Black Box  :伊藤詩織

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この本は、筆者が自ら体験した強制性交事件の全容を記したものである。
この事件について、顔を出して行った記者会見の様子は、私もテレビで観た。
強姦被害者の女性が、テレビに顔を出して記者会見を行うということは、まさに前代未聞
のことだったと思う。しかもその女性は若く、そして女優ではないかと思えるほどの美形
だった。
さらに驚かされたのは、その強姦の加害者と言われる人物がテレビにも出る著名人で、し
かも現政権である安倍首相の「お友だち」と言われている人物だったので、社会に大きな
衝撃が走った。
筆者が、これからの自分の人生を賭けて行われた記者会見であったが、その後、この記者
会見はいろいろな憶測を呼んだ。
この事件でいったん逮捕状が出たのに、それが土壇場で取り止められたのは、加害者の友
だちである安倍首相からの何らかの力が働いたのではないかという憶測がある。
一方、これは安倍首相を貶めるために行われたのではないかと疑いの声も上った。しかし、
真実は、今なお霧の中である。
最終的に、何が真実であるのか、その行方は別にして、このような性暴力について、筆者
は、自らの体験から、現在の日本社会における多くの問題点を指摘している。
例えば、被害者である筆者が、性暴力に遭った後に、どこの病院に行って何の検査をすれ
ばいいのか相談したいと思って、性暴力被害者を支援するNPOに電話したところ「面接
に来てもらえますか?」と言われたそのことである。もし、これがほんとうだとすれば、
こういったNPOの存在意義が問われる問題であると思う。
もっと被害者の立場に立った支援ができないと、形ばかりの支援になってしまうのではな
いのかと思う。
日本社会では、「臭い物には蓋をしろ」的な傾向が強い。このような性暴力についても、
あってはならないことと決めつけ、実際にそのような事件が後を絶たないにもかかわらず、
直視しようとせず、目を背け、被害者に対する救援対策がほとんど行われてこなかったの
が実情であろう。世界的に見ても、まったくお寒い状況なのがこの日本という国だ。
一般的に、強姦事件というと、道端で知らない人に突然襲われたというようなことを思い
浮かべるが、実態は、そのようなケースよりも、顔見知りの人からの強制性交がはるかに
多いとのことだ。
この本の筆者が強く指摘しているように、日本でも早急にレイプ緊急センターの全国的な
設置や、レイプキットの整備を行うとともに、法の再整備が必要であると思う。
今の日本は、このような被害者にすべてを押しつけてしまっていおり、さらにはそれの被
害者にセカンドレイプを行っていると言っても過言ではない。これでは被害者は救われな
い。
「女性活躍社会」などと「きれいごと」を言う前に、まずこのような圧倒的な後進国状態
をなんとかしなければならない。被害者の側に立った支援ができる国にしなければならな
い。

伊藤詩織さんの民事裁判を支える会


はじめに
・2017年5月、私は司法記者クラブで記者会見を開いた。私が被害を受けたレイプ事
 件が検察の判断によって不起訴処分となったため、警察審査会に申し立てしたことを報
 告する会見だった。
・当時、国会には強姦罪を含む刑法改正案が提出されていた。強姦罪を問う刑法は、明治
 時代に制定されてから、なんと百十年間も大きな改正をされずにきた。親告罪、つまり
 被害に遭った人が告訴しない限りは罪に問えないことも含め、旧態依然とした法律だっ
 た。
・法改正のみならず、性犯罪被害者に対する捜査のあり方、社会の受け入れ態勢など、改
 善していかなければいけないことが他にもたくさんあった。
・今の司法システムがこの事件を裁くことができないならば、ここに事件の経緯を明らか
 にし、広く社会で議論することこそが、世の中のためになると信じる。
・レイプという言葉を聞いて人が思い浮かべるのは、おそらく見知らぬ人から突然夜道で
 襲われるような事件ではないだろうか。しかし、内閣府の2014年の調査によれば、
 実際に全く知らない人から無理やり性交されたというケースは11.1パーセント。多
 くは顔見知りから被害を受けるケースなのだ。警察に相談に行く被害者は全体の4.3
 パーセントにしか及ばず、そのうちの半数は、見知らぬ相手からの被害だ。
・顔見知りの相手から被害を受けた場合は、警察に行くことすら難しいことがわかる。
 そしてもし犯行時、被害者に意識がなかったら、今の日本の法制度では、事件を起訴す
 るには高いハードルがある。
・私は、ジャーナリストを志した。アメリカの大学でジャーリズムと写真を学び2015
 年の帰国後は、ロイターのインターンとして働き始めた。そんな矢先、人生を変えられ
 るような出来事があったのだ。
・これまでおよそ六十ヶ国の国々を歩き、コロンビアのゲリラやペルーのコカイン・ジャ
 ングルを取材したこともある。 しかし、こうした辺境の国々での滞在や取材で、実際
 に危険な目に遭ったことはなかった。私の身に本当に危険がふりかかってきたのは、ア
 ジアの中でも安全な国として名高い母国、日本でだった。 
・性暴力は、誰にも経験して欲しくない恐怖と痛みを人にもたらす。そしてそれは長い間、
 その人を苦しめる。
・2017年の刑法改正で、「強姦罪」「準強姦罪」という罪名はそれぞれ、「強制性交
 等罪」「準強制性交等罪」という名称に変更された。内容の大きな違いは、旧法では女
 性のみが対象の犯罪だったが、改正法では男性に対する行為も含まれること、「性交」
 の定義が広くなり、肛門、口腔に対する行為も対象になったことなどだ。
  
あの日まで
・2013年9月、私はニューヨークにいた。大学でジャーナリズムを写真を学んでいた。
 学費の支払いに追われ、生活は常に厳しいものであった。そこで、翻訳、ベビーシッタ
 ーとぴあのバーでのバイトをしていた。バーの方は帰宅が深夜になるため、当時一緒に
 住んでいたパートナーは心配した。しかし、ベビーシッターに比べれば、こちらの方が
 時給はずっと高かった。
・バーは、ニューヨークを訪れる様々な職種の人たちの話が聴けるし、働いている人にも
 それぞれ夢があり、楽しい職場だった。私があの山口敬之氏に初めて会ったのは、その
 店だった。いっしょにいたお客さんが山口氏を指して「この人はTBSのワシントン支
 局長だよ」と言った。山口氏は名刺をくれ、「機会があったらニューヨーク支局を案内
 するから、ぜひメール下さい」と言ってくれた。
・再会の時は意外と早くやってきた。まだ秋が終わらないうちに、ニューヨークを訪れた
 山口氏から連絡があったのだ。喜んで、二人のいる日本料理屋に行くと、二人はもう食
 べ終わるところだった。私はすぐに出て来るデザートだけオーダーし、自己紹介を済ま
 せた。
   
あの日、私は一度殺された
・就活中に山口氏に相談にのってもらったところ、山口氏からTBSワシントン支局であ
 ればインターンあら即採用できるとの話があり、恵比寿で会うことになった。入ったの
 は、アットホームでフレンドリーな女将さんのいる小さな串焼き屋だった。これまでの
 パターンや今日の目的からして、当然誰か別のTBSの人が一人か二人同席するものと、
 私は勝手にイメージしていた。「すでに飲んでいる」という言葉からも、数名と飲食を
 スタートさせているのだと思っていた。ところが、そこには誰もおらず、二人きりであ
 ることに内心驚いた。
・私は目の前に出された串焼きを5本ほど食べた。他に、もつ煮込みと叩ききゅうりがあ
 り、ビールを2杯とワインを1〜2杯飲んだ。小さなコップだったし、私はもともとお
 酒にはかなり強い方なので、酔いは回らなかった。
・一時間半ほどその店で過ごし、9時40分頃、歩いて5分ほどの距離にある鮨屋に移動
 した。鮨屋の奥まったカウンター席に座り、日本酒を注文した、少しおつまみで2合ほ
 ど飲んだが、なぜかお鮨はちっとも出てこなかった。鮨屋の主人は山口氏とは相当親し
 い様子だった。
・2合目を飲み終わる前に、私はトイレに入った。出てきて席に戻り、3合目を頼んだ記
 憶はあるのだが、それを飲んだかどうかは覚えていない。そして突然、なんだか調子が
 おかしいと感じ、2度目のトイレに席を立った。トイレに入るなり突然頭がくらっとし
 て蓋をした便器にそのまま腰かけ、給水タンクに頭をもたせかけた。そこからの記憶は
 ない。  
・目を覚ましたのは、激しい痛みを感じたためだった。薄いカーテンが引かれた部屋のベ
 ッドの上で、何か重いものにのしかかられていた。頭はぼうっとしていたが、二日酔い
 のようは重苦しい感覚はまったくなかった。下腹部に感じた裂けるような痛みと、目の
 前に飛び込んできた光景で、何をさえているのかわかった。気づいた時のことは、思い
