朝の歓び(上下) :宮本輝

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脱近代宣言 [ 落合陽一 ]
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不倫の恋で苦しむ男たち (新潮文庫) [ 亀山早苗 ]
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あなたの人生を、誰かと比べなくていい [ 五木寛之 ]
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ひとり暮らし (新潮文庫) [ 谷川俊太郎 ]
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花伽藍 (角川文庫) [ 中山可穂 ]
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安閑園の食卓 私の台南物語 (集英社文庫) [ 辛永清 ]
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愛の重さ (ハヤカワ文庫) [ アガサ・クリスティ ]
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鬼降る森 (小学館文庫) [ 高山文彦 ]
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過酷なるニーチェ (河出文庫) [ 中島 義道 ]
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白楽天 官と隠のはざまで (岩波新書) [ 川合康三 ]
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なんとなくな日々 (新潮文庫) [ 川上弘美 ]
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夜明け前に会いたい (文春文庫) [ 唯川 恵 ]
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眠れぬ真珠 (新潮文庫) [ 石田衣良 ]
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聖地へ (幻冬舎アウトロー文庫) [ 家田荘子 ]
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魔が差したパン (新潮文庫) [ オー・ヘンリー ]
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秘密のひととき (集英社文庫) [ 赤川次郎 ]
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秘密の告白 恋するオンナの物語 (文芸社文庫) [ 亀山早苗 ]
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永井荷風ひとり暮らしの贅沢 (とんぼの本) [ 永井永光 ]
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今夜もひとり居酒屋 (中公新書) [ 池内紀 ]
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花淫れ (角川文庫) [ 池永陽 ]
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つばめの来る日 (角川文庫) [ 橋本 治 ]
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この小説は、妻に先立たれた40代の中年の男(良介)が、妻にかけていた生命保険がお
りて、まとまった金を手にしたことをきっかけに会社に辞め、かつての別れた愛人(日出
子) の故郷の能登に旅に出るところから始まる。その旅先で、偶然にも、かつての愛人と
また出合ってしまい、よりを戻す。
そして二人でイタリア旅行に出かけるのだが、その旅先でいろいろな出来事があり、また
別れることになる。しかし、二人の結びつきは思った以上に強く、またよりを戻すことに
なる。そんなことを経ながら、人生に迷った男は、最後には、妻が、かつて心の中で温め
ていた福祉の仕事という夢を継いで、福祉の道へ歩み出すことを決意する。
簡単にまとめれば、こんな内容の物語なのであるが、そんなに単純に言い表せないのが人
の人生である。そこに至るまでには、いろいろな出来事があり、いろいろな悩みや迷いが
ある。男にとって、それは深い暗闇を手さぐりで彷徨い歩く日々である。それは男にとっ
て深い闇であり、そして長い夜である。しかし、どんなに闇が深く長い夜であっても、必
ず朝は来るのだ。夜の闇が深く長いほど、朝を迎えるその歓びは大きいのだ。
朝とはどういうことなのか。それは人生の支え、生き甲斐を見つけ出すことである。人に
はそれぞれ生き甲斐が必要だ。しかし、その生き甲斐を見つけ出すのは、そう簡単ではな
い。いろいろ悩んだり、いろいろな経験を積みながら、やっと見い出すことができるもの
なのだ。この小説を読んで、そういうことを教えられたような気がした。 
この小説のなかで出てくる、パオロの話は、とても感動的で、心を揺さぶられた。思わず
涙を抑えることができなかった。人のしあわせとは何か。それは人それぞれが違うと思う
が、当たり前のことを当たり前にできるということの幸せに、改めて感謝する気持ちにな
った。そして、人の不幸とは、自分の心が作り出しているのだとも思った。もっともっと
という心が、不幸を作り出している。小さなことにでも感謝する心。身の丈に合った生活。
そして、「足るを知る」という心を持つことが、幸せへの近道なのだと思った。
 
黄色い輪
・江波良介は、海辺の旅館の窓辺に坐ったまま、ひとりで四十五歳に誕生日を祝ってウィ
 スキーを飲み始めた。良介は、妻の久子が亡くなって、ちょうど半年が過ぎたことに思
 いを傾け、そのあわただしかった半年間の疲れが、確かに自分の心身のそこかしこに重
 いこりを作っているのを感じた。妻が死んですぎに、娘の大学受験と息子の高校受験と
 が続いたのである。 
・良介は、夕暮れに見た奇妙な形の、木で組んだやぐらと、やぐらの上に坐っていた人形
 の姿を思い出した。それは「ぼら待ちやぐら」と呼ばれる昔の漁法を観光用に再現した
 ものだった。かつて、ぼら漁の漁師は、そこに坐って、ぼらの群れを見つけようとした
 のである。いまは、人間の代わりに、頬かむりをした人形が置かれているのだが、それ
 は風雨にさらされ、汚れて、しなびて、良介には、ひどく孤独で頑迷なミイラに見えた。
 大昔に、そこに坐っていた漁師が、そのまま息絶えて、ミイラになって、まだ坐り続け
 ているかのように思えたのだった。 
・四年前の春に日出子と三泊四日の旅をした際、この海沿いの道をバスで高校まで往復す
 るたびに、やぐらと人形から目をそむけ続けたと、日出子は珍しくはしゃいで言った。
 日出子との秘密の関係は一年続いたが、その年の秋には別れたのだった。
・良介は、会社を辞めた。四年前の秋に別かれた小森日出子が、去年の夏、能登の七尾に
 ある実家に帰ったということを、良介は日出子の友人から聞いていた。
・良介と日出子の関係は、知り合ってから別れるまで、誰にも知られなかった。しかし、
 別れてから二カ月ほどたって、良介は、一番の親友の内海修次郎に、おの俺にも女房を
 裏切るようなことが、たった一度だけあったのだと告白した。まさかこれが、日出子の
 仕事を奪う結果になるとは夢にも思わなかったのである。  
・日出子は、当時、宝石のデザイナーとして、やっと評価が定まりだしていて、ある大手
 の貴金属メーカーと契約を結んだばかりだった。日出子は、それまでの得意先への不義
 理を代償としても、有名な大手メーカーの専属デザイナーとなるほうを選んだ。
・その有名な大手メーカーの社長と内海が、大学時代、先輩と後輩の間柄で、大学を出て
 からも親交があった。内海は、酒の勢いで調子に乗り、堅物で知られていた自分の友人
 に、このような出来事があったと話して聞かせた。つい最近、大手の貴金属メーカーと
 契約した女性の宝石デザイナーということだけで、社長は、即座に小森日出子の名を思
 い浮かべた。その社長は、三年前から、日出子への下心があり、契約を結んだのも、思
 惑を秘めたことだった。その社長は、理不尽な感情を爆発させて、日出子との契約を一
 方的に解除した。   
・日出子から、事のいきさきを聞いた良介にしても、驚天動地とでも言うしかないこと事
 の顛末で、彼は内海を呼び出し、自分と女のことはお前にしか喋ってないぞと詰め寄っ
 た。内海もまた、青天の霹靂で、ひたすら良介に侘び続けた。
・しかし、良介は、内海を責める前に、この自分を責めるべきだと思った。内海に喋った
 自分が悪かったのだ、と。それきり、日出子から電話はかかってこなかった。良介も、
 日出子に、どんな方法で償いをしたらいいのか、まったく手だてが思いつかなかった。
・内海:「どうして会社を辞めたんだよ」
・良介:「疲れていたんだな。べつに衝動的に辞めたわけじゃない。女房が死んだときか
 らずっと考えてたんだ」  
・内海:「疲れたって・・・。そりゃあ、みんな疲れてるよ。四十代半ばの男ってのは、
 みんな疲れてるよ。とくに、サラリーマンは、疲れすぎてて、疲れを感じなくなっちま
 っているから、酒をかぶ飲みする。女を視姦する」
・良介:「女を視姦する?それが、男ざかりなのか?お前、視姦するだけでいいのか?」
・内海:「視姦と言っても、服の上からじゃないぞ。裸にしてだよ。裸の女を視姦してか
 ら、やっと、お相手していただくか、お帰り願うかを決断するわけだ」  
・内海:「もう勘弁してくれよ。俺はあれ以来、あの宝石屋とは縁を切ったんだ。前なん
 か男の風上にもおけない性格異常者だって言ってやったぜ」 
・内海と貴金属メーカーの社長とは、仕事上の付き合いはなく、単に大学の先輩と後輩の
 間柄だったが、夫人同士が仲良しで、そのために家族ぐるみの交際を続けていたのだと
 いうことは、あの事件のあと、内海から聞かされていたのである。 
・会社を辞めることを決心したときも、良介は、辞めた後の生活設計について思案をめぐ
 らせたりしなかった。大学を卒業して大手の製薬会社に入社し、二十三年間、営業畑を
 歩いてきて、同期の者たちよりも早く管理職についたが、それは何かの流れであって、
 自分の手柄だと思ったこともなく、とりたてて出世欲もなかった。
・良介は、ともかく一年か二年、自分の周りのしがらみや責任をすべて捨ててみたいとい
 う衝動に身をまかせたのである。  
・短気だが、気が優しくて、時折あきれるくらい涙もらい内海は、中堅の文具メーカーの
 営業部長だった。二十一のとき、二歳上の女と学生結婚したが、子供はいなかった。夫
 人のほうが、子供のできにくい体で、なんとか子供が欲しいと、あちこちの病院の婦人
 科に相談したが、いまはあきらめてしまった。夫人は、大学を卒業して小学校の教師に
 なり、いまもその仕事を続けているのだった。 
・良介の三つ違いの兄は、もう十年近く、ローマで暮らしている。兄は、父や母の反対を
 無視して、高校を中退し、しばらく行方をくらました後、多額の借金をかかえて帰って
 いて、父の退職金の大半を使わせ、再び姿を消した。良介が大学二年のとき、母が死ん
 だ。八方手を尽くして兄の行方を捜したが、見つからなかった。そのころ、兄の伸介は、
 母親の死を知らないまま、ヨーロッパを放浪していたのだった。いま、兄の伸介は、ロ
 ーマの有名な革製品の会社で、革をなめす職人として働いている。 
・良介は、別れる一カ月前に、日出子に言われた言葉を思い出した。「どうしてそんなに、
 奥様への罪悪感をむき出しにして、私と逢いつづけるの?全身、罪悪感て感じで、もう
 私の前に出てこないで。笑ってても、喋ってても、私を抱いてても、あなたが罪悪感て
 いう鎧を脱いだことがあった?そんなに愛していて、大切にしている奥様がいるのに、
 どうして、私とこんな関係を続けるの?私、あなたとこんな関係になって楽しかったこ
 となんて一度もない」 
・能登で偶然再会した日出子は、自分が能登の実家に帰ってきたのは、母が脳梗塞で倒れ
 たためだと言った。「お母さんが倒れる前に、おばあちゃんが、ひどいボケ老人になっ
 てから、どうのもならなくなったの。あなたのせいじゃないの」と日出子はつぶやいた。 
・生きることで生じる様々な苦しみ、確実に老いていくことの苦しみ、病むことの苦しみ、
 そして必ず死んでいくことの苦しみ。 
・日出子:「私は、仕事に向いてないの。人間同士のしがらみとは無縁の仕事なんて、こ
 の世の中にはないんだもの。私は、仕事のしがらみを処理する能力が欠如している。仕
 事で生じるしがらみと、人間同士のつながりで生じるしがらみが、いつのまにか、おん
 なじ接点でつながっているんだったら、私は、どっちかを捨てるしかないわ。東京での
 暮らしも、私には、むいていないの。私、半病人みたいだった。東京で暮らしていると
 きは、いつも、半病人だったわ。田舎に帰って来てから、やっと生き返った気分なの。
 もう、東京へ戻る気なんてないの」
