと渡辺は映子に自分の唇を押しつけたのだ。信じられない、こんなことがあるはずが
 ないと思うと、いや自分はさっきからそのことをずっと予感していたのだという思いと
 がいっぺんにわき起こり、映子を混乱させる。そしてもっと信じられないことに、自分
 は身をよじったりはしていない。それどころか唇をかすかに開け、男の唇を受け容れや
 すくしているのだ。眼を閉じているからあたりの闇は見えない。その代わり、頭の中に
 白い闇が生まれている。まるでこの世のものとは思えない時の中から発生している白い
 闇だ。
・映子が初めてキスをしたのは、短大に通っていた頃、しつこく追ってきた大学生とたわ
 むれにしたのが初めてだ。キスをしたという興奮はあったものの、感動や喜びからはほ
 ど遠いものだった。それよりもはるかに胸がときめいたのは、夫の洋一と婚約中にした
 キスだろう。あの朴訥な夫が、いきなり男の顔を見せ、自分の唇を激しく吸った時、映
 子はどれほど嬉しかったことだろうか。その二週間後、ドライブに行った先のホテルで、
 初めて洋一と結ばれたが、その時よりも喜びが勝っているかもしれない。
・自分はあの人たちの知らないところで、とんでもない経験をしたのだ。おとなしく普通
 の女だと思われている自分が、こんな裏切りをしたと知ったら、あの人たちは何と思う
 だろうか。裏切り、自分が浮かべた言葉に映子は怯える。やはりこれも裏切りで不貞と
 いうものだろうか。この町にも、男の人と事件を起こした女たちは何人もいる。つい近
 所の若い農家の妻も、三人の子どもを置いて他の男に走ったのだ。今まで映子は、そう
 した女と自分とは別の人種だと考えていた。人間が平等だなどというのはどんでもない
 話で、劇的な人生をおくる人間と、そうでない人間というのは最初から決められている
 のだ。自分などは生まれた土地に住み、昔から知り合いの男と結ばれるように運命づけ
 られているのだと思っていた。ところがどうだろう、二日前、自分は東京のしゃれた店
 で酒を飲み、その後男に抱かれたのだ。そんなことがあってよいのだろうか。
・渡辺はたわむれに自分とキスをしたことを後悔しているのではないだろうか。そうだ、
 あの時彼は酔っていた。醒めてみると、どうしてあんなことをしてしまったのだろうか
 と舌打ちしているのではないか。このあいだまでのときめきや高揚は、あっという間に
 失望に変わった。失望、そう、映子は失望しているのである。医師から夫の不妊を告げ
 られた時も、夫の不貞の噂を聞かされた時も、これほど深い失望を感じなかったような
 気がする。映子は初めてわかったのであるが、失望というのは自分がたまらなく小さく
 卑しく、みっともなく見えることなのである。
・突然、渡辺から電話をもらってた映子は「バンザーイ!」と叫びたい気分になった。体
 全体が嬉しさのあまり大きく波うっている。どうしたことだろう。罪の意識などまるで
 無くなっているのだ。渡辺とキスをしたあの夜、映子の中で空怖ろしい思いが生まれて
 いたのも事実ではなかったか。夫がいる身の上の自分が、他の男の唇を受けたという事
 実が映子を怯えさせた。ところが長いこと待ち、男のことを忘れようと努めていた頃に
 誘いの電話が入った。そのとたん、映子はすべてを許し、単純に喜びにひたっているの
 である。
・渡辺は無言で車を発進させる。国道といっても暗い道だ。すれ違う車のヘッドライトが
 とてもまぶしい。車はやがて川にたどりついた。このあたりはいわつるラブホテルが三
 軒ほど密集している。どこのネオンも、まるでおもちゃ箱をひっくり返したような色彩
 だ。青に赤に紫色と、けばけばしいけれど子どもっぽい。映子はふとこの乗っている車
 が、そのうちの一軒に吸い込まれていくのではないかという畏れを持った。もしそうな
 ったら、自分は抵抗することが出来るだろうか。自分は心の底から夫を裏切ってはいけ
 ないと思うだろうか。そんなことは映子にはわからぬ。わかっているのは、渡辺が自分