 出したくもない。目覚めたばかりの、記憶もなく現状認識もできない一瞬でさえ、あり
 えない、あってはならない相手だった。
・棚の上に不自然に、ノートパソコンが開いて載せてあり、電源が入って画面が光ってい
 るのがわかった。その棚は、パソコンを置いて仕事をするような場所ではなく、椅子も
 置かれていなかった。こちらに向けた画面の角度から、直感的に「撮られている」と感
 じた。 
・私の意識が戻ったことがわかり、「痛い、痛い」と何度も訴えているのに、彼は行為を
 止めようとしなかった。一体なぜ、こんなことになってしまったのか、頭の中は混乱し
 ていたが、とにかくここから逃げ出さなければ、とそれだけを考えた。
・何度も「痛い」と言い続けたら、「痛いの?と言っても動きを止めた。しかし、体を離
 そうとはしなかった。体を動かそうとしても、のしかかられた状態で身動きが取れなか
 った。押しのけようと必死であったが、力では敵わなかった。
・私が「トイレに行きたい」と言うと、山口氏はようやく体を起こした。その時、避妊具
 もつけていない陰茎が目に入った。 
・とにかく、部屋を出なければならない。意を決してドアを開けると、すぐ前に山口氏が
 立っており、そのまま肩をつかまれ、再びバッドに引きずり倒された。抵抗できないほ
 どの強い力で体と頭をベッドに押さえつけられ、再び犯されそうになった。足を閉じ体
 をねじ曲げた時、山口氏の顔が近づきキスをされかけた。必死の抵抗で顔を背け、その
 ため顔はベッドに押し付けられた。
・体と頭は押さえつけられ、覆い被らされていた状態だったため、息ができなくなり、窒
 息しそうになった私は、この瞬間、「殺される」と思った。
・必死に体を硬くし体を丸め、足を閉じて必死に抵抗し続けた。頭を押さえつけらいた手
 が離れ、やっと呼吸ができた。「痛い、止めてください」山口氏は、「痛いの?」など
 と言いながら、無理やり膝をこじ開けようとした。 
・これから一緒に仕事をしようという人間に、なぜこんなことをするのか。避妊もしない
 でもし妊娠したらどうするのか。病気になったらどうするのか。山口氏は、「ごめんね」
 と一言謝った。そして、「これから1時間か2時間後に空港に行かなければならない。
 そこへ行くまで大きな薬局があるので、ピルを買ってあげる。一緒にシャワーを浴びて
 行こう」と言った。
・ようやくベッドを抜け出した私は、パニックで頭が真っ白になったまま、部屋のあちら
 こちらに散乱していた服を拾いながら、身を引き寄せた。下着が見つからなかった。反
 すように言ったが、山口氏は動かなかった。
・山口氏は「パンツくらいお土産にさせてよ」と言った。それを聞いた私は全身の力が抜
 けて崩れ落ち、ペタンと床に坐り込んだ。体を支えていることができず、目の前にあっ
 たもう一つのベッドにもたれて、身を隠した。
・「今まで出来る女みたいだったのに、今は困った子みたいで可愛いね」と山口氏は言っ
 た。一刻も早く、部屋の外へ出なければならない。パンツをようやく渡され、服を急い
 で身にまとった。ようやく見つけたブラウスは、なぜかびしょ濡れだった。なぜ濡れて
 いるのか聞くと、山口氏は「これ着て」とTシャツを差し出した。
・荷物をまとめて足早に部屋を出た私は、ロビーに出て初めて、ここがシュラトン都ホテ
 ル東京であることを知った。
・私は自分が被害者になるまで、性犯罪がどれほど暴力的かを理解していなかった。頭で
 はわかったつもりでいても、それがどれほど破壊的な行為であるか、知らなかった。何
 かが激しく破壊された。  
・綺麗なホテルのロビーを、足早に横切るのが精一杯だった。誰にも見られたくなかった。
 すごく自分が汚らしく思えて、とにかく状況を把握しきれないまま、自分の居場所に戻
 り、自分を守りたかった。ホテルの前からタクシーに乗った。時刻は5時50分頃だっ
 た。目を覚ましてから部屋を出るまでにどのくらい時間が経ったのか、はっきりとはわ
 からないが、おそらく30分くらいのことだったのではないか。
・なぜ、こんなことになったのか。タクシーの中で必死に記憶を呼び覚ましてみたが、鮨
 屋のトイレから目が醒めるまでの間、ぷっつりと記憶が途絶えていた。その代わり、襲
 われた時のおぞましい残像が、痛みとともに記憶の中から浮かび上ってきた。
・都内に借りていた部屋に戻ると、真っ先に服を脱いで、山口氏に借りたTシャツはゴミ
 箱に叩き込んだ。シャワーを浴びたが、あざや出血している部分もあり、胸はシャワー
 をあてることもできないほど痛んだ。

混乱と衝撃
・7時か8時頃、突然携帯電話が鳴った。慌てて応答すると、それは山口氏からだった。
 まだ番号を登録していなかったため、誰だか確認もせず反射的に出てしまったのだ。彼
 は、それまでとまったく変わりないビジネス口調で言った。「ここに黒いポーチがある
 んだけど、忘れ物じゃない?」荷物はすべて持っています、と答えると、「そう、じゃ
 あ別の人かもしれない。ビザのことで連絡しますから、またね」何事もなかったように、
 かつてと同じ上下関係で連絡してくる相手に対し、私も思わず、これまでと同じ立ち位
 置で対応してしまった。
・山口氏はTBSのワシントン支局長だ。その上、長い間政治の世界で仕事をしてきたた
 め、有力な政治家たちだけでなく、警察にも知り合いが多いと聞いていた。それだけで
 はない。私が毎日通って働いていたロイター通信の主な業務は、マスコミ各社への情報
 配信だ。もちろんTBSは大事なクライアントで、しかもロイターオフィスは、赤坂の
 TBS本社のすぐそばにあった。
・もし私が一人で警察に相談したり、彼を告発したりしたら、果たしてこの先、同じ業界
 で仕事を続けることができるのだろうか。TBSが山口氏の盾となり、逆に名誉棄損で
 訴えてくるかもしれない。そうなったら、一体どうやって身を守ればいいのだろうか。
 ひたすら怖かった。
・それまでに何度かのぞき見た日本の報道現場は、完全な男社会だった。私が甘いのかも
 しれない。こんな風に踏まれても蹴られても、耐えるべきなのかもしれない。そのくら
 いでなければ、この仕事は続けて行けないのかもしれない。魔が差したように、そんな
 考えが頭をよぎった。 
・そんな時、妹から連絡が来た。その日は土曜日で、妹から当時人気のカフェに連れて行
 って欲しいと頼まれていたのだ。今電車に乗ったという連絡だった。こんな抜け殻状態
 の私を見せて、彼女を心配させるわけにはいかないと思った。今日は事件のことは考え
 ないようにいしょう、あくまでも予定通りに、何事もなかったように過ごせば、本当に
 これは悪い夢だったことになるのではないか、そう思った。それが精一杯だった。
・妹が来るまでに病院へ行こうと思った。妊娠の可能性が気になって、とにかくモーニン
 グアフターピルをもらいたかったのだ。まだ時間が早かったので、病院が開くまで少し
 休もうと思ったが、その後はまったく眠ることができなかった。気付けば、また放心状
 態になっていた。そうしているうちに、何も知らない妹が到着してしまった。
・妹に、どこか近所の店で洋服でも見ていて、と声をかけ、一番近くにある産婦人科へ出
 かけた。そこは、結婚前に診察を受けるブライダルチェックをメインにした小奇麗な病
 院だった。受付を訪ねたところ、予約がないと診察できない、という返事だった。とに
 かく緊急なので、モーニングアフターピルだけでも処方してください。と必死に頼み、
 何とか診察室に入ることができた。対応してくれたのは、40歳前後のショートカット
 の女医さんだった。「いつ失敗されちゃったの?」そう淡々と言い放ち、パソコンの画
 面から顔を上げずに処方箋を打ち込む姿は、取りつく島もなかった。私の精神状態のせ
 いもあったのかもしれない。しかし、もしもあの時、目を合わせて、「どうしましたか
 ?」と一言聞いてもらえたら、その後の展開がまったく違っていたのではないだろうか。
・緊急で次の朝までにもらうピルが、モーニングアフターピルだ。だからこそ、この段階
 で被害を表面化できるチャンスはある。簡単な質問でいい、ここで救われる人がいるこ
 とを考えてチェックシートを作り、モーニンフアフターピルを処方する際に書き込んで
 もらうようにしたらどうだろうか。婦人科にもレイプキット、つまりレイプ事件に必要
 な検査が受けられる証拠採取の道具一式が用意したてったら、早い段階で対応ができる
 だろう。 
・この時の私は、予約外でピルをもらえただけでも、感謝すべきだったのかもしれない。
 しかし、身も心も最大のダメージを受けている時、自力で適切な病院を探さなければな
 らない困難は、計り知れないものがあった。その後、他の検査や相談をしたいと思い、
 ネットで調べて、性暴力被害者を支援するNPOに電話すると、「面接に来てもらえま
 すか?」と言われた。どこの病院に行って何の検査をすればいいのかを教えてほしいと
