朝日新聞社説が近衛文麿を批判

Q.昭和二十年の朝日新聞社説で近衛文麿を批判しましたか?

昭和20年(1945年)の朝日新聞の社説で近衛文麿を直接的に批判した明確な記録は、提供された情報や一般に公開されている資料からは確認できません。ただし、当時の状況を踏まえて以下の点から推察できます。

背景と分析
近衛文麿の状況(1945年)
近衛文麿は、1937年から1941年にかけて3度首相を務め、日中戦争の開始や日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の設立など、戦争への道を進めた責任が問われる立場にありました。1945年2月には昭和天皇に「近衛上奏文」を提出し、敗戦が不可避であるとして早期講和を進言しましたが、戦争責任を巡る議論が戦後高まる中、12月16日にA級戦犯容疑者として指名され、服毒自殺しました。

朝日新聞の当時の姿勢
戦時中、朝日新聞は他の主要新聞と同様、治安維持法や検閲の影響を受けつつ、戦争を支持する報道を行っていました。特に、近衛内閣下での国家総動員法や新体制運動を積極的に支持し、戦争拡大を後押しする論調が見られました。 しかし、敗戦後(1945年8月以降)、GHQの影響下で新聞の論調は一変し、戦前の指導者や戦争責任を批判する方向にシフトしました。この時期、朝日新聞は戦後処理や戦争責任をテーマにした社説を掲載しており、近衛を含む戦前指導者への批判的言及が間接的に含まれる可能性はあります。

社説での直接的批判の有無
提供された情報や関連資料(朝日新聞の記事、近衛に関する記述など)には、1945年の朝日新聞社説で近衛文麿を名指しで批判した具体的な記述は見られません。ただし、以下の点が考えられます:
戦後直後の社説:敗戦後、朝日新聞は戦争責任や戦前体制の検証に関する社説を掲載し、指導層全般への批判を行うことがありました。たとえば、戦前の政策決定に関与した人物や軍部への批判が含まれる場合、近衛も間接的にその対象となり得ます。

近衛の手記掲載:1945年12月20日から、朝日新聞は近衛の手記(『近衛公手記』)を11回にわたり連載しました。この手記では、近衛が日米交渉における自身の役割を弁明する内容が含まれており、昭和天皇は「近衛は自分に都合の良いことだけを言っている」と批判的に反応したとされています。 この連載自体は近衛の弁明を掲載するものでしたが、社説でこれを批判的に取り上げたかどうかは不明です。

資料の限界:1945年の朝日新聞の全社説を確認するには、朝日新聞社のアーカイブや当時の縮刷版を直接調査する必要がありますが、現在の情報ではその詳細が不足しています。

間接的批判の可能性
近衛がA級戦犯容疑者として指名された12月以降、朝日新聞が戦争責任をテーマにした社説で、近衛を含む戦前指導者層を批判的に論じた可能性はあります。たとえば、戦争に至った政策や指導者の優柔不断さ、軍部との関係などを批判する文脈で、近衛の名前が暗に含まれるケースが考えられます。 また、近衛の自殺(12月16日)後、彼の戦争責任や自殺の背景を論じる記事や社説が掲載された可能性もありますが、具体的な批判的記述は確認できません。

結論
現時点の情報では、昭和20年(1945年)の朝日新聞社説で近衛文麿を名指しで批判した明確な証拠は見つかりません。ただし、敗戦後の朝日新聞の論調や戦争責任を巡る議論の文脈から、近衛を含む戦前指導者への間接的な批判が社説に含まれていた可能性はあります。特に、近衛の手記連載や彼の自殺後、戦争責任を論じる社説で関連する言及があったかもしれません。


補足と提案
  • 詳細な確認方法:1945年の朝日新聞の社説を精査するには、朝日新聞社のデジタルアーカイブ(有料)や国立国会図書館の新聞縮刷版を利用して、8月15日以降、特に12月16日前後の社説を調査する必要があります。
  • 関連資料:近衛の自殺や戦争責任を扱った当時の他の新聞(毎日新聞、読売新聞など)や雑誌(『中央公論』など)の論調を比較すると、朝日新聞の立場がより明確になる可能性があります。
  • 追加質問:もし特定の時期(例:1945年12月)や社説のテーマに絞った調査を希望する場合、詳細を教えていただければ、さらに深掘りできます。