 のことを決してホテルなど誘わないということである。なぜだかわからぬが女の勘でわ
 かる。渡辺は自分と接吻はしてもそれ以上のことをおそらく望まないはずだ。まるで鏡
 を見るように、相手の臆病さが映子にはわかる。
・河原は月の光で青白く輝いていた。まだかよわい背丈のススキが斜めのまま揺れている。
 彼はその傍で車を停めた。初めて素直になった映子に、男は手をさし出す。肩をつかま
 れ唇を重ねられた。酒気を帯びていないから、このあいだよりもはるかに乾いている唇
 であった。 
・佐知はとても若く見え、愛らしいといってもいいぐらいだ。子どもたちの成績もよく夫
 婦中も円満で、何の不自由もしていないように見える彼女が、裏で不倫をしていたとは、
 いったい誰が想像しているだろうか。佐知と相手の男とは、映子たちが完全にその存在
 を無視したラブホテルに行く仲なのである。
・映子は今年の冬の、佐知の狼狽ぶりを思い出した。浮気がなれそうになり、大あわてで
 映子にアリバイづくりを頼んできた時のことだ。罪を持つ人間に限って、どうして他人
 の愚かさを許さないのであろうか。他人の秘密をあれこれ噂するのだろうか。
・全く自分でも驚くほど、的確で上等の嘘がすらりと出た。好きな男からの電話を、姑の
 前で受け取るという異常事態の前で、映子の頭脳は別人のように働き始めているのだ。
・自分の目の前にいる姑を、決して嫌いではないとふと思う。ただ好きではないというだ
 けだ。かれどもその好きでない女とふたりきりで、映子は何度も何度も夕飯を食べなけ
 ればならない。その理不尽さと引き替えに、汁を飲みながら好きな男のことを考える。
 それはおそらく許される行為に違いなかった。
・この奇妙な喜びと意地の悪さをどういったらいいのであろうか。映子は楽しくてたまら
 ぬ。どうやら夫は失恋をしたらしいのだ。相手の女は、現に別の男の子どもを宿してい
 るというのだ。これが愉快でなくて何だろう。
・いくら大人になって疎遠になっていたといっても、自分と美和子とは高校時代からの友
 人であった。親友と呼ぶには性格が違い過ぎていたが、佐知と三人、仲よくしていたこ
 とは事実だ。美和子が離婚してこちらに戻ってきてからは、科に加と親切にし、町の噂
 からも庇ってきたのではないか。それなのに、美和子は、夫と関係を結んだのだ。しか
 も本気ではなかった。もし美和子が真剣に洋一のことを愛していたならば、映子は彼女
 のことを許したかもしれぬ。いや、多分許さなかったであろうが、これほどの嫌悪は持
 たなかったに違いない。夫も憎く、美和子も憎い、二人への憎しみは、二乗となって映
 子の胸に押し寄せてくるのであるが、感情をそう重ね合わせていると考えることも、身
 震いするほど腹が立った。
・この町のことに限らず、人間関係というのはとかく建前を大切にする。ある一定以上に
 感情を露出すると、後で取り返しがつかないことになるというのは、三十年以上生きて
 きた映子が身に付けた知恵である。
・映子はすべてを知ってしまったのだ。すべてを知ったら、愛人よりも妻の方がはるかに
 強い。昨日から映子は、自分が大きく変わったと思う。美和子と夫との不倫をもっと別
 の形で知ったら、自分はこれほど怒ることはなかったはずだ。夫の告白という形だから、
 自分はこれほど強い憎しみに揺さぶられているのだ。
・三十四歳の美和子には、狡さとしたたかさが加わっている。「それにたった二回だけだ
 よ。映子には本当に悪いと思ってるけど、あれは何ていうのかなあ、大人のはずみって
 いうもの、私はすごく淋しかったし、おたくのダンナはすごくやさしかった。それだけ
 のことよ。だって私、あの時のこと、ほとんど覚えていないもの。大人のちょっとした
 出来ごとって感じだったの」美和子の言うことを、映子はほとんど理解できない。全く
 違う価値観を持った異星人の言葉のようだ。怒る以前にまず理解できなかった。「勝手
 なことに違いないけど、男と女って規則どおりにいかないことがいっぱいあるでしょう。