・良介は、小森日出子という女が、金善的な面でも、約束を守るという面でも、いかに誠
 実であるかを知っていたのである。その二つの誠実は、日出子の言葉をもじれば、「潔
 癖さという鎧」とも言えるほどだった。そしてそれこそが、彼女の精神の均衡を崩れや
 すくもしているのだった。  
・日出子は、もしその気になれば、「猿山灯台」へ行ってみたらどうかと勧めた。「そこ
 から海を見ると、地球が確かに丸いことが、はっきりわかるわ」
・泊った旅館の仲居が話しかけてきた。仲居は、日出子が昔から、この能登では有名な存
 在だったのだと。周りを気にした様子で言った。日出子の美貌だけではなく、その言動
 もまた否応なく日出子を中学生の頃から目立たせてきたのだと。「日出子さんは自分で
 作った切符ですがいね。自分に逢いたい男に、あの人は切符をあげるのが癖で、切符が
 十枚たまったら、ええことさせてやるっちゅうて・・・」 
・それにしても、先のことも考えず、突然、会社勤めを辞め、死んだ妻の生命保険で、し
 ばらく遊んで暮らそうと目論んでいる父親が、息子に、高校を辞めてはならないと叱責
 できるだろうか。良介は、我知らず頬杖をつき、落ち着かなく視線をあちこちに向けな
 がら、何度も小さく舌打ちをした。まさか、こんな場合に、実は俺も会社を辞めてねな
 んて言うわけにはいかんな・・・。
・自分の知り合に、登校拒否の子供で悩んでいる者はいるだろうか。もしいれば、助言を
 請いたいものだ。良介はそう思ったとき、そうだ、最高の助言者がいるではないかと気
 づいた。兄の伸介であった。兄は、高校生のとき、父にも母にも相談なしに退学して、
 家を飛び出したんだっけ。親を悩ませた当事者に相談をもちかけるのが、何よりの得策
 というものだ。   
・良介は、法律を犯さない限り、何をどう咎められることのない大学生活の自由な四年間
 は、青年に多種多様な幅とか許容量とかをもたらすものなのだと考えていた。日本の大
 学制度が正しいとか間違っているとか、無駄な金を使って遊びに行く場所だとかの問題
 とは別の次元で、彼は大学生活が青年に与えるものの重要性を知っているつもりだった
 のである。彼は自分の息子に、別段、一流の大学に入ってもらいたいと希んだことはな
 いが、何物にも束縛されない、きままな四年間を、人生の一時期に持つのと持たないの
 とでは、やはりそれ以降の人生に大きな影響をもたらしてくれる。それは、学歴の問題
 とは別の部分における差異となって、不思議なあらわれ方をすると思っていた。だから、
 良介は、自分の息子に、大学生活を経験させてから世の中に出してやりたいと思ってい
 るだけなのだった。 
・法を犯すものでないかぎり、自分は自分のすることを愛してみよう。そうでないかぎり、
 何のために会社を辞めたのかわからないではないか。自分らしく向き合うしかない。そ
 れにしても、自分らしくとは、具体的にどんなことなのだろう。わがまま勝手に振る舞
 うことではあるまい。
・良介:「まったく困ったもんだな。日本の教育ってのは。自分の考えを、自分の言葉で
 喋れない人間ばかり養成しているわけだ。問題を作成した人間が求めている解答以外は、
 みんな不正解とする管理教育だよ」
・良介:「いまの中学校とか高校ってとこはね、世の中は嫌なことばっかりで、だけど、
 その嫌なことに我慢して付き合うってことを学ぶところだな。世の中は嘘とインチキば
 っかりで、顔と腹とは違ってばかりで、だけど、それをちゃんと承知のうえで、その嘘
 やインチキと付き合ってやるってことを学ぶところだな。大人ってのは、自分も反抗心
 ばっかりの中学生や高校生だったことを忘れちまった連中だってのを、じっくり見物す
 るところだな。だから、学校を、中学で辞めた高校で辞めたりすると、世の中に出てか
 ら、まったく使い物にならない人間になる。嫌なことを我慢したり、嘘やインチキと付
 き合わないまま、世の中で出てしまうわけだからね」 
・良介:「いまの中学や高校は、最低で最悪だよ。まともな教師なんて、ほんのひとにぎ
 りだ。百人の教師のうち八十人くらいは、事なかれ主義の、管理主義の、面倒なことは
 避けて通る月給取りだ。でも、社会へ一歩出てみたら、そんな連中が百人のうち九十五
 人もいるってことに気がつくぞ」 
・良介:「学校ってのは、やっぱり、勉強するところなんだよ。勉強が大好きだってやつ
 も、たまにいるけど、まあ、人間て、できるだけ遊んで怠けたいものさ。遊んで、楽を
 したいって本音を、学校や教師のせいにするなよ。自分のために勉強するんだからね。
 親や教師のために勉強するんじゃないんだ。勉強するってのは、自分に克ことさ。自分
 に克たないと、宿題ひとつ片付けられないよ。自分に負けた言い訳を、学校や他人や社
 会のせいにするための論法だけ上手なやつが、一人前に社会人になれないまま、歳だけ
 とっている」  
・良介は、妻が息を引き取る十日ほど前に、抱いてくれとせがみ続けたときのことを思い
 浮かべた。何を言っているんだ、ここは病院だぞ、いつ看護婦が入ってくるかわからな
 いぞ。良介は笑って、妻の額を撫でたが、妻が冗談を言っているのではなく、真剣に夫
 との交わりを求めているのに気づいたのだった。妻は痩せ細っていたが、内臓の癌は、
 腹膜に多くの水を溜めて、そこだけ膨れ上がっていた。良介は、妻の心を思って、妻の
 求めに応じようと試みた。けれども、痩せた胸と、腹水が溜まって膨れ上がっている腹
 を目にすると、自分の体をそのような状態にさせることは不可能だった。 
 
崖の家
・死を目前にした妻が、ほとんど醜悪とも言える裸体を見せて、なぜ夫との交わりを、あ
 れほどまでに求めたのか。良介は、「人間だからな。人間だからな」と何度もつぶやい
 た。 
・「子供ができたんだ」良介は、無言で内海を見やった。内海夫婦に子供はなく、内海の
 妻は、八年前に早期の子宮癌が見つかって、子宮を摘出していたのだった。「相手は誰
 だい」「千恵子だ」「二年前に別れたんじゃないのか?」「あいつも三十九だ。絶対産
 むって、その一点張りだ。あいつ、俺と知りあう前に、三人ほど、付き合ってた男がい
 るけど、一度も妊娠しなかったって言ってた」 
・内海:「俺は女房が好きなんだよ。俺が他の女に子供を生ませたりしたら、あんまりに
 も女房が可哀相だよ。女房は、子供のできない体になっちまったんだからな。女房が嫌
 いで、千恵子とこんな関係になったんじゃないんだよ」 
・内海:「五年ほど前にゴルフ場で知り合った人なんだけど、今年、八十一歳になるおじ
 いさんがいるんだ。どんなに頑張っても、ドライバーで百三十ヤード飛ぶか飛ばないか
 だ。でも、グリーン廻りは、溜息が出るくらいにうまい」「この人が、会社人間だった
 のか、何か商売をやっていたのか、俺は知らないけど、まあどっちにしても、仕事から
 リタイヤしたことは間違いない」 
・内海は、その老人についての噂を良介に話して聞かせた。その老人は、一度結婚したが、
 離婚し、それ以後、再婚しないまま、今日に至った。しかし、愛人が二人いて、その愛
 人のあいだに四人の子供をもうけた。四人の子供は、その老人の子として認知し、みん
 な大学を卒業させ、いまはそれぞれ独立して所帯を持っている。彼が離婚したのは、ど
 うも四十代の時らしいが、そして離婚説のほうが多いのだが、妻と死別したのだという
 人もいる。 
・内海は、二歳年下の自分の弟のことを話した。彼の弟は、良介が勤めていた会社よりも
 かなり規模は小さいが、若い優秀な研究者たちをかかえる製薬会社に勤めている。去年
 の秋に、営業課長に昇進し、毎日、病院を廻って売り込むという仕事から管理職に変わ
 ったが、それでも大事な販売戦略をおこすときは、大学病院の医長たちを接待したり、
 厚生省の役人に接触をかけなければならないのだった。 
・内海:「日本て国は、腐ってんだよ。何もかもが利権がらみで、どいつもこいつも、他
 人の金で遊ぶことしか頭にねぇんだ。でも、そんなことに腹を立ててたら、製薬会社の
 営業マンなんて、一日も務まらねぇぞと弟は言ってたよ」
・内海:「俺は自分が、とんでもないことをお前に頼んでいることは、重々承知の上でな
 んだ。俺の子を、お前の子として認知してくれないか。その子は、実はこの内海の子だ
 ってことは、弁護士をたてて、俺が正式に書面で証明しとくよ」 
・良介は、非常識と言えば言える内海の頼みごとについて考えた。もし、自分が断れば、
 千恵子という女性に宿った子は、この世から抹殺されるかもしれないのだろうか。どん
 なに、女性に生活力があり、産みたいと欲しても、それがよほど強固な決意でないかぎ
 り、結局、迷ったあげく、女はみずからの意志で堕ろす可能性のほうが多いと思えたか
 らだった。 
・良介が「サラリーマンだと一週間も休めないよ。日曜や祝日を入れても、実際には三日
 ほど休暇を貰うだけなのに、上役に嫌味を言われるからね」と言うと、飲み屋の主人は
 「私みたいな商売でも、十日ほど店を閉めていると、つぶれたかと思われて、お客さん
 がこなくなっちゃう」と言った。
・良介は、ともどもに苦しみを増すためのセックスというものがあるのだと思った。「人
 間だけだよ。セックスによってかろうじて繋がってる心で、なおセックスするってのは。
 馬鹿の人間にしかできない芸当だよ」
・良介は、日出子との一年間が、ただ苦しいだけで、何ひとつ楽しいことなどなかったの
 を思いだし、それは何もかも自分のせいだったのだと思った。けれども、俺は、日出子
 を愛したのだ。妻を愛し、家庭を愛し、なおかつ、日出子という女をも愛したのだ。
・日出子の美貌は、すでに中学生の頃から、男たちを魅き寄せる力を持っていて、それを
 承知した日出子がは、自分で切符を作り、自分に逢いに来た男たちに渡した。これが十
 枚溜まったら・・・という含みを持たせて。 
・日出子も、俺に、手製の切符を渡せばよかったのに・・・。そうすれば、どうしても陽
 気にならない秘密の関係の底に穴があいて、幾分かは風通しが良くなり、思いがけない
 道が開らけたかもしれないのに・・・。    
・イタリアのポジターノって町は、海に面した断崖絶壁に民家やホテルがひしめきあって
 るの。断崖の岩を掘って、そこに家を造ったって感じ。その断崖の一番上のあたりに、
 一軒だけ、ぽつんと離れて建っている小さな家があるの。たぶん、ご夫婦は、ホテルか、
 レストランに勤めていると思うわ。その崖の上の一軒ぽつんと離れてる家に、六歳にな
 る男の子がいたの。もし生きていたら、十九歳になってるわ。その子、精神薄弱って言
 ったらいいのかしら、とにかく、数字は一から十までしか数えられないし、言葉は、朝
 晩の挨拶だけしか、ちゃんと言えない。でも、相手が話してることは、ほとんど、わか
 ってると思う。私、その子に逢いたいの」と日出子は言った。
・ホテルのバーは混んでいたが、カウンターの席が二人分だけ空いていた。良介は、スコ
 ッチの水割りを注文し、すぐに戻って来るから、この席を取っておいてくれとバーテン
 に頼むと、日出子の部屋に向かった。抑えようのない衝動が、自分の体を勝手に動かし
 てしまっているような気がした。部屋のチャイムを押すと、日出子がドアを開け、無言
 で二、三歩あとずさりしてから、かすかな悲鳴に似た声をあげて、良介にむしゃぶりつ
 いてきた。日出子の柔らかい腰に片手をまわし、良介はドアを閉めて、部屋に入りなが
 ら、日出子と唇を合わせた。そして、もう片方の手で、服の上から日出子の乳房をまさ
 ぐった。そして、やっと自分の唇を日出子のそれから離すと、良介は、日出子の、あま
 りにも光すぎて、何かが憑いてしまったのではないかと不安を感じさせる目に見入った。
・日出子が、ベッドに来て、横わたると、ほとんど何も技巧を弄さないまま、すぐに良介
 と日出子はひとつになった。四年前、日出子にはそうやすやすと歓んでなるものかと歯
 を食いしばっているみたいなところがあったのだが、いま、そんなものは溶けてしまっ
 て、彼女もまた不必要な自意識を遠くへ投げ出しているかに見えた。良介が驚くほど、
 日出子はその瞬間、汗をかいた。   
・日出子は、ためらいながら、良介のものを指で握ったまま眠りたいのだとささやいた・

月光
・良介は、夕暮れの雑踏のなかに入った。おおかたの勤め人の帰宅時間と重なって、雑踏
 の流れには、疲弊と活気が入り交じっているようなところがあった。自分も、これと似
 た雑踏のなかの一員だったのだが、いまは違う。けれども、「みなさん、お勤め、ご苦
 労さま。私は、気楽に遊び暮らしております。毎日、みなさんは、嫌なことばっかりで
 しょうなぁ。私は、幸か不幸か、はたまた何を血迷ったのか、二十三年も勤めた会社を、
 四十五歳で突然辞めて、みなさんがたを、対岸から眺めて、いい気分ですよ」とは思え
 ないのはなぜだろうか。良介は、なぜか、働いている人々に、自分を見せたくない心持
 ちを抱きながら、そう思った。 
・良介は、妻のことを思い出しながら、肩を落として歩いた。妻は優しくて、俺のことを
 まったく疑いもしなかった。他人の悪口も言わず、他人の幸福をやっかまず、茶目っけ
 があって、行動的だった。 
・良介は、日出子との、奇病なほどの相性の合った交わりが甦ってきた。妻のいる、いな
 いが、あれほどまでに、女の体を変えるのだろうか・・・。「リョウは、男盛りね」日
 出子がささやいた言葉は、良介にとっては、煽情的で蠱惑的だった。彼は、誰にも気づ
 かれないよう、下を向いて、苦笑した。あの夜も、次の夜も、日出子は良介のものを握