 言ったが、話を直接聞いてからでないと、情報提供はできないと言われた。ここに電話
 をするまでに、被害に遭った人は一体どれほどの気力を振り絞っているか。その場所ま
 で出かけて行く気力や体力は、あの場所の私には残っていなかった。
・そうしている間にも、証拠保全に必要な血液検査やDNA採取を行える大事な時間は、
 どんどん過ぎ去っていった。当時の私には、想像もできなかった。この事実をどこかで
 知っていたら、と後悔している。  
・この時点では、強制的に性行為が行われていたことはわかっていても、それがレイプだ
 ったと認識することができなかった。普通に考えればそうだったのだが、この時の私は
 どこかで、レイプとは見知らぬ人に突然襲われるものだと思っていたのだろう。そして
 どこかで、レイプという被害を受けたことを、認めたくなかったのだと思う。
・その時ふと、デートレイプドラッグのことを思いついた。ニューヨークでは「飲み物か
 ら目を離すな」と言われるが、これは犯罪から身を守る上での常識だった。まさか、安
 全だと思い込んでいた日本で、そんな目に遭う可能性があるとは想像もしていなかった
 のだ。
・インターネットでアメリカのサイトを検索してみると、デートレイプドラッグを入れら
 れた場合に起きる記憶障害や吐き気の症状は、自分の身に起きたことと、驚くほど一致
 していた。
・翌日の月曜日、親友の進める近所の整形外科を訪ねた。ここでも私は医師に、知人にレ
 イプされた、とは言えなかった。「凄い衝撃を受けて、膝がズレている。手術は大変な
 ことだし、完治まで長い時間がかかる」と診察した男性の医師は言った。
・それから、幼なじみのSに会った。看護師の彼女は、膝が痛いという私の話を聞き、一
 緒に薬局でサポーターを選んでくれた。お昼ご飯を食べに入ったカフェで、いつもと違
 って元気のない私を心配して、「どうしたの?何があったの?」と何度も聞いてくれた。
 この時に私は彼女に初めて、つっかえながら事件のことを打ち明けたのだった。真っ青
 になるほど握ってくれていた彼女の手が、冷たくなった。そして、私と一緒に泣いた。
 初めて自分の置かれた状況を言語化し、人に話した。この時が、事件以来初めて涙がこ
 ぼれた時であった。   
・何よりも、彼女は私が初めてお酒を飲んだ日にも一緒にいた幼なじみだ。私の飲める酒
 量や酒席での様子もよく知っていた。彼女は、私がたった数杯と2〜3合のお酒で意識
 を失うおとはあり得ない、と強く言った。
・しかし、彼女もレイプ事件に遭遇したらどうすれば良いか、という知識を持ち合わせて
 いなかった。私たちは、誰からもそういう教育を受けてこなかった。そしてそれ以上に、
 政治と深く繋がっている人物を告発した時、警察や司法が本当に守ってくれるのかわか
 らず、二人とも恐れていたのだと思う。
・彼女は、デートレイプドラッグだったとしても、一回の使用ではすぐに体内から出てし
 まうと言った。私は「とにかく、早くその場から離れたくて飛び出してしまったけれど、
 ホテルから110番すべきだった」と後悔した。
・その夜、山口氏にメールを送った。忘れたい気持ちがあり、これはすべて悪い夢なのだ
 と思いたかった。しかし、返信はなかった。そもそも、プロデューサー職に内定してい
 た事実さえなかったのかもしれない、と、この時初めて気づいた。考えたくもなかった。
 最初から仕事仲間になるということではなく、どうにでもできる「モノ」のように見ら
 れていたのではないか。悔しくて、悲しくてたまらなかった。
・友人のRの家で一通りの彼女たちの近況を聞いた後に、私は、「準強姦にあったかもし
 れない」と話した。この時には自分でいろいろ調べて、自分の身に起きたのは「準強姦」
 事件なのではないか、と思っていた。「準強姦」罪とは、主に意識のない人に対するレ
 イプ犯罪のことだ。彼女たちはとても驚き、最初はどういうことかわからなかったよう
 だったが、私が山口氏との間に起きたことを一通り話すと、「このままにしてはいけな
 い」と強く言った。   
・友人のRは、以前セクシャルハラスメントを受け、会社を辞めた経験を持っていた。彼
 女は自力で相手から謝罪の言葉を勝ち取っていた。しかし、彼女にハラスメントをした
 人は、一度認めて謝罪したのに、裁判ではそれを覆した。こうした場合、相手に非を認
 めさせるのがいかに大変か、彼女はよくわかっていた。
・原宿署い一人で出かけたのは、事件から5日経過した日の夕方だった。当時住んでいた
 家から一番近かったのが、そこを選んだ理由だ。受付カウンターに行くと、他に待合者
 がいる前で、事情を説明しなければならなかった。簡単に事情を説明し、「女性の方を
 お願いします」と言うと、カウンターでさらにいろいろ聞かれた。うまく伝わらないの
 で「強姦の被害に遭いました」と言うしかなかった。もう少し配慮がほしいと思った。
・女性の警察官は、別室で二時間ほど私の話を聞いてくれた。そして、「刑事課の者を呼
 びます」と言った。その時初めて知ったが、彼女は交通課の所属だったのだ。すでに二
 度と口にしたくないような内容を伝え、恐怖を思い出し、ひどく泣いて過呼吸のような
 状態になってしまっていた。頭は酸欠のようにぼーっとしていた。帰りたかったが、帰
 れなかった。そこから刑事課の男性捜査員に対して、また二時間以上同じ話を繰り返し
 た。初めて事件の詳細を警察に話すことはできたが、これはほんの始まりに過ぎなかっ
 た。  
・原宿署の捜査員は話を聞いた上で、「被害届を出して事件にするべき」と言ってくれた。
 事件が起きた場所から、これは高輪署の管轄になる、と説明され、次回は原宿署に高輪
 署の捜査員が来てくれることになった。話が終わって警察に出た時は、夜の10時を回
 っていた。
・それから2日後、再び原宿署を訪ねた。会ったのは事件を担当してくれる高輪署の捜査
 員、A氏だった。ここでまた、最初から事件の説明をした。A氏の対応は、原宿署の捜
 査員より、ずっとハードだった。「1週間経っちゃったの。厳しいね」いきなりこう言
 った。そして、「よくある話だし、事件として捜査するのは難しいですよ」と続けた。
・やっとの思いで警察を訪ね、スタートラインに立てたと思っていた私にとって、それは
 あまりに残酷な言葉だった。私はこの事件を「よくある話」と聞いてゾッとし、そんな
 に簡単に処理される話なのかと呆然とした。
・病院もホットラインもあてにならなかった。私はかなり遠回りしてしまった。警察に行
 くのに、5日も要してしまったのだ。そして、それが間違いだったことに気づいた時に
 は遅かった。
・「なんでお前はもっと怒らないんだ。怒りを持て」という父の言葉に、ある警察官に言
 われたことを思い出した。「もっと泣くか怒ってくれないと伝わってこない。被害者な
 ら被害者らしくしてくれないとね」その後、精神科の先生に伺ったのだが、虐待された
 子どもは自分の受けた傷について話をするとき、友達について話すような態度を取るそ
 うだ。離解するのだ。それが私に起こっていたことかはわからないが、私にはできなか
 った。
・捜査員A氏と、シェラトン都ホテルを訪ねた。近づきたくもない場所だった。部屋があ
 った二階の廊下には、たまたま防犯カメラがないとのことで、ホテルの入口の映像を確
 認した。確認した映像には、タクシーから降りる山口氏の姿が映っていた。しばらくそ
 こに立っていた山口氏は、やがて上半身を後部座席に入れて私を引きずり出した。そし
 て、歩くこともできず抱きかかえられて運ばれる私の姿を、ホテルのベルボーイが立っ
 たまま見ていた。
・捜査員のA氏は「相手は有名で地位もある人だし、あなたも同じ業界で働いているんで
 しょ。この先この業界で働けなくなるかもしれないよ。今まで努力してきた君の人生が
 水の泡になる」と、私の将来について懸念する言葉をかけ、被害届の提出を考え直すよ
 うに言った。 
・入口のカメラの次は、ホテルのロビーを横切る映像になる。山口氏に抱えられた私は足
 が地についておらず、前のめりのまま、力なく引きずられ、エレベーターの方向に消え
 て行った。最後の映像は、明け方に私がうつむきながら、足早にホテルを去っていく映
 像だった。
・DNA鑑定を試みる、とA氏に言われたが、着ていたものはすべて洗ってしまっていた。
 一応、当日来ていたものを揃えておいたが、なぜかブラだけは見つからなかった。探し
 てみると、脱いだ時に服を置いた棚の脇にすべり落ちているのが見つかった。これだけ
 は洗っていない状態で見つかり、期待がもてた。
・私はこの日、家から一時間半かけて、江戸川区にある性暴力の被害者に前向きに対応し
 ているという産婦人科を訪ねていた。予約して行ったのだが、「性暴力被害」重視とい
 うからには、適切な対応をしてくれるのではないかと思っていた。しかし、その期待は