 ある日ちょっとだけルールをはずしちゃったっていうことだよ」美和子の身勝手さに、
 映子はただ呆然としている。
・その時、目がくらむような怒りが映子を襲った。映子は歩きかけた美和子の背に手をか
 ける。思いきり強く推した。バランスを失った美和子は、ずるずると芝生を落ちていく。
 美和子は無言のままで、大きな悲鳴をあげたのは映子の方であった。ただ草の音だけが
 した。とてもおおきな音だ。巨大な獣が草の上を走っていくようである。青い色彩が丘
 の上を転がっていくのが見えた。それが美和子の着ていたものだとわかるまで映子は時
 間がかかった。すべてのものがスローモーションのようにゆっくりと動いていく。人の
 ざわめきも暮れかかった陽の光も確かにそこにあるのに、膜を一隔てているように感じ
 られる。美和子は丘を下がりきったところに倒れていた。ぴくりとも動かない。
・恐怖のあまり息が出来ない。美和子が死んでいるということは、映子が殺したというこ
 とになる。自分は殺人者になるということなのだろうかと映子は後ずさりする。殺すつ
 もりなどまるでなかった。ただ夫とのことに逆上し、気がついたら美和子の背を押して
 いたのだ。どうしてこんなことになったのかわからない。
・夫は驚き、声を失うに違いない。けれどもそれは、すべて彼が原因なのだ。洋一はこと
 もあろうに、妻の友人に心を移し関係を結んだ。ただの浮気でも妻は口惜しく悲しむも
 のなのに、夫はその女に憧れという深い思慕を抱いている。憧れというのは、理性や道
 理をいっさい排除しるほど強固なものだ。錯覚と思い込みで出来ているからこそかえっ
 て強い。  
・肉体の結びつきが失くなった夫婦は、感情が薄くなるかというとそういうことはない。
 かつて美和子と結ばれたことを洋一が告白した時、映子は逆上した。怒りで我を忘れる
 というのはこういうことかと思ったほどだ。そして今、同じ激しさで映子は夫をせつな
 く見ることがある。汗ばんだ肌と広い肩を持ったこの男は、自分ひとりだけのものだと
 思う。この男を一時的にせよ、他の女に渡すぐらいなら、自分は何をするかわからない
 だろう。
・あの日美和子を突きとばした自分の心の中に、子どもを産めない女の嫉妬が込められて
 いただろうか。夫と別れても、なお他の男の子どもを楽し気に産もうとする美和子が憎
 かっただろうか。   
・心の底から自分は不幸だと思った。前からおそらく気づいていたのであろうが、今まざ
 まざと思い知らされた。映子の不幸は何重構造にもなっていて、すっかりおおきくねじ
 れてしまっているのだ。夫に裏切らせた悲しみに、子どもを産めないつらさ、そしてそ
 の不妊の原因は、他の女に心を移した夫の方にあるという複雑さ、しかもその相手の女
 は自分の幼なじみで、今は別の男の子どもを宿している。
・いま映子をみじめさのからみから救ってくれるものがあるとすれば、それはあの体験を
 再び持つことである。夫によって得た悲しみを忘れるために、別の男と会おうとしてい
 る自分を、映子はそう不思議なことは思わない。他にいったいどんな方法があるという
 のだろうか。こんなに心が乾いていて、涙も出ない。こんな時に夫以外の男から、甘美
 なやさしさを貰うことがそれほどいけないことだろうか。
・渡辺はつかつかとフロントに向かっていく。映子はロビーにひとり取り残された。驚き
 と不安のために倒れてしまいそうだ。息が出来ぬほど苦しい。それなのに頭のどこかで
 ふわふわと踊っているものがある。酔いのせいだ。酔いが自分から冷静な判断を失わせ
 ているのだ。それにしてもたくさんの人たちがこのロビーを行き来している。もしかす
 ると知っている人間がいるかもしれない。不倫をしようとする人妻は、ホテルで必ず誰
 かに目撃されることになっているのだ。
・ドアを閉めたとたん、映子は強い力で渡辺に抱きすくめられた。渡辺の舌はとても熱い。
 まるで昼の太陽の余熱を口の中にくわえているようであった。そしてそれは上下に何度
 も動く。今まで彼がそんなキスをしたことはなかったから、映子は驚きのあまり歯をき