 って眠りに落ちていったのである。幼い子が、いつも抱いているぬいぐるみなしでは眠
 られないのと同じような気楽さで、二日目の夜、日出子は良介のものを握り、「癖にな
 ったら、どうしようかしら」と言ったのだった。 
・内海:「例の件、本気で考えてくれたのかなぁっと思ってね」
・良介:「考えたよ。でも、これは、容易ならざることだぜ。法的な問題なんて、たいし
 たことではないんだ。そんな問題とは違う次元のところで、容易ならざることだってい
 う結論が出た。そういう結論に達しただけで、そこから先には進んでないよ。だって、
 生まれてきた子は、理解できる年齢に達するまでは、自分の父親が江波良介であるとし
 て育ち続けるんだ。そして、あるとき、実はそれは嘘だと教えられる。これは、ひとり
 の人間に対する冒涜だ。つまり、江波良介という隠れミノを必要としているのは、子供
 じゃなくて親のほうだってことさ。それは、世間体だとか、制度だとか、自己保身の次
 元であって、その子が人間として生まれ、人間として、ちゃんと育っていくこととは無
 関係な事柄だよ」 
・新しい生活・・・。自分にとって、新しい生活とは何だろう。新しい生活を、社会から
 ドロップ・アウトすることで始めた自分とは何だろう。自分は、いったい、何を、どう
 しようと思っているのだろう。 
・そうであることを否定し、嫌悪しながらも、自分が、やはり骨の髄まで、企業という機
 構のなかで働いていきた人間だと認めざるを得なかったからである。 
・<心の師とはなるも、心を師とせざれ>
・<学ばずは、卑し>
・「人は、必ずひとりで死ぬ。親も子も女房も、一緒に付き合って死んでくれたりはしな
 い。つまり、一緒に死ぬってことが、ぎりぎりの、究極の愛の証しだっていうふうに煩
 悩がひとり歩きを始める。心中ってのは、究極の煩悩さ、何の知恵も生みだせなかった
 煩悩の末路なんだ。人間は、煩悩があるから、とんでもない知恵へと到達する。煩悩が
 知恵へと変る。なんだか、そんな気がするんだ」内海は言ってから、照れく臭そうに笑
 った。
・兄は、白髪が多くて、実際の歳よりも四、五歳老けて見えたが、元来の、気弱そうな目
 には、安寧な光があった。「俺は、あいつと結婚してもいいと思ってるんだけど、あい
 つは別れた亭主のことが忘れられないんだ。女ができて、行方をくらました亭主のこと
 が忘れられないんだ。俺は忘れられるようになるまで待とうと思って・・・。でも、あ
 いつの娘は、俺によくなついてくれてね」
・良介は、兄の、かつての両親への反抗や、突然の失踪などが、何が起因していたのかと
 いう事柄について、兄に問いただすことは、もはや無意味なのだと思った。まだ、大人
 になっていないころ、兄には、受けとめてもらいたい何らかの信号があったが、誰もそ
 れを理解できなかった。そのために、家族との生活を拒否して家を出たが、それによっ
 て、取り返しのつかない過去を負ったのは、他ならぬ兄自身だったのだ。けれども、い
 かなる経緯があったのかはわからないが、兄はローマで、革をなめす職人の道に進み、
 ちゃんと仕事をして認められ、イタリア人の子持ちの同居人と暮らしている。それでい
 いではないか・・・。 
・愛して、一緒に暮らしている女が、自分を捨てた亭主に手紙を出し続けている・・・。
 それを見て見ぬふりをして、女がいつか亭主のことをあきらめてしまうときを待ってい
 る・・・。そのときが来れば、結婚したいと思っているが、そんな自分の気持ちを口に
 しないまま、じっと待っている・・・。到底、俺には真似のできないことだなと良介は
 思った。  
・「俺は、謝るってことができない人間だったけど、いまは、それができるようになった。
 歳のせいかな。でも、俺みたいな人間がたくさんいるな。謝ることができないとか、人
 の好意を好意として受けとめられないとか、感謝する心がないとか・・・。そんな人間
 がたくさんいるよ。自分の言い分はたくさん抱えるけど、人の言い分は拒絶するとか、
 自分は嫉妬するが、相手の嫉妬は軽蔑するとか、自分は自由に気ままに生きたいが、自
 分の愛する人間には干渉するとか。もっとあるな。自分が必要とするときだけ、愛する
 人を受け入れられるが、自分がわずらわしいときは口もききたくないとか・・・。自分
 のつまらない冗談が相手を怒らせても、それは相手が悪いのだって言うくせに、相手の
 冗談で自分が傷ついたら、烈火のごとく怒るとか・・・。俺は、そんな人間だったよ。
 こういう人間は、いつも、つっぱってて、ちょっとしたことで、しょっちゅう頭に血が
 のぼって、より良くするための妥協がなくて、公使を混同して、臨機応変に気持ちの切
 り換えができなくて、人を許せなくて、自分はいつも、おお、よしよしって頭を撫でて
 もらいたくて、身びいきで、気位と誇りは高いくせに、自分の実際の生活は何程のもの
 でもないどころか、まっとうな人生からちょっと外れたところで生きている・・・。俺
 は、そんな人間だったよ」と兄の伸介は屈託のない微笑みを良介に注いで言った。
・市川という男は、日出子のいったい何なのか。なぜ、その男の留守番電話の暗証番号を
 日出子は知っているのか。日出子は、市川という男に嘘をついてまで、江波良介と付き
 合う必要などないではないか。江波良介とは、四年前に終わった。その後で、日出子に
 好きな男ができても、それは自然なことで、正直にそう言ってくれれば、自分は何のこ
 だわりもなく、二度と日出子の前に姿を現わさなかっただろうし、こうやって、二人で
 イタリア旅行に出発することもなかった・・・。
・日出子が、市川という男を好きならば、自分は去ればいい。確かに、自分は日出子を好
 きだが、愛しているわけではない。妻にしたいという気持ちは、いまのところ、まった
 くない。自分は、日出子に騙されてまで、付き合う気はないのだ。  
・「ちょっと、のぼせたかな。屋上のテラスで涼んでくるよ」良介は、螺旋階段を登り、
 広場を見下ろせるところに立ち、バスタオルで額の汗をぬぐった。広場には、まだ何人
 かの若者たちがいたが、人通りは、ほとんどなかった。階段の中程に、髪の長い女が、
 膝をかかえるようにして、ひとりで坐っていた。薄明りが、その女の横顔を仄かに浮か
 びあがらせていた。欧米人ではなかったが、日本人なのかどうかはわからなかった。女
 の横には、大きな旅行鞄があった。 
・良介のいるところからは、若い女が、どうやら東洋人であることと、セーターの大きな
 ひまわりの柄と、白いコットンパンツが判別できるだけであった。それなのに、良介は、
 その若い女が、ひどく憔悴した、行くあてのない人のように感じられた。誰かを待って
 いるといった風情ではなかったのである。 
・良介は、日出子を抱きたくなかった。それで、そうしなくてもいい口実を考え始めたと
 き、日出子が上半身を良介の胸に覆いかぶせてきた。 
・妙に濃密な交わりの終わり近くに、電光が途絶えた。良介は、シャワーを浴びて、再び
 屋上のテラスにあがった。若い東洋人の女は、誰もいなくなった広場の階段で、月光を
 浴びながら、膝を抱えてうずくまっていた。 
 
渚と洞窟
・良介は、無数の若者たちや、観光客たちでひしめき合う広場の階段に、黄色のひまわり
 の絵柄のセーターを見つけて、歩みを停めた。坐っている場所は違っていたが、夜更け
 に見た若い女は、相変わらず、スペイン広場の石の階段に腰を降ろしたままだったので
 ある。 
・女の布製の旅行鞄には、航空会社のシールが貼られ、そこに、日本字が書いてあったの
 で、良介はその若い娘が日本人であることを確認できた。あれからどこにも行かず、こ
 こに坐り続けていたのであろうか・・・。良介は、二十二、三歳と思われる女の、血の
 気のない、悄然としていながらも、どこか品の良い顔立ちを盗み見た。
・良介は、似顔絵描きの男の近くに腰を降ろし、振り向いて、女の様子をさぐると、女は
 腕時計を見、それから、小さなショルダーバッグから、飛行機のチケットらしいものを
 出した。そして、それをバックにしまい、寒そうに身をすくめて、両の掌で、こめかみ
 のあたりを押さえた。女の髪は、雨で濡れていた。  
・風変わりな旅人なんて、たくさんいる。最近の若い娘なんて、何を考えているのかわか
 らない。スペイン広場の石の階段に、一晩坐り込むことを、旅の目的にしてたって、別
 におかしなことではない。良介はそう思ったが、女の顔色の悪さが気になってきて、腰
 をあげた。「ねぇ、昨日の夜から、ずっとここに坐っているんじゃないの?」良介は、
 女の横に行くと、声をかけた。女は、驚いたように顔をあげた。
・良介はホテルの、自分の部屋のあたりを指差し、「ぼくは、あそこに泊っているんだけ
 ど、屋上から、きみの姿が見えるんだよ。夜中にも、きみはひとりで坐っていた。朝か
 ら雨が降っているのに、濡れながら、こうやって、まだここに坐っている。余計なお世
 話かもしれないけど、風邪、ひくよ」  
・女は、怪しむような目で良介を見ながら、体をねじって、階段の上のホテルに目をやり、
「ええ、でも、ここが一番、安全だから」良介は、自分の娘とほとんど年齢が変わらない
 女が、小刻みに震えているのに気づいた。「ひったくりに遭ったとか、詐欺師にひっか
 かって、文無しになっちまったとか、そんなんじゃないのかい?」もしそうであるなら、
 日本大使館に行くのが一番いいのではないか、と良介は言った。
・良介は、見知らぬ他人の事情に介入する気はなかったが、おそらく、空腹と、雨に濡れ
 たために震えているであろう同邦の若い娘を放っておくことができなくなった。こんな
 ことをするのは、とても失礼かもしれないが、あとで返してくれればいいから、とりあ
 えず何か食べたらどうか。良介はそう言って、何枚かのリラ紙幣を出した。
・女は、首を横に振り、ご好意はありがたいが、見も知らぬ人からお金を借りるわけには
 いかないと、断固とした口調で言ったくせに、目に涙を滲ませ、それを隠そうとして、
 顔を伏せた。格別、美人とは言えなかったが、気性のしっかりした、清潔感を漂わせて
 いる女の掌に、良介はリラ紙幣を無理矢理握らせ、「ぼくは、別に怪しい者じゃないよ。
 外国で、一文無しのまま、何も食べないで、もう十五時間も、待ち合わせの相手を待っ
 ている人を放っとけないからね。こういう場合、遠慮したり、意地を張っても、何ひと
 つ得はしないよ」 
・日出子は、七尾湾で再会したのは、偶然ではないのだと言った。「私、あなたが、いつ
 か、あそこに来そうな気がしてたの。ほんとは、あそこで、リョウを待ち伏せてたって
 いうほうが正しいわ」
・良介の脳裏には、スペイン広場の階段に坐り続けていた、大きなひまわりの絵柄のセー
 ターを着た、空腹と寒さで震えていた若い日本人の女の香りがあった。香りは、まるで
 発散していない女みたいだったのに、良介にはあっためてやれば、柑橘類の香りが、む
 せかえってきそうな気がしてきたのである。
・もしかしたら、あの女は、もうどこかへ行って、帰ってこないかもしれない。いや、そ
 の確率は、予想以上に高い。けれども、また、あの階段に戻ってくるかもしれない。も
 し、戻っていたとすれば、それは、俺に、金を返すたえでもあるし、待ち合わせをして
 いる人が、やっと来たことの幸福感であるかもしれないし、人間の好意に、自分が、い
 ま、できうる最大の好意を返すための、演技であるかもしれない。
・いずれにしても、あの女は、必ず、スペイン広場の階段に戻ってくる・・・。それが、
 彼女の、いかなる理由であるにしても、もう一度、あそこに坐るだろう。もし、それが、
 俺という中年男の、甘い人間観だとしたら、俺は、日出子に、騙され続けることをやめ
 よう。俺は、何を求めたか。シンプルであること?それは、少し違うな。
・日出子に何を求めて再会したのかさえ、良介にはわからなくなったいた。まさか、日出
 子との関係に、濃密な性が待ち受けていようとは考えもしなかったからである。四年前
 にはなかった濃密な性は、お互いの成熟を意味しているのではなく、双方が、不自然な
 立場ではなくなったせいでもないと良介は思った。お互いが、ある種の狷介さと貧婪さ
 を身につけてしまったのだ。不自由であったことが、欲望に枷をはめて、わがままも、
 心行き違いも、一定の幼稚さを保つことができたのに、枷が外れて、何かが部分的に発
 達した。  
・良介は、屋上のテラスへ行った。そして、ひまわりの絵柄のセーターを捜した。それは、
 すぐにみつかった。若い女は、ホテルの屋上にいる良介に気づいて、立ち上がり、小さ
 く会釈をした。知り合いらしき人間は、彼女の周囲にはいなかった。
・木内さつきというのが、女の名で、住まいは、東京都目黒区となっている。どんな相手
 なのかも、いかなる事情なのかもしれないが、待ち合わせの場所にもあらわれることな
 く、この子の金を自分の鞄に入れたまま、帰ってしまうなんて、不注意を通り越して、
 無責任というしかない。  
・木内さつきは、うなだれて、石の階段を見つめてから、笑顔を良介に注いだ。その、わ
 ざと陽気に振る舞おうとしている若い女の笑顔が、良介には、ひどく意地らしく感じら
 れた。
・どんなお節介と思われようが、航空会社まで連れて行ってやるしかなかったのだが、そ
 のうち、彼女の服装や持ち物などを、仔細に観察し始めた。気軽の服装ではあったが、
 同行者がいなくなってしまえば一文無しになるような貧乏旅行者とは思えなかった。
・「他人の事情に立ち入る気はないけど、どんな理由で、こんなはめになったんだい?」
 と訊いてみた。「もうじき、結婚する予定だったです」と木内さつきは、悪びれる風も
