スターリンの1944年11月の演説

Q.スターリンは1944年11月に「日本を侵略国とみなす」と演説したのですか?

はい、その通りです。

スターリンは、1944年11月6日に開催された第27回革命記念祝典での演説において、日本を「侵略国」として公然と非難しました。

この演説では、日本が平和政策を固守する英米よりも戦争準備ができていたこと、真珠湾事件やフィリピン、その他太平洋諸島の喪失、香港、シンガポールの喪失といった出来事が偶然ではないと指摘し、将来の侵略を防ぐための手段を講じる必要があると述べました。

これは、日ソ中立条約が維持されている中での発言であり、日本側にとってはソ連の対日態度が大きく変化する可能性を示唆するものとして受け止められました。



Q.このスターリンの演説の情報を日本側では知得しましたか?

はい、日本側はスターリンの1944年11月6日の演説を知得していました。

当時の日本外交官は、この演説を「従来日本を刺激することを避けてきた(ソ連の)その態度をかなぐりすて」たものと評価しており、ソ連が対日態度を大きく変更する可能性が生じたと認識していました。

この時期は太平洋戦争の戦局が日本にとって明らかに劣勢に傾いており、日ソ中立条約がまだ有効であるにもかかわらず、ソ連が日本を「侵略国」と公然と呼んだことは、日本政府にとって大きな衝撃であり、ソ連の対日参戦の意図を強く示唆するものとして受け止められました。

実際に、ソ連は1943年末頃から対日参戦に向けた準備を進めており、この演説はその準備段階における、日本に対する明確な警告とも言えるものでした。日本政府および軍関係者は、この時点ですでにソ連の対日参戦の意思を認識していたとされています。



Q.それなのにどうして日本は終戦間際までソ連の和平の仲介を期待したのですか?

スターリンが1944年11月に日本を「侵略国」と非難したにもかかわらず、日本が終戦間際までソ連に和平仲介を期待し続けたのは、複数の要因が複雑に絡み合っていたためです。

主な理由は以下の通りです。

唯一の中立国という希望的観測:

1945年になっても、ソ連は日本と正式には日ソ中立条約を結んでいる唯一の大国でした。ドイツはすでに降伏し、イタリアも枢軸国から脱落していました。

日本は、戦局が絶望的な状況下で、アメリカ・イギリス・中国といった連合国に直接無条件降伏を迫られることを避けたいと考えていました。ソ連が唯一の「第三者」として、比較的有利な条件での和平交渉を連合国に働きかけてくれるのではないか、という切羽詰まった希望的観測があったのです。

「一撃講和論」という幻想:

日本の軍部内には、「本土決戦で連合国に一撃を加え、その上で有利な条件を引き出す」という「一撃講和論」がありました。

この「一撃」が実現するまでの時間稼ぎとして、また、その「一撃」の後の仲介者として、ソ連に期待する向きがありました。ソ連を動かすことで、アメリカとの間に和平の糸口が見つかるのではないか、という考えがあったのです。

米ソ対立の利用:

日本の指導部の中には、アメリカとソ連の間には潜在的な対立があると見て、その対立を利用して日本に有利な条件を引き出せるのではないか、という見方がありました。つまり、戦後の勢力均衡を考えれば、ソ連がアメリカの独走を許さず、日本に一定の地位を保たせることを望むかもしれない、という憶測です。

情報の限定と誤認:

確かにスターリン演説の情報は知得されていましたが、それでもソ連が対日参戦を既に決定し、ヤルタ会談でその密約が交わされていたこと(ドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦)は、日本側には完全に把握されていませんでした。

日本はソ連の真意を読み違えていた、あるいは読み違えざるを得ない状況に追い込まれていたと言えます。

政府・軍部の意思決定の困難さ:

日本の政府・軍部内では、終戦を巡って意見が対立し、有効な意思決定が遅れていました。無条件降伏を受け入れることに対する抵抗が非常に強く、そうした中でソ連仲介という「藁にもすがる思い」で、望みの薄い選択肢に固執した側面があります。

これらの要因が複合的に作用し、スターリンの明確な対日非難があったにもかかわらず、日本は終戦間際までソ連の和平仲介に最後の望みを託し続けることになりました。しかし、結果として、ソ連は日本の期待とは裏腹に、1945年8月9日に突如対日参戦し、日本の降伏を決定的にする要因の一つとなりました。