 つく閉じた。すると渡辺は映子の顎を手に持ち、顔を上向きにした。瞼に強く唇を押し
 あてる。今度は頬を軽く吸った。それで映子はあっと小さく叫んだ。その隙に渡辺はも
 う一度口の中に舌をさし入れる。
 彼の舌は小さな生き物のようにちょろちょろと動く。その巧みさが映子を不安にした。
 初めて夫以外の男に抱かれるかもしれないのだ。あまりの手練れさは、映子の場合弄ば
 れているのだろうかと疑いに通じるのだ。
・渡辺の手はさらに進み、映子の左の乳房をつかんだ。映子の心臓が大きな音をたててい
 る。頭が真白だ。何も見えない。それなのに夫の姿だけがくっきりと浮かんでくる。
 もし渡辺の手がこれ以上進んだら、自分はもうあの笑顔に二度と会うことが出来ないか
 もしれない。自分は素知らぬ顔をして、夫の前に帰ることは出来ない。絶対にできない。
 「渡辺さん、やめてください。お願いします」思いがけない素早さで、渡辺の手が映子
 の胸から離れた。
・映子には無理であった。接吻は何度でもできる。それは信じられるほど大きな幸福をも
 たらしてくれた。けれども映子の肩を抱く渡辺の手が、ブラウスのボタンに伸びた時、
 映子の中で大きな拒否の声があがった。自分でもどうすることもできないほど強く大き
 な声だ。理屈でも何でもない、映子の心と体が嫌だと叫んでしまったのだ。
・その後、映子のとった行動は自分でも驚くものであった。映子は首を伸ばし、自分から
 渡辺の唇に自分のそれを押しつけた。激しく吸う。今の涙が入り混じって、映子の舌も
 男の舌も塩辛くなった。これで嫌われたくないと映子は思う。これですべて終わりにな
 るのだけは絶対に避けなければならなかった。
・人妻が他の男に抱かれるという事件は、いつも突然に起こることらしい。それに対して
 自分はまだ心の準備が出来ていなかったのだ。それならば準備が整っていたら、渡辺を
 迎え入れることが出来るかというと、やはり自分は拒否するに決まっている。けれども
 これですべておしまいと思われるのが映子にはつらい、だからほんのわずかな可能性と
 いうものをほおめかしてしまうのだ。
・佐知は高校時代からの恋を実らせ、少女の頃から好きでたまらなかった男と結婚した。
 そしてすぐに三人の子どもの母親になり、親の近くに住むという境遇を手に入れた。こ
 れはこのあたりでは理想的とされる結婚である。けれども佐知は、確かに自分に惚れて
 きっている幼なじみの夫をなめていたのである。そうでなかったら、家の近くで男と会
 うなどという愚かしいことをするはずがなかった。露見したらすべてを失ってしまうの
 だと映子は忠告したのであるが、それはどうやら無駄なことになってしまったようだ。
・この町で生まれ育った女が不倫をし、それによって夫と別れるようなことになれば、も
 うこの町に住んでいられるはすはなかった。美和子のスキャンダルが比較的大目に見ら
 れているのは、それが東京で行われたことだからだ。この町で結ばれたカップルなら、
 とうてい許されることではなかった。
・しかし、事態は違っていた。浮気がバレたのは佐知の夫のほうだった。「あそこの宏さ
 んがフィリピンパブの女の子に入れ揚げて、アパートを借りてやったりしていたんだよ。
 それで佐知ちゃんはもうカンカンなんだよ。そうだねえ、ずっと信じてた亭主に裏切ら
 れたんだからさ」 
・佐知の浮気だったら、美佐子はこのように楽し気に締めくくるであろうか。ことは深刻
 になり、佐知はとんでもない淫乱女ということになってしまうはずだ。自分も犯した罪
 かもしれないと思うと、映子は動悸が激しくなってくる。難を逃れたという思いではな
 く、ただ不思議なのだ。男の浮気に対してはどうしてこのように寛容なのに、女のそれ
 は許されないのだろうか。いや、浮気ではない。本気で愛したのだと言ったとしても、
 世間は許してくれないだろう。いつもちゃっかりしている佐知はそのことに気づき、い
 ち早く被害者の側にまわったのである。    