 裏切られた。小さな部屋に連れて行かれ、カレンダーを見ながら機械的に看護師から質
 問が繰り返される。まるで取り調べのようであった。一通り答え終わった後は、座ると
 自動て足が広げられていく椅子に座り、椅子が高くあげられ、先生に検査される。この
 短期間に、知らない人たちに一番プライベートな場所を見られた。屈辱的であったが、
 どうしてもやらなければいけない検査だった。ライトを当て診察を終えた先生は、「よ
 かったね、大きな傷はないよ。傷ついてない」と言った。そして、事件から時間が経ち
 すぎたのだ、と言う。この部分の傷は治りやすいのだそうだ。「傷ついていない」とい
 う言葉が産婦人科としての診断だったのはわかっていたが、その言葉と私自身の実際の
 状態は、到底釣り合うものではなかった。それからまた、「眠れているか?」というよ
 うな項目を順を追って聞かれた。睡眠薬を処方され、検査結果は後日受け取ることにな
 り、帰宅した。
・セクハラで退社した友人Rが、弁護士などに相談できる「法テラス」について教えてく
 れたので、無料相談をしてみることにした。初めて弁護士に相談し、いくつかの問題点
 を整理することができた。ここで教えてもらったのは、「準強姦事件の証明に必要な争
 点は2点。性交したか。合意の上かどうか」ということだった。合意の上でないことを
 証明するために、ホテルの防犯カメラの映像は、大事になってくる。
・担当捜査員のA氏から連絡があった。ホテルの防犯カメラ映像を見てからは、多少は前
 向きに対応してくれていたA氏の態度はこの日一変し、「逮捕できません。証拠がない
 ため厳しい」と断敵的に言った。証拠がないとは、DNAのことだろうか。
 ブラのDNA検査はこれからお願いするはずだが、と聞くと、「それが出たとしても、
 触っただけで行為があった証拠にはならない、とお話ししましたよね。精液さえない。
 人ひとり裁くのは、それほど厳しいということ。疑わしくは罰せず、の原則です」と強
 い口調で言った。
・そのすぐ前に、産経新聞社発行の「夕刊フジ」に、山口氏が東京の営業職に左遷になっ
 たという記事が掲載された。友人から聞いたのだが、山口氏自らが、キオスクに並ぶ、
 自分に記事が掲載された「夕刊フジ」の写真をフェイスブックに投稿していたのだ。一
 記者の異動が記事になるのも異例だが、ワシントン支局長から営業職への異動も異例だ
 った。
・翌日、また急な展開があった。午前中にA氏から連絡があり、彼は「これで行けるかも
 しれない」と言う。調べたところ、山口氏の左遷は事実だった。15日間の出勤停止期
 間中で現在日本にいるらしいので、すぐに任意で取り調べをした。早急に被害届を出し
 てほしい、と言うのだった。
・しかし、私は昨日のA氏の態度と、今日の「これで行けるかもしれない」という言葉の
 あまりの違いが引っかかっていた。どうしても納得できなかったので、何度もしつこく
 訊いた。すると、この間、警察の内部で次のようなことがあったことがわかった。私が
 被害届を出すにあたり、A氏が事前に検察官に報告したところ、かなり否定的な返事を
 されたようなのだ。「刑事事件の場合、実際に事件を掌握するのは検察官。警察が調べ
 たことを検事に報告し、検事はそれを見て証拠固めの指示を出す。これ以上捜査するこ
 とはないとなったら、警察は書類をまとめて検察庁に送る。これが書類送検。最終的に
 起訴するか、しないかの判断をするのは、検察官だ。その検察官に相談したところ、い
 きなり、「証拠がないので逮捕状は請求できない。被害者が被害届を出すのは自由だが、
 任意で呼び出して相手の言い分を聞き、事件として送致して終わりになる」と言われた」
・彼が相談したという「M検事」は、ただの検事ではなく、何人かの検事をまとめるポス
 トにいる、という。「検事の中でも上のポストの人に聞いているんだから間違いない」、
 そんな口調でA氏は話していた。
・この日、シェラトン都ホテルに、映像のことで連絡を取ってみた。ホテルの防犯カメラ
 は、古いデータを消去しながら新しい映像を撮影するので、一定期間を過ぎるとなくな
 ってしまう。そろそろ期限がくると聞いていたので、気持ちが焦っていた。対応した保
 安係の回答は、やはり、裁判所からの要求でなければ映像は出せないとのことだったの
 で、データの保全だけはお願いしておいた。客観的証拠として重要なこの証拠を、確実
 に手元に置いておきたかったが、「データは保全する」というホテル側の言葉を信じる
 しかなかった。
・高輪署に出向き、被害届と告訴状を提出した。供述調書が必要とのことで、また最初か
 ら事件のことを詳しく訊かれた。記憶がなくなった可能性として、デートレイプドラッ
 グについて調べたことを、それまでにも何度かA氏に説明していた。実際にそういう名
 称の薬があるわけではない。使われるのはドラッグストアなどで5ドル以下で手に入る
 普通の睡眠薬だ。無味無臭で、これをお酒に混ぜて飲ませ、意識を失わせてレイプする
 事件がアメリカで多発して社会問題になっており、使われるいくつかの睡眠薬、精神安
 定剤などがまとめてこう呼ばれている。それを飲むと一時的に意識、または記憶を失く
 す状態が2時間から8時間程度続き、その間、普通に振る舞うこともでき、時にはハイ
 になり、吐き気を催したりする。本人はそのことを覚えていない。
・私はお酒にはとても強いほうだ。いつも最後に友人を介抱するのが役目で、お酒、まし
 てや、あの程度の量を飲んだだけで、意識を失ったことは一度もない。体調も普段と変
 わらなかった。 
・被害届と告訴状にサインした時、私は思った。警察に行けば事実が自然と明らかになる、
 警察が調べてくれると、漠然と考えていた。しかし、そうではなかった。何度も同じ話
 を繰り返しても、返ってくるのは「難しいですね」「厳しいですね」という言葉だった。
 「事実」とは、これほど捉えどころがないものだった。
 
攻防
・私には、元検事の叔父がいた。私は、検察や警察の動き方に対する疑問を、叔父に聞い
 てみることにした。叔父はまず、私がホテルへと引きずられている映像に明らかに普段
 と違うところがあるなら、まず相手を呼んで事情を聞くのが普通。それによって捜査が
 進展する可能性は十分にある、と言った。また、警察がおこなった、食事をした場所で
 の聞き込みの内容などは、被害者の立場として聞くことはできる。
・叔父は検察のOBとして、検察官が最初から「逮捕できない。任意で取り調べても必ず
 不起訴になる」などと断定することはあり得ない。いま現在の証拠では逮捕できないと
 しても、証拠は捜査次第で増える可能性があるものなのだ。ましてや、逮捕すれば捜査
 が大きく進展する可能性だってあるのだから、最初から不起訴と決まっているなどとい
 うことはない、と言った。
・山口氏にメールで尋ねた。「妊娠の可能性がないと以前断言しましたが、なぜですか?」
 「私はそういう病気なんです」「精子の活動が著しく低調だという病気です」という返
 事が山口氏から返ってきた。ここまでの返信にこの二通が加わり、性行為があったこと
 を山口氏が認めたことになった。
・捜査は進展しているようだった。鮨屋での聞き込みを終えたA氏に内容を聞いてみると、
 「びっくりすると思いますよ。二人で一升近く飲んだそうです。簡単なつまみと太巻き
 以外は何も頼んでおらず、ほとんどお酒だけ。これならどんなにお酒に強い人でも酔っ
 ぱらいます」と言われ、私は驚愕した。本当にそんなに飲んだのだろうか。記憶がない
 のでわからないが、自分ではとても信じられない。
・最後に行った鮨屋を出てから、私たちをホテルまで乗せたタクシー運転手の証言が取れ
 た、と聞いたのはこの頃だった。この時に訊いたのは、「近くの駅で降ろして下さい」
 と何度も言っていたこと、タクシーの中で最初は仕事についての会話があったが、途中
 から私が静かになり、降りる時には自力では降りられない状態だったこと、降りた後に
 見たら、私のものとみられる吐しゃ物があったこと、だった。
・記憶のない時間帯の自分の行動について語られるのを聞くのは、本当に気が重いものだ
 が、私が何度も「駅で降ろして下さい」と言っていたと知り、ほっとした。やはり、最
 後まで自分は家に帰ろうとしていたのだ。   
・ホテルのハウスキーパーの記録から、シェラトン都ホテルの部屋に吐しゃ物があったと
 いう記載は見つからなかったこともわかった。山口氏は部屋の二ヶ所とトイレに「ゲロ」
 を吐かれたとメールで説明していたが、清掃員は、そのような状態に対する特別な清掃
 をしていないと日誌に記している。また、そのフロアを担当したハウスキーパーは、
 「ベッドは片方しか使われていなかった。もう一つのベッドには血がついていた」と証
 言していることも聞いた。
・捜査員のA氏が「通行人が振り返っていた」と指摘するほど、私の様子はぐったりして、