 なく答えた。その目には、幾分かの怒りと達観とが混じり合っていた。「新婚旅行を兼
 ねてたんです。彼は、来月から、仕事でロンドンへ行くことになってて、どうしても時
 間がとれないので、式を挙げる前に、新婚旅行をやってしまおうって・・・」「でも、
 まだ結婚式の前でよかったんです。もし、式を挙げた後にこういうことになってたら、
 私の家も、彼の家も、みんなが恥をかきますから。私、こうなって、よかったと思って
 ます。ほんとに、そう思ってるんです」その言葉には、男との、間近に迫った結婚を取
 りやめるという意志が込められていた。
・突然、良介のなかに、奇妙な思考と衝動が膨れ上がった。この女を、ポジターノへつれ
 て行けるだろうか。別段、この女と何をしようという気はない。ただ、俺も、日出子を
 こけにしてやる。俺は、ポジターノで日出子と過ごしながら、日出子と内緒で、この女
 と食事をしたり、海で泳いだり、酒を飲んだりするのだ。何のためにそうするのかはわ
 からない。
・良介は、婚約者に置き去りにされてしまった若い女の怒りや失意や哀しみなどを、自分
 がまったく度外視していることに気づいた。すると、自分の心の別の部分も、冷静にな
 ってきて、日出子について、第三者的な考えを、めぐらしてみようという気持ちになっ
 たのだった。日出子は、良介の妻の死を知っていた。いつか、きっと、能登にやってき
 そうな気がして、そのときおそらく「ぼら待ちやぐら」のところに来るだろうと考え、
 しょっちゅう、あの前を車で通った。今度の旅行のことを持ち出したのも日出子のほう
 からだ。もし、日出子に好きな男がいるなら、どうして「ぼら待ちやぐら」のところ出
 車を停めたのか。どうして、上京することを自分のほうから知らせてきたて、一緒に夜
 を過ごしたのか。それも、四年前とはまるで違う、解き放たれたような濃密な夜を・・。
・昔は、海から襲ってくる敵を監視したり迎え撃つための要塞の町だったのかもしれない
 と考えてしまうくらいに、ポジターノの町は、あえて建築の難しい断崖絶壁に、どの家
 も、海と対峙して建っていた。あるいは、嵐のときなど、ティレニア海の強風から家屋
 を守るためには、その大半を岩石に没した形にしなければ、ひとたまりもなく吹き飛ば
 されてしまうかもしれないと良介は思った。 
・良介は、日出子と一緒に部屋を出たが、忘れ物をしたと嘘をついて、部屋に戻ると、さ
 つきが昨日から泊っているホテルに電話をかけた。さつきは部屋ではなく、そのホテル
 のロビーにいた。フロントあらさつきの姿が見えたらしく、電話に出た男は、そのまま、
 さつきの名を呼んだのだった。さつきは、海岸に近いところにある教会の名を言い、そ
 この前で逢うほうがいいのではないかと、遠慮ぎみに言った。
・良介は、死んだ妻のことを、いっとき思い浮かべ、このホテルのメイン・テラスでセー
 ターを待っているのが、妻であったら、どんなに幸福であろうかと思った。もし、妻が
 生きていたら、それを幸福とは思わないであろう。見慣れた日常の光景が、ひとつ、自
 分の前から消えていった。そのひとつは、かけがえないものだったのだ。
・「トランプでもやらない?」と日出子は言った。日出子は、かぶりを振り、カード台か
 ら、そこし上半身を良介のほうに突き出すようにしてから、セックスでは、いつも自分
 はリョウに負け続けていると囁いた。日出子の目は、囁きながら、確かにうるんでいた。
 「セックス?セックスに、勝ち負けなんてあるの?」「私も、そんなことは、考えたこ
 とがなかったわ。四年前には、リョウとのセックスが苦痛だったときもあるの。でも、
 いまは、いつも、完全に降参している。降参して、頭が変になりそうになって、底なし
 沼になかで、ぼんやりしている」
・良介は、微笑を日出子に注いだまま、その腹の奥をさぐろうとした。性的な話題は、日
 出子のもっとも苦手とするところだったのに、自分のほうから口にするのは、何か魂胆
 があるのではないかと思ったのだった。「だって、私、夜になると、リョウに抱いても
 らいたくて、待ちきれなくなるんだもの」と日出子は、良介を見つめたまま言った。顔
 には羞恥が見え隠れした。
・さつきは、まだ来ていなかった。良介は、教会への階段の中途に腰を降ろし、さつきを
 待った。石の階段というのは、人を待つのに適しているなと思った。日本には、そのよ
 うな階段はない。日本に彫刻の文化がなかったように、人々を集わせる階段というもの
 もない。それは、木の文化と石の文化との違いなのかもしれない・・。
・さつきは、浜辺のほうから、ふいに現れ、良介を見て、いっとき立ち停まってから、階
 段をのぼってきた。「また先に来て、人を待つのは嫌だなって思って、あそこに隠れて、
 江波さんが来るのを待ってたんです」と言った。 
・さつきは、明日、ポンペイの遺跡を見学してきてもいいかと訊いた。「溶岩に埋まって
 死んだ人の形を復元してあるんですって。どうやって復元したと思います?だって、溶
 岩とか、熱い火山灰に埋まって、二千年以上も経つんだから、骨のかけらくらいは残っ
 ていても、人間の痕跡なんて、ほとんどないんですもの」「溶岩や火山灰が積もってる
 ところに、たくさん穴を掘って、そこから石膏を流し込むんです。そしたら、いろんな
 形の空洞にそれが溜まるでしょう。その空洞にの形に固まった石膏を掘り出したら、人
 間の形のものが幾つかあったんです」「私、その人間の形をした石膏の固まりを写真に
 撮って、あの人に送ろうって決めました。これは、あなただ。写真の裏に、そう書いて、
 私、必ず、あの人に送るんです」
・さつきは、映画や芝居を制作するプロダクションに勤めているのだと言った。まだ駆け
 出しで、させてもらえる仕事といっても、雑用ばかりだが、いつか、一本の映画や、芝
 居の公演のプロディースできるようになりたいと、さつきは言った。さつきの口からは、
 三、四人の有名な役者の名が出た。ブロードウェイでヒットした舞台劇を、日本人が初
 めて手掛けるのだが、東京公演は七割ほどしか客が入らなかった。札幌公演が、それと
 同じ数字だったら、会社は大損するかもしれない。うっかり、女房が生きていてたとき
 と言ってしまったので、それについて、さつきが何かを質問してくるかと思ったが、さ
 つきは何も問いかけてこなかった。
・こわれたボートの横で、若い男と女が、腕をお互いの体にに絡めて、何かささやき合っ
 ていた。ときおり、風がその女のスカートをめくりあげたが、女は気にもしていなかっ
 た。
・この二、三年に観た映画の、さつきにおけるベスト5を、さつきは簡略に、しかしじつ
 に臨場感を伝えながら、熱を帯びた口調で語った。「でも、みんな、男と女のことばっ
 かりなんです。男と女のことしか、世の中にはないんだろうかって、昨日の夜、この浜
 辺を散歩しながら考えました」「映画だけじゃないよ。文学だって、名作の大半は、男
 と女のおとだね。どうしてなのかな・・・。どうして、恋ってものから、人間は自由に
 なれないのかな。大昔も、いまも、恋はいつも新しいってことかな。それとも、人間っ
 てやつは、まったく進歩も成長もしないのかな。生涯、恋をしなかったって人間がいた
 ら面白いだろうな」
・さつきは、良介について、まったく何も質問してこなかった。良介も、自分のほうから
 は、いっさい、さつきのことを訊かなかった。けれども、さつきとの会話によって、良
 介は、さつきが父を大学生になった年に亡くしたことや、弟がひとりいて、息子の亮一
 と同じ高校一年生であることを知った。
・「女って、例えば、何か失敗したとか、自分のやったことが間違ってるって気がついて
 も、絶対にそれを口に出して認めたがらないんですって。一言、心を込めて、素直に謝
 れば、その場で解決してしまうのに、自分の間違いを、ちゃんと認めようとしない・・。
 そして、そういう特質は、歳を経るごとに強くなる・・・。これは、母のお友だちが、
 私に言った言葉なんです。女が、自分の失敗や間違いを認めて、素直に謝れるようにな
 るには、よほどに社会的訓練とか苦労とかを経験するか、それとも五十歳後半くらいに
 なるしかないって・・・」とさつきは言った。「仕方がないですよね。私、今年、大学
 を卒業して、社会人になって、まだ六カ月なんですもの」
・「人は多かれ少なかれ、過ちを犯す者だ」というカミュの言葉がある。「ぼくなんか、
 過ちばっかりだ。そんな気がするよ」と良介は言った。
・ずいぶん歩いた気がしたが、パオロの家の道のりは、やっと半分が過ぎた程度だった。
 良介は、日出子の背を押した。それでも、ふんぎりのつかない日出子の手を引っ張ると、
 良介は、急勾配の道をのぼり始めた。良介と日出子は、ガブリーニ家の、玄関の下にあ
 る鶏小屋のところに辿り着くまでに、四回、歩を停めて荒い息を整えなければならなか
 った。
・パオロは、二年前から、アマルフィーにある民芸品を作る小さな工場で働いている。パ
 オロのできる仕事は、トラックで運ばれてきた材料を、倉庫に収納することと、革に引
 かれた線に沿って、職人用のナイフで、それを切っていくことだ。パオロは、朝の六時
 に、家からバス停までの道を、ひとりで出発し、アマルフィーで降りて、工場に向かう。
 そして、夕方、またバスで家へ帰ってくる。彼は、やっと、数字を二十まで数えること
 ができるようになった。ひとりでの行き帰りは、家と工場の往復しかできない。けれど
 も、革を切る作業とバス通勤だけは、完璧にやってのけることができる。雇ってもらっ
 たとき、給料は、十二万リラだったが、今年の春、二十万リラになった。あと五年もし
 たら、決して充分ではないが、パオロは自分で自分の生活費を稼げるようになるだろう。
 パオロが、ここまで成長できたのは奇跡だと、医者は言っている・・・。
・ガブリーニ夫婦は、陽気で賑やかな身振りで、良介と日出子を、自分たちの家に入って
 くれるよう勧め、玄関へと続く石の階段をのぼりだした。良介は、涙ぐんでいる日出子
 を見やり、あちこちに繕いの跡のあるセーターを着たパオロの父親の、陽に灼けて赤銅
 色になっている首筋と、丸々とした母親の頬に目をやった。 
・パオロの父親は、楽しくてたまらないといったふうに、鼻歌を歌い、母親は声をあげて
 笑いながら、夫の鼻歌に合わせてステップを踏んだ。良介は、そんな夫婦の、いささか
 呆気にとられるほどの陽気さを見ているうちに、言葉を失って、粛然とした思いに包ま
 れた。
・彼らは、パオロという障害児を育てるために、とにかく、いかなるときも、楽天的に、
 陽気に、笑顔を絶やさぬことを、自分たちに課してきたのだと思ったのである。良介は、
 きっと、そうに違いないと思った。パオロを育てるにあたって、若かった夫婦は、前途
 は暗く、何もかもが絶望的で、頭をかかえて沈鬱にならざるを得ないときばかりであっ
 たことだろう。
・けれども、両親の沈鬱さは、パオロの肉体と精神の成長に何の役にもたたないどころか、
 ほんのわずかな可能性をも絶ち切ってしまう。夫婦は、そのことに気づいて、自分たち
 がパオロという息子にしてやれることは、いかなる状況にあっても、笑顔で、明るく、
 陽気に接することだと決め、そのように努め、やがてその努力が、彼らに本来的な楽天
 性をもたらし、何もかもを突き抜けるような、真に幸福であり続ける人のような、陽気
 な笑顔の持ち主にしたのだ。きっと、そうに違いない・・・。
・この両親の明るさの前にあっては、パオロ自身のよるべない屈折も、世間の無慈悲も、
 吹き飛んでいったことであろう。だからこそ、パオロは、十九歳になって、やっと数字
 を二十までしか数えられなくても、仕事を与えてくれる人恵まれ、革製品を作る工程の、
 引かれた線に沿って丁寧に革を切る作業ができる人間に成長したのだ・・・。
・良介は、自分の立場としては失礼なことだと思いながら、パオロが働いて帰って来る姿
 を見たかった。単なる興味とか、野次馬根性などが、決してあってはならない。けれど
 も、パオロが、一日の仕事を終えて、バスに乗って帰って来る姿を見たい。それは、き
 っと、人間の可能性というものを素朴な姿、幸福というものの小さな具現化、当たり前
 の能力を与えられたことに、かつて一度も感謝の心を持ったことのない人間への、しっ
 ぺがえし。いや、そんな些細なことではない。それは、とてつもない奇跡であるのだが、
 だれも、それを奇跡とは感じないところの奇跡であるのだ。俺は、それを見つめて、や
 りなおそう。
・人間の可能性というものの小さな具現化。些細な努力の勝利・・・。
・「私、いたずらが度を過ぎたの」と日出子は言った。良介と別れ、仕事を失い、七尾の
 実家に戻ろうと決めたとき、数年ぶりに、市川から電話がかかってきた。二度、食事を
 した。市川は、自分の思いを伝え、日出子に結婚を申し込んだ。「私、あのとき、すさ
 んでたのね。能登に、十回、通って来てくれたら、結婚してあげるって言ったの」「枯
 れ、ほんとに、月に一度、東京から七尾まで訪ねてきたわ。でも、私は、市川さんと結
 婚しようなんて気は、まるでなかったわ」と日出子は言った。「彼が、十回目に七尾に
 来たとき、私は、あともう十回って、彼に言ったわ。なんてうぬぼれの強い生意気な女
 かしら」 
・市川は、そのようにした。しかし、それまで電車で七尾まで訪ねてきていた市川は、あ
 るとき、三日ほど休暇をとって、友だちに借りた車で、夜中に東京を出たのだった。北
 陸自動車道の糸魚川インターの近くで、市川の運転する車は、交差点を右折しようとし