・何てくだらない世の中なんだろうか。人間の真実の感情を確かめることもなく、すぐに
 善悪をつけたがるようのだ。こういう世間を相手にして、せせこましく生きている自分
 もくだらないが、しかしあの時渡辺を拒否したのは、自分のそうした小心さではなかっ
 たかと、映子の思いはすぐそこに行ってしまう。世間が怖かったからではない。夫を失
 うのが怖かったのだ。けれどもその夫の心は、別の女にとって占められているのだ。そ
 の女がもうじき結婚し、そのお腹の中には相手の男の子どもがいる、ということがわか
 っても夫は彼女が忘れられないのである。
・普通、誠意というものは、罪を犯さない潔癖さのことを言うのであろうが、洋一の場合
 はその罪を包み隠さず喋ろうとする正直さと愚直さである。それにいささか甘えも加わ
 っていた。洋一はなんと妻に、恋を失った自分の話を聞いてもらいたいのだ。それが妻
 をどれほど苦しめるかわかっていても、彼は喋らずにはいられない。なぜならば、美和
 子のことは、彼にとって初めての恋だからなのである。そうなのだ。美和子との情事は、
 洋一にとって「好きな女を抱く」という初めての幸福をもたらしたのだ。だから洋一は、
 いつまでも子どものように美和子の心を追い求めているのである。そんな夫の気持ちの
 綾が、映子には手に取るようにわかる。なぜならば、映子も人を好きになったことがあ
 るからだ。
・映子は洋一を許そうとはしていなかった。ただ洋一に縋ろうとはしている。なぜならば
 渡辺に抱かれ、彼を拒否した時にわかったのではないか。自分が愛して、自分が心から
 欲しているのは夫ひとりしかいないということだ。だから洋一がどんな形であれ、自分
 を受け容れてくれなくては困るのだ。映子は行き場所を失くしてしまうのである。
・「「別に私のことが心配だったわけではないさ。近所の人がどう思うか、それがこわか
 ったんだよ。」家に着いた途端、姑から浴びせられた言葉は決して自分の身を案じたも
 のではなかった。あんたのような勝手で我儘な嫁はいないとさんざんなじられたばかり
 だ。   
・長い間、姑は子どもが出来ないことを映子のせいにし、不満を口にしていた。とろが原
 因は息子の方にあることがわかった。そのことはどうやら大きな衝撃を姑に与えたよう
 だ。姑のこのやさしさというのは、ひけめというものが生み出したものなのである。 
・密室まで従いていきながら、自分は渡辺を拒否してしまったのである。あの時の心を映
 子はまだ整理することが出来ない。渡辺に口づけされ、そのままベッドに倒れ込む瞬間、
 映子は少年の日の夫の姿を思い出したのである。洋一にもはっきり言ったことはないが、
 夫は映子の初恋の男であった。あの記憶から、現在の生活にも耐えられるのだ。洋一と
 もう一度やり直していくつもりになったのである。しかし、夫も心は他の女のまわりを
 漂っている。その女は別の男の子どもを妊み、日いちにちとお腹が大きくなっていくと
 いうのに、夫の心はまだ未練たらしく美和子の方を向いたままなのである。
・霧に濡れた葡萄園を見ていると、その美しさにはっとすることがあります。およそ畑と
 いうものの中で、葡萄園ぐらい美しいものはないのではないでしょうか。緑いっぱいの
 葡萄園もいいけれど、秋から冬にかけての葉の落ちた葡萄園もしんみりとしていいもの
 です。 
・停まっていることよりも、常に歩いていることを望む人間がいる。美和子はそうした一
 人なのだ。損をするとわかっていても、世間から後ろ指をさされようと、美和子は歩か
 ずにはいられないのだ。
・渡辺は自分の服を脱いでいくように、映子のきているものを取り去っていく。無言のま
 までだ。こういう時、三十代の人妻に必要な体に対する賞賛も彼は口にしない。映子も
 聞きたくはなかった。以前だったら、そうした言葉に縋ろうとしただろうし、それによ
 って自分を励まそうとしただろう。けれど渡辺とのこうした行為は、無言でいるのが一
 番正しいのだと映子は思う。渡辺が言わなくても、自分の裸身は大層美しいのだ。それ