 異様な光景だった。映像を確認した私も友人のKも、ぞっとして吐き気を催したのだ。
 タクシー運転手さんは後に、「ホテルのボーイが心配そうに見ていた」と証言している。
 山口氏が言うように私が嘔吐して意識が無かったのなら、病院に連れて行くか、救急車
 を呼ぶべきである。 
・捜査員に、「処女ですか?答えづらいかもしれませんが」と聞かれた。他の捜査員から
 も以前から何度か聞かれたことだった。私は繰り返されるこの異様な質問に対し、つい
 に「それが事件と何の関係があるんですか?」と聞いた。が、「どうしても聞かなけれ
 ばいけないことなんです」と言うだけだった。
・性犯罪の被害者が、このような屈辱に耐えなければならないとしたら、それは捜査のシ
 ステム、そして教育に問題があるはずだ。ロイターの同僚にこの話をしたところ、「そ
 れはセカンドレイプだ」と、さっそく取材を始めた。
・山口氏の帰国に合わせて、成田空港で逮捕する、という連絡が入ったのは、私がドイツ
 滞在中のことだった。この電話から4日後、逮捕予定の当日に、捜査員のA氏から連絡
 が来た。もちろん逮捕の連絡だろうと思い、電話に出ると、A氏はとても暗い声で私の
 名前を呼んだ。「伊藤さん、実は、逮捕できませんでした。逮捕の準備はできておりま
 した。私も行く気でした。しかし、その寸前で待ったがかかりました。また私はこの担
 当から外されることになりました」。私が検察が逮捕状の請求を認め、裁判所が許可し
 たんですよね?一度決めたことをなぜそんな簡単に覆せるのですか?」と問うと、驚く
 べき答えが返ってきた。「ストップをかけたのは警察庁のトップです」
   
不起訴
・私は元検事の叔父に連絡した。逮捕状がどのように使われるかについて、実際に知って
 いる叔父の言葉は、とても参考になった。叔父は、ともかく裁判所がイトド許可した逮
 捕状が簡単に執行されないなんていうことはないから、その逮捕状が今どこにあるのか
 を、弁護士の先生と一緒に警視庁に行って聞きなさい、と言った。
・帰国してすぐに、警視庁に呼ばれた。新しく担当するメインバーと紹介されたのだ。
 インで私を担当してくれる捜査一課の女性の捜査員と、その上司だった。この時の二人
 の説明は、要領を得ないものだった。「社会的地位のある人の場合、そのことは捜査に
 関係するのか?というと、正直関係はあります。社会的地位のある人は居所がはっきし
 ているし、家族や関係者もいて逃走の恐れがない。だから逮捕の必要がないのです」と
 いうことだった。この言い分は、社会的地位のある人は証拠隠滅などしないし、逃亡も
 しない、と言っているように聞こえる。地位がなければ、証拠隠滅もやりかねないし、
 逃亡の恐れだってある、と言いたいのだろうか?それでは社会的地位がない人、低い人
 は簡単に逮捕するということなのだろうか?その言葉こそが、社会的地位の高い人への
 優遇になってはいないか?いくら社会的地位の高い人でも、人間だ。過ちを犯すことだ
 ってある。
・DNA鑑定の結果、ブラから山口氏のDNA片が採取された、という。ストラップ、ブ
 ラのカップの外側、内側、ホックから山口氏のものと過不足なく一致するとされるY染
 色体が出た。また、家宅捜査を行い、パソコンもタブレット類も押収したという。パソ
 コンのデータ解析については、「そもそもカメラが付いていない機種で、外部機器を取
 り付けた形跡もない、中の画像にもこの事件と関係するものはない」という。任意の捜
 査でその確認は本当にできるのだろうか。現場にあったのが、押収したそのパソコンだ
 となぜわかるのか。疑問はつのるばかりだった。
・警察車両で弁護士事務所まで送られた。自分一人で面会に行くものだと思っていたが、
 なぜか捜査員も数名、車に乗り込んだ。私がその時に弁護士を探していた第一の目的は、
 捜査員A氏が取った逮捕状の行方を探すことだった。紹介された女性弁護士のところで
 は、また事件のことを聞かれた。しかも、一から経緯を話している間、捜査員がずっと
 同席していた。これでは、「逮捕状がどうなったか聞いてもらえないか」などと頼める
 はずもなく、捜査員には途中で断って席を外してもらった。弁護士は、やはり示談専門
 の人らしかった。捜査員がいなくなった後、私が警察の捜査に感じている疑問について
 少し話をしてみたが、あかり反応はなかった。これ以上ここで警察への疑問や、逮捕状
 について話さないほうがいいと確信した。警察車両で彼らの推薦する弁護士のところま
 で連れて行かれ、席を外してくださいとお願いするまでぴったりと捜査員が寄り添いな
 がら示談の話を一緒に聞くなんて、ちょっとおかしい、という考えが浮かんだ。
・弁護士は、これまでに担当した示談の案件について、いろいろと話してくれた。彼女い
 わく、最高の成果は相手を有罪にして慰謝料を貰うこと。今回、相手が示談を持ちかけ
 てきたのは、被害届と告訴状を取り下げてもらうためだろう。示談を行う場合は示談書
 というものを作るが、その冒頭に謝罪を求める場合と、謝罪なしでお金だけ請求する場
 合がある。また、金額は百万円程度に収まることが多い。彼女の示談についての話は続
 いた。謝罪なしの示談書などがあるのか。考えられなかった。お金によって、それ以上
 は語られることのない事実として封じられるのだ。そして、百万円とは誰が決めた金額
 なのだろうか?その後の人生に大きく影響するこの性暴力に対し、費やさなくてはいけ
 ない時間、医療費などは計り知れない。なによりも、時間や精神的苦痛はお金に変えら
 れるものではない。
・しかし、わずかなお金をもらって示談にするケースはよくある、と弁護士はいう。なぜ
 ならこの国の法律では、性犯罪者が法的に裁かれること自体が難しいのだから。そして
 捜査の過程や法廷で起こることは、被害者にとって大きな苦痛となる。
・このような性犯罪の裁判がある日は、「性犯罪裁判の傍聴マニア」が朝から列をつくっ
 て傍聴してくるというのだ。自らが裁判所に出向き、顔さえ思い浮かばべたくないよう
 な加害者と対面して話さなくてはいけない上、傍聴席は傍聴者たちで満席。皆がこちら
 を興味深く見ているなどと、想像しただけで血の気が引く思いだ。
・2000年の刑事訴訟法改正以来、被害者が証言する際には、加害者と直接顔を合わせ
 なくていいように仕切りを立てることが可能になり、別室で被害者の証言が行われるこ
 ともあるという。しかし、それでも多くの被害者は、加害者からの逆恨みや脅迫を恐れ
 ることだろう。だから大ごとにしないでお金で解決しよう、と警察までもが言うのだ。
 こうやって、口をつぐまされてきた人が、今までどれだけの数いたのだろうか。実際に
 性犯罪において、示談や話し合いで告訴を取り下げる割合は、0.4パーセント。実に
 3分の1の被害者は、様々な理由から、示談に同意しているのだ。中には、犯行のビデ
 オがあり、告訴を取り下げれば処分すると告げられた被害者もいる。
・警視庁では、警察で委託している被害者専門の先生がいる、聞いたのだ。しかし、目の
 前の弁護士は、自分が被害者を弁護した際の示談のケースをとうとうと説明した。これ
 は一体、どういうことなのだろう。警察はそこまでして、私に示談をさせたかったのだ
 ろうか。私が一番求めているのは、「真実はどうだったのか」なのだ。お金でも時間で
 も、曲げることのできない真実だ。結局すれ違いのまま、弁護士との面会を終えた。
・山口氏のような社会的地位のある人が関わる事件は、所轄だけで判断できないので、一
 課には報告済みで、逮捕状を取ったことについても同様に報告が上っていたはずだ。そ
 して、A氏が逐一相談していたM検事は、検事の中のトップに値するくらいの経験もあ
 る人なので間違いはない、と聞いていたのだ。
・私の前には、声を上げ続けるには困難なほど、大きな壁があった。一個人、一被害者の
 前に、巨大な組織が立ちはだかっているのだ。しかし、その組織にだって、心ある人は
 いる。 そして同時に気づいたことは、これは組織全体を敵に回した闘いではないのだ、
 ということだった。ある一部の上層部が、相手なのだ。その組織に尽している捜査員に
 落ち度はない。   
・上層部の一言で裁判所の検定が覆され、逮捕が行われず、操作が闇に葬られてしまった
 のだとしたら。それは徹底的に問うべき問題であった。捜査当局がまともに機能してい
 ないのであれば、私たち一般市民は、何を信じ、どうやって生活していけばいいのだろ
 う。  
・自力で弁護士を探そうと決意し、東京三弁護士会の電話相談(犯罪被害者のための電話
 相談)に連絡すると、女性の弁護士が話を聞いてくれた。その人、西廣陽子先生は、
 「すぐに会って話しましょう」と面会に応じてくれた。同じ頃、私の経験を聞いてセカ
 ンドレイプについて取材を進めていた同僚が、取材で知り合った性犯罪専門の弁護士に