 ていたマイクロバスと衝突した。日出子は、市川が自己で大怪我をしたことなど知らな
 かったので、とうとう自分のことをあきらめて、七尾へ通ってくるのをやめたのだと思
 った。
・市川は、事故で強く頭を打ち、意識不明の状態が一週間続いた。二年間の懸命なリハビ
 リの成果で、やっと普通に喋れるようになったが、三時間前のことは忘れてしまう。
 
嵐の海
・さつきの、いやに、女らしさをむき出しにした姿は何だろう・・。良介は、まるで、あ
 らゆるものに悟りをひらいた哲人が行き着くところに達したような気分でくつろいでい
 る若い女の体を舐めるように見やった。女というものは、なんだか、ふいに、踏み込ん
 できやがる。良介は、すべてがどうでもよくなって、そう思った。良介は、日出子と市
 川という男との関係について、さつきに話して聞かせたのだった。けれども、それは、
 あくまで友人の恋人の問題として話をしたのであって、良介は、決して、自分と日出子
 の関係を気づかれないように慎重に言葉を選び続けた。 
・「恋ってのは、応用がきかない。かつての恋が、いまの恋に役だったためしがない」
 「恋愛によって、人間は成長しないってことですか?」とさつきは、いっそうのびやか
 に浜辺に寝そべって訊いた。「いや、そうじゃないんだ。恋愛って、確かに、人間教育
 の重要な鍵を握っているよ。人間は、恋愛から、じつに多くのものを学ぶ。多くのもの
 を学んで、それを、いろんな形で、いつのまにか、自分の豊かさに取り入れる人と、た
 だ傷つくだけで、傷だけ刻む人とがいるんだと思うね」
・「ぼくは、妻を愛していたし、妻に対して、何の不服もなかったよ。そりゃあ、いろい
 ろと気に入らないところはあったし、小さなケンカは、しょっちゅうだったけど、ぼく
 には過ぎた女房だったし、子供たちには、申し分のない母親だったよ」とさつきに言っ
 た。「でも、そんな女房が死んじまって、女房の面影が消えないとか、女房に義理立て
 してとかじゃなくて、いまのところ、ぼくは、もう結婚生活なんて、こりごりだと思っ
 てるんだ。女房の死んだことは、辛くて、寂しいけど、もう、結婚は、こりごりだな」
 「うんと先のことはわからないけど、ぼくは、もう、結婚生活はこりごりだな。恋人に
 求めるのは、肉体が七割、心が三割ってところかな」「倦怠期ってありますでしょう?」
 「あれは、相手に対する倦怠なんでしょうか。それとも、結婚生活に対する倦怠なんで
 しょうか」 
・会社勤めをしていたころの、自分の刻苦勉励や鬱屈や、悲哀や充足を思い浮かべ、妻や
 友人に冗談めかして言った言葉が、いささか歪んだ形で実現したことに気づいた。べつ
 に、いまの仕事が嫌だってわけじゃないんだけど、特殊な才能なくしては生きていけな
 いって仕事に従事しているんじゃないんだから、俺たち普通のサラリーマンは、定年ま
 でに、職種を二つ三つ変えたほうがいいような気がするね。叶うならば、変えるときに、
 一、二年、遊んで暮らせたらいいな。サラリーマンを二十年近くもやってきて、いつご
 ろからか、そう思うようになったよ。まあ、非現実的な、ささやかだけど、夢のまた夢
 ってやつかな。
・日出子は左手をうしろにまわし、良介のものをまさぐって握った。ホテルの壁は厚かっ
 たが、古い建物なのだ、ドア越しに、人の話し声が聞こえて、その最中、日出子の口を
 ふさがなければならないときが多かった。日出子は、自分の体に導いた。その潤沢な部
 分は、窮屈になったり柔軟になったりして、良介のものを味わい始めた。味わっている
 ことが、良介に伝わってきた。
・決して淫蕩ではない日出子の、この愉楽の楽しみ方や味わい方は、いったい何だろう。
 二人の男を、悪びれもせず、それぞれ味わえるものだろうか。もし、俺に、愛人が二人
 いるとしたら、俺は、どちらとも悪びれずに、ただ純粋に快楽にひたれるだろうか・・。
 良介は、日出子の最も好む動き方をして、とりあえず、日出子に大きな声をあげさせよ
 うとした。日出子は、そんな良介の動きを両手でおさえ、ずっとこのままで楽しみたい
 とささやいた。雷の音が近くなり、室内に閃めく光が強くなり、雨は轟音となって、す
 べてを包んだ。良介は動きをやめなかったので、日出子は叫んだが、その声は聞こえな
 かった。
・「私は、いつか結婚したいわ。でも、結婚生活に向いていないかもしれない。好きな人
 が、いてほしいときにいない腹立ちよりも、いてほしくないときにいることのわずらわ
 しさのほうが、大きいんじゃないかなって思うの」と日出子は言った。「きっと、三十
 半ばを過ぎても、ひとりでいる女ってのは、みんな、そうなんだよ」「俺は、他人の価
 値観に口出しはしないけど、人情の機微に心を使わない人間とは、お付き合いしたくな
 いよ。そんな人を好きになるのは、徒労以外の何物でもないと思っているんだ。サラリ
 ーマン生活二十数年の疲れは、そんな連中と、あまりにもたくさん接し過ぎたからかも
 しれない」
・「ねぇ、私、ほんとに癖になったみたい」日出子は、そうささやいて、良介のものを握
 った。「私の言葉以外に、どっやって納得するの?私の体は、自分でも気味が悪いくら
 い、正直になってるわ。私は、嘘つきじゃないわ。私は、リョウに何か義理があって抱
 かれてるんじゃないわ」日出子は、その言葉を、感情的でもなく、冷淡にでもなく言っ
 た。 
・ねぇ、おもちゃじゃないんだから、そんなに、こねくりまわさないでくれよ」良介は、
 笑いながら、日出子の指の動きを停めようとして、彼女の手首をつかんだ。すると、日
 出子は、良介の肩に頬を押しつけ、なんだか、たまらなく寂しいと言って、泣いた。そ
 の泣き方も、なぜか穏やかだった。
・「私を幸福にして。愛してくれなんて言わないから、私を幸福にして」あらゆる音が、
 日出子の言葉を消したが、私を幸福にしてという言葉だけは聞こえた。
・「私、日本に帰ったら、市川さんに電話をかけるのやめようって思ったの。パオロを見
 るたびに、そう思う・・・。市川さんは市川さんで生きていくしかないと思うの。なん
 だかんだって不平や文句を言う前に、人間は働くべきよ。市川さんは、もう、私に甘え
 ないで、自分のできることをすべきよ。私、もう怖がらないわ」と日出子は言った。
・「市川さんのお姉さんと、彼女のご主人に、ずっといじめられてきたの。あんたみたい
 な性悪女にからかわれて、弟は再起不能になったって・・・。後悔していることを、行
 動で示せって・・・」日出子は言った。
・「過去は消えるさ。消えていかない過去なんてないんだ。人間は、遺跡じゃないんだぜ」
 と良介は言った。
・「四年前に、私に足りなかったものが何かを、私、やっと、わかってきたの」「私には、
 感謝する心ってのがなかったの」と日出子は言った。
・日出子は、市川のことは自分で解決すると言って目を閉じた。それから、「旅行を終え
 たら、私たちも終わりましょうね」とつぶやいた。 

追憶
・あの嵐の後の三日間、ポジターノは真夏に戻ったかのような上天気が続き、日出子は存
 分に泳いで、存分にはしゃぎ、良介に、さまざまな心配りをし、毎朝、パオロがバスに
 乗るのを見届け、そして、夜は自分から体を求めてきた。けれども、良介は、日出子の
 決心が翻るとは思っていなかった。自分たちは、恋人のままでいるにしても、あるいは
 結婚するにしても、何かが足りないということを、良介自身、よくわかっていたのだっ
 た。しかも、それは、お互いの努力の範疇を超えていたのだ。「未練と喪失感は違う」
 良介は、ときおり真剣に、ふたつの言葉についての分析を試みたが、それは長続きしな
 かった。
・良介は、寝室に行くと、箪笥の奥からアルバムを出した。新婚旅行で写した写真だけを
 整理してあるアルバムだった。結婚したのは、良介が二十六歳、妻が二十四歳になった
 ばかりのときで、九州へ新婚旅行に行った。良介は、妻の若い頃の写真を見て、顔の若
 さよりも、体つきの若さを懐かしく思った。セーターとスカートが体の線を隠してはい
 たが、そこには、まぎれもない若さの輪郭があった。清潔で、弾力のある曲線に、良介
 は、当時の自分のときめきを重ねて、我知らず微笑んだ。
・考えてみれば、娘の真紀は幼い時から、手のかからない子だったなと良介は思った。高
 校受験のときも、大学受験のときも、自分で志望校を決め、こつこつ勉強して受かって
 しまった。難しい年頃を迎えても、格別、問題を起こしたこともない。しかし、まだ十
 九歳で、これからが難しい年頃かもしれないが、親の欲目ではなく、どこにも危なっか
 しいものを漂わせてはいない。
・「お前こそ、つまらない男を好きになったりしないでくれよ。最近の若い娘は、簡単に、
 妻子持ちの男の遊び相手になっちまうからな。女房といまくいってないとか、妻とは別
 れるつもりだなって言って、二十歳そこそこの娘と付き合う男が、本当に女房と別れて、
 若い娘と結婚したためしは、万に一つもないんだぜ。もし、そんな男がいたとしても、
 そのての男は、まず必ず、いつか同じことする」
・紀は、「どんな尺度で男性を選んだらいいの?」と訊いた。「そうだな。有名大学を出
 た秀才が、十年後に、企業の金を使い込むってこともあるし、先行き何の期待も持てそ
 うにない男が、十年後に大仕事をするってこともある。そうなると、女性にとって一番
 必要なのは、運ってことになる」
・運か・・・。確かに、この曖昧にして日常用語化したものが、人間にはつい廻っている
 な。誰も、その実体を見たことはないが、厳然と結果が知らしめてくれる「運」という
 ものを、人間は子供のころから、嫌というくらい目にしてきている。  
・けれども、そのような「勝負運」に強い者が、幸福な人生をおくるかと言えば、どうも
 そうでもなさそうだ。くじ引きに当たったから幸福になれるわけではない。だが、いず
 れにしても、持って生まれた運というものは、確かにある。
・運の強さもいろいろあるが、幸福になるための運が重要なのだ。前途洋々たる男と結ば
 れても、その男が五年後に犯罪者になるかもしれない。あるいは、交通事故で死んでし
 まうかもしれない。「幸福になるための運」こいつが大切なのだ。いや、「不幸になら
 ないための運」そういう運に恵まれている人間がいる。相当な失敗を犯し、苦しんだり
 悩んだりしても、結果的に、そのことによって人生の軌道から外れないように何かに守
 られる。そんな人間がいる。 
・大垣老人が離婚したのは、どうやら四十代のときらしい。妻とは死滅したのだという噂
 もある。それきり再婚しないまま今日に至ったが、愛人は二人いて、その愛人とのあい
 だに四人の子供があり、子供たちをすべて自分の息子として認知した。子供たちはみん
 な大学を卒業し、いまはそれぞれ家庭を持っている。
・千恵子が内海に守ってもらいたい約束とは、これ以後、自分とのことはなかったものと
 考えて、何があろうとも、自分に電話をかけてきたり、子供に逢いたがったりしないで
 くれというののだった。
・この世の中で、かたのつかない問題なんかないのだという思いが、ふいに大きく心を満
 たした。どのように生まれ、どのように生き、どのように死んだか・・・。それ以外の
 大きな問題などなおのだ、と。
・自分は、もっと単純でありたい。単純な中の、幾つかの複雑さとかかわることは、いっ
 こうに厭わないが、複雑な中の単純性に対して神経を浪費したくない・・・。
・「女は、みんな頑固よ、頑固だってことにかけては、男の比じゃないわ」と真紀は言っ
 た。「自分が悪いくせに、あやまらない人が多いんだもの。意固地になって、得をする
 ことなんて、何もないと思うのに、まるで、意固地になるのが人生の目的みたいな女が、
 私の周りにいっぱいいるわ」 
・そろそろ、身の振り方を考えなければならないと思った。保険金や退職金、それに貯金
 が底をつくまで遊んではいられない。しかし、もう会社勤めは嫌だな。何か、新しい生
 き方をしてみたい。真紀も、いずれ嫁に行くだろうし、亮一も一人立ちしたら、べつに、
 この家や土地なんか必要ではないと、良介は思った。
・しかし、考えてみれば、会社勤めを辞めてしまった今となっては、自分には、生業とな
 るべきいかなる技術持ち合わせてはいない。
・自分は、妻の死があまりにも哀しくて、その哀しみの大きさに気づいてなかった。哀し
 いことと、寂しいということを同一線上に置いて、同一線上に並べてものを尺度にして、
 自分が虚無的になっていくことに気づかなかった。日出子に逢いに行ったのは、日出子
 への謝罪の気持ちではなく、自分を救済するためだったのだ。スペイン広場の階段に坐
 っていたさつきに声をかけたのは、そのいい例だ。俺の行動は、すべて自分のためであ
 って、相手のためではない。相手のためにというふりをして、自分のことばかり考えて
 いる・・・。「人は、一所懸命、働かなければならない」良介は、声に出して、自分に
 そう言い聞かせた。
・良介は、自分の、四十五歳という年齢を思った。それは、人間としても、男としても、
 なんだかいやに中途半端な、未熟でありながら生臭い、疲れているのにじっとしていら
 れない、落ち着きのない年齢のように思えた。自分だけがそうなのか、それとも四十五
 歳という世の男が、なべてそうなのか。良介にはわからなかった。
・「女は、どうなんだろうな」と良介はつぶやいた。人によって違いはあるだろうが、更
 年期の兆候が、かなり具体的に生じてくる年齢であろう。それが、女性の心理に、いか
 なる問題をもたらすのか。男には幾分かの理解が及ぶだけのことだ。女は、それを女と
 しての崩壊として感じるのか、それとも、ある種の呪縛からの解放と感じるのか。良介