 は彼の指の動きや息遣いが語っているではないか。
・映子はたとえようもないほど自分が美しい女だと確信を持った。そう大きくもない乳房
 や、最近気になっているウエストのあたり、それがいったい何なのだろう。そんなもの
 は全く些末なことではないか、今、渡辺の魂と映子の魂とが交わっているのだ。魂の次
 元で、渡辺は映子の体を味わい、愛おしんでいる。そんな彼に、現実の肉体など些細な
 ことであるはずであった。やがて彼は映子の中に静かに入ってきた。映子の内部でかす
 かな変化が起こったが、それは二人の静謐を妨げるものではなかった。映子は夫との交
 わりで、二回に一度ぐらいの確率で本物の快楽を得る。が、今はそんなことがないこと
 を祈った。なぜならこのおだやかな部屋を、じぶんのあえぎ声で消したくはなかったの
 だ。
・どのくらいそうしていただろうか、随分長い時間が過ぎたと思った時、渡辺の体が映子
 から離れた。映子は終わったことを知る。結局渡辺は射精することなく、映子も達する
 ことなく終わってしまったわけであるが、それがいちばん二人にふさわしい行為であっ
 た。その代わりセックスの最中よりも、終わってからの方が二人は激しく体を動かした。
 ずっと口を吸い合いながら、映子が上になったり、渡辺が上になったりした。やっと目
 的を果たした二匹の若い動物のように、そのことを祝福し合った。
・私は不倫をしたんだ。世の中でいけないってされている不倫をしたんだ。本当だったら、
 婚家から追い出されても文句は言えない罪を犯したのだ。それなのに映子は平然と、こ
 うして家に向かっていくのだ。映子には自信がある。家に着いても自分は動揺すること
 もないだろう。夫や姑の目をはっきり見ることも出来るはずであった。
・死期が近づいている男は、現実の男ではない。だからその男に抱かれても、自分は罪を
 犯していないと、もしかしたら居直っているのだろうか。   
・初めてあなたに出会った時、私は孤独でした。家族に囲まれていたけれども、やっぱり
 ひとりで、私の居場所はどこにもないのではないかとさえ思っていました。その私を変
 えてくれたのはあなたなんです。私ははっきりとわかります。あなたが私を見つけたん
 じゃない。私があなたを見つけ出したんです。あなたは私に何てたくさんのものをくれ
 たんでしょうか。それは感謝しきれないぐらい大きなものです。私はあなたによって、
 私自身をつかまえることが出来たんです。だから私たち二人が結ばれたのはとても自然
 なことだと思うんです。私は後悔どころか、とても嬉しかった。でも、これだけは言っ
 ておきたいの。あなたに抱かれた時、私はやっぱりひとりだと思った。でもこれはとて
 も嬉しい発見でした。自分を幸せにするのは、私しかいないっていう、こんな当たり前
 のことがやっとわかったんです。私はひとりで幸福になって、ひとりでちゃんと生きて
 いって、その上であなたと愛し合う、そんな人間になろうと決めました。そしてそのこ
 とを教えてくれたのはあなただったんです。
・不幸なことなど何ひとつなかったのに、どうして自分はあれほど考えるということをし
 たのだろうか。そしていったい何を考えていたのだろうか。まるで思い出せない。おそ
 らく他愛ないことだったに違いない。ただひとつわかることは、考えたくないほど不幸
 なつらいことに、少女時代はあわなかったということだ。
・幸せにならなくてはならない、と思って映子は家を出た。けれども幸せにはなれなかっ
 た。都会の片隅でひとりぼっちで生きていくには、映子は何か大きなものが欠けていた
 し、何かが豊か過ぎた。幸せになるために映子は別のことをしなくてはならないのだ。
 夫とやり直すことはその選択肢の中になる。映子は素直にそのことを認めた。
・やっぱりこの人とではくては幸せになれないのだ。だからこの人と共に生きていくしか
 ないと思ったとたん、映子は夫の胸になだれ込んだ。やはりあの町でなくては幸せにな
 れない。生まれ育ったあの町で、自分はやり直さなくてはいけないのだ。