 私のことを話し、「電話してみて」と紹介してくれた。それが村田智子先生だった。な
 んと西廣先生と村田先生は以前からのお知り合いで、性犯罪事件に巻き込まれた女性の
 弁護に、共に力を入れて来られた関係だった。二人の弁護士は口を揃えて、「逮捕直前
 に現場で突然ストップがかかったのは、絶対におかしい。他の弁護士や、警視庁に詳し
 い人に聞いても、皆そんな話は聞いたことがないと言っている」と、二人一緒に相談し
 て下さることになった。  
・2016年1月、K検事は山口氏の聴取を行った。山口氏は、検事による聴取から4ヶ
 月ほどたった2016年5月末、TBSを退社した。ひと月後、安倍首相について書い
 た「総理」という本を上梓し、コメンテーターとして、さかんにテレビに登場するよう
 になった。こうしたことを私は、友人から聞いたのだが。
・K検事は「この事件は、山口氏が本当に悪いと思います。こんなことをやって、しかも
 既婚で、社会的にそれなりの組織にいながら、それを逆手にとってあなたの夢につけこ
 んだのですから、それだけでも充分に被害に値するし、絶対に許せない男だと思う。あ
 なたとのメールのやりとりもあって、すでに弁護士もつけて構えている。検察側として
 は、有罪にできるよう考えたけれど、証拠関係は難しいというのが率直なところです。
 ある意味とんでもない男です。こういうことに手馴れている。他にもやっているのでは
 ないかと思います」そして彼は、日本には準強姦罪という罪状はあるが、実際にはなか
 なか被疑者を裁けない、と、現行法の持つ矛盾を、長い時間をかけて語った。「日本に
 おいては、性犯罪を立証するのはとても難しい。日本の刑法では被疑者の主観をとても
 重視する傾向があるのです。当然、被疑者は犯行を認めることは稀あので、「合意のも
 とでした」と言う。アメリカの刑法では、主観より客観的な事実で起訴ができる。日本
 では、客観的な状況だけでは、明らかな有罪だったとしても、被疑者がそれを認めない
 限り有罪になりにくいのです。強力な証拠を求められます。例えば、犯行を撮った映像
 や音声、第三者が目撃していた、等々。私はアメリカの司法の現場でも経験があるので、
 よくわかります」と語った。
    
「準強姦罪」
・アメリカのモンタナ大学で起きたアメフトのスター選手たちによるレイプ事件を扱った
 著書の中で「レイプはこの国で最も報告されない重大な犯罪である」と書かれている。
 日本でもかったく同じことが言えるだろう。国連薬物犯罪事務所の2013年のデータ
 によると、人口10万人当たりの各国のレイプ事件の件数は
  1位:スウェーデン  58.5件
  2位:イギリス    36.4件
  5位:アメリカ    35.9件
  23位:フランス    17.5件
  38位:ドイツ      9.2件
  68位:インド      2.6件
  87位:日本       1・1件
 となっている。スウェーデンで発生率が、なぜ他国と比べてこんなに高いのはと言えば、
 スウェーデンではレイプは起こった回数で1件とカウントされるからだ。たとえば、親
 族から長期間にわたって性的被害を受けているような場合は、一つの事件としてではな
 く、レイプされた回数として加算される。また、被害届を出しやすい環境も整っている。
 2015年のスウェーデン警察内での女性の比率は31パーセント。現場レベルだけで
 なく、役職者の比率も同じく3割である。一方、日本での警察内の女性比率は、全体の
 8.1パーセントしかいない。だから、被害者の女性は、捜査の現場から事件を判断す
 る役職者まで、ほぼ男性に囲まれる中で被害を訴えることになる。そして、この統計は
 警察に届け出されたレイプ意見の件数を元に作成されているため、実際の発生率とは異
 なっている。レイプが深刻な社会問題となっているインドも2.6件。つまり、発生率
 が低いのではなく、届け出そのものが少ないと考えられるからだ。最も報告されない深
 刻な犯罪、と書かれたアメリカは、それでも35.8件。このデータからみると、日本
 はインドと同様、主要国と比べ警察への届け出件数そのものが大変少ないことがわかる。
・2015年に内閣府男女共同参画局が行った、「男女間における暴力」に関する調査に
 よると、15人に1人の女性が、「異性から無理やり性交された」と答えている。アメ
 リカには、実に5人に1人がレイプの被害を受けているというデータがある。この数字
 には、発生率そのものの違いだけではなく、レイプの定義の違いがあると思われる。
・日本の改正前の刑法(177条)は、「女子を姦淫した」という定義であったが、新し
 い「強制性交等罪」では、肛門性交、または口腔性交も加えられた。アメリカの5人に
 1人という数字にも、肛門性交や口腔性交が含まれている。日本でも、これからはこの
 数が大きく変わってくると予想される。  
・私はストックホルム南総合病院にあるレイプ緊急センターを訪れた。ここは、365日
 24時間体制でレイプ被害者を受け入れている。大きな綜合病院という外観だが、レイ
 プ緊急センターの入口は二つある。一つの入口は待合室を通らず、誰とも顔を合せずに
 受付に辿り着けるようになっている。内部はプライバシーが保てるように細かく仕切ら
 れていて、入院はできないが、横になって休めるスペースがある。また、レイプキット
 による検査は被害に遭ってから10日まで可能で、その結果は6ヶ月間保管される。被
 害者は、まずはここのレイプ緊急センターで検査や治療、カウセリングを受け、一連の
 処置が終わった後に、警察へ届けを出すかどうか考えることができる。事件直後は、心
 身ともにダメージを受けているため、判断に大変な負担がかかる。この制度のおかげで
 事件に遭った人は、すぐに警察に行かなかった自分を責めたり、どうしてすぐに警察に
 届け出なかったのかと周囲から責められたり、これではないもできないと当局から突き
 放されたりしなくて済む。      
・ちなみにスウェーデンでは、レイプ緊急センターで検査を受けたのち、6ヶ月間の検査
 結果保管期間内に警察に届け出る者の割合は、58パーセントと半数以上である。他の
 42パーセントは、「早く事件を忘れたい」、「羞恥心がある」、「裁判や加害者への
 恐れがある」などの理由で、届け出ることはしない。
・自分の受けた心や体の傷に対して、一人一人違う受け止め方があり、向き合い方がある。
 その人がその後どう判断しようとも、このようなセンターがあるおかげで、「被害者」
 という立場に固定されることなく、ニュートラルた立場で、まず治療を行なえる社会の
 体制があることが、とても重要である。
・にれの木クリニックの長井チヱ子院長は、でーとレイプドラッグについて調べている医
 師だ。長井先生は、デートレイプドラッグを用いられて記憶を失くすと、大抵の被害者
 は混乱し、状況を把握するのに時間がかかるとともに、なぜ思い出せないのかと自身を
 責める傾向にあるという。しかし、そのような混乱に陥ることはまったく不思議なこと
 ではないので、まずは自分を責めず、レイプキットでの検査や、血液検査をしていくれ
 る医療機関に向かうべきだと言う。  
・私の犯してしまった間違いは、すぐに婦人科に行ってしまったことである。開業医の婦
 人科にレイプキットが置いてあることはまずなく、レイプとドラッグ両方の検査を行う
 には、救急外来に行くべきだと先生は言う。強制的に性行為が行われた場合は、救急外
 来に行く。自分でどう対処していいか判断しきれない時に、この選択がその後の運命を
 分けることになるのだ。このような経験をした直後の患者には、特別な配慮を心得てい
 る医療関係者が必要だ。日本にも早く、ストックホルム南総合病院にあるようなレイプ
 緊急センターが設置されることを望む。
・強姦事件の場合、主な争点となるのは、大きく言って、
 @行為があったのか
 A合意があったのか
 の2点だ。問題はAだ。強姦事件は、大多数が顔見知りによる犯行だ。見知らぬ人に道
 端で突然襲われ、強姦された、というような事件では、合意の有無が問われることはま
 れだ。しかし、顔見知りならどうか?「女性が喜んでついてきた。合意があった」と被
 疑者が言えば、それを否定するのは容易なことではない。@の「行為」があった証拠が
 完全に揃っていたとしても、警察で「一緒に部屋に入っただけで合意だ」と言われ、起
 訴されないことすらある。密室の中で起こったことは第三者にはわからない。検事はこ
 れを「ブラックボックス」と呼んでいた。
・ストックホルムのレイプセンターの調査によると、70パーセントのレイプ被害者が被
 害に遭っている最中、体を動かすことができなくなる、拒否できなくなる、解離状態に
 陥るなど「擬死」と呼ばれる状態になる。「擬死」とは、つまり、動物などが危険を察