 にはわかりようがなかった。 
・中途半端で未熟だということは、これから完成への形を整え、成熟していく途上にある
 のだが、同時に、未熟のまま固まって、中途半端なまま崩れ続けていくはめにもなるの
 だった。自分は、このままだと、きっと後者であろうと良介は思った。
 
砂時計
・とんでもない重い宅配便が届いた。差出人の名は「山田一郎」で、住所は神戸市になっ
 ている。「一時間の時を刻む砂時計」と印刷された文字を目にして、良介は、日出子だ
 と思った。良介は、実際には二日間の出張を四日間だと妻に嘘をついて、神戸で日出子
 と逢ったのだった。北野町の異人館近くに、物珍しい品ばかり売っている店があった。
 どうして一時間が必要なのだろうと、いささか異常なほどに日出子はこだわった。その
 日、日出子は機嫌がよかったのに、その砂時計を見てからは無口になり、暗い表情で物
 思いにふけるばかりだった。そのために、やがて口論になり、体を重ね合ったのは、朝
 一番の新幹線に乗る三時間前だった。いったい何を思って、日出子は、あんなものを送
 ってきたのだろう。砂時計に、いかなる暗示が含まれているのだろう。
・「市川さんのこと、解決したわ。弁護士さんに相談したの。こんなことになるんだった
 ら、最初から、弁護士さんに相談したらよかったのにって思うけど、私は、あのとき、
 人間としての誠意を尽くすことが前提だと思ったの。でも、私は間違ってたのね。誠意
 を尽くすってことと、責任を果たすってことを、いっしょくたにしたのね。人間の好意
 の足元を見る人につけいれられたわ」日出子は涙声になっていた。
・「私、ほんとうにリョウを愛してたから、だまされてあげようって決めたの。私、だま
 されてあげるってことで、人が人を愛するってことがどんなに大きな心を必要とするか
 を自分自身に教えてみたかったの」「私、石川さんを、その気もないのに、からかった
 んじゃないの。私、彼となら結婚してもおおと思ったの。あんな事故がなかったら、結
 婚してだかもしれない。私、彼の人柄がとても好きだったわ」と日出子は言った。だが、
 四年ぶりに再会して、不思議なことに、自分は自分でも怖くなるほどの性の歓びを良介
 によってもたらされた。信じがたいほどの愉悦を知って、それを失いたくないと思った。 
・「生き甲斐を持っているかどうかの問題じゃないかしら」と日出子は言った。「仕事だ
 けじゃなくて、生きるよすがに成り得るもの。自分はこのために生きているっていう何
 か・・・」考えてみれば、自分は、生き甲斐と呼べるものを、かつてひとつも持ったこ
 とがないかもしれない。仕事が面白かったときでも、それを生き甲斐とまでは感じなか
 った。結婚したときも、父となったときも、格別、生き甲斐というものを感じなかった。
 とりわけ、仕事ということで言えば、組織にあっては、自分の代わりはいくらでもいろ
 のだという思いがついてまわった。なんだか、芯のない、根なし草みたいな人間だ。
・良介は、自分がどれほど日出子という女を理解しとうと努力したのだろうかと思い始め
 た。自分は、何も努力しなかった。自分のおもりどおりにならない日出子の心に苛立っ
 ていただけで、一度も、日出子のことを理解しようとはしなかった。日出子という人間
 を作ってきた幾つもの因子に心を傾けなかったと思った。 
・「小学校三年生のとき、いたずらされたの」と日出子は言った。「私のことを汚らしい
 って。家族は、恥かしくて表を歩けないって」「私のことを可愛いくてたまらなかった
 から、そんな変質者への憎しみを、私の向けたんだろうって、おとなになって思うよう
 になったけど、私、二十五歳のときまで、父を憎み続けたの」
・あなたが春の風のように微笑むならば、私は夏の雨となって訪れましょう。
・良介は、自分もまた、春の風のように微笑まなければならぬと思った。まず、自分がそ
 のようにならなければならぬ。自分の周りのものは、すべて自分の影なのだ。自分が曲
 がっていれば、影も曲がる。すべて、自分次第なのだ。こんな簡単な自然の法則を、ど
 うして、いつも意識していないのだろう。三歳の子供とケンカするときは、こっちも三
 歳になっている。犬とケンカをするときはこっちも犬と同じになっている。
・「私を哀しませないって約束する?」「私以外の人を好きにならない。もし、そんなと
 きは、隠さないで、正直に打ち明ける」と日出子は言った。「俺は、約束するよ」と良
 介が言うと、「じゃあ、私、決めるわ」「何を私の生き甲斐にするかを。それさえあれ
 ば、私は生きて生ける・・・。頑張って仕事ができる・・・」 
・「ほんとは、奥様が行きらしたとき、ご夫婦の夢は何だったのかって訊きたかったの。
 将来に対する生活設計とか、子供たちが一人立ちして、夫婦だけの生活に戻ったときの
 ことを、どう考えてたのかって・・・」と日出子は言った。その日出子の問いで、良介
 は妻が生きていたころ、日常的な会話を思い出したが、自分たちの老後について話し合
 ったという記憶はなかった。 
・ただし夫婦としての夢ではなかったが、子供に手がかからなくなったらやってみたいも
 のが妻にはあったなと良介は思った。「家内には、弟がいたんだよ。小学校にあげる前
 に失明して、盲人のための学校を捜したんだけど、これが意外になんだ。そうこうして
 いるうちに、肺炎になってあっけなく死んじゃったそうなんだ。九歳のときに。家内は、
 その弟が可愛くてたまらなくて、自分も中学生のときに点字を習ったけど、弟が亡くな
 って、もう習う必要がないってことで辞めちまった。だけど、そのとき、目の見えない
 人が、自分の力で収入を得る方法を考えて、それを教える学校を独力で開いた人と知り
 合ったんだ。日本の行政ってのは、弱者に不親切で、役人は何もしてくれない。子供た
 ちがそれぞれ独立したら、その人の仕事を手伝いたいって言ってたよ」と良介は言った。
・「私には、もうひとり、弟がいたの」と日出子は言った。「ダウン症だったの。生まれ
 て二年で死んだわ。吸う力が弱くて、健康な、同じ年頃の赤ん坊と比べたら、大きさも
 半分ほどしかなくて・・・。その子が死んだとき、周りは、これでよかった、生きてた
 ら困るだけだって言ったけど、お父さんとお母さんの悲しみ方は尋常じゃなかった。そ
 んな子供に対して、早く死んでくれなんて、親は絶対に思わない。たとえ一日でも長生
 きをしてもらいたいって思うものよ。そんな子を持った親じゃなきゃ、あの悲しみはわ
 からないわ」と日出子は言った。 
・「俺も、そろそろ働かなきゃいけないよ」と良介は言った。「でも、またどこかの会社
 でサラリーマンをやるんだったら、何のために辞めたのかわからないな」「ひよっとし
 たら、自分でも気づかない部分で、このままじゃいけないって気持ちがあったのかもし
 れないな。このまま、会社っていう組織の中で、人生を使い果たしたくない、とかね」
 「日蓮の言葉に、他の人のために灯をともせば、我が前もまた明らかなるが如しっての
 がある。自分以外の人の道を明るくさせるような仕事がしたいけど、俺には何の能もな
 いからね」と良介は言った。
・「砂時計の砂なんだって意識があるから、砂が落ちる音は、時が刻々と過ぎていくんじ
 ゃなくて、なんだか、自分ていう人間の何かが、ひそやかに溜まっていってる気がする
 の」と日出子はいった。「時間が落ちていくんじゃなくて、時間が溜まっていくんだな」
 と良介は言った。  
・あたりまえのことだが、人の心はうつろいやすいし、明日何が起こるのかわからない。
 けれども、そんな不可知なものに不安を抱いたら、一歩も前に進めない。自分は、宝石
 のデザイナーとして、一からやり直す覚悟だと日出子は言ってから、前歯で下唇を噛ん
 だ。
・「私はパオロや彼の両親から学んだものは、感謝する心の大切さだったわ。リョウは違
 ったわね。明るく振る舞うことの凄さ・・・」「明るく振る舞えて、感謝する心を忘れ
 ない人間は、きっと勝だろうな。いっとき、地獄でのたうつような事態が生じても、そ
 の地獄の中で勝つ。そんな気がするよ」「地獄から抜け出すんじゃなくて、地獄の中で
 勝つのね」
・「明るく振る舞うことの凄さ。感謝する心の大切さ。いつのまに、人間どもは、そんな
 極意みたいなことを、陳腐でお説教臭い、子供じみた言葉として、あざ笑うようになっ
 たんだろうな。なにかにつけて、簡単なことを実践できないくせに、複雑なことをあり
 がたがる」「健康で、貧乏でもないのに、自分を幸福だと思えないからよ」
 
手紙
・落ちつけ。感情的になるな。いざというときまで怒るな。まず相手の言い分を充分に訊
 け。そうしなければ、こちらの言い分は、相手の心に入っていかない。
・「人間は、みんな特技があるだろう?ぜんぜんないやつなんていないと思うんだ。だけ
 ど、学校では、その特技をまるで生かせないんだよ。学校で生かせる特技は、勉強だけ
 で、他には、とびきり何かのスポーツの才能があるやつが、試験なしで大学に入れるだ
 けなんだ。でも、そんなのは、ほんのひと握りだろう?特技を生かせるようにするのが、
 学校ってとこだと思うよ。俺は、自分の特技を生かすために、学校なんか辞めるべきだ
 と思って・・・」「だって、学校を辞めていくやつは、みんな、面白くて、いいやつば
 かりなんだ。どうして、面白くて、性格が良くて、いいやつは、学校を嫌いになって辞
 めていくんだろうって考えたら、つまり、学校ってところは、面白くて、性格が良くて、
 いいやつには向いてないんだ。そんなところなんだ。そんなところにいる必要はないと
 思うんだ。それよりも、特技を生かす勉強をするほうが、自分のためだろう?」と亮一
 は言った。
・「俺が息子くらいの年齢のときも、登校拒否ってのはあったけど、その理由が、いまの
 中学生や高校生とは少々質が違いすぎるね。どうしてなんだろうな。テレビってのが、
 おとなにも子供にも毒を振りまいているのかな。あまりにも低俗な、人を馬鹿にしてる
 のかって思うほどのテレビ番組が、のべつまくなしに垂れ流されてるからね」と良介は
 言った。
・「俺は、お前に、学校を辞めてもらいたくない。あとで後悔させたくないし、大人にな
 ってから、学歴コンプレックスみたいなものを持たせなくない。それに、お前はまだ高
 校生で、人生の大事を自分で決定する資格はないんだ。どうしても学校を辞めるって言
 うんなら、この家から出て、自分で食っていけ」と良介は亮一に言った。
・大垣老人から複数の手紙の入った大きな封筒が届いた。そこには、うっまり見過してし
 まいそうなメモ用紙が入っていた。江波様、この小生宛の手紙の差出人は、私のかつて
 の妻と、私の息子であります。ただし、私の息子は、私のかつての妻の子ではありませ
 ん。私の息子は、私の愛人とのあいだに生まれた子でありますが、私と妻とは、そのこ
 とで別れたのではありません。
・「人間は、失敗ばかりしている。ほんとに愚かだな。人を幸福にする失敗ってのはある
 のかな」と良介は言った。「男は、できもしない優しさを装うよりも、徹底的に理不尽
 に、横暴に、わがままに振る舞うほうがいいのかな」と良介は言った。「とりつくろお
 うとするから、だめなのね。とりつくろう必要なんて、お互いに、ないのに」と日出子
 は言った。  
・「ゴルフ場のロビーで、私は当時二十三歳だったKさんと逢ったのです。Kさんは、東
 京の大学を卒業して一年がたっていました。Kさんは、私たちが泊っている旅館の長女
 で、いずれは家業を継ぐべく、若女将として働いていたのです。あの時点では、父とK
 さんとは、まだ深い関係ではなかったことを、私は三年後の秋に知るはめになります」
・「Kさんと再会したのは、私が大学二年生の時です。Kさんが、なぜ六つも歳下の、そ
 れもたった一度しか顔を合わせたことのない私に逢いに来たのか、そのときの私にはわ
 かりませんでした。Kさんは、そのときすでに会社の経営から身を引き、家も土地も売
 り払ってマンションでひとり住まいしていた父から、逃れるために上京したのです。な
 ぜ、逃げるために上京したのか。おそらく、彼女の心には、大垣という男との関係に苦
 しみ、それをぬぐい去りたい気持ちと、完全に終わってしまいたくない未練とが、せめ
 ぎ合っていたのだと思われますが、もとより、そのことも、当時の私にはわかりません
 でした」
・「増悪というものは、複雑な心の仕組みではありません。けれども、単純でもないので
 すね。複雑でもなければ、単純でもない・・・。難解でもなければ、簡単でもない・・。
 いろいろな心、という表現を使ならば、最も重要な心は、多種多様な心の動きの中の、
 多重構造の心の中の、もしくは、重層化している心の中の、どの断層が主要であるかで
 はなく、いま、どの断層の、どの部分が、いかに絡み合って生きているのかという問題
 になるそうです。 
・「自分が、一途に愛した人が、父の恋人だったというのではありません。私の父の恋人
 であり、私の父に抱かれ、いまもなお、私の父を異性として忘れられないでいる女性を、
 私は、好きになったのです」
・「二十歳の青年が使える恋の手練など、たかがしれていますが、Kさんと私とは、東京
 で再会したから、わずか二週間で、夜となく昼となく、共にする間柄になりました。K
 さんは、私の父との関係を実家の両親に怪しまれるようになっていたので、それを誤魔
 化す意味もあって、私のアパートで一緒に暮らし始めました」
・「私とKさんとは、六歳の年齢のひらきがありましたが、そのことによる摩擦や衝突は、
 ほとんどありませんでした。私は、Kさんと父とのことについては、いっさい口にしな
