辰巳栄一とはどういう人物

Q.辰巳栄一とはどういう人物ですか?

辰巳栄一(たつみ えいいち、1895年1月19日 - 1988年2月17日)は、日本の陸軍軍人で、最終階級は陸軍中将でした。佐賀県出身で、陸軍士官学校(27期)および陸軍大学校(37期)を卒業し、軍歴を通じて教育総監部や関東軍参謀、駐満州国大使館付武官補佐官などを歴任しました。戦後は公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQ(連合国軍総司令部)の橋渡し役を務め、特にチャールズ・ウィロビー少将との接触を通じて「河辺機関」の設立に関与しました。この機関は、戦後の日本の再軍備や情報活動に影響を与えたとされています。
一方で、辰巳は戦後の歴史の中で、吉田茂の軍事顧問として「歴史に消えた参謀」とも称され、その役割は一般にはあまり知られていません。著書『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(湯浅博、産経新聞出版、2011年、文春文庫、2013年)では、彼の影響力と裏方としての活動が詳細に描かれています。彼は軍人としてのキャリアだけでなく、戦後の日本の政治・軍事再構築において重要な役割を果たした人物です。



Q.辰巳栄一は昭和十九年二月にサイパンの軍参謀長に転任の命を受けたが、急遽取りやめになっています。その理由は なんでしたか?

辰巳栄一が昭和19年(1944年)2月にサイパン島の軍参謀長への転任が取りやめになった理由については、明確な史料に基づく詳細な説明が限られていますが、関連する歴史的背景と推測される要因を以下に整理します。
辰巳栄一は当時、陸軍中佐として関東軍参謀や駐満州国大使館付武官補佐官などの要職を歴任しており、軍内部での信頼が厚い人物でした。サイパンへの転任が予定されたのは、太平洋戦争の戦局が悪化し、戦略的に重要なマリアナ諸島の防衛強化が急務となっていた時期です。しかし、この転任が急遽取りやめになった背景には、以下のような理由が推測されます:
  1. 軍上層部の戦略的判断: 辰巳の能力や経験が、サイパンのような前線での参謀長職よりも、別の戦略的に重要な任務に適していると判断された可能性があります。1944年当時、関東軍や本土防衛、さらには戦後の再編を見据えた計画が進行しており、辰巳の知識や人脈が中央での役割に必要とされた可能性があります。
  2. 戦局の急変: 昭和19年2月は、トラック島空襲(1944年2月17-18日)など、日本軍が太平洋戦線で大きな打撃を受けた時期と重なります。サイパンの防衛体制や指揮系統に変更が生じ、参謀長の配置計画が見直された可能性があります。実際に、サイパンではその後、激しい戦闘(サイパンの戦い、1944年6-7月)が展開され、早期の戦略変更が求められていた時期でした。
  3. 辰巳自身の関与や人脈: 辰巳は戦後、吉田茂やGHQとの関係を通じて「河辺機関」設立に関与するなど、政治的・軍事的な人脈を活かした裏方としての役割が知られています。1944年当時も、軍内部や政府高官との繋がりが、転任取りやめの背景にあった可能性があります。例えば、上層部の特定の意向や、他の重要な任務への優先配置が影響した可能性が考えられます。
具体的な史料として、『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(湯浅博、産経新聞出版、2011年)では、辰巳のキャリアや戦中の動向が詳述されていますが、サイパン転任取りやめの詳細な理由については明示されていないようです。また、辰巳の回顧録や当時の軍事記録(例えば、陸軍省や参謀本部の文書)にも明確な記述が少ないため、推測の域を出ません。
結論: 辰巳栄一のサイパン軍参謀長への転任取りやめは、軍上層部の戦略的判断、戦局の急変、または辰巳の能力や人脈を別の重要任務に活用する必要性によるものと考えられますが、具体的な理由を示す史料は現時点で不明確です。さらなる調査のため、当時の陸軍人事記録や関連人物(例えば、関東軍や参謀本部関係者)の回顧録を参照することが有効かもしれません。