 知して死んだぐり状態になることだ。しかし、日本における強姦罪の裁判で問われるの
 は、被害者が心の中で拒否しているかどうかではなく、「拒否の意思が被疑者に明確に
 伝わったかどうか」なのだ。極言すれば、「相手が嫌がっているとは気付かなかった」
 とさえ言えば、法律的には合意があったことになってしまう恐れがあるということだ。
・さらに「合意があった」と強弁しやすいのは、相手に意識や記憶がなく、しかも密室の
 中で犯罪が行われた場合だ。これなら被害者は、自分は合意していないという事実を、
 第三者に明確に説明することができない。このようなケースが、「準強姦罪」にあたる。
 量刑に変わりはないが、このように強姦、準強姦と名称を分けることすら日本特有の現
 象と言えるだろう。「準」とは、文字通りに解釈すれば、そのものではないが、それに
 近いもの、というような意味だ。
・準強姦事件の際は、アルコールやデートレイプドラッグが使われることが多い。しかし、
 デートレイプドラッグの存在は、日本では一部を除いてまだ知る人が少ない。実際は、
 睡眠薬を使ったレイプ事件は多発しているが、一般の人にまでその危険性が浸透してい
 るとは言い難い。
・レイプドラッグとしてよく使われるのが、病院で簡単に処方される睡眠導入薬や精神安
 定剤などである。これらを患者に処方する際、長井先生は注意を促すという。それは百
 人に一人くらいの確率で、記憶をなくす副作用が生じるとうのだ。これらの薬物を、ア
ルコールとともに用いると、さらにその副作用は増強される。
・デートレイプドラッグが関与した犯罪は、日本でも1990年代後半から起きている。
 最近では、元大学医学部講師の医師が、海水浴場で知り合った20代の女性7人をマン
 ションに誘い、飲酒させた上で睡眠導入剤を混ぜた料理を食べさせ、抵抗的ない状態で
 暴行に及んだ。1995年にレンタルビデオ店の経営者らが、街で知り合った女子高生
 をカラオケに誘い、コーラに粉末状にした睡眠薬を入れ、朦朧状態にさせた上で性的暴
 行を加えて、販売を目的としたビデオを作成した事件がある。
・アメリカでは、政府機関がインターネット上に「デートレイプドラッグ」についての警
 告サイトを展開して久しい。これらの犯罪に使われる睡眠薬や睡眠導入剤などは、極め
 て入手が容易だ。薬理作用として、「睡眠作用」があるために眠くなり、「抗不安作用」
 によって危険に対する反応が普段よりも鈍くなり、「筋弛緩作用」があるために身体に
 力が入らず動きが鈍くなる。また、薬を飲んだ後の一定期間、記憶が断片的になり完全
 になくなったりする「前向健忘」の作用もある。  
・1990年代から事件が頻発している現状を考えたら、今後は捜査機関が率先して米国
 並みの検査体制を整えるべきであり、被害者も医療機関でレイプキット検査が受けら得
 ると同時に、血液、尿、毛髪などもすぐに採っておくべきだ。事件直後の混乱した精神
 状態では、なかなか思い至らないが、あらかじめ知識を持っておけば、できないことは
 ない。自分だけでなく、友人がそのような目に遭った時にも、アドバイスすることがで
 きるだろう。 
・「反抗を著しく困難ならしめる程度」の暴行、脅迫があった場合に強姦罪を認める。つ
 まり、被告の暴行や脅迫で、被害者が抵抗するのは困難だった、という状況を証明しな
 ければ、通常、被告は有罪にならないからだ。「暴行・脅迫」の証明の必要性は、今回
 の刑法改正でも重要なポイントの一つになった。被害者がそれほど抵抗していないよう
 に見えるなら許されるのか?という疑問の声が上がるのは当然だ。70パーセントの性
 暴力体験者に、被害の最中に体が動かなくなる擬死症状が出る、という調査結果を忘れ
 てはいけない。
・旧刑法のこの条文が出た百十年前は、完全な家父長制の時代だった。女性の意思など、
 公的には認められていなかった。男性ですら、すべての人が選挙権を持たなかった時代
 だ。その頃の精神でできた法律を、今のケースに当てはめて裁くのは、相当に無理があ
 ったのは確かだ。しかし、残念ながら2017年の法改正でも、この点が改正されるこ
 とはなかった。「監護者性交等罪」「監護者わいせつ罪」として、親などが18歳未満
 の子どもに強姦やわいせつ行為を働くケースは罪に問えるようになったが、監護者にス
 ポーツの監督などは含まれなかった。 
・「準強姦」事件では、さらに高く「合意の壁」がそびえている状況に変わりはない。今
 回の法改正には、施行後3年をめどとした「施策の在り方の検討」が行われる道もある。
 この機会に、「暴行」「脅迫」の証明の緩和が必要である。目に見える暴行や脅迫を行
 わずとも、関係を強要することが可能な場合があるからだ。
・今回の法改正で、被害者の親告は不要になった。つまり、被害者自ら告訴しなくても立
 件できるようにはなったが、捜査の過程や法廷で被害者を苦しめる「セカンドレイプ」
 の問題が改善されなければ意味がない。むしろ告訴しないことを望むという被害者が多
 くなりがちな現状を変えるには、さらに改善しなければならないだろう。
   
挑戦
・捜査員A氏は逮捕が取り止めになった当日、「ストップをかけたのは警視庁のトップ」
 と言ったが、捜査一課と二課は刑事部に所属しており、その上には刑事部長がいる。
・「桶川ストーカー事件」や「足利事件」などの取材で、警察や検察の捜査を覆す数々の
 スクープを放った著名なジャーナリスト清水潔さんに相談してみようと思い立った。
 「足利事件」当時の私の心に強烈な印象を残したのは、司法当局と被害者、そしてメデ
 ィアに対する清水さんの深い洞察だった。犯人を逮捕し、裁きさえすれば良しとする司
 法当局と、真実を知りたいと願う被害者遺族。その根本的な違いと、警察がつくった
 「物語」を報じるだけのメディア。
・謎を追う。事実を求める。現場に通う。人がいる。懸命に話を聞く。被害者の場合もあ
 るだろう。遺族の場合もある。そんな人達の魂は傷ついている。その感覚は鋭敏だ。報
 道被害を受けた人ならなおさらだ。行なうべきことは、なんとかその魂に寄り添って、
 小さな声を聞き、伝えることなのではないのか。
・権力や肩書き月の怒声など、放っておいても響き渡る。だが、小さな声は違う。国家や
 世間へは届かない。その架け橋になることこそが報道の使命なのかもしれない。
・性暴力は、被害者のその後の人生に大きく関わる。長いあいだ、その被害者と家族を苦
 しめる。癒えない傷、長く続く裁判、仕事に復帰できずホームレスになる者、その苦し
 みから抜け出せず命を絶つ者。    
・レイプはどの国でも、どんな組織でも起こり得る。組織は権力を持つ犯罪者を守り、
 「事実」は歪められる。
・今までに一体、何人の人が、心を押し潰されたまま生きることを強いられたのだろう。
 一体何人の人たちが、彼女と同じように命を絶ったのだろう。事件後、私も同じ選択を
 しようとしたことが、何度となくあった。自分の内側がすでに殺されてしまったような
 気がしていた。どんなに努力しても、戻りたくても、もう昔の自分には戻れず、残され
 た抜け殻だけで生きていた。しかし、死ぬなら、変えなければいけないと感じている問
 題点と死ぬ気で向き合って、すべてやり切って、自分の命を使い切ってからでも遅くは
 ない。そう思いとどまった。
・残された手段は、検察審査会にこの件を持ち込むことだけだった。どんな結果になろう
 と、可能性のあることは、すべてやってみよう。ほんの少しでも、私はまだこの社会に
 希望を持っていたかった。  
・検察審査会は、不起訴処分とされた事件を被害者が不当と感じた場合に、検察の判断が
 妥当だったかどうかを審査してもらえる制度だ。選挙権のある国民の中から、くじ引き
 で選ばれた11人が審査員となり、提出された捜査記録をチェックする。場合によって
 は検察官から意見を聞いたり、申立人や証人の尋問などを行う。討論の結果、検察の判
 断を覆して「起訴相当」の議決が出ることもあるが、それには11人中8人以上の賛成
 が必要だ。
・「不起訴相当」、つまり不起訴の判断で間違いないという場合や、「不起訴不当」、つ
 まり処分に納得がいかないので捜査をし直すべき、という場合は、6人以上の賛成が必
 要だ。
・たとえ、起訴相当の決議が出たとしても、その後は簡単ではない。検察官の再捜査が行
 なわれる。ここで起訴の判断になる可能性もあるが、再び不起訴の判断が出ることもあ
 る。その場合は審査会に差し戻され、もう一度8人以上が「起訴相当」と判断すれば、
 強制起訴されることになる。強制起訴とは、検察の同意なしに起訴に踏み切ることだ。
・「山口逮捕」の情報を耳にした本部の広報課長が、「TBSの記者を逮捕するのはオオ
 ゴトだ」と捉え、刑事部長や警視総監に話が届いた。なかでも、菅官房長官の秘書官と
 して絶大な信頼を得てきた中村刑事部長(当時)が隠蔽を指示した可能性が、これまで