 いと自分に誓っていましたし、KさんはKさんで、箱根のゴルフ場で逢ったときから、
 私が大垣の息子だと見抜いていながら、知らんふりを続けたのです。 
・「私とKさんとのことは、一カ月もたたないうちに、母に知られるところとなりました。
 当然のことながら、母は、Kさんが父の恋人であったなどとは夢にも思わなかったに違
 いありません」
・「周に一度、Kさんのお母さんは、私のアパートにやって来ました。彼女は、私の顔を
 覚えていませんでした。自分の娘が、家庭のある五十代の男と交際しているのではない
 とわかって、安堵する半面、まだ二十歳の学生と、自分の大事な娘との同棲生活にも困
 惑していました」 
・「年が明け、私が大学二年生になる前の春休みに、私とKさんは、九州を旅行しました。
 伊万里に着き、伊万里焼の何十軒もの窯元を見て歩くうちに、いつのまにか、Kさんは
 いなくなりました。売店のおばさんが眼にしたKさんは、ひとりでタクシーに乗ったの
 ではありません。五十代と思われる男性と、なにやら慌ただしくタクシーに乗ったとの
 ことで、男性の特徴は、私の父にとても似ていたのです」
・「常識的に考えて、私は、私の父の行動が理解できませんでした。父は、Kさんが、驚
 くべきことに自分の息子と同棲していることを知ったわけですが、それでもなお、Kさ
 んを取り戻そうとしている。そのために、この三日間、私たちを尾け続け、伊万里で待
 ち伏せしていた。私には、常人の行動とは思えませんでした。Kさんは、自分の息子と
 同棲し、春休みを利用して、二人で旅に出たのです。そのあとを、こっそり執拗に尾け
 続け、私たちが泊っている宿の近くでも二晩見張り続けるとか・・・。 
・「二十歳の私には、Kさんとの恋よりも、父の異常性から逃れることのほうが大切に思
 われたのです。そして、そう思い始めると、つきまとう男を強く拒否できないKさんの
 曖昧さに腹が立ち、十日間、電話一本かけてこない不誠実さに嫌悪感を抱くようにもな
 りました。辛くて、苦しいのは、自分だけだと思っているのか。この俺の心を何だと思
 っているのか・・・。私は、Kさんに、そう言って、怒りをぶつけたくなってしまいま
 した」
・「私はアパートを出るとき、もし、Kさんが帰って来たらと思い、これから、父に逢い
 に行きます。父の無惨な口論をする気はありません。きみの行方を知っていたら、教え
 てもらいたいとだけ言うつもりです。九州で、二度も行方をくらまし、また十日も連絡
 もない。きみは、ぼくを人間扱いしていない。ぼくは、きみのいったい何だろう。こん
 な状態が続くなら、ぼくのほうから去るつもりです。というメモを残して置きました」
・「私が、アパートに帰り着いたのは、夜の七時ごろでした。Kさんは、私が出かけたあ
 いだに、アパートに戻っていたのです。ドアを開け、Kさんの靴を見たとき、私は嬉し
 くて、思わず、Kさんの名を呼んでいました。そのときのKさんの姿は、いまこの瞬間
 でも、身の凍るような、寂寥の象徴のような、この世の戦慄のすべてであるような映像
 として甦ってきます。Kさんは、体中の力を抜き、両足を投げ出して坐り、壁に凭れか
 かって、首から上をぐらぐらさせながら、股間の上あたりに置いた両手を見つけていま
 した。私は、Kさんのスカートが、赤と薄いブルーの二色の、変わった柄のように思っ
 たのですが、赤い部分は、左の手首から流れ出た血だったのです。Kさんは、アパート
 に帰って来て、私のメモを読んだあと、カミソリで手首を切り、六畳の間に歩いてくる
 と、壁に凭れて坐り込んだのでした。私が帰宅する十五分前に・・・。救急車で病院に
 運ばれたKさんは、なんとか、命をとりとめました。私のしらせで駆け付けた箱根の両
 親は、十日後、Kさんを病院から実家へとつれ行き、私と逢わせようとはしませんでし
 た。彼女は、自分の両親にも、警察にも、自殺しようとした動機をいっさい語りません
 でした」 
・「まったく愚かなことだな。滑稽極まる。親子で、ひとりの女にあくせくしている。あ
 の子に、もう俺を追い廻さないよう、お前から言ってくれ。父は、私の部屋のドアの前
 に立ったまま、そう言いました。私にとっては、いったい何が真実なのか。もうどうで
 もよくなっていたのです。Kさんが、やはり父を忘れられなくて、父を追い廻している
 のか、それとも、父がKさんにつきまとっていたのか。そんなことを考える気力もあり
 ませんでした」 
・「私たちは、長野で降り、そこからバスで二時間ほどの、山ふところにある温泉町へ行
 きました。ほとんどが、年配の湯治客の、自炊もできる旅館に泊り、そこで五日間を過
 ごしました。私は、父の言葉を、決してKさんに伝えたりしないでおこうと決めていま
 した。それなのに、何かの拍子に、私は口にしてしまったのです。Kさんは、顔面蒼白
 となり、父をののしり、それから泣きだし、まるで理由もなく絡む酔っ払いのように、
 私に対して怒り始めました。私を偽善者だと言い、でくの坊とも言い、手がつけられな
 いくらいの荒れようで、延々と私を責め続けたのです。それは、あきらかに、自尊心を
 傷つけられ、己の誇りを守るために八つ当たりする人の怒り方でした。私は、Kさんの
 異常ともいえるヒステリー症状に茫然としながらも、ひょっとしたら、父の言ったこと
 は本当だったかもしれないと思いました。Kさんが、父を追い廻していたのだ、と」
・「理不尽な扱いをされ続けたのは、俺なんだ。いいかげんにしてくれ。私は、初めて、
 Kさんに怒鳴りました。Kさんは、いつまでも泣き続けていましたが、そのうち気も鎮
 まってきて、まるで力つきた病人のように、旅館の蒲団にうつ伏せて眠りました。その
 寝顔を見つめているうちに、私は、Kさんと終わらなければならないと自分に言聞かせ
 ました。私は、Kさんが目を醒ますのを待って、自分の決心を告げました。うん、いい
 よ、そうしたらいい。Kさんは無表情に、つぶやき、帰り支度を始めた私に一瞥もくれ
 ず、蒲団に横たわって、体を虫のように丸めていました。その姿を見ていると、私は、
 Kさんひとり残して、自分だけ帰って行くことができなくなりました。二十一歳に私に
 は、そんな場合、若い肉体以外の手段は思い浮かびませんでした。Kさんは従順に私を
 受け入れ、ほとんど明け方近くまで、体を触れ合っていました。わだかまりを消せない
 まま、私たちは五日間を過ごし、東京に戻ったのです」 
・「二十六歳のKさんが、二十五際も歳上の、私の父を愛して、老い廻していた。父にと
 って、そのことは、ある時期、重荷になり、わずらわしさを通り越して、迷惑さえ感じ
 ていた・・・。Kさんは、伊万里まで父を呼び出し、私のことなど無視して、父と長崎
 へ向かった・・・。その邪推は、日がたつにつれて邪推ではなくなり、確信となってい
 きました」 
・「どうしても自分の思いどおりにならない私の父に対する最大の、残忍なあてつけとし
 て、Kさんは、私の近づいたのではないのか・・・。もし、そうであるならば、Kさん
 は、なんと恐ろしい女性であろう」
・「時が解決する。その、誰もが使う言葉を実践することが、どんなに難しいかを、私は、
 二十歳のときから三年間にわたって学び続けたわけです。時は、なぜ多くの問題を解決
 するのだろう。ただ単に、過ぎていく時間によって、物事が好転したり、忘却を生じさ
 せたり、人間を成長させるのではない。時を経ることは、時を待ち、自ら、時を作り、
 自分の中で、浄化や慈愛や心の転換がなされて、それによって、何かが自分の中に醸成
 され、その醸成された心の力が、すべてを解決していくのだ・・・。
・「心の力が、すべてを変えていく。私は、その言葉がとても好きになり、紙に書いて、
 壁に貼ったりしていました。信州のひなびた温泉で五日間過ごしたあと、Kさんは消息
 を絶ち、私も、Kさんに逢おうとはしませんでした」
・大学三年生になった年の冬、私は、まったく思いがけないところで、Kさんと逢いまし
 た。八ヶ岳の高級ホテルのダイニング・ルームで、私の父と楽しそうに食事をしている
 Kさんと出くわしたのです」
・「私は、父が私に嘘をつき、Kさんも私に嘘をついていたことを知ったのです。このま
 ま、何もかも胸におさめて、放っておけばいいのだと、いったんは思ったものの、私は、
 自分が父の子であり、Kさんを愛して、ある時期、ともに暮らした男であることは、ま
 ぎれもない事実なのだと考え、それを、Kさんと父に真摯に認識させたくなりました。
 バーでの二人の会話は、ある意味において、Kさんに対する決定的な失望をもたらし、
 絶ち切れなかった思いを一刀両断にしてくれたのです」
・「父とKさんは、料理を注文し、ワインリストに見入っていました。私は、ほんの十五
 分ほど同席させてもらっていいかな、と二人に訊きました。私の顔を見たとき、Kさん
 の顔から血の気がひいていきました。私は二人にこう言いました。あなたがたは、トン
 カツを食べ続けている豚ですね。共食いを楽しんでいる餓鬼かもしれない。大垣さん、
 ぼくはあなたの何なんです。自分の口で、ちゃんと言ってください。俺が愛人に生ませ
 て、養育費だけ払い続けてきた息子だと言ってください。Kさん、ぼくとあなたとは、
 以前、一緒に暮らしていましたね。自分の口から、ちゃんとそう言ってください。何回
 も何回も寝たって。そして、あなたは、ぼくが大垣さんの息子であることを知ったうえ
 で、ぼくとそのような関係になったんですね。大垣さんも、Kさんとぼくとの関係を承
 知のうえで、Kさんと逢い、一緒に過ごす時期を持ち続けたんですね。二人とも、自分
 の口で、そうだと言ってください」
・「Kさんに対する同情の気持ちも、父の冷酷さも、私とは、もはや何の関係もありませ
 んでした。ただ私は、さまざまな男女の恋模様や、それにともなう多種多様な愛憎の、
 ひとつの形に巻き込まれただけなのだと納得したのです。今後、いかなることがあろう
 と、自分とKさんとは無関係であり、父とも関係がない。自分は、あの人を、生涯、父
 とは思わないでおこう」
・「しかし、年が明けて、私がアルバイト先から東京の下宿に帰ってくると、私の下宿先
 にKさんが訪ねて来ました。私は、ドア越しに、帰ってくれと頼みました。私にかまわ
 ないでくれ、と。ですが、昼となく夜となく訪ねて来るKさんの行動は、偏執的という
 しかなかったのです。この人は、狂っている。私は、Kさんの異常なやり方に、戦慄さ
 え抱いたほどです。もしかしたら、三年前も、Kさんの精神はすでに病んでいたのかも
 しれないと思いました」
・そして、忘れもしない三月十五日の夜がやってきました。父が、私の友人の下宿を、夜
 遅く訪ねて来たのです。父は、私の、小一時間ほど時間をくれと言いました。私は、そ
 んな義務はないし、もうあなたと話をしたいとも思わないと答えました。このままでは、
 お前もKも、あまりにも可哀相過ぎる。Kは、お前と逢って話ができたら、もうこれで、
 俺ともお前とも逢わないって決めている。Kと逢ってやってくれ。その父の言い方には、
 それまでの父にはなかった、ある種の情愛のようなものが感じられました。情愛という
 よりも、人間的な感情といったほうが正しいかもしれません」
・「私は、父の一緒に、Kの待っている喫茶店に行きました。Kさんは、疲れた表情でし
 たが、とても穏やかで、私を見るなり、しつこくて、ごめんね。でも、二人に、自分の
 気持ちを伝えたかったの。Kさんは、私に、どうか許してほしいと言いました。結果的
 に、私にも、父にも迷惑をかけた。けれども、私には、どうすることもできなかったの
 だ。私は、二人を好きだった、と」
・「私は、私の恋が、たいしたものではないことを、そのとき悟りました。そして、その
 とき、Kさんの、いいところと悪いところを、すべてひっくるめて、Kさんを真に好き
 になり、私には手に負えない女性だと悟ったのです」   
・「Kさんの伏目、指でそっとつまむだけで、たちどころに固くなる小さな乳首、歓びの
 ときの、わざとらしい苦悶の声、みずからが演じる媚態の形と、私が求める媚態の差異
 を対しる許容。そして、その差異を決して縮めようとしないKさんの自意識・・・。性
 的であるときのKさんだけが、私の心の仲を走りました。それ以外のKさんは、私の思
 い出において、生きていなかったのです。それは、おそらく、私の年齢のせいだけでは
 なかったと思います。私は、性的ではないときのKさんの、いったい何を好んだのかに
 思いをめぐらしてきました」
・「時が経つにつれて、私は、Kさんを、正直で、純な人だと思うようになりました。女
 性として賢いか愚かかという次元の問題を超えて、愛しい人だったなと考えるようにな
 っていきました。きっと、私は、Kさんのお蔭で、得がたいものを多く得ることができ
 たに違いないのす。その得がたいものが、具体的に何であったのかを、私は言葉にする
 ことができません」
・「みんなが、許し合えばいいのだ・・・。若さによる失敗。感情による失敗。理性によ
 る失敗。利害による失敗。欲望によるしっぱい・・・。失敗の質は異なっても、みんな
 人間なのだから、失敗を犯さない者などいないのだ。私は、しみじみとそう思い続けて
 いました」
・「Kさんの死については、いまだに謎のままです。Kさんは、女性の友人と東北を旅し
 ているとき、どこかの湖でボートから落ちたのですが、その際、オールの動かしていた
 友人の目には、Kさんが、むやみにはしゃいて、ボートの中で立ちあがり、そのために