 に取り沙汰されてきた。
・中村氏とは、昭和61年警察庁入庁組のエース。民主党政権時代に菅官房長官秘書官を
 務めていて、自民党が政権を奪取した後は任を解かれる見込みだったが、「やらせてく
 ださい」と菅氏に土下座せんばかりだった。  
・「週刊新潮」の取材に対して、山口氏は思いがけない対応をした。編集部が山口氏に送
 った取材依頼書を、彼は「北村」なる員物に転送しようとして、誤って編集部に返信し
 てしまったのだ。「北村さま、習慣新潮より質問状が来ました。伊藤の件です」という
 メッセージが、なぜか「週刊新潮」編集部に届いた。その文面から、かねてから山口氏
 と北村氏の間で、今回の事案が問題視され、話し合われてきたことがわかる。
・北村と聞いて頭によぎるのは、北村滋・内閣情報官を措いて他にない。国内外のインテ
 リジェンスを扱う内閣情報調査室のトップを5年あまり務め、今夏には官房副長官への
 就任が確定的な北村氏は、今年だけで「首相動静」に55回も登場する。「首相動静」
 には現れない、水面下での接触も推して知るべしで、総理の一番近くにいる人物の一人
 なのだ。 
・官邸重用の警視庁刑事部長、昭恵夫人、北村氏と、山口氏の周囲に総理周辺の名ばかり
 挙がるのは偶然だろうか。何よりも、当時の中村格・警視庁刑事部長が、管轄署である
 高輪署の捜査を邪魔して逮捕状を握り潰さなければ、山口氏を一躍スターダムに押し上
 げた「総理」の出版も、その後のコメンテーター活動も、ありはしなかったのだ。
・当時刑事部長だった中村格氏が自分の判断で逮捕を差し止めたと認めたこと、山口氏が
 以前から「北村氏」に私のことを相談していたこと、この二つ事実がわかったのは、本
 当に大きな進展だった。
 
伝える
・近年、被害者の遺族が実名、写真を公開して事件を語るニュースが報じられた。
 2015年、過労自殺に追い込まれた電通社員の高橋まつりさん、2016年、いじめ
 により自殺に追い込まれた中学生の葛西りまさん。
・政府サイドが各メディアに対し、あれは筋の悪いネタだから触れないほうが良いなどと、
 報道自粛を勧める。各社がもともと及び腰なのは想像がつくが、これでは会見を報道す
 る社があるかどうか、司法記者クラブでの会見の前に言われた。
・私が会見で「共謀罪の審議が長引いて、刑法改正案の審議が遅れてる」と発言したのが、
 「共謀罪に言及した政治的な会見だ。バックには民進党がいるらしい」との憶測を呼び、
 一気にネットに流れたのには驚いた。会見後、私の個人情報は晒され、嫌がらせや脅し、
 批判のメールが殺到した。
・会見後にオファーのあったいくつかのインタビューに対応した帰り道で、私は倒れた。
 幸い友人が付添っていてくれ、すぐに病院に連れて行ってもらえた。それから数日間、
 体が動かなかった。咀嚼する力もなく、お腹も空かない。固形物は一週間以上、喉を通
 らなかった。 
・会見を経て、強く感じたことがある。それは、人はなぜ物事のメリット、デメリットば
 かりに注目するのか?ということだ。私の会見に対する批判的な声を見ると、そこには
 「個人的なメリットがなければ、こんな行動をするはずがない」という物の見方が、は
 っきりと感じられる。だから、売名、ハニートラップ、政治的意図などについての憶測
 が出てくるのだろう。会見では家族の意向で苗字を伏せたが、それについてもいろいろ
 詮索され、「在日だからだ」という声もあがった。
・私は左翼ではないし、日本人の両親から生まれたので、国籍は日本だ。私が仮に左翼で
 あっても、民進党の議員であっても、韓国籍であっても、性暴力を受けてよい対象には
 ならない。そして、そのことで非難の対象になるべきではない。私が誰であろうとも、
 起こった事実に変わりはないのだ。
・私があの時感じたのは、自分の意思に反して性行為や暴力的な行動を加えられ、知らぬ
 間に自分を支配されていた恐怖であった。記憶を失くしていることは、大変な恐怖であ
 った。自分でコントロールできるはずの体が、誰かによってコントロールされていたの
 だ。   
・事件から不起訴の結果が出るまで、1年4ヶ月かかった。不起訴の結果が出てから、検
 察審査会に提出するための証拠開示手続きや情報収集、独自の捜査、陳述書等の作成に
 は10ヶ月を要した。あの時、逮捕状が執行されたら、数ケ月で結果が出ていたかもし
 れない。おかしいと声を上げない限りは、私たちはずっと、この理不尽な運命を受け入
 れて生きていかなければいけないのだ。もし沈黙したら、それは今後の私たちの人生に、
 これから生まれてくる子どもたちの人生に、鏡のように反映されるだろう。
・会見の直後、「私もかつて同じような被害に遭いました」というメールをいくつか頂い
 た。そうしたメールはには、同じ会社、同じ業界の中で起こった、という言葉がしばし
 ば書かれていた。そして、ほとんどの人は、この恐ろしい経験について他人に打ち明け
 ることすら初めてだった。心の奥にしまい込んだまま生きていくことがどれだけ苦しい
 か、想像しただけでも息が詰まる。
・今でも、どうしても知りたいことが二つある。一つは、「なぜ逮捕を取り止めたのか」。
 中村格氏に、その判断の根拠をぜひ聞きたかった。この質問は警視庁捜査一課にも何度
 もした。言い訳ではなく、真実を聞けない限りは納得ができないことだった。私は今回、
 この本を出すにあたり、中村氏への取材を2回、試みたが失敗に終わった、出勤途中の
 中村氏に対し、「お話をさせてください」と声をかけようとしたところ、彼は凄い勢い
 で逃げた。人生で警察を追いかけることがあるとは思わなかった。なぜ元警視庁刑事部
 長の立場で、当時の自分の判断について説明ができず、質問から逃げるばかりなのだろ
 うか?
・あの日の出来事で、山口氏も事実として認め、また捜査や証言で明らかになっている客
 観的事実は、次のようなことだ。
 ・TBSワシントン支局長の山口氏とフリーランスのジャーナリストである私は、私が
  TBSワシントン支局で働くために必要なビザについて話すために会った。
 ・そこに恋愛感情はなかった。
 ・私が「泥酔した」状態だと、山口氏は認識していた。
 ・山口氏は、自身の滞在しているホテルの部屋に私を連れて行った。
 ・性行為があった。
 ・私の下着のDNA検査を行ったところ、そこについたY染色体が山口氏のものと過不
  足なく一致するという結果が出た。  
 ・ホテルの防犯カメラの映像、タクシー運転手の証言などの証拠を集め、警察は逮捕状
  を請求し、裁判所はその発行を認めた。
 ・逮捕の当日、捜査員が現場の空港で山口氏の到着を待ち受けるさなか、中村格警視庁
  刑事部長の判断によって、逮捕状の執行が突然止められた。
        
あとがき
・あのレディー・ガガ、奇抜な行動で知られる世界的なミュージシャンの彼女でさえ、
 19歳の時にレイプされたことを7年間、誰にも打ち明けることができなかったという。
 ようやく公にすることができて生まれたのが、「Swine]という曲である。7年経っ
 ていても、彼女の痛みや怒り、感情は、とても鮮やかに伝わってくる。
・苦しかった。誰も知らない部屋の重い扉に鍵をかけ、閉じ込めておきたかった出来事で
 あった。わざわざその扉を自分で開け、毎日のように鮮明に思い出す作業を、2年以上
 経った今も、しなくてはいけなくなったのだ。
・「大人の言うことを聞かなくてはいけない」そう言い聞かされて育ってきたのだ。「目
 上の人には敬語を使うこと。失礼のないように振る舞うこと」そう教えられてきた私た
 ちは、どうやって声を上げることができるだろうか?
・誰が子どもたちの言うことを信じてくれるだろうか?誰が子どもたちを守ってくれるだ
 ろうか?人は変化を望まない。特に、この国には「レイプ」についてオープンに語るこ
 とをタブー視する人たちがいる。そういう人たちは、誰から、何を守ろうと言うのだろ
 うか。私は、自分の掴んだ真実を信じ、その真実の中で生きている。  
・私はこの国で生まれ、平和に生きてきたことを感謝する。日本人であることに誇りを感
 じている。しかし、この平和は、いつも変わらずそこにあるものではない。だからこそ、
 私の経験から、この社会に何かを返したいのだ。たとえ私を批判する人がいたとしても、
 たとえ私がもう日本に住めなくなったとしても。
・レイプは魂の殺人である。それでも魂は少しずつ癒され、生き続けていれば、少しずつ
 自分を取り戻すことができる。人にはその力があり、それぞれ方法があるのだ。私の場
 合その方法は、真実を追求し、伝えることであった。
・今でも想像もできなかった苦しみを知り、またこの苦しみが想像以上に多くの人の心の
 中に存在していることを知った。同じ体験をした方、目の前で苦しむ大切な人を支えて
 いる方に、あなたは一人ではないと伝えたい。