 バランスを崩して湖に落ちたと説明しました。その女性は泳げなかったので、近くの人
 々に助けを求めたそうです。けれども、間に合わなかったのです。しかし、事故のショ
 ックから立ち直ったあと、その女性は、Kさんが、はしゃいだふりをして、自分から湖
 に身を投げたような気もしないではないと語ったそうです。Kさんは、箱根の両親の勧
 める男性と婚約し、結婚式を半年にひかえていました」

花火
・「あの十二通の手紙を読むと、大垣って男は、異常なくらい冷酷で、非道で、自分さえ
 よくればいい、鼻持ちならない人間みたいだけど、俺には、そうは思えないんだ。だっ
 て、手紙の七通目あたりから、大垣さんの息子に変化が起こっているし、大垣さんの元
 の奥さんにも、なんとなく、別れた亭主の近況を心配してるふしが読み取れるだろう?」
 と良介は言った。
・「歳月ってのは、とんでもないもんだ。何が、どうなっていくのか、まるでわからない。
 春のなると、自然に花が咲くし、秋が来ると、葉は落ち始める。寒いときも、あったか
 いときもある。つまり、うまく言えないけど、歳月ってやつは、とんでもないんだ。だ
 から、人間は、やっぱり、どんなめに逢おうと、長生きしなきゃあ負けだな」と内海は
 言った。
・「ひとりの人間の個性の多様さが、私には、いつも、わずらわしかったんでしょうね。
 私は、相手に、それは妻であれ、友人であれ、愛人であれ、自分にとって都合のいい一
 面だけを受け入れて、それ以外の部分とは寄り添おうとしなかった・・」大垣老人はそ
 う言った。
・「なりゆきにまかせるしかありませんよ。何があろうと、その都度、その都度、一番い
 い方法を考えて対処する。それ以外に道はありませんからね」と内海は言った。
・「二度と、サラリーマンには戻らねぇぞ」良介は、他の人のために灯をともさせる仕事
 につくことが、いまの自分には分不相応な夢なのだと思い知って、いささか焦っていた。
・さつきから電話をもらい、それならば、うまいステーキをご馳走しようということにな
 った。さつきは、少し痩せたようだったが、目に光があった。
・さつきは、席につくなり、また、ふられそうなのだと小声で言った。どこか楽しげで、
 それでいて、ある種の憂愁さを帯びたさつきの顔は、ローマで初めて逢って以来、わず
 か四カ月足らずなのに、彼女が女性として何か多くのものを身にそなえたことを、良介
 に気づかせた。さつきは、いたずらっぽく微笑み、良介が料理とワインを注文するあい
 だ、テーブルに頬杖をついて、良介を見つめていた。「ちょっと、男として器が小さい
 って気がするんです。ハンサムで、センスもいいんだけど、つまらないことにこだわり
 すぎるんです」「私、ええい、ここがふんぎりのつけどころだと思って、ニューヨーク
 へ行くことに決めました」「最低二年なんだけど、最初の一、二年は、語学の勉強が主
 になると思うから、五年くらは覚悟しとくつもりなんです」「私、きっと、社会で使い
 物になる女になって戻ってきます」   
・「私とのセックスを賞めてくれた男性は、ひとりもいないんです」と、聞こえるか聞こ
 えないかの声でさつきは言った。「私、肉体的に魅力がないんだと思うんです。だって、
 体の関係が始まると、相手の人が、よそよそしくなっていくんですもの。私も、セック
 スを楽しいって思ったことはないんです。その人を、もっと好きになるために、気がす
 すまないのに、そんな関係に入っていくって感じ・・・」
・良介は、どこにも無機質なものを感じさせないが、ときおり清潔な少年みたいな風情を
 漂わせるさつきの、いつない目元の紅潮から視線を外した。「江波さんは、恋人とのセ
 ックスで、何を一番大切にしますか?」「お互い、気楽でシンプルに振る舞えたら、そ
 れでいいんだと思うよ。無作為でなくシンプルだってのは、難しいことだけどね。男は、
 それに疲れてホモになるって、誰かが言ってたな。精神的であろうとすることも、肉体
 的であろうとすることも、どっちも疲れるからね」
・「私、もっと生臭いことを訊いているんです」とさつきは、少しすねた表情で言った。
 さつきは、頬杖をつき、首を突き出すようにして、新しい恋人との夜を詳細に語って聞
 かせた。「だんだん乾いていく自分がわかって、焦っちゃうんです。そしたら、私に魅
 力がないんだって思い込んで、自分に腹が立って、相手から離れたくてたまらなくなる
 んです」「きっと、さつきは、その人のことを本当に好きじゃないんだよ。事は簡単だ
 なんだ」
・良介は、名前は伏せて、十数通の手紙のあらましを、さつきに語った。さつきは、とき
 おり、小首をかしげたりして、良介の話に耳を傾けたが、手紙に関する自分の感想は述
 べずに、「地球に、朝と夜があるみたいに、私たち人間にも朝と夜があるんだなぁって、
 ポジターノで考えたんです」「人間そのものが、朝と夜を持っているんじゃないかって
 気がしたんです。ポジターノで、夜の海を見てたときに、もっと上手な、わかりやすい
 表現が閃めいたんですけど」「私を、下品な女だと思ったりしません?」「夜の海を長
 く伸びている月の光が、使ったあとの、とっても大きな男性の避妊具に見えたんです。
 それで、生きてることとか、死んでいることを考えたんです」さつきは、少し目元を赤
 らめならが言った。
・「ぼくは、内心、驚いてたんだ。地球に、朝と夜があるみたいに、人間にも朝と夜があ
 るって言ったから、それは生理的、もしくは物理的な、営みの問題かと思ってたら、生
 きてるときが朝で、死んでるときが夜だなんて、宇宙的問題だったんだぜ。さつきを、
 そんな思考に導いたのが、使ったあとの大きなコンドームみたいに見える月の光だった
 んだからね」「苦も楽も、全部ひっくるめて、生きているんだから、何事につけて、明
 るく振る舞うほうがいいよな。病気の問屋みたいにで、貧乏のどん底ばっかりってのは、
 困るけど、それでも、生きていること自体が、不思議で神秘的で、貴重なんだっていう、
 さつきの意見は正しいよ」と良介は言った。
・今夜は寒いが、夜の東京の街を歩いてみたいというさつきの言葉で、良介は、寒風の吹
 く通りへ出た。生きているときは朝、死んでいるときは夜。良介は、何度も胸の内で繰
 り返し、五、六歩うしろからついてくるさつきを見やった。身がすくむくらいに寒い夜
 なのに、さつきは、コートの衿を立ててはいても、なにやら、温かい場所を歩いてい
 るかのように、のびやかな身のこなしと表情で、良介を見つめ返していた。
・「女房の病気と死は、大変なことだったけど、人間は、どんなことでも、しのいだり、
 かわしたり、真っ向から受けて動じなかったり、おたおたとうろたえたり、泣いたり、
 怒ったり、絶望したり・・・。でも、なんとかなるもんだよ」と良介は言った。
・友だちの寺岡が好きだという女子高生を見たのだと亮一は言った。「あんなにきれいな
 子、初めて見たよ。駅で、電車から降りてくるところを見たんだけど、俺も、なんだか、
 ふらふらっとしちゃった。敵が多すぎて、寺岡には高根の花だけど、俺には、ちょうど
 釣合がとれてる感じがするんだ」良介は「きれいな女の子には気をつけろよ。女で、な
 まじ、きれいだってことは、どっちかって言うと、不幸の種のほうが多いからね。男に
 ちやほやされて、つまらないやつに引っかかって、気がつくと、四十近くになっていた
 って例は、山ほどあるよ」と言った。
・妻宛てに一通の手紙が届いた。差出人は、「村木特殊教育研究所」の村木梅蔵となって
 いた。文面を読むと、かつて、妻は、この村木に幾度か面談し、何らかの依頼をしてい
 たようだ。「あれ依頼、毎年、賀状や暑中見舞いをいただいていたが、去年も今年もそ
 れがなく、いかがなされたかと、さまざまに推察して、多少の不安にかられ、このよう
 なお手紙をしたためた次第だ。小生が一身を投げ打って続けてきた仕事は、気まぐれな
 ボランティアでは勤まるものではなく、当研究所で働きたいと申し出てくれる人は多い
 のだが、もしあなたに依然として意志があるならばご一報いただきたい」良介は、妻に
 視力を失くした弟がいて、一時期、そのような人のために働きたいと思っていたことを
 耳にしていたが、村木という人物に、賀状や暑中見舞いを出し続けていたとは知らなか
 ったのだった。
・朝から雨が降っていたが、良介は、目黒にある木村特殊教育研究所を訪ねて行った。妻
 が昨年の二月に亡くなったことを伝えた。木村は、絶句し、死因を訊いた。「いつも、
 ご丁寧な賀状と暑中見舞いを、毎年、欠かさずに頂戴しました。奥様が、まだ中学生の
 ときからでしたから、三十年近くも、欠かさず頂戴してきたわけです。それに、毎年、
 私どもの学校に、三万円をご寄附して下さっていました」  
・良介は、もし妻が生きていて、この研究所で働くことが決まったとしたら、どんな仕事
 をするはずだったのかと訊いた。「私が奥さんにお願いしたかったのは、さまざまな企
 業と折衝して、全盲者の働く場所を作ってもらうことです。それが、一番大きな仕事で、
 その次は、やはり資金作りですね」「私を働かせてくれませんか」良介は、思い切って、
 そう言ってみた。村木は「お仕事の合い間にできる仕事ではありませんよ」と言った。
 合い間ではなく、その仕事に専念したいのだと良介は言い、妻の死後、考えるところが
 あって会社勤めを辞めたことを話して聞かせた。村木は微笑を浮かべ、首を横に振った。
 「私は営利のために、この研究所を創設したのではありません。働き盛りの男性が世間
 で得る給料は、とてもお払いできません」  
・良介は、研究所を辞すと、内海の勤める会社に向かった。「仕事をみつけたんだ。お前
 んとこの会社で全盲者が働ける部署を作らないか?それと、年に、二、三百万円の寄付
 をしてくれよ」「いつも代わりのある、組織の歯車になって、世間並みの生活をするな
 んてことは、もうこりごりなんだ。死んだ女房の遺志を継ぐんだ」良介はそう言った。
・家なんか売ってしまって、その金で、娘と息子を学校に行かせればいい。考えてみれば、
 自分には、家とか土地への執着心は皆無と言ってもいいくらいだった。女房が家を欲し
 がったし、女房の実家や俺の親父に金を借りて、いまの家を土地を買ったが、人間、住
 めるところがあればいいし、子供たちに残してやろうという気もない。子供は子供で、
 自分たちの人生を築いていけばいいのだ。家や土地を残しても、相続税で苦労するだけ
 だ。 
 
雪の海
・人間の背負った問題の多くは、少しずつ解決していくのではなく、ある一瞬、巨大な壁
 が一挙に粉砕するように解決するのだなと良介は思った。そして、同時に、人間として
 味わいのある、個性豊かな、硬軟混ぜ合わさった子供たちが落ちこぼれていくいまの教
 育制度を憎みつつ、良介はそのような制度を己たちの利権のために作り上げた政治家や
 官僚たちは、きっと天罰を受けるだろうと思った。
・良介は、能登金剛への海沿いの道の小さな喫茶店で、大垣老人からの手紙の封を切った。
 「他人と関わることを放棄した小生が、それによって何を得たのかを、他人に知っても
 らいたくなるとは、じつに矛盾しています。小生は、ゴルフによって、その他愛のない
 ことを学びました。あの固い白い小さなボールが生き物になるとき、私の生命から何物
 かが放出しているのを感じるのです。そのことは、絶えず、小生を、Kさんへの罪の意
 識に引き戻します。小生は、あの事件以後も、Kさんを自分の掌の中でもて遊び続けま
 した。Kさんが、湖で溺死する数日前、小生はKさんと三日間を過ごしました。その三
 日間に、いかなる出来事があったのか、いまとなっては具体的な言動を思い出すことす
 らできなくなっています。小生は、自分の娘ほどの女に狂い、その女の心を追い詰めて
 追い詰めて、逃げ場のない場所へと導いたのです。小生には、それまでに、さまざまな
 女性との関わりがありましたが、自分の何もかも捨ててもいいと決心するほどの、おそ
 らく、一生に一度あるかないかの、身も世もあらぬ恋の相手は、Kさんにおいて他には
 ありませんでした」
・朝は、いつか夜になり、夜は、いつか朝になる。この繰り返しは、想像も及ばない時間
 と空間のなかで行われてきたのだ・・・。俺の体のなかには、電池もガソリンもゼンマ
 イも入っていない。それなのに、俺は、生きて、笑って、哀しんで、歓んで、考えて、
 怒って、動くことができる。みんな、そうなのだ。みんな、幸福になりたいと思ってい
 る。幸福の基準は、それぞれ異なっても、生きているということのなかにすべての基盤
 があるのだ。
・毎朝、毎朝、良介と日出子は、雪の道を、はしゃいだように歩いて、水の潤の入江に行
 き、早朝に働いている人の視線などまったく気にしないで散歩し、体が冷えると家に帰
 り、まどろみ、体をさわり合い、将来のことについて、ときどき語り、体が暖まって退
 屈すると、また入江へ行って、塩気のきつい風にまみれる、という日々をおくった。
・「私も、子供が欲しいわ。リョウの子供が産みたい。奥様が生きてらっしゃるときは、
 奥様に内緒。いまは、娘さんや息子さんに内緒。私って、リョウのいったい何なの?」
 「私のことを、おおっぴらにしてほしいの。いますぐじゃなくて、ある時期が来たら」
 「ああ、そうするよ。子供も、出来たら産んだらいいよ」日出子は、目を瞠いて良介を
 見つめ、「本当?」と訊いた。 
・「どんなに楽しいことが、先に待ち受けてるのかしらって、ときめいて生きることがで
 きる方法はないのかしら。そしたら、毎日が幸福なのに・・・」自分はいつのまに、先
 のことを心配して生きるようになったのかと、と日出子は言った。